無双(黄燎)軸で、近すぎず遠すぎずなふたりの話が3篇。
@Bombwooo
1.
辛うじて勝った、という言い方がいちばん近かった。
敵を退けたあとも、あたりにはまだ血と土のにおいが残っていた。折れた槍の柄や、踏み荒らされた草のあいだを、手当てのために走る兵たちが行き交っている。喧噪は遠くない。それでも、クロードのいるあたりだけ、妙に音が薄かった。
肩口から腕にかけて裂けたところが、じくじくと痛んだ。深手ではない。すぐに倒れるような傷でもない。ただ、血を流したぶんだけ、身体が鈍い。立たなければと思うのに、膝にうまく力が入らない。
立ったあとで何をするべきかはわかっているはずなのに、その最初のひとつがどうしても決まらなかった。
クロードはその場に座り込んだまま、膝に片腕を乗せて息をつく。血で汚れた指先が、乾きかけた土を浅く掻いた。立つつもりで指に力を込めても、それだけだった。
そのとき、目の前に影が落ちた。
見上げると、ベレトが立っていた。彼の手もまた、血と泥に濡れている。服の裾にも剣にも、ついさっきまで戦場にいたことがそのまま残っていた。きれいな顔ではなかったし、差し出された手もまた、きれいではなかった。
それでも、その手はそこにあった。黙ったまま、ただ差し出されている。
クロードはしばらくそれを見ていた。
何か言うべきかと思ったが、言葉にするほどのことでもない気がした。礼でも、軽口でも、いまはどれも少しだけ外れている。だから何も言わず、ただ手を伸ばした。
そのまま引かれて立ち上がる。というより、ほとんど立たされたに近かった。膝がわずかに軋み、遅れてようやく足の裏に力が戻る。まだ立てるのだと、そのとき初めて知る。
クロードが立ち上がったのを確かめると、ベレトは手を離した。言葉はなかったが、突き放すわけでもなく、ただ離しただけだとわかる手つきだった。
血と泥に濡れた指先が、目の前でわずかに動く。
少し先では、負傷者を運ぶ声がしていた。折れた槍の柄が土に半ば埋まり、踏み荒らされた草の上を、兵たちがせわしなく行き交っている。遠かったものが、ようやくひとつずつ戻ってくる。
ベレトはもう次を見ていた。クロードも、その視線の先を追う。
何か言うほどのことでもない気がして、結局何も言わなかった。
2.
横合いから踏み込んできた兵の喉を断ち、そのまま次へ出ようとしたところで、死角にいた敵の足が崩れた。膝を射抜かれていた。わずかに開いたその隙間へ剣を差し込み、返す刃でふたり目を斬り伏せる。
そうして、こちらへ届く矢は三度目だった。
振り返らずとも、誰の矢かはわかった。
少し離れた場所で、クロードが次の矢をつがえている。こちらを見ていたのではなく、戦場全体を見ていたのだろう。実際、彼の目はもう別の場所を追っている。いまの一射が偶然ベレトを通しただけだと言われれば、おそらくそうなのだろう。
そのあとも、似たことが二度あった。
踏み込もうとした先で相手がずれる。届くはずの刃がぶれる。それがほんのわずかに狂っただけで、剣はじゅうぶんに通る。こちらが斬り伏せるための隙が、必要なぶんだけ残される。
怪我はない。足も鈍っていない。剣もまだ重くない。
ただ、こうして前へ出られていることが、自分ひとりの力ではないのだと思い知らされる。
ベレトは息をひとつ整える。先ほどよりも深く踏み込める気がした。期待に応える、というほど大仰なものではない。ただ、あれだけ道を通されておいて、鈍い剣筋は返したくなかった。
次の敵が来る。
槍をひとついなし、懐へ入る。振りぬいた刃で脇腹を裂き、よろめいたところへ肘を打ち込んで沈める。すぐ横で弦の鳴る音がした。またひとり、こちらへ近づく前に足を止めている。
今度はほんの一瞬だけ、そちらを見た。
クロードはやはりこちらを見ていなかった。いや、見ていたのかもしれないが、そうとはわからない顔で、すでに次の矢を抜いていた。
ベレトは剣を構え直す。まだ剣を振るえることを確かめると、そのまま地を蹴った。
3.
