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いつか貴方に手が届く

全体公開 15 33978文字
2026-04-26 20:02:03

今夜帳の中で【9】、開催おめでとうございます🎉

【必読】五夏/⛸️パロ
幼馴染に見てもらいたくて⛸️を始めた乙骨が、ゴールデンスラム達成間近の五条にコーチングしてもらう話
なんですが、サブコーチの夏油との話ばっかりです
※スケートに関することは、この世界ではそうなんだろうな〜くらいの薄目で見てください。

オマケに、五条悟ver.の「いつか貴方に手が届く」があります

Posted by @itou_888


 かつて氷の上には色がなかった。

**

 鋭い笛の音がリンクに響く。
 それに合わせて子どもたちはコーチのもとへと戻っていった。これから休憩を挟み、四十分ほどのパーソナルレッスンが行われる。各自、指導を受けながら大会出場へ向けて技術を学ぶのだ。

 そんな中、一人壁際で佇む少年がいた。名を乙骨憂太という。九歳の頃からスケートを始め、現在十五歳。幾度も国内大会に出場しているジュニアスケーターだ。
 彼のコーチは、今までに二度変わっていた。それも、全て先方からの提案である。

 今日あたり、三度目が起きそうだな。
 そんなことを思いながら、リンク周りの壁にかけておいたタオルで汗を拭う。視界の端に、クラブの責任者と言い争いをしている現コーチの姿を捉えていた。
 皆、初めは乙骨のスケートを褒めてくれる 。君にしかない輝きを放っている、と熱を込めて語ってくれるのだ。
 そして、乙骨の目標を知ると、厳しい道になるかも知れないぞ、と言いながらも喜んで指導をしてくれる。乙骨は真面目に訓練をこなし、大会に出た。けれど、目立った結果は残せなかった。
 君のスケートには光るものがあると全員が口を揃えて言ってくれるのに、表彰台には上がれない。むしろ、練習を重ねていくに従って乙骨らしい輝きとやらは失われていくらしい。

 コーチになる人間は、大体が元競技者であったし、スケートのことが好きだ。もしかすると、自分の指導で乙骨の持ち味が消えてしまうことが我慢ならなかったのかもしれないね、とは誰に言われたのだったか。
 それが正しかったのかは知らないけれど、過去のコーチたちは何度も乙骨に謝罪の言葉を告げた。謝られる度に、きっと彼らが見出してくれた輝きなんて本当のところ自分には無いのだと痛感した。
 彼らは、やるせなさを全て他の大人にぶつけて去っていく。最後に、君の魅力をもっと引き出せる指導者が他にいるはずだ、と乙骨を抱きしめて。

 きっと、今のコーチも離れていくのだろう。
 いい人だった。期待に応えたかった。だから頑張った。でも、乙骨が頑張れば頑張るほどコーチの瞳は暗く濁っていった。全て自分が悪いのだ。ごめんなさい。乙骨は力なく頭を振り、一人で滑り始めた。

 こういう時に滑ると決めている演目がある。
 そもそも、乙骨がスケートを始めたのは幼馴染の影響だ。
 その幼馴染が一時期、熱心に応援していたジュニア選手がいた。
 彼女が熱中しているものを知りたかった乙骨はひたすらにその動画を見て、真似て、覚えた。拙い動きで自信満々に披露した演目は幼馴染の関心をジュニア選手から取り戻すことに成功させたし、同時に、スケーターとして生きる乙骨の心を支える御守りにもなった。
 三分三十秒の御守りは、乙骨の中で大事に息づいている。ただし、これはかなり体力を刈りとっていくパワフルな演目であるため、諸刃の剣でもあった。
 滑る速度をあげるにつれ、鋭い音をたてたブレードが氷を削る。
 もちろん、乙骨のために曲は流れない。
 それでも、彼の脳内だけで自由に演奏される音に合わせて、動画を思い出しながら頭のてっぺんからブレードの先まで全てを真似た。キツい。ステップを踏む度に呼吸が乱れ、着氷する度に肉や骨が悲鳴をあげる。どう考えてもジュニアがこなすプログラムじゃなかった。
 それでも、これを滑った選手は、難易度の高い様々な技を組み込んだ演技をするのが楽しくて愉しくて仕方がなかったのではないかと感じるのだ。
 幼馴染の笑顔。胸の奥からわき起こる楽しさ。様々なものが頭をよぎり、混ざりあう。滑り終わった時には肩で呼吸をしながらも満ち足りた気分になっていた。

「ねえ」
 ふいに、他の生徒へ場所を譲るため壁際に寄った乙骨に声がかけられた。見上げるほどの大男がそこにいて、乙骨のタオルを投げよこしてくる。上手く受け取れず顔面でキャッチする間にも、更に言葉を重ねてきた。
「コーチ誰」
……っぷは、えっと、コーチはあっちにいる──」
 乙骨が指さした方を向き、コーチの姿を確認したらしい男は小さく舌打ちした。思わず肩を揺らす。男からは、君に向けたわけじゃないって、とそっけなく返された。
「人違いだったってだけ。アレがコーチなんだ」
「はい、今は、たぶん」
「今は? たぶん?」
 キャップを深く被り、サングラスをかけた男が首を傾げる様子はどことなく迫力がある。乙骨はこれまでの経緯と、今のコーチが近いうちに辞めるだろうことを簡単に伝えた。
「へえ」
 片手で両頬を掴み、何かを考えるふうな素振りをみせた男は暫くしてから口を開いた。
「ねえ。君、スケート好き?」
「はい」
「どうして?」
「どうしてって……僕のスケートを好きだと言ってくれる人がいたので」
「ソイツのためにスケートやってんの」
「はい。その子が頑張れって言ってくれたから、僕は僕のスケートを続けています」
 ふうん、とまた相槌を打った男だったが、しかし先ほどよりも声に感情が乗っている気がする。目を瞬かせる乙骨に、まあ分かるよ、と男は頷いた。
「目標は?」
「え?」
「スケートの目標」
 まるで受験の面接を受けているような気分だ。以前、悲しい結果に終わった実用英語技能検定を思い出す。状況が分からないなりに、乙骨は一生懸命答えた。
「幼馴染が外国に行っちゃって。あっ、つまり僕のスケートを好きだって言ってくれた子なんですけど。その子の居る国でも放送されるような大会に出て、金メダルをとって、彼女に見てもらうのが目標です……
「オッケー。じゃあ、僕がコーチになってあげる」
「はい、え?」
「これから僕が君のコーチね。ビシバシ鍛えて国際大会で優勝させてあげるから。直近の大会は……まあ、なんとかなるか」
「は、えっ、なに」
 突然の宣言に驚く乙骨を前に、男は飄々とした態度を崩さず、口角を上げている。
「君さ、目がいいでしょ。さっき以外の演技も真似できるの」
「だ、大抵は?」
「あははっ! 言うねえ。じゃあ僕のスケートは?」
 男が笑いながらキャップを脱いだ。
 さらりと現れたのは、色素に乏しい髪だ。まさか、そんなはずない、と思いながらも視線を外せなくなった乙骨の前でサングラスが下へとズラされる。この世にまたとない輝きを放つ青い瞳が瞬いた。
「僕のスケートも真似できるの」
「ごっ、五条選手……!?」
 乙骨が御守り代わりにしているスケーターに匹敵するほど、パワフルで優雅な演技をする男。シニアに移行してから出場した全ての大会で金メダルを獲得し続ける伝説の存在。世界記録保持者。氷上最強のスケーター。
 ばちり、と片目を閉じるメダリスト、五条悟がそこにいた。

 それから、五条はさっさと大人たちに話をつけると本当に乙骨のコーチになってしまった。彼が初めにやらせたのは、基本の動きを繰り返すことだった。
「憂太はさ、なまじセンスがあるばっかりに基本が雑なんだよね。確かに技術力はスケートに必要だけど、基本をちゃんと固めている奴が結局は一番強いよ」
「ッはい!」
 他でもない五条が言うのだ。その重みは段違いだった。

 スケート界の超有名人がコーチになったことで、乙骨の周囲は一時期荒れた。しかし、それも長くは続かなかった。というよりも、落ち着かざるを得なかったのだと思う。
 若くして頂点を極め、今日まで絶対的王者の座に君臨し続けてきた五条には、今後の進退について決めかねているという噂がまことしやかに囁かれている。スケート競技者の引退年齢に近いことも噂を後押ししているのだが、本人は否定も肯定もしない。そんな彼がどのような形であれ氷の世界に留まる意志を示した、という事実に関係者もファンも安堵しているのだ。

 さて、五条をコーチに据え、今日も今日とて基礎練習に励んでいた乙骨の耳に、普段とは違う微かなざわめきが届いた。
 見まわしてみると、隅の方で大人たちが挨拶をしていた。方や長い金髪の女性で、後ろに大柄な長髪の男性を連れている。彼らと向かい合っているのは、ここのクラブの責任者である夜蛾だ。夜蛾は元フィギュアスケーターであり、五条悟を世に輩出した名コーチでもある。
 そんな三人の様子を見て、今朝言われたことを思い出した。確か、どこかのリンクで点検作業が行われるから、他のクラブと合同でリンクを使うことになると言われていたんだっけ。
 ということは、あそこにいる男女が他のクラブの責任者であり、コーチなのだろう。興味をひかれたものの、乙骨には優先するべきことがある。五条から学び、良い結果を残して、遠い空のもとで応援してくれているはずの幼馴染に、最高の演技を届けるのだ。
 五条に師事してからは、着実に力を伸ばしていると思えた。先日の国内大会では、自己最高点で銀メダルを獲得済みだ。他の大会でも同様の結果だった。
 そんなこんなで、乙骨としては手応えを感じているのだが、対する五条の反応はどことなく鈍い。正確には、鈍いというか、満足していないというか、もっと上を目指せるだろうとでも言いたげな雰囲気だ。まあ、彼は数々の偉業を成し遂げた金メダリストなので、乙骨の結果は物足りないのかもしれない。

