▼風花雪月無双の物語構造をベースとしつつ、かなりの独自解釈、およびキャラクターの属性や役割といった要素を分解し、再構築した物語になります。
▼原作のED後の展開を独自解釈により物語に混ぜ込んでいます。
▼ループによるベレトの精神的な衰弱やジェラルトへの依存的な描写、トラウマ、嘔吐、フラッシュバック、精神的退行描写があります。
▼流血、凄惨なキャラクターの死亡表現があります。
▼味方を意図的に見殺しするなどといった、倫理観に欠けた采配の描写があります。
▼ループ脱出という目的遂行のため、他陣営やシェズといった、一部のキャラクターが尊厳を損なう形で利用される・犠牲になる描写があります。
▼カップリングはレトクロですが、ハッピーなIFではありません。
▼本作におけるキャラクターへの過酷な扱いや非道な展開は、すべて物語上の演出であり、キャラクターを貶める意図や、ヘイトを目的としたものでは一切ありません。極限状態におけるキャラクターの葛藤や人間模様を描くための、偏った解釈としてお楽しみください。
@Bombwooo
古びた木のにおいが染みついた村の寝台で、自分はゆっくりとまぶたを押し上げる。
「おい、起きろ。仕事だぞ」
無愛想な父の声が、薄暗い部屋に落ちた。身を起こすと、身体の芯に疲れがこびりついている。傭兵としての、何も変わらない朝だった。昨日と同じように剣を帯び、昨日と同じように家を出る。ただそれだけのはずだった。
村を離れて間もない護衛の道中で、ベルラン傭兵団との戦闘が起こる。
土埃の舞う道で、紫の髪を揺らす傭兵と刃がぶつかった。軽いはずの剣が、打ち合うたび妙に重い。視線がかち合った瞬間、切っ先に触れた何かが、そのまま胸へ滑り込んできた。
目の前の男そのものがおそろしいのではない。むしろ、その向こうで、自分の立っている足場そのものがわずかに軋んだような感覚だった。
刃を合わせただけで、触れてはならない綻びへ触れてしまったような、不快で底の知れない危機だけが一気に押し寄せる。理由はわからない。この相手だけは、何かが決定的に噛み合っていない。そうとしか思えなかった。
息が詰まり、視界が揺らぐ。握った刃から、ほんのわずかに力が抜けた。
ただの傭兵ではない。
そう思ったときには、突如現れたもうひとつの剣が目前まで迫っていた。咄嗟に身を引いたものの、頬を浅く裂かれ、熱いものがひと筋流れ落ちる。こちらも踏み込み返し、首筋を狙って剣を振り下ろす。しかし、届くはずの一撃は紙一重で外れ、逆に腹の前へ鋭い刃が滑り込んできた。
一騎打ちのかたちは、そこで途切れた。周囲ではすでに戦の流れが決し、ベルラン傭兵団は押し潰されるように崩れてゆく。怒号と悲鳴が重なり、旗が倒れ、土埃の向こうで人のかたちが次々に消えた。
自分たちの仕事そのものは、そこで終わった。ベルラン傭兵団は崩れ、自分たちは生き残った。それでも胸の内には、勝ったという手応えより、あの紫の髪の傭兵と刃を交えたときに生じた説明のつかない軋みだけが残った。その感覚は、細い棘のように骨の奥へ刺さったまま、どうしても抜けなかった。
自分たちジェラルト傭兵団は新たな雇い主を求め、やがて帝国軍と行動をともにすることになった。
帝国軍は、秩序らしい秩序をどんどんと失っていった。将の名を冠してはいても、実際には賊と見分けのつかない兵も多く、略奪も虐殺も珍しくない。ランドルフだけは、そんな有様を苦く見ていたのだろう。もしこの戦いで自分が死ねば、傭兵団と帝国との契約は切れる。そうなれば、これ以上の非道に付き合う義理はないのだと、彼がぽつりとこぼしていたことを、自分はあとになって思い出した。
そのころには、フォドラ全土を巻き込む戦乱が目に見えるかたちで広がりはじめていた。
雨に濡れた泥の冷たさ、白い息、まとわりつく血と鉄のにおい。季節が巡るたび、見える景色だけが変わってゆく。自分は父の背中を追い、言われるままに剣を振り、命の代価として金貨を受け取った。
王国軍とぶつかった戦で、あの紫の髪を再び見つけた。
ベルラン傭兵団が散ったあとは、王国の旗の下についたらしい。最初の戦で胸へ残った異様さは、何ひとつ薄れていない。刃を交えた途端、また胸に痛みが走る。殺せる距離まで踏み込んだはずなのに、その最後の一歩だけが、どうしても深く入らない。剣を振り下ろす瞬間に、ほんのわずかに手が止まる。その隙を、彼は見逃さなかった。
「遅いぞ、アンタ」
双剣が火花を散らし、自分の刃を跳ね上げる。間合いをとり直して斬りかかっても、また同じだった。こちらの太刀筋はたしかに前より鋭いのに、彼を前にしたときだけ、その切っ先が濁る。
勝ち切れないまま、戦の流れに押し流されるようにして、その場は終わった。
それでも、次にぶつかったときは違った。
乾いた風が吹き抜ける戦場で、男の双剣が真正面から迫る。剣先が触れ合った瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。最初の戦から刺さったままの棘が、いまさら深くえぐり返されたようだった。
息が詰まり、視界が大きく揺れる。手足の先から自分の意思が剥がれ落ち、代わりに、身の内で押し込められていた何かが無理やり浮かび上がってくる。
時の流れが、泥に沈んだように鈍くなる。
内側で、少女の声が響いた。ひどく尊大で、ひどく懐かしい声だった。次の瞬間、自分の意思とは無関係に、身体の主導が音もなく奪い取られてゆく。
指先から感覚が遠のき、代わりに身の内を満たす力だけが爆発するように膨れ上がった。視界の端で揺れた髪が淡い翠へ変わり、双剣を映した瞳の色まで、見知らぬものへ塗り替わってゆく。
もう、自分の身体でありながら、自分のものではなかった。
剣を握っているのはたしかに自分の手なのに、次の太刀筋はもう自分の意志ではない。ただ内側の暗がりへ押し込められたまま、見知らぬ力が自分の身体を使うのを見ていることしかできなかった。
圧倒的な力で相手を退けることには成功した。だが、勝ったという感覚はどこにもない。
ただ、自分の内側には説明のつかないものが棲みついていて、それが必要とあれば自分の身体さえ勝手に使うのだという事実だけが、澱のように残った。
それからしばらくして、帝国は目に見えて力を落としていった。自分たちも雇い主が討たれたのを機に、王国軍へ加わる。
あの双剣の傭兵は、名前をシェズというらしい。敵として刃を交えた自分にも、分け隔てなくやさしくしてくれた。
かつて抱いた異様な感覚が消えたわけではない。それでも、以前のように触れただけで胸を刺すようなことは、もうなくなっていた。
同盟軍の加勢もあって、帝国に巣食っていた闇に蠢く者はたちまち弱り、勢い衰えぬ二国との戦の果てに、ついに帝国は潰えた。
そして、そのほとぼりが冷めないうちに、同盟軍はすぐさま教団へ牙を剥いた。今度はディミトリの指示で、自分たちジェラルト傭兵団は王国からの密かな援助として同盟軍へ雇い直される。
複雑な事情があるのか、王国は表立って教団へ手を出せないらしい。だから、自分たちは同盟の指揮下で戦うことになった。
同盟軍へ入った日、盟主であるクロードは飄々とした笑みを浮かべてこちらを見た。
「あのディミトリが勧めてくるんだから、相当腕は立つんだろうな。期待してるぜ、凄腕の傭兵さん」
薄い笑みだった。軽く見せてはいるが、その下で相手を量っているのが見てとれる。
自分は特に感情を動かすこともなく、短くうなずいた。彼にとって自分は戦に勝つための手札のひとつでしかないし、自分にとってもここは単なる仕事場にすぎない。そう思っていた。
ある夕方、天幕のあいだをひとりで歩いていると、ふいに背後から声がかかる。
「なあ、顔色が悪いぞ」
振り返ると、シェズが立っていた。彼もまた王国軍を離れ、いまは同じ陣にいる。いつものように力の抜けた顔をしているのに、その目だけはこちらの様子をまっすぐ見ていた。
「……べつに」
そう返すと、彼はあっさり肩をすくめた。
「ならいいけどさ。けど、無理してんならちゃんと言えよ。俺たち、今は仲間なんだし」
俺たち。そう言って、彼はまるでそれが当たり前であるかのように笑う。
胸のあたりが、わずかに落ち着かなくなった。
責められたわけでもない。探られたわけでもない。ただ気にかけられただけだ。それなのに、素直に受け取るには何かが引っかかった。
目の前に立つその健やかさが、自分にはないもののように思えて、どうしてもまっすぐ見返せない。
「……そういうのは、もっと困っていそうな相手に言えばいい」
「なんだよ、それ。アンタだってじゅうぶん困ってそうな顔してるけどな」
冗談めいた口ぶりなのに、言葉だけが妙に耳へ残る。自分は返す言葉を見つけられず、そのまま彼の横を通り過ぎた。
うれしくないわけではない。だが、そのまっすぐさをうれしいと言い切るには、自分の中に何か足りないものがあるようで、どうしても居心地が悪かった。
そして迎えた、教団との本格的な衝突。
同盟軍は丘陵で教団軍を迎え撃ったが、前線の維持に気をとられるあまり、教団兵の狂信的な戦意と、側面から伏兵として現れた魔道部隊の存在を見誤っていた。
戦場は底なしの泥沼だった。
圧倒的に足りない情報。予期しない方角から降り注ぐ炎。入り乱れる旗印。どちらを向けば味方がいるのかすら怪しい混乱のなかで、同盟軍は教団軍の武力に呑み込まれ、為す術もなく崩れてゆく。
逃げ惑う兵の悲鳴と、血しぶき。
状況を立て直そうと前線を駆け抜けるその背中に、冷たい刃が突き立てられた。
熱いものが喉へこみ上げ、足から力が抜ける。視界が暗くなりかけた、その瞬間、頭の奥で大きなため息が響いた。
泥の中へ流れ落ちるはずだった自分の血が、逆流する。
周囲の景色が数秒だけ巻き戻り、刃が突き立つ直前の光景へ引き戻された。理解は追いつかない。それでも身体だけは反射的に動き、身をひねって背後からの凶刃を弾き飛ばす。
だが、それでどうにかなる戦ではなかった。
ひとつ死を避けたところで、極度の混乱と圧倒的な戦力差は変わらない。体勢を崩した隙を突いて、今度は死角から飛来した魔道の炎が、容赦なく自分の身体を焼き尽くした。たった数秒時間を戻した程度でどうにかなるような戦ではない。あれは蹂躙だった。
すべてが、音のない底へ沈んでゆく。
暗闇の奥で、あの少女の声がまた響いた。
「まったく。世話の焼ける器じゃのう」
砕け散ったはずの臓腑が、流れたはずの血が、目に見えない力で無理やり縫い合わされてゆくような感覚があった。
引き裂かれた肉が蠢き、灼けただれた神経が捩じれながら繋がってゆく。体の外へ溢れたはずの血が熱を持って逆流し、傷口から押し戻される。自分の身体であるはずなのに、自分のものではないようだった。
死ぬことすら赦されず、見えない何かに生かされている。助けられたという気はしない。自分の意思とは無関係に、壊れた器を誰かが無理やり使えるかたちへ戻している。そんな恐怖と不快感だけが、灼けるような痛みの底に残った。
青煌の章
「おい、起きろ。仕事だぞ」
ぶっきらぼうな声が耳を打ち、自分は弾かれたように目を開けた。
古びた木のにおい。背に触れる寝台の硬さ。薄暗い朝の光。見下ろしてくる父の顔。
全身から冷や汗が噴き出している。腹を裂かれ、炎に焼かれたはずの激痛も、顔にへばりついていた血のにおいも、どこにもない。ただ、父だけが怪訝そうにこちらを見ていた。
悪夢にしては、あまりに生々しい。
荒い息を押し殺しながら、身を起こす。父はいつものように短く支度を促し、いつものように先に部屋を出てゆく。その背を見送ってから、自分も剣を取った。鞘の位置も、革紐の擦れる音も、やけに見覚えがある気がした。
宿を出る。朝の空気は冷たく、戸口の脇には昨夜の雨がまだ浅く残っている。村の道を踏む靴底の感触、荷馬車の軋む音、前を歩く父の歩幅。どれもついさっき通った道の続きをなぞっているようだった。
気のせいだと打ち消そうとした。けれど、護衛の列が村を離れ、見慣れた曲がり角を抜け、土埃の立つ道へ出たとき、胸の内に重いものが落ちた。
前方で、ざわめきが立つ。
道を塞ぐように現れた傭兵たちの中に、紫の髪があった。
喉の奥が、すっと乾いた。
同じ道のり。同じ旗。同じ位置に立つ、あの男。
何が起きたのかわからない。わからないまま、激しい戸惑いと、得体の知れない恐怖だけが胸の内を白く塗りつぶしていった。
何度死を重ねたのか、もうわからない。
そのたびに、自分は村の古びた寝台で目を覚まし、数年の月日を空虚になぞり直し、底なしの泥沼のようなあの丘陵の戦場へ放り出される。
古びた木のにおいも、朝の冷えた空気も、父のぶっきらぼうな声も、もう何度となくなぞってきたはずなのに、慣れることはなかった。ただ、死と巻き戻りだけが、回数を重ねるごとに現実味を増してゆく。
自分が死ねば、必ずあの朝へ巻き戻される。そして、自分が生き残っていても、クロードが命を落とすたび、内なる存在の気配が濃くなり、その直後に世界は終わった。
他の将がどれほど無惨に散ろうと、世界が終わることはなかった。どういう理屈なのかはわからない。
彼の命が潰える瞬間にだけ、道連れにされるように自分の意識も暗い底へ引きずり込まれてゆく。なぜか彼ひとりだけが、この理不尽な反復の条件に組み込まれていた。
彼女がやったと言い切れるだけの根拠はなかった。ただ、世界が終わるときには、いつもその気配だけが異様なほど強くなった。
巻き戻るたび、父も、兵たちも、クロードも、世界のすべてが何事もなかった顔で朝を迎える。その中で、この異常を覚えているのは自分だけで、内なる存在が沈黙の底からそれを見ていた。
何度か、彼女に問いかけたこともある。
なぜ時間が巻き戻るのか。なぜクロードの命がかかわっているのか。終わらせているのは、ほんとうに君なのか。
だが、返ってくるものはなかった。
時折、気配が浅く揺れることはあってもそれだけで、こちらの疑問を拾い上げる気など、もとよりないようだった。
幾度目かの戦場では、もう現実感も薄れていた。白い靄の中を歩くような心地のまま、自分は己の命を守りつつ、理の通りに彼を死なせないためだけに剣を振るうようになっていた。
刃が肉を断つ感触も、喉を灼く血の不快感も、腹を貫かれたときの激痛も、すべて本物だった。死ぬたびに骨の奥へ刻み込まれてゆく生々しい痛みの記憶が、これは夢ではなく現実なのだと、嫌でも思い知らせてくる。
そして同じ同盟の陣には、いつもシェズがいた。
戦場ではよく動き、兵たちの輪にも自然に混じる。戦の合間には、手際よく作った野外の食事を鍋ごと抱えてきて、こちらへも当然のように椀を差し出した。
「ほら、アンタも食えよ。死なないためには、こういうのも大事だろ」
そう言って笑う顔には、打算めいた濁りがほとんど見えない。
気まぐれに世話を焼いているだけのようにも見えるし、そう見せるのがうまいだけのようにも思えたが、自分にはどちらでもよかった。こちらに向けられる声やまなざしが妙にまっすぐであることだけは、否応なく伝わってくる。
その屈託のなさに触れるたび、胸の奥が鈍く軋んだ。彼のいる場所だけ、戦の合間の空気が、ほんの少し人のものへ戻るようだった。
彼は他の将兵たちと肩を並べて笑い、疲れた兵がいれば気軽に声をかけ、次の戦になれば当然のように最前へ出る。そういう健やかさが、どういうわけか見ていて落ち着かない。眩しいと思うのに、長く目を向けていると、こちらの内側に沈んだものまで照らし出されるようで、息苦しくなる。
彼が眩しければ眩しいほど、自分の内側では、冷たく濁った何かが静かに渦を巻く。
だが、死と反復を繰り返す今の自分には、その得体の知れない痛みの理由へ向き合う余力など残っていなかった。
夜が深く沈んだ陣営で、焚火の炎がクロードの横顔に濃い影を落としていた。教団との果てしない消耗戦に疲れが広がる中でも、火の粉を見つめる彼の目に、敗北を恐れるような色はほとんどなかった。
「教団の連中も、ずいぶんと頑丈な壁を築き上げてくれたもんだ」
火を見つめたまま、彼は静かな声で語る。焚火の赤を含んだ声が、妙に生々しく耳へ残った。
フォドラはセイロス教という見えない壁によって、固く閉ざされていること。正しさを押しつけ合うこの息苦しい世界を壊し、内と外を隔てる壁を打ち払いたいこと。ひとつひとつの言葉は穏やかなのに、その奥には消えない熱があった。
隣でそれを聞きながら、自分は冷えきった思考のまま剣の柄を指先でなぞっていた。
彼の語る未来は、いまの自分には遠すぎる。自分に必要なのは、高い理想ではない。この繰り返しを終わらせるために、目の前の戦力差をどう埋め、どうすれば彼を生かせるのか、それだけだった。
彼の言葉が届かないのではない。届いた先に、それを受け止める余地がもう残っていないだけだった。
「……ずいぶんと遠い話だな」
そう返すと、彼はかすかにこちらを見た。焚火の明かりを受けたその目の色までは読み切れなかったが、こちらの温度の低さだけは伝わった気がした。
それでも彼は気を悪くした様子もなく、ただ小さく笑った。
「そうかもな」
軽い返しひとつで、話はそこで終わった。けれど、彼の瞳にあった熱と、自分の内側に沈殿した徒労感とのあいだには、火の温もりでも埋まらない距離があるように思えた。
次の戦でも、状況は好転しなかった。
激しい乱戦のさなか、クロードはヒルダたちを後方へ下がらせ、自ら前へ出た。飄々とした笑みの裏に隠した覚悟。その背中が視界の端に入った次の瞬間、狂ったような戦の波がその決意ごと呑み込んだ。
凶刃が、彼の胸へ迫る。
この世界を、また終わらせるわけにはいかない。
歯を食いしばり、周囲の時を数秒だけ力ずくで引き戻す。砂を逆さに落とすような感覚のあと、自分は息を詰めて駆け出し、彼を狙う刃を自らの剣で弾き飛ばした。
救えた。そう思ったのは、一瞬だけだった。
弾かれた刃の、そのさらに奥。すでに側面の守りが崩れた場所から、魔道の炎が槍のように飛び込み、彼の身体をあっけなく貫いて灼いた。
崩れ落ちる彼の姿に、自分はその場へ縫いつけられたように動けなくなる。
刃の軌道を変えたところで、数日前の采配から間違っていたこの戦の流れは、もうどうにもならなかったのだ。局所的な数秒を何度やり直しても、彼の死に方が変わるだけで、結末そのものは覆らない。
それに、時を巻き戻すたび、内なる少女の気配が目に見えてすり減ってゆくのがわかる。
彼が地に伏した瞬間、頭の奥でまた声が響いた。
「……仕方のない奴じゃな」
呆れたような、それでいて、かすかな同情を含んだ少女のため息だった。
その直後、理の通りに世界は色を失い、またあの朝へと引き戻されてゆく。
小手先の数秒や数分では、彼を生かすことはできない。
ならば、致命的な綻びが生じるより前の、もっとずっと最初から、戦の流れそのものを変えるしかない。
見えない理の輪郭を、手探りでなぞるようにして、死を重ねる試行錯誤が始まった。
幾度かの死と巻き戻りを重ねるうちに、自分はようやく、この反復の底で動かしがたいものだけは見定めはじめていた。
自分が死ねば、すべてはあの朝へ戻る。
自分が生き残っていても、クロードが命を落とせば同じことになる。
理屈はわからない。いまの自分が拠りどころにできるのは、そのふたつだけだった。
だから次の戦からは、戦い方を変えた。ただ命じられた場所で剣を振るうだけでは足りない。自分の身を守ることも、クロードを死なせないことも、どちらも同じだけ重くなった。
無理な深追いはしない。死角へ踏み込みすぎない。退く道はひとつ残す。
ジェラルトの位置を見失わず、それでいて、クロードのいる方角からも目を離さないようにする。父の姿が視界に入っているあいだだけは、まだ自分がどこに立っているのかを見失わずに済んだ。
そうして何度か戦へ出たが、それだけでは足りないのだと、すぐに思い知らされることになった。
クロードは盟主として前へ出る。押されかけた場所があれば、白い飛竜を低く寄せ、上から弓で敵の要を射抜いて兵を立て直す。
危うい場所ほど彼の姿はよく見え、そのたびに、指示された持ち場に留まっている気にはなれなかった。守るべき相手が、自分から危ういところへ寄ってゆくのだから、当然だった。
ある戦では、右翼の隊が押し込まれかけたと報せが来た。自分は命じられた位置を離れ、そちらへ走った。間に合えば持ちこたえられると思ったし、実際、一度は崩れかけた列を押し返して、退きかけた兵たちを立て直すことにも成功した。
しかし、自分が右翼へ出れば、そのぶん中央が薄くなる。中央へ戻れば、今度は左翼に綻びが出る。ひとつ裂け目を塞いでも、別のところが口を開ける。教団の兵力は重く、こちらがどう走っても、追いつくより早く戦のかたちを歪めていった。
それでも、止まるわけにはいかなかった。前線の上をめぐる白い飛竜の影が見えれば、そちらへ意識が引かれる。敵の目がクロードへ集まれば、そのあいだに割って入りたくなる。
雇われた傭兵としてはやりすぎだとわかっていたが、そうしなければ間に合わない気がした。どこまでなら持ちこたえられるのか、どこから先はとり返しがつかないのか、その境がまだ見えていない。ならば危うく見えた場所を、自分で埋めに行くしかなかった。
その戦でも、どうにか命を拾っただけだった。
押されかけた一隊を支え、クロードの退路をひらき、崩れた前線の穴を埋めるように駆け回ったところで、戦そのものの劣勢は少しも覆らない。こちらがひとつ綻びを塞いでいるあいだに、別の場所ではもう次の裂け目が口を開けている。相手に対して、こちらの手数はあまりにも足りなかった。
日が落ちたあとの陣は重苦しかった。焚き火のまわりには疲れきった兵たちがうずくまり、煮立てられた汁物のにおいが漂っていても、誰も明るい声を上げようとはしない。
自分は手にした椀にほとんど口をつけないまま、少し離れた場所で地図を見下ろしているクロードのもとへ足を向けた。
彼は焚き火の明かりを横から受けながら、広げた地図の上へ指先を置いていた。
貼りつけたような笑みは消えていて、伏せられた目は冷静だった。こちらが近づいたことに気づくと、クロードは顔を上げ、すぐには何も言わずに仕草だけで先を促した。
「王国に、もう少し表立った協力は仰げないのか」
自分がそう切り出すと、クロードはわずかに眉を上げた。意外そうにしたのは一瞬だけで、すぐにその表情は苦笑へ変わる。
「無茶を言うなあ、あんた」
軽い言い方だったが、突き放すほどの冷たさはなかった。彼は地図の端を指で押さえ直しながら、小さく息をつく。
「そもそも、ディミトリが俺たちへ手を貸してること自体、表に出りゃまずい綱渡りなんだよ。あっちは教団と縁を切ってるわけじゃない。王国が表立ってこっちにつけば、それだけで内側から割れかねない」
焚き火の火が大きく爆ぜ、赤い光が彼の横顔に揺れた。目もとは穏やかに見えるのに、その奥には動かしようのない現実だけが静かに沈んでいる。
「だが、このままでは押しきられる」
思ったより強い声が出た。クロードはそれを聞いても腹を立てたりはせず、むしろこちらを少しだけまっすぐ見た。
「だろうな」
あっけらかんと、言い放つ。
「だからって、ディミトリにできないことをやれとは言えない。……あいつは王だ。俺みたいに、やりたいことだけ見て、走れる立場じゃないんだよ」
その言い方には、不満も嘲りもなかった。事実としてそう言っているだけなのだとわかる。だからこそ、余計に行き場がなかった。
こちらは負ければ巻き戻る。クロードが死ねば、それで終わる。そんな理不尽をひとりで抱えたまま戦っているのに、目の前の彼はあまりにも平然としていた。
できることと、できないことを見分け、そのうえで進もうとしている。その落ち着きが正しいのだとしても、いまの自分にはひどく遠かった。
「……君は、それでいいのか」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
クロードは少しだけ目を細めた。笑うでもなく、怒るでもなく、こちらの問いのかたちを見ているような顔だった。
「よくはないさ。けど、よくないからって、ないものが急に生えてくるわけでもないだろ」
そう言ってから、彼は地図へ目を落とし、王国との国境沿いを指でなぞった。
「ま、俺たちにできるのは、せいぜい王国が動かざるを得なくなるかたちを待つことくらいだ。少なくとも、いまこっちから頼んでどうにかなる話じゃない」
待つことくらい。その言葉が耳に残った。
待っているあいだにも、戦では人が死ぬ。押し潰されるようにして陣が裂け、救えたはずの命がこぼれてゆく。そのひとつひとつを見せられている自分にとって、待つという言葉はあまりにも鈍かった。
それでも、クロードの声には迷いがない。王国の立場も、教団とのつながりも、そのせいで動かせないものがあることも、彼はもう呑み込んだうえで話しているのだろう。
自分より見えているものが多いのかもしれないと頭では思う。しかし、彼の答えを素直に受け入れられるほど、自分は穏やかではいられなかった。
「……そうか」
どうにかそれだけ返すと、クロードは視線を上げ、首をかしげた。何か言いたそうな仕草だったが、結局は口を開かず、代わりに地図をたたんで焚き火のそばへ置く。
「……あんたが気にするのもわかるけどな。いまは、手の届くところをどうにかするしかない」
その言葉にうなずきかけて、やめた。
手の届くところをどうにかしただけでは足りないから、こうしてたずねに来たのだ。人の気も知らないで、という思いが喉もとまでせり上がる。だが、それを口にしたところで何かが変わるとも思えなかった。
自分は答えず、そのまま焚き火から離れた。背に受ける火のぬくもりは弱く、夜気の冷たさばかりがやけに深く沁みた。
待っていては足りない。
誰かが動かざるを得なくなるかたちを待つのでは遅い。ならば、自分のほうから戦の流れへ手をかけるしかない。その考えは、言葉になる前から胸の底に沈んでいた。
そのあとも、戦のたびに自分はさらに踏み込んだ。
前線の上をめぐる白い飛竜の影が見えれば、そちらへ意識が引かれる。敵の目がクロードへ集まれば、そのあいだに割って入りたくなる。
王国は動かない。だったら、自分が手の届くところを広げるしかないと思った。
乱戦のさなか、低く飛んだ白い飛竜の背で、クロードが弓を引き絞るのが見えた。その矢が教団兵の喉を正確に貫いた次の瞬間、彼の注意が前へ向いた隙を縫うように、側面の藪から槍兵が飛び出してきた。さらにその後ろでは、魔道士が詠唱に入っている。
このままではいけないと思ったときには、もう足が動いていた。横合いから槍を弾き、ひとりの喉を断ち、もうひとりの肩口へ刃を入れる。最後のひとりが怯んだ隙に、飛竜の脚へ手をかけ、クロードの体を半歩ぶんだけ後ろへ押しやった。
直後、さっきまで彼がいた位置を炎が貫き、土がはじけ、焦げたにおいが立ちのぼる。
間に合った。その一瞬だけは、たしかにそう思えた。
崩れる前に届いた。死ぬはずだったものを、いま自分の力で押し返すことができた。何度も繰り返してきた敗北の中で、はじめて指先へ確かな手応えが返ってきた。
だが、その高揚は長くは続かなかった。
クロードが鋭い目でこちらを見下ろした。いつもの軽さはなく、弓を持つ手にも声にも、ぴんと張った硬さがあった。
「何してるんだ、あんた」
低い声だった。怒鳴るのではなく、怒りを押し殺した声に近い。
「持ち場を離れるな。見ただろ、いまの右翼。あそこが崩れたらどうするつもりだったんだ」
自分は息を整える間もなく答える。
「君を死なせるわけにはいかない」
そう返した瞬間、クロードの眉がはっきり寄った。
「だからって、自分から命を捨てるような真似をしていい理由にはならないだろ」
白い飛竜の手綱を引き寄せながら、彼は吐き捨てるように言う。その顔には苛立ちがあったが、ただ怒っているだけではないようにも見えた。目の前で見たくないものを見せられたような、そんな歪みが混じっている。
「勝手に持ち場を離れて、勝手に突っこんできて。運よく間に合ったからいいものの、少しずれてたらあんたのほうが死んでた。そういうのを何度もやられると困るんだよ」
「困る、だと」
思わず声が冷えた。
「君が死ねば、すべてが終わってしまうのに」
口にしてから、自分でも言いすぎたと思った。なのにクロードは意味を問い返さない。ただ、こちらを見る目を少しだけ細めた。
「終わるかどうかはわからないだろ」
返ってきた声は静かだった。
「俺を守るために命を投げ出してほしいわけじゃないんだよ。あんたが腕の立つ傭兵なのはわかってる。だからこそ、そんな安い使い方をするなって言ってる。わかるか?」
