ラブコメとシリアスを行ったり来たりする感じの話
「玉手箱」前提https://privatter.net/p/11910341の後日談のひと騒動です。
「泣けないきみのトロイメライ」辺りも繋がってる
→https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=26116138
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極の旅から帰ってきた肥前忠広は
在り方がどこか柔らかくなったように思う
主のために擦り上げた刀は皆そうだが
初の頃とは在り方の芯がどこか違う。
肥前も例に洩れず、以前の排他的な空気はなりを潜め、しなやかで力強くなった。それは周囲から見ても、目に見えて明らかだった。
今までなら、南海太郎朝尊の周りに横になり、背を向けたまま何をするでもなくじっとしていることも多かった肥前だが、最近は、畑仕事だの馬当番だの会議だの書類だの、そういう雑務も皆に混じって嫌がらずにやっているらしい。
輪番で同じになった男士が雑談ついでに声を掛ければ、ぶっきらぼうにこう語ったそうだ。
何があいつのためになるか分からねえから、やれることは全部やる。
生憎、頭を使うのは得意じゃねえ。だから、とりあえず手を動かす。そうすることにした。
ただ淡々と畑仕事をこなしながら、肥前はそう語ったらしい。
懸命で、一途な、主の刀。
そういうふうに目に見えて変わった肥前の姿勢は、他の男士から見てもやはり、ひどく好ましいものに映るようだ。
いちばん大きいのは、遠征だろう。南海太郎朝尊の側を離れ、長期の遠征にも参加するようになった。
出陣機会の少ないこの本丸にとって、長期遠征は成長の核の一つだ。苦楽を共にし、仲間と連携して、長い時間を経て主の元へ帰る。
そんなふうに肥前と自然と関わりが多くなった刀は、皆、口々に言った。
肥前忠広は柔らかくなった。
特に、眼が。と。
ある頃を境に、主の後ろを黙ってうろうろと着いていく姿が目立っていた肥前だったが、極めた後もそれは変わらない。
けれども、極める前がどこかうろうろと所在無げに役目を探しながら、仕事を与えられるのを待つ風だったのに対して、今はただじっと、焦げ付くような熱心さで、彼女の背中を見つめているのだ。
ひどく柔らかい眼で、あたたかな表情で
楽しげにうろちょろする彼女の背中をただ見守っている。いつまでも、いつまでも、飽きることなく。
そうして、彼女がぱっと振り返って笑うと
朱殷の瞳が、とろりと和らいで
誰が見ても愛おしそうに、片眉をへにゃりと下げて笑うのだ。
「ね、ひーちゃん、見て見て!」
「へーへー」
声がとろりと甘やかで、愛おしげで。溺れるほどに幸せそうな、どこか満たされたような面差しが
驚くほど他の何も目に入らない様子で、一心にただ一人だけを見つめ、片時も視線を離さそうとしない。
それを目の当たりにした陸奥守吉行がその後ろで
いかにも小芝居風に、見まして奥様、といったジェスチャーをしてみせる。
南海太郎朝尊は意外にもノリよく、そんな陸奥守にくつくつと面白げに頷いてみせていた。
「あれはさすがに僕でもわかるね」
こうまであからさまだと、一周回ってからかう気も起きない。
肥前忠広が彼女を見つめる熱視線は
誰がどう見ても、恋に焦がれる青少年、といった風情だった。
《肥前忠広の報われない片恋の話》
そもそも肥前は、顕現から数百年近く、政府で刃を振るってきた実践刀だ。
肥前の強さは、政府で長年過酷な任務を生き延びながら培われたもの。
最前線の砲撃の雨の中を歩くことも珍しくなく、長期任務を与えられると現地の時間軸で十数年単位を過ごすことも珍しくない。
乗り越えてきた修羅場の数が違う。
そこに極めた途端、累積経験値のブーストが入るわけだ。
明らかに変化した戦場での己の強さを噛み締めながら
刀を握る自分の手を見つめる肥前に、横から加州が「どう?」と声を掛ける。
「強さの限界が抜けたみてえ」
「あー、わかるわかる」
一気に最精鋭に躍り出た肥前に
強さの頂きを求める刀達は殺到した。
まずは何より山姥切国広だ。
強さを極めることにいっそ異常なほど執念を燃やす山姥切は、ただでさえ目が合えば誰にでも見境なく手合せ手合せ手合せとしつこく付いて回るが、肥前が極めた途端、明らかにその頻度が肥前へ集中した。
以前はあまりにもしつこく手合せを願ってくるのでさすがに受け流していたようだが、極めた今となっては「主のために、一秒でも多く研鑽を積みたい」と堂々と来られると弱いらしい。
「お前ならわかってくれると思った」
「あ?」
「主のために、という一念において、オレとお前は、仲間として同じ方向を向いている」
強く煌めいた翡翠の瞳で、一点の揶揄もなく、ただただ純然たる向上心を隠そうともせず、まっすぐ誠実に向かってくる。ああも真摯に来られると逃げようにも逃げられない。
肥前は頭をがしがしと掻いて「暑苦しいんだよ」と悪態はつくが、最終的に打ち合いに付き合ってくれるのだという。
キン、キンと打ち合う音が、高らかと晴天に響いている。
早朝から続いていた鍔競り合いは、堀川国広の「そろそろお昼ですよ」という声掛けで中断となった。
汗を拭い、共に刃を納めた肥前と山姥切が、共に食堂に向かっていく。ああでもないこうでもないと、稽古の中身を振り返りながら。
彼女のために変わった刀。主のために強さの限界を踏み抜いた刀。
修行後の肥前は今となっては、正しくこの本丸の一員だった。
「まったくもって、恋は人も刀も変えるもんだなあ」
遠くから冷たい目で肥前の背を眺め回した鶴丸は、そう言いながら皮肉げに肩をすくめた。
驚くほど人たらし刀たらしの主に
銘々の形で心酔する刀は珍しくないが。
肥前のあれは、どうやら少々毛色が違う。
誰が見ても一目瞭然なほどだと、かえって下手に手を出しにくい。
暴走するようなことがなければいいが。
肥前が彼女を見守るその目が、あまりにも柔らかく愛おしそうで。
もう誰が見ても『そう』という感じなのだ。
「なぁ、アレ。どーするべきだと思う?」
「見守る以外に無いのではないでしょうか」
「だよなあ」
物吉貞宗の返答に、加州はテーブルに突っ伏して頭を抱えた。
「特に鶴丸のやつが完全沈黙してんのが怖いんだよなあ」
にっこりと完璧な微笑みを浮かべたまま、その実、極寒の眼でじっと観察している。真意がいまいち読めない。
政府の刀とは言っても、少なくとも肥前の心情的には、完全にこちら側に付いてくれているものと判断して良いと思う。
単に政府の刀だから、という訳ではないと思う。鶴丸は確かに例の件以来ずっと政府を嫌っているが、肥前と主が絆を深めていく様子は、仕様が無いなあという眼で苦笑いしながら見ていた。
彼女はいつだってそうだから、それに肩をすくめて嘆息しながら、許容する目で見守っていたように思う。