 氷の上でもよく響く笛が集合を知らせる。
 壁際で待っていた五条のもとへ移動し、休憩がてら細かな指導を受けていた、その時だった。
「すみません」
 耳に心地よい声だった。
 いつの間にか隣に大柄な男が立っていた。全く気づかなかった。何処から滑ってきたのか分からないほど、静かなスケーティングだったのだ。
 はた、とその姿を見て思い出す。夜蛾に挨拶をしていた大人の一人だ。真っ黒なジャージに全身を包んだ男は申し訳なさそうな表情で続けた。
「二分四十秒と少しだけ、リンクの真ん中を使わせてくれないかな」
 眉を下げながら言うには大胆な要求だった。
「他の子は休憩に入るけれど、君たちは練習を続けることがあると聞いてね」
 乙骨は、ちら、と自らのコーチを見上げる。
 相変わらずサングラスの奥にある瞳からは、感情を読み取ることができない。今日はそれに加えて口元も真横に引かれてしまっている。何を考えているのかさっぱり分からなかった。
 少し緊張しながら成り行きを見守る。暫くして、五条の形よい唇がゆっくりと開かれた。
「何すんの」
 ぶっきらぼうな聞き方だった。
 乙骨は驚く。それは口調の荒さにではなく、五条がやり取りに応じたことに対してだ。

 短い付き合いながら、五条という人間が、気乗りしないことに関しては非常に消極的で、かつ拒否的であることに気づいていた。無関心でさえある。彼が望まないことは尽くが門前払いをくらうのだ。
 乙骨の周囲が騒がしかった頃もそうだ。五条は喧騒を好まなかった。故に、周囲は過剰に騒ぐのをやめた。
 そんな男が会話に応じたのである。
 今日は雨が降るかもしれない。リンクの天井付近にある窓へと視線を移した乙骨をよそに、二人は会話を続ける。
「指導している生徒に手本を見せたいんだ。初めて大会に出る予定だから、リンク全体の使い方を学んで欲しくてね。広めに場所を借りたい」
「好きにすれば」
 乙骨は忙しなくコーチの顔と、窓とを交互に確認した。五条が相手の提案を飲んだ。もしかしたら、今日は槍さえ降るかもしれない。
「ありがとう」
「曲はどうするわけ」
「こっちで流すよ。助かった」
「うん」
 うんって言った。
 驚愕のあまり目を丸くして五条を見つめる。乙骨の視線に気づいていないのか、背中を向けて去っていく男をぼんやりと眺めるだけだった。
「美々子、菜々子!」
 男の張りがある声がリンクに響く。
「よく見ていなさい」
 そこからは、男の独壇場だった。

 うそ、と呟いたのは誰の保護者だったか。
 演技の終盤には泣き始める大人もいた。子どもたちはそんな大人の様子をぽかんと眺めるか、男の演技に釘付けになっていた。
 果たして、乙骨は後者だった。
 男が滑ったのは、子ども向けに調整されたプログラムだ。難易度は低く、初心者も安心して滑ることができるような演目。けれど、乙骨は心臓の鼓動が激しくなるのを感じていた。
 滑っているプログラムこそ違うものの、あの日から今日までスケートを真似ていた乙骨には分かる。彼は、かつて幼馴染が憧れていた元ジュニア選手だ。
 曲が終わり、割れんばかりの拍手が男を包む。それに軽く手を挙げて応えながら、自らの生徒が待っているリンクの隅へと移動していった。
「五条コーチ」
「なに」
「話しかけに行かなくていいんですか」
 男を追っていたであろう五条の顔が、乙骨に向きなおる。
「話って?」
……なんでもないです」
 靴の爪先は、男の去った方向へと向いているくせに。演技の最中、震えるような熱いため息をこぼしていたくせに。いつの間にサングラスを外したのか、ぐらぐらと煮えたつような瞳でリンクを、否、氷上に立つ男を見ていたくせに。
 全てを無かったことにしたつもりなのか、サングラスをかけなおして白々しい態度をとるコーチの姿に、乙骨は首を振った。


 あ、っと乙骨は目を瞬かせる。五条は結局、話しかけに行ったらしい。
 一通りのメニューをこなした乙骨は、五条が男の近くに立っているのを見つけた。リンクの周りにある壁を挟み、五条は陸上、男は氷上に立って向かい合っている。
 彼らのやり取りを眺めていると、ほぼ同時に二人がこちらを向いた。遠くからでも圧のある男たちに怖気づき、じり、と後ずさる。しかし五条はそれを許さず、ちょいちょいと手招いて乙骨を呼んだ。
「なんでしょうか……
 呼ばれてしまえば仕方ない。渋々近づいた乙骨を大柄な大人たちが見下ろした。
「この子がさっき話した乙骨憂太」
「へえ」
 男は少し身をかがめて乙骨と視線を合わせた。五条とは真反対の、光を全て吸収したような色味の髪がさらりと揺れる。
「はじめまして。私の名前は夏油傑」
「は、はじめまして。乙骨憂太です」
 とても自然な動きで握手を求められ、流れるように応じてしまった。するりと懐に入るのが得意なのかもしれない。これまで会ったことのないタイプの大人にドギマギしていると、握っている手はそのままに、夏油は優しそうな表情で笑った。
「五条選手の教え子なんだって? 苦労するだろう」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味さ」
「おい」
 なおも言い募ろうとする五条を無視した夏油は乙骨の手を引いて、リンクの中央へと滑り出した。彼が動く度に視線より高い位置で一括りにされた黒髪が揺れる。ジュニアの頃と比べて随分と長く、目をひく髪だった。
 そうして無意識のうちに目で追っていた乙骨は、声をかけられていることに気づかなかった。慌てて姿勢を正し、聞きなおす。
「すみません。もう一度言ってもらえますか」
「だからね」
 乙骨の手を離した夏油がくるりと方向転換し、こちらに向き直る。
「君が得意なプログラムを何か滑ってみて」
「い、今ここでですか」
「そうだよ。それによって、何かが変わるかもしれないし、変わらないかもしれない」
 滑ってみて、と言われて真っ先に思い浮かんだのは御守りにしている演技のことだ。練習回数も多いから滑ること自体には問題ないだろう。
 しかし、本人の前で滑ってもいいものだろうか。ちら、と視線を上げるも、何も知らない夏油が微笑んでいるだけだ。
「あの、僕が何を滑っても不快になりませんか?」
「え?」
「ナンセンス! みたいなこと、言いませんか」
「君が想定している事態がさっぱり予想できないけれど、そんなことにはならないと思うよ」
……これから滑るのは、得意なプログラムというよりも、僕がずっと御守りにしていた演技なんです。本当に大事にしてました。たぶん、これからも。滑ってみてと言われて真っ先に思いついたのがこれでした。だから、その、」
「思い入れがある演技ってことかな。技術や演技内容に物申したいわけじゃない。急なお願いだし、好きなプログラムを好きに滑ってもらって構わないよ」
……はい」
 表情が強ばっていたからだろう。夏油から指で眉間の皺を伸ばされて脱力する。小さく笑った夏油が壁際に移動するのを見届けてから、リンクの外にいるコーチへと声をはりあげた。
「五条コーチ! 曲をお願いします」
 実際に曲を流しながらこれを滑るのは久しぶりだ。
 それにしても。すでに曲名でバレてしまっただろうか。いや、これまで様々なスケーターが同じ曲で滑ってきたのだから大丈夫なはず。曲が流れ始めるまでの数十秒間、乙骨の脳内には様々な考えが浮かんでは消えた。けれど、曲がかかった途端、全てはどこか彼方に飛んでいき、幼馴染の笑顔とスケートの楽しさでいっぱいになったのだった。

 プログラムの途中に組み込まれた、審査員へ自分をアピールする時間。乙骨はリンク端の夏油へ向けて視線を送った。ほんの一瞬、彼が目を丸くしたのが見えた気がする。
 なんだか余計に楽しくなってしまい、残りの演技も練習とは思えないほど熱を入れて完走した。曲の終わりと同時に、どこから出てきたのか不思議なほど汗が吹き出る。きつくて、苦しくて、痛くて、くたくたで。けれど、どうしようもないほど楽しかった。
「お疲れさま」
 かけられた声に、はっと現実へと呼び戻される。
「乙骨って」
 続く言葉はなんだろう。演技の疲れとは別の理由で心臓がどこどこと音を鳴らしだす。ぎゅっと練習着の裾を掴んだとき、夏油がその手をとり、両手で包んだ。
「スケートが好きなんだね!」
「へ」
「すごく楽しそうな顔をしていた。君の視線もしっかり受け取ったよ」
「えっ、はっ、はい!」
 ジュニア時代のプログラムを真似たことに対して何も言われなかった。そのことに安堵してへなへなと膝が折れそうになる。大して結果も残せていないガキが自分の真似をするなんて生意気だ、なんて言われたら立ち直れないところだった。いや、そんなことを言う人ではないだろうけれども。
 今にも崩れ落ちそうな乙骨の肩に腕をまわして引き寄せた夏油は、何故か五条がいる方へと大きく手を振った。
「悟〜! 君の提案、のむよ!」
「てい、あん?」
 見上げた先で夏油が、そうさ、と片目を瞑る。
「今日から、私が乙骨のサブコーチにつくからね。よろしく」
「ええ!?」
「ああ、それと」
 有無を言わせないとはこのことか、と納得させられるほど綺麗な笑顔で夏油が口を開く。
「これから三日はジャンプ禁止だよ。君には今から徹底的に体力作りをしてもらう。一緒に走りこみに行こうね」
「ひえ」
「基礎は大事だよ。悟に教わらなかったのかい」
 そう言われてしまっては反論できない。半ば引きずられるようにして壁際まで移動すると、むすりとした顔つきの五条が腕を組んで待っていた。
 話の流れからして、五条が何かを頼み、夏油がそれに了承したのだろうと見当がつくのだが、どう見ても頼み事を聞いてもらった人間の顔ではない。
「じゃあ、乙骨は明日からウチのリンクで練習させるよ」
「はあ?」
 抗議の声を上げたのは乙骨ではない。五条だ。
「ここで練習すればいいだろ」
「私には他にも見てあげたい生徒がいるんだよ」
「ソイツら連れてくりゃいいじゃん。ここは設備が整ってる」
「ウチのリンクだって、いいスタッフが多い」
 それに、と夏油が手を伸ばし五条の心臓辺りを指で突く。
「君、競技続行するつもりだろう」
 そうなんですか、と声をあげる前に視線を移した五条は、驚いたような呆然としたような様子で立っていた。
「悟ほどスケートを好きな人間を私は知らない。そんな君が、いつまでも氷から離れていられるわけがないんだ」
 ちら、と夏油が乙骨を見て、それから頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「同じようにスケートが好きなこの子の演技を見て、触発されたんじゃないかい。だからコーチを引き受けたんだろう。灰原じゃないけれど、私は、スケートを好きな人間を見る目には自信があるんだ」
 何かを言いかけた五条の口は、僅かに横に開かれたが、それだけだった。ため息を一つ吐き、いつものような飄々とした雰囲気に戻る。
「ていうか、僕の生徒だからね。そこ忘れないでよ」
「忘れないさ。少なくとも、ひと月後には返すから安心してくれ」
「オマエが連れて来いよ」
「ええ? 信用ないな。まあ、それもそうか」
 あっけらかんとした様子で、夏油は乙骨を見下ろす。頑張ろうね、なんて笑う姿は長閑ささえ感じる始末だ。けれど、乙骨は微妙な空気をきちんと感じ取っていた。主に、五条の方面から。
 現役復帰が事実ならば、いつからそうするかはさておき、コーチ業に専念してもらうことは難しいだろう。
 夏油がサブコーチを務めてくれるのならば有難い話だ。五条も、そのこと自体には異論はないはず、というか、彼から夏油に提案した様子なので問題ないだろう。
 一体、どうなってしまうのか。
 しかし、どうなろうと目標は変わらない。やることは決まっている。先の不安からきりきりと痛む胃と、覚悟を決めた顔つきを携えて、少年は夏油が所属するクラブチームへと一時入会することになったのだった。