安い使い方。その言葉がひどく引っかかった。自分は守ろうとしているだけなのに、死なせないために間に合わせようとしているだけなのに、そうしなければ、また全部あの朝へ戻されるのに。
クロードは何も知らない。何度ここへ戻ってきたのかも、自分が何度彼の最期を見せられてきたのかも知らないくせに、平然とそんなことを言う。
けれど、このもどかしさをぶつけるわけにはいかなかった。これは自分にしか見えていない理なのだから。
「……わかった」
それだけを返すと、クロードはまだ何か言いたげにこちらを見たが、結局、何も言わなかった。飛竜の手綱から手を離し、再び前へ向き直って弓を構え直す。その横顔を見上げながら、自分も剣を握り直した。
結局、その戦でも勝ちきることはできなかった。こちらが一か所を支えれば、別の一か所が崩れる。
クロードを守ったその直後に、別の隊が呑まれ、押し寄せた教団兵が側面へ回り込む。炎が上がり、旗が倒れ、陣形は見る間に裂けていった。
目の前の綻びへ走るだけでは足りない。崩れかけた場所へ駆けつけるだけでは、結局どこかで間に合わなくなる。
局地では救えても、戦そのものには追いつけないのだということを、敗北を重ねるたびに思い知らされた。
ならば、もっと前の段階から、戦の流れそのものを変えなければならない。
その考えが、冷えた刃のように胸の内へ沈んでいった。
村の寝台で、何度目かの薄暗い天井を見上げる。
死ななければいいわけではない。彼を生かせば、それで足りるわけでもない。ならば、あの戦に勝ち、教団を打ち破ってすべてを終わらせれば、この不可解な繰り返しから抜け出せるのだろうか。
それは、この不条理な反復から抜け出すための、まだ輪郭も曖昧な仮説にすぎなかった。
勝つためには王国の力が要る。しかし、彼らには教団と戦うための大義名分がないと、クロードは言った。では、どうすれば王国に剣を抜かせる理由を与えられるのか。
骨の芯まで纏わりつく徒労感のなかで、自分は戦の流れを見つめ、次の戦場へ向けて思考を巡らせはじめていた。
次の戦が始まる前、自分は盟主の天幕を訪れ、ひとつの進言をした。
「君に頼みがある。……王国軍に、戦火が広がるおそれがあるからと、国境付近へ防衛線を敷くよう打診してもらえないだろうか」
同盟軍の退路を狭めるようにも見える、不自然な要請だった。クロードは数秒だけ、こちらを値踏みするような目を向けていたが、やがて口もとをゆるく吊り上げる。
「へえ。ただの傭兵の割には、ずいぶんと悪知恵が働くじゃないか。……なるほどな」
その言葉どおり、彼は自分の裏の意図をすぐに読みとった。
だが、読んだのは策そのものだけではなかったのだろう。王国軍がどう受け取り、その先で誰がどう動かざるを得なくなるかまで、はじめから視野に入れているような顔だった。
自分はまだ、戦場の一角をどう裂くかしか考えていないのに、この男はもっと遠い場所の歪みまで、ひとつの流れとして見ている。そう思った。
そして迎えた開戦。自分は過去の死から得た記憶を総動員し、教団軍のなかでも、とりわけ教義に盲従し、異端の排除に血道を上げる部隊を標的に定める。
彼らの矛先を確実にこちらへ向かわせるため、自分はあえて手薄な前線へ単騎で躍り出た。
指揮を執る将の鼻先を剣撃でかすめ、怒号を引き出してから、わざと隙を見せるように背を向けて後退する。
あらかじめ伏せておいた味方の位置へ追い込むように走り、飛来する魔道の軌道を読み切って紙一重でかわしながら、目を血走らせる追手を誘導し続けた。
彼らを導く先はただひとつ。密使の要請に応え、中立の立場で展開している王国軍の、ぶ厚い盾の前だった。
退路を断たれた教団兵たちのあいだに、濃い焦燥が伝わってゆく。
前方には、微動だにしない王国の重装兵が盾を連ねて防衛線を築き、後方からは自分たち同盟の遊撃部隊が逃げ道を塞ぐように距離を詰める。完全な挟み撃ちのかたちだった。
逃げ場を失い、極限まで張り詰めた教団の魔道士のひとりが、悲痛な詠唱とともに腕を振り上げる。
放たれた炎の塊は、王国の防衛線を威嚇するつもりだったのだろうが、焦りからか大きく狙いを逸らし、轟音とともに王国の最前列へ土煙を舞い上がらせた。青き獅子の紋章を掲げた旗が、焼け焦げて地に落ちる。
誰の目にも明らかな、王国への攻撃だった。
背後で様子を見ていたクロードが、かすかに息を吸い込む気配がした。視線を向けると、その口もとには、予想どおりに戦のかたちが動いたことへの納得が、ほとんど微笑みにも見えないほど薄く浮かんでいる。ようやく盤面がこちらの手に戻ったのだと、そう言いたげな安堵がわずかに滲んでいた。
彼はすぐさま身を翻し、同盟の将兵たちへ向かって大きく手を振った。
「おい、お前ら。急いで下がれ。巻き添えを食うぞ」
すぐ前衛に立っていた自分にも、早く来いと顎で示す。なぜここで退く必要があるのか。自分は真意を測りかねて眉をひそめた。教団をこの袋小路へ追い込んだのは自分だというのに、肝心の先がまだ見えていない。
それでも、彼がそう言うのならと湧き上がる疑問を呑み込み、おとなしく剣を下げて同盟軍とともに後方へ退いた。
同盟軍が波のように引き、取り残された教団兵たちが戸惑いの声を上げた、その直後だった。
ぶ厚い盾の壁が左右に割れ、王国の防衛線の奥から、ひとりの影が歩み出てくる。
冥色の鎧を纏った、ファーガスの若き王だった。
彼は、地に落ちた焦げた旗を静かに一瞥し、やがて教団兵たちへまっすぐ視線を向けた。
その顔に迷いはなかった。苦さも、その先に残るものも、すでに引き受けた者の静けさだった。
悲しみがないのではない。ただ、それを沈めたまま、王として立っている。その姿は凛としているというより、鋭く研がれた刃物めいて見えた。
「教団も地に堕ちたか」
低く響く声が、張り詰めた戦場を吹き抜ける。
「かつて信じた教えと刃を交えるのは、本意ではない。だが、防衛線を灼くその炎を、王として看過するわけにはいかない。我が国の民を守るため、これより迎撃する。全軍、構えろ。……進め」
静かな、しかし戦場全体を震わせるほど重い号令だった。
それを合図に、王国の重装騎馬隊が地響きを立てて教団軍へ突撃する。その上空を、天馬が吹雪のようにすさまじい速さで駆けてゆく。
血と悲鳴が舞い上がる、怒りに駆られたような凄惨な蹂躙を、自分は後方から見つめていた。重い槍が群れを薙ぎ、盾の列がじりじりと押し込み、王国の鉄騎が進むたび、さきほどまで拮抗していた戦場は一方的な掃討戦へ塗り替えられてゆく。
自分はその光景を背に、隣で平然と戦果を眺めているクロードへ視線を向けた。
「ずいぶんと、信頼しているんだな」
問いは、自分でも驚くほど無機質な響きでこぼれ落ちた。王国の防衛線を、教団が灼く。そんな綱渡りのような連携が、言葉も交わさず成立している。
クロードは、ふっと肩の力を抜いて笑った。
「……信頼、ね。実際は、あいつのお人よしなところにつけ込んで、利用させてもらってるだけなんだけどな。そして、俺はあいつにできない汚れ役をやってる。だからあいつも、何かを返そうとする。ただそれだけのことさ」
嘯くような言葉と、眼前に広がる一切の隙のない挟撃陣形。
ファーガス神聖王国の王として、表立って身動きがとれないディミトリにとって、旧い秩序を壊そうとするクロードの野望は都合がよかったのだろう。互いの利害と欠落を補い合う、盤石な連携だった。
けれど、自分に見えているのは、その全体ではない。
ディミトリという男を、自分はほとんど何も知らなかった。クロードの言葉を通してだけ、その輪郭がようやく見えはじめているにすぎない。
王として、民を見捨てることはできないこと。正しさを背負う者だからこそ、最後の責を他人へ押しつけたままでいることはできないこと。そしてクロードは、その窮屈さも情の深さも、最初から見抜いたうえでこの盤面へ組み込んでいたのだということ。
やり方はひどく回りくどく、ずるくさえ見えた。だが、守ろうとしているものはまるでべつなのではなく、ただ手を伸ばす先と、そのために選ぶ道だけが違っているのかもしれなかった。
いまもなお、この光景の意味を半分も理解できていない。このふたりのあいだには、自分が踏み込めない領域がたしかにあるのだと、そのことだけはわかった。
この日を境に、王国と同盟は盟約を結び、教団の本隊へ刃を向けた。
ディミトリの武勇とクロードの知略、そして自分の記憶。三者の利が噛み合った進軍は、思いのほか順調に進んだ。
かつては一か所を支えるだけで別の綻びが裂け、こちらが追いつくより早く盤面そのものが崩れていたのに、いまは違う。王国軍が前線を押し上げれば、その背後で同盟の遊撃が無駄なく綻びを埋める。
教団が守りを固めようとした場所へは、先回りするように刃を差し込み、ようやく戦の流れそのものがこちらへ傾いてゆくのがわかった。このままいけるなら、もうあの朝へ引き戻されずに済むのかもしれない。そんな考えが、初めて疲労の底から浮かび上がった。
ディミトリは自ら陣頭に立ち、凄まじい気迫の槍で、教団の防壁を次々と破っていった。正しさを背負う者にふさわしい、まっすぐな進軍だった。
退く教団兵を赦さず、かといって無意味に踏みにじることもなく、自ら最前へ立つことで王の責を引き受けている。その背を追う王国兵の足取りには、もはや迷いがなかった。
数百年ものあいだ絶対的な不可侵を誇っていた威容は、彼らの猛攻の前にことごとく瓦解した。信仰の象徴であった白亜の尖塔すら、轟音とともに崩れ去る。その混乱の果てに、大司教であるレアもまた討たれた。
舞い上がった白い石塵の向こうで、なお槍を振るうファーガス王の姿は、眩しく、鮮烈だった。
長く続いた戦乱は、ようやく終わりを迎えた。
一旦の平和が訪れ、世界は前へ進むための区切りを必要としていると、ディミトリは考えたのだろう。彼はファーガス神聖王国の王としての冠を一度外し、新たな秩序を描き直す姿勢を示した。
そして今日、王都フェルディアにて、新たな時代の戴冠式が華々しく執り行われている。
大通りには、先の戦乱で崩れた瓦礫がまだ端へ寄せられ、道行く人々のなかには癒えきらない傷を抱えた者も多い。それでも、寒空の下で吐く白い息には確かな生気がこもり、復興へ向かう足取りは力強かった。
歓声に包まれる大通りの片隅で、自分は建物の壁へ背を預け、新たな王の行進を遠巻きに見つめている。
同盟領への帰路につくクロードの背中を見送ったのは、つい数日前のことだ。教団を退け、戦争を終わらせるという目的は果たされた。
これでようやく、この不可解な繰り返しから抜け出せるはずだという、安堵に似た疲労が全身を満たしていた。
そのとき、視界の端から色彩が抜け落ちた。
瞬きをした直後、石畳の鈍い灰色が真っ白に飛び、空の青さが古い絵のように褪せてゆく。
耳を劈くような民衆の歓声は、遠い水底から響いてくるようにくぐもり、建物も、人々も、王冠のきらめきまでもが、薄い膜を一枚挟んだ向こうへ押しやられる。
世界が、静かに別のものへ変わってゆく。
自分も、クロードも、生きている。戦火は払われ、旧き秩序は打ち倒され、正当な王は勝ち、誰もが望むはずの正しい平和がもたらされた。少なくとも、そう見える結末には辿り着いたはずだった。
なのに、なぜ。
抗いようのない力で意識が底へ引きずり込まれる中、薄れゆく視界で大通りを見渡す。
皆が手放しで幸福を享受しているわけではなかった。歓喜に沸く群衆の陰、灼け残った路地裏の隅で、声を殺して泣いている者たちの姿が見える。
彼らの瞳には、新しい王への期待よりも、なお色濃く残る旧い教えや、急速に変わりゆく明日への恐怖が宿っているように映った。
正しい平和の裏側へ落ちる、暗く歪な影。ディミトリの正しさが届く場所と、どうしても届かない場所があるように思えた。
その影を見た瞬間、ふと、数日前に東へ去っていった青年の背中が脳裏をよぎる。
新たな王の誕生に人々が沸き立つ中で、クロードだけが冷めた瞳をしていた。
そういえば、いつかの野営の夜に、彼は焚き火を見つめながら語っていなかったか。フォドラと外の世界を隔てる壁を壊したい、と。
ディミトリが選んだのは、これ以上民が血を流さずに済むための、最大多数を救う秩序だった。王として、筋の通ったかたちで世界を治める道だった。
その秩序のもとでも、クロードの言う壁はかたちを変えただけで、まだどこかに残っているのかもしれない。
もしかして。
この世界は、どれほど正しく整えられても、それだけでは足りないのではないか。
正当な王を勝たせ、戦乱を終わらせ、まっとうな平和をもたらしたとしても、それは答えではないということなのか。
音も光もない無の底へ完全に沈んでゆく中、純粋な戸惑いと、芽生えはじめた狂気じみた仮説だけが、冷たく明滅していた。
幕間Ⅰ
執務室の灯は、もう半ば落ちていた。
窓の外には深い夜が沈み、机の上へ積まれた書類の端だけを、残された灯りが淡く照らしている。
戦の前夜だというのに、部屋は静謐な空気に包まれていた。軍議の喧しさも、人の足音も、厚い扉の向こうへ押しやられて、ここには届いてこない。
エーデルガルトは机の前に立ったまま、ひとつの書面へ視線を落としていた。顔を上げればすぐ気づくはずの距離に自分がいても、しばらくは何も言わない。
その沈黙に不自然さはなかった。最後まで目を通すべきものを見届けてからでなければ、次の言葉を口にしないのだということが伝わる沈黙だった。
やがて、彼女は書面から目を離した。
「こんな夜でも、やることは尽きないものね」
それは苦笑にも似た、薄い声だった。疲れもあるのだろう。
だが、その疲れは彼女を鈍らせてはいないように見えた。むしろ、摩耗した先でなお芯だけが研がれているような静けさがあった。
自分は返す言葉を見つけられず、そのまま立っていた。
彼女もまた、こちらを見ない。机の上へ片手を置いたまま、低く息をつく。
「わかり合えたら、いちばんなのだけれど」
そのひと言は、誰かに向けてというより、胸の内へ落としたもののように聞こえた。
「でも、彼が私の前に立ちふさがるというのなら、私は決断しなくてはならない」
静かな声だった。それなのに、その言葉の奥には、刃よりも硬いものがあった。
エーデルガルトは、血を流さずに済む道があるのなら、それを望んでいる。だが、望んだところで道がひらけないのなら、斬るべきものを斬る。その覚悟を、とうの昔に引き受けてしまっている。
自分はその横顔を見ていた。
理解できないわけではない。あのときたしかに、自分は彼女の手を取ったのだ。
彼女のそばに立つと決めたことを、後悔しているわけでもない。彼女が見据える先に、何もないとも思わない。だから否定する言葉は浮かばなかった。
彼女が立っている場所は、自分には少し遠く感じられた。手は届くのに、握った手にうまく力をこめられない、そんな距離。
何を捨て、何を貫くのか。誰を討ち、何を守るのか。そのひとつひとつに、彼女は自分の名を与えている。そのまっすぐさが、月の差し込む執務室の中で、そっと反響する。
「……そうか」
ようやく出た声は、それだけだった。
エーデルガルトはそこで初めてこちらを見た。
何かを求める目ではなかった。問い返しも、試す色もない。ただ、自分がその言葉を聞いていることだけを確かめるようなまなざしだった。
それから彼女は視線を外し、再び机の上へ目を落とす。
「明日には、すべてが決まるわ」
その声には不安も昂りもなく、定まった未来を受け入れている者の落ち着きだけがあった。
自分は答えなかった。答えられなかったのかもしれない。彼女の言葉の輪郭だけが、冷えた石のように胸の奥へ沈んでゆく。
机の上には、まだ読み終えていない書面がいくつも残っていた。
彼女は、単に自分との会話を終えたのではなく、次の務めへ戻ってゆくだけなのだとわかる。
その姿は少しも揺らがず、こちらが立ち去ったあとも、それは変わらないのだろう。
自分はその場を辞するために、静かに踵を返した。
扉へ向かうまでのわずかな距離が、妙に長く感じられる。
背後から呼び止める声はない。けれど、それでよかった。いまの彼女には、もうじゅうぶんに言葉があった。そして自分には、それに並べるだけの言葉がなかった。
扉へ手をかける直前、どうしてか一度だけ振り返った。
エーデルガルトは机の前に立ち、灯の下で書面へ視線を落としている。細い肩にも、伏せられた睫毛にも、迷いは見えなかった。あの背に届くものがあるとすれば、それは同じだけの決意だけなのだろうと、ぼんやり思った。
自分は何も言わず、執務室を出た。
扉が閉まる音は、思ったよりも軽かった。
それなのに、その向こうへ彼女を置いてきたという感覚だけが、どうしてか、ひどく重く胸の底へ残った。
黄燦の章
蒼き王が見せた見事な治世と、その果てに待っていた静かな絶望の余韻を背負ったまま、自分はまた辺境の村の、ひんやりとした寝台で目を覚ました。
すきま風が運ぶ土のにおいも、白々しく差し込む朝の光も、何ひとつ変わっていない。どれほど正しさを貫いても、この呪われた世界を抜け出すことはできなかった。
戴冠式の終わりに胸をよぎった違和感は、目覚めたあともまだ底に沈んだままだった。正しい平和だけでは足りないのかもしれない。だが、何が足りなかったのかは、まだうまく言葉にならない。
それでも、この反復から抜け出すためには、別の手を探さなければならなかった。
ならば、かつてクロードが壊そうとしていた旧い秩序そのものを打ち払うことが、その手がかりになるのかもしれない。
答えはまだ見えない。
けれど、立ち止まっている余裕もなかった。
父が帝国軍に雇われると決めたとき、自分は静かにうなずき、その背中に従った。
ジェラルト傭兵団の一員として、命じられるまま軍の陣へ足を踏み入れる。何も言わず、重い翳りをまとったまま歩く自分を、父はどこか測りかねたような目で見ていた。
帝国軍に身を置くということは、必然的に同盟軍、すなわちクロードと敵対することを意味している。その事実だけが、乾ききらない不安のように胸へ張りついて離れなかった。
やがて戦乱は広がり、潮風を纏った水上の都での戦いから、乾いた風の吹き荒れるグロンダーズ平原へと舞台を移す。帝国軍と同盟軍は正面からぶつかった。鉄と鉄が噛み合う音、鼻を刺す濃い血のにおい、焦げた草原で折れてゆく黄色の旗。
目の前で刃に倒れる兵たちを見れば、反射のように身体が動き、どうにかその命を繋ぎ止めようとしてしまう。救い切れないとわかっていても、心が揺らぐ。
乱戦のさなか、帝国軍の猛攻を受けた同盟軍の陣形が大きく崩れた。土煙の向こう、幾人もの帝国兵に囲まれて窮地へ追い込まれてゆくクロードの姿が視界に入る。
彼を死なせてはならない。
そう思った瞬間、鋭い悪寒が背筋を駆け上がった。心臓を鷲掴みにされたように肺から空気が奪われ、剣を握る指先が硬直する。
眼前を覆い尽くしたのは、いま広がっている平原の戦場ではなかった。どこまでも赤黒い血のにおいだけが満ちた場所と、その中で動かなくなっている彼の姿。
ふと、視界の端で別の赤が揺れた気がした。誰かの衣の裾だったのか、夕陽の残り火だったのかわからない。その色だけが、やけに鮮明だった。
何が起きたのかも、いつのことなのかもわからない。
彼の身に何かとり返しのつかないことが起きたのだと、理屈より先に身体が知ってしまったような恐怖だけがあった。
胃の腑が持ち上がる。息を吸おうとしても喉がうまく開かない。自分は何か決定的におそろしいことを忘れているのではないか。その疑念だけが、頭蓋の内側を何度も鈍く打った。
足は一歩も動かず、ただ荒い息を吐き出すことしかできない。そうして立ち尽くしているうちに、遠くで旗が翻り、クロードは自らの知略で包囲を抜け、同盟軍はそのまま退いていった。
彼がここで命を落とすという最悪の事態だけは、かろうじて避けられたことを、遅れて理解する。だが、指先にまでこびりついた悪寒は少しも薄れなかった。
戦場がひとまずの区切りを迎え、帝国軍が軍を引こうとした、そのときだった。退路を塞ぐように、シェズが獣のように喰らいついてくる。
幾度も剣を打ち込み、これで倒れるはずだと思うほど深く斬り込んでも、決定打にならない。首に届いたはずの一撃だけが、何かに阻まれるようにわずかに外れ、相手はなおも前へ出てくる。その異様さに、戦場の熱とはべつの冷たさが背を這った。
このままここで足を止めれば、呑まれるのはこちらだ。押し返しきれないまま、帝国軍はシェズを振り切るようにして退くしかなかった。
激しい斬り合いの最中、不意に自分の中の何かが壊れて、精神と肉体の主導を問答無用で奪い取ってゆく。
景色が別人のものへすり替わり、自分の腕が勝手に剣を振り下ろしていた。視界の端で髪が淡い翠に染まり、映る瞳の色まで見知らぬものへ塗り替わってゆく。
自分の身体が自分のものでなくなるという、おぞましさが、粟立つような悪寒となって意識の底へこびりついていた。
異質の力から肉体の支配を取り戻したあとも、剣を握りしめたまま立ち尽くす自分の額には、冷ややかな汗がべったりと張りついていた。
なぜ自分は、あんなにも生々しい悪寒に襲われたのか。なぜ、彼を見た瞬間だけ身体が凍りついたのか。自分の肉体すら自分のものではなくなる恐怖と、血のにおいをまとった曖昧な幻影への疑念が混ざり合い、重い泥のように足もとへ澱んでいた。
そのまま帝国軍の天幕に身を置いていた数日後、遠く離れた東の果てから、ひとつの報せが届く。
パルミラ軍が同盟領へ襲来したが、盟主たるクロードが敵将を討ちとり、その危機を退けたという戦果だった。
彼が生き延びたという事実に、ひとまず胸を撫で下ろす。しかし次の瞬間、その報せには彼自身がどれほどの傷を負ったのか、そうした情報が何ひとつ記されていないことに気づいた。
その気づきに呼応するように、足もとの土から静かに色彩が抜け落ちていった。
周囲の兵たちのざわめきが途絶え、肌を撫でていた風の温度が消える。揺れていた灯りまでもが白く褪せ、景色の輪郭だけが薄い膜の向こうへ押しやられてゆく。
二度に渡る同盟軍との戦いでは、彼も自分も生き延びた。いま届いた報せによれば、彼は遠い東でも生き残った。それなのに、なぜすべてが失われてゆくのか。
あの戦場で、自分は彼を見殺しにしたわけではない。彼はたしかに生きていた。ならば、何が足りなかったのか。
以前、ディミトリの治世を見届けたとき、正しい平和だけではこの世界は終わらなかった記憶が、鈍い痛みとともによみがえる。
彼が生き延びるだけでは、何か足りないのかもしれない。
彼が壊そうとしていた壁。
その先にある、彼自身がまだ手にできていない何か。
それに、遠く離れた場所から届く報せだけでは、彼のほんとうの安否も、その戦が何を残したのかもわからない。
見えないままではだめなのだという焦りだけが、血の味を伴って膨らんでゆく。
次はもっと近くにいなければならない。
そう思った途端、脳の奥が急に痺れはじめた。残っていた景色が輪郭から溶け出し、自分というものをかたちづくるものたちが強引に引き剥がされてゆく。
ここに存在することすら赦されないような、冷たい拒絶だった。どれほど抗おうとしても、手足の感覚は消え失せ、自我の輪郭が保てなくなる。
永遠にこの理不尽な反復へ閉じ込められる恐怖と、彼を確かめなければならないという焦燥だけを必死に握りしめたまま、自分の意識は唐突に途絶えた。
いつもの冷たい寝台で目を覚ました自分は、焦りを抱えたまま、ひとつの決断をしていた。世界がなぜ唐突に消えたのか、その原因をこの目で確かめなければならない。
しかし、目を覚ましてから実際に戦乱の幕が上がるまでには、およそ三年という気の遠くなる長い歳月があった。
父とともに傭兵として各地を渡り歩きながら、時が満ちるのを待つしかない。
そのあいだ、何度かシェズと刃を交える機会もあったが、どれほど記憶を引き継ぎ、太刀筋を学び直しても、あの得体の知れない力を持つ相手にだけは勝ち切れなかった。
深く斬り込んでも致命傷には至らない。
読みづらい動きを前に何度刃を交えても、まるで目に見えない何かが彼の命だけを執拗に守り、自分の勝ちを拒んでいるように思えた。
そうして焦りだけを胸の奥で燻らせたまま、ついにフォドラ全土を巻き込む戦乱が幕を開ける。
本来なら、ここで帝国軍からの雇い入れを受けるはずだった。しかし自分は、身支度もそこそこに陣を飛び出した。事情は何ひとつ説明しないまま、パルミラ軍が襲来する時期に合わせて東へ急ぐ。
背後では、困惑と違和感を抱えた父が、傭兵団ごと自分を追ってきている気配があった。本来なら向かう理由などない戦場へ、何かに急き立てられるように走る息子のあとを追って、ジェラルト傭兵団はそのまま同盟軍の戦場へ雪崩れ込むことになる。
切り立った山脈に築かれた堅牢な要塞、フォドラの首飾りへたどり着いたとき、すぐには全体の意図がつかめなかった。
ただ、兵の置き方が妙だった。
前へ出ている部隊と引いている部隊のあいだに、わずかな空きが不自然に残されている。奥へ通すための道のようにも見える。要所ごとに狼煙台へ兵が散らされ、いつでも火を上げられるよう備えている。
敵の本隊は厚く前へ出ているのに、敵将自身はかなり奥にいて、容易には届かない。
目の前の動きだけを追っていても、はっきりしたことはわからない。だが、クロードが何かを仕掛けていることだけは察していた。
あの男が、正面からぶつかるだけで終わるはずがない。何をするつもりなのか、その肝心なところが見えないまま、拭いようのない嫌な予感がこめかみを伝った。
前回の世界で、彼が敵将を討ち取ったという報せの直後に世界が消えたことを思い出す。
その死が引き金だったのではないか。その考えが頭をよぎった瞬間には、もうじっとしていられなかった。理由を確かめるより先に、とにかく止めなければならない。自分は前線へ飛び出し、兵の流れへ割って入って、彼の戦術がことごとく噛み合わないよう動いた。
露骨に邪魔をすれば、すぐに斬り捨てられる。かといって何もしなければ、そのまま敵将は討たれる。
だから敵の進路にも味方の進路にも半端に食い込み、どちらの動きもわずかに遅らせる。そうしているうちに、クロードの視線がまっすぐこちらへ刺さった。
張りつめた弦の音が、山風に乗って響く。
彼は鋭い矢の切っ先を、ほかでもない自分へまっすぐ向けていた。
弓を引き絞る彼の瞳には、同盟を脅かす者は何があっても討つという、強い意志が宿っていた。
自分が敵将を守るためにクロードを斬れば、彼が死ぬことで世界は振り出しへ戻る。このまま彼に射抜かれて命を落としても、同じように終わる。
ならば手を出さずに引けばどうか。そうすれば彼は当初の思惑通りに敵将を討ち取り、前回と同じように、また理不尽な巻き戻しを迎えるかもしれない。
まだ確かめきれたわけではない。だが、その考えが頭をよぎった以上、見過ごすことはできなかった。
彼自身の強い意思によって、戦場は身動きのとれない完全な膠着へ変わってしまった。彼を救い、この世界を終わらせないための選択肢が、目の前でひとつ残らず塞がれてゆく。
ぞっとするほど冷たい汗が首筋を伝った。結局、弓を向けられた自分は何も手出しができないまま、男が深い闇の底へ落ちてゆく光景をただ見届けることしかできなかった。
彼の一撃が敵将の命を絶った瞬間、頭の奥が冷たく軋んだ。
次の瞬間には、身体じゅうを巡っていた熱が逆流し、足の裏から這い上がってきた眩暈が、内臓ごとひっくり返すように意識を揺さぶった。地面を踏んでいる感触が消え、かわりに見えない深みへ膝下から沈み込んでゆく。
張りつめていた弦の音も、兵のどよめきも、風が山肌を撫でる気配も、ひとつずつ遠のき、最後には自分の呼吸する音だけが耳の内側へ異様に響いた。
世界が壊れているのではなかった。ここから、自分だけが剥がされてゆく。
どうしようもない膠着への絶望と、結局また彼を目の前で確かめきれなかった焦りを抱えたまま、残っていた景色が少しずつ輪郭を失ってゆく。山肌の影も、石壁の感触も、さっきまでそこにあったはずの現実だけが、手の届かない場所へと押しやられていった。
何かひとつでも掴んだまま落ちたかったのに、それすら赦されないまま、意識は唐突に途絶えた。
彼が生きているだけでは足りない。
あの男を討たせた先で、何かが壊れたのだという感触だけはたしかにあった。
いまのままではだめだ。次はもっと早く、近くにいなければならない。
その考えがかたちを持ちはじめたとき、頭の奥で、聞き慣れた声が響いた。
「……あの小童が素直に耳を貸すとは到底思えぬ。説くより先に、道を塞いでやるほうが早かろうて」
言葉では届かない。なら、答えはひとつしかなかった。