鶴丸の眼が異様に冷たくなったのは
肥前の恋模様が明らかになると同時だった。
「どう見る?」
「警戒している、という印象を受けます」
「どーする?」
「どうするもこうするも……主さま次第、としか」
「だよなあ」
こと主に関して、鶴丸国永の行動はただでさえ読みにくい。
まるで幼い子供にするように、主を猫可愛がりで愛しんだかと思えば、引き剥がされて壊れるほど荒れ狂った。
かといって独占したいのかと思えばどうにも違うようで、先日の歌仙との恋文騒ぎでは腹が捩れるほど転げ回って笑っているわ、火車切を発端とした騒ぎでは大倶利伽羅にやたらと絡んで仲人じみたことをするし、かといって今回は肥前の恋模様がはっきりしたらあの通りだ。
正直言って、何がしたいのかよく分からない。法則性が読めない。何が地雷で、何が琴線なのかいまいちはっきりしない。
この本丸において、鶴丸国永は導火線の位置が不明な不発弾だった。
「燭台切は燭台切で笑みが怖えし。……あー、やっぱアレ、そういうことだと思う?」
「うーん、燭台切さんは……どうでしょう。僕の口からはちょっと」
「あー、もう無理、分かんない!」
この本丸に降り立ってから何かと胃痛役の加州は、ジタジタと手足を振り回して、再び机に突っ伏して頭を抱えた。
物吉は優しげに相槌を打ちながら、心配げに清光の肩をそっと叩いた。
「……加州さん、大丈夫ですか?」
「今絶賛胃痛」
「いえ、そういうことではなく」
「んー」
優しく胃の後ろ側を擦る物吉の手のひらの温かさに、そっと背を押されるように。
清光は、ぽつん、と口にした。
「あるじはさー、可愛いしさー、優しいしさー、大事にしてくれるしさー、そりゃあ誰かのものになったら、って考えたら嫉妬ぐらいめちゃくちゃするけど。それはそれとして、俺のことはちゃーんといっとう愛してくれるって分かってるからさあ」
ごろん、と寝返りを打つようにして、清光は突っ伏したまま遠くを見た。
「あるじがちゃんと幸せなら、そういう日が来たっていいと思う。特別幸せになって欲しいし、幸せにするけど。恋かって聞かれたら多分違う」
清光にとって、彼女はずっと『護りたい女の子』だ。
もちろんとびきり愛してはいるけれど、恋というより、なんというか、もっと根本的で、幼くて強い感情だ。
それは例えば。過酷な空を見上げながら、少年少女、二人。腹を空かせたまま、固く手を繋ぎ合って、互いを支えて守り合った時期を越えてきたかのような。
互いだけが頼りの時間を過ごした、幼く強い絆、とでも言おうか。
だから。
「ただ、もしも純白のドレスの彼女を見送る日が来たら、いちばん前で見送らせて欲しい。それだけ」
感傷的な声を響かせた清光は、それを振り払うように首を大きく左右に振ると
再び「あ゛〜〜〜」と悩ましげな声を上げながら頭を抱えた。
「確かにあるじはさぁ! そーゆーのすっげー鈍いけどさぁ! 今回はさすがに分かり易すぎるじゃん!? あんな可愛い女の子なんだからさあ! ちょっとは警戒して欲しいっつーか、胃を痛める身にもなって欲しいっつーかさあ!」
清光はそう言って、頭を抱えてうんうんと唸りながら主人の無防備さを嘆いて悩んでいたが。
一方、じっと話を聞いていた物吉は、本来柔和で優しいミルクティー色の瞳を、どこか鋭く物憂げなものにした。
「……本当にそうでしょうか?」
「え?」
「あるじさまは」
物吉は顔をあげ、陽だまりの空へ視線を遠く投げかけた。
「どこか、拒絶されているようにも見えます」
《愛、四者四様》
「彼女にはね、十分すぎるほど救ってもらったんだ」
燭台切はマドラーをくるくると撹拌させながら、穏やかに微笑する。
優しげな微笑みが、暗いBARの中でひだまりのような柔らかさを放っている。
「大切にしてもらってるし、ちゃんと大切に返してる自負もある。過ぎるほどもうとっくに与えてもらった。だから」
ふ、と音が途絶えて。
完璧に整えられた美しいBARで
にこ、とやはり完璧に微笑む美しさが。
逆にどこか、不健全だ。
「だから僕が、唯一不満に思ってるのは。彼女がどうしても、泥臭い感情をぶつけてきてくれない、本当のところで頼ってくれないこと、その一点だけだよ」
くるり、くるり、と
甘く濃いアルコールが沈澱して、撹拌して、それでもなお溶かし切れないほどに甘く、甘く、どろりと再び沈澱する。
「だから、どろどろに甘やかして、ぐずぐずにとろかして、堕ちてくれたらいいなぁって。にこにこ微笑みながら『いじわる』してるんだ」
ひどく機嫌の良さそうに。グラスの中に砂糖が甘く溶かされていく。
ぼちゃん、ぼちゃん、どろり、どろり、と。透明に重く溶けていく。
「だって、彼女、どうしても呼んでくれないから。きみのために毎日整えて待ってるのに」
だから、いじわるなきみだから、僕も少しだけ、いじわるしてもいいでしょう?
そう燭台切は瞳に実に甘やかな欲を滲ませて、黄金の瞳が薄闇に鈍く発光する。
「だから。丁寧に時間をかけて、煮込んでとろかせた彼女を。誰かに掻っ攫われるのは、面白くないかな」
だから恋する肥前を見る目が怖いのだ。
静かで、美しくて、どこかが確実に歪んでいる。
「大丈夫。心配しなくても無理強いなんてしないよ。そんなの紳士的じゃないからね。我慢、がまん」
どろりとした欲と重たい愛が、燭台切の口からにこにこと溢されて
BARで内緒話の相手をする太鼓鐘は、盛大に顔を引き攣らせたままあちゃーという顔をしている。
「ただ、彼女の方から堕ちてきてくれたら────その後は、さすがに僕の好きにしていいってことでしょう?」
「この本丸は実に奇妙なバランスを保っているね」
南海太郎朝尊は、手元の技術書に穏やかに目を通しながら、どこか妙に楽しそうにそう口にした。
驚くほど贄に向いた少女を審神者に置き
数多の刀剣男士が誰一人彼女を食い荒らすことなく共存している
うん、実に興味深い。
「神職の場ではたまに見かけるがね、ここは戦拠点だろう? 血が高ぶるのが戦というものだろうに」
初鍛刀や初期刀、あるいは最古参の調停者が余程優秀なのか
彼女の元に揃った刀剣男士が一際我慢強いのか、あるいはその両方か。
「贄と巫女の資質をあれほどまでに兼ねるというのは実に厄介だ。付け加えるならこの本丸には、僕や肥前くんのような人に寄った個体より、神に寄った個体も多いだろう。こんなバランス、普通なら、早晩破綻するのは目に見えている。ところがその気配の欠片もなく、絶妙に均衡が取れて何年も保っているのだから興味深い。彼女のあれは、意図的なのか無意識なのか、どちらとも言えそうなのが何とも」
「先生は、ほんまのとこどうなが?」
「僕かい? 僕はああいう贄にはあまり興味が湧かなくてね。あまりそそられないんだ」
どこか慎重に伺うような視線を向ける陸奥守に、気負うでもなく自然に肩をすくめた南海太郎朝尊は、ごく淡々と軽やかにこう答えた。