 髪を伸ばそうと思った時期がある、と言ったならば、オマエは笑うだろうか。

**

「うああ゙〜〜きもちいい〜〜」
「それは良かったわ」
 乙骨は今、夏油が所属するクラブに来ており、そして、柔道整復師のラルゥによって全身を解されていた。

 夏油たちが使用しているリンクは、自宅からは少し遠いものの、通っている学校からは意外と近い。そのおかげか、距離的な面での変化は少なかった。
 夏油に連れられてクラブチームのメンバーの前へ立たされた時には、彼らのあまりに強い個性を浴びて目を回しかけたが、今なら良い人たちだと分かる。それぞれ夏油にスカウトされてクラブに所属したのだという。

 ここに来て半月が経った。この期間、五条から指導された基礎練習と、夏油から課された体力作りに励んだ。それらが終わった後は、ラルゥから予防的な身体の使い方を指導されたり、疲労回復のマッサージを施してもらったりしている。
「はい、終わり」
「ありがとうございました」
 頭を下げて施術室から出る。密かに身長が伸び続けている乙骨にとって、ありがたい環境だった。
 そろそろ帰ろうと荷物をまとめていると、端末が着信を告げる。相手は、五条だ。
『もしもーし』
「お久しぶりです」
『元気してる?』
「はい。おかげさまで」
『今度の国際大会で滑るプログラムのことなんだけど』
「え!? 僕、出られるんですか」
『出られるさ。全日本の成績まあまあだったし、他にも何回か表彰台に乗ったでしょ。ちゃんと派遣選手に選ばれてる』
「選ばれてるんだ……
 コーチの言葉に、事実をかみしめる。じわじわと喜びがわき上がってきた。ついに、願いが叶う時がきたのだ。
『おーい。喜んでるところ悪いけど、話戻していい?』
「はい!」
『前回みたいに僕が全部選んでもいいけど、せっかくの国際大会デビューだし、憂太が選んだ曲でやりたい演技してみなよ』
「僕が選んだ曲ですか」
『そうそう。大会までまだ時間あるし。考えといて。あとさ』
「はい」
『憂太、国際大会で金メダルとったらスケートやめるの?』
「え……
 咄嗟に答えられなかった。
『まあいいや、とりあえず曲考えといて。スケート続けるかはこっちに帰ってきてから答えを聞かせてよ。そんじゃあね〜』
 通話を終えた、というよりも一方的に切られた端末をじっと見つめる。一瞬、とんでもない質問をされたような気がするが、気のせいではないだろう。けれど、それよりも先にまず考えなくてはならないのは曲選びだ。

 これまでのコーチたちは、それぞれ何かしらのイメージを乙骨に抱いており、彼らの選んだ曲と演技を提供してくれた。乙骨はそれに応えてきたつもりだ。同時に、今まで一度も自分が選んだ曲や演技で滑ったことはないという意味でもある。
「どうしたんダ」
「あ、ミゲルさん」
「ミゲルでいいと言っているだろウ」
 廊下に立ち、頭を悩ませていた乙骨へ声をかけたのは、振付師のミゲルだ。このクラブに所属する生徒が大会に出る際、振り付けの殆どを彼が担当するらしい。
「悩み事カ?」
 クールな印象のミゲルだが、生徒には親切だ。一時的に世話になっている乙骨にも、それは適応されるらしい。
 乙骨は先ほどの電話の内容を踏まえて、今悩んでいることを打ち明けることにした。
「なるほどナ」
 休憩所のベンチに座り、飲み物を買ってくれたミゲルの端正な横顔をじっと見つめる。コーチである五条の顔立ちも美しいが、ミゲルの顔立ちはまた種類の異なる美しさだ。聞けば、他の国で働いていたという。彼は何故この国の、小さなクラブチームで働こうと思ったのだろうか。
「夏油に着いてきたんダ」
「へっ」
「声に出ていたゾ、乙骨」
「す、すみません」
「別に気にしてなイ。俺は生まれた国を出て、大国と呼ばれる国に向かっタ。世界一のダンサーになりたかったんダ」
 しかし、大国での暮らしは徐々にミゲルの身も心も削り取っていった。実力は確かにあるのに、何故か他の者が選ばれていく。そんな日々が続き、酒場で腐っていたミゲルの元へたまたま夏油が現れたのだという。
「初めは、なんだこの東洋人は、と思ったナ。俺も酒を飲みすぎていたし、夏油は、どうだったカ。まあ、成り行きで俺たちはダンスバトルをすることになった」
「なんで!?」
「さあナ。細かいことは忘れたヨ。ただ、それがきっかけダ。この国に来ることを考えたのハ」
「ちなみに、どっちが勝ったんですか」
 乙骨の質問にミゲルは鼻を鳴らしただけだった。
「要らん話をしタ。お前が自分だけのプログラムを作るというなら、手伝ってやらんこともなイ。夏油も目をかけていることだしナ。あの五条が何と言うかはしらんガ」
「五条コーチのこと、知ってるんですね」
「この業界で五条のことを知らないのは、ダンスをしていて俺を知らない奴と同じくらいにモグリだロ」
 ひら、と手を振ったミゲルが席をたつ。
「まっ、待って!」
 世界一のダンサーを目指していたミゲル。彼は、なりたかった、と言った。では、今の夢はなんなのだろうか。
「俺の夢は、俺の振り付けで夏油が氷の上を滑ることだヨ。ただ厄介なのは、俺は夏油が自分で考えたプログラムを滑るのを見るのも好きだということダ」
 それだけ言うと、ミゲルは照れたような様子で足早に休憩所を去ってしまった。
「自分で考えたプログラム
「や!」
「うわあッ!?」
 五条やミゲルから言われたことを頭の中で反芻しながら、ぼんやりと蛍光灯を眺めていた乙骨の肩が叩かれた。驚きのあまり軽く跳ねた乙骨を見て夏油は苦笑し、壁を指さす。休憩所の壁にかけられた時計を見ると、もう殆どの生徒は帰っている時間帯であったし、リンクの営業時間も終わりが近かった。
「時間が過ぎるのに気づかないほど何を考えていたんだい。確か今日は、ラルゥの施術を受けたら終わりの予定だっただろう」
「もしかして、生徒全員のスケジュールを覚えてるんですか」
「まあね」
 夏油のかかえる生徒は少なくない。このクラブのヘッドコーチは、元オリンピック金メダリストの九十九由貴だ。あの日、夜蛾と挨拶をしていた金髪の女性である。彼女はここだけではなく、他にもリンクを運営しているそうで、ひとところに留まっていないのだ。故に、普段は夏油がほぼ全ての生徒を見ている。
 驚異的な記憶力に唖然とする乙骨の隣へ夏油は腰掛けた。
「もしかして、自分でプログラムを組み立てるように言われた?」
「えっ、いや、その、プログラムとまでは言われてないんですけど、曲を選ぶように勧められて」
「そうか。これまでに経験は?」
「ありません」
 ふむ、と顎に手をやり頷いた夏油は、続けて好きな音楽について尋ねてきた。改めて聞かれると、これ、といった曲名やジャンルを答えられない。
 なんせ乙骨は、幼馴染とスケートに青春を捧げて生きてきたからだ。
「じゃあ、ひとつの例を教えてあげよう。かつて、私がプログラムを一人で組み立てた時の話だ」
 先ほど、ミゲルが話していた内容だろう。背筋を伸ばして耳を傾ける。
「私はね、ジュニアでスケートを辞めるつもりだったんだ。というよりも、初めから大会に出るつもりでスケートをしていなくてね。たまたま学校の授業でスケート教室があって、意外と楽しかったから冬の間だけ遊びに行く程度だったな」
 一回の利用料は、当時子どもだった夏油にとって決して安いものではなかった。けれど、ある時期からリンクの関係者が気まぐれで滑り方を教えてくれるようになってからは、面白いほどに上達し、それが楽しくて続けたくなってしまったのだという。
「ある日、バッジテストを受けてみないかと声をかけられた。そもそも、それが何だかも分かっていなかったよ。調べてみて、空手や柔道の段みたいなものに近いものだろうと理解した。私、格闘技が好きで習っていて、つまるところ色んな習い事をさせてもらっていたんだね」
 初めてのバッジテストに合格した夏油は、ますますスケートにのめり込んだ。しまいには、やっている習い事を全て辞めてスケートを本格的に習うことになった。
「楽しかったな。初めてのジャンプ、初めてのプログラム。出来ることがどんどん増えて、大会にも出られるようになって。浮かれてた。でもね、終わりは間違えないようにしていたんだ」
 遠くを見つめながら夏油が大きく息を吐く。
「ジュニア最後の大会で選手としてスケートに関わることを辞めると決めた時から、絶対に全てを自分が構成したプログラムで滑りたいと思った。持てる力を出し切って、これまでのスケート人生に捧げるプログラムを作りたかった」
 視線を乙骨へ向けた夏油は、ある歌劇を知っているかと尋ねてきた。知らなかったので首を横に振ると、彼は簡単にあらすじを教えてくれた。
「そ、それで?」
「ははっ、結末は自分の目と耳で確かめてみるといい。さて、どうしてこの話をしたかというと、劇中の曲を使ってプログラムを組み立てたからなんだ。……恥ずかしいから誰にも言ってなかったんだけれど、これまで良いことも悪いことも、色々なことがあったスケート人生に対する、一種の勝利宣言のようなつもりでね。その、まあ、ニュアンスだよ」
 一人で照れている夏油をおいて、乙骨は頭を働かせ始めた。何かに、誰かに向けた曲でスケートを滑る。そんなの、ただ一人しか居ない。黙り込んだ乙骨の表情を見たのか、夏油が頬を緩めた。
「その顔は、何か掴めたって感じかな」
「誰のために滑りたいかは掴めたような気がします。でも僕、そんなふうに滑るのも、曲を決めるのもあまり自信がなくて」
 乙骨はこれまでのスケート人生を振り返ってみた。
 五条以前のコーチたちは、何らかのイメージをもって指導をしてくれたのでその通りに動けばよかった。五条がコーチになってからは、基本を含め、一つ一つを丁寧に滑ることを心がけていたから、表現の部分にあまり意識を向けていない。
 自分だけのプログラムだというのなら、乙骨らしさのようなものを表現することが必要になるだろう。けれど、自分らしさが分からないのだ。
「なるほどね」
 夏油が納得したように頷き、続ける。
「明日、滑って欲しいものがある」
「なんですか」
「これまでの大会で滑ってきたショートプログラムを……そうだな。君には悟を含めて四人のコーチがいたはずだから、それぞれ冒頭から一分ずつお願いしようかな」
 そこで言葉を切った夏油が、親指以外の指を立てて、四本分、と言い添えた。
 今まで滑ってきたプログラムは全て覚えている。
 加えて、こちらのリンクに来てからは体力作りにも励んでいたので、一分ずつのプログラムを滑ることもできるだろう。
 難しければ、と日にちをズラすことも提案されたが、もうそろそろ約束の一ヶ月が経ってしまう。アドバイスを貰えるなら早めがいいだろうと引き受けることにした。
「じゃあ、よろしく。さあ、今日はもう帰る時間だよ。引き止めてすまなかったね」
 出入口まで見送ってくれた夏油に手を振り、リンクを離れる。