三年もあれば、剣はいくらでも研ぎ直せる。踏み込みの深さも、刃を返す角度も、どこへ通せば相手の力が抜けるかも、身体は嫌になるほど覚えていた。
それなのに、足りなかった。何度学び直しても、何度先を読んでも、シェズの双剣だけは、必ずこちらの致命を押し返してくる。
あれだけは越えられない。
そう認めたうえで、帝国との契約は捨てた。ジェラルトは理由を深く問いたださなかったが、こちらを見る目つきだけが、以前とは少し変わった。何かを決めてしまった人間を見る目だった。
しかし、足を止める気はなかった。
フォドラの首飾りへ着いたころには、すでに戦の火は上がっていた。乾いた風が谷を抜け、土と馬の汗、それに血のにおいが入り交じっている。空には二騎の飛竜がいて、そのひとつに彼がいた。もうひとつにはパルミラの将が乗っている。どちらも高い。あの高さのまま刃を交えれば、あとに残るのは遺恨だけだ。
自分は前へ出て、飛竜の背にある彼を見上げた。
「敵将を討つべきではない」
声は届いたはずだったのに、彼はすぐには答えず、こちらを見下ろしていた。風にこげ茶の髪が流れても、そのまなざしだけは少しも揺らがない。問い返してくるでもなく、頭から退けるでもなく、まず相手の言葉を手のひらに乗せて重さを量る。そういう顔だった。
応じる気がないのなら、言葉を重ねても意味はない。
谷を渡る風向きは覚えている。火がよく走る場所も、煙がどこへ溜まるかも、敵の伏兵がどの角度から矢を浴びせてくるかも知っている。
呼吸ひとつぶんだけ先へ出て火種を放ると、乾いた草はすぐに炎をはらみ、黒い煙が谷の底から這い上がった。上から見通せるはずの空が、見る間に曇ってゆく。
そのあいだに、前へ出す兵の列を一歩だけずらした。一歩で足りる。敵の射程へ入った途端、伏せていた弓兵が矢を放ち、味方のあいだから悲鳴が上がる。
空から、彼が降りる。
それだけでじゅうぶんだった。彼に選ばせる必要はない。いまここで敵将を討たせなければ、それでよかった。
煙の中へ踏み込むと、喉の奥がひりついた。血と煤が混じった空気は重く、息を吸うだけで肺が灼ける。
敵兵は散り始めているのに、空だけはまだ荒れていた。煙の切れ目から、低く高度を落としてくる飛竜の影が見える。味方が乱れた隙に、黒い飛竜とともに高みから一気に押し切るつもりなのだろう。地上の混乱ごと踏み潰すつもりでいる。
しかし、黒い飛竜が降りてくる高さも、狙う場所もわかっていた。
岩肌を蹴って高いところへ出る。風が強い。飛竜の羽ばたきが煙を払いながら、頭上をかすめてゆく。
その視線が一瞬だけ地上の兵へ流れた、その隙でじゅうぶんだった。
そばにいた兵の槍を奪い、首もとではなく手綱へ向けて投げる。飛竜が大きく首を振り、進路がわずかに乱れる。その乱れに合わせて踏み込み、降りかかる爪をかわしざま前脚へ刃を入れた。
飛竜が鋭く鳴いた。耳に刺さる声だった。
敵将はすぐに体勢を立て直す。さすがに速い。
だが、その速さも知っている。高く取り直すはずのところで、彼は躊躇なくこちらへ刃を落としてくる。その筋を一度受け、力を流し、二度目に踏み込む。男の斧は重い。飛竜の勢いも乗る。そのぶん、外したあとの隙が深い。
討つ必要はない。
飛竜の翼膜を浅く裂き、次に男の腕へ届くぎりぎりのところで刃を見せる。殺すのではなく、これ以上踏み込めば危ういと悟らせるために。
そうして何度か打ち合ううちに、相手の動きが変わった。怒りより先に、ためらいが差す。煙の向こうでその目が揺れ、こちらを見る色から、押し切れるという確信だけが少しずつ失せてゆく。
さらに一歩詰める。飛竜の首筋へ刃を当てる寸前で、止める。
そこまでで足りた。
男は深追いをやめた。飛竜の腹を蹴り、煙の切れた空へ引き返してゆく。追う気はなかった。あれ以上追えば、またどこかで彼が手を伸ばす。今は遠ざければいい。
羽音が背後へ落ちてきた。振り向くと、クロードの飛竜が地に降りるところだった。風に吹かれて、髪の先が煤で少し暗い。
頬には汗が滲んでいるが、目は濁っていなかった。怒りで曇るでもなく、安堵でゆるむでもなく、静けさだけが残っている。
「なぜ逃がした」
問いつめるというより、答えの出方を見ようとしている声だった。
自分は剣についた血を払った。血はすぐ土へ吸われてゆく。
「殺す必要はないと判断した。あの男はもう二度とここには来ない。……何より、君たちは浅い傷で勝つことができた」
彼の眉がわずかに寄る。
「終わりとしては、じゅうぶんだろう」
言い足しても、彼の顔は晴れなかった。何かを呑み込んでいるように見えた。納得していないことだけはわかる。彼はパルミラの将を討たず、戦は終わった。そして世界は崩れない。
自分の判断はまちがっておらず、少なくともこの一手は外していない。いまつかめるのは、その事実だけだった。
戦のあとは思っていたより騒がしかった。負傷兵が運ばれ、馬に水が与えられ、勝ちをよろこぶ声があちこちで重なる。その中で、レスター一の武人といわれた男はひときわ大きな声でこちらを讃えた。
敵将は討ち取っていない。けれど味方の被害は少なく、敵は退いた。目に見える勝ちを持ち帰った以上、自分たちを無下に追い払うことはできない。
夜になってから、クロードの天幕へ向かった。焚火の煙が低く流れ、布越しの灯りが地に細く落ちている。見張りに名を告げると、中へ通された。
彼は机に片手をついて立っていた。昼より表情はやわらかいのに、瞳の奥だけは少しもほどけていない。人へ向けるやわらかさを借りて、その裏で別のことを考えているように見えた。
「自分たちは帝国との契約を蹴ってここへ来た」
まず、事実だけを置く。
彼はすぐには答えず、じっとこちらを見たあと、ややあって口もとに薄い笑みを作った。
「……だから、何だ」
軽い声音だった。だが、それで終わらせる気がないことはわかる。
「それで、お前は何が欲しい。帝国以上の報酬が出るとでも聞いたか? それとも、俺に恩を売りたいのか」
目は笑っていない。こちらを試しているのはわかる。
彼はいつもこうして、答えそのものではなく、そのとき相手がどこまで踏み込んでくるかを見る。
「あるいは」
そこで彼はわずかに首を傾ける。
「俺に何かをさせたいのか」
声音はやわらかい。けれど、そのやわらかさの下で、こちらの覚悟を測られている気がした。
「もしそうだとして。俺が、お前の思うようには動かなかったら?」
「構わない」
自分の声は驚くほど平らだった。
「帝国以上の報酬を望んで、ここへ来たわけじゃない」
彼の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「教団の説く正しさも、自分には関係がない」
まともな答えではないと、自分でもわかっていた。だが、ほかに言いようがなかった。
「君が何を見ていようと、自分は君の味方だ」
天幕の中が静かになった。外ではまだ兵の笑い声が続いているのに、その布一枚ぶんだけ喧噪が遠い。
彼はすぐには答えなかった。笑みを貼りつけたまま、少しだけ目を伏せる。その横顔に浮いたものが何なのか、自分にはよくわからない。何となく、予想していたものと違う答えを受け取ったときの沈黙に似ていると思った。
それでも、追い返されはしなかった。
彼がこちらを信じたのではないことは明白だった。信じていないまま、切り捨てるには惜しいと思ったのだろう。帝国を蹴ってきた事実も、昼の戦で見せた力も、もう見ないふりでは済まないところまで来ている。
やがて彼は息をひとつ吐き、肩の力を抜いた。
「……得体の知れないのを抱え込むのは、あまり気が進まないんだけどな」
そう言いながらも、声に追い払う鋭さはなかった。
天幕を出ると、ジェラルトが立っていた。さすがに何も言わないわけにはいかないということは、理解できた。
「……帝国軍は兵力が足りている。自分たちが抜けても、すぐに崩れるわけじゃない」
自分で口にしてから、その言葉がどれほど薄いかわかった。
ジェラルトは険しい目でこちらを見る。
「お前、それ本気で言ってるのか」
言葉に詰まる。
ジェラルトは短く息を吐いた。
うまく説明できない。人に聞かせて、納得させられるようなかたちにならない。
「……クロードは中央教会には与しない」
ジェラルトの眉間に皺が寄る。
「だから、ここで敵に回す相手じゃない」
自分でも話が飛んでいると思った。それでも、そう言うしかなかった。
ジェラルトはしばらく黙っていた。納得した顔ではなかった。
「腑には落ちねえが……ここまで来ちまった以上、もう引き返せねえ」
それから、低く続ける。
「お前がそこまで言うなら、いまはそれでいい」
それで決まった。
だが、初めからうまくはいかなかった。
帝国を離れ、同盟へ入り、クロードのそばに身を置くところまではできても、その先で何をどう変えればよいのかが見えない。
陣は少しずつ崩れ、誰かが倒れるたび次の死が呼び寄せられ、最後にはまた、手の届かないところから敗色が全体へ広がっていった。
巻き戻りの直前に残ったのは、どこで兵が止まり、どこで道が詰まり、どの報せが届く前に手を打てば崩れを遅らせられたのかという、かたちばかりだった。意味はわからない。ただ、その順に動かなければ、もっと早く壊れるのだということだけが、身体に残った。
前回掴んだかたちを、今度こそひとつも取りこぼさないようになぞってゆく。
どこで兵を止め、どこで道を空け、どの報せが届く前に手を打てばいいのか。前回の反復で拾った手順を、そのまま丁寧になぞれば、少なくとも出だしは崩れない。そう信じるよりほかに、もう方法がなかった。自分はふたたび同盟軍の陣へ入り、クロードの近くに身を置いた。
同じかたちをなぞっているはずなのに、胸の内は少しも静まらない。前回どこで崩れたのか、まだ身体のほうが先に覚えている。
自分が一瞬でも手を離せば、やがて誰かが倒れ、その先で彼にまで手が届くのだという、理屈より先の確信だけが残っていた。
ならば、自分が全部引き受けるしかない。
いまの同盟は、帝国だけでなく教団をも相手取ろうとしていた。だったら、こちらへ向いている帝国の圧を、教団へずらせばよい。
帝国がもともと中央教会へ向けている憎悪を、ほんの少し押してやるだけでよかった。斥候が拾う位置へ、教団の補給路がゆるむ刻限と、兵の動きが鈍る場所をそれとなく流す。同盟軍はあえて深追いせず、帝国に、いま潰すべきは同盟ではなく中央教会だと思わせる。そうして、こちらへ向いていた矛先を少しずつ逸らしていった。
けれど、前へ出た帝国軍が中央教会との消耗戦へ重心を移す一方で、闇に蠢く者たちはその流れに従わなかった。勝手知ったるコーデリア領へ独断で牙を剥き、正面の戦からあぶれた兵と異形の戦力をそこへ流し込んでくる。主力が前へ釘づけにされている今、横腹から食い破るには都合がよかったのだろう。
その報せを受けた瞬間、自分は主力を動かす考えを捨てた。ここで兵を割けば、どこかに必ず穴が空く。クロードや仲間たちへ傷が届くくらいなら、自分が行ったほうが早い。そう決めてしまえば、あとはひたすら走るしかなかった。
防衛も、遊撃の迎撃も、崩れかけた場所の穴埋めも、気づけばほとんど自分ひとりで背負い込んでいた。時を戻し、間に合わなければまた戻し、それで足りなければさらに戻す。
何度も繰り返しているうちに、眠りはどんどん浅くなり、ほんのわずかな物音にも意識が浮き上がるようになる。朝まで眠れたと思った日でさえ、身体の芯の重さだけは少しも抜けなかった。
剣にも、そのつけは出はじめていた。以前なら一撃で薙ぎ払えた敵兵が、刃筋の鈍りひとつでとりこぼしてしまう。踏み込みがわずかに浅くなり、受け流せるはずの重さが腕に残る。土を蹴る感触も、剣を受けた手の痺れも、脇腹を裂かれた熱も、どこか一枚膜を挟んだ向こうのことのように遠い。それでも止まれば終わるのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
そのくせ、同盟軍の兵たちの目は、日に日に自分へ寄ってくる。
ベレトがいれば持ちこたえられる。敵を斬り伏せられる。
そんな祈るような視線が、崩れかけた戦場のあちこちから集まってくるのがわかった。彼らはもう半ば信仰に近い思いで自分を見ていた。自分はただ、自分のために走っているだけなのに、そのたびに望みもしない高みへ押し上げられてゆくようだった。
乾いた笑いがひとつ転がる。
「ほれ見よ。ひとりで全部を抱え込めば、こうなるとわかりきっておろうに」
返す言葉はなかった。嘲られているのか、呆れられているのか、それすら判然としない。冷たい声だけが、疲れ切った頭蓋の内側で妙に澄んで響いた。
乱戦の最中、不意に死角から飛んできた矢を、シェズの双剣が火花とともに弾いた。耳もとで甲高い音が弾ける。振り向くより先に、彼の声が飛んだ。
「アンタもクロードと同じで、ひとりで背負い込みすぎなんだよ」
息を切らしながらも、その目にはまだまっすぐな光が残っている。泥にまみれ、血のにおいを浴びているくせに、どうしてそんな顔ができるのかわからなかった。
「みんなを頼れよ。そうしなきゃ、先に潰れるぞ」
ごく当たり前の言葉だった。傭兵として生き延びるための、健やかでまともな理屈だったし、正しいとも思った。
けれど、その正しさは今の自分には遠すぎた。他者を頼るということは、そのまま彼らを死地へ立たせることにしか思えない。自分の手の届かない場所へ置くことと、ほとんど同じだった。
胸の奥が、ほんの一瞬だけ揺れる。
そうできたなら、どれほどましだっただろう。自分ひとりで抱え込まず、隣にいる誰かへ背中を預けることが、まだ自分にも赦されるのなら。そんな考えがかすめた気がした。
だが次の瞬間には、それを押し潰すように別の思いが浮かぶ。自分がやらなければ、誰かが死ぬ。仲間が死ぬ。その先で、クロードの足もとまで亀裂が届く。
差し出された手を、自分は乱暴に振り払った。
「……自分には構わないでくれ」
それだけ言い残し、再び敵の濃い方へ踏み込んでゆく。止まっている暇などない。振り返れば鈍る。前だけを見ていれば、まだ間に合う。そう思って剣を振るい続けた先で、ついに身体のほうが悲鳴を上げた。
腕が重い。剣先が遅れる。視界は広いようで、狭い。何度も時を戻したせいで、足もとの土を蹴る感触さえ曖昧になっている。そこへ刃が重なった。
ひとつ受け、ひとつ返し、なおも前へ出ようとしたところで、肩口を裂かれ、脇腹をえぐられ、次の一撃が腿を深く割った。骨へ響く鈍い衝撃に膝が砕け、泥の固まりきった地面へ崩れ落ちる。
起き上がらなければならないのに、身体が言うことをきかない。視界の端で敵味方の影が入り乱れ、その上を灰色の空だけが遠く流れてゆく。
まだ動けるはずだと念じても、指先ひとつまともに上がらない。ただ、こんなところで倒れているあいだにも、どこかで防衛線が食い破られてゆくのだという焦りだけが、灼けつくように喉へ張りついていた。
誰かに肩を掴まれた気がした。遠くで怒鳴る声がする。低く、押し殺したような、とにかく聞き慣れた声だった。
戻るな、と言っていたのかもしれない。起きるな、と怒っていたのかもしれない。そのどちらも、自分の奥へは届かなかった。耳に入っても意味にならず、遠くで何かが鳴っているだけだった。
野営地の寝台は冷たかった。
うっすら目を開けても、天幕の布越しに滲む灯りが見えるだけだった。
垂れた布の皺も、柱へ結ばれた縄の影も、頭上でかすかに揺れる灯りの色も、目覚めるたびほとんど同じ位置にある。自分の視界の中だけ、時間が止まってしまったようだった。
寝返りひとつ打てないまま見上げていると、まるで自分だけがこの狭い寝台へ縫いつけられ、そこから置き去りにされているような気がした。
けれど、外の世界は確実に進んでいる。
天幕の向こうから届く声は、刻を追うごとに少しずつ内容を変えてゆく。
どこが押され、どこで兵が足りず、誰が退き、誰が倒れたのか。ついさっきまで持ちこたえていたはずの場所が、次の報せではもう崩れかけている。
こちらの目に映るものは何ひとつ変わらないのに、見えないところで盤面だけが休みなく悪いほうへ動いてゆく。そのずれが、胸の奥をじわじわと締めつけた。
思ったよりも、自分は何もできていなかった。
どれほど時を操っても、自分ひとりで全部を塞ぐことはできない。武があっても足りない。先を読んでも足りない。
泥をかぶり、傷を増やし、身を削って走り回っても、ひとつの肉体で支えられる戦の広さには限りがある。そんな当たり前のことを、変わらない天幕の内側で、変わり続ける外の報せに突きつけられる。
それでも、自分は無力だったと呑み込んでしまえるほど、心はもう静かではなかった。
天幕の外で誰かが、彼の名を口にした。次いで、崩れかけた前線と、持ちこたえきれない兵の話が続く。そこまで聞いた瞬間、息が止まった。
どこまでも赤黒い血のにおいがぶり返す。
止められなかった自分。
何もできなかった自分。
寝台の上で指ひとつ動かせず、報せだけを聞いている自分。
その先に待っているものが、ずっと胸の底へこびりついて離れないあの忌まわしい気配と同じなのだと、身体だけが先に悟ってしまう。耳鳴りがするほどの恐怖がこみ上げ、遅れて押し寄せてきた悲しみが、喉の奥を灼くようにひりつかせた。
自分がただ前へ出て泥をかぶるだけではだめだ。半端に抱え、半端に倒れ、半端に手を離す。そのたびに綻びは広がり、最後には彼のところへ届く。
自分は、彼を完全に勝たせなければならない。
それだけが、この反復を終わらせるための条件なのだと、ほとんど祈るように思い込もうとする。その奥では、二度とあんな報せを聞きたくないという、もっと生々しい恐怖がじっと息を潜めていた。
視界が細かく明滅する。外の声も、天幕の布を打つ風の音も、少しずつ遠ざかってゆく。何かを掴もうとした指先はわずかに震えただけで、やがてそのまま意識は暗く沈んだ。
目を覚ましたとき、自分はもう、先のように剣を振るって綻びを塞ぎ続けるやり方では間に合わないと知っていた。
あのまま前へ出れば、またどこかで潰れる。潰れれば、寝台の上で報せだけを聞かされることになる。指ひとつ動かせないまま、戦が崩れ、クロードのいる場所へ綻びが届いてゆく。その冷たさを思い出すだけで、喉の奥がひりついた。
ならば、次はやり方を変えるしかない。
次に必要なのは剣ではなかった。
罠も、増援も、崩れる順も、逃げ道も。全部、先に押さえてしまえばいい。
敵の密偵が身を潜める場所も、夜に交わされる暗号の法則も、帝都へ抜ける細い道も、先に全部押さえてしまえばいい。
乾いた声が頭の中で反響する。
「ようやくわかったか。おぬしが血を流して走り回るだけでは、心のほうが先に砕ける。ならば次は、剣ではなく盤面を握れ」
返事はしなかった。その声を退ける気力も、もう残っていなかった。
自分はふたたび同盟軍の陣へ入り、クロードのそばに身を置いた。
ただ、今度は最初から決めていた。自分の身を投げ出して庇いに飛び込まない。崩れかけた場所が見えても、すぐには時を戻さない。見る。拾う。覚える。そのためにここへ来たのだと、自分に言い聞かせる。
同じ陣にいても、今回はクロードとひと言も言葉を交わさなかった。
報告の場で顔を合わせれば、あちらは何か言いたげにこちらを見る。勝っている以上、士気を乱すようなことは口にできないのだろう。その視線だけが、問いただしきれない苛立ちのように背へ刺さった。
けれど、自分はそれを見ないふりでやり過ごした。黙殺しながら、逆にこちらからは、彼がどこで眉を寄せ、どの名を聞いたときだけ目を細め、盤面の駒がどう動くさまを見つめているのかを、執拗なほど観察していた。
すべてを正しく導くための決意のはずだった。だが、実際に戦が始まると、それは思っていたよりずっと醜かった。
敵の伏兵が出る刻限、増援の数、包囲が閉じる速さ、闇に蠢く者が使う定点の連絡場所、夜に交わされる暗号の癖、帝都へ続く裏道。
そうした表には出てこない情報を拾うため、自分はあえて敗走の流れを最後まで見た。ここで戻せば消える。ここで救えばわからなくなる。
そう思うたびに足を止め、目の前で味方が裂かれ、喉を貫かれ、馬から落ち、泥の上で泡を吹きながら動かなくなるさまを、その順番も、その位置も、そのとき敵がどちらへ向いたのかも、ひとつずつ覚えていった。覚えながら、自分の内側が少しずつ冷えてゆくのがわかった。
それでも、完全には冷えきらなかった。
最初に一線を越えたのは、味方を意図的な死地へ送り込んだ夜だった。
敵の目をそちらへ引きつけ、そのあいだにクロードのいる一隊だけを無傷で抜かせる。最悪の采配だった。そうとしか言いようがなかった。
自分の指示ひとつで、何人もの兵が悲鳴を上げながら肉の塊へ変わっていった。覚えて、捨てたものがかたちになった瞬間だった。
夜になってから、ひとりで天幕の裏へ回った。喉の奥にこびりついた鉄と臓物のにおいが、時間を置いて一気にせり上がってくる。腹の底だけがひきつるように縮み、苦い胃液を何度も吐き戻した。
息を吸うたびに眩暈がして、膝へ手をつかなければ立っていられない。どれだけ吐いても、吐き気は少しも収まらなかった。
自らの手でしでかしたことのおぞましさに、内臓がひきつる。
それなのに、吐き気の合間、遠くの陣幕の下にクロードが立っているのを見つけた瞬間だけ、肺いっぱいに溜まっていた息がどっと抜けた。
生きている。傷も負っていない。あれだけのものを踏みにじっておきながら、死なせずに済んだと思ってしまった。その安堵が、いちばん醜かった。
日を追うごとに吐き気はむしろ強くなり、喉が灼けるほど胃液を吐き、目の前がちかちかと明滅しても、顔を上げた。
ここで目を逸らせば、次もまた同じことを繰り返す。ならば、この罪も、この安堵も、どちらも覚えておくしかない。そうして自分は、心のやわらかいところを、ひと切れずつ盤面へ差し出していった。
そのころには、夜が来るたび目を閉じるのが億劫になっていた。眠れているつもりでも、浅い。兵の倒れる順や、駒が崩れ、押し返され、また別の場所で食い破られてゆくさまばかりが眼裏へ浮かぶ。この光景すらも、記憶として焼きつけようとした。
やっと意識が沈みかけたところで、布の擦れる音ひとつに跳ね起きる夜が続いた。
それでも自分は、まだ大丈夫だと思おうとしていた。そう思わなければ、ここまで見てきたものに押し潰されそうだった。
勝利を重ねるごとに、同盟軍の兵たちはまた少しずつ自分を見る目を変えていった。
ベレトが動けば道がひらく。ベレトがいれば、まだ崩れない。その期待が、この手ひとつでたやすく潰えることを、自分だけは知っていた。
自分は次の世界で勝つために盤面を見ているだけなのに、そのたびに、ひとではない何かへ押し上げられてゆくようだった。
あの声が、また嗤った。
「守るつもりがなくとも、勝手に神へ祀り上げられる。難儀なものじゃのう」
それももう、否定しなかった。
ジェラルトだけは、そんな自分を見ながら、何も言わずにいる時間が長くなった。
だが、何も見ていないわけではなかった。理解できない采配のあとで、周囲の兵へ向かって「あれは俺の判断だ」と言っていたこともある。自分のしたことを、父が自分の罪として背負おうとしているのだとわかっても、止める言葉は出てこなかった。
父の背中だけが、いまだに人の影を残したものを庇っている。そのことが、余計に胸を重くした。
そのころには、クロードも何かを感じ取っていたのだと思う。戦のあと、天幕の前ですれ違うたび、物言いたげな目だけがこちらへ向いた。
聞きたいことは、きっといくつもあったはずだった。けれど、彼が自分に何か言ってしまえば最後、そこから何かが崩れる。
結局、あちらは何も言わないまま目を逸らし、自分もまた何も返さなかった。ただ、その沈黙のあいだでさえ、自分は彼の様子を一方的に拾い続けていた。
久方ぶりに顔を上げて空を見たとき、晴れているはずの青がどこか濁って見えた。雲は薄く、陽も出ている。それなのに、澄んだ色として目へ入ってこない。
明るいだけの空だった。自分の目がおかしくなっているのかもしれないと思ったが、確かめる気にもなれなかった。確かめたところで、何かが変わるとも思えなかった。
記録すべき情報は、ほとんど揃った。
右手の槍兵が崩れたあと、敵は二手に割れた。片方は退く兵を追い、もう片方は崩れた馬の陰へ回る。そこから三拍遅れて増援が出る。前に戻してしまえば、この順番は消える。これも覚えた。
あとはクロードがどこで綻びるのか、それさえ見ればいい。そこまで拾うことができれば、次は最初から最後まで盤面を握れる。そう思っていたし、そう思い込まなければ、ここまで見過ごしてきたものの意味が消えてしまう。
だから、自分は見つめた。敵の刃がどこから入り、護衛がどこで間に合わず、クロードがどう追い詰められてゆくのかを、全部、黙って見ていた。剣を振りもしないで。
次のためだと何度も心の中で繰り返しながら、その推移だけを瞬きもせず、追いかけた。
そして、最後の一撃が入った。
クロードの身体が裂ける。噴き出した鮮血は頬へ張りつくだけでは済まず、視界の端から一気に広がって、世界そのものを赤く塗りつぶした。
熱も、においも、飛沫の重さも、たしかに現実だったはずなのに、その赤がどこまで本物で、どこからが自分の中の何かなのか、わからなくなる。曖昧になった線の向こうで、いままで辛うじて保っていたものが、内側から静かに崩れた。
次のためだ。これは必要な記録だ。
そう言い聞かせようとした言葉は、もうどこにも届かなかった。
見ていた。自分は、見ていることしかできなかった。
最も守りたい相手が目の前で削られ、血を流し、消えてゆく。その過程を、自分は止めなかった。記録するために、最後まで見届けた。
その事実が、遅れて胸の奥へ深く食い込んでくる。喉の奥が狭まり、肺がうまく膨らまない。赤に塗れた視界のまま、ひどい喪失感だけが一気に押し寄せた。
その瞬間、奥底へ長く沈んでいた忌まわしい気配が、熱を帯びてぶり返す。
奪われた。
赤い色。鉄のにおい。目の前で命が断たれる気配。そのどれにも、自分は覚えがあった。いつのことだったか、どこで見たものだったかは曖昧なのに、その光景だけは疑いようもなく胸に残っている。
エーデルガルトだ。
真紅の衣をひるがえし、冷えきった目で彼を見下ろしていた。
あの皇帝が、彼を奪ったのだと、自分はたしかに知っている。
考えて辿り着いた結論ではなかった。ただ、胸の底へこびりついていた悪寒と、頬へ張りついた生温かい血の感触とが、ひとつながりの記憶として結びついた瞬間、答えはもう決まっていた。
クロードは、エーデルガルトに奪われた。
そして自分は、間に合わなかった。
何もできず、見ていることしかできなかった。
自分の中に巣食っていたあの恐怖も、頬を濡らす血の熱も、鼻の奥にこびりつく鉄のにおいも、すべてその事実を裏打ちする証のように思えた。
赤く濁った視界の奥で世界は音もなく潰れ、自分の意識はそのまま沈んでいった。
暗い部屋の中で、息を吸うたび、まだ乾ききらない血が貼りついているような錯覚がした。頬へ手をやると、そこにあるのは鮮血ではなく、嫌に冷えた脂汗だった。
最後に視界を塗りつぶした赤だけは、まだ瞼の裏から剥がれない。真っ赤な衣、胸を貫く刃、腕の中へ崩れ落ちる重さ。いつ、どこで見たものなのかはわからない。ただ、それが現実だったということだけが、頭の中でかたちをもっていた。
喉がうまく開かず、息を吸っても苦しい。指先は冷えきっているのに、背にはじっとりと汗が滲んでいた。吐き気が遅れてこみ上げ、胃の奥が空しくひきつる。
頬も、首筋も、手の甲も、いまはもう何もついていないはずなのに、どこもかしこも血の粘り気が残っているようで、何度拭っても気持ちが悪かった。視界の端がかすかに揺れ、天井の木の継ぎ目が、見ているうちに波のように歪んで見える。
ここにいる。もう終わっている。そうわかっているのに、身体だけがまだあの赤の中へ取り残されていた。
身を起こす。寝台の軋む音が、やけに近く響いた。朝の淡い光、手の届く位置に置いた剣。どれももう見慣れたものばかりだった。
見慣れた景色を、ひとつずつ確かめる。布の皺、床板の軋む場所、剣の鞘が置かれた向き。そうやって数えられるものへ意識を押しつけているうちに、ようやく呼吸が少しずつ落ち着いてくる。
ここから先に必要なのは、取り乱すことではない。次の手を見誤らないことだった。
前の周で拾ったものは多い。