「心配しなくとも手を出すつもりはさらさらないよ。ああも夢中な肥前くんに恨まれたくはないしね」
「ところで陸奥守くん。無性愛という言葉を知っているかね」
「……? 知らんき、どういう意味ながや?」
「いわば多くの人間が持つ本能的で自然な性的欲求を持たない性質のこと。恋愛感情や性的欲求を最初から大きく欠落した人間のことで、巫女の性質の強い人間に割と見かける」
さて、刀剣男士にもその分類が適応かは分からないが、本来そそられて然るべきを全くそそられないあたり、僕にもいささかその気があるような気もするね。
だからこそ彼女には、どこか『同類』を感じなくもない。
パタン、と本を閉じた南海太郎朝尊は、どこか和らげた面差しで、晴れ空が続く外へと視線を投げかけた。
「僕個人としては肥前くんを応援してあげたいところなのだけどね。なかなか茨の道なような気がしてならないんだ。予想が外れてくれると嬉しいのだけどね」
陸奥守吉行は、誰よりも肥前忠広の味方であって欲しい、と乞い願われてここへやってきた。
その明朗で強い願いの方向性の影響だろうか、主に深く心酔する刀の多いこの本丸で、陸奥守は未だ、主人とはどこか一定の距離を保っている。
初期刀の資質を持つ他の四振りは既に極めた中で、陸奥守だけが初のままだ。だが、そんな在り方にも、不満の欠片もなく無関心でもなく、ただ笑って遠くからパタパタと手を振ってくれるのが吉行の主人だった。
「あ、むっちゃーん!」
「おおー」
幸せそうにああして誰に対しても笑いかけ、無邪気で天真爛漫な一方で、けれど陸奥守のように意識して一定の距離を保つ刀に対しては無理に距離を詰めようとはしない。
代わりに毎日必ず、刀剣男士一人一人のために祈って幸せを願う。吉行に対してもゲートを通して流れ込んでくる祈りの形は、この本丸ができた日からあの時期を除けば二日と途切れることがなく長年続いているらしい。宵の口にそれに各々で静かに耳を傾けるのが、この本丸の無言の約束事だった。
これでは戦拠点というより神職や神巫の居住地と呼ぶ方が近いだろう。清貧な巫女として生きる者に恋心を寄せてなおかつ受け入れてもらうのは、確かになかなかハードルが高いことかもしれない。
今日も肥前は、彼女の後ろをのんびりとついていって、ただ飽きずに彼女の一挙手一投足を見守っていた。
彼女がぴょこぴょこ跳ねれば心配そうに足元を見て、ぱっと走り出せば転ぶなよとひと声かけて、誰かと嬉しそうに話す背中をいつまでも見つめて目を細めている。眩しそうに、愛おしそうに。
そうして主がふっと振り返れば、くしゃりと片眉を下げて幸せそうに笑うのだ。
あんなにも穏やかな肥前の横顔は、まだ肥前が坂本の家に重宝として在った頃、うんと遠い昔に見たきりだった。あんな顔をする肥前が、こうしてまた見れる日が来るとは夢にも思わなかった。
ほうかあ
よかったのう、そんなに大事な相手ができたがか。
色々と難しいことはどことなく理解できる。
だからこそ陸奥守は、肥前の恋が、できれば幸せな形で成就してくれれば良いと願っている。
肥前が彼女を見つめる視線に、愛があることを
たぶん本人以上に、横で見ている周囲の方がずっとわかっていて
後ろからついていって、彼女を見守るその目が、あまりにも柔らかく愛おしそうで
もう誰から見ても『そう』という感じで、あたたかで柔らかく幸せそうで、だから見ているだけでくすぐったくて仕方がない。こそばゆくてこちらまで胸があたたかくなるようだ。
あれが幸せな形で受け止められて欲しい、と願うのは
陸奥守にとっては水が流れるように自然なことだった。
肥前は声をひっくり返して「……は?」と愕然とした顔をした。
下戸の南海先生は飲み会に混ざらず先に寝ているので、起きているのは陸奥守と肥前だけだった。酒を片手に、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして肥前は完全に固まっていた。
「今、なんつった?」
ぼとぼと、と傾いたビールの缶から酒がこぼれている。
なんてことはない。吉行はただ、程よく酒が互いに回った頃を見計らって、味方で応援しちゅうきと伝えただけだ。要はいつものお節介というやつだった。
本当に単にそれだけのことだったのだが、なぜか肥前は驚愕で固まってしまっていた。
やかましい余計なお世話だうっとおしいと、思いっきり頭をはたかれる想定ぐらいはしていたのだが。
おん? おん??
なんやら流れがおかしゅうなってきたのう?
これはまさか、まさかまさかである。
「は? は? あいつとおれが、なんだって?」
「へ? そりゃあのう…」
視線をうろうろと上に彷徨わせ、些か照れくさげに、ぽりぽりと頬を掻く陸奥守の台詞が、肥前に落とされた青天の霹靂、爆弾だった。
「肥前のは愛に生きちゅうのう思うちょったけんど、わしの早合点やったろうか」
「あ、い…!?」
殴り飛ばされるみたいに訪れた自覚は
雷に打たれたような大衝撃だった。
愕然とした様子の肥前の面差しが、たちまちかぁーーっと真っ赤に染まっていく。
誰がどう見ても派手に茹で上がった林檎のような、てきめん動揺した肥前の赤面に
一連を間近で見ていた陸奥守は思わず、乙女のように口許に手をやり、はわーっ、とつられて赤面した。
「肥前のが見たことない顔しちゅう……」
「う、うるせえ!!!」
がなる怒鳴り声もちっとも勢いが無い。真っ赤な顔では威力も半減である。真っ赤な顔からは湯気が出そうだった。
「は、待て、待て待て待て待て」
肥前が片手で両眼を覆いながら、耳まで赤くした状態で呻いた。
「つまり何か? 最近古参の連中に手合せでやたらめったらよく分からん理由で絡まれるのは?」
「あー、妬かれちゅうがやきね」
「粟田口の短刀連中が妙に優しい目で見てきやがるのは」
「微笑ましゅう見守られちゅうね」
「近侍の鶴丸がおれを配置しねえのは、極めて間もない新参の政府の刀だからじゃなく」
「あ〜、違う違う、多分二人きりにさせとうないだけやき。近侍は過保護じゃきのう」
「……先生は」
「『あれはさすがに僕でもわかる』って言うちょったけんど」
盛大にトドメを刺された肥前が、死にそうな声で言語になっていない何かをひたすら呻いた。
「あー。……ほんまに気付いちょらんかったがか? ほんまに???」
「うるせえ知るかよ!!!!!!!!!!」
「え、えー!? あれで無意識だったわけ!?」
驚愕の声を上げてビビり散らす清光は、あまりにも想定の斜め上に目を白黒させた。
「うっそ、まじで? あれで? あれで!? ……あれで!?!?」
あんなにも穏やかな顔をして修行から帰ってきた段階で
己の全部を差し出してまで、彼女の隣を乞うてあの眼で見つめた時点で。
「ずいぶん腹括ったな、って思ってたんだけど」
俺はむしろ、あいつがマジになった時に鶴丸の暴走をどう止めるかでずっと頭が痛かったってのに