 駅までの道のりで、乙骨はかつて師事してきたコーチたちのことを思った。彼らのプログラムを滑ることは難しいことではない。何度も手本を見せてくれたし、乙骨もその通りに滑るだけだったからだ。
 ふと、暗い影が乙骨の胸の中に広がる。ついでに、五条から問われた内容も頭をよぎった。金メダルをとったらスケートをやめるのか。
「い、いや、まずは大会でちゃんと滑るのが先だし! メダルの色なんて分かんないし! そもそもメダルが貰えるかも分かんないし! うん!」
 止まりそうになる足を無理やり動かして、勢いのまま改札を駆け抜けた。

 翌日。
 学校帰りの乙骨は、アイスリンク全体が何やら浮き足立っているのに気がついた。夏油に聞いてみるも、笑って肩をすくめられるだけだ。支度をしておいで、と促されたのでよく分からないながら、準備運動を済ませて氷の上へ立った。
「よろしくお願いします!」
「滑る順番はどれからでもいいよ」
 夏油の言葉に頷き、曲を流してもらうよう依頼する。
 ブレードが氷を削り、音に合わせて体を動かす度に、それぞれの大会での出来事が蘇ってきた。どのプログラムも、指導してもらった通りにこなした。頭の中にコーチが滑っていた風景を思い浮かべ、同じように滑る。
 乙骨は"彼らの理想"を体現するのが上手いスケーターだった。
「お疲れさま」
 一部分とはいえ四種類のプログラムを滑り終えて、流石に息が上がっている。リンクから降りて休むように言われ、腕を引かれるままベンチに腰かけた。後からラルゥの施術コースになるのは間違いないだろう。
「初めに滑ったのは■■さんがコーチをしていた頃のプログラムかな」
「っ、はい」
「その次は悟?」
「そうです」
 残りのプログラムとコーチ名も言い当てた夏油は、腑に落ちたとでもいうような表情をしていた。
「乙骨も目がいいスケーターなんだね。きっと、他人の滑りを見ただけで、どう体を使えば同じ動きになるかを理解できるんじゃないかい」
……
「これまで目標である国際大会出場を達成できなかった理由も分かったよ。それから、乙骨。君自身が課題だと感じていることも、なんとなく分かった」
 顔色をなくした乙骨の肩にぽん、と手を置いた夏油が立ち上がり、準備を始める。そうして慣れた手つきでスケート靴を履き始める様子をぼんやりと眺めていた。ブレードの分、さらに背が高くなった夏油がベンチに腰掛けたままの乙骨を見下ろす。
「これから滑る私の演技を全部完璧にコピーしてみせてよ。できる?」
「や、やります!」
 目を細めた夏油は、それ以上何も言わずに乙骨から視線を外した。そうして周囲を見まわすと、少し離れた位置にいた女性に声をかけた。
「撮影をお願いできるかな」
「こちらに」
「流石だなあ」
 このクラブに出入りしている元バレリーナで現アシスタントの菅田だ。既に撮影準備を済ませて控えていたらしい。感心したように頷いた夏油は氷の中心へと移動して行った。少しの間を置いて、音楽が流れ始める。
「これって」
 音に誘われるようにリンクの傍へと近寄る。
 氷上を滑る夏油の髪が、長く黒い軌跡を描いているような幻覚を見た。
 この音楽は、彼がジュニア最後の大会で滑ったプログラムに使われていたものだ。昨日、休憩所で話していた演技。彼が、自身のスケート人生の幕引きに選んだ勝利宣言。
 そして、乙骨にとっての三分三十秒の御守りであった。

 けれど、すぐに構成の違いに気づく。
 ジャンプも、スピンも、ステップも、当時ではなく、今の採点基準に沿って作り替えられていた。フィギュアスケートの採点基準は頻繁に変わる。大きな改正から小さな改正まで様々だ。
 夏油が滑っているのは、以前よりも難易度が上がったプログラムだ。これをミスなくこなせば、かなりの得点になるだろう。

 呆然と見つめていることに気づいたのか、夏油の視線が乙骨をとらえる。半月前、審査員にアピールするように夏油を見た時とは逆の立場だ。
 しかし、今の夏油はアピールなどではなく挑発めいた表情をしていた。同じことが君に出来るのか、と問いかけてくるような色がある。リンクの壁を握っていた手に力がこもった。
 人によっては長く、また人によっては短い時間の全てを、乙骨は目の前のスケーターの演技に捧げた。

 滑り終えた夏油は割れんばかりの歓声に応えつつ、真っ直ぐに乙骨の元へとやってきた。
「いいかい。フィギュアスケートで大会に出るということは、戦うということだ。戦って勝つために、より高い得点を記録するために、滑るんだ。君には本当の意味でライバルになるような相手がいなかったんだね」
 いつから夏油が滑るという情報を聞きつけていたのかは知らないが、今や、在籍しているスケーター以外に夏油自身のファンも集まっているのではないかというほどの盛り上がりだった。
 そんな環境下で、目の前の人物は乙骨だけに語り続ける。
「国際大会に出たいんだっけ。滑る姿を見せたい相手がいるから? 見せたいだけなら、相手が住む国に行って、リンクに呼び出すなりしてから滑ればいい。ただし、国際大会に出るつもりなら、君は同世代の誰よりも高い得点をとり、勝ち抜き、選ばれる必要がある。国の代表者として氷上に立つに足る存在だと証明しなければならないよ」
 出来の悪い生徒を諭すような、もしくは期待をかけている後輩を激励するような言葉が、乙骨の全身を貫いて離れない。
 今まで感じたことのない感覚だった。
 生まれて初めて、乙骨はスケーターとして戦うという意味を理解しつつある。そんな変化に気づいているのだろうか。夏油は乙骨をひたりと見つめて名前を呼んだ。
「君に最も足りないのは表現力なんかじゃない。野心だ。目的を達成するために、何がなんでも表彰台に立つという貪欲さだ。君が辿り着こうとしている場所は、そういう場所だよ」
「一番足りないものが、野心だって言うんですか? 個性のなさじゃなくて?」
「個性のなさ、ね。やはり君はそう思っているのか。まあいい。とにかく、誰かに勝ちたいと思ってごらん。まずは、この場所で、私よりも観客を楽しませるんだ」
「夏油さんの演技を完全にコピーして、ですか?」
「そうだよ。私のスケートで楽しんで、それから」
 私の演技で私を超えてみせて、と黒い化け物が笑った。

 氷を蹴ってリンクの中央に移動する。
 そもそもさ、と乙骨は内心呟く。乙骨は、スケートが好きで始めたわけじゃない。スケートをしたくて始めたわけじゃない。
 きっかけは幼馴染だったし、続けている動機も幼馴染で、次の国際大会で滑りを見せたいのも幼馴染という偏りっぷりなのだ。

 始めた頃は、氷を蹴っているスケート靴についている刃が、ブレードやらエッジやらと呼ばれていることも知らなかった。ジャンプもスピンもステップも、何も知らなかったのである。
 今だってスケートに詳しいわけじゃない。
 スケートの全てを好きなわけでもない。
 それでも、ここに立ち続けているのは。自分に足りないものを想像して気分が落ち込むのは。やはり楽しさを知ってしまったからなのだろう。
 そして今、その楽しさを後押ししてくれたスケートを滑っていた選手が同じリンクにいる。自分の演技を真似して、自分よりも楽しんで、楽しませてみせろと笑っている。
「──ふーっ……曲、お願いします」
 視界の端に菅田がCDプレイヤーに手をかけたのが映った。
 周囲を意識できたのはそこまでだ。気づけば夢中で夏油のプログラムを追っていた。ジャンプの種類を増やし、着氷だけでなく出来栄えにもこだわる。なるほど、今の採点方法に適う構成だ。

 けれど、滑っている乙骨には分かる。
 全然変わっていない。
 定められたルールの中で、めいっぱい自分のやりたいことを詰めて、楽しむためのプログラムだ。乙骨が御守りにしていた滑りの楽しさが、そのままそこにあった。
 楽しい。着氷の衝撃を感じながら指先まで夏油を真似る。
 楽しい。苦しいけれど楽しい。曲を聴きながら次のジャンプを思い描く。夏油が取り入れたジャンプをこなすには、どの様に体を動かせばいいのか、難しく考えなくても理解ができる。
 背中で風を感じながら、膝を曲げ、後ろ向きに踏み切った。