敵が兵を伏せる位置、密偵が情報を受け渡す場所、暗号の規則、帝都へ通じる細い道、誰がどこで怒り、誰がどこで折れ、どこを押せば盤面全体が歪むのか。その輪郭は、もう手探りではなかった。どこをどう削れば、望んだかたちへ流れるのか、自分は知っている。
だから、次にすることも決まっていた。
もう誰かを庇いに走る必要はない。誰かの善意へ賭ける必要もない。誰かにわかってもらう必要もない。
盤面を最後まで崩さず、彼が死なない結末へ押し込めばいい。そのために必要な駒を置き、いらない綻びを先回りして潰し、誤差の出る余地そのものを減らしてゆく。今回は、そのための情報がもう揃っている。
頭の奥で、あの声が低く笑った。
「ようやくかたちになったようじゃのう。ここまで来れば、あとは迷わず並べるだけじゃ」
返事はしなかった。寝台から足を下ろし、床へ触れた冷たさを確かめる。身体は重い。眠れたとは言い難かった。
それでも、以前のように視界が揺れることはない。眩暈もない。心が静まったわけではなかったが、揺れを押し込めるだけの型はできていた。
同盟軍へ戻るまでの道すがら、空が遠くのほうまで晴れていた。青いはずの色がまだどこか濁って見えたが、もう立ち止まって確かめることはしなかった。
空の色がどう見えようと、世界は待ってくれない。見るべきものは他にある。
同盟軍に合流する。兵の顔ぶれも、見張りの立つ位置も、報告が集まる天幕も、いまではひとつずつ意味を持って見えた。
どこに誰がいて、誰が何をまだ知らず、誰がどの報せに先に反応するのか。その順まで、すでに頭の中では決まっている。この戦は、もう出たとこ勝負の乱戦ではなかった。盤の上を駒がどう動き、どこで噛み合い、どこで潰れるのかを、あらかじめ写し取ったものに近かった。
クロードもいた。
視線だけがこちらへ向く。物言いたげな目だった。自分の、不自然なほどに完璧な采配の数々を思えば、言いたいことがないはずもない。だが、いまの時点でそれを口にしても、士気を乱すだけだとわかっているのだろう。
彼は何も言わない。自分もまた、何も言わなかった。理解を求めた瞬間、この手は鈍る。いまはそれを赦せなかった。
沈黙のまま近づき、必要な距離で足を止める。
「自分は君の味方だ」
もう何度目になるかわからない、その言葉だけを置く。以前と違うのは、そこへ余計な感情を混ぜないことだった。
信じてほしいとも、わかってほしいとも思わない。それが最も盤面を乱さず、彼をこちらの側へ留める言葉だと知っているから口にする。ただの手段でしかない。
クロードの眉がほんのわずかに動いた。その目の奥に、言い表しがたい薄気味悪さがよぎるのが見えた。
だが、彼はその場で切り捨てない。切り捨てられない。ここで自分を外せば、落ちる駒がいくつもあることを、彼は誰よりもわかっている。
自分は視線を外し、報告の集まる机へ目を向ける。
ここから先は、もう段取り通りに進めるだけでいい。アガルタの密偵が巡る場所、王国内で燻る守旧派、帝国軍の退き方、王都へ流れ込む恐慌、そこへ挟撃に向かう同盟軍の位置。ひとつずつ確認し、ずれがないことを確かめる。
今回の盤面に、情で差し込む余地はいらない。
そうして自分は、目の前の戦ではなく、その向こうにある筋書きそのものへ手をかけた。
最初に手を入れたのは、パルミラの将の件だった。
あの男をクロードに討たせれば、また同じところへ行き着く。そのことだけは、もう迷いようがない。白い飛竜が高度を下げ、彼の矢が届く前に決着をつける。
土の湿り具合、兵の詰め方、煙が流れる向き。何度も見た流れをなぞるように、ひとつずつ確かめる。敵兵の動きにわずかなずれが出るたび、短く時を戻した。
数息ぶん、あるいは剣ひと振りぶん。それだけで足りた。繰り返される反復と消耗のせいで、自分には時を大きく巻き戻す力はもうほとんど残っていないが、足りないところへ針を差すような使い方なら、まだどうにかなった。
そうして生まれた隙へ、自分は先に踏み込む。
男の刃筋も、飛竜の首が返る角度も、もう見慣れていた。どこで息が浅くなり、どこで視線がぶれるかも知っている。だから斬るべきところを斬り、折るべきところだけを折った。首は落とさない。
ただ、勝てないとわからせればいい。追い詰められ、目の色が変わり、手綱を引く指が鈍ったところで、自分はひと呼吸だけ前へ出た。剣先が喉もとに届くより先に、あの男の心のほうが折れる。そこまででよかった。
敗走してゆく背を追わないまま、ようやく自分は息を吐いた。ここで遺恨を残さなければ、少なくともこの盤面は先へ進む。
そうわかっているのに、剣を握る手は少しもゆるまない。刃を振るうたび、殺さずに済んだ安堵より先に、まだ生きているかという確認ばかりが、胸の底で重く脈を打った。
自分の異様さに気づいたのは、他でもないシェズだった。戦のあと、血を拭いきらないまま剣を納めた自分を見て、彼は眉をひそめる。
「……最近ちょっとおかしいぞ。ただ勝ちたいってだけの顔じゃないだろ、それ」
軽い口ぶりのつもりなのだろうが、その言葉だけが妙に耳へ残った。自分は顔を上げず、手についた血だけを布で拭った。
「べつに何も変わっていない」
そう返すも、彼はすぐには引かなかった。
「変わったよ。自分を生かすために斬ってるっていうより、何かを確かめるために斬ってるみたいだ」
その言い方が、どうにも癪だった。図星だからではない。まっすぐ見てくるその目のほうが、今は直視しづらかった。自分が見ないようにしているものを、彼だけが何も知らない顔で照らしてしまう。
「……放っておいてくれ」
それだけ言って立ち去る。背後で何か言われた気もしたが、振り返らなかった。
いま目を背けるべきなのは、ああいう健やかさのほうだった。あれを見ていると、自分がどこまで来てしまったのか、輪郭だけがやけにはっきりしてしまう。
もう戻れない場所を振り返ったところで、轢き潰した花々を見たところで、どうにもならないというのに。
裏では、もっと細かい手を入れていった。
夜のあいだに陣を抜け、人気のない場所へ向かう。前の周までで見つけた定点の連絡場所は、もういくつも頭に入っていた。
朽ちた廃屋の壁の隙間、根の張り出した樹の下、使われなくなった井戸の石組み。そのひとつひとつへ、偽の書状を置いてゆく。王国内の守旧派が、王の命を無視して独断で兵を動かす。そう読めるかたちに整えた文面だった。
それだけでは足りないので、教団の古い暗号も使った。かつて見た痕跡をなぞるように、狼煙の規則と書式を合わせる。手負いのまま焦れているあちらが、喉から手が出るほど欲しがる情報だけを、先回りして置いてゆく。読めば飛びつく。飛びつけば、行き先はもう限られる。
逃げ道も同時に削った。
同盟軍には防衛のための布陣だと伝え、その実、わずかに薄く見える方角だけを残して兵を置く。直接ぶつける必要はない。そこへ逃げれば助かると思わせればいい。追い立てられた獣が、いちばん行ってほしい道へ自分から走るように、じわじわと囲いを狭めていった。
どれも、誰かに頼む仕事ではなかった。頼めば証拠が残る。気づかれる。だから自分ひとりでやるしかない。夜ごと陣を抜け、明け方には何もなかった顔で戻る。その繰り返しの中で、同盟軍の内部には別の疑いが芽を出しはじめた。
不自然な情報の漏れ方に、兵たちの目が少しずつシェズへ向いてゆく。
出自が知れず、アガルタの民と似た力を持ち、しかもいつも最前線にいる。
条件だけを並べれば、疑いが彼に向けられるのは当然だった。本人は否定する。でも、弁明のために誰かを貶めるようなことはしない。
ただ「俺は絶対にそんなことしない。行動で証明してみせる」とだけ言って、前よりもさらに血のにおいが濃くなるところへ身を投げる。
そのたび、胃の腑が鈍く軋んだ。
名乗り出れば済む。あの書状を置いたのは自分だと、ひと言言えばいい。そうすれば彼への疑いは晴れる。
だが、それをすれば、ここまで積み上げてきた流れが崩れる。盤面を乱す余地を、自分から作ることになる。
だから黙っていた。
疑われてもなお腐らず、味方を守るために剣を振るう彼の姿を、見ないふりして通り過ぎた。その誠実さまで、目眩ましとして利用しているのだとわかっていても、手を止めることはしなかった。
進軍のさなか、一度だけ、どうしても耐えられなくなった。
報せは順に入っている。布陣も崩れていない。盤面は思った通りに進んでいる。それなのに、クロードがまだ生きているという事実だけが、急に曖昧になる。視界の端に姿が見えても足りない。声が聞こえても足りない。そこにいると、自分の手で確かめなければ、次の瞬間にでも失われそうだった。
気づけば、彼の両肩を掴んでいた。
クロードが息を呑む。骨が軋むほど強く引き寄せていることに、そのときになってようやく気づいた。近すぎる距離で、彼の目がこちらを見る。驚きより先に、得体の知れないものを見るような警戒が浮かんでいた。
「……なんだよ、急に」
乾いた声だった。問い詰めるより、知ろうとする声に近い。自分は答えず、肩越しの熱だけを確かめた。たしかに、生きている。いま、ここで、呼吸をしている。その確認だけで、胸の底に張りついていた何かがようやく少しだけゆるむ。
遅れて、指から力を抜いた。
「……いや」
それ以上の言葉は出なかった。クロードは眉を寄せたまま黙っていたが、無理に振りほどこうとはしなかった。ただ、その瞳に残った怯えに近いものだけが、消えずにこちらへ刺さっていた。
それでも、盤面は進む。
偽の書状に誘われたアガルタの民たちは、思った通り王国内の守旧派へ食いついた。
さらに退路を狭められたことで、王都のほうへ雪崩れ込むしかなくなる。帝国も、王国も、教団の残り火も、それぞれがそれぞれの事情で動き、気づいたころには、誰も自分の望んだ場所には立っていない。
それなのに、描いた筋書きだけは、正しく噛み合っていた。
自分はその流れを見ながら、次に置く駒を黙って確かめていた。いま必要なのは、ためらいでも説明でもない。すべてを、最後までずれなく進めることだけだった。
戦局が大きく動いたのは、アガルタ軍が王国内の守旧派へ食いついたあとだった。
はじめは局地の衝突にすぎなかったはずのものが、あっけないほどの速さで燃え広がってゆく。守旧派の諸侯は、王の制止も待たずに兵を動かしていたぶん、潰れるときも脆かった。
闇の底から這い出てきたような異形の兵器と、目を覆いたくなるほど濁った魔道の前には、誇りも教義も、肉と骨の強さの足しにはならない。
報せの紙をめくるたび、領地が焼かれ、進軍路が寸断され、討たれるべき誰かが討たれたと、整いすぎた順で戦況が崩れていった。
その裏で、こちらは兵を引きすぎないようにだけ気をつけていた。押しすぎれば不自然になる。助けすぎても、やはり盤面は濁る。
だから同盟軍は、あくまで自衛と防衛のかたちを崩さないまま、王都へ流れ込みかけた濁流の横へ静かに立つ。目の前で他国が裂け、灼け、血を流しているのに、自分のやることは、駒の位置をほんの少しずらし、退路がひとつだけ残るように見せかけること、それだけだった。
王都の目前まで闇が迫った以上、ディミトリにはもう選べる道が少ない。
ここでレアを討った同盟を拒み、王としての矜持や国内のしがらみを守ろうとすれば、その代わりに燃えるのは王都の民だ。情に厚いあの王が、最後にどちらをとるかなど、もう考えるまでもなかった。
彼の意思を貫いて民を死なせるか、血の涙を流してでもこちらと手を結ぶか。そのふたつを突きつけられて、後者を選ばないはずがないと思えた。
それでも、その選択が彼にとって救いではないことも、自分は知っていた。
情が深いからこそ、民を見捨てることはできない。だが同時に、その情の深さゆえに、ここへ至るまでに踏み潰されたものもまた見えてしまう。
国内のしがらみを自ら断ち切ることもできず、他国の血を浴びせられるかたちで道を空けられ、最後には最も望まぬかたちで手をとるほかなかった。王都を守るために選ばされたその決断は、王としては正しくても、人としてはあまりに苦いものだっただろう。
これまでの自分なら、そこにためらいがあったかもしれない。他国の王の苦悩まで利用してよいのかと、どこかで立ち止まったかもしれない。
でもいまは、そういう問いが浮かんでも、すぐに沈んだ。必要なのは結果だけだ。クロードが死なず、盤面が崩れず、望んだかたちへ進むなら、それでいい。
同盟と王国のあいだに、血に汚れた連携ができあがる。帝国軍は排除しきれなかったアガルタ軍を抱えたまま消耗し、王国軍は怒りと屈辱を押し殺すことなくそれに噛みつき、中央教会の残り火も、その混乱へ巻き込まれて燃え尽きてゆく。
どの陣営も、自分たちの意思だけではもう退けないところまで押し出されていた。
気づけば、盤面の中央に立っているのは、ほとんど血を流していない同盟軍だけだった。
あまりにきれいだった。
崩れるべき場所が崩れ、折れるべきものが折れ、残すべきものだけが残る。どこにも無駄がない。
誰がどこで遅れ、誰がどこで怒り、誰がどこで手を結ぶのか、そのすべてが、拾った情報の通りに盤面へ嵌まってゆく。自分はただ、その仕上がりを確かめるように見ていた。
もちろん、何も感じなかったわけではない。
戦の切れ目に天幕の裏へ回り、喉の奥から上がってきた酸いものを何度も吐いた。胃がほとんど空っぽでも、吐き気だけがきりもなくせり上がる。
王国の諸侯がどう潰れたのかも、帝国の兵士がどれだけ泥に沈んだのかも、シェズがどんな目で疑いを受けながらなお剣を振っていたのかも、自分は知っている。知っていて、止めなかった。その重みは、ちゃんと自分の中に残っていた。
それでも、吐き終えて顔を上げた先にクロードの姿が見えると、歪な穏やかさに胸を撫でられる。
クロードが、生きている。
その事実だけで、苦いものを呑み込めてしまう自分が、たまらなく嫌だった。だが、嫌悪より先に安堵が来る。その順番だけは、もうどうにもならなかった。
戦は、やがて誰の目にも明らかな勝敗として終わりへ向かった。
同盟と手を結んでいた王国もほとんど虫の息で、帝国もアガルタの民も、もはや立て直せないところまで血を流している。
セイロス教が積み上げてきた壁も、王国を縛っていたしがらみも、帝国の余力も、その全部が、いまの盤面では彼の前に立つ障害にならない。
ここまで来れば、もうあと少しだった。
何を捨てたかを並べる気はなかった。そんなものをいまさら数え上げたところで、戻りはしない。
自分は彼が勝てる場所だけを残した。それで足りるはずだと思っていた。
自分は戦場の端に立ったまま、遠くの陣幕の下にいる彼を見た。
兵たちは勝利に浮き足立ち、安堵と興奮の入り混じった声を上げている。だがクロードだけは、その歓声に身をゆだねようとはしなかった。
嫌な予感がした。
盤面は完成している。彼は生きている。壁は崩れた。王国も帝国も、もう以前の威容では立てない。誰にも語っていなかったはずの理想へ届く道を、目の前へきちんと敷いたはずだった。
クロードは、しばらく何も言わなかった。ただこちらを見るまなざしに温度はない。以前のような探るでも、利用価値を測るでもない。もっと静かで、もっと遠いものを見るまなざしだった。
やがて、彼はかすかに息を吐いた。
「お前のおかげで、俺は野望を果たせるかもしれない」
その言葉だけなら、盤面の正しさを認めたようにも聞こえた。けれど、続いた声には、よろこびも安堵もなかった。
「だがな、こんな勝ち方を俺は赦せない」
胸のどこかが、音もなく冷えた。
彼が勝つために必要なものは、全部そろえたはずだった。それでも彼からすれば、完成した盤面の向こう側にいる自分が、もう人のかたちを保っていないのだろう。
そのことだけが、まだ言葉になる前の刃のように、静かにこちらへ突きつけられる。
潮のにおいを含んだ風が、ふたりのあいだを抜けてゆく。怒鳴るでもなく、吐き捨てるでもなく、冷えた目だけがこちらを見ていた。
「誰にも話してないはずの俺の望みまで読み切って、ディミトリの苦悩も、シェズへの疑いも、敵の退路も、何もかもひとつの盤へ押し込めて、最初から最後までずれなく並べてみせる。完璧すぎるんだよ、お前の盤面は」
その声には、もはや責める熱さすらなかった。ひどく静かで、だからこそ遠かった。
「……あれは、血の通った人間の描くものじゃない」
そのひと言が落ちたあと、しばらく何も聞こえなかった。実際には、遠くで波の音がしていたはずだったし、港のほうでは勝ちを祝う声もまだ途切れていなかったのだろう。しかしそれらは皆、水底に沈んだかのように遠く濁り、自分の耳にはうまく届かなかった。
勝たせたはずだった。
死なせなかった。彼が望んでいたはずの景色へ辿り着く道も、壊したかった壁の先も、盤面の上にはたしかに残した。誰にも語っていなかった夢を、自分は誰より正確に拾い上げて、ひとつもとりこぼさないよう並べたつもりだった。
それなのに、彼はその景色を見ていなかった。
見ているのは、そこへ至るまでに踏み潰したものばかりだったのかもしれない。いや、それだけではないのだろう。他人の血も、苦悩も、誇りも、疑いも、何もかも並べ替えておきながら、自分が平然と立っていること。そのこと自体が、彼には耐え難かったのだ。
何か言わなければならない気がした。なのに、喉は乾いていて、舌はうまく動かなかった。
教団の正しさも、帝国の覇道もどうでもいいと口にしたことがある。君の味方だと、何度も言った。あれは嘘ではなかったはずなのに、いま目の前にあるのは、届かなかったという事実だけだった。
守るために積み上げたはずのものが、彼の前ではただの屍の山でしかなかった。その頂に、自分は彼を座らせようとしていただけだったのかもしれない。
デアドラの風はぬるかった。石畳はまだ昼の熱を少しだけ残している。潮のにおいも、夕暮れの光も、たしかにそこにあるのに、どれも妙に遠い。目の前に立つ彼だけが、最後まで輪郭を失わない。
いったい何が正解だったのか。
ここまで築き上げてきたものは、何だったのか。
正しければ足りるのだと思ったこともあった。勝たせれば届くのだと思ったこともあった。
だが、どこまで盤面を整えても、どこまで綻びを消しても、彼の心だけはその外に残り続ける。
そう思った瞬間、自分の中で何かがそっと崩れた。苦しいというより、張り詰めていた糸が、音もなく切れてゆくような感覚に近かった。
もうこれ以上、何を探せばいいのかもわからない。何を積めば届くのかも、何を捨てればよかったのかも、何ひとつわからなかった。
クロードはもう何も言わなかった。必要な言葉は、さっきのひと言ですべて足りていたのだろう。あとはもう、その線の向こう側へ自分を置くだけでよかったのだ。
彼の目には、これ以上問いただす価値すら残っていないように見えた。
何かを失ったのだとは思った。けれど、それが何だったのかは、もうわからなかった。積み上げてきたものも、踏み越えてきたものも、ここまで削り落としてきたものも、名前のつかないまま足もとへ崩れてゆく。
ただひとつ、彼に拒まれたという事実だけが、冷たいまま胸の底に残った。
足はその場へ縫い留められたように動かなかった。追いすがる言葉も、その理由も、もう胸のどこにも残っていない。ただ、目の前の彼だけが最後まで輪郭を失わず、その距離だけがどうしても埋まらなかった。
海からの風が吹き、衣の裾を鳴らす。遠くの波頭が夕暮れの光を砕き、港のざわめきが薄れてゆく。
景色の輪郭が少しずつほどけ、石畳の色も、海の青も、彼のこげ茶の髪も、静かに遠のいてゆく。
自分は、見ていることしかできなかった。
そうして世界が静かに溶けてゆくのを、自分は立ち尽くしたまま見送った。
幕間Ⅱ
昼の食堂は、いつもより少しだけ騒がしかった。
生徒たちが思い思いに席を取り、皿の触れ合う音と笑い声が、石造りの広い空間に絶えず反響している。
小麦の香ばしいにおいと、濃い煮込みの湯気がゆるく混ざり、窓から差し込む陽の光が長机の上を明るく照らしていた。
クロードは、その賑わいの中にいた。
いつものように軽口を叩き、周囲の言葉を受けては笑い、誰かの肩を小突いてみせる。遠目には、輪の中心にいるようにすら見える。級長としてうまくやっていると、傍から見ればそう映るであろう振る舞い。
けれど、どういうわけか、目が離れなかった。
見ていると落ち着かない。理由はわからない。
自分は少し離れた席に腰を下ろしたまま、手もとの食事へほとんど意識を向けられずにいた。
向こうの机では、ローレンツが大仰な身振りで何かを語り、レオニーが面倒そうにそれを受け流している。イグナーツがそのやりとりを見て肩を揺らした。クロードもまた、その輪の中で笑っていた。
やがて、クロードが席を立った。
笑い声の輪から一歩、また一歩と外れ、食器の返却台のほうへ歩いてゆく。
その背を見たまま、自分は少し遅れて立ち上がった。
追う理由があるわけではない。ただ、そのまま見失うには、胸の奥へ残った引っかかりが妙に鋭かった。
返却台のそばで、クロードは空になった木皿を重ねていた。
自分が近づく気配に気づいたのか、彼は振り返る。いつものように、先に軽い笑みが浮かんだ。
「おっと、先生。まさか叱りに来たわけじゃないよな。俺、今日は何の悪さもしてないと思うんだが」
冗談めいた口ぶりだった。
食堂の喧騒の中でも、その声だけは妙にはっきり耳に残る。
「べつに、そういうわけじゃない」
そう返すと、クロードは肩の力を抜いて小さく笑った。
「ならよかった」
言葉はそこで切れた。
自分も、続けるべき言葉を持っていなかった。何かを言おうとしてここまで来たはずなのに、何を言えばいいのかがわからない。
さっきまで輪の中にいた彼が、こうしてひとりで立っていると、あの遠さの正体が少しだけ濃く見える気がした。
クロードはそんなこちらの沈黙を急かしもせず、皿を積み直しながら、ふと首をかしげる。
「どうしたんだよ。そんな顔して」
「……いや」
そこで言葉が詰まる。
無理をしているように見えた、と言うには、確かな根拠がなかった。ひとりでいるように見えた、と言うのも、何かを見抜いたつもりになるようで違う気がした。
自分にわかることなど、ほとんど何もない。単に、見ていると胸のあたりが落ち着かない。それだけだった。
「少し、疲れているように見えたから」
ようやく出た言葉は、そんな曖昧なものだった。
クロードは一瞬だけ目を瞬いた。
それから、すぐにいつもの調子へ戻る。
「はは、見抜かれたか。まあ、疲れてないと言えば嘘になるかな」
軽い言い方だったが、笑いながら流して終わりにはしなかった。
そのことが、なぜか少し意外だった。
「でもさ、先生がそういう顔するってことは、けっこうひどく見えてたってことだよな?」
「そういう顔、というのは」
「今みたいな顔。なんつーか、困ってる顔」
言われて、自分は少し黙った。
困っていたのかもしれない。彼のことをうまく捉えられないまま、それでも見過ごせない気がして、どう扱えばいいのか分からなかった。
クロードはそれ以上追及せず、皿の縁を指で軽く叩いた。
「まあ、気にしてくれたならありがたいよ。でも、そんな深刻な話じゃない。俺はこういうの、わりと慣れてるからさ」
その言い方は、やわらかいのに、どこか妙に耳へ残った。
慣れている。その言葉の中に、何が積もってそうなったのかまでは見えない。
「慣れているからといって、平気とは限らないだろう」
考えるより先に、そんな言葉が出た。
クロードは、ほんのわずかに目を見開く。食堂のざわめきが、急に遠くなったような気がした。
だが次の瞬間には、彼はまたいつもの笑みを浮かべていた。
「……先生って、そういうとこあるよな」
「そういうところ、とは」
先ほどと同じような問いをする。彼は肩をすくめて、でも律儀に口を開いた。
「人が流そうとしてるものを、変なとこで流してくれないところ」
責める口調ではなかった。
むしろ、困ったようで、それでいて少しだけ可笑しそうでもある。
自分には返す言葉がなかった。
ただ、目の前の彼が先ほどまでの輪の中にいたときより、今のほうがほんの少しだけ近く見える。それがよいことなのかどうかも、まだわからない。
やがてクロードは木皿を置き、壁へ軽く背を預けた。
「先生の気持ちはうれしいよ。ありがとな」
そのひと言は、先ほどまでの軽口よりもずっとまっすぐだった。
自分は何も言えず、小さくうなずいた。
それで会話は終わった。クロードもまた、それ以上は何も求めなかった。
彼はすぐに食堂の喧騒のほうへ戻っていった。
級友たちの輪へ近づくころには、またいつものように笑っていた。声をかけられれば応じ、軽く肩をすくめ、誰かの言葉に笑い返す。
その姿は前と何も変わらないように見える。それでも自分の目には、もう同じには映らなかった。
そして、そのことに気づいてしまった自分のほうが、どうにも落ち着かなかった。
夜更けの書庫は、昼間とはまるで別の場所のようだった。
小さな灯りが、机の上だけをぼんやりと照らしている。紙と乾いた革表紙のにおいが沈み、閉ざされた窓の向こうでは風が鳴っているはずなのに、その気配すらここまでは届いてこない。頁をめくる音だけが小さく響いていた。
足を踏み入れたとき、奥の机に人影があった。
クロードだった。
机の上には何冊もの書物が開かれ、横には雑に重ねられた紙片や、書き込みのある地図が散らばっている。
どれも授業のための本には見えなかった。さまざまな記録に混じって、見慣れない地名の載った古い文献まで引き出されている。
しかし、その中心にいる本人は、机へ突っ伏すようにして眠っていた。
片腕を枕がわりにし、もう片方の手には羽根筆を握ったまま、頬を紙の端へ押しつけている。起きていれば軽く人を煙に巻くような口も、今はわずかに開き、呼吸だけが静かに机の上へ落ちていた。
しばらく、そのまま立っていた。
ここへ来る前、遅い時間まで灯りがついているのが少し気になっただけだった。誰かがいるなら火を消すよう言うつもりで、足を向けただけだ。なのに、こうして目の前に机へ伏した姿を見ると、それだけでは済まない気がした。
机の上へ視線を落とす。
フォドラの歴史。外の地理。国境線。古い街道。閉ざされた土地を越えるための経路。断片だけを見ても、それが何のためかはわからない。わからないが、彼が熱心に眺めていたことだけはどうしてかわかった。
起きていれば、きっと何でもないことのように笑ってごまかすのだろう。けれど、眠りに落ちるまで机へしがみついていた痕だけは、取り繕いようがない。
机の脇へ寄り、しばらく迷ったあと、開きっぱなしの本を一冊だけそっと閉じた。紙が擦れる音に、クロードの睫毛がわずかに揺れる。だが、すぐには起きない。
起こすべきかとも思った。
だが、目の下へ薄く落ちた影を見れば、先に浮かぶのは別のことだった。
「……こんなところで寝ていると、身体を冷やすぞ」
言葉は、ほとんど独り言のような低さで落ちた。
するとクロードの肩がかすかに動き、伏せていた顔がゆっくり上がる。瞼の重たそうな目が、まだ半ば夢の中にいるようなままでこちらを見た。
「……ん、先生?」
掠れた声だった。
しばらく状況を量るように瞬きを繰り返し、それから、自分の頬に紙の跡がついていることにも気づかぬまま、気の抜けた笑みを浮かべる。
「はは……これはまた、ずいぶん恥ずかしいとこ見られたな。ちょっと前までの俺じゃあ、考えられない失態だ」
「寝ていたぞ」
「見ればわかるってやつだな」
そう言って、クロードは肩をすくめた。いつもの軽さだったが、その軽さが少し遅れて立ち上がるところに、起き抜けの鈍さが残っていた。
机の上へ散らばった本を見た。
「遅い時間まで、何を調べている」
問いは自然に出たが、声に詮索の色はあまり乗らなかった。
何を企てているのかを暴きたいわけではない。ただ、放っておいてよい顔には見えなかった。
クロードはその視線を受けて、一瞬だけ黙る。
机の上へ置かれた地図へ手を伸ばしかけて、結局触れないまま引っ込めた。
「ちょっと、ね。どうしても気になることがあって」
それだけ言って、口もとに曖昧な笑みを乗せる。
答えるつもりがないとわかる返しだった。けれど、その拒み方には棘がなかった。単に、まだここから先へは入れないと示しているだけのように見えた。
だからそれ以上は聞かずにおいた。
「なら、なおさら少しは休んだほうがいい」
クロードがわずかに目を瞬く。
「……怒らないんだな」
「怒る理由がない」
「いや、こう、教師として、いろいろあるだろ。夜更かししてる生徒に、説教のひとつやふたつぐらいさ」
「必要ならするが」
「必要ないって思われてるのも、それはそれで複雑なんだけどな」
軽口のかたちは崩さない。だが、その下で、言葉の向かう先を量っているのがわかった。
