どうしても結婚したくて婚活をがんばるベレトと、そんなベレトに助言をするクロードの話。ふたりとも20代半ばか後半ぐらい。
いつも以上に自分向けに書いたものなので味付けはかなり偏っていて、苦めです。
設定の都合上、婚活や結婚の話題がメインになりますが、制度そのものの是非を問うたり、何らかの主張をする意図はありません。
あくまでこの話のふたりが、彼らなりの関係のかたちを探す話になります。
@Bombwooo
ホテルのラウンジは、思っていたよりも天井が高かった。
窓際の席には薄い光が入り、低い卓の上で、白い皿と銀の匙が小さく光っている。客の声は多いのに、どれも壁や絨毯に吸われるようで、耳に残るほどではなく、店員の歩き方も静かだった。皿を置くときの音まで、ここでは選ばれているように思えた。
こういう場所で人と会うのは初めてではない。けれど、慣れているとも言いにくかった。
向かいに座る女性は、写真で見たときよりもやわらかい印象だった。髪は肩より少し下で揃えられ、爪も淡い色に整えられている。話し方は丁寧すぎず、近すぎず、きちんとした人に見えた。
紹介所を通じて会うのだから、仕事や住んでいる場所、休日の取り方は先に聞いている。大きく外れているところはなかったし、だからこそ、実際に話してみなければわからなかった。
彼女は紅茶のカップを静かに置き、こちらを見た。
「ベレトさんは結婚したら、どんな暮らしを望まれているんですか?」
何度か聞かれたことのある問いだった。
望む暮らし。
そう言われると、すぐには答えが出なかった。住む場所のことか。仕事を続けるかどうかか。家事の分け方か。休日の過ごし方か。あるいは、もっと大きく、どういう家庭にしたいかという意味なのか。
言葉を探してから、答えた。
「特に希望はありません。自分のことよりも、相手の望む暮らしになるように努力したいと考えています」
彼女が、瞬きをした。
「努力、ですか」
「はい」
足りなかったのだと思い、言葉を足す。
「仕事の時間や住む場所、家事の分担など、現実的に合わせられることと、むずかしいことがあると思います。そこを最初に確認しておけば、相手に迷惑をかけることが少ないのではないかと」
「迷惑……」
「結婚するなら、相手の生活に自分が入ることになります。邪魔をするような真似はしたくありません」
口に出してから、言葉の響きを反芻する。邪魔、という表現はよくなかったかもしれない。
彼女は笑っていた。けれど、その笑みは最初よりも薄い。
「じゃあ、ベレトさんご自身は、どういう生活が楽しいと思いますか」
「相手が楽に過ごせるなら、それでいいと思っています」
答えたあとで、また足りない気がした。
「自分の希望は、あとから調整できるので」
隣の席で、誰かが咳き込んだ。
ただの咳にしては、やけに音が大きかった。水をこぼしたような音もして、彼女がそちらを見る。自分も振り向いた。
隣の席には、スーツ姿の男がいた。片手で口元を押さえ、もう片方の手で卓の上の布巾を取っている。カップの縁から少しこぼれたらしく、白い受け皿に茶色のしみが広がっていた。向かいに座っている男は、何が起きたのかわからないまま固まっている。
「大丈夫ですか」
思わず声をかけた。
スーツ姿の男がこちらを見る。垂れた目元が細められ、気まずそうに口元が動いた。顔立ちはやわらかいのに、やわらかいだけではない。短い髭がこめかみから輪郭に沿って整えられていて、額も顎の線も隠していなかった。自分がどう見えるかを知っている人の顔だと思った。
「……すみません、大丈夫です。ちょっと驚いてしまって」
声はかすかに掠れていた。彼は一度咳払いをした。
「変……というか、真面目だなと」
そこでようやく、隣の席の男がこちらの会話を聞いていたのだとわかった。聞かれるほど大きな声だっただろうか。ラウンジは静かだが、席同士は離れている。だが、まったく聞こえないほどではなかったのかもしれない。
男の向かいにいた仕事相手らしき人が、失礼、と小さく言って席を立った。電話がかかってきたらしい。彼はひとり残り、濡れた受け皿を端へ寄せている。
彼女は、膝の上で指を重ねた。
「ベレトさんは、とても誠実な方なんですね」
「そうでしょうか」
「はい。ただ、あの」
彼女は言葉を選んだ。
「ご自身がどうしたいのか、私にはわからなくって」
それは、以前にも言われたことがあった。
自分では答えているつもりだったが、相手からすると答えになっていないらしい。相手が望むなら合わせる。困ることがあるなら先に知りたい。必要なことがあるなら、自分にできるか考えたい。それは、結婚する相手に向ける言葉として、間違っていないと思っていた。
けれど、それだけでは足りないのだろう。
「自分がどうしたいか、ですか」
「ええ」
「自分は、結婚したいと思っています」
「はい」
「だから、自分がその人のためにどれだけ頑張れるかを、最初に知りたいです」
彼女は眉尻を下げた。
「たぶん、もう少し、ふたりで作るものとして考えたほうがいいのかもしれません」
ふたりで作る。言われたことはわかるのに、どうすればいいのかはわからなかった。
自分がどこまで相手の生活に入っていいのか。相手がどこまでこちらへ来てくれるのか。そういうものは、最初に決めておいたほうがいい気がする。曖昧なまま近づくのは、自分にはむずかしい。
話はそこで止まった。
相手は最後まで丁寧だった。こちらも礼を言った。また連絡します、と言われた。たぶん、その連絡は来ない。そう予感しているのに、こちらから先に何かを告げることもできなかった。
重い足取りでラウンジを出る。ふと視線を上げると、さっき隣にいた男がロビーの柱のそばに立っていた。
仕事相手らしき人とは、もう別れたらしい。片手に革の鞄を持ち、もう片方の手でスマートフォンを操作している。こちらに気づくと、彼はすぐに愛想のよい笑みを作った。
「先ほどは失礼しました」
男は軽く頭を下げた。
「いえ、こちらにはかかっていませんので」
「そういう問題ではないんですけどね」
そう言って、彼はふっと息を漏らすように口元をゆるめた。困っているようにも、まだ面白がっているようにも見える。
「大事なお話し中に、隣でコーヒーを吹かれたら嫌でしょう。普通は」
「嫌というより、何か間違えたのだと思いました」
「そこなんですよ」
「そこ」
「ええ。たぶん、そこです」
彼は笑いをこらえるように口元を押さえた。笑われているのはわかったが、不思議と、ばかにされている感じはしなかった。
「あなたの婚活、危ない気がします」
「それは初対面の相手に言うことではないと思います」
「たしかに、おっしゃる通り」
あっさり認められて、少し返事に困った。
「でも、聞こえてしまったので」
「聞こえたのですか」
「聞こえましたが、全部ではないですよ。大事そうなところだけ」
「それは、ほとんど全部では」
「細かいなあ」
彼はそこで、ようやく声を立てずに笑った。
「お詫びと言っては何ですが、よければこのあと、食事でも行きませんか。飲みでもいいですよ」
「お酒は飲みません」
「じゃあ、飯にしましょう。うまい店、知ってるんで」
彼はすぐにそう言った。
「静かなところにします。たぶん、そのほうがいいでしょう」
「そう見えましたか」
「ええ。肩に力が入っていそうでした」
そう言われて、ようやく肩に力が入っていることに気づいた。
「あなたは、信用できる人ですか」
彼は一瞬だけ黙ったのち、楽しそうに笑った。
「さあ、どうでしょう。俺が信用できる人間かどうかは、あなたの目で確かめてください」
彼は鞄から名刺入れを出した。差し出された名刺には、会社名と肩書きが印刷されている。仕事内容はすぐにはわからなかったが、人と人のあいだに立つ仕事なのだろうと思った。
「クロードです。人に会って、話を聞いて……あー、それをいい感じにまとめて、必要なところへつなぐ仕事をしています」
「いい感じに」
「そこに反応しますか」
「具体性がない」
「よく言われます」
クロードは悪びれなかった。
うさんくさいと思った。
けれど、まったく信用できないという感じでもなかった。名刺を出したこと。こちらが警戒しているとわかったうえで笑ったこと。酒ではなく食事と言ったこと。そのあたりは、見ておいていい気がした。
「ベレトです」
こちらも名乗ると、彼はうなずいた。
「さっき呼ばれてましたね」
「やっぱり聞いていたのですか」
「大事そうなところだけ」
「ほとんど全部でしょう」
「細かいな、ほんとうに」
クロードはまた笑った。
さっきの女性との会話より、息がしやすかった。理由はわからない。クロードのほうが失礼なことを言っているはずなのに、こちらの答えを待つ顔に、どこか余裕があるからかもしれない。
行ってもいいのかもしれない。
お詫びだと言った。美味しい店を知っているとも言った。酒を飲まなくていいとも言った。そして、肩の力が抜ける店にすると言った。
「わかりました」
「行きます?」
「はい。食事ぐらいなら」
クロードは目を丸くしたのち、意味ありげに細めた。
「なるほどなあ」
「何か変でしたか」
「変というか、よくわかりました。あなたが婚活で苦戦している理由が」
「それは悪口ですか」
「助言の前段です。言い方が悪いのは認めますけど、悪口だけで終わらせるつもりはありません。まず、結婚相手を探しているときも、食事をするくらいの顔をしたほうがいい」
「どういう意味ですか」
「肩の力を抜いたほうがいい、という意味です」
「抜いているつもりです」
「抜けていないから、俺がコーヒーを吹いたんです」
「それはあなたの問題では」
「まあ、それもあります」
彼はあっさり認めた。
「でも、少しだけ、あなたの問題でもある」
その言い方は軽かった。軽かったのに、なぜか胸の奥へ落ちて消えなかった。
クロードは、ホテルの出口を出るときに一度だけこちらを振り返った。
ついてきているかを確かめたのだと思う。声はかけなかった。自分も何も言わず、後ろを歩いた。
通りには、夕方の手前の光が残っていた。車の音が大きく、ホテルの中で小さく抑えられていた声や足音が、急に遠いものになる。彼は歩くのが速かったが、こちらが遅れそうになるほどではない。角を曲がる前や信号の手前ではきちんと足をゆるめる。
「次、右です」
それだけ言って、また前を向く。
自分はうなずいた。見えていないかもしれないと思ったが、彼は振り返らなかった。こちらがついてくることを、もうわかっているようだった。
ラウンジで会った女性とは、ほんの少し前に別れたばかりだった。
それなのに、いま自分は、その席の隣でコーヒーを吹き出した男のあとを歩いている。
名刺は受け取った。仕事の内容も聞いた。だからといって、それで相手を知ったことにはならない。
変なことをしている自覚はあった。
それでも、不安はあまりなかった。人通りのある道を歩いている。酒ではなく食事だと言った。店も、静かなところにすると言った。断れば、それ以上は押してこなかったようにも思う。
ひとつずつ確認すると、ついていってはいけない理由は少なかった。
それに、あのまま帰るよりは、よい気がした。
さっきの女性との会話は、終わり方がやわらかかった。やわらかかったからこそ、どこでだめだったのかがわかりにくい。自分は結婚したい。相手の暮らしに合わせられるよう努力したい。邪魔にならないようにしたい。そう言った。言い方はよくなかったかもしれないが、考えていること自体が間違っているとは思っていなかった。
それでも、相手の笑みは薄くなった。クロードは、コーヒーを吹いた。
その理由が知りたかった。
「ここです」
彼が足を止めた。
大通りからひとつ入ったところにある、小さな店だった。入り口の横に木の札が出ていて、昼は定食、夜は酒も出すらしい。ガラス戸の向こうは明るすぎず、席の間も狭くない。ホテルのラウンジのように整いすぎてはいないが、騒がしい店でもなかった。
「静かなところですね」
「でしょ。飯もうまいですよ」
彼は戸を開けた。先に入るのかと思ったら、戸を押さえたまま横へ避けた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
中へ入ると、焼いた魚と出汁の匂いがした。カウンターに数人、奥の卓にひと組。店員が顔を上げ、クロードを見ると軽くうなずいた。
「ふたりです」
「奥、空いてますよ」
「どうも」
来たことがある店なのだろう。彼は迷わず奥の席へ向かった。通路を歩きながら、また一度だけこちらを見る。今度も、ついてきているかを確かめただけだった。
席に着くと、彼は鞄を壁側に置いた。自分は向かいに座る。ホテルのラウンジより卓が近い。湯呑みと箸立てが置かれていて、壁際には手書きのメニューが立てかけてあった。
彼はそれを取り、先に目を通してから、こちらにも見えるように卓の中央へ置いた。
魚の定食、どんぶり、煮込み、いくつかの小鉢。字は癖があったが、読みにくいほどではない。
「飲み物、どうします?」
「お茶で」
「じゃあ、俺もそれで」
「飲まないのですか」
「今日はやめておきます。あなた、飲まないって言ったでしょう」
そう言われて、返事に困った。
「合わせなくても」
「初対面で、片方だけ飲んで説教みたいになったら最悪でしょう」
「説教するつもりなのですか」
「助言の前段です」
「それは、先ほども聞きました」
「便利なのでね」
クロードはメニューを指で軽く押さえた。
「嫌いなものはあります?」
「特には」
「じゃあ、魚は?」
「食べられます」
「肉は?」
「食べられます」
「辛いもの」
「程度によります」
「甘いもの」
「食べられます」
彼はわずかに眉を上げた。
「へえ」
「それが何か」
「俺は甘いの、あまり得意じゃなくて」
「そうですか」
「そうですか、で終わるんだ」
「覚えました」
彼が一瞬こちらを見て、それから笑う。
「じゃあ、ここは魚でいいですか。外れないので」
「はい」
注文を終えると、ぽっかりと間が空いた。
クロードは湯呑みに手を伸ばし、ひと口飲んだ。自分も同じように飲む。お茶は熱かった。ホテルで飲んだ紅茶より渋い。
「さっきの話ですけど」
彼が言った。
声の調子は、ロビーで話していたときよりも落ち着いていた。
「相手のために努力するのは、悪いことじゃないと思います」
「はい」
「でも、最初にそれを言われると、相手はたぶん困ります」
「なぜですか」
「重いから」
彼は短く、はっきりと言い切った。わかりやすい言葉だった。わかりやすいぶん、受け取りにくい。
「重い」
「はい。かなり」
「自分では、誠実なつもりでした」
「それはわかります」
彼はすぐに言った。
「だから余計に重いんです。軽い気持ちで言ってないのがわかるから」
店員が小鉢を置いた。青菜のおひたしと、切った漬物だった。クロードは礼を言い、箸を取る前にこちらを見た。
「あなたは、自分がどれだけ相手に差し出せるかを見てるでしょう」
箸を取る手が止まった。
「差し出す、とは」
「言い方は悪いかもしれないけど」
自分は、そうしているのかもしれない。相手のためにどれだけ頑張れるか。困ったとき、助けたいと思えるか。相手の生活に入って、邪魔にならないか。相手が望む暮らしに、どれだけ合わせられるか。
それを見ている。
「そう、かもしれません」
「だと思いました」
「それでは、だめですか」
「だめっていうか、そうだな」
彼は箸を持ったまま、言葉を探した。
「結婚は奉仕活動じゃないんですよ」
奉仕活動。
その言葉は、自分では思いつかなかった。
「自分は、相手に尽くしたいという意味で言ったわけではありません」
「でしょうね」
「わかるのですか」
「わかります。あなたは、おそらく相手の邪魔になりたくないんでしょう」
返事が遅れた。クロードは小鉢の青菜を取った。
「でも、それを最初に言われると、相手は思うんです。じゃあこっちも、同じだけ頑張らなきゃいけないのかって」
「互いに努力は必要では」
「必要です。でも、初回で背負わせるものじゃない」
彼はそこで、笑った。
「しかもあなたは、自分の希望をあとから調整すると言った。聞いたほうは怖いですよ。どこまで合わせるつもりなんだろうって」
そうなのか、と思った。
相手に無理をさせたくない。自分が合わせられる範囲を先に見せたほうが、安心してもらえると思っていた。相手が望むなら、そこへ自分を近づける。できないことはできないと言う。できることはする。
それは、怖いのか。
「では、何を見ればいいのでしょう」
「相手がどういう人か」
「それは見ています」
「条件じゃなくて」
彼が箸を置く。
「その人が何で笑うのか。何を嫌がるのか。休みの日に何をしているとき、ちゃんと休めていると感じるのか。困ったとき、誰かに頼れる人なのか。……あんたがその人を助けたいかどうかも大事だけど、その前に、その人がどういう人かを見ないと」
言い終えてから、クロードがわずかに口を閉じた。
「どうかされましたか」
「いや。いま、失礼だったなと思って」
「そのままでいい」
それでよいというより、そっちのほうがよかった。
「そのほうが、うれしいです」
「……そうか」
「はい」
「じゃあ、堅苦しいのはなしにする」
「わかりました」
「そっちも、もっと崩していい」
「ああ」
彼は湯呑みを持ち、肩を下げた。
「じゃあ、続き。あんたは相手がどういう人かを見る練習をしたほうがいい」
「むずかしい」
「むずかしいさ。だからみんな苦労してるんだろ」
「君は、そういうことは得意なのか」
「そういうこと?」
「相手がどういう人なのかを見ること」
「まあ、多少は」
「では、いま君は恋人がいるのか」
彼は目を丸くした。
「どうしてそこに飛ぶんだよ」
「助言を受けるなら、確認したほうがいいと思った」
「職務経歴を聞かれてるみたいだな。……まあ、いまは独り身だが、あんたよりは経験あるから安心しろ」
「そうか」
いまは独り身。
その言葉だけが、少し遅れて残った。
「もうひとつ。君に忘れられない人はいるのか」
クロードは湯呑みを持ったまま、動きを止めた。
「……そこまで聞くのかよ」
「確認したほうがいいと思った」
「何の確認だ」
「助言を聞く相手が、どういう人間なのかを知りたい」
「職務経歴の次は身辺調査か?」
「言いたくないなら、言わなくていい」
彼は口角をわずかにゆるめる。けれど、すぐには答えなかった。
「さあな」
「さあな、なのか」
「いたかもしれないし、いないかもしれない」
「それは答えになっていない」
「答えないって答えてる」
クロードは湯呑みを置いた。
「少なくとも、いまは独り身。そこだけでじゅうぶんだろ」
「そうか」
じゅうぶんなのだと思った。
けれど、答えなかったことだけは残った。
それで納得できたのは、助言を聞いてもよい相手だとわかったからだと思った。そういうことにした。