 乙骨が再び周囲を意識できるようになったのは、回っていた視界が落ち着いてからだった。最後のポーズまで真似し切ると、どっと疲れがわいてくる。この振り付けを考えた奴は変人だ。目の前にいるけれど。
「素晴らしい!」
 表情から興奮していることは分かるのだが、ほとんど音がしない静かな滑りで夏油が近づいてきた。こんな時でも滑りが雑にならないところに思わず笑ってしまう。
「ありが、とう、ございます」
「うんうん! 素晴らしいよ、乙骨! 見なよ、このスタンディングオベーションを。私の演技と変わらないくらいの熱気だ!」
 渡されたタオルで額を伝う汗を拭い、周囲を見回す。夏油よりも観客を楽しませられたかは分からないが、盛り上がっていることに変わりはないだろう。
 どちらが盛り上げられるかなんて、今にして思えば曖昧な勝負だ。勝負になっているのかも分からない。疲労でふわふわとした思考のまま乱れた呼吸を落ち着けていると、ふとタオルが奪われた。あっと思う間もなくガシガシと髪を拭かれてよろめく。
 もしかして、いい加減、文句のひとつでも言った方がいいのかと思い始めた乙骨の耳に、楽しそうな声が聞こえてきた。
「でも、どうして途中のジャンプの回転数を増やしたんだい」
 問いかけに答える前に、頭を振って夏油の手を払う。タオルを首にかけて、しっかり夏油を見上げた。
「同じ回転数じゃ、夏油さんの得点を越えられないと思ったからです。僕と夏油さんとは身長差があるし、体の細さからいっても回転数を増やせるだろうと判断しました。そっちの方が、楽しんでもらえて、夏油さんに勝てるかなって」
「へえ」
 夏油は愉快そうに口角を上げ、乙骨の肩に腕を回すと、菅田に数枚写真を撮らせてからリンク端へと引っぱって行った。
「勝ちたいという気持ちが伝わってきたよ。これが公式戦でないのが残念でならないくらいさ」
「本当ですか?」
「もちろん。それに、自分で課題にも気づけたみたいだし」
 エッジカバーをつけ、ベンチに腰かけた二人は、わらわらとリンクで練習を始めた他の生徒に目を向けた。
 ここにいる全員が大会に出ることを目指しているわけじゃない。九十九の伝手で他のクラブよりも安い価格で運営されているここには様々な目的を持った生徒が所属しているのだ。
「君は確かに目がいいスケーターだ。これまでたくさんのコーチから指導を受けて真似をしてきただろう。きっと、悟を除いて、全員が君と同じくらいの身長だったんじゃないかな。すごく似ていたよ。でも、悟にコーチングされた内容はプログラムこそ同じでも表現の部分で差があったんじゃないかな」
……五条コーチは変に手足が長いから」
「あはは」
 笑いながらベンチから離れていった夏油を視線だけで追う。近くに来ていたラルゥから飲み物を受け取った夏油は、再び乙骨の隣に腰かけた。
「水と麦茶、どっちがいい?」
「麦茶をお願いします」
 ペットボトルを傾けながら、氷の上で楽しそうに滑る子どもたちを見つめる。当たり前だが、皆それぞれ性別も身長も体格も違った。
「他の選手のスケーティングを真似できることを、あまりよく思っていないみたいだけれど、悟の例もあるように完璧な模倣にはなってないからね」
「うっ」
「前の三人のコーチは、たまたま体格が似ていたこともあって、上手くいってしまったんだろうけれど。そこは君のせいじゃなくて、他人に自分を重ねすぎた大人に問題があるかな」
「ううっ」
「そもそも、この世にある名前のついた技術は、私たちの先人が生み出したものなんだから、真似と言ってしまえばそれまでなんだよ」
 肩を落とした乙骨の背中を夏油が軽く叩く。
「楽しかった?」
 突然の質問に顔を上げる。穏やかな視線と目が合った。
「はい。前のプログラムと同じくらい楽しかったです」
「そうかい。真奈美さん」
「こちらに」
「よく分かったね、ありがとう。はい、これ。君にあげる」
 ぽん、と渡されたのは小さな記録媒体だった。もしかして、と二人を見つめると、同時に頷かれる。先ほど夏油が滑った動画が収められているらしい。
「よかったら、君にこのプログラムを贈らせてほしい」
「えっ、ええ!?」
「実は、今回の振り付けは、どちらかというとジュニア向けに組み合わせたんだ。使えそうな所があれば抜き出して使ってくれ」
「本当の本当にいいんですか」
「冗談でこんなこと言わないよ。これで、何か一つくらいは君の糧になるものを渡せたかな」
「〜ッ! ありがとうございます!」
 勢いよく立ち上がり、頭を下げる乙骨に大人二人は微笑ましいものを見たといった様子だ。
 離れたところから見守っていたラルゥや、話を聞きつけたミゲルに構われてチヤホヤされつつ半月後に夏油たちのリンクを後にしたのだった。



「髪を切って、悟」

**

「ゆ・う・た〜? なにこれ?」
「ひいい! 近い! ……えっと、それは」
 ホームリンクに戻った乙骨を待ち受けていたのは、端末画面を顔に押し付けてくる五条だった。
 少し離れて確認してみると、先日、夏油が所属するリンクで滑った時の写真が個人ブログに掲載されているようだった。それも、一人のブログではない。複数人のブログに掲載されてしまった上、ネットニュースにも取り上げられていた。

「『熱い師弟愛? 感動の滑りを見せた乙骨選手を可愛がる夏油元選手』『鞍替えか!? スケート界に激震走る! ビックネームだらけの三角関係!』『仲良く並んで飲み物を飲む乙骨選手と夏油元選手♡ 微笑ましくて思わずパシャリ』──他にもいっぱいあるんだけど、何しに行ってたの」
 詳しく記事を見てみると、乙骨の貸し切り練習に夏油が付き合ったという内容が書いてあった。ブログを書いたのが夏油のファンだったらしく、夏油の滑りに対して熱いメッセージが長々と書かれている。見出しは過激だが、内容はまともだ。
「いやあ、見ていただいたままというか、なんというか」
「はあ?」
 長身の五条に詰め寄られると単純に圧が強くて怖い。
 腰を極限まで反らせて五条から逃げていると、すまない、と謝罪の言葉が聞こえてきた。もちろん、五条からではない。入館手続きを終えた夏油だ。救世主の登場に、思わず情けない声が漏れてしまう。
 早く助けてくれの意味を込めて手を伸ばそうとしたが、五条の身体に遮られた。五条の背中しか見えないが、夏油と恐らく向かい合っているのだろう。向こう側から夏油の謝罪がもう一度聞こえてくる。
「短時間の貸し切り練習だったんだが、動画が流失してしまった。夜蛾コーチにも謝罪させてもらったよ。私の管理不足だ」
「別に。オマエだけの責任じゃねーだろ」
 頭をかきながら言う五条を見上げる。本当に人によって、いや、夏油にだけ態度が違うな、と改めて思う。夏油が五条の目の前に現れてから今まで、乙骨は五条の知らない一面ばかりを見せられているから、もう驚かなくなった。
「それよりさ、何これ。僕の生徒だって言っただろ。距離が近すぎるんだよ」
「君が乙骨を私のもとに寄越したんだろう。彼を焚きつけるために。ちゃんと役目は果たしたし、素晴らしい演技を見せられたら、そりゃ気分も上がるものさ」
 ね、と五条の身体の横から顔を出して同意を求めてくる夏油に、思わず頷いた乙骨は、恐る恐る自らのコーチに視線を移したがコチラを向いていなかったので胸をなで下ろした。
「じゃあさ、オマエさ。僕が凄い演技したら、こういうことすんの」
「「え?」」
 思いがけぬ発言に、乙骨も夏油も顔を見合わせる。周囲の困惑など気にしない氷上最強のメダリストはマイペースだ。端末画面を夏油の顔にも近づけると、拗ねたような声色で続けた。
「こんな近くで、くっついてさ。僕の生徒だって言っておけば、無闇に近づかないって思ったのに全然意味ねえじゃん」
……会わない間に随分と素直になったね」
「はっきり言わなきゃ分かんないこともあるみたいだし、分かった気になって天狗になってたら、いつの間にか大事なものが離れていくからさ。過去から学んだんだよ」
「へえ、それはまたぶッ」
 五条が夏油の両頬を片手で掴んだ。
 途端、夏油から発せられた怒気に、乙骨も偶然通りかかったスタッフも身をすくませたが、五条だけは何故か機嫌がよさそうだ。夏油にぎりぎりまで顔を近づけた五条は、低い声で囁いた。
「次の大会、絶対観に来いよ」

 ちゅーするかと思った、とは通りかかったスタッフの話だが、乙骨だってあの一瞬はそう感じた。けれど、他所のリンクで暴れるわけにはいかないと、片頬をヒクつかせている夏油の前では何も言えなかった。

「ともかく、私の役目はここまでだ」
 あの日、夏油はそう言って去っていった。
 それは、ネガティブな別れではなく、乙骨ならば大丈夫だと背中を押す挨拶だ。
「私たちは、積んできた練習内容も、食べているものも、感性も違う。コーチの完璧な模倣だけを目指したって、細かい部分で違いが出てきてしまうものなんだ。そしてそれは表現で審査員に悟られてしまうだろう」
「はいっ」
「私の役目は君に発破をかけることだった。君のコーチの案だよ。だけど、自分には個性がないと思い込んでいる君が認識を変えない限りは、いくら外野が躍起になったところで響かないだろう」
 ここに、と人差し指で胸の中心を突かれる。思わずよろめいた乙骨に、夏油が少し意地悪そうに笑った。
「体幹を鍛える必要がありそうだね。私なら不意打ちでもその程度の力じゃよろめかない」
「はい……
「あはは。ねえ、大丈夫だよ。君にはちゃんと君だけの演技がある。自信を持って演技すればいい。勝つつもりなら、しっかりね」
 誰のために滑りたいのか、それを達成するための野心はあるのか。夏油や他のスタッフと過ごして見つけた答えを、乙骨は自分の中で大切にしている。
 
 そして、夏油が去って間もなく、五条の正式な大会参加が各メディアを通じて行われた。
「別に引退してたわけでも、隠居してたわけでもないんだけど」
 飄々とした調子でゴールデンスラム達成を宣言した五条は、かといって乙骨のコーチングに手を抜くことはなかった。
 夏油から譲り受けたプログラムの一部を大会で使いたいと話した時には、何か物言いたげな雰囲気を醸し出していたものの、乙骨があのリンクで得た感覚を伝えると振り付けに組み込んでくれたのだった。
 そんな風なものだから、乙骨は勇気をだして五条に質問してみたことがある。五条と夏油の関係は一体何なのかと。
 答えてくれないだろうなと思いながらの質問だったので、すぐさま不躾にすみません、と頭を下げてから氷上に戻ろうとした乙骨の耳に、確かな返事が聞こえた。
「親友だよ。たった一人のね」
 現役のエリジブルスケーターの中には比類する者が居ないと言われるスケーターの、その豊かな感情表現力をもってして放たれた言葉は、乙骨から言葉を取り上げるのには十分だった。
 ぺこりと頭を下げるにとどめて、乙骨は氷を蹴った。