何を調べているのか、何を考えているのかではなく、まず体調を案じられたことが、少しだけ意外だったのだろう。
机の端へ寄せられた書物の山を見たまま言う。
「倒れたら、調べることもできないだろう」
その言葉に、クロードはしばらく何も返さなかった。
笑うでもなく、言い逃れをするでもなく、机の上の紙片へ目を落としたまま、わずかに息を吐く。
「……そういうこと言うんだな、先生は」
「おかしいだろうか」
「おかしいというか、」
そこで言葉を切って、クロードはようやく顔を上げた。眠気の残る目だったが、その奥には昼間より少しだけ素の色があった。
「ふつうは何を調べてるのか、聞くところじゃないのか」
「聞いてほしいのか」
「いや」
彼はすぐに首を振り、苦笑する。
「聞かれても困る。……けど、そうじゃなくて、先にそっちを言われるとは思わなかった」
「そっち、というのは、顔色が悪いことか」
「うは、容赦ないな」
クロードは肩を揺らして笑った。
その笑いは、昼間の輪の中で浮かべるものよりずっと小さく、どこか自分ひとりへ落とすような響きだった。
返す言葉に迷い、机の脇に置かれた消えかけの灯りを見た。芯は短く、もうしばらくすれば自然に火は弱るだろう。
「早く寝たほうがいい」
「そうしたいのは山々なんだけどさ」
「山々なら、そうしなさい」
「先生って案外強引だよな」
そう言いながらも、クロードはようやく羽根筆を脇へ置き、開きっぱなしだった本を閉じた。まだ頁のあいだから知りたいことが逃げてゆきそうな顔をしていたが、やがて手は止まる。
もう聞くべきことも言うべきこともない気がして、静かに踵を返した。
「先生」
背中に声が飛ぶ。
振り返ると、クロードは椅子へもたれたまま、薄く笑っていた。
「あんたのそうやって、聞かないまま困ってくれるところ、ずるいよな」
何をどう返せばいいのか分からず、少しだけ黙った。
自分は困っているのだろうか。彼の机の上に広がるものの意味はわからないままで、放っておくのは違う気がしたというだけで、ここへ立っている。
言われてみれば、困っているのかもしれない。
「……早く部屋に戻りなさい」
結局、そうとしか言えなかった。
クロードはまた小さく笑い、今度は素直にうなずいた。
「はいはい。わかったよ」
その返事がどこまで本気なのかはわからない。
それでも、さっきまで書庫の奥をひとりで満たしていた硬い気配は、ほんの少しだけやわらいで見えた。
そのまま書庫を出る。
扉が閉まる直前、ふと振り返ると、クロードはもう一度机の上へ目を落としていた。だが、先ほどのようにすぐ書物へ食らいつくのではなく、しばらくじっと灯りを見つめたまま動かなかった。
廊下へ出ると、夜の冷えた空気が肌へ触れる。
歩きながらも、あの机の上へ広がっていた地図や書物の断片が、頭のどこかへ残っていた。
高い天井から吊るされた燭台の火が揺れて、磨き上げられた床へ幾重もの光を落としている。
楽の音は絶えず流れ、人々の笑い声や衣擦れの音がその上をなめらかに滑っていった。生徒たちが輪を描いて動き、祝祭の熱がひとつところへ集まっている。
その賑わいの外れで、自分は壁際に立っていた。どうすればいいのかわからなくて、人の流れを遠く眺めている。光も音も多すぎて、立っているだけで少し疲れてしまう。
ふいに、正面から影が差す。
「やっぱりここにいたか」
見上げると、クロードが笑っていた。
いつもの軽さを、そのまま磨き上げたような顔をしている。だが、その目だけは、人混みの中で迷わずこちらを見つけた者のまっすぐさを帯びていた。
「こういう場まで壁際か。先生らしいって言えば、らしいけどさ」
「べつに、ここにいて困ることはないだろう」
「困るんだよ、俺が」
あまりにあっさりそう言われて、少しだけ黙った。
何が困るのか問い返す前に、クロードはひとつ息を笑いへ混ぜ、そのまま手を差し出してくる。
「せっかくだし、俺に付き合ってくれよ」
断る間もなかった。
迷ったのは、ほんのひと呼吸ぶんだけだったはずだ。そのわずかな間に、クロードの指先が当然のようにこちらの手を取っていた。
熱い、と思った。
人の手の温度など、今までいくらでも知っているはずなのに、驚いて引こうとしたが、その前に軽く引かれ、自分は広間の中央へ半ば強引に連れ出されていた。
「待て」
「待たない」
「自分はこういうものに向いていない」
「知ってる。だから、待ってやらない」
言いながら、クロードは歩みをゆるめない。
人の波の合間を縫って進み、楽の音が最もよく届く明るい場所で、ようやく足を止めた。
「ほら」
そう言って、まだ離していなかった手を少し持ち上げる。
その仕草があまりに自然で、まるで最初からそうするつもりでいたように見えた。
「……本気か」
「あんたをからかうためだけに、わざわざこんなところまで引っぱり出すと思うか?」
「君のことだから、思わないわけではない」
そう返すと、クロードは声を立てずに笑った。その笑い方が、普段の軽口より少しだけやわらかい。
「ひどいなあ。さすがの俺も傷つくぜ」
傷ついたようには見えなかった。むしろ、こちらが戸惑っているのを面白がっている気配すらある。それなのに、不思議と不快ではない。人目の多い場所へ無理やり引き出されたはずなのに、逃げたいとも思わなかった。
楽の調べが変わり、周囲がゆるやかに動きはじめる。
クロードはほんの少しだけ身を寄せ、声を落とした。
「難しく考えなくていいって。足を踏んだら、そのときはそのときだ」
「踏まれたくなければ、やめたほうがいい」
「先生がそういうこと言うときは、大抵大丈夫なんだよ」
妙な理屈だった。だが、その妙な言い切りに押されるようにして、結局、その場に留まった。
歩幅を合わせ、手の位置を探り、ぎこちなく一歩を出す。
華やかな場の中心にいるはずなのに、耳へ残るのは楽の音より、近いところで落ちるクロードの声のほうだった。
軽く笑いながら導くその口ぶりには、相手の不慣れを責めるところがない。むしろ、壁際に立っていた自分を当然のようにここへ連れてきた、そのことのほうが妙に胸へ残った。
「……どうして自分なんだ」
気づけば、そんなことを口にしていた。
クロードは一瞬だけ目を細める。
問いの意味を考えるような短い沈黙のあと、口もとに薄い笑みを浮かべた。
「どうして、ね」
灯の下で、その横顔はどこか落ち着いていて、彼は言葉を丁寧に選んでいるように見えた。
「あんたが俺たちの担任だったらなって、今でも思ってる」
まっすぐな言葉だったので、返す言葉を失った。
それを見て、クロードは少しだけ肩を揺らす。
「ははっ、困らせちまったか。悪かったよ」
そう言いながらも、その目は笑っているだけではなかった。冗談へ逃がし切らずに、なおこちらの心へ何かを置いてゆくような目だった。
「……でもさ、そうやって俺のことを考えて、困ってくれるあんたが、そばにいてくれたらとは思わずにいられないんだよ」
そのひと言だけで、広間の明るさが急に遠のいたような気がした。
手を取られている。その事実が、遅れてじわじわと胸の内へ広がってくる。
力を見込まれているのだろう、とは思った。
だがいまの言葉は、それだけではなかった。困ってくれること、考えてくれること、そのものを口にした。
戦う力の話ではなく、自分という人間のあり方を、そのまま差し出されているようで、どう受け取ればよいのかわからない。
しばらく黙り、それからようやく口を開いた。
「……買いかぶりだ」
「そうかな? 俺、人を見る目には割と自信があるんだぜ」
どこまでも軽い調子だった。なのに、その軽さの下にあるものだけが、やけに動かしがたかった。
音楽が終わりに近づき、人の輪がゆるやかにほどけてゆく。
手を放す瞬間、クロードの指先がほんのわずかに名残を残した気がしたのは、気のせいだったのかもしれない。
「付き合ってくれてありがとうな、先生」
「……無理やりだっただろう」
「最初だけな。でも、楽しかっただろ?」
そう言って笑う。
その笑みのなかに、ほんの少しだけ安堵のようなものが混じって見えた。
クロードはそのまま人の輪の中へ戻ってゆく。
誰かに呼ばれ、軽く手を挙げ、またいつものように明るい声で応じていた。
手のひらには、まだかすかな熱が残っている。人混みの中からひとりを選び、当然のように手を伸ばしてきた、そのことだけが妙に現実味を帯びて胸へ残った。
しばらく、広間の中央を見つめていた。
眩しい灯の下で、クロードはまた人に囲まれて笑っている。それなのに、その輪の中へいる彼の姿を、遠いものとしては見られなかった。
修道院を出る支度は、驚くほど静かに進んだ。
荷をまとめる音も、馬の支度をする気配も、どこか遠くの出来事のように聞こえる。石畳へ落ちる夕暮れの色は薄く、ついこのあいだまで毎日のように歩いていた回廊も、もう自分の知る場所ではないように見えた。
アンヴァルへ向かう。
その決断を下したはずなのに、胸の内は妙に白かった。
迷いがないわけではない。ただ、何かひとつを強く掴んで進んでいるというより、気づけばもうそこへ足を踏み出してしまっていた、というほうが近い。
修道院の門へ向かう途中、不意に足が止まった。
背後で、大広間の扉が開く音がしたからだ。
振り返る。
薄い夕光の差し込む石段の上に、クロードが立っていた。
ちょうど扉を抜けてきたところだったのだろう。こちらに気づくと、彼もまた歩みを止める。
ほんのわずかな距離が、やけに遠く感じられた。
声をかけるべきかと迷った。
だが、何を言えばいいのかがわからない。別れの言葉も、言い訳も、約束も、どれも今ここへ置くには薄すぎる気がした。
クロードも何も言わなかった。
まっすぐにこちらを見ていた。
そのまなざしには責める色はない。けれど、いつものように煙に巻く軽さもなかった。届くなら、とっくに手を伸ばしていたのだろうと思わせる、静かな諦めだけが底に沈んでいるように見えた。
どうしてそんな目をするのか、自分にはわからなかった。
食堂で笑っていた顔も、夜更けの書庫で灯りの下に伏していた横顔も、舞踏会の光の中で当然のように手を引いてきた温度も、目の前の沈黙とひとつに結びつかない。それなのに、言葉にできない何かが胸の奥へ小さく引っかかる。それだけだった。
言おうと思えば、何か言えたのかもしれない。
足を止めたまま、もう一歩だけそちらへ近づくこともできたのかもしれない。
だが、自分は動かなかった。
クロードもまた動かなかった。
風が吹き抜け、回廊の旗がかすかに鳴る。
夕暮れの光が石畳へ長い影を落とし、そのあいだを埋めるものは最後まで何もなかった。
やがて、自分は視線を外した。
もう一度前を向き、修道院の門へ向かって歩き出す。
背後から呼び止める声はない。振り返ろうとは思わなかったし、振り返ってはいけない気もした。
石畳を踏む靴音だけが乾いて響く。
ひとつ門をくぐれば、もう戻れないのだと、頭では理解していた。しかしその意味の重さまでは、まだどこか遠い。
ただ、さっき交わした視線だけが、妙に胸をざわつかせた。
胸の奥が、芯まで冷えきっていた。
呼吸はできる。寝台の硬さも、古びた木のにおいもわかる。薄暗い天井も見えている。
けれど、それらをひとつずつ確かめる気力がどこにもなかった。視界の奥には、まだあの目だけが残っている。冷たく、静かで、もうこちらへ何も求めていない目だった。何を積み上げても届かず、何を差し出しても遅く、最後には線を引かれた。それだけが、薄皮の下へ残った棘のように、じわじわと全身へ広がってゆく。
嘘だと叫ぶことすらできなかった。
喉が乾いていて、声にならない。身を起こす理由も見つからず、自分はゆっくり膝を抱えた。毛布の内側へ肩を丸め、額を膝へ押しつける。そうして狭くなった暗がりのほうが、まだ息がしやすかった。
そのまま、どれほど経ったのかもわからない。
朝日が世界を照らしているはずなのに、寝台の上だけがやけに薄暗い。
目を閉じても、閉じなくても同じだった。
どこへ行くかも、何を選ぶかも、考えようとすると胸の奥が固まる。何も決めたくなかった。何も見たくなかった。
そうしてじっとしていれば、そのうち身体のほうも静かに止まってくれるのではないかと、ぼんやり思った。
「おい、起きろ。仕事だぞ」
ふいに、低い声が部屋へ落ちた。
いつもと同じ声だった。ぶっきらぼうで、余計なものがなくて、だからこそ現実だった。
肩がわずかに揺れる。膝へ押しつけていた額を上げる気にはなれないまま、それでも耳だけがその声へ引かれた。まだここにいるのだと、そのひと言だけでわかってしまう。
寝台の脇に立つ気配。床板の軋む音。身じろぎしたときに鳴る革の音。そういうものが、遠くにあったはずの世界を少しだけこちらへ引き戻す。
返事はしなかった。できなかった。声を出せば、そのまま何かが崩れそうだった。
ジェラルトは、もう一度だけ同じような調子で言う。
「飯の前に出る。……早く支度しないと置いてくぞ」
突き放すでもなく、慰めるでもない言い方だった。いつもと変わらない。だから、かえって胸が鈍く痛んだ。
こんなふうにいつもどおり呼ばれるだけで、まだここに留まっていなければならないのだと理解してしまう。何も決められず、何もしたくなくても、とりあえず起きて、剣を持って、父の背を追わなければならない。
それだけが、かろうじてできることだった。
自分はゆっくり膝をほどいた。身体は重く、指先まで血が巡っていないようだった。寝台の端へ足を下ろすと、床の冷たさがじかに伝わる。その冷たさでようやく、まだ自分は生きているのだと思い知らされた。
顔を上げる。ジェラルトがこちらを見ていた。怪訝そうでもあり、何かを量りかねているようでもある目だった。けれど、問いただしはしない。問いただされたところで、自分にも答えられない。
ただ、その姿がとても近く思えた。
父の背中を見ていればいい。今日は、それでいい。
そう思ったのか、そう思い込もうとしたのか、自分でもよくわからない。盤面も未来も何もかも手放したあとの空っぽな手には、その背中だけが、まだ触れてよいものとして残っていた。
もし、あの朝に部屋の外からジェラルトの声が聞こえなかったなら、自分はそのまま寝台の上で息を潜め、何も選ばずに終わるほうへ沈んでいたのかもしれない。
でも実際には、朝は来た。仕事はあった。剣をとれと言われれば、指はまだ柄のかたちを覚えている。
身体を起こし、靴を履き、外へ出る。そのひとつひとつを、自分は考えずに済むものとして受け取った。考えようとすると胸の奥がすぐ硬くなる。だから、ジェラルトのあとについて動く。それだけでよかった。
だが同盟という言葉が耳に触れるたび、身体のどこかが先にこわばった。
依頼主の名を確かめる場でも、道中で噂を拾ったときでも、団員どうしの短いやりとりの中でも、その二文字が混じるだけで、瞬きすらできなくなる。
どうしてなのか、自分でもうまく言えなかった。そこへ目を向ければ、またあの冷えた目に行き着く気がした。拒まれたあとの静けさだけが、この身に深く残っている。
だから、王国の辺境へ向かうと聞いたとき、自分は何も言わなかった。反対も、確かめもしなかった。
行く先に彼がいないことに安心したのかといえば、そうでもなかった。
何も考えないままジェラルトの背を追っていても、不安だけは消えない。次にどこへ行くのか、今日はどこで止まるのか、明日の見張りは誰と組むのか、そういう細かいことを自分で決めようとすると、途端に足が止まる。どちらを選んでも、また何かを間違える気がした。
だから、ジェラルトが決めたことに従う。天幕を張る場所も、食事の時間も、歩く順も、全部そうだった。
それは傭兵団の長に従っているだけだと、自分では思っていた。そうしていれば間違えずに済むし、余計なことを考えなくていい。それだけのはずだった。
なのに、まわりの目は少しずつ変わっていった。何か言いたげにこちらを見て、結局、言葉にはしない視線が増える。その理由はわからなかった。ただ、自分が団の空気から少し浮いていることだけは、ぼんやり伝わってきた。
戦場へ出ても、見えるものは狭かった。
以前なら、どこが押され、どこを崩せば全体が動くかを先に見ていたはずなのに、今は違う。
目が追うのは、いつでもジェラルトの大きな背中だった。馬上で槍を振るう姿が土埃の向こうへ消えそうになると、それだけで息が浅くなる。だから離れない。なるべく近くにいる。
自分では、ジェラルトを守るためだと思っていた。実際、彼に向かう刃だけはよく見えた。左から来るのか、足もとから跳ね上がるのか、その程度なら身体が先に動く。剣で払う。受ける。落とす。それだけを、呼吸するように繰り返す。
それ以外のものは妙に遠かった。
味方がどこで押されているのかも、敵が何を狙っているのかも、前のように頭へ入ってこない。視界の端で誰かが倒れても、心が動かないわけではないのに、その先まで考えが伸びない。ジェラルトの姿がまだあるかどうか、それだけを何度も確かめてしまう。
戦いの中で一度、馬の影ごとその姿が土煙の向こうへ隠れただけで、足もとがぐらりと揺れた。何も起きていないのに、肺だけが強く縮んで、しばらく息の仕方を忘れたようになった。
そのあとで合流したとき、ジェラルトはいつもの調子で「何だ、その顔は」と言っただけだった。
それだけで、指先の震えが少しおさまる。自分でもおかしいと思った。けれど、どうしてそうなるのかは考えたくなかった。考えれば、また肺のあたりが硬くなる。
夜は、昼よりもたちが悪かった。
疲れているはずなのに、目を閉じるところまでがやけに遠い。寝台へ横になっても、背中の下の硬さばかりがはっきりして、意識がうまく沈まない。
ようやく眠れそうになったところで、悲鳴の残りや、血のにおいのようなものが喉の奥へ浮かび上がってきて、すぐ目が覚める。
何度かそういう夜が続くうち、ジェラルトの気配が手の届かない場所にあるというだけで、目を閉じられなくなってしまった。
自分でも、変なことをしている自覚はあった。
それでも、天幕の外でジェラルトの咳払いが聞こえるとか、火の番と短く言葉を交わす声がするとか、そういう小さな現実の音があるだけで、目を閉じやすくなるのもほんとうだった。
だから、用もないのに寝る前だけ火のそばへ残った。武具の手入れをするふりをして、夜が深くなるまで離れない。ジェラルトが「もう寝ろ」と言えば、ようやく腰を上げる。腰を上げたものの、足はすぐには天幕へ向かず、少しだけためらう。
ある夜、とうとう自分は口にした。
「ジェラルトにとって、自分は何だ」
言ったあとで、自分でも妙な問いだと思った。そんなこと、いまさら確かめるまでもないはずだった。なのに、言葉にしなければ輪郭がほどけてゆく気がした。
ジェラルトは焚火の向こうで、しばらく黙っていた。火の爆ぜる音だけがあいだを埋める。その沈黙が長く感じられて、胸の奥がまたじわじわと冷えてゆく。
やがて彼は、難しい顔つきのまま言った。
「……息子だろうが」
ぶっきらぼうな声だった。だが、変に飾らないその言い方が、かえって嘘のないものとしてすんなり受け入れられた。
息が、少しだけしやすくなる。
それだけでじゅうぶんだったはずなのに、次の夜も、またその次の夜も、似たようなことを確かめたくなった。
声に出すたび、まわりの団員が息を詰めるような気配がある。怪訝そうな目や、痛ましげな沈黙が自分へ向く。そのことには気づいていた。
けれど、なぜそんなふうに見られるのかまではわからない。ただ、口にして確かめないと、いまの自分がどこにいるのかわからなくなる。それだけだった。
昼はジェラルトの背を追い、夜はその声を聞いてからでないと目を閉じられない。
そんな日が続くうちに、他のことはますますどうでもよくなっていった。
誰がどこで勝とうと、どこが落ちようと、盤面がどう動こうと、もう考えない。考えればまた、何かを選ぶことになる。選べば、壊してしまう。そのおそろしさだけは、身体の奥にまだ残っていた。
手を伸ばせば届く位置。声をかければ振り向く距離。
それだけが、まだかたちを保った現実だった。他のものは皆、薄い膜の向こうへ押しやられている。
その中で、自分はその大きな背中を見失わないことだけに必死になっていた。
戦は、辺境だけで済む大きさではなくなっていった。
最初のうちは、王国の外れで起きる小競り合いに近かったものが、季節を跨ぐごとに少しずつ深くなってゆく。灼かれた村の噂が届き、街道を通る商人の数が減り、依頼の内容も目に見えて荒れていった。どこへ向かっても、土と血のにおいが薄く混じっている。
そういう変化を、前ならもっと早く嗅ぎとれていたはずだった。だが、いまの自分は、ただジェラルトの背を追って歩いているだけで、遠くの火の手まで見ようとはしなかった。
それでも、ジェラルトは見ていたのだろう。
団員たちの前では何も言わないまま、夜になるとひとりで火のそばに残ることが増えた。
報せを運んできた者の話を、前よりずっと長く聞いていることもあった。何かを量っている顔だった。辺境の戦が広がってゆくことだけではなく、自分のことも一緒に見ていたのだと思う。
以前のようにひとりで前へ出ようともしないこと、同盟の名を聞くだけで動揺を見せること、夜になると火のそばから離れたがらないこと。そういう小さな異変を、何も言わずにひとつずつ拾っていたのだろう。
ある夜、ジェラルトは火を見ながら、ぽつりと口を開いた。
「……教団が絡んでるかもしれねえな」
何のことか、すぐにはわからなかった。自分が黙っていると、彼は焚火の向こうから一度だけこちらを見る。
「お前の様子だ。前から気にはなっていたが、近ごろは輪をかけてひどい。何かが憑いてるみてえな顔をする」
その言葉に、ひび割れた唇がこわばる。否定しようと思えばできたはずだった。
口は開かなかった。何も言えないまま火を見ていると、ジェラルトはそれ以上問いただそうとはしなかった。短く息を吐いて、薪をひとつくべる。
「なおさら、教団の近くには寄りつかないようにしねえとな」
ぶっきらぼうな言い方だった。すべてを決めたあとの声だった。
それから間もなく、傭兵団は帝国軍へ身を寄せることになった。
教団と刃を交える側に下る。その判断に、団の中でも驚いた者はいたようだったが、ジェラルトが決めた以上、強く逆らう者はいない。
自分も何も言わなかった。教団から距離を取るためにそこへ行くのだと、そう聞かされれば従うしかなかった。
帝国軍の陣へ入ってからも、自分は相変わらずだった。命じられれば剣をとる。言われた場所へ行く。ジェラルトが前へ出れば、その背を追う。
以前のように戦の流れを読もうとはしないし、読むこともできなかった。どこが落ちるか、誰が何を望んでいるか、そういう大きなものへ目を向けると、息が苦しくなって、足が止まりそうになる。だから見ない。見ないまま、目の前まで来た刃だけを払う。
それで日々は過ぎていった。
やがて、帝国と同盟が盟約を結んだという報せが入る。周囲の兵たちは、戦がどう動くのか、これでどちらが優位に立つのか、そんな話をしていた。自分にはどれも遠かった。
ただ、その報せを聞いた瞬間にだけ、胸の奥でこわばっていたものがわずかにゆるむ。
これでしばらくは、彼と直接刃を交えずに済むのかもしれない。そう思ってしまった自分に、遅れて鈍い嫌悪が差した。
みじめなことだと思った。それでも、その安堵へすがるしかなかった。
夜、天幕の中で目を閉じる前に、ときどき彼のことを思い出した。
いまどこにいるのか。同盟の陣で、どんな顔をしているのか。こちらの知らない場所で、まだ生きているのか。
思い浮かぶ横顔は、いつも遠い。手を伸ばしても届かないところに、静かにある。
拒まれたあとの冷たさは消えていないのに、完全に忘れることはできなかった。遠ざけたつもりでいても、夜になるとその輪郭だけが浮かんでくる。
だからこそ、帝国軍に身を置いていることは、安らぎでもあり、息苦しくもあった。
顔を合わせずに済む。けれど、そのぶん遠くで何が起きているのかわからない。
知らなければ痛まずに済むはずなのに、知らされないことそのものが、胸の底を深く濁らせる。
自分は何も見ないと決めたはずだった。
何を選べばいいのかわからなくなったから、ジェラルトの背中の後ろへ隠れたはずだった。それなのに、彼のことだけは、見ないままではいられない。
そうして、自分でも名のつけられないままの痛みだけが、少しずつ胸の奥に溜まっていった。
それは自分がどうにかしなければという焦りとも違っていた。
もっと鈍く、もっと素朴な痛みだった。遠く離れたところで、彼の望まないかたちに何かが決まってゆく。そのことを、じっとして見過ごしていることができない。ただそれだけの、理屈にならない痛みだった。
その痛みが、自分の中でまだ死んでいないことだけは、どうしても否定できなかった。
やがて、戦の流れは別のかたちで傾きはじめた。
帝国軍にいる以上、同盟の動きはいつもひと呼吸遅れて届く。どの砦が持ちこたえられなかったのか、どの街道が脅かされているのか、どの将が退いたのか。
そうしたことが、乾いた紙片や、泥を浴びた伝令の口から順に落とされてゆく。前の自分なら、その断片を並べるだけで、次にどこが崩れるのかを読もうとしたはずだった。
いまは、地名も人名も、耳を通り抜けるだけだった。
同盟が滅びかけているわけではない。だが、もう自力では立ち続けられなくなりつつある。帝国の差し出す手をとらなければ、守れないものが増えすぎている。
それだけは、考えなくてもわかった。
表向きは救援。衰えた同盟を支えるための、やむを得ない手。しかしその手を一度取ってしまえば、もう以前のかたちへは戻れない。そういう呑み込まれ方だった。
顔を合わせずに済む。あの目を、もう見なくていい。遠くにいるままでいれば、いくらかましなのではないか。彼の矜持が傷つくとしても、少なくとも命だけは永らえるのではないか。そう思ってしまう自分がいた。
そう思っていたはずなのに、実際に胸を刺したのは、もっと別のことだった。
彼が遠い場所で、誇りを折って、帝国の庇護を受け入れさせられている。そのことを、自分は遅れて知らされる。拒まれる痛みを避けたかったはずなのに、こうして何もできないまま聞かされることのほうが、ずっと鋭く、ずっと深くこたえた。
考えるのをやめても、その苦しさだけは薄れない。目を背けても、自分の中で重いものがじわじわと居座り続ける。
それが何なのか、相変わらずうまく名づけることはできなかった。自分がどうにかしなければという焦りとも違っていた。もっと単純な痛みだった。
彼の手から、彼自身のやり方で守りたかったものが少しずつこぼれてゆく。そのことを、遠くの地で息を潜めたまま聞いているだけなのが、たまらなく苦しかった。
そうしているうちに、自分たちにも新しい出撃命令が下った。
大きな会戦ではなかった。補給路の確保と周辺の掃討を兼ねた、小さなぶつかり合いに近い戦だったはずだ。
名を残すような場所でもない。低い起伏のつづく荒れ地で、踏み荒らされた草のあいだから乾いた土が剥き出しになっている。花なんて咲かない。空は薄く曇っていた。陽はあるはずなのに光は弱く、人の顔も、馬の汗も、何もかも色が淡く見えた。
自分は、いつものようにジェラルトの近くへついた。
槍を振るう背中を見失わないように、その動きだけを追う。どこが本隊で、どこが薄いのか、敵が何を狙っているのか、そうしたことは意識の外へ押しやっていた。自分と、ジェラルトへ届きそうなものだけを落とす。今回もまた、それで足りるつもりでいた。
実際、戦のはじめのうちは、それで足りていた。
何度か小さな衝突をしのぎ、敵の押し返しも受け流した。自分は馬の脚もとへ潜り込んでくる兵を斬り、横合いから振り下ろされる刃を受け、ジェラルトの周囲だけを守るように動いていた。戦場全体は見ていない。けれど、近くにいる限り、どうにかなるように思えていた。
そのとき、ふいに遠くで鬨の声が上がった。
こちらのものなのか、別の場所が崩れた合図なのか、一瞬ではわからない。ただ、その響きだけが妙に耳へ引っかかって、思わず顔を上げた。ほんのわずかなことだった。
その一瞬でじゅうぶんだった。
横から入った刃が、脇腹を深く裂いた。
息が詰まる。熱いものが衣の下を走り、膝から力が抜けた。地面が急に近くなる。土のにおいが喉の奥へ入り込み、視界がぐらりと傾いた。
何が起きたのか考えるより先に、傷口からあふれる熱だけがはっきりしていた。
時間を戻す力はもう、残っていなかった。己に向けられたものを、受け入れるだけ。近ごろはソティスもほとんど口を開かなくなっていた。彼女もとうの昔に限界を迎えていたのかもしれない。