机の上には、幾度も置き直された駒と、書き込みの増えた地図が広がっていた。
勝てない布陣ではない。だが、楽に勝てるとも言いがたい。兵の消耗を抑えようとすれば押し返す力が足りなくなる。押し込むには人数が足りず、守りに寄せれば長引く。その長さに耐えきれるほど、連邦国軍の余力もなかった。
クロードは駒をひとつ動かし、そこで手を止めた。
向かい側から地図を見下ろすベレトは何度も口を開き、そのたびにこちらの置いた前提を少しずつ崩してくる。言い方そのものはぶっきらぼうでも何でもない。ただ、遠慮がない。こちらが通したい筋より先に、綻ぶ箇所へ目が行くのだろう。兵站の遅れ、地形の不利、伏兵を置く余地、退路の細さ。そういうところを、順に拾っては置いてゆく。
その指摘のいくつかは、正直に言えば乱暴だった。
いや、乱暴というよりは前提としている精度が高すぎる。彼ひとりなら成立する動きでも、同じことをそのまま兵へ求めれば綻ぶ。踏み込みの深さも、引き際の見切りも、何もかも。
そこまでできるなら苦労しない、と喉元まで出かかった言葉を、クロードは飲み込んだ。
飲み込んだのは、反論する価値がないからではない。実際、そのままでは使えない案もある。だが、使えないことと、見えているものが間違っていることはまたべつだった。ベレトは、兵では届かないところまで見たうえで、そこから逆算している。ただ、その元となる基準が高すぎるだけだ。
地図の上に落ちた彼の指が、細い道筋をなぞる。そこを起点にするなら、こちらの分隊は少し引きすぎだ、と言っているのだとわかった。言葉にしなくても、彼がどこを動かしたいのかはだいたいわかった。
クロードは駒を戻し、べつの位置へ置き直した。
それでもなお、足りないところは残る。
兵を守りたい。消耗もしたくない。だが、そうして守りに寄せたぶんだけ、誰かが前へ出なければならない。ベレトはおそらく、その誰かを自分で引き受ける気でいる。そのことがわかるからこそ、なおさら任せきりにはしたくなかった。
しばらくのあいだ、駒の触れ合う乾いた音だけが続いた。
同じ地図を見ているはずなのに、少しずつ噛み合わない。こちらは全体の持久を考え、ベレトはいま切るべき綻びを先に見る。そのずれを埋めるように、クロードは何度も駒を置き直し、ベレトもまた何度も見直す。
それでも、不思議と話は途切れなかった。噛み合わないまま押し通すことを、どちらもよしとはしなかった。違うと思えば止めるし、通ると思えば呑む。その繰り返しで、少しずつ線が揃ってゆく。
クロードがひとつ案を置き、そこへ残る穴をベレトが指摘する。
ベレトが深く入りすぎる案を出し、それをクロードが兵の動きへ引き戻す。
その行き来の末に、ようやくひとつ、かたちになりかけた配置が残った。
ベレトの指が、中央の道を示した。ここを起点に押し上げるなら、左右の寄せがまだ甘い、ということなのだろう。
クロードはそのまま駒をひとつずらした。中央を起点にするのではなく、その手前で一度受けるかたちへ変える。敵の勢いを正面から折るのではなく、横へ流そうとする配置だった。
ベレトは黙って地図を見た。視線が駒のあいだをゆっくり移る。ひとつ、ふたつ、確かめるように見てから、ほんのわずかにうなずいた。
「君がそう言うのなら」
それだけだった。
押しつけるでもなく、譲ったという顔でもない。ただ、ほんとうにそれで繋がると思ったから、そこへ置いた声だった。
クロードはその言葉を聞いて、口もとがわずかにゆるむのを感じた。
安堵ではない。可笑しいわけでもない。ただ、同じところへ向かっているのだと、そこでようやく手ざわりとしてわかった。自分ひとりで考えているときには見えにくかった筋が、いまははっきり残っている。その心強さが、わずかにかたちをこぼしただけだった。
ベレトはもう次の確認へ移っている。こちらの表情など見ていないのか、見てもそのまま流したのか、そのあたりはよくわからない。
クロードは指先で駒をひとつ押し、置きどころを決めた。
地図の上の線は、ようやくひとつの場所へ収まりつつあった。