 妹たちに見送られ、国際空港を夜蛾と出発した乙骨は、脳内で何度もプログラムのシュミレーションを行っていた。

 そう、夜蛾である。
 五条はここにはいない。きっと元気にやっている、はずだ。
 というのも、なんと五条が参加する大会の開催期間と、乙骨が参加する国際大会の開催期間が重なってしまったのだ。
 五条は出発のぎりぎりまで乙骨の指導をしてくれた。
 どこか雑な言い方だが──本人からすれば、乙骨のスケーティングの方が雑らしい──的を射た指摘は演技の糧になった。感覚派故にコーチングには向いていないと夜蛾から評価されていた五条だったが、幸いにも乙骨との相性は良かったようだ。

 そんな五条も流石に出発しなければならなかったので、最終調整は夜蛾と夏油に頼んだ。ラルゥもミゲルも駆けつけてくれた。
 そして、コーチが代わりがちで、なかなかクラブに馴染めなかった乙骨も、リンクメイトと呼びあえるくらいには他の生徒たちと交流できるようになったのだった。
 乙骨の狭い世界が急速に開いていくような日々だった。

 さて、見知らぬ土地のホテルで、メッセージをくれた人達に返信をして、ベッドの上に大の字に寝転がった。
「五条コーチなにしてるかな。金メダル、とるんだろうな」
 五条が表彰台の一番高いところ以外に立っている想像がつかない。きっと涼しい顔をして、メダルを持って帰ってくるはずだ。
 その時、乙骨の首にメダルはあるのだろうか。そして。
──憂太、国際大会で金メダルとったらスケートやめるの?
「どうしよう……
 万が一、目標を達成してしまった時に、乙骨は何を感じるのだろう。芽生えた野心が尽きた先に、何が待っているのだろうか。
 試合を間近に控えているというのに、眠れなくなってしまいそうだ。普段使っているものとは肌触りの違うシーツさえも気になり、寝返りを打った時だ。
 端末が通知を知らせる灯りをともした。動画が送られてきたらしい。再生してすぐに画面いっぱいに現れたのは、リンクメイトたちだった。
【憂太ー! がんばれー!】
【幼馴染に金メダル見せるんだろ! しっかりやれよ】
……みんな、ありがとう」
 遠い国まで時差を超えて届いたメッセージは、乙骨を勇気づけるには十分だった。

 試合当日。
 氷上最強のスケーターを師に持ち、支えにしていたスケーターからプログラムを譲り受けた。体調だってこれ以上にない万全のコンディションだ。
 そんな状態で望んだ乙骨は、練習中に氷の感覚を確かめながら、夏油のことを思い出していた。今日が最後だと思いながら氷上に立つのはどんな気分だったんだろう。
 見上げた天井で眩しく光る照明。息が白くなるほど冷えた空気。エッジが氷を削る感覚。加速する度に全身に感じる風。これら全てと別れる決断をした、当時の夏油を思ったのだ。
 並々ならない覚悟だったのだろうな、と今なら思う。きっと五条たちと出会う前の乙骨なら、そんなことは感じ取れなかった。たくさんの出会いが再び乙骨を変えたのだ。

 黙々とスケーティングを続けていると、にわかに他の選手や関係者がざわめき出した。マスコミと思しき人間たちも、慌てたようにどこかへ連絡しながら通路を駆けている。
 それとなくリンク端に寄ってみると、夜蛾が誰かと連絡をとっていた。普段は険しいその表情が、僅かに綻んでいるところを見るに悪い知らせではなさそうだ。
 つまり、そういうことなのだろう。
……僕も頑張らなくちゃ」
 五条が宣言通り、ゴールデンスラムを達成したのだ。次は乙骨の番である。
「よしっ!」
 気合いを入れ直し、自分の順番を待つ。
 同世代の誰よりも、この場に立つことが相応しいと思われてここにいる。自分の夢を叶えるために、国を代表して滑るために。これまでの三人のコーチ、五条、夏油から教わった全てを使って、金メダルをとる覚悟を決めた。
 もし、今日がスケート人生の最後になってもいい。だから、見ていてね。そう心の中で呟いた乙骨はリンク中央へと滑り出た。



「乙骨先輩」
 乙骨に声をかけてきたのは、リンクメイトとして二年後輩にあたる虎杖だ。
 大会出場に興味があるというよりも、氷の上で滑るのが単純に楽しいらしく休みの日だけ顔を出している。
「どうしたの」
「いやなんか、気のせいだったらアレなんすけど」
 もじもじとした虎杖の視線の先には、エリジブルを引退し、現在も乙骨のコーチを続ける五条がいる。いつにない真剣な表情で夜蛾と話している姿は、本人の端正な見た目も相まってたいそう絵になっていた。
「もしかして、五条さん、浮かれてます?」
「え! 分かるんだ。虎杖くんはすごいなあ。今日は別のリンクで活動してるクラブが来るからね。そのせいだと思うよ」
「へえ〜!」
 そんな会話をして間もなく、金髪の女が颯爽と入ってきた。高身長かつ整った容姿の彼女に虎杖の瞳が輝く。
「えっえっ、もしかして、あの人が五条さんの待ち人? ハンパねーっ!」
「えーっと、そっちじゃなくて、」
「乙骨〜!」
「夏油さん!」
 女、九十九の後ろから駆けてきたのは夏油だった。
 以前会った時よりも、少し髪が伸びたように見える。そうしていると、ジュニア時代の面影を強く感じるようだった。
「聞いたよ、シニアに移行するんだって? ますます期待しているからね」
「ありがとうございます! がんばります!」
 どこからか聞きつけてきたのだろう。
 夏油の言葉に乙骨は元気よく頭を下げる。その様子を見て、出方を窺っていた虎杖も夏油と挨拶を交わしていた。

 暫く続いていた談笑は、鋭い笛の音で中断された。集合の合図だ。
 乙骨はこの後の貸し切り練習まで休憩、虎杖は自主的な休憩とのことで、二人して夏油の隣でリンクの様子を見守ることにした。
「はい。ノービスクラスの君たちには、今日はこういう動きをしてもらうよ〜! お手本をよく見てね」
 張りのある五条の声がリンクに響き渡る。すると、その様子を見ていた夏油がぽつりと呟いた。
「悟、すっかりコーチが板についているね」
 どことなく嬉しそうな声色に、乙骨と虎杖は顔を見合わせた。特に乙骨はなんとも言えない表情をしている。

 確かに、乙骨にとって五条は得がたいコーチではあるが、一般的な見方に当てはめると夜蛾の評価が正しい。本人が天才肌であることと、コーチングの腕が上手いことは別なのだ。
 それに加えて、今日は妙に張り切っているから、ノービスクラスの子どもたちは少しだけ訝しげだった。
「今日は夏油さんがコーチングしている女の子たちは来ているんですか」
「来ているよ。後で挨拶してあげてくれ、金メダリストの乙骨憂太くん」
「やっ、やめてくださいよ!」
──ピピーッ!
……
「あー、えっと。そういえば、今季は拠点を海外に移すとか」
「はい。夜蛾コーチの伝手で向こうのクラブで面倒を見てくれる方がいるらしくて。五条コーチの最後の大会で臨時コーチをしていた方らしくて。つまりは師匠の師匠ですし、知見を広げてきます」
「乙骨、君、立派になったねえ」
──わああああ! 五条コーチすごーい!
──そんなのできないよ!
……
「夏油さん」
「はは。これって、飛び入り参加オッケーなのかな」
「夜蛾コーチがハゲる前にいってきてください」
 ため息をつきつつ、スケート靴に履き替えてリンクへと滑り出した夏油を五条が歓迎する。隣に並んだ途端に肩を組む様子は上機嫌そのものだ。
……五条さん、わっかりやす」
「あはは。でしょ?」
 乙骨たちの視線の先には、誰よりも楽しそうに氷の上で息をする二人の姿があった。



オマケ:いつか貴方に手が届く(五条ver.)

 かつて氷の上には色がなかった。
 今となっては馬鹿馬鹿しいけれど、あの当時は氷の妖精なんて呼ばれていた。
 生まれついて色のない髪と、メラニン色素の薄い瞳という全体的に色味の少ない見た目がそう呼ばせたのだと思う。少なくとも、ノービス時代の正確無比なスケート技術を見てついた呼称じゃない。そうだとしたら、そいつの目は節穴だ。

 だって、氷の妖精はここにいる。
 照明が絞られたリンクの上で長い黒髪が踊る。
 どこの生徒だろう。近隣のリンクで大規模な点検作業が行われる影響から、各スケートクラブに通っていた生徒は普段俺たちが使っているリンクに集合することになった。
 これまで、この時間帯に滑るのは俺だけだったはずだ。
 それは別に、俺が熱心なスケーターだからってわけじゃない。ただ周りが勝手に遠慮して、配慮して、譲ってくるのだ。だから今滑っているということは、俺のことも暗黙のルールのことも知らない、外から来た奴だという証拠だった。
 邪魔だと怒鳴り散らしてやってもよかった。雑魚は視界に入ってくんなって、これまでみたいに一蹴してもよかったんだ。
「あれ、君もこれから滑るの」
……うん」
「よかったら、一緒に滑ろうよ」
「うん」
 言えなかった。
 だって全くもって邪魔じゃなかったし、雑魚でもなかったから。そして、できるだけコイツを視界に入れて、スケートを見ていたいと思ってしまった。たぶん、本能で、コイツだけが俺と同じ生き物なのだと察知したのだ。俺たちは氷上で生きる怪物だと。
 俺の手を引く妖精の黒髪が目の前で揺れる。揺れる。
 全身黒い練習着に身を包んだコイツの色だけが、息が苦しくなるほど眩しい。
「私は夏油傑」
 妖精には名前があるらしい。誘われるように口を開く。
「五条、悟」
「ああ、五条くん! 噂は聞いているよ」
 くるりと振り向いた傑が俺の両手をとって笑う。ブレードが削った氷の粒は、照明を反射して誇らしげに輝いた。あまりにも美しくて、現実味がない。
 どうか、その噂とやらがコイツにとって、クソみたいな内容でないことを祈ることしかできなかった。
「私たち、きっと仲良くなれると思うんだ」
 傑がほんの少し照れたように言う。
 その瞬間、俺は知らない世界へと連れてこられたのだと、唐突に理解した。
 俺と雑魚しか居なかった世界に、鮮やかな黒い妖精が、傑が現れて、何もかもをひっくり返していったような心地だった。
……俺もそう思う」
「フフッ。私たちって、案外、気が合うのかもね!」
 俺はもう言葉を知らないガキみたいに、何度も頷くことしかできなかった。