なんとそもそも自覚してなかったらしい。嘘だろ。
「どうにも、ちょっと純粋すぎて心配になるね」
と歌仙は、両の裾を入れ込むようにしながら、どこか中立な立ち位置を保ったまま、肥前の心配を口にした。
「心配、ですか?」
「ああ。純粋すぎる恋はね、時に危ういから」
歌仙は昔、元主人、細川忠興という苛烈な人の側にあった。愛しの妻を目にしたというだけで庭師を切り捨てるほどまでに嫉妬深く苛烈だった人が、手打ちにした人数が歌仙の名の由来だ。
そう、歌仙兼定は。三斎様とたま様の、愛が互いを傷つけ合う依存と暴力になる姿を、その目で散々見ているのだ。
「わ、ひーちゃんひーちゃん、見て見て……あっ」
くる、と振り返った拍子にバランスを崩した彼女が、大きく身を乗り出した縁側の淵からつるりとよろけ落ちそうになった。
「あっ」
「っと」
腕を出して落ちないように受け止めた肥前が、ぴし、と固まる。
腕の中に引き寄せたまま急にフリーズして動かなくなった肥前に、抱きかかえられたまま「?」という顔をした彼女が、こてん、と首を傾げる。
「ひーちゃん?」
「あ、ああ」
途端に解凍した肥前が、いかにもあきれたような顔を作った。
「ったく、どんくせーな。ガキじゃねえんだからよ。なんもねーとこでこけんなよな」
「てへへ」
彼女が離れて角を曲がってから、がばっと頭を抱えて肥前はしゃがみ込んだ。
耳まで真っ赤である。
「なんだこれ!? なんだこれ!? なんっっだこれ!?」
ばくばくして心臓は痛えし
触った指はあちいし
体はやわこいし軽りぃし
おお、と陸奥守は、まるで遠くを眺めるみたいに片手を目の上に掲げながら、プチパニックの肥前に感心したような声を出した。
「まじで折れかけた負け戦で銃弾掻い潜った時ですらこんな心臓おかしくならなかったんだが!? なんだこれ!?」
「おー、青春しちょるのう」
「目玉もおかしい…やたらめったら世界がキラキラしてやがる…」
「青春しちょるのう…」
後ろからこっそり近付いた乱藤四郎が、背中から懐くように、主に甘える。
「ボクにもみーせて♡」
書き物をしていた乱の主人は、ふわっと笑って乱を受け入れた。
寝る前にこうして寝巻きのまま、刀剣男士に向けてノートに様々なことを書き付けるのが、愛くるしい彼女の習慣だ。
ノートは刀剣男士の数だけあって、一振り一振りの好きな物や、一緒に行きたい場所や遊びたいこと。伝えたい言葉を丁寧に紡ぐ。
まるで、ずっといっしょにいようね、と小さな子どもがみんなに書く純真な恋文みたいだ。
「あ、肥前さんのだ〜」
『ひーちゃんノート』と書かれたそれに、書き込まれた優しい文字。
好きそうなご飯屋さん、好きそうなおやつ。
身のこなしがとても器用で、パルクールに加えて実はストリートバスケも上手いこと、今度遊びに行ってみたい広いバスケットコート、そんなふうに紡がれている。
「乱ちゃんは、どこがいいと思う?」
「う〜ん、あ、ねえねえ、あそこどう? 一緒にピクニックしたとこ!」
「あ、ツツジが綺麗だったねえ」
二人きりで見に行った、綺麗な花の咲く公園の外れ。
街が一望できる空気の澄んだ高台。お弁当をたんまり持ってピクニックに行けば、ご飯も美味しくて景色も良くて、ほどよく二人きりでロマンチックだろう、と乱は思った。
「誘ったら肥前さん、喜んじゃうね」
きゃっきゃ、とはしゃぐ乱は、淡い恋の予感にワクワクと体を揺すったが、主はノートに視線を落とすだけだった。
「? あるじさん、どうしたの?」
「え、うんん、なんでも、なんでもないよ」
何でもない顔をして笑う、可愛い主に。
乱は目を細めて、背後からぎゅうっと抱きしめた。
「? 乱ちゃん?」
「肥前さんもいーけど、ボクも忘れないでね、あるじさん。めろめろにさせちゃうんだから」
頭の良い人たちは大変だ。
余計なことまで考えすぎちゃう。
だから、今だけでも。他のこと考えられないぐらい、ボクにめろめろにしちゃおう。
それぐらいがほんとうはいちばんちょうどいいんだ。
可愛いあるじさんは
乱に抱かれて、ふふ、とくすぐったそうに笑って
「ずっとめろめろだよお」と笑った。
うそつき。
そんなあるじさんもだいすきだよ。
やりたいことを書いた『ひーちゃんノート』は埋まっていくのに、一緒に行きたいとは言わない。
近侍の鶴丸国永が差配しないのを前以て嗅ぎ取って、我儘を言わないのだ。
酷い目にあったのが肥前忠広と一緒の時だったから、二度目を、二の舞を警戒している。彼女の中では鶴丸の行動は、そういう理解らしい。
「ひょわあっ!」
「ふはは、油断大敵だぜ」
不意につるんと襟首から氷を入れられた彼女は奇声を上げて、背中の冷たさに座ったままぴょわっと跳ねた。
「はは、驚いたかい? 何度やっても良い反応してくれるなあ?」
「んも〜!鶴るん〜!」
「なんだなんだ、文句なら受け付けるぜ?」
ん? と二人きりの執務室で耳を傾ける姿勢を見せた鶴丸に、その意図にきっと気付いたはずの聡い彼女は、結局、ただ笑うだけで何も言わなかった。
「ふーんだ、鶴るんのいじわる〜! いーだ」
言えない。あの日、どうしてもひーちゃんと過ごしたいと我儘を言って、その結果あんなことになって心配をかけたから。
だから、言えない。
ごめんね鶴るん。心配かけて。
わたしが悪いの。ひーちゃんはなんにも悪くない。わたしが、わたしがあの日、ひーちゃんと遊びに行きたいってわがまま言ったから、だから悪いの。ひーちゃんは何も悪くない、だから。
だから、だから。わたしが、わたしが悪いの
現世で主人の隣に立てるのは常に一振りだけ。
極めた刀か、最低でもカンストした刀。これは最低限の大前提だ。
近侍であり名代である初鍛刀、鶴丸国永の差配を必ず受けて配備される。適切な時間帯、場所、疲労度のコンディションまで含めて、全ては現世派遣担当の彼の領分だ。
逆に言えば、鶴の采配を受けられなければ、決して現世で彼女の隣には配置されないということでもある。
だから仮に、もし現世で彼女と二人で過ごしたければ。
真正面から喧嘩を売りに行かなければならないのだ。
初鍛刀の近侍という、この本丸最強の一角に。
新月の闇の中、厚い黒雲に覆われて、周囲の音を掻き消していた風が途絶える。
夜半に嵐が来るだろう。
ゆら、と白い幽鬼が、音も無く縁側の白木を踏んで降り立って、暗闇に覆われた無音の中庭に視線を投げた。
鶴丸はふっと虚空へと微笑んだ。
完璧で冷たい微笑だった。
「いーい夜だなあ。月も星もすっかり寝ちまって、……闇討ちにはもってこいだと思わないかい? なあ」
鶴丸が虚空へと投げかけた言葉のボールを受けて、ゆらり、と物陰から現れた肥前忠広に。
鶴丸は皮肉げに口許を歪めてうっそりと笑った。
「どうしたんだい、そんな殺気立って。まるで人一人斬り殺した後みたいだぜ?」
にんまりと黄金の眼を細めて笑う鶴丸のあからさまな挑発に、肥前の表情はぴくりとも反応しなかった。