倒れかけた視界の端で、ジェラルトがこちらを振り返るのが見えた。馬上から何かを叫んでいる。槍を返して、こちらへ向かおうとしているのもわかった。けれど、その声は風にちぎれて、うまく耳へ届かない。
痛みより先に浮かんだのは、こんなところで、という思いだった。
名もない戦場で。彼とは何の関わりもない場所で。なのに、胸の奥にはあの鈍い苦しさだけが、まだ消えずに残っている。
彼がどうなったのか、確かめないまま終わるのかと思った。拒まれるのが怖くて遠ざかり、顔を伏せて、それでもなお自分の中に残り続けたものが何だったのか、結局掴めないまま終わるのかと、そんないまさらどうしようもないことが、重くのしかかった。
土へ手をつこうとしても、指先はうまく力を掴めない。 血のにおいが濃い。空は、まだ白く濁ったままだった。
自分は何も選ばなかった。何も見ないようにして、ジェラルトの背中の後ろへ隠れた。彼を遠ざけたはずなのに、この身に残った痛みだけは、どうしても消えてくれなかった。
じっとして、やり過ごすことなどできない。
その思いだけが、沈みかけた意識の底で、かすかにかたちを保っていた。
次の瞬間、足もとから世界が抜けた。荒れ地の土も、白い空も、馬上の大きな人影も、皆静かに遠のいてゆく。手を伸ばしても何にも触れられないまま、自分の意識はまた、冷たい暗がりのほうへ落ちていった。
赤灼の章
目を開けたとき、最初に胸へ残っていたのは、遠くから見ているだけだったことへの後悔だった。
寝台の硬さも、朝の薄い光も、古びた木のにおいも、変わらない。死んで、ここへ戻って来るたびに身体を引き裂かれる苦しささえ、いまでは珍しいものではない。
けれど今回は、その底へ別のものが沈んでいた。
遠くの地で息を潜め、彼のことを何ひとつ確かめないまま、遅れて報せだけを聞かされる。胸の奥にじわじわと居座っていた痛みが、寝台へ戻されても少しも消えていない。
目を閉じる。
何もしなければ、傷つかずに済むと思った。
遠くへ逃げて、見ないふりをして、父の背中の後ろへ隠れていれば、せめて拒まれる苦しさだけは薄れるはずだった。
それなのに、実際はそうではなかった。顔を合わせなくても、声を聞かなくても、彼の身に何かが起きると知るだけで胸は痛んだ。逃げても痛むのなら、それでは足りない。
では、どうするのか。また盤面を読み、先回りして、誰がどこで苦しむかまで決めるのか。
そこまで考えて、自分はゆっくり息を吐いた。
それも違う。あのやり方では、どれほどきれいに並べても、最後にはだめになる。すべてを先に整え、勝ち筋ごと差し出すようなやり方を、彼は望まなかったのではないか。
そう思った。でも、それが正しい答えなのかどうかまではわからない。
少なくとも、もう同じやり方へ戻る気にはなれなかったし、自分にそんな力はもう残されていなかった。
何もしないでいるのもだめだった。すべてを支配しようとするのもだめだった。
そのあいだに残っているものが、ひとつだけあった。
自分の足で前へ出ること。自分の剣で、届くところまで守ること。たとえ戦の流れそのものは変えられなくても、見ているだけで終わるよりはましだと、今はそう思うしかなかった。
決して、高尚な理屈ではなかった。
彼が何を求めているのか、そんなことはもうわからない。ただ、これ以上、彼が傷ついてゆくのを遠くから聞かされるのは嫌だった。
何もしないで、あとから胸を痛めるくらいなら、自分も血を流すほうがまだましだ。
ひどく身勝手で、ひどく狭い理由だった。だが、いまの自分に残っているものなど、それくらいしかなかった。
「おい、起きろ。仕事だぞ」
ジェラルトの声が落ちてくる。
その声に引かれるように、ようやく身を起こした。寝台の端へ足を下ろす。床は冷たい。指先にはまだ少し痺れが残っている。
昨日までと同じように、少し気を抜けばそのまま沈み込みそうな重さが、まだ身体のあちこちにこびりついていた。
だが、細い熱がある。指で触れれば消えそうなほど小さいのに、たしかに残っている熱だった。
顔を上げると、ジェラルトがこちらを見ていた。
いつもと同じようでいて、どこかが違う。背筋はまだまっすぐだし、立っている姿に大きな崩れはない。けれど、身支度の合間にほんのわずか手を止めることが増えた気がした。
歩き出す前の息の置き方も、以前より少しだけ重い。ほんの小さなことだ。前までの自分なら、その程度の変化は見てもいなかったのだろう。背中へしがみつくことばかりに必死で、その背中が少しずつ老いてゆくことまで、目に入っていなかった。
いまになって初めて、その翳りが視界へ入った。
胸が、ざわついた。
ジェラルトは何も言わず、先に部屋を出る。自分は剣をとり、そのあとを追った。以前のように、その背を見ていればそれでよかったわけではない。もう、それでは足りないのだとわかっている。わかってはいるが、いきなり何かを背負えるほど、心が戻ったわけでもなかった。
それでも、何もしないままではいられない。
そう思いながら見上げた朝の空は、うっすらと晴れていた。青いはずの色がまだ少し濁って見える。風は冷たい。村の土は朝露を含んでやわらかい。その感触を靴の裏で確かめながら、自分は黙って歩いた。
すぐに何かが変わるわけではない。次もまた、届かないのかもしれない。どうせ何も救えないのかもしれない。
そんなことが頭をよぎるたびに、見ているだけで終わるよりはましだと自分に言い聞かせた。
そうして自分は、盤面すべてを見渡す目を閉ざしたまま、ひとりの傭兵としてもう一度立ち上がることを選んだ。
王国での仕事は、失敗した。
守りきれなかったものがあり、とりこぼした命があり、その夜、焚火のそばで団員たちが交わす短い言葉の端々にも、負けの濁りが残っていた。誰かが声を荒らげるほどではない。だが、次も同じようにやれるのかと問われれば、誰も迷わずうなずける空気ではなかった。
その帰り道で、ジェラルトの様子が妙に目についた。
急に崩れたわけではない。ただ、馬から下りるときに一拍だけ間がある。槍を持ち直す手が、ほんのわずか遅れる。夜、武具を解いたあとで肩を回す回数が増える。そういう小さな影のようなものが、いまの自分にはやけにはっきり見えた。
ついこの前まで、見ようともしなかったものだ。ようやく外へ顔を向けた途端、それまで見落としていたものがいっせいに視界へ入ってきた。
だから、同盟領へ流れた自分たちへクロードが声をかけたときも、自分は前のように黙って立っているだけではいられなかった。
「ジェラルト傭兵団、だったな」
そう言ってこちらを見る目には、あからさまな拒絶も、手放しの信頼もない。腕の立つ傭兵を見極めようとする、探るような色がある。
その視線が肌に触れたとき、一瞬だけ息が詰まりそうになった。それでも、逃げ出したいとは思わなかった。もう遠くから聞かされるだけの場所へ戻る気にはなれなかったからだ。
ジェラルトはいつもの調子で条件を聞き、短く値を確かめ、仕事として引き受ける話を進めてゆく。声に崩れはない。
だが、横で聞いていると、ときどき息の置き方が深くなるのがわかった。細かな取り決めの段階になると、自然と自分のほうへ視線が来ることも増えた。
どの道をとるのか、どれだけ兵を預かるのか、どこまで前へ出るのか。
ほんの少し前までならジェラルトがひとりで決めていたはずのことを、いまは自分も引き取らなければならない。
望んだわけではなかった。
だからといって、黙って後ろへ隠れているわけにもいかなかった。ジェラルトはまだじゅうぶんに戦える。槍を振るう姿に衰えが出たといっても、すぐさま倒れるような弱さではない。
ただ、自分がいつまでもその背へ寄りかかったままでいれば、団を回すための細かな判断も、戦場での目配りも、すべてジェラルトひとりへ偏ってゆく。それを見てしまった以上、知らないふりはできなかった。
いくら自分が剣を振るえても、人を預かり、退く時機を読み、団を動かすだけの場数はまだ足りない。
団長代行を、と言われたとき、自分はすぐには返事をしなかった。できるとも思わなかったし、うまくやれる気もしなかった。自分には足りないことだらけだった。
足りないながらも、自分がやらなければならないのだと理解してしまったから、結局うなずいた。
ジェラルトが団の顔として立つなら、自分はその下で実際に剣を持ち、進むべきところへ兵を出し、退くべきところで退かせなければならない。そのくらいのことなら、まだどうにかできそうだった。
とはいえ、以前のように先を読み切って指示を出すことはしない。どこが綻びそうかを見ても、そこから二手、三手先を考えはしなかった。目の前で崩れそうなところへ兵を回し、退けられそうにないと見れば自分で入る。それだけだった。
戦のすべてを掴むことは、意識してやめた。見ればまた、余計な手を伸ばしたくなる。先回りをしたくなる。だから見ない。見ないまま、足もとで起きていることだけをどうにかする。
以前にもまして、自分の口数は少なくなった。
クロードは、こちらの口数の少なさを不審に思いはしても、それ自体を異様だとは受け取らなかったらしい。作戦を詰める場でも、自分は必要なことしか言わない。問われれば答えるが、自分から余計な口を挟むことはない。
彼はそんなこちらを、とっつきにくい傭兵として見ているようだった。
探るような目を向けてくることはあっても、その先に、彼に見られたくない過去の自分が立ち現れることはない。生来そういう気質なのだと認識し、そのうえで使える剣として置いている。そういう距離のとり方だった。
それでよかった。
戦の流れそのものを動かすためではなく、一傭兵として剣を振るう。それだけを自分は望んでいたし、彼もまた、それ以上を今の自分へ求めてはいなかった。
戦が始まれば、考えることはさらに少なくなる。
返り血と泥で足もとがぬかるむ中を、自分はひたすら前へ走った。
槍の穂先が迫れば懐へ潜り、剣が振り下ろされれば骨ごと断つ。息が上がっても止まらない。腕が痺れても剣を放さない。
目の前の敵を斬り、次の敵を斬り、そのあいだに味方が倒れかけていれば肩を貸すかわりに前へ押し返す。救うというより、進ませるための動きだった。いま必要なのは、誰かを無傷で守ることではなく、クロードが前へ出られるだけの道を残し続けることだったからだ。
何度か、振り返った先に彼の姿が見えた。
白い飛竜の背から戦場を見渡し、弓を引く横顔。短く兵へ指示を飛ばし、崩れかけた列へ自ら寄ってゆく気配。その姿がまだ前へ進んでいるとわかるだけで、自分はもう少しだけ剣を握れた。希望と呼べるほど立派なものではない。
ただ、彼がそこにいるのなら、まだ走れると思う。
たったそれだけの、なんともか細い支えだった。
そのかわり、傷は深くなっていった。
肩口を裂かれても包帯を巻くだけで次へ出た。脇腹へ入った傷が塞ぎきらないまま、乾いた血をこすり落としてまた鎧を着た。食事を口へ運んでも、途中で味がわからなくなる。
夜、寝台へ横になったときだけ、身体のあちこちが遅れて熱を持ちはじめ、ようやくどこを斬られたのか思い出す。それでも朝になれば立ち上がった。休んでいるあいだに何かがとりこぼされる気がして、じっとしていられなかった。
ジェラルトは、そんな自分を何度も止めようとした。少し休め。顔色が悪い。そこまでして前へ出る必要はない。
言われるたび、自分はうなずいた。うなずいて、その場では引く。けれど次の戦になれば、結局また前へ出ていた。言葉どおりに休めるほど、器用にはなれなかった。休めば、また何もしないで終わるほうへ傾きそうだったからだ。
シェズとぶつかったときも、以前とは違った。
勝つことには、もうそこまでこだわっていなかった。彼を倒せば何かが変わるとも思えなかった。自分が死なず、クロードも死なせないまま、この場を抜けられればそれでよかった。
双剣が迫り、火花が散り、肩へ浅く刃が入る。そのたび自分は剣を返し、押し返し、無理に踏み込まず、血を流しながら距離を保つ。
以前なら仕留めにいったはずの場面でも、今はそこまで手を伸ばさない。ただ生き残るために刃を交えているだけのような、奇妙な戦い方だった。
それでも、戦場ではじゅうぶんすぎるほど異様に見えたのだろう。
味方の兵は、自分が前へ出るだけで息をつき、立て直しの合図のように声を上げる。自分がまだ立っている、まだ戦える、そのことだけで持ちこたえる顔が増えてゆく。
誰かを導こうとしたわけではないのに、気づけばまた、高いところへ押し上げられていた。
見えない先を支配するようなものではない。だが、血まみれのまま立ち続けるその姿に、別の種類のよりどころを見てしまう者がいる。
それが、ひどく息苦しかった。
自分はただ、見ているだけでいることに耐えられなかっただけだ。何もしないで後悔するのが嫌で、前へ出ているだけだ。それなのに、その勝手な身の内が、また誰かにとっての支えのように見えてしまう。
その重さを振り払う余裕もないまま、自分は剣を振るい続けた。振るえば振るうほど、身体の内側が少しずつ擦り減ってゆくのがわかる。
そのやり方だけでは足りないことを、自分は初めから知っていた。
どれほど前へ出ても、どれほど多く斬っても、ひとりの腕で戦の結末を捻じ曲げることはできない。
押し寄せる兵の数も、削られてゆく士気も、剣ひと振りでどうにかできるものではない。それを知らないほど浅くはなかった。
自分は、知っていてなお止まれなかっただけだ。
戦が長引くにつれ、その現実は少しずつ目に見えるかたちになっていった。
最初は持ちこたえていた列が、ある日を境に戻らなくなる。
斬り払い、道を作り、立て直したはずの場所へ、次の波がすぐかぶさる。ひとつ綻びを塞いでも、別の端が裂ける。こちらが前へ出ているあいだに後ろで荷車が潰され、退いた兵をまとめ直しているうちに、今度は別働隊が横腹へ回り込んでくる。
戦場の土は踏み固められるより先に血でぬかるみ、靴裏へ重く絡みついた。
自分は相変わらず最前へ出た。
目の前の敵を斬る。道をこじ開ける。押し戻された味方の肩を掴んで前へ向ける。そうしているあいだだけは、余計なことを考えずに済む。
けれど、何度同じことを繰り返しても、戦は戦だった。自分がひとところで兵を薙ぎ払っているあいだにも、少し離れた場所では別の誰かが斃れてゆく。その数が、日ごとに目につくようになっていった。
クロードの声は、まだ前から聞こえていた。
短く、鋭く、兵を動かす声だった。飛竜の影が頭上をよぎり、弓の弦が鳴る。そのたび、自分はそちらへ道を繋ぐように剣を振るった。彼が進めるなら、それでいい。いまはそこまでのあいだを埋めればいい。そう思って走る。
だが、進めた先に次の壁があり、その向こうにさらに次の壁がある。斬っても斬っても尽きない昏い流れが、じわじわと同盟軍の足もとを浸してゆく。
途中から、自分でも呼吸の音が変わったのがわかった。
浅い。速い。吸っているはずなのに、胸の奥まで入ってこない。
立ち止まれなかった。足を止めれば、そのぶんだけ誰かが遅れる。誰かが遅れれば、次はクロードの足もとへ刃が届く。そう思うと、もう身体の具合を気にする余裕はなかった。
傷口は増え、乾ききらない血が衣の内側でまた開く。剣を握る手が何度も痺れ、指の感覚が鈍ってゆく。それでも柄を放さなかった。
ジェラルトは何度か、自分の前へ馬を割り込ませた。
「下がれ」
短い怒声だった。こちらを叱るというより、命令に近い声音だった。自分はうなずきかけて、結局、馬の脇をすり抜けてまた前へ出る。
だって、止まるわけにはいかない。ジェラルトの目が厳しく、細くなるのが見えたが、その視線さえ振り切るように、次の敵へ剣を振り下ろした。
そういう無理が、いつまでも続くはずがなかった。
ある日の戦で、ついに列が大きく崩れた。押し返したはずの右翼が耐え切れず、退く兵の流れに巻き込まれて中央まで歪む。
声が重なり、土煙の向こうで旗が倒れた。クロードの飛竜が低く返るのが見える。自分はそこへ届こうとして走ったはずだったのに、あと数歩のところで膝が抜けた。
何かにぶつかったわけではなかった。ただ、身体のほうが先に限界へ触れていた。
喉の奥から熱いものがこみ上げ、地へ吐き散らしたそれが赤いとわかったとき、ようやく自分は立ち止まった。
血の味が濃い。視界の端が暗く欠け、耳の奥でざあっと遠い音が鳴っている。剣を支えにしようとしても、腕が思ったほど上がらない。膝が震える。立て直そうと力を入れるたび、脇腹から背へかけて灼けるような痛みが走った。
それでも、顔だけは前を向こうとした。
飛竜の白が見える。まだ彼は立っている。ならば自分も行かなければならない。
そう思うのに、足が言うことをきかない。泥に沈んだように重く、前へ出るどころか、その場で踏みしめることすら難しい。視界の中で、味方が次々と押し込まれてゆく。
自分が届かなかった場所から順に、戦のかたちが崩れてゆく。その光景を、今度はただ見せつけられる。
こんなはずではなかった、とは思わなかった。
こうなることを、知っていたからだ。
人の力だけでは足りない。盤面ごと動かさなければ、この流れは止まらない。それなのに自分は、それを捨てて前へ出た。
では、いったい何のために。
問いが胸の底へ落ちた瞬間、残っていた力まで抜けていった。剣先が土を削る。自分がどれほど執着して前へ出ても、どれほど血を流しても、それだけでは届かない。
そんな当たり前のことを、いまさら思い知らされている。
見ているだけでは耐えられなかったから、自分の足で彼のそばへ行こうとした。だが近づいて、血を吐くほど足掻いても、結局は何ひとつ変えられない。
そのことが、静かに腹に落ちた。
戦場ではまだ声が飛び交っている。鉄のぶつかる音も、馬のいななきも聞こえている。けれど、自分の中だけが少しずつ冷えてゆく。
最後まで、目だけは彼のいる方角を探していた。届かないとわかっていても、そこから逸らすことはできなかった。
戦は結局、押し返し切れなかった。
自分が前へ出て斬り払い、いくつもの綻びをその場しのぎで塞いでも、崩れてゆく流れそのものは止まらない。
倒れた味方を起こし、退路をこじ開け、なお立ち続けても、その向こうからまた別の重みがのしかかってくる。戦場の果てで上がる土煙も、折れてゆく旗も、もう見慣れたはずなのに、その日はやけに遠く、やけに容赦がなかった。
自分は膝をついたまま、しばらく立ち上がれなかった。
喉の奥へせり上がってくる血を吐き捨てても、呼吸は少しも楽にならない。脇腹の傷は熱を持ち、握った剣は土に半ば埋もれている。耳の奥で鳴りやまない響きの向こうを、敗走の合図が鋭く貫いていった。撤退だった。
こちらが押し返したのではなく、これ以上失わないために退くしかなかった。その事実が、なおさら傷を深くした。
視界の端を、白い影が横切った。
クロードの飛竜だった。低く旋回して、崩れかけた列の上を抜けてゆく。
彼はまだ前を見ていた。声を枯らしながら兵を退かせ、追撃の薄い場所を探り、最後まで陣形を保とうとしている。その横顔には焦りもあっただろうに、少なくとも、自分を責める色だけはなかった。
やがて退いたあとの陣で、彼はようやくこちらへ来た。
土と血に汚れたまま、自分を見下ろして、まず口にしたのは叱責だった。
「……無茶がすぎるだろ」
低い声だった。だが、その底にあったのは、呆れよりも怒りよりも、もっと生々しい苦さに近かった。
「どこまで突っ込めば気が済むんだ。自分の命を粗末に扱うな」
返す言葉が見つからない。謝るべきなのか、否定するべきなのか、それすらわからなかった。
同じようなことをかつても言われた気がする、とだけ感じた。色褪せた、遠い昔のことが頭の隅をよぎった。
自分は顔を上げられず、血のにじむ指先だけを見た。あれだけ前へ出て、結局、戦そのものは支えきれなかった。守りたかったものも、勝たせたかった未来も、まだ手の届かないところにある。その事実だけが重い。
クロードは、短く息を吐いてから、それ以上は責めなかった。
「……でも、あんたがいたから撤退で済んだ」
そのひと言のほうが、よほどこたえた。
拒まれはしない。切り捨てられもしない。むしろ、自分のしたことをそのまま受け取り、認めようとしている。その温度が、かえって胸の奥をえぐった。
否定されるのなら、まだ諦めようもあったのに。否定されないまま足りなさだけを突きつけられると、どこへ自分というものを置けばいいのか、わからなくなる。
クロードは続けた。
「あんたひとりの力で、あの戦局をどうにかできるわけないだろ。だから、そんな顔するな」
そんな顔、と言われて、自分はようやく、自分がどんな顔をしていたのかを少しだけ知った。
勝てなかった悔しさでも、傷の痛みでもない。もっと底のほうにある、言い逃れのできない無力さに打ちのめされた顔だったのだろう。
ひとりでどうにかできるわけがない。そんなことは、最初から知っていた。
たかがひとりの剣で大局は変えられない。盤面をいじらずにいるのなら、なおさらだ。知っていて、それでも前へ出た。見ているだけでいるよりはましだと、自分の血で道をこじ開けるしかないと思った。
けれど、そうして近づいて、息が切れるまで剣を振るい続けても、結局は彼の夢のすべてを支えきることなどできなかった。
盤面を支配すれば、彼の心へは届かない。ただの人間に戻れば、今度は力が足りない。
そのあまりに単純なことが、戦の終わったあとの静けさの中で、ようやく骨の髄まで沁みてゆく。
どちらを選んでもだめなのなら、自分は何であればよかったのか。何を差し出せばよかったのか。答えはどこにもなかった。
クロードは、そんな自分の沈黙を別の意味にとったのかもしれない。少しだけ眉を寄せて、声を荒げずに言う。
「次がある。今回の負けで、全部終わるわけじゃない」
次がある。
その言葉は、慰めにも、鼓舞にも聞こえた。実際、彼はそういうつもりで言ったのだろう。
戦の流れの中で負けを呑み、次へつなげるための、ごくまともな言葉だった。
それなのに、自分の胸にはうまく入ってこなかった。次があると聞かされても、自分にはもう、その次に何を積めば届くのかがわからない。盤面を捨ててもだめで、盤面を握ってもだめだった。
その先にまだ道があるのだとしても、いまの自分には、そのかたちが少しも見えなかった。
ジェラルトが遅れてそばへ来る。大きな手が肩へ触れ、立てるかと短く問う。その声にも責める色はない。心配だけがある。それさえも痛かった。
誰も自分を化け物とは言わない。誰もここで切り捨てない。それなのに、自分の中では、何かが軋んでゆく。
同盟軍は敗れ、退き、クロードはまだ前を向こうとしている。ジェラルトもまた、自分を立たせようとしている。みながまだ次を見ている中で、自分だけが、その次へ踏み出す力を失ってゆくのがわかった。
自分には、どんなやり方を選んでも彼を救えないのではないか。
その思いは、悲鳴のようには来なかった。もっと静かで、もっと重かった。濡れた布が少しずつ顔へかぶさってくるように、じわじわと息を奪ってゆく。抗おうとしても、もう足掻くための力そのものが薄い。
遠くで、退いた兵たちが陣を立て直している。傷んだ旗が風に鳴り、馬の荒い息が夜気へ溶けてゆく。
空はもう暗くなりはじめていた。戦は終わっていない。けれど、自分の中では、そのときたしかに、何かが最後まで折れた音がした。
世界が次に落ちるまで、そう時間はかからなかった。
前の反復で、同盟軍が敗れたあと、クロードは不思議なほど沈み込んではいなかった。
そのことが、胸のどこかに棘のように残っていた。なぜあれほど追い詰められてなお、あの目は死ななかったのか。何を見て、何を諦めずに立っていたのか。
ほんとうは、確かめたいのだと思う。なのに、そのために彼の前へ立つことだけは、どうしてもできなかった。もしそこでまた、あの冷たい線を引かれたなら、今度こそ立ち直れない気がした。
だから自分は、同盟領へ近づかない道を選んだ。
逃げだとわかっていた。わかっていて、なお、そちらへ足を向けた。ジェラルトとともに、彼とは無関係な土地を渡り歩く。知らない街、知らない依頼、名も残らない小さな戦。そこには彼の旗も、彼の声も、彼を思い出させるものもないはずだった。
それなのに、景色は少しもやわらがなかった。
朝の空は薄く晴れていても、どこか色が淡い。焚火のそばで煮える汁のにおいも、土を踏む靴音も、みな見えない何かを隔てた向こうにあるようだった。
戦場で剣を振るえば身体はきちんと動く。敵が来れば斬るし、傷を負えば血も出る。だが、そのひとつひとつが、自分の中へ深く沈んではこない。日が過ぎるから、そのぶんだけ身体を動かしているような、ひどく空虚な感覚だけが残った。
特定の陣営の名に過剰に反応することもなくなった。どこかへ向かいたいとも、向かいたくないとも言わない。ただ、言われた依頼を受け、言われた場所で剣を振るうだけになった。
それで落ち着いたわけではないことは、父にも伝わっているのだろう。ときどき向けられる視線には、安堵よりも、もっと重い気遣いが混じっていた。
自分でも、前よりましになったとは思えなかった。
己の無力さとみじめさに打ちのめされたくなくて、遠ざかったはずなのに、心には何かがずっと湿ったまま残っている。
痛いと呼ぶには鈍く、安心と呼ぶには冷たすぎるものだった。たぶんそれは、まだ何ひとつ終わっていないと、身体のどこかが知っているせいなのだろう。
遠ざかったはずの景色は、思っていたほど自分を赦してはくれなかった。
同盟の旗も、彼の名も聞こえない土地を選んで歩いているのに、心が静まることはない。盤面を読まなくていい。先を見通そうとしなくていい。どこで誰が死ぬのかを、あらかじめ背負い込まなくていい。そのはずだった。
けれど、そうして切り捨てたものの跡は、消えるどころか、かえって自分の中でじわじわと広がっていった。
日々は淡々と過ぎた。
街道を渡り、名も知らない村に泊まり、頼まれたまま剣を振るう。賊を払うこともあれば、小競り合いに雇われることもある。相手が誰で、どちらの理が正しいのかなど、もう考えなかった。目の前へ出てきた敵を斬り、血がつけば拭い、夜が来れば眠るふりをする。ただそれだけのことを、繰り返していた。
戦の最中も、自分の身体はまだきちんと動いた。
敵が踏み込んでくれば剣を合わせ、死角から刃が伸びれば半歩ずれてかわす。
そういうことは、考えなくてもできる。長く染みついた傭兵の癖が、身体の奥でまだ生きているのだろう。
だが、その動きにはもう熱がなかった。以前のように誰かを生かそうとも、戦の流れを少しでもよいほうへ寄せようとも思わない。
ジェラルトは、そんな自分を何も言わずに見ていた。
あからさまにそばへすがりつくことはもうない。行き先を決めるときに強く反発することもなければ、同盟の名に怯えて顔をこわばらせることもない。
心が波立つことはない。でも実際には、落ち着いたのではなく、深いところから熱が抜けてしまっただけだった。何かを恐れてとり乱す力さえ、少しずつ薄れていった。
だからこそ、ジェラルトの視線は前より静かで、前より重く感じた。父親だからこそわかる何かがあるのかもしれないと感じた。
焚火の向こうから、何か言いたげにこちらを見ることがある。食事の椀を差し出す手つきが、以前よりわずかに丁寧になることもある。朝、馬へ乗る前に一拍だけこちらの顔を確かめるような間が置かれることもあった。問いただしはしない。励ましもしない。見守るというにはあまりに苦く、放っておくにはあまりに近いまなざしが、ずっとそこにあった。
自分はそれに気づいていた。気づいていて、何も返せなかった。
何かがずっと噛み合わないまま、身体の中で静かに擦れている。その違和を、うまく言葉へ起こせないだけだった。
夜になると、その擦れる音は少しだけはっきりした。
天幕の中へ横になり、目を閉じる。寝台の硬さや、外で揺れる火の気配、遠くの見張りの声。そういう小さな現実はたしかにあるのに、どれも輪郭がぼやけている。
眠れないわけではない。ただ、眠りへ落ちる直前になると、胸の底へ冷たいものが溜まりはじめる。
何かを忘れている気がする。何か大事なものを、わざと見ないようにしている気がする。なのに、それが何なのか確かめようとすると、途端に息が重くなる。だから考えない。考えないまま、夜が過ぎるのを待つ。
朝になれば、また剣をとる。
川べりの湿った風も、山あいの白い霧も、土の上で乾いてゆく血の色も、どれも同じようにぼやけて見えた。
ひとつひとつの景色は違うはずなのに、心の中ではみな平らに均されて、ただの記憶として残る。
