ベレトス双子設定で、レト→クロ→レスが前提で、ベレスに失恋したクロードがベレトに慰めてもらう話。 クロード視点。
『不在の証明』と大筋は同じで序盤はほぼ同じ。途中から別の話になりますが、ハッピーエンドです。
こちらもいつも以上に自分向けに書いたものなので、苦めです。
@Bombwooo
勝手に失恋した、と言えば、ずいぶん格好のつかない話になる。
けれど実際のところ、それ以上にふさわしい言い方もなかった。思いを告げたわけでも、断られたわけでもない。ただ、こちらが勝手に期待して、勝手に見込みを数えて、勝手にそれがだめになるところまで聞いてしまっただけだ。
ベレスの部屋の台所で、俺は他人の失恋話を聞くみたいな顔をして、自分の失恋を聞いていた。
「ベレスって、クロードとはそういうの、ないの?」
誰かが、悪気のない声でそう聞いた。
俺はシンクの前で、洗い終えたグラスを拭いていた。水気を取ったばかりの薄いガラスが、指先で少しだけ滑る。
「ないよ」
ベレスはいつものように笑って、濡れた皿を布巾で拭いていた。
「クロードとは、そういうので関係壊したくないし」
それは、正しくてやさしい言い方だった。俺を軽く見ているわけでも、遠ざけているわけでもない。むしろ大事にしているからこその線引きで、だからこそ、文句のつけようがなかった。
「おいおい、本人を前にしてそういうこと言うか?」
俺は笑って振り向いた。たぶん、うまく笑えていたと思う。
ベレスは、ごめん、と眉を下げた。けれどその顔には、こちらを傷つけたという自覚まではない。ただ、話題にするには雑だったかもしれない、という程度の申し訳なさだった。実際、それで正しい。俺は何も言っていなかったし、彼女は何も断っていない。
だから俺も、いつもの調子で肩をすくめた。
「ま、光栄だね。関係を壊したくない相手に数えてもらえてるなら」
そう返して、またグラスを拭いた。
場は壊れなかった。誰かが別の話題を出し、酒の残りが片づけられ、ベレスはいつものように笑っていた。俺も最後までそれなりに手伝って、それなりに軽口を叩いて、玄関先でいつものように手を振って部屋を出た。
そこまでは、うまくやれたと思う。
問題は、そのあとだった。
夜道をひとりで歩き始めた途端、遅れて嫌な重さが落ちてきた。駅へ向かう道は覚えているはずなのに、足取りだけがやけに頼りない。泣きたいわけじゃない。怒っているわけでもない。そもそも怒る筋合いなんて、どこにもない。ただ、どうしようもなくみじめだった。
スマートフォンを取り出して、連絡先を開く。ベレスに何かを言うつもりはなかった。そんなことをすれば、今夜の会話がほんとうに意味を持ってしまう。あの人は何も悪くない。俺が勝手に傷ついただけだ。
だから、代わりに双子の弟の名前を探した。
最低だと我ながら思う。
顔は正直、いまは見たくなかった。あまりにも似すぎている。だがベレトなら黙って聞いてくれるはずだった。
何かを急かすことも、安っぽい慰めの言葉を探しては相手の心を逆撫でするような真似も、たぶんしない。それがやさしさなのか、単に口数が少ないだけなのかはわからないが、いまの俺には、どちらでもよかった。
まだ起きてるか?
送ってから、すぐに既読がついた。
起きている。
いまから飲める?