「……そりゃ、こっちのセリフだろうが」
低く、唸るようにこう口にした。
「今すぐ首を刎ねたくて仕方ねえ、ってツラしてやがんのはどっちだよ。鏡でも覗きやがれ」
「御忠告痛み入るねえ。で? この宵闇にわざわざ諫言しに来てくれたのかい?」
「は、見りゃわかんだろ」
先ほどから、降り注ぐ殺気が雨のようだ。
素早く腰を落とし、構えた肥前の右手が、腰元に伸びる。
────あいつは、いつだって、何も言わない。
ただ、どんなときも嬉しそうに肥前に向けて笑うだけだ。
とびきり能天気に笑って、本当の望みを隠したまま。
だから行く。
それまで、うっとおしいぐらい見せに来てた『ひーちゃんノート』を、書き増やすばかりで見せにこないから。
「わかんねーのか? ……喧嘩売ってんだよ」
ちゃき、と鯉口を切る男が
一瞬にして斬りかかる
たちまち受けて立った鶴丸が鞘から数寸ばかり抜いて凶刃を受け止めた。
「いやはや、こいつは驚きだなあ」
極寒の眼で、鶴丸国永はそう応えた。
「実に生きのイイ驚きを供給してくれるじゃないか。わざわざ身を挺して、こうして喜ばせに来てくれたってわけだ」
「はっ」
ギリギリギリ、と鍔迫り合いが拮抗する。
きん、と刃を弾き、ぐるん、と大きく曲芸師のように跳んだ鶴丸が、肥前の背を蹴るように大きく距離を取ると
とん、とん、と己の刀を肩に負いながら、鶴丸は闇の中から歩き寄った。
「まあ確かに、彼女の隣はいつでも奪い合いだが」
力押しで通れるほど、甘くはないって
ひとつここらで敗北をたっぷり味わってもらおうか
寝ざめた門番の顔をして、鶴の金眼が鋭く鷹のようにぎらつく。
次の瞬間、鶴丸の姿が残像を残して消えた。
「ッ!!」
瞬発的な勘だけで大上段に防ぎ切る。太刀の先制攻撃を真上から食らった肥前は、大きく瞳孔を開いた金眼が「上から失礼ッ!」とぎらぎら笑うのを、両足がコンクリの地面にバキッと沈み込むのを感じながら辛うじて受け切った。
「ちっ」
振り抜いた刃は、たちまち飛び立った鶴にかわされる。
ぐるりと白絹が宙を舞い、変幻自在に軌道が変わる切先が、夜の蝶のように不規則に揺らいで無慈悲に肥前の耳を削ぎに掛かる。
構えた刃で見もせずに素早く上に弾いた肥前が、再び鶴丸へ向けて構え直した。
冷え切った黄金が、薄闇の中で淡く発光して、ぎらりと肥前の喉笛を狙った。
その瞬間、極限までぎょろりと見開いた朱殷の眼が、回避するどころか自分から首を捻って当たりに行った。鶴丸の刃の切先が、革の頸甲を大きく擦って、黒の当て布を引き裂いていく。
そのまま肥前の刃が鶴丸の間合いの内側に入り込んで、切先が黄金の左眼を串刺しにせんと迫った。間一髪で回避した鶴丸の頬を、肉薄した刃が裂いていく。
「へえ、やるじゃないか」
薄皮一枚かすった頬から、血がわずかに滴って、伝ったそれを鶴丸はぺろりと舐め取ってそう嗤った。
肥前もまた、首筋をわずかに掠った傷を、手の甲でぐいっと擦って立っている。
触れれば切れるような、無言の殺気の応酬。
夜風に滲む血の匂いが撹拌して、花の香りのように闇に溶ける。
むせ返るような、桜の香と相まって
くらくらするような湿度の高さを保っている。
「そう簡単には通さないぜ? あいにくこの程度じゃ驚いてやれんなあ。少なくとも腕の一本ぐらいは軽く飛ばしてくれないとな」
「知るかよ」
吐き捨てる声は低く、しかし迷いがなかった。
まるで、何度も同じ結論に辿り着いた末の、最短距離を掴みに行くように。
「あいつが呼んでる時に、躊躇ってる場合じゃねえだろ」
その言葉に、鶴丸は表情をぴくりと動かした。
〝呼んでいる”
その言葉の選び方に、鶴丸の眉がほんの僅かに跳ねる。
声に出していない呼び声。
願いにもならない望み。
それを“聞こえている側”の言葉だった。
「だから判断材料にしろって言ってんだよ。おら、見ての通りだ。よく斬れる刀だろうが」
おれは結局、斬るしか知らねえ。と。
それは、ただ自己認識だった。徹底して余計な物を削ぎ落とした末の、静かな肯定。
卑屈でも、自慢げでもない。
在り方を受け入れた声。
斬ることで返すと決めた
一人の、男の声だった。
「ぐだぐだ言っても始まんねえんだよ。だから、」
最短距離を、斬りに行く。
そんな振り返りもしない、惑いなさ。
彼女のために踏み抜いた限界で、彼女のために。
他ならぬ、あいつがそれを求めていると考えたから、真正面から近侍に喧嘩を売りに行くのだと。
ぎら、と殺気を弾いた刃が夜を引き裂いて、愚直なほどに真っ直ぐ突き貫いてくる。
捻じ込むように鶴丸のガードを突破してきた肥前に、鶴丸は自ら後方に大きく吹っ飛ぶ形で衝撃を逃した。すかさず追撃が迫る。
喉笛を潰す気で来た追撃を刃の腹で受け切った鶴丸は金眼をすがめ、至近距離でぎらついた朱の眼が睨んだ。
「名代なんだろ。だったらもっと上手く使いやがれ。おれが慣れねえ頭回すより、ずっといい使い方できんだろうが、ええ?」
迷わず肥前が切った啖呵を至近距離で目の当たりにした鶴丸は、途端に奇妙なものでも喰んだような顔をして、中途半端にすがめた眼で「はあ?」と声を上げた。
「じゃあ何か? 勝ったらここを通せってんじゃなく、自分が使えるって証明しに来たってことかい?」
「そう言ってんだろうが」
ギリギリギリ、と刃が拮抗したまま、測りかねるような目を崩さない鶴丸に、肥前はあくまで淡々と告げた。
きん、と跳ねた高い音、弾かれてザザッと中庭の砂を擦った脚を踏み締めて。
吐き捨てるような声が、大地に落ちる。
「もう、こりごりなんだよ。あいつを独りで泣かせんのは」
低く重たい声だった。
苦い悔恨を何度も噛み締めた果ての、たった一つの願いがそこにあった。
「おれの出番が端から無えならそれでいい。けど、『あれ』を見たおれにしか吐けねえこともあんだろうが。いざ必要な時に側にいけねえんじゃ修行した意味ねえんだよ」
ぐっと顔を上げた肥前の眼が炎のように、紅く強く、揺るぎもせずに前を睨む。
「ただでさえ何も言わねえ大馬鹿なんだぜ。呼ばねえなら居てやるしかねえだろうが」
舐めるような殺気が雨のように降り注ぐ中で
肥前はやがて構えた刃の切先を広げ、胸襟を開いてみせた。
「おら、名代さんよ。上手く使いやがれ。最上大業物、肥前忠広だ。てめえがあいつの代理な以上、業腹だがてめえに使われてやるって言ってんだよ」
す、と色を失った冷たい金彩の眼が、ゆら、と月の無い夜に、剣を天に掲げる。
刃を立てた一撃が、光の軌跡をえがいて、頸を飛ばしに一直線に迫った。
胸を広げた肥前忠広は、動かなかった。
首の皮一枚、切り裂かれた黒の当て布が、はらりと落ちる。
縫合されたような首の急所傷を晒したまま微動だにせず、刃を喉笛に食い込むまで突き付けられた肥前はやはり、熱量ある眼で睨んで動かなかった。
じっと、ねぶるように測る沈黙が、降り積もった。
長い長い沈黙の末に、やがて深い深い嘆息が、闇夜に落ちた。