クロードは人と話すのがうまい。相手の言葉を拾い、足りないところを補い、からかうときにも乱暴にはしない。そういう人が独り身なら、周りの見る目がないのかもしれない。
「見る目がないんだな」
「誰が?」
「周りが」
「俺の?」
「ああ」
クロードは一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「そりゃどうも」
「褒めたつもりだ」
「わかってるよ。だから礼を言った」
「そうか」
「じゃあ、あんたがひとりなのも、みんな見る目がないからだな」
今度は、自分が黙った。
「そうだろうか」
「そうだよ」
「自分にも原因はあると思う」
「それはあるだろ」
「あるのか」
「ある。でもそこは、これから俺と一緒に直していけばいい」
彼は平然と言った。
ひどいことを言われた気もしたが、不思議と嫌ではなかった。原因があると言われても、終わりではないように聞こえなかった。どこを見ればいいのか、何を変えればいいのか、次の話につながっている。
そういう言い方をする人なのだと思った。
「直るだろうか」
「直す気があるなら」
「ある」
「返事が早いな」
「結婚したいから」
彼はそこでまた笑った。
料理が運ばれてきた。焼いた魚の皿と、味噌汁と、白いご飯。湯気が上がり、さっきまでの話が遠くなる。
「じゃ、冷めないうちに食べちまおうぜ。話はそのあとで」
クロードがそう言ったので、箸を取った。
魚は、たしかに美味しかった。
食事が終わるころには、湯呑みのお茶もぬるくなっていた。
クロードは箸を揃えて置き、卓の端に寄せた伝票を指で押さえた。払う、払わないで揉めるかと思ったが、彼は最初に「詫びだから」と言った。こちらが自分のぶんは自分で払うと言っても、「それをされたら、俺はただコーヒーを吹いた男になる」と返され、結局引くしかなかった。
店を出ると、外はもう暗くなっていた。大通りのほうから車の音が流れてくる。ラウンジにいたときより、ずっと普通の夜だった。
「今日君に言われたことは、次に実践してみる」
そう言うと、クロードはレシートを財布にしまいながらこちらを見た。
「ほんとうにやるんだな」
「助言なのだろう」
「助言だけどさ。あんた、ほんとうに真面目だな」
「真面目に聞いた」
「教え甲斐があって助かるよ」
彼は小さく笑った。
「ただ、今日教えたことを全部いっぺんにやろうとするなよ。条件も見る。相手も見る。自分の希望も少し出す。これを一度に完璧にやろうとすると、たぶんまた面接になる」
「面接にはしない。希望のすり合わせをちゃんとする」
「その意気込みがもうすでに面接っぽいけどな」
クロードはそれ以上笑わず、スマートフォンを取り出す。
「さっき渡した名刺にも連絡先はあるけど、あっちは仕事用なんだよ」
「そうなのか」
「そこに連絡されると、仕事用の俺が出るから」
ごく普通に言った。
ふざけているようにも聞こえたが、嘘を言っている感じはしなかった。名刺の中のクロードは、今日会ったクロードと同じではない。人に会って、話を聞いて、いい感じにまとめる仕事をしている人。肩書きのある人。自分がこれから相談しようとしているのは、そちらではないらしい。
「仕事ではないのに、手伝ってくれるのか」
純粋な疑問だった。彼は一度目を上げたが、すぐに画面を操作した。
「だって、ここまで聞いたら気になるだろ」
それだけだった。
差し出された画面を見て、自分もスマートフォンを出した。連絡先を交換して、新しく増えた名前を眺める。
仕事ではないという言葉が、耳の中にまだ残っていた。
今日会ったばかりの相手だ。隣でコーヒーを吹き出し、婚活が危ないなどと注意してきた挙句、食事をご馳走してくれて、結婚は奉仕活動ではないと教えてくれた人。その人と、仕事ではない連絡先を交換している。
変なことをしている。
けれど、さっきよりは変だと思わなかった。
「次からは、条件だけではなく、相手がどういう人かを見る」
「それから?」
「自分の希望も、少しは言う」
「少しでいい。全部は出すなよ」
「わかった。結果は、あらためて報告するよ」
クロードは画面をしまいかけて、手を止めた。
「ああ」
短く返して、それから口元だけで笑った。
「待ってる。……にしても、俺まで緊張しちまうな」
「君が緊張するのか」
「するだろ。俺の助言の成果が出なかったらどうしようって」
「君だけの責任ではないだろう」
「それはたしかに」
クロードはそこで、声を落ち着けた。
「うまくいくといいな」
その言い方は、思っていたよりもまっすぐだった。
うまくいく。
それは、自分が誰かとうまく話せるということだ。結婚相手を見つけるということかもしれない。少なくとも、今日のように薄い笑みを残して終わらないということだった。
「うん」
そう答えた。
駅のほうへ向かう道は、人が増えていた。クロードは途中まで同じ方向だと言い、信号をひとつ渡ったところで足を止めた。
「俺、こっちだから」
「わかった。気をつけて」
「じゃあ、次、頑張って」
「ああ」
「頑張りすぎるなよ」
「むずかしい」
クロードは笑った。
今度はそれ以上続けず、軽く手を上げて人の流れの中へ歩いていった。背中はすぐに他の影に紛れたものの、輪郭だけがいつまでも目に焼き付いていた。改札へ向かう足取りは、来たときよりも軽い。
次は、条件だけを見ない。相手がどういう人かを見る。自分の希望も、少しは言う。
まだむずかしい。
だが、報告すると言った。
報告できるだけの成果を上げなければならない。
そう思って、改札へ向かった。
次に会った相手には、最初から意識して話すことにした。
条件だけを見ないこと。相手がどういう人かを見ること。自分の希望も少しは伝えること。でも、この全部を完璧にこなそうとしないこと。
クロードに言われたことは、いくつかあった。多かったが、どれも必要なことのように思えた。だからひとつずつ思い出しながら、店へ向かった。
相手は、自分よりふたつ年下の女性だった。駅に近い喫茶店を指定された。前のラウンジほど静かではないが、席のあいだは狭くない。昼の時間を過ぎていたので、混みすぎてもいなかった。
相手は先に来ていた。こちらが席へ近づくと、立ち上がって会釈をした。丁寧な人だと思った。
まず、条件を見た。
仕事の時間は大きくずれていない。住む場所も、さほど遠く離れてはいない。休日は土日が中心で、家族との距離も遠すぎない。子どもについては、まだ強い希望はないと言った。
そこまでは、悪くなかった。
けれど、条件だけではいけない。
相手がどういう人かを見る。何で笑うのか。何を嫌がるのか。休みの日に何をしているとき、ちゃんと休めているのか。
そう思って、聞いた。
「休日は、何をして過ごすことが多いですか」
「そうですね。映画を観たり、旅行に行ったりすることが多いです」
「旅行ですか」
「はい。近場ですけど、日帰りで出かけたり」
旅行が好きな人。
そこから相手を見るべきなのだと思った。何が好きなのか。何を楽しいと思うのか。どこへ行くのか。
「頻度はどのくらいですか」
「ええと、月に一回あるかないかくらいです」
「交通手段は」
「交通手段?」
「電車か、車か」
「ああ。場所によりますけど、電車が多いですね」
「いつも費用はどのくらいかかるんですか」
相手の返事がわずかに遅れた。
そこで、何かを間違えたのだと思った。
「あ、ええと。そんなにきっちり決めているわけではなくて」
「そうですか」
「はい。そのとき行きたいところへ、友人と行く感じです」
「友人と」
「はい」
「結婚後も、その頻度は変えない予定ですか」
相手は微笑んだ。
笑ったが、さっきまでの笑いとは違った。困っているのだと思った。
「そこまで考えたことはなかったです」
「すみません」
「いえ。真面目に考えてくださっているんですね」
真面目。
それは、褒め言葉として言われたのだと思う。前にも似たようなことを言われた気がした。
自分の希望も、少しは言うべきだった。
そう思い、料理を待っているあいだに口を開いた。
「自分は、休みの日は必ずこう過ごしたいという強い希望はありません」
「そうなんですね」
「本を読むことはあります。映画は、勧められれば観ます。出かけるのも、誘われれば行きます」
「合わせてくださるんですね」
「合わせることはできます」
言ってから、また違う気がした。
合わせることはできる。けれど、それは自分の希望ではない。クロードは、自分の希望も少しは出せと言った。では、何を言えばよかったのだろう。
「ただ」
相手がこちらを見る。
「自分のほうから、どこかへ行きたいと言うことは少ないと思います」
「そうなんですか」
「はい」
「それは、お仕事がお忙しいから?」
「いえ」
少し考えた。
「思いつかないからです」
相手は、今度は小さく声を出して笑った。
そこは笑うところだったらしい。
笑ってもらえたのなら、よかったのかもしれない。だが、それが相手を見たことになるのか、自分の希望を言えたことになるのかはわからなかった。
食事のあと、駅の近くで別れた。
相手は最後まで丁寧だった。今日はありがとうございました、と言い、こちらも同じように礼を返した。別れ際に、また予定が合えば、と言われた。
予定が合えば。
それなら、予定を出せばよいのだと思った。
帰ってから、メッセージを送った。
今日はありがとうございました。お話しできてよかったです。旅行の頻度や休日の過ごし方についても伺えて参考になりました。来週であれば火曜夜、水曜夜、土曜昼が空いています。ご都合のよい日程はありますか。
送ってから、待った。
既読はついた。
返事は来なかった。
そのまま夜になり、翌朝になっても、画面は変わらなかった。
返事がないことは、返事なのだろうか。
そう思ったが、断られたわけではない。予定が合えば、と相手は言った。なら、予定を出したこちらの返事が間違っていたのかもしれない。
翌日の昼休みに、クロードへ連絡した。
会ってきた。
結果を報告したい。
少しして、返事が来た。
今日の仕事終わりなら時間は取れる。
成果報告、聞かせてくれ。
成果報告。その言葉を見て、背筋が伸びた。
報告できるほどの成果があったのかは、わからなかった。けれど、報告すると言った以上、伝える必要があった。
クロードと会ったのは、前と同じ駅の近くだった。
仕事帰りだと言っていたので、店は任せた。食事をするほどではないからと、クロードは駅から離れた喫茶店へ入った。前に行ったような食事処ではなく、夜でも明るい店だった。卓の上には小さな砂糖入れと紙のメニューが置かれていた。
「で、成果報告は」
席につくなり、クロードが言った。
「成果は上がっていないかもしれない」
「報告は報告だろ」
「そうか」
クロードは水の入ったグラスを少し寄せた。
「条件は見た」
「ちゃんと見たのか」
「言われたから」
「ああ」
「仕事の時間、住む場所、休日、家族との距離、子どもの希望。大きく合わないところはなかった」
「それで?」
「相手がどういう人かも見ようとした」
「何を聞いた?」
「休日の過ごし方」
「お、聞けたのか」
「映画と旅行と言っていた」
「そこまではかなり普通だな」
「だから、頻度と交通手段と費用を聞いた」
クロードが黙った。
笑うかと思ったが、すぐには笑わなかった。グラスを持ち上げ、水を飲む。それから、ゆっくり卓に戻した。
「費用」
「うん」
「旅行の費用を、初回で聞いたのか」
「うん」
「それは相手も驚くだろ。あんたに悪気がないのはわかるが、旅行の話からいきなり家計の話に飛んでる」
「返事が少し遅くなった気がする」
「遅れるだろうな」
「何がよくなかったんだろう」
「よくないというより、順序が違う」
彼は指先で卓を軽く叩いた。
「旅行が好きだって言われたら、まず、どこがよかったのかとか、どういうところが好きなのかとか、そういう話でいい」
「条件確認ではない」
「だからいいんだよ」
「そうなのか」
「そう。相手が何を楽しいと思うかを見るんだよ。費用とか頻度は、もう少しあとでいい」
そう言われるとわかる気もしたが、そのあとというのがいつなのかはわからない。
「結婚後もその頻度で出かけるのかも聞いた」
「聞いたのか」
「ああ」
今度こそクロードは笑った。声は出さなかったが、肩が揺れていた。
「笑うところじゃないだろう」
「いや、悪い。笑うところじゃなかったな」
「笑うな」
「だって、あんた、ちゃんとやろうとして全部早いんだよ」
「早いのか」
「早い。まだ相手が旅行の写真を見せるかどうかくらいの段階で、結婚後の生活に組み込もうとしてる」
言われて、返事に困った。
その通りなのかもしれない。自分は相手の話を聞こうとした。相手が何をする人なのか知ろうとした。そして、知ろうとしたものをすぐ生活に置こうとした。結婚するなら、必要だと思ったからだ。
「自分の希望も、少し言った」
「何て?」
「休みの日に強い希望はない。本は読む。映画は勧められれば観る。出かけるのも誘われれば行く」
「なるほど」
「それから、自分からどこかへ行きたいと言うことは少ない。思いつかないからだ、と言った」
クロードは今度こそ笑った。
「そこは悪くないと思う」
「そうなのか」
「ああ。少なくとも、あんたがどういう人かはわかる」
「では、できていたのか」
「一部な」
つまり、全部ではないということか。
「そのあと、どうなった?」
「別れ際に、また予定が合えばと言われた。だから予定を出した」
彼がぴたりと笑うのをやめる。
「どう出した?」
「来週であれば火曜夜、水曜夜、土曜昼が空いています。ご都合のよい日程はありますか、と」
「早い」
「また早いのか」
「早いさ」
彼は額に手を当てた。
「また予定が合えば、って言われたんだろ」
「うん」
「だったら、社交辞令の可能性もある。ほんとうにまた会いたい場合もあるけど、波風を立てないための便利な言葉として使うこともある」
「では、どう返せばよかったんだ」
「今日はありがとうございました。またお会いできたらうれしいです、ぐらいで止める」
「予定を出さないのか」
「出さない。相手が乗ってきたら出す」
「むずかしい」
「むずかしいんだよ」
クロードは短く言った。
その言い方は、前と同じだった。むずかしいことを、むずかしくないようには言わない。だから、助かる。
「画面、見せてくれ」
「画面」
「メッセージ。見たほうが早い」
そう言われたので、スマートフォンを出した。
相手とのやりとりを開き、卓の上へ置く。彼は身を乗り出して画面を見たが、文字が小さいのか、顔をこれでもかとしかめてみせた。
「小さいな」
「そうか」
「まあ、読めるけどさ」
彼は画面を覗き込んだまま、指を止めた。
「これ、送った文面そのままか?」
「ああ」
「旅行の頻度や休日の過ごし方についてもうかがえて参考になりました、は硬い」
「参考になった」
「なったとしても、硬い」
「そうか」
「それから、火曜夜、水曜夜、土曜昼。候補を出すのは悪くないが、相手の温度がわかる前に出すと詰めてる感じになる」
「詰めているつもりはなかった」
「だろうな」
彼は画面をこちらへ戻した。
「たぶん、悪い人だとは思われてない。真面目だとか誠実そうだとは思われてる」
「それは前も言われた」
「だが、会話が進む前に生活のほうへ行くと、相手はついていきにくい」
「生活?」
「結婚後の趣味の頻度とか、家計とか、予定の詰め方とか。全部必要な話だが、初回から全部出すと重い」
また、その言葉だった。
誠実だが、重い。
自分でもわかってきた気がする。けれど、わかったところで、どう軽くすればいいのかまではわからなかった。
「子どもの話もしたのか」
「相手は、まだ強い希望はないと言っていた」
「だったら、なおさら条件だけで考えるなよ。子どもを作るかどうかとはべつに、近くにいて平気かどうかも大事だろ。生理的に無理じゃないってのは大前提だが、それからもっと踏み込んで、そばにいて嫌じゃないかとか、触れたいと思えるかとか」
クロードはそこで言いよどんだ。
「……言わせるなよ、こういうこと」
「必要なことなのか」
「必要さ。だからこそ、条件が合うかどうかだけで済ませるなってこと」
「では、次はどうすればいい」
クロードがこちらを見た。
「次もやるのか」
「やる」
「返事早いな」
「結婚したいから」
「そうだったな」
彼はそこで、水をもうひと口飲んだ。
「じゃあ、次は文面を送る前に見せろ」
「君に?」
「俺に」
「いいのか」
「ここまで来たら同じだろ」
「仕事ではないのに」
「仕事じゃない。だから、仕事用の俺に送るなよ」
彼は何てことのないように言った。
どうしてか、肩から力が抜けた。失敗したことが、まだ終わりではないように思えた。
「わかった」
「送る前に、一回止まれ。予定も、考えも、全部そこで渡そうとするな」
「そう見えるのか」
「そう見えるというか、そうしようとしてる。とにかくあんたは渡す情報の量が多い」
渡す量というのは、わかりやすい言い方だった。
「相手が持てる量にする、ということか」
「わかってるじゃないか。なら、やってみろ」
「むずかしい」
「だろうな」
クロードはそう言って、今度は笑わなかった。
「でも、まあ、最初よりはいいんじゃないか」
「どこが」
「相手がどういう人か見ようとはした」
「失敗した」
「失敗はした。でも、見ようとはしただろ」
「ああ」
「じゃあ、そこから直せばいい」
原因がある。直すところがある。それは、終わりではない。
そう思うと、失敗したことより、次に何をすればいいかがうっすらと見えた気がした。
自分はスマートフォンをしまった。
「次は、送る前に見せる。全部を一度に渡さないで、相手が持てる量にする」
「そう。言葉にすると簡単なんだけどな」
「むずかしい」
クロードは困ったように笑ってから、席を立つ準備を始めた。長くは引き止めなかった。仕事終わりに時間を作ってくれたのだと思い出す。
「今日は、ありがとう」
「どういたしまして」
「次は、成果を上げたい」
「成果にするなって言いたいけど、まあいいか」
クロードは鞄を持ち上げた。
「報告、待ってる」
そう言われて、うなずいた。
今度こそ、彼に報告できるだけの成果を上げなければならないと思った。
次の相手に送る文面は、すぐには送らなかった。
削るべきところがあるのはわかっていたが、どこを削ればよいのかがわからない。相手が持てる量にする、という言葉だけが頭に残っていた。
では、相手が持てる量とはどこまでなのか。
短くすれば足りない気がした。長くすれば重い気がした。そのどちらも、たぶん正しい。
送信の文字に指を置いて、止めた。送る前に見せろと言われている。言われたので、見せることにした。
クロードへ連絡すると、返事は思ったより早かった。
今日なら見られる。飯は?