自分は飲まない。
知ってる。付き合ってくれって意味。
少しだけ間があった。
近くに二十四時間営業の店がある。
外はいやだ。
なぜだ。
いまは、知らない奴に顔を見られたくない。
送ってから、ずいぶん甘えたことを言っていると気づいた。けれど取り消す前に、指が次の言葉を打っていた。
あんたの部屋に行ってもいいか。
返事は、すぐには来なかった。
たった数秒の沈黙で、自分がどれだけ身勝手なことを言っているのか、嫌になるほど思い知らされる。
構わない。
短い返事を見た瞬間、胸のあたりが少し楽になった。
楽になってしまったことが、また嫌だった。
続けて、もう一通届く。
迎えに行こうか。
そんなやさしいことを言うなよ、と思った。いまさら、そんなふうに扱われたら困る。
いいよ。道なら覚えてるし、こんな夜遅くに出歩くと危ない。
夜遅くに自分のところへ来るのはいいのか。
それはいいんだよ。
何がいいのか、自分でもよくわからなかった。けれど、そう返すしかなかった。
なんか買ってく。
わかった、待ってる。気をつけて。
気をつけて。たったそれだけの言葉が、思ったより深いところへ落ちた。
タクシーを捕まえて、ベレトが住むマンションの近くまで向かう。車窓の外を流れてゆく夜の街を見ながら、俺はずっとスマートフォンを握っていた。やっぱりやめる、と送ることもできた。適当な店に入って、ひとりで飲み潰れることもできた。俺は、そのどちらもしなかった。
マンションの近くで降りると、夜の空気は思ったより冷えていた。
角を曲がった先のコンビニに入る。冷蔵棚の前に立ち、度数の高い缶をいくつかカゴへ落としたところで、ふと手が止まった。こんなものを持っていったら、ベレトは何か言うかもしれない。君は飲みすぎる、とか、今日はそれをやめろ、とか。そういう顔が容易に浮かんで、少しだけ腹が立った。
それでも、缶は戻さなかった。
代わりのようにペットボトルのお茶を入れて、適当につまめるものをいくつか足す。会計を済ませて袋を受け取ると、酒の重さがやけに手に残った。自分で選んだものなのに、持たされているみたいだった。
マンションの入口で部屋番号を押す。指先が、思ったよりこわばっていた。何を緊張することがあるのか、自分でもよくわからない。呼び出し音が一度鳴って、二度目が鳴る前に、落ち着いた声が返ってきた。
「どうぞ」
きっと何かは察しているのだとは思う。それでも彼の声はいつも通りだった。
エレベーターに乗り、廊下を歩いて、もう一度チャイムを鳴らす。少しして扉が開いた。
ベレトは部屋着姿で、髪も少し乱れていた。眠っていたわけではないのだろうが、目元にわずかな眠気が浮かんでいる。
その顔を見た瞬間、胸の中に苦いものが広がった。
やっぱり似てるな、と思った。
だが次の瞬間には、全然違うとも思う。視線の動かし方も、口を引き結ぶ癖も、こっちを黙って見てくる間の取り方も、何から何まで別物だ。
俺は、ここまで来ていったい何を確かめたかったんだろう。そんなことを考えたせいで、来るんじゃなかった、という後悔が遅れて喉元までせり上がってきた。
「入って」
ベレトはそれだけ言って、扉を大きく開けた。
促されるまま部屋へ足を踏み入れると、まず、何もない部屋だな、という感想が浮かんだ。
必要な家具はある。低いテーブルと、ひとり用のソファ。壁際の棚に数冊の本と、きちんと畳まれた膝掛け。台所の流しには洗い残しの食器ひとつなく、床にも余計なものは落ちていない。片づいているというより、そもそも散らかるほど物がないのだろう。
ずいぶん彼らしい部屋だった。
自分の生活に執着がなさそうで、けれど投げやりというほど荒れてもいない。必要なものを必要な場所に置いて、それ以外は持たない。そんな部屋だった。
ただ、棚の上にだけ、小さな置物やら、古い写真立てやら、どういう用途かわからない土産物のようなものがいくつか並んでいた。どれも妙に大事そうに、埃ひとつかぶらず置かれている。
「何もない部屋だな」
「必要なものはある」
「そうかね。……じゃあ、あれも必要なもの?」