「オレとしても業腹なんだがなあ」
滑るようにゆっくりと刃を納める音がする。
キン、と高い音が、試し斬りの終わりを告げた。
「彼女と来たら、それはそれで物分かりよく笑うんだもんなあ。参るぜ」
「え!? いいの…!?」
彼女は驚愕した顔をして、何度も鶴丸と肥前の顔を視線で往復した。
「でも、鶴るん、」
その先をすぐ呑み込んで、ただ何度も視線で問うばかりの彼女に、鶴丸はがりがりと頭を掻きながら「あ゛ー」とままならない声を上げた。
「アピールがそりゃあもう凄くてなあ。さすがの鶴さんも根負けだ」
「うるせえ、話盛ってんじゃねえ」
がし、と鶴丸の脛を蹴る肥前がむくれて憮然としている。
やがて、ぱぁっと嬉しそうに笑った彼女は、迷わず鶴丸の手を取って「嬉しい、ありがとう!」と笑み崩れた。
嬉しいも、ありがとうも。わざわざ肥前でなく鶴丸の手を引いて言う。許可してくれたことではない、肥前を仲間として信じて送り出してくれたことを、だ。
それを正確に読み取った鶴丸はちっとも嬉しそうではなく、いたって複雑な顔をしている。
「あー、気が変わったらいつでも呼んでくれよ? な?」
そう何度も念押ししてから、肥前を転送ゲートの前へ送り出した。
「ひーちゃんひーちゃん、ピクニック、ピクニックしようね」
笑って先に転送された彼女の背中を追うように転移しようとした肥前の背を「待ってください」と引き留める声がして、肥前は途中で立ち止まった。
振り返れば、急いで走って来たのは、蔵番長の物吉貞宗だった。
厨番が作ったと思しき大きな重箱を抱えている。
「忘れ物です」
「おー」
なんともお誂え向けだ。受け取った肥前の手を、物吉は不意にそのまま強く握った。
「肥前さん」
どうか、と懇願するような目で
弁当箱を通して、幸運の加護を強く、強く注ぎながら。
物吉貞宗は、心配げに表情をくしゃりと歪めた。
「憎しみを持たない人なんていないんです」
あるじさまを、よろしくお願いします。
そう言って、深く頭を下げる。
肥前は意味が分からず、「あ?」と問い返した。
「待てよ、どういう、」
転送ゲートは起動して、肥前の問いは宙に浮いた。
残されたのは、これでもかとあいつの好物の詰め込まれた重箱と、幸運の加護の残光だけだった。
「あれ、ひーちゃん? どうしたの?」
「あ? ああ……」
意味がわからないでいた肥前だったが
そのまま現世へ行った先で知ることになる
幸運の脇差、物吉貞宗が懸念したことの正体を。
「楽しかったねえ、ピクニック!」
「まあ、飯はとびきり美味かったな」
食べ終えた団子の串を咥えながら、ぶらりと歩く。
飯屋の看板を眺めながら串を噛む肥前を見て、彼女は「ふふ」と破顔した。
「ふふ、ひーちゃん、まだ食べ足りないでしょ」
「……まあ、そーだがよ」
見透かされたことが気恥ずかしい肥前がぶっきらぼうに答えるので、彼女は嬉しそうに笑った。
「どっか寄ってこーか。何がいい? お肉? お魚? 回転寿司とか、甘い物でもいいね、……あれ」
進行方向の道を塞ぐようにして、人だかり。
どれも華やかなドレスやスーツで、その中心には真っ白なドレスの花嫁がいる。
ああ、結婚式か、と
肥前はなんの気無しに視線を投げた。
「花嫁さん綺麗だねえ。六月だもんね。ジューンブライドってやつだもんね」
花婿の車に乗り込んで、去る花嫁が笑顔で大きく手を振りながら、腕の中の何かを放った。
護衛の癖で、反射的に前に出てしまってから、肥前はその正体を認めて「ああ」と気を抜いた。
ふっと身を引いた肥前を通り越して、ブーケが飛んでくる。
反射的に受け取ってしまった彼女は、腕の中で咲き誇る花束に、無邪気に笑うかと思えばそうでもなく「あちゃー」とバツの悪そうにした。
「わたし、関係ないけど、もらっちゃっていいのかなあ」
「いーんじゃねえの」
その場を立ち去った肥前と彼女は、どこに行っても目立つような特大の花束を抱えてぶらりと歩いた。
「こんな大きな花束持って焼肉屋さん入るのもなあ」
「んだよ、焼いて食うのか? ええ?」
「ぶー、食べないもーん!」
からかう肥前の目が、柔らかにほどけて蕩ける。
「なんだっけ、ブーケトス受け取ると次の花嫁さんなんだっけ。急にそんなこと言われても困っちゃうよね、なんでだろ」
「あーなんだっけか、ヨーロッパじゃ花嫁の幸運にあやかってドレスだの装飾品だの引きちぎるっつーのがあって」
「ええ!?」
「で、それを逸らすのに花束を投げたっつーやつじゃなかったか。花束のハーブが魔除けになってる、っつー…確か、先生が、政府の重鎮の式ん時に言ってたような」
「へー! 知らなかったあ。やっぱり朝尊せんせーは物知りだなあ。ひーちゃんもやっぱり色んなこと知っててすごいねえ」
先生の方ならともかく、受け売りの自分の方まで手放しで褒められてしまい、肥前は慣れないことになんと反応していいか分からず、話を逸らすようにして誤魔化した。
「まあ、あれだろ。いつの時代も、女の夢ってやつだろ」
彼女は、ほんの少しだけ足を引き摺った。
何でもないような顔で笑う彼女に
肥前は、目を見張って、
反射的に手を伸ばし、腕をぱし、と捕まえた。
「? どうしたの、ひーちゃん?」
「悪りぃ」
「え、何が?」
「わかんねえけど、今なにか傷付けただろ」
彼女は瞠目した。
いつも、いつも、いつも。
飽きずに見つめていた
その眼が言っている。
あれは、何かに傷ついた顔だ、と。
「……」
「ひーちゃん」
「ああ」
「やっぱり、もう帰ろ」
肥前の腕を引いて、駅に向かって踵を返す。
腕の中の花束を
無造作に、駅のゴミ箱に突っ込んで。
「ひーちゃんはね、なんにも悪くないよ」
電車で帰る、無言の帰り道。
ずっと黙ったままだったあいつは、帰路でぽつんとそう言った。
「ただ、私が少し、世界の常識からはみ出てる。それだけ」
黙って先を促した肥前に、静かに言葉を落としていく。
「……ひーちゃんは、見たよね。あの人」
あの狂った母親のことだとすぐに分かった。
「あの人、最初からあんなふうにおかしかった訳じゃないんだって。おかしくなったのは、あの人の旦那さんが死んでからで、」
ぽつん、ぽつんと
妙に他人行儀な呼び方で、自分の両親のことを口にした。
恐らく父親と呼ばれる人なのだと思うが、決してその呼び名を許されなかったから実感が無いのだと、どこかぼんやりした調子であいつは語った。
「たぶん、おとうさん、に当たる人なんだと思う。けど、よくわからないや」と。
写真も全て取り上げられたから顔も分からない。何もかもおぼろげで実感が無い、と。
ぽつん、ぽつんと。
バラバラに壊れたパズルのピースを持て余すみたいに、口にする。
「煙草が苦手。たまに、肌に押し付けられる夢を見るから。痛くて目が覚めるの」
赤ん坊のおしめを替えながら、この子が絶対に愛する誰かと結ばれないように、って煙草を押し付ける。
何度も何度も、繰り返し。