まだ食べていない、と返すと、駅の名前と店の名前が送られてきた。前に行ったところとは違う店だった。詳しいのだなと思う。クロードは店を探すのが上手だ。
それも、仕事のうちなのだろうか。
仕事ではない。そう言われたことを思い出して、考えるのをやめた。
クロードは先に席にいた。
卓の上には水のグラスと、メニューが置かれている。店内はラウンジほど静かではなかったが、話し声が卓の上でほどけるくらいの落ち着きはあった。
彼はこちらに気づくと、手だけを軽く上げた。前よりも待ち合わせらしい動きだと思った。
「送らなかったんだな」
「送る前に見せろと言われた」
「偉い」
「偉いのか」
「少なくとも、前進ではある」
そう言って、彼はメニューをこちらへ向けた。
「先に頼むか。腹が減ってると、あんたの文章を読み終わる前に力尽きそうだ」
「長いと思う」
「自覚あるんだな」
「ある」
「ならいい。いや、よくはないけど」
注文を済ませてから、スマートフォンを出した。
文面を開き、クロードへ渡す。彼は画面を見て、すぐには何も言わなかった。親指で下へ送り、また上へ戻る。
「長い」
「必要なことを書いた」
「必要なことを全部を書くなって言っただろ」
「不足があると、誤解されるかもしれない」
「多すぎても困るんだよ」
彼は文面をもう一度読み直した。
「これ、次に会う人への返事か?」
「そうだ」
「まだ会う前だよな」
「ああ」
「会う前に、休日の過ごし方についての自分の考えをここまで書くのか」
「相手が、休日は家で過ごすことが多いと書いていた」
「なるほど」
「自分も家で過ごすことはできる。ただ、ずっと家にいることを望んでいるわけではない。誘われれば出かけるし、本も読む。相手に合わせられる範囲は広いと思った」
「その説明がもう長い」
クロードは画面を指で軽く叩いた。
「ここは、家で過ごすのも好きです、くらいでいい」
「でも、それだけだと、外出が嫌いだと思われるかもしれない」
「思われたら、そのとき言えばいい」
「……そのとき」
「そう。いまじゃない」
それは、自分にはない考え方だった。あとで伝えればよいことと、いま伝えるべきことの違いがわからない。相手が誤解したまま話が進むくらいなら、先に言ったほうがいいように思う。でも、そうすると重いと言われる。
クロードは画面を見たまま、息を吐いた。
「あと、ここ」
「うん」
「自分は相手に合わせることができます、は消す」
「なぜ」
「怖いから」
「また怖いのか」
「また怖い。あんた、合わせるって言葉を軽く使ってるけど、読む側からすると底が見えないんだよ。どこまで合わせるつもりなのかわからない」
「できる範囲で」
「それも書かなくていい」
「では、何を書くんだ」
「家で過ごすのも好きです。おすすめの本や映画があれば教えてほしいです。これでいい」
「短い」
「短いほうが返しやすい」
返しやすい。
そういう見方を、あまりしてこなかった。
自分の文面は、誤解されないためのものだった。相手が困らないように、先に必要なことを出すものだった。けれどクロードは、相手が返せるかどうかを見ている。
「相手が返す余地を残すのか」
「そう」
「不足しないか」
「少し不足してるくらいでいい。相手が聞けるから」
彼はそこで、もう一度画面を下へ送った。
「それにしても、あんたは文章だとよく喋るな」
「そうだろうか」
「そうだろ。口では必要最低限どころか足りてないことが多いのに、文章だと考えたことを全部並べてる」
「文章のほうが、順番に置ける」
「だろうな」
クロードは、少しだけ笑った。
からかう笑いではなかった。画面の中に、自分でもうまく扱えていなかったものを見つけたような顔だった。
「あんたは、ぼんやりしてるけど、何も考えてないわけじゃないんだよな」
「ぼんやりしているだろうか」
「俺にはそう見える」
彼は笑ってから、すぐに画面へ視線を戻した。
「考えてる量に対して、外に出す量の調整が下手なんだよ。口だと減りすぎる。文章だと増えすぎる」
それは、わかりやすかった。
口に出すときは、何をどこまで言えばよいのかわからなくなる。言いすぎれば重い。足りなければ伝わらない。だから短くなる。文章にすると、考えたことを順番に置ける。そしたら、今度はどこでやめればよいのかがわからない。
「そうかもしれない」
「だから、削る」
「どれぐらい」
「半分」
「半分もか」
「ほんとうは七割削りたいけどな」
「多い」
「多いのはあんたの文章」
彼は、画面をこちらへ戻した。
「まず、ここからここまで消す。理由はいまいらない。相手に聞かれたら答える。ここは残す。ここは言い方を変える。合わせます、じゃなくて、興味があります、にする。相手に合わせるんじゃなくて、相手の話に興味を持つ」
似ているようで、違うのだと思った。
合わせる、は自分が動く言葉だった。相手の望む場所へ、自分を寄せる言葉。
一方で、興味を持つ、は相手を見る言葉だった。まだ決めない。まだ差し出さない。ただ見る。
クロードはそれを、短い文に直してゆく。
削られているのに、否定されている感じはしなかった。むしろ、卓の上へ出しすぎたものを、食べやすい大きさに切り分けられているようだった。自分ではどこから手をつければよいのかわからなかったものが、少しずつ、相手へ渡せる量になってゆく。
頼もしい、と思った。そう思ってから、画面を見るふりをした。
彼の指先が、画面の上をゆっくり動いた。
文字は小さかった。彼がどの文を指しているのかが見えにくい。顔を近づけると、卓の向こうからでは角度が悪かった。
だから席を立ち、クロードの隣へ移った。
彼は一度こちらを見たが、何も言わなかった。店の椅子は大きくない。成人した男ふたりが隣り合って座るには窮屈だった。
「ここはもっとはっきり書いていい」
彼が画面をこちらにも見えるように傾ける。自分は身を寄せて、文字を追う。どこを消すのか、どこを残すのか、見落とさないようにした。
「近いな」
クロードが言った。
「見えない」
「いや、見えないのはわかるけど」
「続けてくれ」
クロードは黙った。それから、短く息を吐く。
「……はいはい」
「何だ」
「何でもない。続ける」
彼は画面へ視線を戻した。
「ここは、相手の言葉を受けてるから残していい。ただ、長い。質問するのはいいが、前置きが長すぎて何が聞きたいのかわかりづらい。だから、ここからここまで削っていい」
「それでは短すぎないか」
「短いほうが返しやすい」
「さっきも言っていた」
「何度でも言う。あんたは長い」
「わかった」
「ほんとうにわかってるか?」
「わかろうとしている」
「それは、わかってないやつの返事だな」
からかわれているのはわかった。けれど、雑に扱われている感じはしなかった。こちらの文章を切っているのに、考えたことを捨てろと言っているわけではない。相手が返せる大きさにする。持てる量にする。彼は何度もそう言った。
近くで聞いていると、声が耳に入りやすかった。
店の中にはほかの客の声もあった。食器の音も、店員が歩く音もする。それでも、彼の声は聞き取りやすい。軽く聞こえるのに、こちらが黙ると、どこか落ち着いた声になる。急かされている感じはしなかった。
「ここまで削れば重さはなくなるだろ」
「かなり減った」
「だから送れるんだよ」
「自分が考えたことは、ほとんど残っていない気がする」
「残ってるさ」
彼は画面を指で軽く叩いた。
「相手の話を聞いたこと。興味があること。また話したいこと。それだけ残ればいい」
「それだけで足りるのか」
「最初はな」
自分は短くなった文を見た。たしかに読みやすかった。だが、自分が考えていたことの多くは消えている。相手に誤解されたくないという理由も、合わせられる範囲も、返事が遅れたときの説明もない。
ないのに、クロードは足りると言った。
「送っていい」
「うん」
「いまか」
「いま。送る前にまた増やすだろ」
言われたので、送信を押した。
送ってから、怖くなってきた。もう直せない。足りなかったかもしれない。
クロードは画面を見て、それから水を飲んだ。
「よし」
「よし、なのか」
「少なくとも、前よりはいい」
その言い方で、怖さはわずかにやわらいだ。
前よりはいい。
それなら、次へ進める。
彼の近くに座ったままだと気づいたのは、そのあとだった。
肩が触れるほどではない。けれど、さっきまでより近い。彼の袖口が視界の端にあり、しっかりとした手首が見えた。画面を指す指も、湯呑みを持つ手も、近い。
近いのに、嫌ではなかった。
そう思ってから、これは確認すべきことなのだろうかと考えた。彼は、生理的に無理かどうかも見ろと言っていた。そばにいて不快ではないか、触れたいと思えるかどうかも大事だと。自分はその話を聞いた。聞いたが、いまそれを彼に当てはめるのは違う気がした。
クロードは、婚活の相手ではない。
文面を見てくれている人だ。自分が考えすぎた言葉を、相手が持てる量にきちんと分けてくれる人だ。
だから、近くにいても嫌ではないのは、安心しているからだと思った。
そういうことにした。
スマートフォンの画面が光った。
クロードだった。
名前を見て、息が止まりかけた。自分から報告したわけではないのに、向こうから連絡が来た。
うれしくなってしまった。
開くと、短い文が並んでいた。
そういえば、プロフィール見てなかったな。
文面より先に、そっち直したほうが早いかもしれない。
空いてる日ある?
うれしいと思ったぶんだけ、肩が落ちた。また添削されるらしい。
だが見直す必要があるのなら、見直したほうがいい。どうせ自分では削れない。
そう判断して、予定を確認した。来週は月曜と木曜の夜が空いている。火曜は職場の打ち合わせが長引く可能性がある。水曜は遅くなる。金曜はまだわからない。土曜の午後は空いているが、午前中に用事があり、移動時間を考えると十五時以降なら確実だった。
それを、そのまま送った。
来週なら、月曜夜、木曜夜、土曜十五時以降が空いている。火曜は打ち合わせ次第で十九時半以降なら行けるかもしれない。水曜は遅くなるのでむずかしい。金曜はまだ予定が確定していない。
しばらくして、返事が来た。
長い。
それだけかと思いきや、続けてもう一通来る。
月曜夜でいいか?
短い。たしかに、これで足りるのかもしれない。
月曜で大丈夫、と返すと、すぐに店の名前が送られてきた。前に行った店とはまた違う。駅から少し歩くが、静かそうな場所だった。
そのあとに、もう一通来た。
プロフィール、消される覚悟しとけよ。
削られるのは決まっているらしい。
わかった、と返そうとして、打ち直す。
覚悟しておく。
そう送ると、しばらくして、クロードから短く返ってきた。
そこは真面目なんだよな。
真面目ではないつもりがなかったので、返事に迷った。けれど、もう送らなくてもよい気がして、スマートフォンを鞄にしまった。
月曜の夜、指定された店に行くと、クロードはまだ来ていなかった。
早く着きすぎたらしい。店の前には細い鉢植えがふたつ置かれていて、入口の灯りに照らされている。中を覗くと、卓のあいだがゆったりしている。壁際には上着を掛けるための細いハンガーが並び、奥の席では仕事帰りらしい客が小さな声で話していた。
クロードは店を選ぶのがうまい。
そう思ってから、これは仕事なのだろうかとまた考えかけた。人と会う場所を整えること。話しやすい席を選ぶこと。帰りやすい場所にすること。たぶん仕事にも近い。でも、仕事ではないと言われている。
ではこれは、いったい何なのだろう。考えたところで答えは出なかった。
「悪い、待たせた」
声がして振り向くと、クロードが歩いてくるところだった。仕事帰りなのだろう。片手に鞄を持ち、もう片方の手で上着の前を軽く直している。額を出した髪型のせいか、遠くからでも顔がわかりやすい。目元はやわらかく見えるのに、近づくとそれだけではない。短く整えられた髭も、輪郭も、見慣れたというほどではないのに、もう覚えていた。
「待っていない」
「待ってただろ」
「早く着いただけだ」
「それを待ってたって言うんだよ」
クロードはそう言って、店の戸を開けた。
席へ案内されると、彼は鞄を置き、メニューを手に取った。自分は向かいに座る。文面を見てもらったときのように隣へ移る必要はまだなかった。
「先に食うか」
「プロフィールは」
「腹減ってると、俺の言い方が荒くなる」
「荒くなるのか」
「なる。あんたのプロフィール、たぶん長いし」
「長いと思う」
「自覚があるなら少しは削ってこいよ」
「どこを削ればいいかわからなかった」
「言うと思った」
彼はメニューをこちらにも見えるように卓の中央へ置いた。動作に迷いがない。何度か来たことがある店なのだと思った。
注文を済ませ、料理が来るまでのあいだに、スマートフォンを出した。プロフィールの画面を開く。仕事、自己紹介、休日の過ごし方、結婚後の希望、相手に望むこと。欄はいくつもある。自分では必要なことを書いたつもりだった。
クロードに渡すと、彼はしばらく黙って読んだ。
前の文面のときと同じだった。すぐに笑わない。すぐに直さない。まず読む。そういうところは、ありがたい。
「長い」
そして、結局そう言った。
「またか。どこが長いんだ」
「全部。職務経歴書と身上書を混ぜたやつみたいになってる。特に仕事欄は、相手に自分を知ってもらうためというより、誤解の余地を全部潰そうとしてる」
クロードは画面を指で動かした。
「エンジニアです、でいいところを、インフラまわりを中心に、必要に応じてフロントエンドとバックエンドも対応。設計構築、運用改善、障害対応、将来的にはスペシャリスト系の資格と国際資格の取得も視野に入れています、って書くな」
「事実だ」
「事実を全部書くなって何回言えばいいんだ」
「職業欄だから、正確なほうがいいと思った」
「正確でも、伝わらなきゃ意味がない」
彼は画面をこちらへ傾けた。
「インフラまわりって言われてもわからないだろ」
「そうだろうか」
「俺でもぴんと来ないんだから、わからないと思う」
「君もわからないのか」
「だから具体的にひとつ書け。会社の仕組みを支えるシステムを見ています、とか、そういう言い方はできないのか」
「できる」
「じゃあ、それにしろ。わかる相手にだけ通じる言葉を、最初に置くな」
わかる相手にだけ通じる言葉。
それは、考えてみれば当然のことだった。けれど、自分の仕事を短く説明しようとすると、どうしても仕事で使っている言葉になる。正確な言葉ほど、知らない人にはむずかしいのかもしれない。
「資格を書くのはだめなのか」
「だめじゃない」
彼は画面を見たまま言った。
「向上心があるのはわかる。でも、書き方が仕事向けなんだよ。面接じゃないって言ってるだろ」
「それはわかっている」
「相手が知りたいのは、あんたが取ろうとしてる資格よりも、仕事にどれくらい時間を使っていて、会う時間がちゃんと取れるのかとか、どんな生活してるかとか、そっちだと思う」
「ここから、相手の暮らしが想像できるのか」
「想像できるように書くんだよ。仕事をちゃんとしてるのは伝わる。でも、それだけだと隙がないっていうか、話しかける余地がない」
「これも、怖く見えるのか」
「怖いというより、ひとりで完結してる感じだな。聞かれたら話せばいい。最初から全部書くな」
前にも言われたことだった。
全部渡すな。短いほうが返しやすい。文面だけではなく、プロフィールも同じらしかった。
「では、仕事欄はどうすればいい」
「エンジニアです。いまは、会社のシステムを支える仕事が中心です、ぐらいでいい」
「短い」
「短くていい」
「それだと、自分が何をできるかわからない」
「婚活相手は、あんたに仕事を発注するわけじゃないんだから、できることを並べたって仕方ないだろ。……で、年収は七〇〇万。これは事実か?」
「事実だ」
「……その見た目で、手に職もあって、ちゃんと稼いでる。性格も真面目。知れば知るほど独り身なのが不思議になってくるな」
それは君もだろう、と言いかけて、代わりに息を吐いた。言ったところで正しく伝わる気がしなかった。
クロードは画面を下へ送った。
「次。休日の過ごし方」
「ああ」
「本を読む。映画は勧められれば観ます。外出は誘われれば行きます」
「事実だ」
「事実なんだろうな」
クロードは肩をすくめた。
「趣味、ないのか」
「本は読む」
「勧められたら、だろ」
「自分で選ぶこともある」
「どのぐらい」
「必要があれば」
「その必要ってのは、仕事の話だろ」
そう言われると、たしかに仕事で読む本も多い。知らないことを知るために読む。必要なものを補うために読む。楽しいかと聞かれると、楽しいときもあるが、そうでないときもある。
「映画は」
「勧められれば観る」
「出かけるのは」
「誘われれば」
「受け身だな」
「そうだと思う」
「そこは認めるんだな」
彼はもう一度画面を見た。
「まあ、嘘を書くよりはいいけどさ。あんたの場合、何が好きかより、何なら一緒にできるかを書こうとするんだよな」
「だめなのか」
「だめっていうか、また相手基準なんだよ」
クロードは画面を卓へ置き、自分のほうを見た。
「プロフィールでも相手に合わせようとしてる。これなら一緒にできます、これなら邪魔になりません、って書いてる感じがする」
「そう見えるのか」
「見える」
「自分では、自分のことを書いたつもりだった」
「たぶん、そこがむずかしいんだろうな」
彼はそれ以上は言わなかった。
料理が来た。皿が置かれ、話が一度止まる。今日は鶏の煮込みだった。香りは強すぎず、野菜も多い。
「食おう。冷めるともったいない」
食事のあいだ、クロードはプロフィールの話をしなかった。仕事の話も、婚活の話もしなかった。ただ、この店は昼もやっているとか、結構繁盛しているとか、そういう話をした。
彼はこういった店の話をするのも上手だった。
味の説明も、場所の説明も、長くないのにわかりやすい。大げさに褒めるわけではないのに、そこへ行けばどういう時間になるのかが想像できる。
自分が書こうとしていることも、こういうふうに書けたらいいのかもしれない。
そう思ったが、すぐには言葉にできなかった。
食事が半分ほど進んだところで、クロードがまた画面を取った。
「次。相手に望むこと」
「うん」
「好き嫌いが少ない人。よく話してくれる人」
「そこは短いだろう」
「短い。短いけど、今度はちょっと切実だな。好き嫌いが少ない人は、あんたが合わせやすいからだろ」
返事が遅れた。図星だった。
「……たぶん、そうだと思う」
「よく話してくれる人は?」
「自分が、あまり話すのが得意ではないから」
「だろうな」
クロードは画面を見たままうなずいた。
「悪くはない。でも、好き嫌いが少ない人、は相手に求める条件としてはぼんやりしてる。食べ物の話なのか、人の話なのか、生活の話なのかわからない」
「全部かもしれない」
「重いな」
「また重いのか」
「また重い」
クロードは笑わなかった。
「よく話してくれる人、は残してもいいと思う。あんたは、話してくれる相手のほうが合う気がする」
「うん」
「でも、相手に全部話してもらうんじゃなくて、あんたも返す。短くてもいいから」
「努力する」
「それも重い」
「どう言えばいい」
「少しずつ返せるようにしたい、かな」
それなら、できる気がした。いや、できるかもしれないと思えた。努力すると書くと、大きく見えるが、少しずつ、と書くと、まだ余地がある。
「わかった」
「次。外見の好み」
クロードの指がそこで止まった。
「空欄か」
「特にない」
「そんな気はしてた」
「あるほうがいいのか」
「あるならあったほうがいい。でも、無理に作るものでもない」
「清潔感があればいいと思う」
「採用基準みたいだな」
「面接ではない」
「わかってるって」
クロードは低くうなりながら首をかしげた。
「たとえばさ、背が高いほうがいいとか、目がきれいな人がいいとか、よく笑う人が好きとか」
「うん」
「胸が大きいほうがいいとか」
「最低」
ほとんど考える前に言った。
クロードは一瞬だけ目を丸くして、それから吹き出した。
「そこは反応早いんだな」
「いまのはよくない」
「悪かったって。例がよくなかったな」
「悪いと思う」
「思ったより刺してくるな」
クロードはまだ笑っていた。悪い顔だった。からかわれているのはわかった。わかったうえで、いまの例はよくないと思った。