棚の上を顎で示すと、ベレトは一度そちらへ目をやった。
「もらったものだ」
「誰に」
「ベレス」
自分で聞いておきながら、胸のあたりが少しだけ痛んだ。
まったく、どうしようもない。わざわざ自分から傷つきにいくなんて、趣味が悪いにもほどがある。
「へえ。あんた、物に執着なさそうなのにな」
「自分で買ったものには、あまりない」
「もらったものにはあるのか」
ベレトは少し考えるように、棚の上へ視線を戻した。
「ある。捨てられないとも思う」
「……捨てられない?」
「もらったとき、うれしかったから」
それだけを、ひどく当たり前のことみたいに言う。
贈った相手がどういうつもりだったのかとか、それが高いものなのか安いものなのかとか、この男にとっては大した問題ではないのだろう。ただ、受け取ったときにうれしかった。その気持ちごと、そこに置いてある。
「……らしいな」
「そうだろうか」
「そうだよ」
言ってから、喉が詰まった。
そういうところだよ。そう続けそうになって、やめた。今夜の俺がそれを口にすると、たぶんろくな意味にならない。
ベレトは何も聞かなかった。
俺がコンビニの袋をテーブルに置いても、袋の中から度数の高い缶がいくつも覗いているのを見ても、ただ一度だけ視線を落としたきりだった。いつもなら、君はそんなに飲むのか、とか、身体に悪い、とか、遠慮なく言ってきそうなものなのに。
今夜に限って、やけに静かだった。
その静けさが、思ったより深く身に沁みる。
「言わないんだな」
「何を」
「飲みすぎるな、とか」
「言ってほしいのか」
「……べつに」
返事を濁して、俺は缶の一本を手に取った。開け口に指をかけると、薄い金属の音がやけに大きく響いた。
ベレトは台所へ行き、グラスと、さっき俺が買ったお茶を持って戻ってきた。酒ではなく、お茶を俺の前に置く。責めるでも、取り上げるでもなく、ただそこに置く。
「さっきまでさ、ベレスの部屋にいたんだよ」
自分でも驚くほど、何でもない声が出た。
彼は向かいに座ったまま、少しも表情を変えなかった。
「知っている」
「……知ってたのか」
「ベレスから、人が来るとは聞いていた」
「そこじゃなくてさ」
言ってから、缶を傾けた。強い酒の味が喉を灼いて、ようやくいつもの感覚が戻ってくる。
彼は急かさなかった。
いつもは妙なところでずかずか踏み込んでくるくせに、今夜だけは、こちらが踏み出す場所を残してくる。そのやさしさが、いまの俺には苦しい。
「ベレスがさ」
「うん」
「俺とは、そういうので関係壊したくないって」
言葉にした瞬間、やっとほんとうに、それを聞いたのだとわかった。
ベレスの部屋の台所で、笑って、茶化して、本人を前にしてそういうこと言うか、なんて言って流したはずのものが、いまさらどうしようもなく重くなって戻ってくる。
「それを、君は直接聞いたのか」
「聞いた、というか言われた。本人を前にしてだぜ。笑うだろ」
「笑わない」
即座に返されて、俺は思わず黙った。
笑ってくれたほうが、まだ楽だった。くだらない失恋だと、格好がつかない話だと、どこかで笑い飛ばしてくれたなら、こちらもその程度の顔をしていられたのに。
ベレトは笑わなかった。だから、俺も笑い損ねた。
「そうだよな。あんたは笑わないよな」
「笑うことじゃない」
「……笑ってくれなきゃ、俺が困るんだよなあ」
困る、と言いながら、俺はまた缶を傾けた。強かったはずの酒の味は、さっきより少し鈍くなっていた。酔いが回り始めているのだと、ぼんやり思う。
それから俺は、ぽつぽつと話した。
ベレスのどういうところが好きだったのか。いつから、そういう目で見るようになったのか。自分でもずいぶん慎重に隠してきたつもりだったのに、いまになって思えば、どれもこれも見苦しいほどわかりやすかったのかもしれない、というようなことを。
具体的な言葉にすればするほど安っぽくなる気がして、途中で何度も笑ってごまかそうとした。そのたびに彼は笑わず、ただ短くあいづちを打った。
たまに、目が合う。そのたびに、そっくりだな、と思った。