「そんな狂った人が、私の半分の血を形成してる人なんだよ、ひーちゃん」
酷く冷たい声だった。
そこに滲んでいるのは、哀しみじゃない。もっと色濃い、────肥前にもずっと、身近で見覚えのある感情だった。
自分の肩を両腕で抱くように、凍えるみたいに彼女は、小さな体をより一層小さく畳んで、氷のように凍った声を出した。
「本当は、誰の妻にもなりたくない。私はあの人の娘だから、あの人の血を色濃く継いでいるから」
きっと、誰か夫を持てば、失った時ああして狂う、と。
凍えるように震えて
「だから、誰のものにもなりたくない。
恋なんて欲しくない。私は」
ああ、そうか
こいつは、自分に流れる血を憎んでる。
継ぐことも、継がせることも、継がされたことそれ自体を。
否応無く背負わされた、押し付けられた宿命の血の重さそれ自体を、根深く嫌悪しているのだと。
かつて、決して己で選んだ訳ではない、人斬りの血と罪の重さを。
背負って立つ、肥前には。
それが嫌というほど理解できた。
ようやく聞き出すことができた、こいつの憎しみを縛る根深い感情に、肥前は。
ただ黙って一度目を閉じると、はっきりと瞼を押し上げて
「言っただろ、おれには隠すなって」
ぽす。と
引き寄せた頭を、自分の肩に枕代わりに乗せてやって、肥前は視線を窓の向こうにぶっきらぼうに逸らした。
他の誰も居ない電車の中で、
頭を預けたまま、疲れたように目を閉じて、彼女はやがてうとりと眠り込んだ。
「今のままでいいの、それだけで、充分すぎるぐらい、……だって」
誰とも家族になれない私は
独りで生きていくしかないと思ってたのに
そう、擦り切れた小さな呟きを、疲れたように眠り際に落として。
ひどく疲れ果てて深く寝入った寝息だけが、耳元で繰り返される中で、
肥前は、天を仰いで、がしがしと頭を掻いて
自覚して速攻で失恋かよ、と内心思いながら
黙って、眠る頭をわしゃわしゃと撫でて慰めてやった。
惚れた女の無防備なその頬を抱き寄せることもなく、ただ。
陸奥守が部屋に戻ると、共通エリアのテーブルの上で、でろでろに酒を飲んで潰れる肥前がいた。
むせ返るほどの酒量と、無造作に転がった酒瓶。聞かなくても結果は透けていたが、吉行はあえて訊ねた。
「どうやったが?」
「は、傷心だよ傷心」
真っ赤に溺れた顔で、肥前は自嘲気味にそう吐き捨てた。陸奥守は切なく目を細めた。
「ほうか、フラれたがか」
「うるせー、告る以前の問題だっつーの」
強い酒をぐっと煽って喉を焼く。
かつんと盃を置いて、肥前は真っ赤に泥酔した顔で俯いた。
「誰の恋も欲しくねえんだとよ。あんなツラした女に無理強いできるほど鬼になれねえっての」
「ほうかあ……しんどいのう」
陸奥守は向かいに座り込み、手酌の徳利をゆっくりと労わるように傾けた。盃を再び煽った肥前は、辛い酒の苦みを呑み下すように、言葉を絞り出した。
「できっかよ。あんな目にあった女に、やっとガキみてえに安心して過ごせるようになったやつに…あんな凍えた声で必死に拒絶してるやつに、怖がってるもん押し付けられっか」
辛い酒を呑み下して、掻き回して、ぐちゃぐちゃにして
それでも明日にはまた、いつもの場所に戻れるように
「怖がらせたくねえ。泣かせたくねえ。馬鹿みてえに能天気に笑ってて欲しいんだよ。柄でもねえ」
「すきだ。すきなんだよ」
すっかり酔い潰れて、やがて泥のような眠りに落ちた肥前に、吉行は無言で毛布を掛けてやった。
空を仰いだ吉行は、吐息を空に逃した。
春冷えの夜は寒く
夜に攪拌した聞き届けられなかった想いを
陸奥守だけが、ただ黙って聞いていた。
無邪気に笑いながら短刀と楽しげに遊ぶ主人を、物見櫓の遠くから、じっと心配げに見つめる物吉貞宗に。
そこに背後から。黙って肥前は並んだ。
「……知ってたのか」
「いいえ、ですが」
物吉貞宗は、切なさを帯びた面差しで、すっと視線を遠くへ投げる。
「幸運は笑顔のもとにやって来ます。それはつまり、笑顔が決して存在しない場所には、幸運の力はどうしても及ばないということなんです」
あるじさまに、決して僕の幸運が及ばない場所があることは分かっていました。あれほどまでに幸運に愛された方なのに。
哀しみは時が癒します。でも、憎しみは焦げ付いて離れません。
人が、決して笑えない瞬間があるとしたら、それは憎しみの証左なんです。
「肥前さん。肥前さんは、どうするんですか」
「……おれが傷を癒してやるなんて言える性質でもねえ。求めてもいねえもんを押し付けられんのは暴力だろ。特にあいつにとっては」
ったく、損な役回り。
そうごちて見上げた矢倉の頂点から、吹き抜けるような青空が続いている。
「誰のものにもなんねーなら、いい。たくさんの内の一振りとして、最期まで側にいるしかねーだろ」
いいんだよ。別に、見返りが欲しかったわけじゃねえ
勝手に惚れて、勝手に想って、勝手に側にいてえだけなんだから
そう言って、肥前はやはりじっと、彼女の背中を見つめたままだった。
遠くで不意に乱が主の肩を叩いて、こちらを指差した。彼女が振り返って、遠くを見はるかすみたいに目を凝らすと、こちらを見つけた。
ふわっと花開くみたいに笑って、こちらに大きく手を振った彼女に
愛ある双眸で、くしゃ、っと片眉を落とした。
どしゃぶりのあの日、雨に打たれながら。
声を押し殺して泣いていた。
「あんなふうに、独りで泣いてなきゃいいんだ。それだけで」
珈琲みたいに苦くて、失恋して愛だけが深まる、そんな大人の恋だった。
想う刻そのものが無二のものだから、花束みたいにゴミ箱にただ捨てられない、そんな。
心配そうに物吉が肥前の背をそっと触れた。
物吉の問いに、肥前は無造作に答えた。
「あ? 無私? 博愛? そんなんじゃねえよ、ただ、」
細めた瞳が、やわらぐ。
幸福と不幸をない混ぜにして。
「────馬鹿みてえな、惚れた弱み、ってやつだよ。多分な」
あーあ、報われね。
そうごちる表情が、それでも柔らかく、愛おしそうで。
肥前忠広は、細めたその双眸に、今もただ。
どうしようもなく愛しさを抱えている。
こぼれ話①惚気話
「で、あるじのどこに惚れたがや?」
陸奥守がそう、酔った肥前の肩を肘でつついた。
好奇心と出歯亀が半分、惚気をあえて聞いてやって気持ちを逃がせるように、の気遣いとお節介が半分ずつといったところだ。
つつかれた肥前は、ほとんど寝落ち寸前まですっかり泥酔した赤ら顔を、アルコールでぐらんぐらんと揺らしながら
「はあ?」
と怪訝そうな声を上げた。
「言わねえ」
「そがなこと言わんと、なあ、ちくーっと教えてくれんか?」
「うるせえ、あいつの可愛いとこ教えて恋敵が増えたら困んだろうが」
「……おわ、肥前のがすごいこと言っちょる」
とまあ、普通に想像の数倍の破壊力で惚気られたわけだが。
一際強い酒を継ぎ足しながら聞き出せば、くるくる変わる表情とぴょこぴょこ跳ねる無邪気さは輪を掛けてとびきり愛しいという。