「でも、そのぐらい具体的に考えてもいいって話」
「身体的な特徴をか」
「そこに限らなくていい。むしろ限るな」
「では何を考えればいい」
「見ていて落ち着くとか、笑い方が好きとか、声が聞きやすいとか。そういうのでいい」
見ていて落ち着く。笑い方。声。
そう言われると、いくつか思い浮かぶものがあった。婚活で会った相手ではなかった。スマートフォンの画面を見ているクロードの横顔だった。
彼は、笑うとうさんくさい。そう見えるように振る舞っているのだとも思う。だが、困ったように笑うときは、それよりやわらかい。声はよく通る。軽く聞こえるのに、こちらがわからないまま黙ると、わずかに低くなる。
顔も、印象に残る。一度見ると、忘れられない。
「……書けない」
「ない、じゃなくて?」
「書けない」
クロードがこちらを見た。
「何で」
「わからない」
嘘ではなかった。
書けば、確実に寄る気がした。垂れた目元。笑ったときの口元。額を出した髪型。きれいではっきりとした輪郭。そういうものをひとつずつ言葉にすると、彼に近づいてしまう。
それを、本人に見られたくなかった。
「だったら、無理に書かなくていい」
彼はあっさり言った。
「空欄でいいのか」
「下手に書くよりましだろ。外見の好みがない人だっているし」
「ないわけではないかもしれない。君みたいに」
「ややこしいな」
クロードは画面を下へ送ろうとして、手を止めた。
「つーか、さっきの話、まだ引っかかってるのかよ」
「さっき、というのは」
「例が悪かったやつ」
少し考えた。
「好きなのか」
「何が?」
「胸が大きいほうが」
彼の指がこわばったのがわかった。
「やっぱり引っかかってるじゃないか」
「答えを聞いていない」
「あれは例が悪かったって言っただろ」
「例に出すぐらいには、思いつくことなのかと思った」
「そういう詰め方するか?」
「詰めているつもりはない」
「詰めてるよ」
クロードは困ったように笑った。その笑い方が、あまり面白くなかった。
「好きなのか」
もう一度聞くと、クロードはようやくこちらを見た。
「好みとして、まったく見ないとは言わないけどさ」
「最低、品がない、不真面目だ」
「わざわざ蒸し返してもっかい刺すな」
クロードはそう言って笑った。
悪いと思っていないわけではなさそうだった。けれど、深く反省しているわけでもない気がした。こちらが不服そうにしているのを、面白がっている顔だった。
「君の答えがよくなかった」
「最後まで言ってないだろ」
「よくないことを言おうとしていた」
「ひどいな」
彼が笑っているところを見ていると、少しだけこちらの腹立たしさも置き場所をなくした。完全に消えたわけではない。ただ、彼が当然のようにこちらの言葉を受けて笑うので、怒り続けるのがむずしかった。
「まあ、外見の好みは空欄のままでいい」
彼は最後にそう言った。
「ただ、自分が何を見てるかくらいは、考えたほうがいいな」
「考えておく」
「その返事、深く潜りそうで嫌だな」
「潜る?」
「考えすぎるってこと」
そうかもしれない、と思った。考えたところで、彼に寄ってしまうのであれば考えないほうがいい。
『ネットワークやサーバーの設計構築を中心に、会社で使われるようなシステムの運用保守、監視、障害対応も担当しています。将来的にはクラウド系資格や上位ネットワーク資格の取得も視野に入れています』
仕事欄は短くなった。
外見の好みは、空欄のままだった。
休日の過ごし方も、削られた。相手に望むことは、「よく話してくれる人」を残し、「好き嫌いが少ない人」は一度消すことになった。好き嫌い、という言葉の幅が広すぎるらしい。
画面の中のプロフィールは、自分が書いたものよりずいぶん短い。
短いぶん、不安だった。けれど、クロードはそれでいいと言った。足りないところは、相手が聞く。聞かれたら答える。だから、最初から全部並べなくていい。
何度も言われていることなのに、まだ自分には難しかった。
「趣味は、結局どうしようか」
食事を終えたあと、クロードがもう一度画面を見ながら言った。
「本を読む」
「それは残すとして」
「映画は、勧められれば観る」
「そこは書かなくていい。受け身が強く見える」
「事実だ」
「事実を全部書くな」
彼はもう慣れたように言った。
自分も、それを聞くのに少しずつ慣れてきた。事実を全部書かない。正確でも、伝わらなければ意味がない。相手が持てる量にする。今日だけで何度も言われたことだった。
「君の趣味は何だ」
そうたずねると、彼は顔を上げた。
「俺の?」
「参考にしたい」
「参考になるかな」
そう言いながらも、クロードは机の上にスマートフォンを置いて考えはじめた。水の入ったグラスを指先で動かし、卓の木目を見ている。
「……ドライブかな。運転するのが好きなんだよ。遠くの店に行ったり、知らない道を走ったり。目的地が立派じゃなくても、いつもと違う場所ってだけで空気が変わるだろ」
クロードらしいと思った。
店を選ぶこと。道を知っていること。場所を変えること。そういうものを、彼は面倒ではなく楽しみとして持っている。
「あと、酒」
「飲むことか」
「飲むのも好きだが、それだけじゃないな。人と話す場所としても嫌いじゃない。美味い酒が置いてある店も好きだし、集まるのも好きだし」
「君は、人といるのが好きなのか」
「それなりに。たぶん、垣根なしに騒いで笑えるのが好きなんだろうな」
そう言って、口元をやわらげた。
「だからといって、ずっと一緒にいたいってわけじゃないけどな。ひとりになりたいときもあるし」
それも、クロードらしいと思った。人の中にいることができるのに、人の中にいなければいけないわけでもない。
彼はそこで、こちらを見た。
「ところで、あんたは運転するのか」
「免許だけはある」
「……なるほどな」
「何が」
「乗らないほうがよさそうだ」
「なぜ」
「免許だけはある、って言うやつの運転はだいたい怖い」
「標識は守る」
「そこは疑ってない」
彼は笑って、それからスマートフォンをこちらへ返した。
「趣味欄は、本を読む、くらいでいい。あとは、誘われれば外出もします、じゃなくて、知らない場所に行くのもかれから増やしていきたいです、くらいにしとけ」
「増やしていきたい?」
「受け身だけど、閉じてはいない感じになる。あんた、何でも断るわけじゃないだろ」
「断らないことは多い」
「それはそれで問題だけどな」
クロードはメニューの横に置いていた伝票を取った。こちらも財布を出す。
「今日は自分が払う」
「何で」
「前に払ってもらった」
「それは最初の話だろ。この前は自分のぶん払ってたぞ」
「それでも払う」
「頑なだな。……じゃあ、今日はふたりで割ろうぜ。これを払われると、俺が仕事で添削したみたいになる」
言われて、手が止まった。
仕事ではない。クロードは前にそう言った。仕事用の連絡先ではないものを渡してくれた。だから、こちらが払えば、たしかにべつのものになってしまうのかもしれない。
「わかった」
「素直でよろしい」
店を出ると、夜の風が冷たかった。駅へ向かう人の流れが、店の前を一定の速さで通り過ぎてゆく。
クロードはその流れを見てから、べつの方角を指した。
「近くに、遅くまでやってる喫茶店があるんだが」
「うん」
「行くか?」
聞かれて、考えた。
プロフィールは見直した。食事も終わった。今日の用事は済んだ。なら帰ってもよかった。
だが、クロードは行くかと聞いた。仕事ではないのに、まだこの時間を続けようとしている。
「行く」
そう答えると、クロードは軽くうなずいた。
「じゃあ、こっち」
歩き出したクロードのあとを、また遅れてついてゆく。前と同じように、彼は角を曲がる前に一度だけこちらを振り返った。自分がついてきているのを確かめると、それ以上は何も言わなかった。
彼は、食事のあとにべつの場所へ行くことを、自然に思いつく人なのだと思った。
自分には、そういう発想があまりない。
食事が終われば帰る。用事が済めば帰る。次にすることがなければ、そこで終わる。そう思っていた。
けれど、彼は用事が終わったあとも、ふたりの時間を続ける場所を知っている。
それは、車で遠くへ行くのが好きだという話と、似ている気がした。目的地だけではなく、そこへ行く時間も、余った時間も、彼の中ではまだ使えるものなのだろう。
喫茶店は、大通りから外れたところにあった。
店内は明るすぎず、壁際の席が空いていた。クロードはコーヒーを頼み、自分は紅茶にした。甘いものはどうするかと聞かれたので、食べられると答える。
「俺は今日は遠慮しとこうかな」
「遠慮も何も、君は甘いものが得意じゃないんだろう」
「覚えてたのか」
「覚えている」
「そういうところは律儀だよな」
彼はそれだけ言って、コーヒーに口をつけた。
プロフィールの話はもうしなかった。彼はさっきの店の近くにある古い映画館の話をした。そしてここからもっと遠い場所に、肉の美味しい店があるとも言った。そういう店のほうが、甘いものよりずっとよいらしい。よい酒が置いてある店の名前もいくつか出したが、こちらがあまり飲まないことを思い出したのか、途中で「飯もうまい」と付け足した。
話を聞きながら、不思議に感じた。
自分は、その場所を知らない。行ったこともない。なのに、彼が話すと、店の入口や、夜の道や、車の窓から見えるものがぼんやりと浮かぶ。
この人は、行きたい場所をいくつも持っているのだと思った。
自分は、誘われれば行く。
その違いが、少しだけ眩しかった。
初めて、一度きりで終わらない人ができた。
旅行の話をした人からは、結局返事が来なかった。返事がないことも返事なのだと、クロードは言った。まだ納得はできなかったが、何度も画面を見るのはやめた。
次に会った人は、映画が好きだと言った。
そこで、前のように細かく聞くのはやめた。聞きそうにはなった。月に何本観るのか、映画館にはどのくらい行くのか、結婚後もその時間を確保したいのか。どれも、必要なことのように思えた。
だが、いまではない。
クロードに言われた言葉を思い出して、一度止めた。
「どんな映画が好きなんですか」
相手はためらいがちに、古い洋画の題名を挙げた。自分は知らない映画だった。けれど、知らないからといって、すぐ調べるのも違う気がした。
「その映画の、どういうところが好きなんですか」
そう聞くと、相手は表情を明るくした。
登場人物の話。最後の場面の話。何度観ても、同じところで泣いてしまうこと。そういうものを、相手は思ったより楽しそうに話した。
相手が何で笑うのか。何を楽しいと思うのか。これを見るということなのかもしれない。
「自分も観てみようと思います」
そう言うと、相手はうれしそうに笑った。
「ほんとうですか。古いですけど、よかったらぜひ」
「はい」
約束をしたわけではないが、観ようと思ったのはほんとうだった。相手がそこまで好きだと言うものなら、知ってみてもいいと思った。
その日は、前よりも会話が続いた。
続いた、と言ってよいのかはわからない。相手が多く話してくれたから、こちらは聞いている時間のほうが長かった。それでも、前のように相手の生活を確認している感じにはならなかったと思う。
帰り際、よかったらと相手が次の予定を教えてくれた。来週の、平日の夜だった。待たせたところで文章が長くなる気がしたので、その場で予定を合わせて、別れた。
家に帰ってから、クロードへ連絡した。
二回目の約束ができた。
返事はすぐに来た。
よかった。
今度は何時?
十九時、と返す。
店は? 酒が置いてあるところか?
店はまだ決めていなかったが、夜の時間帯であれば大抵の場所には酒が置かれているだろう。相手が飲むかどうかはわからない。
初回じゃないけど、まだ飲むな。
相手が飲んでも、あんたは飲まない。
あと、二軒目は行くな。
画面の文字を見て、考えてしまった。
食事のあとにべつの店へ行くことなら、クロードとはした。プロフィールを見てもらった日も、彼は近くに喫茶店があると言った。自分はついていった。嫌ではなかった。だからたずねた。
君は行きたがるのに。
返事はすぐに来た。
それは俺の話。婚活は関係ない。
しばらく画面を見た。
彼との時間も、かたちだけなら似ている。食事をして、終わって、べつの場所へ行く。なのに、当の本人は違うと言う。
どう違うのか聞く前に、もう一通来た。
相手から誘われたら、あんたは断れないだろ。
そうかもしれないと思った。
相手が、もう少し話しませんか、と言えば、自分は理由を探す。時間はあるか。疲れていないか。相手が望んでいるなら、断るのは失礼ではないか。断る理由が弱ければ、たぶん行く。
たぶん、と返した。
だから、誘われる前に帰すんだ。
帰す、というのが強い言い方に見えた。けれど、切るという意味ではないのだろうと思った。
どう言えばいい。
そう送ると、クロードは長めに返してきた。
今日はありがとう。楽しかった。
よかったら、次はもっと話を聞かせてほしい。
今日は遅くなる前に帰ろう。
これでいい。
興味を持たせたまま引け。全部そこで渡すな。
ずいぶんむずかしいことを言う。意味は理解できるのに、それを口にするのは簡単ではない気がした。
一方で、帰す、という考え方はわかりやすかった。拒絶するのではない。続きがあるかもしれないまま、その日は終わらせる。
わかった、と返した。
しばらくして、クロードからもう一通来る。
ほんとにわかってるか怪しいけどな。
わかろうとしている、と打ちかけて、やめた。
それは、前にも言った気がした。
当日、相手は明るい色の服を着ていた。前に会ったときよりも、表情がやわらかい気がした。
店は駅から近いところだった店内はほどよく明るく、隣の席の会話が言葉として届くほどではなかった。酒も出るが、食事をする人も多い。
相手は最初に飲み物を選び、次に自分のほうを見た。
「ベレトさんは、お酒は飲まれますか」
「あまり飲みません」
「そうなんですね」
「今日も、飲まないつもりです」
そう言うと、相手は安心したように笑った。
「じゃあ、私も今日はお茶にします」
「合わせなくても」
「いえ、私もそこまで強いわけではないので」
クロードに言われたことを思い出した。
相手が飲むなら、自分は飲まない。相手が飲まないなら、それでいい。そこから、無理に理由を聞かなくてもいい。
注文を終え、料理が来るまでのあいだ、映画の話になった。
前に教えてもらった題名を、家に帰ってから調べた。まだ観てはいないが、簡単なあらすじだけは読んだ。読んでから、これは先に言っていいことなのか迷った。観ていないのに調べたと言うのは、相手に負担になるだろうか。観てから言うべきだっただろうか。
けれど、まったく触れないのも違う気がした。
「前に教えてもらった映画を、調べました」
相手の目がわずかに大きくなった。
「ほんとうですか」
「はい。まだ観てはいませんが、あらすじだけ」
「わざわざそこまで調べてくださったんですね」
「勧めてもらったので」
相手は笑った。前よりも、わかりやすい笑い方だった。
「もし観たら、ぜひ感想を聞かせてください」
「はい」
うまく言えるかはわからなかった。観る理由ができたと思った。
そのあと、相手はべつの映画の話もした。俳優の名前や監督の名前はよくわからなかったが、どの場面が好きなのかはわかった。静かな場面が好きなのだと言う。大きな事件ではなく、登場人物が何も言わないまま座っているところや、窓の外を見ているところが好きなのだと。
前なら、なぜそこが好きなのかを確認する前に、映画館へ行く頻度を聞いていたかもしれない。趣味としてどのくらいの時間を使うのか、結婚後もそれを続けたいのか、そういうことを考えたと思う。
今回は、聞かなかった。
「静かな場面が好きなんですね」
「はい。何も起きていないように見えるところのほうが、あとで残ることがあって」
「そういうものですか」
「たぶん、人によると思います」
彼女は押し付けることはしなかった。
「ベレトさんは、どういう映画が好きですか」
聞かれて、すぐには答えられなかった。
映画は勧められれば観る。自分で選ぶことは少ない。前ならそう答えたと思う。けれど、それだけでは自分の話にならない気がした。
「まだ、あまりわかりません」
相手は黙って待っていた。
「でも、静かな場面が好きだという話は、少しわかる気がします」
「ほんとうですか」
「はい。たぶん、考える時間があるから」
言ってから、正しいかどうかはわからなかった。
相手はかすかに視線を落とし、それから顔を綻ばせた。
「そうかもしれません」
会話はそこで途切れなかった。
料理が来て、食べながら、相手はまた映画の話をした。自分も、わからないところはわからないと言った。前よりも、聞いているだけではなかったと思う。話しすぎてもいない。相手が持てる量。自分が渡す量。どちらも、まだうまく測れてはいない。それでも、前よりは少しだけ、測ろうとしていた。
会計を済ませて外に出ると、夜の空気はほんのり湿っていた。駅へ向かう道には人が多く、近くにはまだ開いている喫茶店の看板が見えた。
相手の視線が、ふと看板へ向く。
このあと、という言葉の気配が揺れた。来たら、きっと断れない。だから、誘われるより先に口を開く。
「今日はありがとうございました」
先に言った。相手が驚いたようにこちらを見て、それから笑った。
「こちらこそ、ありがとうございました」
「映画の話、聞けてよかったです」
「たくさん話してしまいました」
「楽しかったです」
言ってから、わずかに胸が締め付けられた。
楽しかった。そう言うのは、思ったよりもむずかしかった。
「今度もゆっくり話せたらうれしいです」
彼女は、はっきり笑った。
「はい。私も、またお話ししたいです」
来週なら、火曜と木曜が空いている。土曜も午後なら行ける。そう言いかけて、止めた。相手が持てる量。全部そこで渡さない。クロードに何度も言われた。
「今日は、遅くなる前に帰りましょう」
「そうですね」
駅の改札の前で別れる。相手が手を振ったので、こちらも少し手を上げた。人の流れに紛れて見えなくなるまで見送ってから、スマートフォンを出した。
帰してあげた。
そう送ろうとして、指を止める。
言い方が変な気がした。
結局、短く送った。
今日は二軒目に行かなかった。
またよかったら、と言えた。
予定は出していない。
クロードから返事が来たのは、電車に乗ってからだった。
えらいぞ。かなりえらい。
それを見て、肩にこもっていた力が抜けた。
続けて、もう一通来る。
その調子でいい。
あとは相手から返ってくるのを待て。
それは、やはりむずかしかった。
でも思い切って画面を閉じた。何度も見るのはやめた。返事が来るかどうかは、まだわからない。うまくいったのかもわからない。
前より少しだけ、確かな手応えが胸に残っている。
映画の話をした相手から、返事が来たのは翌日の夜だった。
昨日はありがとうございました。私も楽しかったです。
またぜひお話ししたいです。
そこには、具体的な日程はなかった。
以前なら、すぐに空いている日を並べていたと思う。来週なら火曜と木曜、土曜の午後。そう打って、送っていた。けれど、いまは一度止まった。
クロードが添削してくれた手つきを思い出しながら、いくつか言葉を削ってみる。
こちらこそありがとうございました。
映画、観てみます。
またお話しできたらうれしいです。
送ってから、画面を閉じた。
ずいぶんと短い。足りない気がしたが、これでよいのだと思う。おそらく。
そのまま、クロードに報告する。
返事が来た。
また話したいと言われた。
こちらからは、映画を観てみることと、また話せたらうれしいとだけ返した。
日程は出していない。
これで合っているか確認したい。
あと、映画を観るなら先に観たほうがいいのか、次に会う予定が決まってからでいいのかも聞きたい。
送ってから、自分でも長いと思った。
だがクロードにはこれくらい説明しないと、状況がわからないかもしれない。いや、たぶんわかる。わかるが、正しく見てもらうためには必要だった。
しばらくして、返事が来た。
合ってる。かなりいい。
映画は観たいなら観ればいい。感想を言うためだけに急いで観なくていい。
その次に、もう一通来る。
で、成果報告は?