 かつての俺は、視界に入れる価値がある奴なんて居ないと思って過ごしていたから、氷上でも陸上でも散々な態度で過ごしていたと思う。
 つーか、たぶん過ごしていた。
 偶々、俺が所属していたクラブと同じリンクを使うことになった傑に出会っていなければ、ずっと変わらずに成長していただろう。この歳までスケートを続けていたかも分からない。

 氷上最強だなんて、小っ恥ずかしい渾名のスケーターがこの世に生まれたのには三つの転機がある。
 初めは俺が俺として生まれたこと。これは当然。
 次に傑との出会い。
 最後は、全日本ジュニアフィギュアスケート選手権だ。

 俺と傑が最後に同じ舞台へ立ったのは、二人が十七歳の時に開かれた全日本ジュニアフィギュアスケート選手権だった。
 この大会の後、俺はシニアへ進級する予定になっていた。拠点も海外に移して、本格的にシニアとしての競技人生を始めるつもりだったのだ。
 直接聞いたことはなかったが、傑もそうするものだと思っていた。そして、二人でオリンピックに出るのだと信じて疑わなかった。
 俺がそれを疑わなかったのは、傑が、かなり前からこの試合に気合を入れていたからだ。その熱にあてられて、俺もいつも以上に練習に熱を入れた。

 あの日、俺の一つ前の走順だった傑は、割れんばかりの拍手に包まれていた。
 曲が止まり、数秒経ってから顔を上げた親友の瞳は、照明を反射して紫や金の輝きを放っている。
 演技を終えた傑の白い頬は紅潮し、ひと房だけ下ろされた真っ黒な前髪が額につくる影まで瑞々しい。
 観客に手を振りながら待機スペースに移動する姿を抗えないまま目で追った。得点の開示なんて待つまでもない。絶対に今期最高点だ。

 もしも俺が傑のコーチなら、彼が待機席に現れた瞬間抱きしめて、歓喜の涙を流しながら顔中にキスの雨を降らす。そんな演技だった。
 しかし、俺はコーチではなく、現在開催真っ只中の全日本ジュニアフィギュアスケート選手権における最終滑走選手だった。もう少しで物陰に隠れて姿が見えなくなる、というところで傑がくるりとこちらを向く。
 ばちり。視線が合って、親友が笑う。
 待ってるよ。
 口の動きだけで傑はそう言った。

 待っている、らしい。最高の演技を見せた親友が俺の演技を待っている。それだけで途方もない熱が身体の中心に灯された。その熱をなんと呼ぶのかは知らないけれど、間違いなく傑が俺に火をつけた。
 確信に近い予感が全身を駆け巡った。これから滑る演技は、自身最高のものになるだろう。そして、傑がいる限り何度も最高を更新し続けるのだ、と。俺達はそうやって氷上で生きていく。
 一点の曇りもない未来を描いた俺のブレードは、いつになく軽やかに氷を蹴った。


「先にインタビュー行きなよ、金メダリスト。君の言葉を待っている人がたくさんいるよ」
 互いに全てを出し切った演技だった。0.03点差で俺が逆転優勝を果たしたが、結果がどうなるかは最後まで誰にも分からなかっただろう。
「はー? やけに殊勝じゃん。まあ、ジュニアラストは俺の勝ちってことで。じゃ、次はシニアな」
 その言葉に傑は何も言い返さなかった。ただ微笑んで、報道陣の前に向かう俺を見送っていた。だから、間抜けにも、インタビューが終わったら二人で何か食べようかなんて考えていたのだ。

──今回、二位という結果でしたが、ご自身ではどう受け止めていますか?

 退屈に任せ、俺は傑のインタビューを近くに潜んで盗み聞きした。
 相変わらずつまらない質問をするインタビュアーだった。さっきも同じようなことを聞いていた。耳に小指を突っ込み、お得意の優等生的な回答を待つ。
「自分としては悔いのない演技ができたと思っているので、結果には納得しています」
 思った通りの内容に思わず笑ってしまう。この調子では、次もきっと俺と同じことを聞かれるはずだ。

──次はシニアでの活躍が見られるのでしょうか?

 ほら来た。
 頭の後ろで腕を組んで鼻で笑う。どうせ同じことを聞くなら、二人同時にインタビューをしてくれればいいのに。そうしたら、終わり次第一緒に帰ることができる。傑だって似たようなことを考えているだろう、と思っていた俺の耳に、信じ難い言葉が聞こえてきた。
「私は今回の大会をもって選手を引退します。これまで応援してくださった皆さん、本当にありがとうございました。皆さんのおかげで、最後まで納得のいく演技を続けられたと思っています。これからも皆さんとフィギュアスケートが共にありますように」
 聞いてない。そんなこと、なにも聞いていない。愕然とする俺の前でインタビューは進む。

──引退の決断はいつ頃されたのでしょうか?

「明確にいつ、というのはないのですが、支えてくださった関係者の皆さんや、コーチとたくさん話をして、自分で決めました。今回の結果がどうであれ、全日本で終わろうと思っていたので、納得のいく演技で締めくくることができてほっとしています」
 吐き気がするほどのシャッターを浴び、平然と俺の知らない未来について語る親友が信じられなかった。
 だから、盗み聞きしていたことも忘れ、インタビューが終わった直後の傑を捕まえて問い詰めたのは、当然の行動だった。
「どういうことだよ」
「どうもこうも、そのままだよ。私は今回の大会を持ってフィギュアスケーターを辞める」
「ッ、辞めてどうすんだよ!」
 思わず掴んだ腕に込めた力を強めてしまう。それでも傑は凪いだ様子で立っていた。
「地元に戻って大学受験かな。行きたい学部があるんだ。学びたいことも、たくさんある」
「それは、スケートしながらじゃ、駄目なわけ」
 聞きながら、駄目なんだろうな、と思った。
 傑は中途半端を嫌う。やる時はとことんやる男が、スケートをやめてやりたいことをすると言うのなら、恐らく何を言っても意見は変わらない。
 掴んでいた腕から手を離す。脱力して俯いた俺に傑が近づく。
「悟」
……なに」
「頼みたいことがあるって言っただろう」
「よくこの状況で言い出せたな。いいよ、なに」
「髪を切って、悟」
 俺を驚かすのは一日一回までにすると、法律で定めるべきだと思う。コイツにとって、そんなつもりがないことは分かっているが、叫び出したい気分だった。
「悟に切ってもらえないなら、私はリンクから少し離れた角にある散髪屋で髪を切るけど、いい?」
「いいわけねえだろ! あの散髪屋は俺らのコーチの頭を危うくつるっパゲにするところだったんだぞ!」
「悟」
「やだ」
「悟」
……じゃあ、髪を切る理由と、なんで俺なのか言えよ」
「力士の断髪式みたいな感じかな」
「オマエ、スケーターじゃん」
「そう、私はスケーターだ だから、髪を切るなら最高のスケーターである君の手で切ってほしいと思っている。これが理由」
 そんなことを言われて断れる奴がいるなら出てきて欲しいし、俺以外にこんなことを言わないで欲しいと思った時点で負けだったんだと思う。

 再び、傑の手を引いて控え室に移動する。
 錆びたパイプ椅子に腰掛けさせて、黒髪を手に取った。艶がある髪に指を絡め、夜蛾に借りたヘアカットハサミをあてる。
「俺、オマエのそういうところ嫌い」
「うん」
「嫌い嫌い嫌い」
「うん。フフッ、ちょっとくすぐったいよ」
 嫌い、と言い続けて切った髪は、丸い後頭部を活かした綺麗なショートヘアに切りそろえる。あらかた切り終え、鋏と櫛の動きを止めると同時に、振り向こうとする頭をがしりと抱きしめた。もう一度名前を呼ぶ前に、嫌いだ、と呟く。
「髪の毛がついちゃうよ」
「うるせえ。もう、本当に、俺は、俺はオマエが」
「嫌い?」
「好き」
 自分でも呆れるくらい拙い告白だった。
「大好き」
 この言葉だけは、明確に口にすることはないだろうな、となんとなく思っていた。氷の上から降りて陸で暮らすことになっても、果ては燃やされて骨となり土に埋められたとしても。
 言わなくても伝わっていると思っていたのだ。だって、氷の上には俺たちしか居なかったから。
「私も好きだよ」
 思いがけず返ってきた言葉に、頭を抱きしめる力を強める。声色から、この後に何が続くか分かるくらいには傑のことを理解していたつもりなのに、この状況だけは予測できなかったことが悔しい。
「君のスケートが大好きだ」
 ほらね。
 傑は、ごめんねと笑った。息を飲み、奥歯を噛みしめる。それから、つむじに口付けして体を離した。
「俺も好きだよ オマエのスケート」
「うん」
「オマエの、スケートが好き」
「うん」
「だいすき」
「ありがとう」
 傑が振り向いて、手を伸ばし、唇の端についた短い黒髪をとっていく。そうして、俺は、夏油傑のスケーター人生に幕を下ろした。

 傑を再び見かけたのは、SNSの投稿だった。



 ゴールデンスラムに王手をかけた大会が始まった。
 ショートプログラムから危なげなく一位をとった俺は、続くフリースケーティングを完璧な演技で終えた。誰にも文句をつけさせない出来栄えだった。
 当然だ。見せたい奴がいて、伝えたいことがあるのだから。

 滑り終わった直後、キスクラに視線を向ける。
 どうだ、伝わったのか。
 久しぶりに息が上がるほどの演技をした。この五条悟が最後と決めた演技だ。傑に響くものはあったのか。

 しかし、遠くに認めた姿は平然としていて、すました顔で拍手なんか送っているものだから、一気に熱が引いていく心地がした。
 氷を蹴ってリンク端へと移動する。手渡されたエッジカバーをつけ、ベンチに腰かけて得点の開示を待った。
 観客はいつまでも興奮がおさまらない様子で歓声をあげており、当然のように世界最高得点を更新した。
 現地で臨時コーチをしてくれた相手と握手を交わしてからキスクラを離れようとした、その時だった。
「悟」
 いつの間に近くへ移動していたのだろう。少し離れた場所から傑が手を伸ばしていた。無意識のまま迷わずその手をとると、つかつかと俺の腕を引いて歩き出してしまう。