クロードのいる場所から離れれば、もう少し違うものが見えるのかと思っていた。けれど実際には、離れたぶんだけ世界全体が冷えただけだった。
それでも、自分はそこに留まりつづけた。
何もできないぐらいなら、いっそ関わらないほうがいい。そう決めたのは自分だったし、その決断が間違いだと認める気力もまだなかった。
たとえこの静けさが安らぎではなく、熱の抜けた抜け殻のようなものだとしても、あの瞳に拒まれるよりはましなのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
そうして名もない戦場をいくつも渡るうちに、時間だけが少しずつ積もっていった。
何も変わらないようでいて、不安だけは、見えない水脈のようにゆっくりと広がってゆく。誰にも知られず、誰にも触れられないまま、濁りを増してゆく。その感触だけは確かだった。
その報せは、何でもない顔で届いた。
昼を少し回ったころだった。天幕の外では、乾いた風が天幕のあわいを細く鳴らし、鍋の中で煮えているもののにおいが土のにおいと混じって流れてくる。
見張りを終えた団員が馬の水を替え、遠くでは誰かが剣の刃こぼれを確かめていた。どこにでもある、かわり映えのしない昼だった。
その中へ、伝令がひとり入ってくる。
泥の乾いた裾。疲れのにじんだ顔。手にした文は折り目のところが黒ずんでいて、何人もの手を渡ってきたのだとわかる。
大きな報せというものは、たいていそういう顔をしてやって来る。自分は火のそばで剣の手入れをしていたが、その気配だけで指先がわずかに冷えた。何の報せかもまだわからないのに、先に身体のほうが構えていた。
ジェラルトが文を受け取り、静かに開く。読み進めるうち、その眉がほんの少しだけ寄った。それを見た瞬間、胸の底に沈んでいた不安が、音もなく深いところへ落ちてゆく。
「……同盟がやられたそうだ」
必要なことだけを落とすような言い方だった。
王国と教団の連合軍に押され、ついに支えきれなかったこと。帝国と盟約を結んでいたはずの同盟が、その援けも間に合わぬまま敗れたこと。退く道中で、盟主が深手を負い、その傷が元で死んだということ。
そこまで聞いて、自分の手が止まった。
刃へ当てていた布が、その場でぴたりと動かなくなる。何か言わなければならない気がした。聞き返すべきなのかもしれなかった。けれど、口の中が乾いていて、声のかたちを思い出せない。
盟約があるから、すぐにどうこうとはならないのではないか。少なくとも、命だけは繋がるのではないか。そんなふうに、どこかで勝手に思っていた。
その思い込みが、遅れて自分の頬を殴りつけた。
甘かったのだと、すぐにわかった。逃げたくせに、安全なところだけは都合よく信じていた。
関わらなければ傷つかずに済むと思いながら、その実、彼の生はどこかで続いてくれるものと決めてかかっていた。
そのことが、たまらなく醜かった。
息を吸おうとしても、胸で何かがつかえて、うまく入ってこない。まだ風が鳴っている。鍋の湯気も立っている。誰かの笑い声まで、遠くでかすかに聞こえた。世界は何ひとつ止まっていないのに、自分の中だけが深いところから冷えてゆく。
彼が死んだのなら、もうすぐ終わるはずだった。
土の色も、火のにおいも、ジェラルトの声も、みな薄れて、あの冷たい暗がりへ引き戻されるはずだった。そうなれば、少なくとも自分は知ることができる。ああ、ここで終わったのだと、たとえ遅すぎても、そこだけはわかるはずだった。
まだ、終わらない。
風はまだ天幕を鳴らしている。鍋の湯気がにおいを運んでいる。誰かの足音が、すぐ外を通ってゆく。
終わるはずだった世界が終わらない。そのことが、報せそのものよりもなお深く心をえぐった。
死んでいないのか。まだ、どこかで息をしているのか。それとも、自分は彼の最期すら知らされない場所へ逃げてしまったのか。
どちらであっても、あまりに遅かった。
拒まれるのが怖かった。みじめな自分を受け入れられるのがつらかった。だから逃げた。
あの瞳で見られるくらいなら、遠くにいたほうがましだと思った。けれど、ほんとうに耐えられなかったのは、こちらだった。
冷たい目で見られることよりも、突き放されることよりも、無力な自分を肯定されるよりも。手の届かない場所で、何も知らないまま彼を失うかもしれないことのほうが、ずっと痛かった。
理解されない苦しみをひとり背負っていても、化け物と蔑まれても、その場にいられたほうがよかった。
だって、少なくとも、自分はそこに立っていただろう。
なのに自分は、それすら捨てた。
遠ざかり、見ないふりをし、知らない土地で剣を振って、自分に都合のよい思い込みに身をゆだねていた。
そのあいだに彼は死んだのかもしれない。あるいは、まだどこかで生きて苦しんでいるのかもしれない。どちらにしても、自分には確かめる術すらない。そのことが、冷たい水のように胸に染みてゆく。
目の前の景色が、急に薄くなる。火の色も、土の色も、ジェラルトの顔も、みな遠のいた。耳鳴りではないのに、音の輪郭がぼやけてゆく。誰かが何か言っている。たぶんジェラルトだ。その声は水の底から響くようにのろく、意味まで届かなかった。
自分は何も言えないまま、そこに座っていた。
彼がどうなったのか、もうわからない。わからないまま、ここにいる。それが、たまらなく苦しかった。
近づいてもだめだった。逃げてもだめだった。ならば、自分は何をしていたのだろう。
ようやく、その答えだけが胸の底から浮いてくる。
彼のために泥をすすり、彼の近くで血を流しているあいだだけは、自分の心もまた、かろうじて地につながっていたのだ。
拒まれる怖さも、無力さも、痛みもあった。けれど、少なくともその場所では、自分が何を失いたくないのかだけは、はっきりしていた。
いまは、その熱さえもうない。
その報せを聞いたあとも、日々は止まらなかった。
依頼は来る。馬は走る。朝になれば火が落とされ、夕になればまた焚かれる。団員たちは食事をとり、武具を手入れし、次の行き先を確かめる。
どれも昨日と同じようでいて、もう何ひとつ同じには見えなかった。世界のかたちは変わっていないはずなのに、そこへ立っている自分のほうが、どこか決定的に削り落とされてしまったようだった。
ジェラルトは、何も聞かなかった。
あの日の報せを受けてから、自分がさらに口を閉ざしたことにも、剣を握る手つきまで前より静かになったことにも、きっと気づいていたはずだった。
それでも問いたださない。
ただ、食事の椀を黙って寄越し、出立の前には馬具の締め方をひとつ確かめ、戦場ではときおり後ろを振り返る。その気遣いがありがたかったのか、苦しかったのか、自分でもわからなかった。どちらにせよ、もう何かを返せるだけの言葉は残っていなかった。
剣はまだ振れた。
敵が来れば斬ることはできる。足も動く。刃の重さも、血のぬめりも、身体は忘れていない。
だが、その先がなかった。誰を守るために立つのか、何を繋ぐために斬るのか。そういうものがすっかり抜け落ちていた。
襲いかかってくるものへ刃を返し、終われば血を拭う。それだけだった。以前は、どれほど擦り切れていても、胸のどこかに小さな熱が残っていた。
遠くからでも、近くでも、彼のために足掻いているあいだだけは、自分の心もまた、温度を保つことができていたのだと、今になってようやくわかった。
気づいたところで、もう遅かった。空を見上げても、地平を見つめても、答えはない。
そう思うと、剣を握る理由まで一緒に失われていった。
そのあとの戦は、名も残らない小さなものだった。
雨のあとで地面はゆるみ、踏み荒らされた草が泥へ沈んでいる。空は低く曇っていた。敵の数も多くはなかったし、以前の自分なら、どうということもない場だった。
実際、戦そのものは単純だった。正面からぶつかり、押し返し、崩れたほうが退く。それだけの、どこにでもある戦だった。
自分は前へ出た。
出たというより、いつものように足が動いた。
だが、そこには何の意思もなかった。剣を構え、迫る刃を受け、返す。
その繰り返しの中で、ふいにすべてがどうでもよくなった。
ここで生き残って、その先に何があるのか。次の戦場へ行って、そのまた次の朝を迎えて、その先に何を見ればいいのか。彼のいない場所で剣を振るうことに、もう意味を見出せなかった。
敵のひとりが踏み込んでくる。刃が浅く腕を裂く。いつもなら一歩ずれてかわし、剣を返すところだった。
その一歩が出なかった。
出せなかったのか、出さなかったのか、自分でもわからない。目の前へ迫る銀の光を見ながら、心がまるで動かなかった。怖くもなかった。痛みが来るのだろうとは思った。でも、それだけだった。
次の刃が、深く入る。
肉を裂く感触と、遅れてやってくる熱。膝から力が抜け、ぬかるみへ沈みかけた視界の向こうで、誰かが叫んでいる。たぶんジェラルトだった。
けれど、その声ももう遠い。雨を含んだ土の冷たさが頬へ触れ、薄暗い空だけがゆっくり揺れて見える。
ああ、とそのとき初めて思った。
自分は結局、彼のために苦しんでいたあいだだけ、まだ生きていられたのだ。拒まれることも、届かないことも、無力であることも苦しかった。
それでも、その苦しさの中にだけは、自分を奮い立たせるものがあった。それを失ってしまったいま、もう、自分をこの地へ引き留めるものはない。
泥のにおいが、濃い。血は、温かい。空は、どこまでも低い。
視界の端で、ジェラルトの姿が揺れる。こちらへ駆け寄ろうとしているとわかったのに、もう手を伸ばす気にもなれなかった。伸ばしたところで、いまさら何かが戻るわけでもない。
強い後悔だけが、最後に胸へ残った。
逃げなければよかった。たとえ拒まれても、化け物と蔑まれても、傷だらけになっても、彼が死ぬその瞬間までそばにいればよかった。
届かなくても、せめて同じ土の上で、同じ血のにおいの中に立っていればよかった。
その悔いを抱いたまま、自分の意識はゆっくりと沈んでいった。
泥の色が薄れ、曇った空が白く飛ぶ。風の冷たさも、傷の熱も、ひとつずつほどけて消えてゆく。そうして最後に残ったのは、どこまでも手遅れだったという事実だけだった。
次の瞬間、世界はまた静かに巻き戻った。
朝の光は、何事もなかったようにやわらかかった。
冷えた寝台の硬さも、古びた木のにおいも、耳の奥に残る静けさも、いつもどおりだった。
けれど、自分の胸の底にだけは、まだ乾かないものが沈んでいる。遠くへ逃げたこと。見ないふりをしたこと。彼のいる場所から離れ、何も知らない土地で剣を振るって、そのあいだに彼を失ったかもしれないこと。
死んだと聞かされても世界は終わらず、確かめることもできないまま置き去りにされた、あのどうしようもない後悔だけが、朝になっても少しも薄れなかった。
目を閉じても、身体は重いままだった。
拒まれるのが怖い。その思いは、やはり消えていない。彼の前に立ち、あの目で見られることを思うだけで、喉の奥が細くなる。
だからといって遠ざかってしまえば、それはそれで耐えられないところまで来てしまった。離れても苦しい。近づいて、足掻いても足りない。
それでも、遠い場所で何も知らされないまま胸をえぐられるよりは、まだそばで泥をすすっているほうがましだった。
その思いだけが、どうにか自分を起こした。
王国領を転々としながら、ジェラルト傭兵団の一員として仕事を受け、戦場を渡り歩く。
その流れのまま、やがて同盟の陣へ加わることになったときも、心は少しも軽くならなかった。
ようやく彼のそばへ戻れるという安堵より、また同じ過ちを繰り返すのではないかという薄暗いおそれのほうが強い。野営地で火のにおいを吸い込みながら、何度もこのまま別の場所へ流れてしまいたくなった。
だが、そのたびに胸の底でよみがえるのは、遠い場所で彼を失ったかもしれないという、あの何もできなかった苦しさだった。
だから、自分は残った。
戦が始まっても、以前のように勝ち筋を探ろうとはしなかった。
先を読んで人を動かし、都合よくかたちを整えようとすれば、またあの袋小路へ戻る気がした。ただ目の前の戦へ食らいつくように剣を振るい、届くところまで届けるしかない。そうやって血を流すことしか、今の自分には残っていなかった。
でも、残っていたものすべてを差し出しても、結果は覆らなかった。
どれほど前へ出ても、どれほど敵を斬っても、流れそのものは変わらない。味方の列は削られ、陣は歪み、土煙の向こうでじわじわと崩れてゆく。
自分はその只中で、息を切らし、傷を増やしながら、なお剣を離せずにいた。彼の姿が視界へ入るたび、まだ折れていないのだとわかるたび、どうにかそこへ道を繋ごうとした。けれど、それでも届かないものは届かなかった。
敗れたあと、彼は深く沈み込んではいなかった。記憶にある顔つきと何も変わらない。
悔しさはあるはずだった。失ったものも少なくはないはずだった。
それなのに彼は、静かにその負けを受け止めているように見えた。無理に笑うでもなく、荒れ狂うでもなく、次に進むためにいったん胸へ収めるような、そんな顔だった。
その姿が、自分にはひどくおそろしかった。
勝たなければならないと、あれほど血を吐いてきた。勝ちをとり逃がすたびに、心ごと削られる思いでここまで来た。化け物になってまで正しさを掴もうとし、拒まれ、逃げ、また戻ってきた。その苦しさの根を、彼は人の顔のまま跨いでゆくように見えた。
もし、勝ちだけがすべてではないのだとしたら。もし、敗れることさえ彼の中で引き受けられるものなのだとしたら。自分がここまで血を流し、心を潰し、しがみついてきたものは、いったい何だったのか。
その問いを、どうしても口にはできなかった。
たずねれば、何か決定的なことを聞かされる気がした。自分がこれまで苦しみ抜いてきた道のりごと、無意味だったと言い渡されるような気がした。
あるいは、もっと静かに、もっと容赦なく、自分の求めていたものは最初からそこにはなかったのだと知らされる気がした。
それが怖かった。
彼の真意を知りたい思いは、たしかにあった。
だがその答えを受け止めるだけのものが、もう自分の中には残っていなかった。問いかけるより先に、足が引いた。胸の中で冷たいものが広がり、視線を合わせることさえ苦しくなる。
結局、自分はまた逃げた。
同盟の陣を離れ、ジェラルトとともに王国領へ移る。敗戦の土と血のにおいを背にしながら、自分はできるだけ何も考えないようにしていた。
振り返れば、きっと戻りたいと思ってしまう。何もできないくせに、逃げたくなるくせに。
彼の近くへ行っても、救えない。離れてしまえば、もっと取り返しがつかない。そのどちらにも答えがないまま、自分は流されるように次の土地へ向かった。
瞼の裏には、まだあの静かな敗北の受け止め方が残っていた。
あれは、自分の知らない何かだった。自分がどれほど苦しんでも、まだ届いていないところにあるものだった。 そして、そのことを認めるのが怖くてたまらなかった。
だから、自分は目を逸らしたまま先へ進んだ。胸の底で、何か大事なものが少しずつ遠ざかってゆくような気がしていた。
王国の西で起こった戦は、最初から息の詰まるようなものだった。
乾いた土に古い血がしみ込み、馬の蹄がそれを踏み荒らしてゆく。風は強くないのに、どこを向いても砂と土のにおいが喉へ張りついた。敵味方の怒号がぶつかり、旗が乱れ、剣戟の音だけが耳の奥で反響している。
考えるより先に身体が動く。目の前へ来た刃を受け、返し、押し戻す。そうしてひとところを支えても、すぐ別の場所が軋む。戦場全体が、きしむ板を無理やり踏みしめているようだった。
それでも自分は、前へ出た。
もう勝ち筋を組み上げる気力はない。誰をどこへ置けばどう動くか、そんなことを遠くから見下ろす目も、とうに失っていた。
ただ、目の前で崩れそうなところへ走り、届く刃を断ち、押し返される兵の前へ立つ。それだけだった。
そうして血を流しているあいだだけは、余計なことを考えずに済む。彼の静かな横顔も、問いかけられなかった言葉も、胸の底で冷えたまま残っているものも、剣を振っているあいだだけは少し遠のいた。
ジェラルトも、今日はずいぶんと前へ出ていた。
馬上から槍を振るうその背中は、まだ大きい。けれど、近くで見ればわかる。返す槍の重みが、前よりわずかに深く肩へ沈んでいる。馬を返す間も、ほんの少し長い。そんな翳りが、いまは嫌というほど目につく。そのたび落ち着かなくなった。だから余計に、自分がその前へ出なければならない気がした。
敵の陣を押し返しかけたところで、ふいに空気が変わった。
遠くで、紫の髪が揺れるのが見えた。双剣を提げたその姿を認めた瞬間、肺が硬く縮む。
その気配を、ジェラルトも見てとったのだろう。
馬首を返し、槍を構え、真正面からそちらへ向かってゆく。自分も追おうとしたところへ、別の兵が雪崩れ込み、前を塞いだ。剣を振るって押しのける。肩を裂き、喉を断ち、道をこじ開ける。だが、たったそれだけの遅れでじゅうぶんだった。
ようやく視界が開けたとき、ふたりはもうぶつかっていた。
ジェラルトの槍が風を裂き、双剣が火花を散らす。馬上と地上。長柄と双剣。間合いの違う刃どうしが、何度も激しく噛み合う。そのどちらも、迷いなく急所だけを狙っていた。一騎打ちに近い、研ぎ澄まされた殺し合いだった。
やめろ、と叫んだ気がする。時を止めることも、戻すこともできなくなってしまった自分には、そうすることしかできなかった。
その声は戦の音に呑まれた。自分はなお走った。あいだへ割って入りたかった。届いてほしかった。だが、土煙と兵の波と、たった数歩の遠さが、それを赦さなかった。
次の瞬間、双剣の片方が鋭くひるがえった。
槍の軌道がわずかに外れ、その隙へ、もう一閃が深く潜り込む。ジェラルトの身体が大きく揺れた。馬がいななき、血が飛ぶ。
目の前で起きたことなのに、すぐにはかたちを結ばなかった。ただ、シェズが、自分の父を討ったのだということだけが、遅れて胸へ落ちてきた。
息が止まる。
馬が大きく身をひねり、ジェラルトの身体が地へ崩れ落ちる。自分は走った。何を踏み越えたのかもわからないまま、ぶつかってくる敵を斬り払いながら、ひたすらそこへ向かった。間に合ってくれと願ったのか、もう間に合わないと知っていたのか、自分でもわからない。とにかく足だけが勝手に動いていた。
倒れた身体へたどり着いたとき、地面はもう赤かった。
血だまりの中に沈んだジェラルトの顔は、静かだった。呼びかけても返事はない。肩へ手をかけたとき、その重さでようやくわかる。もう戻らないところへ行ってしまっているのだと、手のひらの感触だけがいやに正確に告げてきた。
自分の中で、何かが裂けた。
その裂け目へ、別の光景が一気になだれ込んでくる。血のにおい。崩れ落ちる身体。届かなかった手。帝国の赤。あのときも奪われた、という思いだけが先に噴き上がった。あの赤へ向ける憎しみだけが、長く胸の底へ沈んでいた泥を一気にかき混ぜた。
また奪われた。
その思いがかたちを持った瞬間、自分の中で何かが灼き切れた。
頭の奥で、温度のない声が響く。
「復讐なぞ、誰かのためにするものではない。己が欲のためにするものじゃ。ゆえに、その醜さから目を背けるでない」
それは慰めではなかった。赦しでもない。ただ、自分の中でいま生まれたものを、容赦なく言い当てる声だった。
次の瞬間、自分の意識は奥底へ押し込められていた。
視界だけはある。だが、剣を握る指は自分の意思とは別の力で動いている。怒号も悲鳴も一緒くたに飲み込んで、身体だけが前へと出る。
目の前にいた敵将の顔を、自分は見た気がする。それもすぐ赤に塗りつぶされた。振り下ろされた刃が肉を断ち、骨を割り、地面へ叩き伏せる。見覚えのある鎧だった。
自分はその光景をただ見ていた。
怒りはたしかに自分のものだった。ジェラルトを奪われた怒りも、帝国への憎しみも、まぎれもなく自分の胸から噴き上がったものだ。けれど、その怒りに身をゆだねた時点で、もう止まれなかった。
やがて剣先が止まり、あたりの音が少し遅れて戻ってくる。
土の上には敵将の骸が転がり、近くにはまだジェラルトの身体がある。風が吹いても、その髪はもう動かない。自分はふらつきながらそちらへ戻った。膝をつき、冷えはじめた手に触れる。温かさが逃げてゆく早さだけが、残酷なほどはっきりわかった。
そのときになって、ようやく考えが追いついた。
シェズは帝国の側にいる。あれを討つなら、帝国へ刃を向けるしかない。だが、自分ひとりで帝国軍の奥へたどり着くことはできない。
では、どこへ行けばいい。
帝国と敵対している王国には教団がいる。ジェラルトが寄りつきたがらなかったせいか、自分もあまりかかわりを持ちたくはなかった。
ディミトリもまた、父を失ったばかりの自分をそのまま血の中へ送り出したりはしないだろう。情に厚いあの王は、復讐をきっと止める。止めてしまう。
そうなると、行く先はひとつだった。
帝国と盟約を結んでいても、あの男は真に膝を折ってはいないはずだった。敗れても深く沈まず、静かに顔を上げていたあの姿が、眼裏にまだ残っている。
彼のところへ行くしかない。
その結論が胸へ落ちた瞬間、今度は別の冷たさが這い上がってきた。
彼のところへ行けば、またそばへ立てる。帝国へ刃を向ける理由も立つ。あの男を討つためだと言えば、不自然ではない。そこまで思い至ったとき、自分の胸の底に、ほんのわずかな安堵が浮いた。
その一瞬に、自分で気づいてしまった。
喉の奥がひきつる。胃の底から、冷たいものが一気にせり上がってくる。吐き気だった。目の前には、まだ父の血が広がっている。そのにおいの中で、自分は何を思ったのか。
いちばん大切なものを失ったばかりなのに。身が裂けるほど苦しいはずなのに。自分は、これで彼のもとへ行ける、などと安堵した。
ひどかった。浅ましかった。あまりにも、醜かった。
自分はその場で身を折り、声もなく吐いた。胃の中身はほとんど残っていないのに、なお何かを吐き出さずにはいられなかった。血と土のにおいに混じって、自分の内側の腐ったものまで込み上げてくるようだった。
父を奪われた怒りも、帝国への憎しみも、嘘ではない。けれど、それに彼へ近づく理由まで縫いつけようとしている。
そのことから、もう目を背けられなかった。
ジェラルトの亡骸のそばで、自分はしばらく動けなかった。風が吹き、誰かの足音が近づき、戦の残滓のような声が遠くでまだ響いている。その中で、自分の何かが決定的に壊れていた。
冷たくなってゆく父の手を離せないまま、自分は知る。
まだ、彼のところへ行こうとしている。このみじめさも、浅ましさも、そのまま抱えて。そうしなければ、もうどこにも帰れないのだと。
その事実だけが、灼けた鉄のように胸へ残った。
ジェラルトを弔ったあと、自分は早々に王国領を出た。
王国の西から、国境を越え、東の地へ向かう道のりは長かった。乾いた土の道を離れ、岩の多い山道へ入り、夜は冷えた川べりで火を焚く。見張りの足音が遠のくたび、自分は目を閉じたふりをして、何度も同じことを考えた。
ここまで来て、彼に拒まれたらどうするのか。復讐を掲げて転がり込む自分を、どんな目で見るのか。考えるたび、眠るふりをした瞼の裏が強張った。
けれど、引き返す気にもなれなかった。戻ったところで、もうどこにも行き場はない。
山を越え、風のにおいが変わり、土の色が少しやわらかくなる。そうしてようやく同盟領へ入ったころには、旅の埃が髪にも衣にも深く染みついていた。
道の途中で、ようやく、手にかけた男の名前が戻ってきた。
彼の名前は、ランドルフだ。
帝国の将で、かつて戦場の動きをともに見たことのある男だった。あのときは雇い主のひとりとして、自分たちの働きを見ていた。
その男を、自分は討った。
父を奪われた怒りに身を灼かれ、身体を内なるものに明け渡したまま、自分の手で地へ沈めた。名を思い出してからは、歩くたびにその重さが増した。
クロードのところへ行く。そう決めたのは自分だ。だが、その決意に混じるものは濁っている。
父を奪われた怒りも、シェズへの憎しみも、疑いようがない。だが、その怒りを掲げれば、彼のそばへ行ける。帝国へ刃を向ける理由としても通る。そのことを知ってしまっている自分が、どうしようもなく醜かった。
それでも、自分は歩いた。
歩いて、デアドラに足を踏み入れる。口の中に苦味が広がるが、どうにかこらえた。
見張りに止められ、名を告げ、取り次ぎを待つあいだ、自分はずっと黙っていた。何を言えばいいのかわからない。力を貸してくれと言うのか。復讐がしたいと言うのか。どちらもほんとうで、どちらも足りない気がした。
やがて、彼が姿を見せる。
その姿を見た瞬間、足もとがわずかに揺れた。まだ生きている。そのことだけで膝をつきそうになる。しかし、ここで崩れれば何もかもこぼれ落ちる気がして、自分はどうにか立ったまま口を開いた。
「力を貸してほしい」
それが最初のひと言だった。
彼は黙ってこちらを見た。探るような目だが、まだ何も決めていない目だった。その視線に耐えながら、自分は続ける。
「帝国に返したいものがある」
喉が灼ける。もう後へは引けなかった。
「ある傭兵を討ちたい。……そのためなら、自分の持っているものは渡す」
「持っているものってのは?」
「帝国軍の動きだ。兵の質も、よく使う道筋も、ある程度はわかる。何度か、向こうで仕事をしたことがある」
クロードの目が、ほんのわずかに変わった。
すぐに戻った。問い返されもしなかった。だが、見なかったことにはできないほどの、短い揺れだった。
波の音だけが、やけに大きく聞こえる。自分は視線を上げられなかった。いまの言葉を、彼がどう受け取ったのかを確かめるのが怖かった。
「……なるほどな」
やがて落ちてきた声は、思っていたよりずっと静かだった。
「あんたが嘘を言ってないことは、ひとまず理解した。帝国軍の動きも、兵の質も、道筋も、話としては使える」
その言葉に、指先がわずかに動いた。
受け取られた。そう思いかけて、息を止める。まだ、何も終わっていない。クロードは頷いたわけではなかった。こちらの話を使えるものとして受け取ったうえで、そこで終わらせる気はない目だった。
「ただ、同盟は余裕があるわけじゃなくてね。情報を持ってきたからって、それだけであんたを置けるわけじゃない。王国で仕事をしていたなら、聞いているだろ。帝国と同盟が、盟約を結んでいることぐらいは」
聞いていた。
帝国と同盟が手を結ぶという報せを、周囲の兵たちが戦の行方を口にする中で、自分だけが、これでしばらく彼と直接刃を交えずに済むのかもしれないと安堵した。遅れて、その安堵を嫌悪したことまで覚えている。
だが、その手が何を連れてくるのかも、もう知っていた。救援。物資。資金。衰えた同盟を支えるための、やむを得ない手。けれど、一度取れば以前のかたちへは戻れない。遠い場所で、クロードが誇りを折って帝国の庇護を受け入れている。その報せを遅れて聞かされる痛みも、自分は知っている。
そしていまの自分も、知らずにいたわけではない。ジェラルトから聞いていた。ロドリグから伝えられた敵情の中に、その話はあった。帝国軍だけではない。同盟がどこへ兵を向け、どこと手を結び、王国にとって何が脅威になるのか。団を預かる者として、ジェラルトはそういう話を聞き流さなかった。
だから、自分は知らないままここへ来たわけではなかった。
クロードはこちらを責めない。ただ、知っているはずの事実を口にしただけだ。それなのに、握った手に力が入らなくなった。知らなかったとは言えない。考えなかったとも言えない。ここへ来るまでの道で、そのことを何度も横へ押しやったのは自分だった。
「王国西部で、帝国の将が討たれたという報せも来ている。名はランドルフ。討ったのは灰色の悪魔らしい、と」
ランドルフ。
その名を聞いた瞬間、道中で思い出した鎧の色と、帝国の陣で聞いた声が、また浮かんだ。かつて同じ側で戦い、雇い主のひとりとしてこちらの働きを見ていた男。その男を、自分は討った。
「……自分だ」
否定できるはずがない。嘘を吐いたところで何にもならない。
返事を聞いたクロードは驚いたようには見えなかった。届いていた報せと、目の前にいる人間が、ようやくひとつに重なったような沈黙だった。
「本来なら、あんたの身柄を帝国に引き渡すなり、少なくとも向こうへ報せるなりするのが筋なんだろうな」
帝国と同盟は盟約を結んでいる。帝国の将を討った者を、同盟が何も言わずに抱え込めば、どう受け取られるかは考えるまでもない。彼がその危うさを知らないはずもない。
「ま、俺がそうしないってわかってるから来たんだろ」
口の中が乾いた。