それは、会うという意味だろうか。
空いている日を確認する。来週は月曜、火曜、木曜の夜が空いている。水曜は仕事で遅くなる。金曜はまだわからない。土曜は午後からなら空いている。日曜も、昼過ぎなら動ける。
また長いと言われるかもしれないと思った。でも、クロードには正しく伝えるべきだと感じた。
来週なら、月曜、火曜、木曜の夜が空いている。水曜は遅くなる。金曜はまだわからない。土曜は午後からなら空いている。日曜も昼過ぎなら動ける。
そう並べて、送る。
返事はすぐだった。
長い。
やはり長かったらしい。
だが、そのあとに続いた文は、前と違った。
全部って言ったらどうするんだよ。
月曜、火曜、木曜の夜。土曜の午後。日曜の昼過ぎ。そこに水曜や金曜も、無理をすれば入れられないことはない。けれど、そういう意味ではないのだろう。空いている日を全部、自分に使えと言ったらどうするのか。たぶん、そういうことだ。
考えた。べつにいいと思った。
仕事に支障が出なければ。睡眠時間を削りすぎなければ。婚活相手との予定があれば、そこは動かさないほうがいい。
それでも空いている日なら、クロードと食事をしてもいい。話をしてもいい。二軒目に行ってもいい。困る理由は、特になかった。
構わない。
そう送ると、間が空いた。
俺とばっか飯食ってる場合じゃないだろ。
画面を見て、手が止まった。彼が言いたいのは、たぶん時間の空きだけの話ではない。
自分は婚活をしている。彼は、それを手伝っている。だから、彼に時間を使いすぎるのは違う。そう言いたいのかもしれない。
しばらくして、店の名前が送られてきた。
月曜。無理なら言え。
月曜で大丈夫、と返すと、既読がついて、そのまま返事は来なかった。
スマートフォンを机の上に伏せてからも、頭の中には彼とのやりとりが残った。
月曜、指定された店に着くと、クロードはすでに席にいた。
最近は、彼が先にいることも、自分が少し早く着くこともあった。待ち合わせに慣れてきているのだと思う。
彼はこちらに気づくと、片手を上げた。
「ちゃんと来たな」
「来ると言った」
「無理なら言えとも言った」
「無理ではなかった」
「ならいい」
席につくと、彼は卓の上のメニューをこちらへ押した。今日の店は、肉料理が多いらしい。煮込み、焼き物、野菜と合わせた皿。どれも名前だけでは細かい味まではわからなかった。
「肉が多い」
「うまいんだよ、ここ」
「君が好きだからか」
「そう。あと、あんたも何でも食えるだろ」
「食べられる」
「じゃあ問題なし」
クロードはそう言って、店員を呼んだ。注文は早かった。自分が迷う前に、食べやすいものをいくつか選び、苦手なものがないかだけ確認する。その手際を見ていると、やはりこういう場に強いのだと思う。
食事が来る前に、報告を始めた。
「返事が来た」
「それは聞いた」
「また話したいと言われた」
「ああ」
「日程は出していない」
「そこがいちばんえらい」
クロードは水を飲んでから笑った。
「前のあんたなら出してた」
「出していたと思う」
「だろうな」
責める言い方ではなかった。前の自分を、ただ前の自分として扱う言い方だった。
「映画は?」
「まだ観ていない」
「観たくないなら無理に観なくていいぞ」
「観たくないわけではない」
「じゃあ観ればいい。ただ、感想をうまく言おうとしなくていいからな。映画を観る目的が、次の会話の準備だけになると、また仕事っぽくなる」
考えていたことを、先に言われた気がした。映画を観れば、次に会ったとき話せる。相手が好きなものを自分も知ることができる。感想を用意しておけば、会話が途切れにくい。
それは、悪いことではないと思っていた。
「だめなのか」
「だめじゃない。でも、それだけだと、あんたが観るんじゃなくて、婚活用に履修する感じになるだろ」
「履修」
「そう。課題みたいにするなってこと」
「課題ではない」
「なら、普通に観ろ。つまらなかったらつまらなかったでいい」
「つまらないと言ってもいいのか」
「言い方は考えろよ」
クロードは口角を上げた。
「でも、全部よかったことにする必要はない。あんたがどう感じたかも少しは出せ」
「むずかしい」
「知ってる」
料理が運ばれてきた。湯気の立つ皿が卓に並ぶ。クロードは肉の皿を見て、満足そうな顔をした。甘いものを前にしたときとは違う顔だった。
「これは好きなのか」
「好きだな」
「わかりやすい」
「悪いか」
「悪くない」
彼は箸を取った。
食べながら、映画の相手の話をもう少しした。何を聞いたのか。どこで止めたのか。二軒目に行かなかったこと。予定を出さなかったこと。彼はひとつずつ聞き、必要なところだけ返した。
「だいぶよくなってると思う」
食事の途中で、クロードが言った。
「そうだろうか」
「うん。会話として成立してる」
「前は成立していなかったのか」
「成立してないとは言わないけど、調査だった」
「自分がしていたのは会話じゃなかったのか」
「そう。今回は相手が話せてる。あんたもちょっとずつ返してる。予定も詰めてない」
だいぶよくなっている。
それは、婚活が進んでいるという意味だった。自分が前よりうまく話せるようになったという意味でもある。
うれしいはずだった。いや、うれしかった。
それなのに、どこがいちばんうれしいのかは、わからなかった。相手とまた会えるかもしれないことなのか。前よりうまくできたことなのか。クロードに、よくなっていると言われたことなのか。
わからなかったので、いったん考えないことにした。
「君のおかげだと思う」
そう言うと、彼は箸を止めた。
「そこまで素直に言われると、ちょっと困るな」
「困るのか」
「困る。いや、悪い意味じゃないが」
「助かっている。ありがとう」
彼は一瞬だけ視線を逸らし、それから、何でもないように肉を取った。
「どういたしまして」
それ以上は続かなかった。続けなくていいのだと思った。
食事が終わったあと、クロードは当然のように近くの店の話をした。前に行った喫茶店とは違うところだった。少し歩くが、席が広くて、夜でもうるさくないらしい。
「行くか?」
聞かれて、うなずいた。
ただ、自分は迷うようになっていた。
用件は終わった。成果報告もした。助言も受けた。今日の目的は済んでいる。だから帰ってもいい。
でも、クロードが行くかと聞くなら、行きたいと思った。
それは、食事のあとにべつの店へ行く流れに慣れただけかもしれない。彼の選ぶ店なら外れないとわかってきたからかもしれない。報告の続きがあるかもしれないからかもしれない。
理由はいくつか思いついたが、どれでもよい気がした。
「よし」
クロードは会計を済ませると、店の外へ出た。前と同じように、歩き出してからこちらを振り返る。自分がついてきているのを確認すると、それ以上は何も言わない。
その沈黙にも、慣れてきた。
彼は、歩きながらずっと話すわけではない。必要なところで道を示し、曲がるところでは速度を落とす。それだけだった。こちらが遅れなければ、余計なことは言わない。
それが楽だった。
喫茶店に入り、壁際の席に座る。クロードはコーヒー、自分は紅茶を頼んだ。もう何度か同じ組み合わせになっている。
「それで」
彼が砂糖入れをこちらへ寄せながら言った。
「次、その人とまた会うなら、今度は映画を観てからでもいいし、観ないままでもいい。観たら観たで、そのまま言えばいい」
「そのまま、というのは」
「面白かったなら面白かった。よくわからなかったなら、どこがよくわからなかったか。全部褒めなくていい」
「相手が好きなものなのに」
「相手が好きなものを、自分も同じように好きにならなきゃいけないわけじゃないだろ」
相手が好きなものなら、尊重したい。できれば、自分も好きになれたほうがいい。少なくとも、否定はしたくない。クロードは、そういう線引きがうまい。
「君ならどう言う」
「俺?」
「うん」
「そうだな。あの場面は好きだったけど、こっちはまだうまくわからなかった。もう少し考えたい、くらいじゃないか」
「考えたい」
「ああ。わかりません、で終わるよりは柔らかい」
「それは使えそうだ」
「使っていいぜ」
クロードはそこでコーヒーに口をつけた。
婚活の話は続いていた。相手の話をどう聞くか、どう返すか、何を言いすぎないか。どれも、必要なことだった。
けれど、途中から、クロードの話し方を見ている時間のほうが長くなった。
彼は例を出すのがうまい。こちらがわからないと言うと、すぐにべつの言葉に置き換える。否定するときも、全部をだめだとは言わない。使えるところを残し、いまはいらないものを削る。
そういうことを、何度もしてくれる。仕事ではないのに。
「なんだよ」
彼が言った。
「見ていた」
「何を」
「君を」
言ってから、おかしな返事だったかもしれないと思った。
彼は一度黙り、それから眉を寄せた。
「何で」
「話し方がうまいと思った」
「ああ、そういう」
「そういう?」
「いや、いい」
彼は軽く流した。
それ以上は聞かれなかった。自分も、それ以上は言わなかった。話し方がうまいと思ったのはほんとうだったはずなのに、それだけではなかった気もする。
何が、と聞かれるとわからない。
わからないものを、その場で出すのはよくない。
相手が持てる量にする。
クロードに言われたことを思い出して、紅茶を飲んだ。少し冷めていた。
映画は、週末の夜に観た。
古い洋画だった。画面の色が少し褪せていて、台詞もいまの映画より少なく感じた。大きな事件が続くわけではない。人が部屋に入り、椅子に座り、窓の外を見る。誰かが去って、誰かが残る。そういう場面が長く続く。
途中で、相手が言っていたことを思い出した。
何も起きていないように見えるところのほうが、あとで残ることがある。
観ているあいだは、わかったとは言い切れなかった。
終わってからもしばらく画面を消せなかった。最後の場面で、主人公が言わなかった言葉のことを考えた。言わなかったから、残ったのかもしれない。
感想を書こうとした。
まず相手に送るべきだと思った。勧めてくれたのは相手だ。観てみようと思います、と言ったのも相手に対してだった。
いざ感想を書くと長くなった。
面白かった、だけでは足りない。どこがよかったのかを書くべきだと思った。けれど、よかった、と言い切るにはまだ少しわからないところもあった。わからなかったところを書くと、相手の好きなものを悪く言うことになるかもしれない。
迷ってから、クロードに送った。
映画を観た。
最後の場面は、よかったと思う。言わないことが残る、という感じがした。
ただ、中盤の主人公の行動はまだよくわからない。わからないとそのまま言うと、相手の好きなものを悪く言うことになるだろうか。
こういうときは、面白かったところだけ伝えたほうがいいのか。それとも、わからなかったところも言ったほうがいいのか。
送ってから、じっと画面を見つめて待った。
返事はすぐ来た。
送る相手、間違えてないか?
続けて、もう一通来る。
俺も観てみるって言ったほうがいい?
画面を見て、止まった。
間違えてはいない。いや、間違えているのかもしれない。映画を勧めたのは彼ではない。感想を聞きたいと言ったのも、彼ではない。
どう言えばいいかわからなかった。
確認したかった。
そう送ると、少し間があった。
まあ、そうだろうな。
そのまま送ればいいと思う。
どこまでが、そのままなのだろうか。
わからなかったところもか、と送る。
すぐに返事が来る。
言い方をちょっと変えろ。
中盤はまだうまく掴めてないけど、最後の場面が残った。もう少し考えたい、くらいでいい。
前に聞いた言い方と似ていた。
よくわからなかったなら、どこがよくわからなかったか。わかりませんで終わるより、もう少し考えたい、にする。クロードはそう言っていた。
自分は、画面の文字を見つめる。
それで送っていいか。
そう送ると、今度は長く返ってきた。
いいと思う。
全部わかりました、全部よかったです、にしなくていい。
あんたがどこを受け取ったかが分かればいい。
自分がどこを受け取ったのか。それなら、最後の場面だった。
言わなかった言葉が残ると思った。相手が言っていたことも、ほんの少しだけわかった気がした。中盤はまだうまく掴めない。だから、考えたい。
それは、たぶん嘘ではない。
続けて、クロードからもう一通来た。
あと、俺に感想送る前に本人に送れ。
あんたがどう感じたかまで、俺が口を挟むべきじゃない。
クロードはいつも見てくれる。長いと言いながら読み、削り、言い換えを教える。けれど、これは違うのだろう。相手に向ける言葉でもあり、自分が受け取ったものでもある。そこまで彼に整えてもらったら、自分の感想ではなくなるのかもしれない。
わかった、と送る。
しばらくして、返事が来た。
まあ、送る前に不安なら見せてもいいけどな。
こわばった指先から、余計な力が抜けるのがわかった。
口は挟むべきではないと言いながら、見ないとは言わない。
クロードの文を参考にして、相手への感想を書いた。
映画を観ました。
中盤はまだうまく掴めていないところもありますが、最後の場面が残りました。言わないことで残るものがある、という話を少しわかった気がします。
次に会えたら、もっと詳しい話ができるとうれしいです。
送る前に、もう一度読んだ。
長い気がする。
それでも、前よりは短い。
送信を押す。
相手から返事が来たのは、しばらく経ってからだった。
観てくださったんですね。うれしいです。
最後の場面、私も好きです。
ぜひまたお話ししたいです。
それを見て、安心した。うまくいったのだと思う。おそらく。
今度は、迷わずクロードとのやりとりの画面を開いた。
相手に感想を送った。
返事が来た。
また話したいと言われた。
しばらくして、クロードから返事が来た。
それは俺に送っていいやつ。
さっき送ったものは、送る相手が違った。けれど、これは違わないらしい。
続けて、もう一通来る。
よかったな。
短い。短いのに、うれしい。
映画の話をした人とは、まだやりとりが続いていた。
返事は遅すぎず、短すぎもしない。こちらが送る量を減らしたからか、相手の言葉も前より受け取りやすくなった。次に会う日も、まだ決まってはいない。だが、途切れてはいなかった。
だから、今日会った相手のことも、同じように見ればいいのだと思っていた。
相手は、最初から距離の近い人だった。
席に着く前から、写真よりずっと雰囲気がいいですね、と言われた。悪い意味ではないのだと思う。褒めてくれたのはわかったが、返し方がすぐにはわからなかった。
「ありがとうございます」
そう言うと、相手は笑った。
「もっと堅い方かと思っていました」
「堅いとは、よく言われます」
「そうなんですか。でも、実際に会うと落ち着いていて、安心します」
安心。そう言われることは、あまりなかった。
落ち着いているとは言われる。真面目だとも言われる。誠実だと、何度も言われた。だが安心すると言われるのは、不思議な感じがした。
彼女はよく話した。仕事のこと、休日のこと、最近行った店のこと。こちらが黙っていても、話が途切れすぎないように言葉を足してくれる。よく話してくれる人。プロフィールに残した言葉を思い出した。
悪い人ではない。
食事の店も、相手が選んでくれた。駅から近く、席も狭くない。料理も食べやすかった。酒を飲むか聞かれたので、あまり飲まないと答えると、彼女も今日はやめておきます、と言った。
そこまでは、何も悪くなかった。
「ベレトさんって、あまり自分から話さないんですね」
食事の半ばで、彼女が言った。
「そうかもしれません」
「でも、ちゃんと聞いてくれるから、話しやすいです」
「それなら、よかったです」
「そういうところ、いいと思います」
彼女の声はやわらかかった。
そして、少し近かった。
卓を挟んでいるのに、近く感じる。声の大きさではない。視線の置き方や、言葉の選び方が近いのだと思う。相手は、こちらの返事を待つときにわずかに身を乗り出す。料理を取り分けるとき、手がこちらの皿の近くまで来る。偶然ではないのかもしれない。好意を示してくれているのだろう。
好意を示されることは、悪いことではない。
結婚を考えるなら、相手がこちらに興味を持ってくれることは大事だ。こちらも相手を見るべきだ。何で笑うのか。何を嫌がるのか。近くにいて不快ではないか。
クロードに言われたことを思い出した。
そばにいてもいやだなとか感じない、むしろ触りたいと思えるくらいの相手のほうがいい。
そういう話だった。
子どもを作るかどうかとはべつに、近くにいられるかどうか。生理的に受け付けるかどうか。言わせるなよ、とクロードは言っていた。あのときの彼は、言いづらそうで、けれど必要なこととして言った。
いま、目の前の相手は近づこうとしている。
確かめるなら、こういうことなのかもしれない。
そう思うと、どうにも落ち着かなかった。
嫌悪というほどではない。相手が嫌なことをしているわけでもない。むしろ、こちらに好意的で、会話を続けようとしてくれている。顔を見て話す。こちらの皿が空きそうなら、次を勧めてくれる。帰りの時間も気にしてくれる。
それなのに、ひどく疲れてしまった。
食事が終わり、店を出ると、夜の通りはまだ明るかった。道路の反対側にも派手な光があった。
相手はその建物のほうを見てから、こちらを見た。
「まだ、時間は大丈夫ですか」
「はい」
答えてから、よくなかったかもしれないと思った。
大丈夫かと聞かれれば、大丈夫ではある。明日の仕事に差し支えるほど遅くはない。電車もまだある。体調も悪くない。
けれど、相手が聞きたいのは、そういうことではなかったのかもしれない。
「よかったら、もう少し静かなところで話しませんか」
相手は、はっきりとは言わなかった。
だから、違う意味かもしれなかった。近くに落ち着いた雰囲気の店があるのかもしれない。
ただ、そうではない可能性もあると思った。
その瞬間、返事が出なくなった。
断るなら、どう言えばいいのか。相手を傷つけず、誤解もさせず、しかしいまは行かないと伝えるにはどうすればいいのか。考えようとして、考えが先へ行きすぎる。ここで断ったら、次はないかもしれない。だが、行けばどうなるのか。そういうふうに確かめるものなのか。結婚を考えるなら、避けて通れないものなのか。
違う、と思った。
そこだけは、思ったより早かった。
「今日は、帰ります」
彼女が目を見開いた。
声が強かったかもしれない。そう思い、言葉を足す。
「食事はありがとうございました。話も、聞けてよかったです。ただ、今日はここで失礼します」
相手は、困ったように笑った。
「急でしたよね。すみません」
「いえ」
悪いのは彼女ではないと思った。少なくとも、責めるようなことではない。でも、自分は行きたくなかった。
「また連絡します」
相手はそう言った。
こちらも、はい、と答えた。次があるのかはわからなかったが、その場ではそれ以上何も言えなかった。
駅へ向かう道を歩きながら、息を吐いた。
疲れていた。
食事そのものは長くなかった。相手も怒っていない。何も大きな失敗はしていないと思う。なのに、肩のあたりに力が残っていた。
こういうことも、見なければならないのだろう。
近くにいて、不快ではないか。触れたいと思えるか。相手が近づいてきたとき、自分はどう感じるか。
答えは、出た。あの人とは、まだそうしたくなかった。
それだけなら、はっきりしていた。
では、誰ならいいのか。
そこまで考えたとき、クロードのそばに寄った思い出した。
文面を見てもらったとき、自分は彼の隣へ移った。画面の文字が見えなくて、肩が触れそうな距離で彼の指先を追った。声も近かった。指も、手首も、視界の端にあった。
離れたいとは思わなかった。
あれは、彼が文面を直してくれていたからだと思っていた。自分の考えすぎた言葉を、相手が持てる量にしてくれる人だったから。頼れる人だったから。だから近くても嫌ではなかったのだと、そう考えていた。
では頼れる人の近くなら、誰でもいいのだろうか。
たぶん、違う。
クロードだったからだ。
そう思ったとき、足が重くなった。
クロードは婚活の相手ではない。それは彼自身も言っていた。
あくまで助言をくれる人で、店を選んでくれる人で、長いと言いながら最後まで読んでくれる人だ。間違えたところを、終わりではなく、直すところとして示してくれる人だ。
だから安心する。
それは、まだ間違っていない。
けれど、それだけではもう足りない気がした。
駅の改札が見えてきたところで、スマートフォンを取り出した。
クロードに送る文を考える。
今日会った人に、帰り際、もう少し静かなところで話さないかと言われた。
意味は自分が思ったものと違ったかもしれないが、断った。
無理ではないのかもしれないが、したくなかった。
相手が悪いわけではないと思う。
でもどうしてそう思ったのか、よくわからない。
そのとき、クロードの近さは嫌ではなかったことを思い出した。
それと何が違うのか、わからない。
そこまで打って、手が止まった。
長い。
これは説明ではない。頭に浮かんだことをまとまらないまま並べているだけだった。クロードなら読んでくれる気がしたが、読ませていいものなのかはわからなかった。
全部消した。
いまから会いたい。
そう打って、また止まる。
見た瞬間、頭の後ろが冷えた。これは送れない。婚活で会った相手に近づかれて疲れたから、いまから会いたい。そう見える。いや、事実としてはそうなのだろう。だが、それをそのまま送るには重すぎる。
消した。
いまから会えないか。
それなら、まだどうにかかたちが整っている気がした。
送ると、しばらく返事は来なかった。
改札を通り、ホームへ下りる。電車が一本来て、乗らずに見送った。乗ってしまうと、画面を見続けるのが難しくなる気がした。
返事が来たのは、次の電車の表示が出たころだった。
悪い、今日は無理。
当たり前のことだった。クロードには仕事がある。予定もある。自分が会いたいと思ったときに、必ず会える人ではない。そもそも、今日の相手と会ったのは自分だ。断ったのも自分だ。そのあとに、いまから会えないかと送るほうが急だった。
わかっていた。
それでも、落ち込んだ。
今日会った相手に近づかれたことより、そちらのほうが胸に残った。
帰ろうと思った。
滑り込んできた電車に乗り込み、扉のそばで流れる夜景をぼんやりと見つめる。
今日は無理。その言葉でもう終わっている。そう諦めかけたとき、手の中でスマートフォンが小さく震えた。
明日なら、時間は作れる。
たった一文で、肺の底に詰まっていた息がふっと抜けてゆく。
明日でいい。
そう送る。
すぐに返事が来た。
無理するなよ。帰ったら早く寝ろ。
うん、とだけ返した。
今日はクロードに会えない。
でも、明日は会える。
窓に映る自分の顔は、まだ疲れていた。けれど、さっきよりも見られる顔にはなっていた。
翌朝、目を覚まして真っ先に探したのはスマートフォンだった。
新しい連絡はない。昨日のやりとりはこちらの返信で終わっている。返すべきものはもう返している。それなのに、何度か画面を開いてしまった。
明日なら、時間は作れる。
その文をもう一度読む。
今日は、その明日だった。
仕事をしているあいだも、ときどき思い出した。クロードは忙しいかもしれない。時間を作れる、と言っただけで、必ず会えるとは限らない。急な予定が入れば、無理になることもある。昨日だって、今日は無理、と返ってきた。