 人気の少ない廊下まで、何も言わずに連れてこられたことへ文句を言おうと口を開く前に、壁に体を押しつけられ、顔の両脇に傑の腕が叩きつけられた。
「ちょ、なに、っ!」
 若干ひるんで、背中を壁につけたまま腰を落とす。
 その瞬間、両脇にあった腕に頭ごと囲い込まれ、顔中にキスが降ってきた。ついでに生ぬるくてしょっぱい液体も降ってくる。目を開けているから、それが何かなんて考えなくても分かった。
……泣きすぎだろ」
 傑の腰に両手をまわし、背中を伸ばす。元々ある身長差に加え、今はこちらがスケート靴を履いているからだろう。頭一つ分低い位置にある親友の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
「好きだ」
「あは、僕のスケート、そんなに良かった?」
 自信があったくせに、こんな聞き方しか出来ない自分を内心で笑う。けれど、傑は俺の声なんて届いていないような様子で続けた。
「君が好きだ」
 嗚呼、と漏れたのはため息だ。
 離れていた十年間、いったいどれくらいの人間がこの男に愛を囁かれたのだろう。いったいどれくらいの人間が、この距離で傑を見つめたのだろう。
 未だにはらはらと涙を流しながら俺を見上げてくる瞳を前に、上手く人の形を保てているか不安になった。
 しかし、どんな形をしていたって構わないはずだ。傑は俺を見つめてなお好きだと言っているし、当然ながら俺は傑が好きなのだから。

 傑の瞳に映る自分を認めて、長かったなあ、などと呑気に思いながら顔を傾け唇を重ねる。しょっぱい。意外とかさついている。柔らかくて、内側はちょつと熱い。
 もしも、あの時、つむじではなく唇へキスしていたら同じような感想を抱いたのだろうか。
「キスクラで告白してくれればよかったのに」
「そんな非常識なこと、できるわけないだろう」
「ええ? オマエの最後の演技見た時さ。俺がコーチだったら、キスクラに現れた瞬間、傑を抱きしめて泣きながらキスするって思ったよ」
「ふ、はは。なんだそれ」
 未だ、涙をこぼしながらではあるものの、傑はおかしそうに笑って離れようとした。泣き腫らした目元はともかく、耳まで赤いところを見るに照れているのだろう。
「離れないでよ」
「いや、でも」
「誰も来ねーって」
 傑の腰にまわした腕の力を強めながら言う。
「足りないから」
 そこまで言われて覚悟を決めたのか、瞼を閉じた傑が背伸びをした。するりと後頭部に差し込まれた手で強制的に下を向かされたけれど、この口付けが最高であることに変わりはなかった。

「オリンピック金メダリストの五条悟が休養するかもって聞いて驚いたよ。余計なお世話だろうけれど、これまで大きな怪我もなく順調に演技を続けていたから、何かあったのかなって考えたりもした」
 流石に場所を移すべきだろうと、スタッフに教えてもらった空き部屋へと移動する。
「でも、納得したよ。君が休養した理由は、彼らのコーチをやるためだったのか」
「違うけど」
 即答した俺に、傑は驚いたふうに尋ねてくる。
「じゃあ、どうして?」
 何もない部屋で傑と向かい合う。ここへ連れてくるまでに繋いだ手は、まだ振りほどかれていない。
「オマエが氷の上に立ってんの見たから」
「ああ」
 片手で顔を覆った傑が呻く。どういう感情を抱いているのか分からないが、心当たりはあるようだった。
「九十九さんのSNSか」
「いや? 有象無象のパンピが騒いでたんだよ。つーか、オリンピック金メダリストの女と、大都市の馬鹿でかいビルの真ん前にあるスケートリンクなんかでイチャイチャしてたら注目の的になるって馬鹿でも分かるだろ」
「言葉に棘があるな」
 苦笑して、壁にもたれかかった傑を見つめる。
「オマエは俺を置いてスケートを辞めたくせに、あの女の誘いには乗るんだ」
「悟……
「俺のスケートが好きって言ったくせに」
「悟、聞いてほしい」
 誤解だ、と傑が呟く。
 オマエが説明すると言うなら、いくらでも聞いてやる。納得するかは別だけど、と耳を傾けてやることにした。
「そもそも、私があのスケートリンクに行ったのは、大学の友人に誘われたからだ。滑る気なんてなかった。近づけば離れがたくなるって分かっていたから。でも、友人は留学してきた私にも親切にしてくれる気のいい奴だったし、恋の手伝いをして欲しいと言われれば、断りにくかったんだよ」
「黙って聞いてようと思ったけど、色々言いたいわ。ダメ?」
「もう少し待ってくれ。それから、友人と、友人の気になる子と、その友だち、私の四人でスケートリンクに行くことになった。あっちじゃ冬の恒例行事らしいし、人混みに紛れて二人きりにするのも簡単そうだったからね」
 そうして訪れた街中のスケートリンクで、傑は九十九に会ったそうだ。
「急に腕を掴まれてね。驚いて振り向くと九十九さんが居た。暫く話をしているうちに、注目されてるって気づいたから場所を近くのカフェに変えたんだけど、遅かったみたいだ」
「ふーん。あの人は何て?」
「実現したい未来があるってさ」
 廊下の外が騒がしい。恐らく、優勝後のインタビューの為に俺を探しているのだろう。けれど、こっちを片付けなければ、何も答えることなどないので優先順位は間違っていない。
「で? 傑くんはその未来とやらを実現するために帰ってきたんだ?」
 言い方に卑屈さがなかっただろうか。
 口に出してから思ったが、傑は特に気にしていない様子だった。それがまた、かつての姿を思い起こさせる。こちらだけが必死で、相手は手の届かない場所に行ってしまったような錯覚だ。

「私の家庭は、ごくごく平凡だった」
 突然、そんなことを言い出す傑に片眉を上げる。話をはぐらかされたと思ったのだ。けれど親友は、まあ聞けよ、と話を続けた。
「フィギュアスケートを続けることは、結構大変なんだ。まず、金がかかる。月謝、リンク代、衣装、遠征費、宿泊費。それから、多くの人間の時間を使う。特に身近な人。両親にはものすごく協力してもらったな」
 傑は思い出をかみしめるように目を閉じた。
「自分で言うのもなんだけれど、昔から練習すれば何でもできる子どもだった。だから、あんまり一つのことだけに執着しないというか、そつなくこなす子どもだったんだよ。はは、嫌な子どもだよね」
 そうだろうか。俺だって昔からやれば何でもできる子どもだった。スケートを始めたのだって、氷の上には煩わしいことが無いからだ。そもそも出来ない奴は上がってこない舞台で、思うままに動くのは気が楽だった。
 その舞台に唯一上がってきたのが傑だ。一目見て、自分と同類だと思った。その直感は間違っておらず、氷上で五条悟と並ぶものは、終ぞ夏油傑以外に現れなかったのだから。
「九十九さんの話は、要約するとフィギュアスケートの裾野を広げたいということだった」
──スケートって、物凄く費用が嵩むスポーツだよね。まあ、スケートに限ったことじゃないんだろうけど、それでもさ。私はスケートの裾野を広げたい。大会に出るだけじゃなくて、スケートを楽しいと思ってもらえるような場所を作りたいと思っている。
 九十九は傑にそう語ったらしい。
「スケートを仕事にするつもりはなかったんだ。両親ともそういう約束で習わせてもらっていたし、悟に髪を切ってもらったしね。でもさ、未練はないのかって聞かれて、答えられなかった」
 それから留学を終えた傑は、大学に通いながら九十九の構想に意見を出しながら計画を煮詰めていったらしい。
 当時の九十九は、とあるスケートリンクの運営をしないかと声がかかっていたらしく。そのリンクを活用して、自身の理想を実現させる足がかりにしたのだという。
「未練って何なのか聞いていいやつ?」
「いいよ、というか君にしか言えないよ。いや、君にも一生言うつもりはなかったんだけどさ」
 エリジブルとして滑る君のスケートに私を見たんだ、と傑は言った。それは静かな告白だった。
「的外れだったら殴ってくれていい。当たっていたら、そうだな、君の頬にキスをさせてくれ」
「何のキス?」
「感謝のキス」
「じゃあ駄目。大当たりだから、オマエを丸ごと僕にくれるってキスをちょうだい」
 冗談を言ったつもりはなかったのだが、傑は可笑しそうに笑う。そのまま、本当はね、と話を続けた。
「本当は、ノービスで終わるつもりというか、そんなに長くスケートをやるつもりなんてなかったんだ。でも、自分の力がどこまで通用するのか気になっていた。同学年のなかでは上手い方だと思うけど実際どうなんだって。そこで当時ガキンチョだった私は、君の演技を見た」
……どうだった?」
「いや、素直な感想を言うなら悔しかったね。君のスケートを好きになってしまったから」
 両手を遊ぶように握られて、左右に振られる。恐らく恥ずかしがっているのだろう。されるがままに任せて、続きを聞く。
「ずるずるずるずる、終わりを決めかねていたんだけど、シニアに上がるとさすがに自分勝手もいえなくなる。だから、区切りとして全日本ジュニアで辞めることにしたんだ。悟も拠点を変えるって言っただろう。ちょうどいいかなって」
「僕が拠点を変えなかったらそのままだった?」
「いや。あの時のインタビューでも言ったけど、全日本で終えて、シニアに上がる気はなかったから、ここまでだったよ」
「そっか」
 暫くはどちらも話をせず、ただ黙って揺らされている手を見ていた。いよいよ、名指しで探され始めた頃、傑が今日一番に優しい声で「ゴールデンスラム達成おめでとう」と告げた。
「どうだった?」
「楽しかったよ」
「ならよかった。実を言うとね、私も楽しかったんだ」
 傑の声につられて顔を上げる。ここで、俺の人生が決まると言っても過言ではなかった。
……若くて才能ある奴を世話すんのが?」
「え? いや、それもあるけど」
 あんのかよ、とツッコミたくなる気持ちを抑える。
「悟と共同作業をするのが。久しぶりにわくわくした」
「俺も!」
 だろう、と笑う親友の姿を見て、ここに五条悟の進退は決まった。

 俺もオマエと同じことをしたい。
 ずっと一緒にワクワクするようなことをしよう。
 今度こそ、手の届く場所で。


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