そんなつもりではなかった、と言うことはできた。復讐のためだと、帝国へ刃を向けるためだと、同盟に差し出せる情報があるからだと、いくらでも言えた。どれも嘘ではない。けれど、どれも正確ではなかった。
拒まれないかもしれない。引き渡されないかもしれない。利用されるだけだとしても、クロードの陣に残れるなら、それでいい。
そんな期待が、自分の中にあった。
「……そうかもしれない」
ようやくそう答えると、クロードは小さく息をついた。
「正直で助かるよ。じゃあ、こっちもはっきり言う。……あんたをここに置く。ただし、条件がある」
置く、と言われた。
そのひと言に縋りそうになって、爪が手のひらへ食い込んだ。追い払われなかった。その事実だけで息が詰まりそうになる。だが、許されたわけではない。受け入れられたとよろこんでよいものでもない。クロードは、条件つきで自分を置くと言っているだけだった。
「ひとつ。帝国への復讐に、同盟の兵を勝手に巻き込むな。俺の指示なしに動くな。あんたが何を憎んでいようと、この陣にいる間は、俺の指示で動いてもらう」
うなずいた。
「ふたつ。帝国で見聞きしたことは隠さず出せ。兵の動き、使う道、将の癖、知っていることは全部だ。あんたが何を知っていて、何を知らないのか、俺が把握できないままにはしない」
もう一度、うなずく。
「みっつ。ランドルフの件は、絶対に口にするな。耳ざとい奴らが何か聞いてきても相手にするな」
ランドルフの名に、息が詰まった。
王国の陣で聞いた声。雇い主のひとりとしてこちらを見ていた男。血と泥に塗りつぶされていった顔。そのすべてが、彼に手を引かれて戻ってきた。
「最後に」
クロードの声が、ひときわ低くなる。
「シェズを見ても、ひとりで追うな。あんたが討ちたい相手なんだろうが、それを理由に勝手をされると困る。俺はあんたの復讐を買ったんじゃない。あんたの力と、あんたの知っている情報を買う。そこを間違えるなら、ここには置けない」
冷たくて、正しい条件だった。
そして、拒絶ではなかった。
ランドルフを手にかけたことを知っても、帝国との盟約を持ち出しても、父の血のにおいをまだ落としきれていなくても、それでも彼は、自分をここから追い払わなかった。
「飲む」
声は思ったより掠れていた。
「君の指示に従う。知っていることはすべて話す。勝手には動かない」
クロードはしばらくこちらを見ていた。疑いが消えたわけではないだろう。疑われて当然だった。自分は帝国の将を討ち、復讐を抱え、そのうえ彼なら追い払わないかもしれないという期待まで持って、ここへ来た。
やがて彼は、小さくうなずいた。
「わかった。あんたのことはこっちで預かる。……ただし、勝手はするなよ。ひとりで突っ込んで、ひとりで死なれちゃ困るからな」
彼の声はどこまでもはっきりしていた。
叱責に近い。だが、その底にあるのは拒絶ではなかった。軍に置く。働かせる。命を数に入れる。その当たり前の扱いが、自分には眩しいほどだった。
自分は返事をしようとして、うまく声が出なかった。口の中が乾いて、代わりにかすれた息だけが漏れる。彼はそれをどう受け取ったのか、困ったようにわずかに笑った。
「聞こえてるならいいさ」
そう言って背を向ける。近習に何かを言いつけるその背中を見た瞬間、自分はようやく、帰る場所がもうここしかないのだと知った。
それは救いというには、あまりにも痛かった。
受け入れられたから、胸が軽くなるわけではない。むしろ逆だった。ジェラルトの死を、その復讐を、そのまま彼のもとへ来るための旗印にしてしまったことが、静かな場所へ身を置くたびにはっきりしてくる。
父を失ったことが苦しくないはずがなかった。帝国を憎んでいないはずもなかった。なのに、それだけだと思おうとするたび、胸の底で別のものが動いた。
夜になると、それがいっそう重くなった。
与えられた場所へ戻り、灯りが遠のき、外の見張りの声までまばらになるころ、自分はようやく息を吐く。吐いた息の底に、ずっと押し込めていたものが沈んでいる。ジェラルトの冷えた手。血だまり。シェズの双剣。クロードの前で口にした復讐の言葉。そして、その言葉が受け入れられたときに抱いたあの卑しい安堵。
暗がりの中で、それらがいっせいに押し寄せる。
苦しかった。みじめだった。何より、ここを離れたくないと思っている自分が、いちばん赦し難かった。
自分は声を殺して泣いた。
泣いても何も戻らない。ジェラルトは帰って来ない。言い訳をしたところで、自分の浅ましさが薄れるわけでもない。それでも、涙だけは勝手に落ちた。袖で拭っても、またすぐ頬が濡れる。喉の奥へ押し込めた嗚咽が、何度も胸をつかえさせる。
慰めてほしいとも、赦してほしいとも思わない。ただ、誰も罰してくれないことが、とにかくこたえた。
昼の自分は、まだ立てる。剣も握れる。彼の前では短く答え、与えられた役目をこなすこともできる。
でも夜になると、これまで歩いた道にできた泥だけが残る。父の死をそのまま抱いて泣いているのか、彼のそばにいられることに安堵して泣いているのか、自分でももうわからなかった。
そんな夜をいくつも重ねながら、自分は知っていることをクロードに話した。
何度も帝国の側で戦ったことがある。筋書きそのものは違っていても、大まかな兵の質や、よく用いる道筋や、どこに重みを置くかまでは大きく変わらない。何が強く、何が脆いのかも、身を置いた者にはわかる。
彼はこちらを疑うというよりは、情報の質や精度を確かめているようだった。自分が与えたものを彼が素直に受け取るさまを前にして、また胸が苦しくなる。
それと、別の苦しさもあった。自分が情報を渡せば渡すほど、彼はいよいよ覚悟を決めてしまう。
死なせたくないのなら、手はある。
ほとんど沈黙していた声が、ある夜、そう告げた。
おぬしの血で繋ぎ止めてしまえばよい、と。
息が止まった。
おそろしいと思うより先に、使える、と思ってしまった。
けれど、その方法を彼が知ったとき、どんな顔をするのかを思うと、途端に何も考えられなくなる。
また拒まれたら、自分はいよいよ立っていられない。
そう思うだけで喉が塞がり、その考えごと呑み込むしかなかった。
復讐を止められたくないからとディミトリを頼らずにいたくせに、クロードのことは止めようとする。生きてほしいと願ってしまう。つくづく身勝手だと思った。
でも、彼を自分の思い通りに繋ぎ止めようとは、もう思えなかった。だから、何も言えなかった。
「いきなり転がり込んできたときは正直驚いたが、いまはあんたがいてくれて助かるよ」
クロードは地図を見つめたまま、王国と教団の連合軍がガルグ=マク奪還を狙っていると言った。帝国は意地でもそれを阻止するだろう、とも。
そして王国と教団の連合軍は、少数精鋭を率いて煉獄の谷アリルを通るつもりらしい。険しく狭いあの道を抜けられてしまえば、帝国は兵を割かずにいられない。さらに帝国軍は帝国軍でも、皇帝直属軍をそちらへ引き寄せられれば、兵数で劣る同盟にも勝ち目はある。彼にとっては、そういう盤面だった。
帝国は、彼の思惑どおりに動いていた。
それを確かめたとき、自分はもう一度彼のもとへ向かった。
決戦の前だった。野営地の空気は前よりいっそう張りつめ、兵の足取りも落ち着かない。
焚火の火は低く、誰もが声を抑えている。その中で彼は、あまり気負った様子もなく、少しだけ深く息をついていた。
自分の顔を見るなり、彼は何も言わず、続きを促すように目を向ける。きっとこの先を言えば、彼はもういよいよ後戻りできなくなる。
かつて彼を守りたかった自分が、今は彼を殺そうとしている。とてつもなくひどくて、むごい。それでも、差し出すしかなかった。
「皇帝直属軍が、煉獄の谷アリルへ進軍している」
そう告げると、彼の目がわずかに細くなった。
「すべて、君が考えた通りに動いていると思う」
しばらくの沈黙のあと、彼は小さく息をついた。
「情報ありがとう。……おかげで心が決まったよ」
そのひと言だけで、胸の奥が重く沈む。
受け取られた。拒まれなかった。そう思った瞬間、ひどく卑しい安堵が胸に浮かんでしまう。そのことが、また苦しかった。
彼は少しだけ目を伏せた。
「あんたみたいな奴が、初めから俺のそばにいてくれたらよかったのにな。そうしたら俺も、もっと別の道を選べたかもしれない」
喉が詰まる。あまりにもまっすぐで、あまりにも遅すぎる言葉だった。
何も返せなかった。笑って受け流すことも、少し照れながら否定することもできなかった。ただ、古い傷を深くえぐられ、そこから血が流れてゆくのを黙って見ているしかなかった。
「きっと、過大な評価だ」
ようやく絞り出せたのは、それだけだった。彼はわずかに笑った。
「そうかな? 人を見る目には自信があるつもりなんだが……まあいいさ。もしこの戦いが終わっても行くあてがないなら、うちに残ってくれないか。俺としても、そのほうがありがたい」
その言葉は、血と泥の底で呼吸をするのも苦しいいまの自分にとって、あまりにも眩しすぎた。
かつての自分であれば、前向きな返事を口にできたのかもしれない。その温かな誘いにすがり、彼の隣で生きる未来を心の底から望みたい。
だが、父の死すら彼の隣にいるための隠れ蓑にした醜悪な自分が、その未来の隣に立つ資格などあるはずがなかった。
強い自己嫌悪に喉を締めつけられ、声が出ない。肯定も否定もできず、視線を落とし、震えそうになる唇をきつく噛みしめることしかできなかった。
「ははっ、そんな深刻な顔をして考え込むことないだろ」
沈黙を別の意味にとったのか、彼は困ったように、それでもどこかやさしく笑う。何も知らないその屈託のなさに、自分はただただ、打ちのめされた。
「この戦いが終わるまでに、答えを決めておいてくれよ。期待して待ってるからな。……それじゃ、戦場では頼んだぜ」
そう言って、彼は軽く手を挙げ、背を向けて陣の奥へ歩いてゆく。
遠ざかってゆくその背中を見つめながら、自分はひそかに息を吐き出した。戦いが終わるまでに。その言葉を、何度も反芻した。
煉獄の谷は、どこまでも人を拒んでいた。
立ちのぼる火柱も、岩肌を這う溶岩も、まるでこの地そのものが、踏み入ったものを誰ひとり無事には帰さないと決めているようだった。灼けつくような熱気の中で、息を吸うたび喉の奥がひりつく。
けれど胸の底だけは、妙に冷えていた。足もとで砕ける黒い石の感触を確かめながら、自分は黙って剣を握る。
戦の前、彼は自分を東の端へ置いた。
西は溶岩の流れが激しく、兵を広く動かしにくい。そのうえ北には王国軍の本隊がある。帝国の重みがそちらへ寄るなら、東を抑える役も必要になる。
理屈としてはわかった。だが、それだけではないことも、何となく察していた。危うい場へ自分を近づけたくないのか、それとも見られたくないものがあるのか。どちらにせよ、彼はもう決めていた。
自分は一度だけ眉を寄せたが、何も言わなかった。
止めれば、また自分の不安で彼の意思を縛ることになる。その怖さは、まだ胸の奥へ深く残っていたからだ。
彼は短く指示を残し、飛竜に乗った。その背は、灼ける空の下でも妙にまっすぐだった。
揺らがないわけではない。ただ、揺らぎを抱えたまま前へ出ることをやめない人なのだと、いまの自分にはわかる。
その背を見送ってから、自分は東へ向き直った。
戦が始まれば、考える余地はほとんどなかった。
東では、予想どおり帝国兵が押し寄せてくる。王国軍を削ってきた勢いは重く、押し返してもすぐ次が重なる。
自分は剣を振るった。目の前の敵を断ち、味方の列が裂けそうになればそこへ割って入る。熱風が肺を灼き、汗はすぐ乾いた。血だけが乾かず、手のひらへぬめりとして残り続ける。
しばらくして、紫の髪が視界へ入った。
シェズだった。双剣を提げたその姿を認めた瞬間、胸の奥が硬く縮んだ。
これまで何度も刃を交えてきた。いまだにその健やかな強さが目に痛い。まっすぐで、濁りがなく、迷いごと前へ押し出してくるような戦い方だった。その光に映る自分の歪みを思うと、胸が軋んだ。
刃がぶつかる。火花が散る。灼けた空気の中で、双剣の軌道だけが冴えて見えた。こちらはそれを受け、押し返し、なお西を気にしていた。
嫌な気配が、ずっと耳の奥で鳴っている。
目の前にいるのはシェズだ。放っておけばこちらの列が崩れる。
わかっている。わかっているのに、意識の半分が西へ引かれていた。炎と噴煙の向こうに、何か取り返しのつかないものが近づいている。理由も、かたちもわからない。
双剣を受け、押し返し、距離をとる。その一瞬の隙に西を見た。
途方もなく、遠い。火と煙の向こうで、飛竜の白い影が低く揺れた気がした。次の瞬間、心臓を直接握り潰されたように息が詰まる。
だめだ、とだけ思った。
その先に待っているものが、ずっと胸の底へこびりついて離れないあの忌まわしい気配と同じなのだと、身体だけが先に悟ってしまう。
自分は、目の前のシェズへ背を向けた。
考えたわけではなかった。そうしなければならないと、身体が勝手に決めていた。彼が嫌がることだと、頭ではわかっている。わかっているけれど。
帝国兵の群れへ無理やり肩をこじ入れ、斬り払い、押しのける。東から西までは遠い。遠すぎる。間に合わないと、どこかではわかっている。
それでも足は止まらなかった。止まれば、その先で何かが決定的に終わる気がしたからだ。
西へ。ただ、西へ。
群がる兵を断ち、岩場を飛び越え、熱風の吹きつける中を駆ける。肩へ刃が入り、脇腹も浅く裂かれる。そんなことはどうでもよかった。とにかく彼のところへ行かなければならない。その思いだけで足を動かした。
むせ返る噴煙の向こうに、西の高台がようやく黒い輪郭を見せたときだった。
遠くで、彼の声がした気がした。
はっきりとは届かなかった。ただ、火と鉄の喧騒の向こうから、何かを叫ぶ響きだけがかすかに届く。たぶん、自分を制していたのだろう。来るな、と。意味はわかる。わかっていて、なお止まれなかった。
次の瞬間、西の高台で飛竜が墜ちた。
視界が真っ赤に染まった気がした。実際に見えたのは、重い刃が振り下ろされ、その下へ白い影が叩きつけられるところだけだったのかもしれない。
けれど、自分の中ではその一瞬はもっと長く、もっと鮮烈だった。血のにおいが立ちのぼり、岩肌へぶつかる音がして、そのまま何かが二度と戻らないところまで砕けたのだと、肌が知ってしまった。
足が止まる。呼吸が乱れ、肺が灼ける。それでも次の一歩を踏み出そうとした、その瞬間だった。背後から双剣が迫る。
完全に捨てたはずの間合いへ、シェズはもう入り込んでいた。自分が背を向けた、その隙だけでじゅうぶんだったのだろう。
振り向きざまに剣を合わせると、火花が散り、こちらの刃は重いのに、胸の奥はもう別のところへ引き裂かれていて、力がうまく乗らない。
目の前の相手は、なおまっすぐだった。父を討ったときと同じ目で、自分だけを見ている。そこには敵意もあるのだろう。だが、それだけではない。逃げずに立っている者だけが持つ、息苦しいほどのまっすぐさがある。
刃を受けるたび、自分の中の何かが軋む。もう自分ひとりでは、この男に届かない。そう思った瞬間、胸の奥で声がした。逃げるのか、また、と。
その声に抗えず、自分は身をゆだねた。剣を握る指へ別の力が流れ込み、視界が冴え、熱も痛みも少し遠のく。守りではない。生き延びるための、最後の逃避だった。
でも、勝てなかった。
双剣は重なり、火花は散り、岩場へ叩きつけられた衝撃で肺の空気がすべて抜ける。次の一撃が胸の中央へ深く入ったとき、自分の中で何かが砕けた音がした。
硬いものが割れ、決定的な喪失を伴う痛みが、胸の奥から全身へ走る。
その瞬間、自分の中から力が抜けてゆくのがわかった。守っていたものが消え、最後の逃げ場が砕け散る。地へ伏した頬へ、熱を失った石の冷たさが触れた。
そこで、別の記憶がふいに開いた。
炎に包まれた街の中、倒れた自分を抱きしめる、温かな腕。頬へ落ちる涙。血に濡れた衣。覇道を進む氷のような皇帝だと思っていた彼女が、生々しいぬくもりを持った、ただの人としてそこにいる。
では、真に人ではなかったのはいったい誰なのか。
彼女の理想のためにと自分へ言い聞かせながら、何も考えようともせず、前へ出るものを処理するだけの刃になっていたのは、いったい誰だったのか。
そう問うた瞬間、すべてが戻った。
デアドラの風。地に伏せた白い飛竜。最期の顔。手の中へ伝わった命の切れる感触。
自分の刃が、たしかにクロードの命を奪ったという事実。
帝国に奪われたのではなかった。エーデルガルトに殺されたのでもなかった。
自分が、この手で、クロードを殺した。
胸の内側が、ふっと空になった。
神祖の力もない。人間としての健やかさもない。父もいない。残っているのは、彼を殺したというとり返しのつかない罪だけだった。
それでも、自分は這った。
砕けた胸を押さえ、血と泥にまみれた地を、腕で引きずるように進む。視界は揺れ、息は浅い。でも他に行くところがなかった。
いや、最初からそこへしか行きたくなかったのだと、いまならわかる。
岩肌で擦り切れた指先の感覚すらとうに失せたころ、ようやくたどり着いた先で、彼はもう動かなくなっていた。
血の気を失った頬も、閉じたままの瞼も、熱をなくした手も、すべてが静かだった。遅すぎた。何もかも、間に合わなかった。
それでも自分は、その手へ触れた。
冷たかった。
その冷たさに触れた瞬間、喉の奥がひどく痛んだ。言い訳も、大義も、救いも、もう何ひとつ口にできない。
ただ、この手をもう一度離したくないという、それだけが残った。
もしまた彼と出会うことができるのなら、損得も理屈も大義もいらない。ただのひとりの人間として最初から彼のそばにいたい。
何も背負わせず、何も押しつけず、自分の意思だけでその隣に立ちたい。
あまりにも遅すぎる気づきだとわかっていても、どうしても願わずにはいられなかった。
冷たい手を握ったまま、自分の呼吸は少しずつほどけてゆく。
火の音も、戦の声も、もう遠い。視界の端で炎熱の赤だけがゆらゆらと揺れ、その色さえ薄れてゆく中で、自分はようやく、自分がほんとうに欲しかったものが勝ちでも、救いでも、赦しでもなく、ただ彼のそばにいることだけだったのだと知る。
そのたったひとつの、身勝手で、どうしようもなく純粋な願いを抱いたまま、自分は彼の手を握りしめ、遠のく意識の底で、次にまた会えたなら今度こそ最初から、と吐き出す息にこめた。
目を開けたとき、空はまだ暗かった。まだ夜は明けておらず、少し肌寒い。
傍らにはジェラルトがいて、呆れた顔をしていた。傭兵たちが気の抜けた声でやりとりしているのが聞こえて、ゆっくりと身を起こす。
知らないはずの光景だった。それなのに、初めて見るもののようにも思えない。そのちぐはぐさが、目覚めたばかりの意識の底へ小さく引っかかった。
やがて切迫した足音が聞こえ、視線を上げる。
森の奥から飛び出してきたのは、三人の若者だった。追われている、助けてほしいと彼らは言った。
その言葉を裏づけるように、すぐ背後から迫る盗賊たちの怒号が、乾いた空気を乱していた。
ジェラルトが短く指示を飛ばし、自分たちはすぐに応戦した。
剣を抜く。
踏み込む。
刃を合わせる。
そのひとつひとつに、妙な迷いのなさがあった。考えるより先に身体が動いている。初めての戦いではないのだと、いまさらのように手の内で剣が教えてくる。
盗賊たちは数こそいたが、烏合の衆だった。じきに押し返せる。そう思った矢先、不意に横合いから振り下ろされた斧が、逃げ遅れた少女へまっすぐ落ちていった。
身体が先に動いた。
間に合わない、とどこかで思った。
それでも前へ出る。斧の軌道へ身を差し入れた、その瞬間だった。
世界が、止まった。
風に揺れていた草も、悲鳴の名残も、振り下ろされる斧の重さも、何もかもがそのままの形で凍りついている。音のない静止の中、自分だけが息をしていた。
そして、目の前に少女が立っていた。
子どもじみた背丈なのに、そのまなざしだけが妙に老成して見える。見知らぬはずなのに、不思議な懐かしさがあった。
何かを言われた気がする。
けれど、その言葉はよく聞き取れなかった。ただ、次の瞬間には時間が巻き戻り、さっきと同じ斧が、今度は少し手前で止まって見えた。
今度は間に合う。
剣を振り上げ、斧を弾く。衝撃が腕へ痺れのように走り、少女はその隙に身を引いた。盗賊の頭が舌打ちし、周囲の空気が一気に動き出す。止まっていた世界は、何事もなかったように草を揺らし、夜明けを連れてくる。
だが、自分の中には、確かに何かが残っていた。
いま起きたことを、うまく説明することはできない。夢でも幻でもなかった。ただ自分は彼女にずっと守られてきた。そのことだけは、素直に受け入れられた。
戦いはほどなく終わった。
助けた三人は、ただの旅人ではなかった。アドラステア帝国の皇女、ファーガス神聖王国の王子、レスター諸侯同盟の盟主の孫。そう名乗られても、驚きはどこか遅れてやって来た。名の重みより先に、自分の頭には、斧が振り下ろされる直前の静止した光景ばかりが残っていたのだ。
そのあと、ジェラルトがアロイスという昔馴染みらしい男に見つかり、自分たちはそのままガルグ=マク大修道院へ向かうことになった。
道中、流れてゆく景色を眺めながら、自分は何度か考えた。
あのとき止まった時間のことを。見知らぬ少女のことを。そして、助けた三人のうち、なぜかひとりだけ、妙に目に残る男のことを。
理由は、まだ見えなかった。
ガルグ=マク大修道院は、遠目からも圧倒されるほどの大きさだった。
切り立った崖の上に築かれた白い石壁が、青空の下で乾いた光を返している。近づくにつれて、その威容はますます現実味を増した。
高くそびえる塔、幾重にも重なった門、絶えず行き交う騎士や修道士たちの気配。どこを見ても、ここがただの学び舎ではなく、フォドラ全土を見渡すための巨大な要であることがわかった。
その中へ、自分たちは半ば引き込まれるようにして入っていった。
ジェラルトはアロイスと再会してから、ずっと面倒そうな顔をしていた。何か厄介なことに巻き込まれたときの傭兵らしい諦めだけが、その背へ薄く貼りついている。
自分はそのあとを追いながら、石畳を踏む靴音の乾いた響きを聞いていた。
見知らぬ場所のはずなのに、ときおり胸の奥がかすかにざわつく。回廊の角、広間へ差し込む光、遠くで揺れる旗の色。どれひとつ覚えがあるわけではない。ただ、通り過ぎるたびに、何か見落としているものがある、とだけ感じた。
だが、その違和感をつかまえる暇もなく、大司教レアの前へ通された。
謁見の間は静まり返っていた。
高い天井の下、色硝子から差し込む光が床へ薄く落ちている。正面に立つ女は、白い法衣をまとい、穏やかな微笑を浮かべてこちらを見ていた。その笑みはやわらかいのに、どこか人の手の届かないもののようにも見える。
その目がこちらを見た瞬間、胸の奥でごく小さな、ざわめきが立った。懐かしい、とまでは言えない。ただ、見定められているような感覚だけが、静かに肌へ触れた。
何を問われ、何を答えたのかは、あとから振り返れば妙に曖昧だった。言葉そのものより、あまりに唐突に下された決定のほうが強く残ったからだ。
士官学校の教師になれ、と彼女は言った。
それが冗談ではないとわかるまで、少し時間がかかった。
教師。
生徒を導く役目。
学校というものに通ったことすらない自分に、そんな役目が務まるのかどうかよりも、なぜ自分でなければならないのかが、まだ腑に落ちなかった。
それでも、話は容赦なく前へ進む。
考えが追いつかないまま、気づけば自分は士官学校の一角へ通され、級長たちと順に話すことになっていた。
見習い騎士たちの訓練する声も、中庭を渡る風も、修道士たちの足早な気配も、壁一枚を隔てた向こうの出来事のように感じられる。
教師になれと言われても、まだ自分の足もとは傭兵のままだった。剣の重みのほうが、教本よりよほどよく手に馴染む。
だが、選ばなければならないらしい。これから自分が受け持つ学級を。
そう聞かされて、ようやく現実が少しだけかたちを持った。
自分は歩き出す。
石壁の冷えた廊下を抜け、これから話すことになる三人の級長たちを探した。盗賊に追われていたあの三人だ。
あのときは、とにかく助けることしか考えていなかった。
だがいまは違う。ひとりずつ言葉を交わし、そのうえで選ばなければならない。
最初に話したのは、エーデルガルトだった。
盗賊に追われていたときと同じく、彼女は落ち着いていた。あの場で斧が振り下ろされかけたことなど、最初からなかったかのように、静かな顔でこちらを見る。
その目には感謝もあったが、それ以上に、己の前へ置かれたものを正しく量ろうとする強さがあった。
「貴方が担任になるのなら、きっと得るものは多いでしょうね」
やわらかな口ぶりだった。けれど、それがただの慰めでも社交辞令でもないことはわかる。
彼女は、自分を必要としてくれていたのだと思う。だが、その期待はあまりにもまっすぐで、自分にはうまく受け止めきれなかった。
自分は短く礼を返した。
それ以上の言葉は出てこない。彼女の言葉は無駄がなく、前だけを見ていて、その隣に自分が並んでよいものか、迷ってしまった。
次に話したのは、ディミトリだった。
彼は礼儀正しく、こちらのことを気遣うように話してくれた。
盗賊との戦いの礼も、教師という立場を急に負わされるこちらの戸惑いも、きちんと言葉にして汲み取ろうとする。そのまっとうさは、少し眩しい。
しかし、その眩しさは何も知らない明るさではなく、傷を抱えたまま、それでもなお正しいほうへ向かおうとする人のものに見えた。
「突然のことで、戸惑いも多いだろう。それでも、もしお前が担任になってくれるなら、心強い」
その言葉に嘘はなかった。肩書きより先に、目の前の人間をきちんと見ている声だった。
自分はまた短く答える。
ありがたいと思う。けれど、彼の正しさを受け取るだけの場所が自分の内にないような気がした。
そして最後に、クロードがいた。
最初からこちらを見ていたのだろう。
視線が合うと、彼は面白いものを見つけたように口もとをゆるめた。盗賊に追われていたときと同じ顔だ、とふと思う。追い詰められていたはずなのに、どこか余裕を感じさせる、そんな顔つきだった。
「やっぱりあんた、変わってるよな」
いきなりそう言われて、自分は眉を寄せた。
クロードは気にした様子もなく、肩をすくめる。
「悪い意味じゃないさ。無愛想だし、何考えてるかわからないくせに、肝心なところではちゃんと動く。しかも、ただ敵を斬り伏せるだけじゃなくて、俺たちを守る立ち回りをしてた。そういうのって、いきなりやろうと思ってできるもんでもないだろ」
からかっているようにも聞こえるのに、目つきはどこか真剣だった。
自分の反応を見ている。ただ冗談を言っているのではなく、その奥で何かを確かめようとしているのだとわかる。
「君は、人をよく見ているんだな」
そう返すと、クロードはほんの少しだけ目を細めた。
「俺に興味があるのか? 奇遇だな、俺もあんたに興味があるんだよ」
軽い口ぶりだった。
なのに、そのまま流していい言葉ではない気がして、わずかに言葉に詰まる。エーデルガルトやディミトリと話したときにはなかった引っかかりが、小さく残った。
理由はわからない。ただ、もう少しこの男の声を聞いていたいような、ここで会話を切るのは惜しいような、妙な感覚だけが残る。
その沈黙をどう受け取ったのか、クロードは少しだけ身を屈め、いたずらっぽくこちらを覗き込んだ。
「じゃあさ、ちょっとだけ、期待して待っててもいいか?」
問いかけのかたちをしているくせに、その目はどこか確信めいていた。
何を期待するのか、それさえまだ曖昧なはずだった。
なのに、気づけば口が動いていた。
「……期待して待っていてほしい」
言ったあとで、自分でも驚いた。
なぜそんなふうに答えたのか、うまく説明できない。それなのに、その言葉だけが、ほかのどんな返事よりも自然に口をついて出た。
クロードは目を見開いて、それから、ひどくうれしそうに笑った。
そのとき、鐘が鳴った。
高く澄んだ音が、石壁のあいだを幾重にも反響してゆく。レアのもとへ向かわなければならないのだと、その音が告げていた。
自分はそちらを振り向く。わからないことだらけなのに、胸の奥だけは、妙に静かだった。
もう一度だけ、クロードを見た。
彼はさっきと同じように笑っていたが、その目には、もう少しだけはっきりした期待の色があった。
自分は何も言わず、踵を返した。
鐘の余韻を背に受けながら、歩き出す。
まだ何も決まっていないはずなのに、向かう先だけは、もう決まっている気がした。