それは当然だった。
クロードにはクロードの生活がある。自分のために、いつでも時間を空けているわけではない。むしろ、ここまで付き合ってくれているほうがおかしいのだと思う。
そうわかっているのに、夕方が近づくにつれて、落ち着かなくなった。
待ち合わせは、駅の近くの店だった。クロードが送ってきた場所は、前にも通ったことのある道沿いにあった。仕事を終えて向かうと、まだ約束の時間より早い。店の前で待つべきか、中に入るべきか迷って、結局、入口の脇に立った。
何度も画面を見るのはやめようと思った。
思っただけで、見てしまった。連絡は来ていない。
無理になったなら、そう送ってくるはずだ。クロードはそういうことを曖昧にはしない。無理なら言え、と言う人だ。自分にもそう言うのだから、自分が無理なときもたぶん言う。
そう考えていると、通りの向こうからクロードが歩いてくるのが見えた。
額を出した髪型も、輪郭に沿う短い髭も、歩く速さも、もう見間違えなかった。
来た。
ただ、それだけだった。それだけなのに、口元がゆるんだ。
「待たせたか?」
クロードが目の前で足を止める。
「早く着いただけだ」
「それを待ってたって言うんだって」
クロードは呆れたように目じりを下げた。いつもと同じような顔だった。昨日、今日は無理、と送ってきた人と同じ顔で、明日なら、と付け足した人の顔だった。
それを見て、思っていたよりうれしくなった。
説明できるからだと思った。昨日のことを、直接話せる。長くなっても、途中で止めてもらえる。何を言えばいいかわからなくなっても、彼なら聞いてくれる。
そう思ったし、それだけではない気もした。
店に入ると、奥の卓へ通された。周りの席とは少し離れていて、声を落とせば話しやすい。クロードが選んだのだと思う。そういう場所を、彼は外さない。
席に着いて、水を出されるまで、どちらも話さなかった。
彼はメニューを見たが、すぐには注文しなかった。こちらを見て、声を落とす。
「昨日の話だよな」
「ああ」
「無理に話さなくてもいいぞ」
「話したい」
「わかった」
それだけ言って、クロードはメニューを閉じた。
急かさなかった。
だから、少しずつ話した。
相手が悪い人ではなかったこと。最初から距離の近い人だったこと。よく話してくれて、こちらの話も聞いてくれたこと。店も悪くなかったこと。酒は飲まなかったこと。食事のあと、もう少し静かなところで話さないかと言われたこと。
話している途中で、何度か言葉が止まった。
クロードは、そのたびに待った。水を飲むでもなく、どこか遠くを眺めるわけでもなく、ただ待っていた。見られすぎると話しにくいのに、見られていないと不安になる。そのあいだに、彼はちょうどよくいた。
「無理というより、したくなかった」
そう言うと、クロードはすぐにうなずいた。
「それでいい」
短い返事だった。
短いのに、昨日から胸の奥で固まっていたものがちょっとずつ溶けていった。
「理由がきれいに言えなくても、したくないならしなくていい。そこを無理に掘り下げる必要はないだろ」
クロードはそう言って、水のグラスを脇へ寄せた。
彼もこちらを見る。見たあとで外す。言葉に詰まれば、グラスを持つ。メニューの端を指で押さえる。返事を急かすでもなく、続きを待つでもなく、話がそこで終わってもいいような顔をしていた。
昨日の相手も、こちらを見ていた。声もやわらかかった。何かを急に押し付けられたわけではない。
けれど、あの視線は、返事を求めているように見えた。こちらがどう出るかを待っている。近づいていいか、進んでいいか、その答えをこちらの沈黙から拾おうとしているようだった。
彼は違う。だから、息ができるのだと思った。
「相手が悪いわけではないと思った」
「うん」
「それでも、行きたくなかった」
「うん」
「それでいいのか」
「いい」
クロードは、もう一度そう言った。
その声に、余計なものはなかった。慰めすぎもしない。大げさにも扱わない。こちらがしたくなかったことを、ただそのまま置いてくれる。
昨日、自分はそれをすぐに聞きたかったのだと思った。
そして、たぶん、それだけではなかった。
昨日、今日は無理と言われたときのことを思い出す。わかっていた。クロードには予定がある。仕事もある。自分が急に会えないかと送ったのだ。無理なら無理で当然だった。
それでも、落ち込んだ。
言ってよいのか、迷った。
クロードはまだそこにいた。水のグラスに指を添えたまま、こちらが次の言葉を出しても出さなくてもいいように待っている。
「昨日、君に断られたとき」
彼の指が止まった。
「落ち込んだ」
言ってしまうと、思ったより静かだった。
彼はすぐには笑わなかった。困ったように眉を動かし、水を飲む。返事を探しているのがわかった。
「悪かった」
「謝ることではない。君にも都合があることは、わかっている」
「ああ」
「でも、落ち込んだ」
クロードはしばらくこちらを見て、それからかすかに口元をゆるめた。からかう顔ではなかった。受け取ってよいものか測っている顔だった。
「今日は来たぞ」
「うん」
「無理なときは無理って言う。でも、来られるときは言う」
約束のようで、約束ではない。
だからこそ、受け取ってよい気がした。
「わかった」
料理が来た。
湯気の立つ皿を前にして、ようやく空腹であることを思い出した。昨日の夜も、今日の昼も、あまり食べていなかった。箸を取ると、クロードも同じように食べはじめる。しばらくは、昨日の話をしなかった。
肉がうまい店だ、と彼は言った。
その言葉の通り、味はしっかりしていた。食べやすい。自分が食べるのを見て、彼は満足そうな顔をした。
「しっかり食っとけ」
「ああ」
食べながら、少しずつ身体に力が戻ってくる気がした。
クロードは、こちらを長く見つめないのに、食べる手が止まると気づく。無理に聞き出さないのに、聞いたことは忘れない。近くにいるのに、こちらの中へ勝手に入ってこない。
どうして違うのか。
昨日の相手とは、何が違ったのか。
相手は好意を見せてくれた。こちらを褒め、話をつなぎ、もう少し一緒にいたいと言った。それは、結果としては悪いことではないはずだった。
それなのに、自分は疲れてしまった。
クロードといても、疲れないわけではない。言葉を考える。自分のずれを突かれる。長いと言われる。おかしなところを直される。楽なだけではない。
それでも、ここにいるほうが気持ちが楽だった。
その違いが、おそろしくもあった。
食事のあと、クロードはすぐには立たなかった。水を飲み、考えるようにメニューの端を指で押さえた。
「今日は、もう帰るか」
聞かれて、顔を上げた。
いつもなら、食事のあとに喫茶店へ行くことが多かった。今日もそうなるのだと、どこかで思っていた。だが昨日のことがある。疲れているのも事実だった。
彼はこちらの返事を待っている。行きたい、と言えば、たぶん行ってくれる。帰ると言えば、帰してくれる。どちらでもいいように、彼は聞いている。そのことがわかった。
「今日は帰る」
「それがいい」
「また、話してもいいだろうか」
「ああ」
返事はすぐだった。
「長くなると思う」
「だろうな」
「それでもいいか」
「いい。読むなり聞くなりする」
短い答えだった。短いのに、安心する。
会計を済ませて、店を出る。駅までの道を、並んで歩いた。今日はクロードがいつもよりゆっくり歩いた。自分のためかどうかはわからなかったが、置いていかれる感じはなかった。
改札の前で、クロードが足を止める。
「ちゃんと帰れよ」
「帰る」
「飯も食ったし、あとはしっかり寝ろ」
「うん」
クロードは、別れ際にもこちらを長く引き止めなかった。こちらがうなずくと、手を上げた。
クロードは、帰ると言えば帰してくれる。近くにいても、近づきすぎない。こちらが黙れば、答えを急がずに待つ。見ているのに、見張られている感じがしない。
だから違うのだと思った。
けれど、それだけではなかった。
昨日、自分は説明したかった。断ってしまったことをどう受け取ればいいのか、クロードに聞きたかった。そう思っていたのに、今日彼を見つけたとき、説明する前に気づいてしまった。
彼は婚活の相手ではない。自分が結婚するために、助言をくれている人だ。文面を直し、店を選び、言葉の量を減らし、相手が持てるかたちにしてくれる人だ。
それなのに、自分は昨日、彼に会えないと言われて落ち込んだ。
今日は会えて、うれしかった。
そのふたつは、もう婚活の相談だけでは説明できない気がした。
改札を通る前に振り返ると、クロードはまだそこにいた。こちらが振り返ると思っていなかったのか、少しだけ目を丸くする。それから、帰れ、というように手を払った。
その顔を見て、笑いそうになった。
言葉にはしなかった。
それでも、わかってしまったことは、もう戻らなかった。
次にクロードへ連絡したのは、自分からだった。
用件はあった。ないわけではない。映画の話をした人からまた返事が来て、次に会う日も決まりそうだった。文面を見てもらう必要があるかもしれないし、会う時間も相談したほうがいいかもしれない。
けれど、画面を開いたとき、最初に浮かんだのはそれではなかった。
会いたい。
そう打つ前に、手が止まった。
前にも消した言葉だった。重い。まだ早い。そもそも、クロードは自分が結婚するために助言をくれる人だ。その相手に、理由もなく会いたいと送るのは違う気がした。
少し考えて、打ち直した。
今週、会える日はあるか。
送ってから、画面を閉じる。
すぐには返事が来なかった。仕事中かもしれない。移動中かもしれない。前のように、今日は無理、と返ってくることもある。そうなっても、おかしくない。
それでも、今度は昨日ほど落ち込まないかもしれないと思った。たぶん、嘘だった。
しばらくして、画面が光った。
ある。木曜なら行ける。
それだけで、息が深くなった。
木曜で大丈夫、と返そうとしたところで、もう一通来た。
面倒なのは全部片づけたから、長くなっても大丈夫だぞ。
短い文だった。
それなのに、しばらく返事ができなかった。
長くなると思われている。実際、たぶん長くなる。自分の話は、短くしようとすると足りなくなり、足りないものを補おうとすると長くなる。クロードはそれを知っている。知ったうえで、先に大丈夫だと言った。
長くないのに、満たされる言葉だった。
胸の内側に、静かに水が溜まってゆくような感じがした。重くはない。苦しくもない。ただ、空いていたところに、必要なものが置かれたようだった。
木曜で大丈夫。ありがとう。
そう返す。
すぐに既読がついた。
店、探しとく。
それだけでまた少し満たされた。
会う約束をしただけだった。
それなのに、もう半分くらい会えたような気がしていた。
木曜、クロードが選んだのは落ち着いた店だった。
人は入っているのに、急かされる感じがない。灯りも強すぎず、ひとつひとつの席にゆとりがあった。
彼は席にいて、こちらに気づくと手を上げた。
顔を見た瞬間、ここ数日残っていたものが少しだけ整った。
ああ、と思った。自分は彼に会いたかったのだと思った。そう認めると、意外なほど静かだった。
「今日は長くても大丈夫だからな」
席につくと、クロードがそう言った。
「先に言っといたほうがいいだろ。あんた、気にするし」
「気にしていたと思う」
「だろうな」
彼はメニューをこちらへ向けた。
「先に食うか。話はそのあとでもいいだろ」
「ああ」
それも、ありがたかった。
すぐに話さなくていい。話すために来たのに、話しはじめる前に食事をしてもいい。そういう余白を、クロードは作る。
注文を終えて、料理を待つあいだ、ここしばらくのことを少し話した。映画の話をした人とは、次に会う日が決まりそうだということ。前よりは文面を短くできていること。以前、距離を詰めてくるのが早かった相手からも連絡は来たが、まだ返していないこと。
彼は、ひとつずつ聞いた。
急かさないのにぼんやりと流しもしない。必要なところでだけ、短く返す。店の灯りが横から当たって、彼の目元の影が少し濃く見えた。笑えば甘く見える顔なのに、黙っていると、そうではないものも見える。
この顔を、もうだいぶ覚えている。そう思った。
「どうした」
クロードが言った。
「見ていた」
「今度は何を」
「長くてもいいと言われたのが、うれしかった」
彼は一拍、言葉を呑んだ。
それから、困ったように口元を動かした。
「急にどうしたんだよ」
「言ったほうがいいと思った」
「……まあ、悪い気はしないな」
短い返事だった。その短さも、よかった。
大げさに受け取られない。からかわれすぎもしない。だからと言って、なかったことにもされない。彼のそういうところを、自分は何度も見てきた。
だから、話せるのだと思っていた。
けれど、いまの自分ならもっと違う言い方もできる気がした。
クロードだから、話したいのだ。
料理が来て、話は一度途切れた。肉の皿を見て、クロードが少し目を細める。好きなものを見る顔だった。甘いものを前にしたときとは違う。わかりやすい。
「肉が好きなんだな」
「前にも言っただろ」
「ああ、覚えている」
「ほんとうに律儀だな」
「覚えたいことは覚える」
そう言うと、クロードは箸を取る手を一瞬止めた。
「……そうか」
それだけ言って、皿へ視線を戻した。
その反応が少し気になったが、追わなかった。聞きすぎると、また先へ行きすぎる。いまは、食べる。話すのは、そのあとでもいい。
食事をしながら、ふと思った。
自分は、彼とこうして過ごすことが増えた。食事をして、喫茶店へ行くこともある。話を聞く。店の話を聞く。知らない場所の話を聞く。車で行くならこのあたりがいいとか、酒を飲むならこっちの店がいいとか、肉ならここがおすすめだとか、そういう話を聞く。
自分は、誘われれば行く人間だった。
でもクロードといるときは、誘われる前から待っている。
それは、趣味と呼べるのだろうか。
プロフィールの趣味欄は、まだうまく書けていない。本を読む。知らない場所に行くのも少しずつ増やしたい。クロードにそう直された。
知らない場所へ行くこと。それは、ほとんど彼と出かけることではないかと思った。
食後、クロードがいつものように喫茶店の話をした。今日は時間がある、と言った通り、急いでいる様子はない。
「行くか?」
聞かれて、うなずいた。
「うん」
「じゃあ、こっち」
店を出て、夜道を歩く。クロードは前を歩きすぎない。角を曲がる前に少し速度を落とす。こちらが隣に並ぶと、そのまま歩く。そういう細かい動きにも、いつのまにか慣れていた。
喫茶店に入って、席に着く。
クロードはコーヒーを頼んだ。自分は紅茶にした。もう何度も同じことをしている。けれど、同じことをしているのに、少しずつ違う。今日は、こちらから誘って、彼が応えてくれた日だった。
だからなのかもしれない。聞いてみようと思った。
「趣味のひとつに、君と出かけることを数えてもいいか」
彼が、カップに伸ばしかけた手を止めた。
「……あんたの中でそう認識するだけならいいが、まさかそれを婚活のプロフィールに書くつもりじゃないだろうな」
「書いていいなら」
「書くな」
返事は早かった。
「配偶者でも恋人でもない男と出かけることが趣味です、は受けが悪い」
配偶者でも恋人でもない男。
言われたことはわかる。たしかに、婚活の場でそれを書くのはよくないのだろう。相手がどう受け取るかを考えれば、避けたほうがいい。
ただ自分は、べつのところに引っかかった。
「では、結婚したら、君とは出かけないほうがいいのか」
彼の顔から、さっきまでの軽さが消えた。
「……そういう話じゃないだろ」
「違うのか」
「婚活のプロフィールに書くなって言ってるだけだ」
声は荒くなかった。
「結婚した相手が嫌がるかもしれない」
「それは、相手によるだろ」
「嫌がられたら」
「そのとき考えろ」
「でも」
そこで、クロードは水を飲んだ。置いたグラスの音は小さかった。
「せっかく面倒見てるのに、結婚したら切りますって言われたら、普通に腹立つだろ」
その言葉に、胸のあたりが苦しくなった。
「切るつもりで言ったわけではない」
「わかってるよ」
「でも、そう聞こえたのか」
「少しな」
クロードは、こちらを見た。怒っている顔ではなかった。けれど、いつものように簡単に笑う顔でもなかった。
「俺とのことを、婚活が終わるまでの補助輪みたいに扱うなよ」
その言い方は、少し痛かった。
自分は、そう扱っていたのだろうか。文面を見てもらう。店を教えてもらう。返し方を教えてもらう。婚活がうまくいくように助けてもらう。そういう関係だと思っていた。
さっきまでは。
それだけではもう足りないと、自覚してしまった。
長くても大丈夫だと言われて、うれしかった。店の前にクロードが来て、うれしかった。食事のあとに喫茶店へ行くことを待っていた。
それを、補助輪とは呼びたくなかった。
「すまない」
そう言うと、クロードは少し困った顔をした。
「いや、謝れって話じゃない」
「でも、嫌だったんだろう」
「嫌っていうか」
クロードは言葉を探すように、カップの縁を指で軽く触った。
「腹が立った。だから、やっぱそうだな、嫌だったんだろうな」
そう言ってから、クロードは自嘲気味に笑った。
自分は、カップを見た。
「君と出かけるのは、趣味ではないのかもしれない」
「そうだな」
「でも、続けたいとは思う」
クロードが黙った。
「婚活が終わっても」
言ってから、喉のあたりが詰まった。
この言い方で足りるのか、重いのか、わからない。相手が持てる量なのかもわからない。それでも、いま言わないと、また違うものとして処理してしまう気がした。
「続けたい」
もう一度言った。
彼はしばらく黙っていた。やがて、息を吐く。
「……それなら、最初からそう言えばいいだろ」
「言った」
「いまな」
「うん」
「プロフィールには書くなよ」
「書かない」
「それでいい」
クロードはカップを持ち上げた。
それ以上は、すぐには続けなかった。自分も何も言わなかった。
彼とのことは、婚活の欄には書けない。
でも、欄に書けないからといって、ないことにはならない。
外見の好みと、趣味。書けないことが、またひとつ増えた気がした。
映画の話をした人とは、あれからもう一度会った。
前に送った感想について、相手はうれしそうに話してくれた。最後の場面が好きだという話も、中盤がすぐにはわからなかったという話も、相手は否定しなかった。むしろ、そこが残るのかもしれませんね、と言ってくれた。
彼女は、よい人だった。
こちらの言葉を待ってくれる。わからないと言えば、無理にわからせようとはしない。映画の話をするときだけ少し早口になるけれど、こちらがついていけなくなるほどではない。食事の店も静かで、帰る時間もこちらに合わせてくれた。
前より、うまく話せたと思う。
相手が何を好きなのかを見る。自分が受け取ったものを、少しだけ返す。予定を詰めすぎない。全部を渡さない。クロードに言われたことは、着実にできるようになっていた。
できるようになっていたからこそ、困った。
この人と、次に進めるのだろうか。そう考えたとき、答えが出なかった。
嫌なところがあったわけではない。悪いことをされたわけでもない。むしろ、彼女は丁寧で、誠実で、こちらを急かさなかった。だから、断る理由を探すのは失礼な気がした。
それなのに、進む理由も、うまく見つけられなかった。
帰り道、駅の改札へ向かいながら、彼女はまたお会いできたらうれしいです、と言った。こちらも、はい、と返した。そう返すしかなかった。
家に帰ってから、ずっと彼女とのやりとりの画面を見ていた。
相手に送る文を考える。
長くなるのはわかっていた。謝る必要がある。相手の時間を使わせてしまったこと、前向きに受け取らせてしまったこと、ここまで付き合ってもらったこと。そこを曖昧にして終わるのは違う。
どう書いても足りない気がした。
何度も書き直して、最後に残った文は、やはり硬かった。
これまで時間を作っていただいて、ありがとうございました。
映画の話を聞けたことも、勧めていただいた作品を観られたことも、自分にはよい経験でした。
ただ、いまの自分は、結婚に向けて誰かと関係を進められる状態ではないと思いました。
こちらからお誘いしておきながら、このようなかたちになってしまい申し訳ありません。
あなたの時間を使わせてしまったことも、申し訳なく思っています。
これ以上続けるほうが不誠実だと思うので、ここで終わりにさせてください。
どうかお元気で。
送る前に、クロードへ見せようとして、やめた。
クロードに見てもらえば、言い方は整うかもしれない。硬いところも、重いところも、削れるかもしれない。だが、これは相手に向ける謝罪で、自分が相手に渡すべき言葉だった。
送信を押した。
返事は、翌日に来た。
正直に言ってくださってありがとうございます。
すごく残念ですが、きちんと考えてくださったことは伝わりました。
映画の話ができて、私も楽しかったです。
どうかお元気で。お身体には気をつけてくださいね。
その文を読んで、しばらく動けなかった。
怒られたほうが、楽だったかもしれない。
相手は最後まで丁寧だった。こちらを責めなかった。だから、自分が終わらせたのだとはっきりわかった。
その日の夜、クロードに送った。
映画の話をした人には、断りの連絡をした。
謝って、これ以上続けるほうが不誠実だと思うと伝えた。
相手は丁寧に返してくれた。
返事は少し遅れて来た。
そうか。ちゃんと伝えたんだな。
うん、と返してから、しばらく画面を見ていた。
終わらせた理由は聞かれなかった。だから、ここで終わらせてもよかった。報告としては足りている。けれど、胸の中に残っているものは、まだそこにあった。
しばらく、婚活をやめようと思う。
そう送ると、今度はなかなか返事が来なかった。
やめる、と自分で打ってみて、ようやくそれを決めたのだと思った。結婚したいという気持ちが、なくなったわけではない。なのに、いつのまにか、べつのところばかり見ている。
誰となら会いたいのか。誰となら続けたいのか。誰に、長くなってもいいと言われたいのか。
答えを出す前に、画面が光った。
疲れたなら休めばいい。次に繋げたらいいさ。
正しい返事だった。彼らしいとも思った。責めない。引き止めない。大げさにもしない。終わったことを失敗で止めず、次へつなげるものとして置いてくれる。そういう言い方に、何度も助けられてきた。
それでいいはずだった。なのに、気持ちが沈んだ。
何を期待していたのだろう。理由を聞いてほしかったのか、残念そうにしてほしかったのか、やめるなと言ってほしかったのか。どれも違う気がした。クロードにそんなことを求める理由はない。婚活は自分のことで、やめると決めたのも自分だ。
わかった、ありがとう。
そう返すと、既読だけがついた。
そのまま数日が過ぎた。
紹介所の画面も開かなくなってしまった。開けば相手の一覧が出る。条件、写真、短い自己紹介。以前なら、それを見て、相手が望む暮らしに自分がどれだけ合わせられるかを考えていた。
それが、いまはうまく考えられなかった。
クロードから連絡が来たのは、それからさらに数日が経ってからのことだった。
今週、空いてる日ある?