懸命に自分のために文字を綴る指先も、拙くいとけなく舌ったらずに『ひーちゃん』と呼ぶ声も、いつの間にかどうしようもなく愛くるしくて仕方が無いのだと。
だからずっとずっといつまでも、こちらを振り回しては困らせて欲しいのだという。
おお、こりゃあ重症。ぞっこんじゃあ。
翌朝。どどど、と駆け込む足音がして
すぱん!と襖が開く。
非番ゆえに二度寝をたっぷり貪っていた陸奥守を肥前が布団ごと盛大に蹴り飛ばした。叩き起こされた陸奥守を掴み上げ、ぐわんぐわんと揺する。
「忘れろ!!」
「おん、おんし、記憶飛ばんタイプやったがか」
「わ・す・れ・ろ!!」
胸倉をとっ捕まえてぐらぐら揺する。
吉行のいたく微笑ましそうなにやけ面を見て、すかさず抜刀した肥前を、吉行はあわや慌てて真剣白羽取りする羽目となる。
ぎりぎりぎり、と白羽取りが拮抗する。
「できねえなら物理的に頭かち割る」
「待て待て待て、待つぜよ!」
全力で世界から証人を消そうとしている肥前に、部屋の外から声が掛かった。
ちょっと、いつまで遊んでんの。畑当番だよ。
という加州清光の号令で、全ては日常に紛れていく。
こぼれ話②てめーへの恋心拗らせてんだよこっちは
「わ、ひーちゃん見て見て!」
そんなふうにいとけなく縁側から身を乗り出した彼女が、身を乗り出しすぎて「あっ」とつるりと足を滑らせかけるので、肥前は腕を出して受け止めた。
たちまち腕の中におさまった小さく柔らかい彼女に、肥前はこの世の幸福と不幸を内混ぜにしたような顔をする。
「てめーはどうしてこう、見てねえとなんもねーとこでこけんだか」
「てへへ」
「で、なんだって?」
「あ、ほらほら、雪! 初雪だよひーちゃん!」
肥前の腕の中から子犬のように抜け出した彼女が、空を大きく指さした。
冬の晴れ空から、ぱら、ぱらと白い結晶が降り注ぎ始めている。
「捕まえようと思ったんだけど、もーちょっとで逃げちゃった」
「雪追っかけて転けるとか、犬かよ」
「ひーちゃんひーちゃん、知ってる? その街のその冬の初めての雪って、落ちる前に掴むとお願い叶うんだって」
「あ? なんだそれ」
「わかんない。ちっちゃい頃どっかの絵本で読んだの。流れ星に3回お願いごと、みたいな感じ。難しいことだから叶ったら縁起が良い、みたいなやつなのかなあ」
「んだよそれ。第一、今降ったのがほんとの初雪かどうかなんてわかんねーだろうが」
「んー、きっとだからいいんだよ。曖昧なくらいがいちばんいーの。叶ったらいーなって、強く思った分だけ叶う気がするでしょ」
「……んだよ。雪にまで妬いてたらキリねえだろうがよ」
ぼそ、と低く小さく呟いた肥前に、聞き取れなかった彼女は「? ひーちゃん?」と首を傾げた。
「……で? なに叶えるって?」
「え?」
「願いごと、あんだろが。んなすぐ溶けるもんより、おれに言った方がまだ叶うんじゃねーの」
きょとん、と瞬いた彼女は、ふは、と破顔した。
「ひーちゃん元気出ますよーに、って」
「あ?」
「最近むずかしい顔してるから、考えごとかなーって。叶うといいね、ひーちゃんのお願いごと」
肥前はたちまち「うわ」という顔をした。
ドン引きと顔に書いたまま隠そうともせず、肥前は心の底からこう言った。
「うっわ、残酷な女」
「? え、なんで??」
「なんでもねーよ。こーいう女なんだよこいつは」
こぼれ話③誉れと帰る場所
極めてから第一部隊の任務にも多く参加するようになった肥前忠広が、誉れを取って帰ってきた。
任務を終えて軽傷の者はいるが、功労者の肥前は無傷だった。
帰城するや否や、主のもとへ向かった肥前が、出迎えた彼女の前で黙ってぽりぽりと頭を掻いた。

「おかえり。ひーちゃん誉れだったんだってね、お疲れさま」
「おう」
「手入れいる?」
「要らねえ。無傷だよ。軽傷のやつはもう手入れ部屋入ってる」
「そっか」
いとけなく両腕を広げ、微笑む彼女が肥前へ無垢なハグを贈った。

「手入れが要らないなら、手当てしよ。お疲れさま」
ぽん、ぽん。と。
抱きしめた両腕で、肥前の背中を優しく叩く。
ひーちゃんはすごい、折らず折られず帰ってきてくれてありがとう、だいすきだよ、と。
抱きしめ、撫でられ、褒められる、が繰り返される。
彼女は時折、無傷で帰った刀や手入れする程ではない打ち稽古を終えた刀を、こうして優しくねぎらうことがある。
加州からすると見慣れた微笑ましい光景ではあるが、相手があまりにも分かりやすく主へ片思いをしている肥前であるため、近くで、はわわ、という顔で落ち着かなさげにしていた。
肥前は目を閉じると、少しだけ屈んでやって「ん」と、どこか幼い表情で、ただされるままでいた。
彼女が手入れ部屋から出てきた短刀達を労りに向かった辺りで、加州は野暮かと思いつつも躊躇いがちに「だ、大丈夫?」と肥前へ声を掛けた。
彼女が去った方をいつまでもじっと見つめている肥前は、清光の問いに複雑そうにこう答えた。
深緋の瞳が、愛おしそうにくしゃりと和らぐ。
「この世の幸福と不幸の煮凝り」
「ああ…」
惚れた女が腕の中にいて何もできないならこんな顔にもなるだろう。
あれが自分にだけ向けられるものではないと理解していればなおさらだ。
抱きしめられるたび、
「ああ好きだな」
と実感して、同時に
「でもこれおれだけじゃねえんだよな」
も突きつけられる。
あるじに悪気は無い、悪気はないのだ。
「おれが言うのもなんだがよ、誰にでもあんなであいつ大丈夫なのかよ」
「それはほんっっとそう思う」
あの柔らかな手のひらのせいで、戦うためだけの存在だった刀が『帰る場所』を欲し始めてる。
それが決して自分だけのモノにならない女の腕の中だというのだから、我ながら救いようがない。
でも、それでも、
帰ってきた時にあの腕が待ってるなら、
また戦場へ行けてしまう。
◇ ◇ ◇
「うーん、あるじのこと愛してるのは揺るぎないんだけどさ」
加州清光が、揺らした酒のグラス片手にぼやいた。
「うちのあるじ、実はけっこー残酷かもしんない」
「はっ、今さらかよ」
ウィスキーグラスをカッと置いて、真っ赤な顔で肥前が管を巻いた。
「ひでえ女だよ。ひーちゃんのお願いごと叶いますよーに、なんて言いやがる女だぞ。てめえへの恋心拗らせてんだよこっちは」
「うっ…わー…」
「わかってんだよ。結局、おれに振り向かねえあいつに惚れてんだから世話ねえっつの。おれに振り向くようならあいつじゃねえ」
「難儀な愛し方してんなあ…」
苦笑いした清光が、かつん、と労わるように肥前のグラスに己のグラスをぶつけた。
「んじゃ、乾杯しとく?」
「あ? 何にだよ」
「うーん、なんつーか、まあ俺の場合はちょっと違うけどさ。同じもの愛した仲間同士、ってとこかな」
「はっ」
溺れるような深酒に、キツいアルコールをぐっと喉に流し込んだ肥前は、テーブルに突っ伏すと、最後にかつん、と加州のグラスに応じた。