本編軸(翠風)で、士官学校時代のふたり。見られたくないものの扱いが下手なクロードの話。
@Bombwooo
最初は、あくびだった。
起き抜けで、まだ頭が鈍いまま廊下を歩いていた。人の気配がないのをいいことに、ふっと気を抜いた瞬間、口元を押さえるのが一拍遅れた。それだけのことだった。疲れていればあくびくらい出る。誰に見られたところで、困ることでもない。そう思っていたはずなのに、顔を上げた先にベレトが立っているのを見た途端、クロードはばつが悪くなった。
向こうはただ立ち止まり、こちらを見ているだけだった。何も言わない。何も言わないまま、軽く会釈するようにして通り過ぎてゆく。たったそれだけのことなのに、クロードはしばらくその場を動けなかった。
その程度のこと、と片づけてしまえば済んだ。実際、そのときはそう思った。
けれど、似たようなことがそのあとも続いた。
机に向かったまま、ほんの少し目を閉じていたところを見られる。洗い場で袖を濡らしたところを見られる。いたずらがばれて叱られているところを見られる。どれも大したことではない。眠そうな顔も、濡れた袖も、反省していない立ち姿も、ほかの誰に見られたってべつに困らないはずだった。なのに、ベレトに見られると、居心地の悪さだけが残る。
部屋で薬品をこぼしたときもそうだった。
寝台の端に置いていた瓶が倒れ、薄い色の液が敷布へ広がった。まずいと思って本をまとめて床へ下ろし、染み込んだ薬品ごと敷布を回収しようとしたが、急いだせいでかえって散らかった。床には寝台から下ろした本が積まれ、足の踏み場も少ない。薬品のにおいはきつく、寝台にはまだらな染みが広がっている。
気配に顔を上げると、開け放しにした扉の向こうにベレトが立っていた。静かな目が床の本の山と濡れた寝台を順に見て、それからクロードへ戻る。
最悪だった。
こぼしたところだけならまだしも、慌てて本を下ろしたことも、布の扱いが雑なところも、足の置き場すらなくしていることも、何もかもまとめて見られた気がした。そのどうしようもなさに、腹が立つ。
「拭くものを持ってこようか」
ごく普通の調子でそう言われて、クロードはすぐに首を振った。
「いらない。自分でやる」
少しきつい言い方になったのは、自分でもわかった。だが、言い直すにも遅かった。ベレトは一瞬だけ黙り、それ以上は何も言わなかった。気を悪くした様子もなく、ただ、さっと引いた。
扉の向こうの気配が遠ざかって、それで終わった。
終わったはずなのに、妙に後味が悪い。
助けを断ったことより、彼からの申し出を断るに至るまでを見られた気がするのが嫌だった。押し返したのはこちらのはずなのに、守ったと思ったはずなのに、うまく片づいた感じがしない。
見られたくないときに限って、この人がいる。
最初はそう思っていた。
けれど何度か重なるうちに、それも少し違う気がしてきた。他の相手なら、ここまでいちいち引っかからない。眠そうな顔も、濡れた袖も、散らかった部屋も、べつに誰に見られてもいいはずのものだった。
そうではなく、ベレトに見せたくないのだと、ようやく気づいた。
だが、その先まで分けて考えるのはやめた。ただ見せたくないだけ。そう考えると、少しばかり腹に落ちた。
その日の夜、外から戻ってきたところで、またやった。今度は水差しをひっくり返して、袖から肩口までしっかり濡らした。疲れているせいだと言い訳したくなるくらいには、見事に濡れた。
しかも、その直後にベレトが来た。
ノックの音に返事をした時点で遅かった。扉が開き、立っていたベレトの目が、まず濡れた袖に落ち、それから床の水へ移る。
何か言うより先に、また見られた、と思った。どうでもいい失敗のはずなのに、そのどうでもよさがかえって逃げ場をなくす。笑い飛ばすには余裕がないし、隠すには派手すぎる。
彼は黙っていた。
その沈黙のあとで出てきたのは、呆れた声でも、咎める言葉でもなかった。
「そのままだと風邪を引く。着替えたほうがいい」
そこまで言われて、クロードは返事に詰まった。
みっともないところを見られた、それだけならまだましだった。だが、心配までされると、もう置き場がない。腹を立てるのも違う。追い返すのも違う。礼を言うのはもっと違う気がする。
何でもない顔をしたかった。軽口のひとつでも返したかった。けれど、うまい隠し方がわからない。
わかった、とひと言返せば、それで済むはずだった。そういう話なのだと、頭ではわかる。だが、そのたったひと言に行き着くまでが遠かった。