用件は書かれていなかった。
婚活はやめると言った。報告することも、相談することも、もうあまりない。なら、なぜ空いている日を聞かれるのか、すぐにはわからなかった。
相談はない。
そう返すと、すぐに短い返事が来る。
相談じゃない。飯。
相談ではない。報告でもない。婚活のためでもない。ただ、飯、と書いている。
食事をしたいのか。
自分でも、おかしなことをたずねていると思った。だが、そう聞く以外に、どう受け取ればいいのかわからなかった。
返事は少しだけ間を置いて来た。
したい。
俺が、あんたと飯を食いたい。
何度か読んだ。
クロードが、自分と食事をしたいと言っている。
それだけのことが、婚活をやめると伝えたあとに残った空白へ、その言葉がまっすぐ入ってきた。相談ではなくても会っていい。用件がなくても連絡していい。そう言われたわけではないのに、そう受け取ってしまいそうになる。
水曜なら空いている。
そう送ると、すぐに返事が来た。
じゃあ水曜。
店、探しとく。
そこで会話は終わった。
液晶が暗くなっても、文字はまだ瞼の裏に残っていた。
彼との関係は、終わらなかった。それでいいと思った。
ただ、これでよかったのかは、まだわからなかった。
水曜まで、とにかく落ち着かなかった。
報告することも、相談することもない。映画の話をした人とは終わらせた。距離が近すぎた人とも続けるつもりはなかった。
だから、クロードに会って相談するようなことは何もなかった。
けれど、水曜の夜、店へ向かう足は重くなかった。
クロードは先に来ていた。奥の席で、メニューを見ている。こちらに気づくと、いつものように片手を上げた。
「来たな」
「ああ」
「腹減ってる?」
「少し」
「じゃあ、ちょうどいい」
それだけだった。婚活はどうしたとも、今日は何の話だとも聞かれなかった。こちらが座り、上着を椅子にかけ、水をひと口飲むまで、彼は普通に店の話をした。ここの肉はうまい、前に来たときは煮込みがよかった、でも今日は焼いたものでもいいかもしれない。
ただ食事をするための話だった。そのことに、戸惑ってしまった。
それを察したのか、彼はメニューから顔を上げた。
「……なんだよ、相談があるなら聞くが」
「今日は、ないと思う」
「じゃあ、飯だな」
それで話が終わった。
終わってしまっていいのかと思ったが、クロードは気にした様子もなく店員を呼んだ。いくつか注文し、こちらに苦手なものがないかだけ確認する。その手つきも声も、いつもと変わらない。
婚活をやめた。
それは、自分の中では大きなことだった。これまで何度も相談し、報告し、文面を見せ、プロフィールを削られ、失敗を直してきた。その全部のきっかけだったものを、いったん手放した。
それなのに、彼は変わらなかった。
変わらないことが、ありがたいのか、さびしいのか、すぐにはわからなかった。
「映画の人には、ちゃんと返したんだろ」
料理を待つあいだに、クロードが言った。
「うん」
「ならいい」
「それだけか」
「それだけって?」
「もっと何か言われると思った」
「何か言ってほしかったのか?」
聞かれて、返事に詰まった。
何か。何を期待していたのかは、まだわからなかった。引き止めてほしかったわけではない。責めてほしかったわけでもない。理由をもっと聞いてほしかったのかもしれないが、聞かれたところで、うまく答えられた気はしない。
「わからない」
「そうか」
クロードはそれ以上、踏み込まなかった。
代わりに、水のグラスを少しこちらへ寄せた。手元に近いほうが取りやすいと判断したのだろう。そういう仕草は、いつもさりげなかった。見ているのに、見られている感じがしない。助けているのに、助けられていると強く思わせない。
これまで婚活のためだと思っていたものが、今日はただの仕草として目に入る。
料理が来た。
クロードは肉の皿を見て、やはり満足そうにした。自分はそれを見て、前にも同じ顔を見たと思った。甘いものを前にしたときとは違う顔。好きなものを前にした顔。
「美味しい」
食べてから言うと、クロードは得意げに笑った。
「だろ」
「君は店を外さないな」
「外すときもある」
「そうなのか」
「あるよ。あんたの前ではまだ外してないだけ」
その言い方が、少し引っかかった。
あんたの前では。
自分の前では、外していない。外さないようにしているのか、たまたまなのかはわからない。けれど、クロードがこちらと食事をすることを、ちゃんと一回ずつ選んでいる気がした。
相談じゃない。飯。そう言ったのは、嘘ではなかったのだと思った。
食事の途中で、クロードは仕事の話をしてくれた。人と会う予定が続いて、息が詰まっていたこと。先週から残っていたものを片づけたこと。だから今日は時間があると言ったのだと、何でもないように話す。
「忙しいのを、片づけたのか」
「片づけた。全部じゃないが、今日ここに来るぶんには困らない程度には」
「自分と会うためにか」
言ってから、踏み込みすぎた気がした。
クロードは大げさに驚かなかった。箸を止め、わずかにこちらを見て、それから皿へ視線を落とした。
「まあ、そうだな」
長い言葉ではなかった。きれいな約束でもない。そうだな、と言われただけでじゅうぶんだった。
じゅうぶんなのに、もっと欲しくなる気がした。
それが、怖かった。
「どうした」
「いや」
「あんた、わかりやすく黙るよな」
「そうだろうか」
「そうだよ」
彼は笑ったが、深くは聞かなかった。
食事が終わるころには、体が楽になっていた。相談をしなかったからかもしれない。何かを直されなかったからかもしれない。食べるだけでよかったからかもしれない。
会計を済ませて外に出ると、夜の空気が乾いていた。クロードは駅のほうを見て、それから反対側の道を見た。
「このあとは喫茶店でもいいんだが、せっかくだし、今日は少し歩くか」
「そうしよう」
「腹も重いし。駅まで遠回りするくらい」
うなずくと、彼はゆっくり歩き出した。
いつものように、前を行きすぎない。こちらが隣に並べば、そのまま歩く。人の多いところでは外側へ寄る。信号の前では、走るか迷って結局立ち止まる。
用件がないと、歩くことしか残らない。
それなのに、間がもたないとは思わなかった。
「婚活をやめたら」
しばらくして、自分から口を開いた。
「君に話すことが、なくなると思った」
「だろうな」
「なくなるのに、今日も会った」
「会ったな」
「なぜだろうと思った」
クロードは喉の奥で笑った。
「俺が誘ったからだろ」
「そうだけど」
「それでいいんじゃないか」
あまりに簡単に言われて、黙った。
彼は、こちらの沈黙を気にした様子もなく続けた。
「俺が誘った。あんたが来た。飯を食った。今日はそれでいいだろ」
それでいい。たぶん、そういうことなのだと思う。
相談があるから会う。報告があるから会う。婚活のために店を選ぶ。文面を直す。プロフィールを削る。そういう理由がなくても、食事をすることはできる。
それは、思っていたよりむずかしくて、思っていたより簡単だった。
駅が近づいたところで、彼がふと思い出したように言った。
「そうだ。今度、もう少し遠いところに行かないか」
「遠いところ、というのは」
「車で。うまい店があるんだが、電車だと乗り換えとかがちょっと面倒なんだよな」
彼は運転するのが好きだと言っていた。遠くの店に行ったり、知らない道を走ったりするのが好きだと。
「下見なのか」
「何の」
「婚活を再開したときの」
クロードは足を止めた。遅れて、自分も止まる。
彼は一度こちらを見て、それから、わかりやすく眉を寄せた。怒っているというより、呆れたような顔だった。
「なんで俺が全部あんたのために動いてると思うんだよ」
声は強くないかわりに、まっすぐだった。
「これは俺の都合」
クロードが行きたい。クロードが運転したい。クロードが、遠い店に行く相手として自分を誘っている。
婚活ではない。相談でもない。自分のためだけでもない。
「そうなのか」
「そうだよ」
クロードは息を吐いた。
「俺が行きたい。あんたと行くなら、退屈しないだろうと思ってる。それだけ」
退屈しない。
それだけ、と言うには、じゅうぶんすぎる言葉だった。
「運転は、君がするのか」
「あんたに任せる選択肢は最初からない」
「免許はある」
「持ってるだけだろ。だから任せたくない」
クロードは首をかしげた。
「どうする。嫌なら断ってもらって構わないぞ」
「行きたい」
答えは、思ったより早く出た。
「じゃあ行くか」
彼はうなずき、すぐに具体的な日程の話はしなかった。そこがまた、婚活の予定と違っていた。いますぐ決めるわけではない。空いている日を全部並べるわけでもない。ただ、行くことだけが決まった。
それだけで、しばらく先に灯りが置かれたような気がした。
改札の前で別れるとき、彼はいつものように手を上げた。
「日程はまた送る」
「わかった」
「長いの寄越すなよ」
「善処する」
「それは長くなるやつだな」
彼は笑って、反対側の改札へ向かった。その背中を見送ってから、改札を通る。
関係は終わらなかった。それどころか、次の予定ができた。
婚活をやめたあとに、相談でも報告でもない予定ができた。
それでよいと思った。これでよかったのだと、思いたかった。
けれど胸の奥には、まだべつのものが残っていた。
クロードは、俺の都合だと言った。
なら、自分の都合は何なのだろう。
会いたい。続けたい。終わらない理由がほしい。
そこまで言葉が浮かんで、足が止まった。
遠出する日程は、思っていたより早く決まった。
土曜の昼前から空いてるか。
クロードからそう送られてきたとき、用件をたずねようとは思わなかった。婚活の下見でも、店の確認でもない。彼が前に言っていた、車で遠くへ行く話だとわかった。
土曜は空いている。
そう返すと、すぐに場所と時間が送られてきた。
十時。
駅の西口で拾う。
昼飯食って、少し走って、夕方には戻る。
拾う、という言い方が、なんとも車に乗る約束らしかった。
酔いやすいなら言えよ。
酔いやすくはない、と返すと、
ならよし。運転は任せろ。
と来た。
任せる以外の選択肢はない。運転席に座るのはクロードで、自分は助手席に座る。
隣に座る。同じ景色を見る。
そのことを考えて、落ち着かなくなった。けれど、嫌ではなかった。むしろ、土曜が待ち遠しかった。
土曜は晴れていた。
駅の西口は、混んでいた。ロータリーに車が出入りし、バスが停まっている。約束の時間より五分早い。画面を見る前に、黒い車がゆっくり近づいてきた。
窓がゆっくりと下がる。
「ベレト」
クロードだった。
運転席にいる彼は、いつもより少し違って見えた。片手でハンドルを押さえ、もう片方の手でこちらへ軽く合図する。額を出した髪も、輪郭に沿う短い髭もいつも通りなのに、横顔の印象が少しだけ遠い。店で向かい合っているときより、彼の視線は先を見ていた。
「乗って」
助手席へ回り、扉を開けた。
車内には薄く革と洗剤のにおいがした。強い香りではない。荷物は少なく、座席も整っている。クロードらしいと思った。見せたくないものは外に出さない。見せる場所は、きちんと整えている。
「狭くないか」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて、動かしていいから」
座席を少し調整して、シートベルトを締める。彼はそれを確認してから、静かに車を出した。
最初は、どこを見ればいいのかわからなかった。
正面には道がある。横にはクロードがいる。手元を見るのも変な気がして、結局、前を見た。
クロードは、思っていたより静かに運転した。もっと軽く話しながら走るのかと思っていたが、交差点や車線変更の前では言葉が減る。信号で止まるときも、急に踏み込むことはない。ハンドルを持つ手は力みすぎず、かといって雑でもなかった。
横顔は、真面目だった。
「暑くないか」
「大丈夫」
「暑かったり、寒かったら言えよ」
「うん」
それだけで、また道を見る。
会話は少ない。とはいえ、居心地は悪くなかった。車の中は、逃げ場が少ない。扉は閉まっているし、目的地に着くまで降りることもない。そういう場所のはずなのに、窮屈ではなかった。
クロードは隣にいる。
こちらへ寄ってこない。話せとも言わない。黙っていることを、どうにかしようともしない。ただ、たまに様子を見る。それだけだった。
道はだんだん広くなった。建物の間隔が少しずつ空いて、見える空も広がってゆく。彼は高速には乗らず、遠回りの道を選んだらしい。
「こっちのほうが走りやすいんだよ」
前を見たまま、彼が言った。
「急ぐ用事でもないだろ」
その言葉が、車内に静かに置かれた。
今日は、どこかへ急ぐために来たのではない。成果を出すためでも、報告をするためでも、婚活に繋げるためでもない。クロードが遠出しようと言った。自分はそれに乗った。
それだけで、時間が進んでいる。
「眠くなったら寝ていいぞ」
「寝ない」
「無理するなよ」
「せっかくだから」
彼がこちらを見た。
「せっかくだから?」
「景色を見る」
そう答えると、彼は小さく笑った。
「そうか」
車は川沿いの道に出た。水面が光っている。遠くに橋が見え、道の脇には低い木が続いていた。窓の外を見ると、景色が後ろへ流れてゆく。自分では選ばない速度だった。
クロードは、こういうものを好きなのだと思った。
目的地だけではなく、そこへ行くまでの道。遠いということ。空気が変わること。遠くまで来たというほどではないのに、普段と同じではないこと。
それを、今日は自分にも見せている。
そのことが、うれしかった。
店に着いたのは、昼を少し過ぎたころだった。
大きな店ではなかった。道沿いにある古い建物で、入り口の横に小さな看板が出ている。駐車場には何台か車が停まっていた。クロードは慣れた様子で車を入れ、エンジンを切った。
「ここ」
クロードは得意げに看板を指さした。
店に入ると、焼いた肉のにおいがした。食欲を引くにおいだった。席に通されると、彼はメニューをほとんど迷わず開く。
「ここは、これ」
「決まっているのか」
「決まってる。あんたはたぶん食べられる」
「食べられる」
「だろうな」
クロードは笑い、軽い調子で注文した。
大きな窓からは駐車場が見え、その向こうに山がある。遠くへ来た、というほどではない。けれど、電車だけでは選ばない場所だった。
料理が来ると、彼は最初のひと口で、わかりやすく満足した顔をした。そういう顔に、何度も胸をくすぐられる。普段、見せたくないものを隠すのがうまそうなのに、好きなものに対してはわかりやすい。
自分も箸を取った。
肉はやわらかく、味が濃すぎない。噛むと少し甘みがあり、添えられた野菜とも合っていた。彼がわざわざ車を出して来る理由が、少しわかった気がした。
「美味しい」
そう言うと、クロードがこちらを見た。
それから、ふっと笑った。
「だろ」
「ああ、美味しい」
「二回言うんだな」
「言う。美味しいから」
クロードはうれしそうに目を細めた。
その顔を見ていると、こちらまで満たされる気がした。
食事のあいだ、彼は前に来たときの話をしてくれた。雨が降っていたこと。店の前の道が混んでいたこと。帰りに遠回りしたら、思ったより景色がよかったこと。そういう話は、婚活のためには必要なかった。こちらをよく見せるための話でも、誰かに合わせるための話でもない。ただ、クロードが持っている時間の話だった。
自分はそれを聞いていた。聞いているだけで、じゅうぶんだった。
店を出ると、空が少し曇っていた。雨が降るほどではないが、光がやわらかくなっている。クロードは車に乗る前に、道の先を少し見た。
「帰りも遠回りしようと思ってるんだが、時間は大丈夫か?」
「大丈夫だ」
「疲れてないか」
「疲れていない」
「じゃ、のんびり帰ろうぜ」
帰り道は、来た道とは違った。
車は山裾へ寄り、細い道を抜ける。迫りくる木々の影が、窓の外を濃い色に染めた。クロードが速度をゆるめる。道が細いせいもあるだろうが、景色を見せようとしているようにも思えた。
会話はほとんどなかった。
それでも、沈黙は気まずくなかった。
クロードの手がハンドルを少し回す。指が動く。視線が前へ向く。たまに標識を見て、少しだけ眉を動かす。そういうものを、横で見ていた。
近くにいる。けれど、迫られている感じはない。同じ空間に閉じ込められているのに、息苦しくない。
理由は、もうだいぶわかっていた。
彼は、こちらの返事を奪わない。会話を急がない。近くにいても、近づくことを目的にしない。行き先を持っているのに、ひとりで先へ行ってしまわない。
だから、隣にいられる。
だから、もっと長くいてもいいと思う。
信号で止まったとき、クロードがこちらを見た。
「眠くないか?」
「眠くない」
「ならよかった」
「君は」
「俺? ひとりだったらどこかでひと眠りしてたかもな」
「いや、そうではなくて。楽しいのか」
彼は少し目を丸くした。それから、正面を見て、信号が変わるのを待った。
「楽しいよ」
青になり、車が動き出す。
「じゃなきゃ誘わない」
短いのに、満たされる言葉だった。聞いたくせにどう返せばいいのかわからなくて、自分は曖昧に返事をした。それを聞いたクロードは、目じりをゆるめた。
陽が沈みきる前に、駅へ戻ってきた。
車がロータリーの端に停まる。降りる前に、少しだけ名残惜しいと思った。
「今日はありがとう」
「こちらこそ」
「運転も、助かった」
「そこは任せろって言っただろ」
シートベルトを外したところで手が止まった。
「また、遠出したい」
言ってから、額が熱くなった。
クロードはすぐに返事をしなかったが、困った顔ではなかった。ハンドルに片手を置いたまま、こちらを見る。
「もちろん」
短い返事だった。
「次は、もっと遠くてもいいな」
そう付け足された。こめかみに滲んだ汗がすっと落ちてゆく。
「日程はのんびり決めようぜ」
「わかった」
車を降りて、扉を閉める。
クロードは窓を半分ほど下ろす。
「まっすぐ帰れよ」
「帰る」
「それから、今日はスマホ見るなよ」
「むずかしいかもしれない」
「見るな、我慢しろ」
彼は笑った。それから、軽く手を上げて車を出した。
見送っているうちに、車は人の流れの向こうへ消えていった。排気音も遠ざかり、いつもの駅前の喧騒だけが残された。
また行ける。
次は、もっと遠くてもいい。
それは約束と呼ぶには軽い。けれど、次があると言われた。今日で終わりではないと言われた。
それだけで、しばらく立っていられた。
婚活をやめたあとも、クロードとの予定はできた。食事をして、遠出して、帰ってきた。相談でも報告でもない時間が、ちゃんとあった。
これでいい。そう思った。
同時に、これでいいと思うほど、その先にあるものが怖くなった。
彼との関係をずっと続けたい。そう思ってしまえば、食事も、遠出も、もうただのものではなくなる。意味を持つ何かに変わってしまう。
いや、もう、とうの昔に変わっていたのかもしれない。
次にクロードと会ったのは、彼の職場の近くだった。
仕事終わりに食事でも、と誘われた。自分はすぐに空いている日を答えた。
クロードが食事に行くかと聞いた。自分は行きたいと思った。だから行く。それで足りる気がした。
駅を出ると、仕事帰りの人が多かった。ビルの灯りがまだいくつも残っていて、歩道には黒い鞄を持った人が同じ方向へ流れている。クロードからは、少し遅れる、と連絡が来ていた。待つことは嫌ではなかった。むしろ、待つ相手がいることに落ち着かなかった。
入口の脇で待っていると、ビルの自動扉から何人かが出てきた。その中にクロードがいた。
すぐにわかった。
クロードは隣の若い男と何かを話していた。仕事の話らしく、相手は手帳を開きながら早口で何かを言い、彼はそれを聞いて、笑っている。仕事用の顔だった。こちらといるときより、外向きに整っている。見せるものを選んでいる顔だと思った。
その顔も、嫌ではなかった。
クロードがこちらに気づくより先に、隣の男がこちらを見た。目を丸くして、それからクロードへ顔を向ける。
「お知り合いですか」
「ああ。待ち合わせ」
クロードがそう言うと、男はぱっと表情を明るくした。
「じゃあ、ここで失礼します。……あ、そうだ、クロードさん。このあいだの話ですけど、僕、幹事やりますからね」
「何の」
「クロードさんのときです」
クロードは一瞬だけ黙った。それから、面倒そうに笑った。
「気が早いって」
「でも絶対盛り上がりますよ。クロードさん、知り合い多そうですし」
「はいはい。そのときは頼むわ」
「任せてください」
男は笑って頭を下げ、駅のほうへ歩いていった。
クロードはその背中を見送り、こちらへ近づいてきた。いつものように片手を上げる。
「悪い、待たせた」
「待っていない」
「それ、待ってたって意味だろ」
いつものやりとりだった。
けれど、さっきの会話が耳に残っていた。
何の話かは、聞かなくてもわかる気がした。結婚式か、披露宴か、そういうものの幹事だ。相手の男は冗談半分だったのかもしれない。クロードも、その場の空気を悪くしないように流しただけなのだろう。
それでも、クロードは否定しなかった。
結婚しないとは言わなかった。
食事の店へ向かいながら、しばらくそのことを考えていた。クロードは隣を歩いている。職場の近くだからか、いつもより知っている道のようだった。人の流れを避けるのも、信号を選ぶのも迷いがない。こちらが遅れないように、ほんの少し歩幅を合わせてくれる。
そういうことを、もう何度も見ている。
だからこそ、ふいに思った。
この人が、いつまでもひとりでいると思っていたのは、どうしてだろう。
彼は店を知っている。人と話すのがうまい。顔もよい。自分でそれをわかっている。見せ方も知っている。職場でも、さっきのように人に囲まれている。誰かが彼の結婚式の話を出せるぐらい、そういう未来から遠い人ではない。
それなのに、自分はどこかで、彼が自分と食事をして、遠出をして、また次もあると言ってくれる時間が、このまま続くように思っていた。
心底勝手だった。
店に入って席につくと、クロードはいつものようにメニューをこちらへ向けた。今日は魚もうまい店だが、肉もある、と言う。どちらでも食べられると答えると、だろうな、と笑われた。
注文を終えて、水をひと口飲む。聞くなら、いましかない気がした。
「君も結婚したいのか」
クロードはグラスを持ったまま、動きを止めた。
「え?」
「さっきの人が言っていた」
「ああ、あれか」
彼はグラスを置いた。指についた水滴を紙で軽く拭う。考えるように視線を下げ、それから、いつもの調子に戻した。
「いや、べつにそういうのじゃないけどさ。あそこで結婚しませんって言い切るのも変だろ」
「そうなのか」
「そうだよ。空気が悪くなるし」
軽い返事だった。
たぶん、ほんとうにそれだけなのだ。職場の人との会話で、わざわざ否定して空気を悪くする必要がない。冗談は冗談として流す。それがいちばん丸い。彼はそういうことができる人だった。
納得はできた。だが、自分の中に沈んだものは軽くはならなかった。
「君は、そういうふうに場の空気を保つのがうまい」
「褒めてるのか、それ」
「たぶん」
「たぶんかよ」
クロードは笑った。
その笑いも、見慣れてきている。少しうさんくさくて、少し甘く見えて、全部を出しているわけではない笑い方。見せられるところを見せて、見せたくないところは奥にしまっておく顔。
誰かが、その顔を好きになるかもしれない。
そう思った瞬間、料理が来た。
皿が卓に並び、湯気が上がった。クロードが箸を取って、食おうぜ、と言う。自分も箸を取った。食事は美味しかった。彼の選ぶ店は、相変わらず外れない。
でも口の中には、さっきのことがずっと残っていた。
彼にも、いつか結婚したい相手ができるかもしれない。あるいは、もういるのかもしれない。忘れられない人がいるのかと聞いたこともあった。あのとき、彼ははっきり答えなかった。さあな、と言った。その言葉も、いまになって戻ってくる。
自分は婚活をやめた。
映画の話をした人には謝った。これ以上続けるほうが不誠実だと思った。迫ってきた人にも、もう会わないと連絡した。結婚という言葉の輪郭は、前より曖昧になっている。
それなのに、彼が誰かと結婚するかもしれないと思うと、急に息が苦しくなった。
結婚したいのか。そう聞いたのは、自分だった。
聞いたくせに、答えを受け取る準備ができていなかった。
食事のあと、クロードは少し歩くかと聞いた。喫茶店でもよかったが、その日は歩くほうがいい気がした。外へ出ると、夜風が冷たかった。ビルの明かりはまだ残っている。駅へ向かう道から外れ、川沿いの歩道へ出た。
水面に光が揺れている。
彼は隣を歩いていた。手は触れない。肩も触れない。それでも、横を向けばすぐに見える距離だった。
「さっきの、そんなに気になったのか」
何の話か、すぐにわかった。
「ああ」
「ただの職場の冗談だよ」
「わかっている」
「わかってる顔じゃなかったぞ」
彼は笑わなかった。自分も、笑えなかった。
「君が、いつか誰かのところへ行くのかと思った」
言ってから、自分で驚いた。
言葉がまっすぐすぎた。だが、出てしまったものは戻らなかった。
クロードは足を止めなかった。ただ歩幅をゆるめ、前を向いたまま言葉を途切らせる。川沿いを吹き抜ける風に、こげ茶の髪が揺れている。
「それは」
言いかけて、そっと口をつぐむ。
ひとつ息を吸い込んでから、彼はべつの言葉を探り当てた。
「誰でも、そういうことはあるだろ」
正しい。正しすぎる答えだった。
誰でも、そういうことはある。クロードにもある。自分にもある。誰かと出会って、関係が変わって、いまあるものが続かなくなること。ずっと同じ場所にいられるわけではない。
わかっている。
だから苦しかった。
「そうか」
「ベレト」
「うん」
「急にどうした」
急にではない。たぶん、ずっとこうだった。
クロードと食事をして、喫茶店へ行って、遠出をして、また行けると言われて、そのたびに少しずつ何かを受け取っていた。長くなっても大丈夫だと言われて、忙しいものを片づけたと言われて、俺があんたと飯を食いたいと言われて、遠出するのも俺の都合だと言われて。
それを、ひとつずつ覚えていた。覚えているだけでよかった。
でも、誰かがクロードを連れてゆくかもしれないと思ったら、覚えているだけでは足りなくなった。
「わからない」
そう言うと、彼は困ったように息を吐いた。
「わからないのに、ずいぶん重いこと言うな」
「すまない」
「謝れって言ってるんじゃない」
クロードは歩道の端で足を止めた。
こちらを見る。
街灯の光が、彼の目元にかかっていた。やわらかく見える顔なのに、その奥に苦いものがある。いつもそうだった。人前では笑い方ひとつ選んでいるのに、ふとしたとき、見せたくないものの端が出る。
それを見るたびに、もっと知りたいと思っていたのかもしれない。もっと近くにいたいと思っていたのかもしれない。
「君が、誰かのところへ行くのは嫌だと思った」
今度は、言っても驚かなかった。
言葉は重かった。たぶん、かなり重い。けれど、もう戻れなかった。
クロードは黙った。すぐに軽くしなかった。冗談にもしなかった。その沈黙で、怖くなる。
「結婚したいのかと聞いたとき、君は否定しなかった。それが、苦しかった。君がその場を丸く収めただけだとわかっていても、あとで考えたら、嫌だった」
「わかってるなら、」
「でも、嫌だった」
クロードの口元が、かすかに動いた。笑いではなかった。
自分は続けた。
「自分は、婚活をやめた。結婚のことを忘れたわけではない。でも、いまは、前と同じようには考えられない。でも、君とは続けたい」
言いながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。熱というより、奥から押し上げられて、口を閉じているほうが苦しくなるものだった。言葉にしているのに、まだ足りない。
「食事も、遠出も、話すことも、続けたい。君が自分のところへ来てくれるのがうれしい。自分も、君のいるところへ行きたい」
クロードは、こちらを見ていた。
見ているのに、捕まえられている感じはしない。いつもそうだった。こちらが言葉を出す場所を、ちゃんと残してくれる。
だから、言えた。
「君が、どこにも行かない約束がほしい」
言った瞬間、さすがに重すぎたと思った。
だが、嘘ではなかった。
籍を入れるとか、そういうことをすぐに考えたわけではない。いや、一瞬は考えた。クロードと結婚できるのか、と。できるのかどうかもわからない。そもそもクロードが何を望むかもわからない。自分が望むかたちを、相手に押し付けていいわけがない。
それでも、欲しかった。終わらないかたちが。終わらせないための、何かが。
クロードはしばらく黙っていた。
川沿いの道を、人が何人か通り過ぎる。会話の端が風に流れて、すぐに消える。車の音が遠くで聞こえる。
その間、自分はクロードの顔を見ていた。
彼は逃げなかった。かといって、すぐに受け取ることもしなかった。
やがて、彼はゆっくり息を吐いた。
「……あんたさ」
「うん」
「自分で思ってるより、だいぶ重いぞ」
「わかっている」
「いや、たぶんわかってない」
クロードは自嘲するように笑った。苦い笑いだった。
「約束って、簡単に言うなよ」
「簡単に言っていない」
「じゃあ、なおさらだ」
その通りだった。
約束は簡単ではない。人を縛る。未来を決める。差し出せないものまで差し出すように見えることがある。だから、軽く求めるべきではない。
それでも、欲しい。
自分の中で、その両方が同じ場所にあった。
「君が望まないかたちを、求めたいわけではない。だが、自分は、何もないまま続けるのが怖い」
クロードの目がかすかに翳った。
その顔を見て、言いすぎたのだと思った。相手が持てる量。何度も言われた。全部そこで渡すな。重すぎるものを、一度に出すな。
自分は、いま全部を渡そうとしている。
それでも止まれなかった。
「君がどこかへ行くかもしれないと思ったら、嫌だった」
「……それは、さっき聞いた」
「すまない」
「謝るな」
クロードは眉間に皺を寄せた。怒っているようにも見えた。困っているようにも見えた。けれど、拒絶ではなかった。
「今日はここまでにしよう」
彼が言った。胸が冷えた。
「傷つけてしまったか」
「違う」
返事は早かった。
「傷ついたとか、そういうのじゃない。ここで全部決める話じゃないだろ」
「うん」
「俺も、ちゃんと考えたい。その時間が欲しい」
その言葉で、冷えて固まったものが溶けてゆく。
断られたわけではない。受け取られたわけでもない。だが、軽く流されなかった。冗談にもされなかった。考えると言われた。
「わかった」
「ほんとにわかってるか?」
「わかろうとしている」
「それ、わかってないやつの返事だろ」
クロードはようやく笑った。
いつもの言葉だった。それなのに、いつもよりずっと遠く聞こえた。
駅まで、並んで歩いた。会話は少なかった。クロードは途中で一度だけ、寒くないかと聞いた。寒くないと答えると、それ以上は聞かなかった。
改札の前で、彼は足を止めた。
「帰ったら寝ろ」
「うん」
「あと、今日は長文を送るなよ」
「……送ると思うか」
「思う」
「送らないようにする」
「それでいい」
クロードはわずかに迷ったように見えた。それから、結局いつものように軽く手を上げた。
「また連絡する」
「ああ」
その言葉だけを持って、改札を通った。
今日は何も決まらなかった。でも、何もなかったことにもならなかった。
もう止まれないところまで来ているのだと、ようやくわかった。
数日後、クロードから連絡が来た。
この前のこと、話したい。
会えるか。
画面を見た瞬間、指が動いていた。
会える。
いつでもいい。
送ってから、反応が早すぎたかもしれないと焦ったが、取り消す前に既読がついた。返事はすぐに来た。
いつでもいいは困る。じゃあ金曜。
金曜で大丈夫、と返す。
店は送る。
長くなるかもしれないから、先に飯にする。
その文を読んで、指先に力がこもった。
クロードは、逃げるつもりがないのだと思った。
金曜の夜、指定された店へ向かう道で、何度も画面を見た。時間も、場所も、もうわかっている。見直す必要はない。それでも、あの短い文がまだそこにあることを確かめたくなった。
長くなることを、彼は避けなかった。むしろ、そうなるものとして段取りをつけた。食事をして、そのあと話す。途中で逃げるつもりなら、こんな言い方はしない。
店に着くと、クロードは席についていた。こちらに気づくと、いつものように片手を上げる。
笑い方だけがいつもより控えめだった。軽くしすぎないようにしているのだと思った。
席につくと、メニューがこちらへ向けられる。
「先に食うぞ」
「ああ」
それだけだった。
クロードは店の話をした。ここの肉はうまい、ただ今日は軽めのも頼んでおく、話す前に腹を重くしすぎるのもよくない。そう言いながら、いつものように注文を選んだ。気遣いで言葉の数を増やしているのがわかった。話そのものに触れないためではなく、話すところまでちゃんと連れてゆくための時間だった。
料理は美味しかった。
それでも、箸を動かしながら、ときどき彼の顔を見てしまう。彼はそれに気づいても、何を見ているのかとは聞かなかった。水を飲み、皿をこちらへ寄せ、食べやすいものを残してくれる。
そういう仕草のひとつひとつを、もう知っている。
知らないころには戻れない。
食事が終わっても、クロードはすぐには立たなかった。水を飲み、伝票へ手を伸ばす前に、一度こちらを見た。
行くぞ、と言われた気がした。
自分はうなずいた。彼は短く息を吐いて、ようやく伝票を取る。行き先は聞かなかった。どうせ自分はついてゆくし、彼もそれをわかっている。
店を出て、少し歩いたところにある喫茶店へ入った。
遅い時間まで開いている店だった。壁際の席に通され、クロードはコーヒーを、自分は紅茶を頼んだ。何度も同じことをしている。けれど、今日は同じではなかった。
カップが置かれ、店員が離れる。
クロードは言葉を発しない。指先でカップの持ち手をなぞるだけで、口元へ運ぼうとはしない。ただ、まっすぐに考えている顔だ。目を逸らそうとしているのではなく、どこから語るべきかを選び取ろうとしている。
「この前の話、考えた」
やがて、彼が口を開いた。
「あんたが望むかたちを、俺が全部差し出せるかはわからない。いや、はっきり言うと、無理だと思う」
声は落ち着いていた。落ち着いていたから、かえって逃げ場がなかった。
「籍とか、誰かに見せられるかたちとか、そういうものも含めてな」
わかっていた。いや、わかっていたはずだった。約束は簡単ではない。かたちを求めることは、相手の未来に触れること。彼が何を背負い、何を選べるのか、自分にはまだすべてを把握できていない。
そんな状態で、自分は欲しいと言ったし、彼はそれを軽く扱わなかった。
「でも」
クロードが、こちらを見る。
「それでもいいなら、俺もあんたが好きだ」
息が止まった。
好きだ、と言われた。
聞き間違いようのない言葉だった。冗談ではなく、その場を取り繕うためでもなく、逃げ道を作るためでもなかった。
彼が視線を落とす。まつ毛の影が頬に落ちて、照れたようにも、覚悟したようにも見えた。
何かを返すべきだった。
自分も好きだ、と言えばよかったのかもしれない。ありがとう、でも違う。わかった、では足りない。うれしい、はほんとうだが、その前にべつのものが口から出た。
「指輪は、ほしい」
彼の動きが止まった。
「……早いだろ」
「そうだろうか」
「そうだろうか、じゃない。早いだろ」
「でも、ほしい」
クロードは片手で口元を覆った。怒ってはいなかった。驚いている。困っている。けれど、嫌がっている顔ではなかった。
「いまの流れで出るか、それが」
「あとで出すのはずるいと思った」
「フェアではあるけどさ」
「……指輪も、嫌なのか」
彼は少し黙った。それから、視線を横へ流す。
「嫌とは言ってない」
たまらない気持ちになった。まだそこに置いてよいのだと思った。
「君が望まないなら、無理には求めない」
「そういう言い方するなよ。俺が悪いみたいになる」
「君が悪いとは思っていない」
「わかってるよ」
ようやく、彼が口元をゆるめた。困った笑いだったが、さっきよりずっとやわらかかった。
「どうせあんた、そういうのわからないだろ」
「指輪の話か」
「指輪も、こういう話の進め方も」
「わからないことは多い」
「開き直るなよ」
それでも彼は笑っていた。
「じゃあさ、俺に似合いそうなの、調べといてくれよ」
クロードはカップを持ち上げずに、こちらを見ていた。
「あんたがこれだっていうのを見つけるころには、俺も決心つくはずだから」
すぐには返事ができなかった。
指輪がほしいと言ったのは自分だ。けれど、クロードはそれをただ受け流さなかった。早いと言った。重いとも思ったはずだ。それでも、探しておけと言った。自分に似合うものを調べておけと。
それは、答えを先延ばしにする言葉ではなかった。
猶予で、宿題で、たぶん約束だった。
「調べる」
「本気かよ」
「君が言った」
「言ったけどさ」
「君に似合うものを探す」
彼は額に手を当てた。
「重いな」
そう言いながらも、彼は笑った。
その笑い方を見て、息が楽になった。きれいに終わるなら、ここでよかったのかもしれない。好きだと言ってもらえて、指輪の話をして、探すものまで渡された。
物語なら、ここでじゅうぶんだった。
だが、自分にはまだ聞きたいことがあった。
「君に、確認したいことがある」
クロードが身構える。
「……まだ何かあるのかよ」
「ある」
「いいけどさ」
「君は、自分のどこをいいと思ってくれたんだ」
クロードは一度黙った。それから、口元だけで笑った。
「面接かよ」
「ほかにいい聞き方がわからない」
「だろうな」
彼はようやくカップを持ち上げた。ひと口飲んでから、考える。ごまかすような沈黙ではなく、どこから言うかを選んでいる顔だった。
「そうだな。ちゃんと考えすぎるところ。長いところ。相手に失礼がないように、ばかみたいに真面目になるところ。言葉は少ないくせに、文章だと全部出てくるところ」
「長いのは、いいところなのか」
「俺にはな」
そう言われて、何も返せなくなった。
「あと、美味いものを美味いって言えるところ」
「それは普通だと思う」
「普通じゃない奴もいるんだよ」
彼は楽しそうだった。
面接のようだと言いながら、ちゃんと答えてくれる。答えることを面倒がっていない。むしろ、ひとつずつ選ぶのを楽しんでいるようだった。
「覚えたいことは覚えるって言ったところも、けっこう残ってる」
「あれは、ほんとうのことだ」
「だから残ってるんだろ」
彼の声はどこまでも穏やかだった。
「俺と出かけることを、趣味に数えようとしたところも」
「それは、だめだと言われた」
「プロフィールに書くのはだめだって言ったんだよ。俺は、うれしかった。……あとは、俺とのことを続けたいって、言ったところも」
うれしくても胸が苦しくなるのだと、このとき初めて知った。
クロードはカップから手を離し、今度はこちらを見た。楽しそうに、両手で頬杖をつく。さっきまで真面目に言葉を選んでいた人と同じ顔なのに、いまはどこか余裕があった。
「じゃあ、俺も聞いていいか」
「うん」
「あんたは、俺のどこがいいと思ってくれたわけ」
すぐには答えられなかった。
言葉はあった。ありすぎた。店を選ぶのが上手なところ。長い文を長いと言いながら最後まで読むところ。見すぎず、逸らしすぎないところ。遠くからでも、彼だとわかる顔。ときどき悪そうに笑うところ。そのくせ穏やかな声で話しかけてくるところ。
「……長くなるが、それでもよければ」
そう言うと、彼が笑った。
「そういうのは、長ければ長いほどいい」
それは、ずるいと思った。
ずっと長いと言われてきた。削れと言われた。相手が持てる量にしろと言われた。けれど、いまは長くていいと言われている。
だから、言葉をひとつずつ手渡した。
「君は、急かさない」
クロードは頬杖をついたまま、黙って聞いていた。
「見ているのに、見張っている感じがしない。近くにいても、近づきすぎない。車の中でも、店でも、歩いているときも」
彼の顔から、笑みが薄れた。
「行き先を持っているのに、こちらを置いていかない。自分が黙っても、待ってくれる。言葉が多すぎるときは削るけれど、考えたこと自体は捨てないでいてくれる」
言いながら、ひとつずつ思い出していた。
画面を覗き込むために隣へ移ったときの距離。食事のあとに喫茶店へ行くかと聞かれたこと。帰ると言えば帰してくれること。遠出の車の中で、黙っていてもよかったこと。美味しいと言ったとき、クロードが得意げにすること。
「それから」
口にしてから、数秒ほど喉が詰まる。
「君なら、近くにいても嫌ではない」
クロードが瞬きを二回した。
自分も、言ってから意味に気づいた。これは、前に彼が言ったことだった。近くにいて不快ではないか。触れたいと思えるか。そういう話を、彼は言いづらそうにしていた。
いま、自分はそれを彼に向けて言った。
「……あんたさ」
クロードの声が、低くなった。
「それ、いまここで言う?」
「言ってはいけなかったか」
「いけなくはない、が」
クロードが頬杖を崩し、片手で口元を覆う。指の隙間から見える耳のあたりに、朱が差していた。それを見て、自分も遅れて顔が熱くなった。
「すまない」
「謝るな」
「だが」
「いい。いいけど、急にそういうのを混ぜるな」
「どこまでが混ぜてはいけない話か、まだわからない」
「そこからかよ」
クロードは困ったように笑った。
その顔を見て、やっぱり好きだと思った。
言葉はもう渡した。約束も、欲しいものも、足りないかもしれないものも、ずいぶん出した。それでも、まだ言えることがあった。
見せたくないものが多いぶん、見せるものを整えているところ。波風を立てないように上手に笑うところ。遠くへ連れ出すときに、自分の都合だと言ってくれたところ。
「まだある」
そう言うと、クロードは穏やかに目を細めた。
「続けてくれ」
長くてもよいと言ったのは、彼のほうだった。