顔立ちだけではない。こちらの言葉を途中で遮らず、必要以上に憐れまないところまで、どこか似ていた。けれど、やっぱり違った。ベレスなら、もっとやわらかく笑ったかもしれない。こちらが逃げられるように、うまく話題をずらしてくれたかもしれない。
ベレトはそうしなかった。
逃げ道を塞ぐわけでもないくせに、逃げたことにしてくれない。
何本目の缶を開けたのか、自分でも曖昧になっていた。話しているうちに、言葉はだんだん順序を失っていった。言わなくてよかったと思っていることと、それでも少しだけ言えばよかったと思っていること。相手を困らせずに済んだのだから、これでよかったのだという言い訳と、それを言い訳にしている自分のみっともなさ。
どれもこれも、口に出してみれば見苦しいほどありふれていて、俺は途中で何度も笑おうとした。
だが、ベレトは決して笑わなかった。
「……もう寝たほうがいい」
ふいに、彼が立ち上がった。
「眠くない」
「眠そうだ」
「そう見えるだけ」
「そう見えるなら、寝たほうがいい」
言い返す前に、彼はクローゼットを開けていた。中から折り畳まれたマットレスと薄い掛け布団を取り出し、床に広げてゆく。その手つきがあまりにも当たり前で、俺は数拍遅れて、ああ、こいつは最初からどうしようもなくなった酔っ払いを泊めるつもりだったのだと気づいた。
「……備えがいいな」
「客用だ」
「俺、客だったんだ」
「いまは」
「へえ。いまは、ね」
どうでもいいところに噛みついている自覚はあった。
ベレトは何も言わず、シーツの端を整えている。眠そうだったくせに、俺のために起きて、俺の話を聞いて、俺を寝かせる場所まで作っている。
あらためて、来るんじゃなかった、と思った。
こんなふうに扱われたら、自分がどれだけ傷ついているのか、いよいよ自覚せざるを得なくなる。
「なあ」
「どうした」
「慰めてくれよ」
ベレトはしばらく黙っていた。俺の言葉の意味を測っているのか、それとも、酔っ払いの戯言として流すべきかを考えているのか、相変わらず表情からは何も読めない。
やがて彼は、敷きかけていたマットレスから手を離し、ひどく静かな足取りでこちらへ戻ってくると、俺の隣に腰を下ろした。
「ああ」
短く答えて、手を伸ばしてくる。
身構えるより先に、指先が髪に触れた。乱れた前髪を避けるように、ゆっくりとすかれる。あやすような、宥めるような、まるで泣き疲れた子どもにでもするみたいな手つきだった。
違う、と思った。
俺が言った慰めは、たぶん、そういう意味じゃなかった。
それなのに、言葉が出てこなかった。
似ている顔で、けれど違う目をして、違う手で触れてくる。こちらが勝手に転がり込んできた夜の底を、何も問い詰めず、笑いもせず、ただすくい上げようとするみたいに。その手つきがあまりにもやさしくて、俺はようやく、自分がどれだけ情けない顔をしているのか思い知らされた。
「……そういう意味じゃない」
どうにか絞り出すと、髪に触れていた手がぴたりと止まった。
「では、どういう意味だ」
「言わせるなよ」
「わからない」
あまりにもまっすぐ返されて、笑うしかなかった。
笑うしかなかったのに、うまく笑えなかった。ベレトは引きかけた手を宙に止めたまま、俺が次に何を言うのかを待っている。その手が離れるのを惜しいと思ってしまって、俺は自分の浅ましさにうんざりした。
だから今度は、こちらから手を伸ばした。
肩に触れるつもりだったのか、頬だったのか、自分でもよくわからない。ただ、これ以上その手にやさしい意味だけを持たせておくのが、どうしても耐えられなかった。
けれど、指先が届く前に手首を掴まれた。
「クロード」
「なんだよ」
「そういう意味なら、条件がある」
掴まれた手首には、思ったより強い力がかかっている。逃げようと思えば逃げられないほどではないのに、逃げるという選択肢だけを最初から奪われているような気がした。
「君が、自分を抱くんじゃない。自分が、君を抱く」
あまりにも平然と言われて、数秒ほど意味が追いつかなかった。ようやく理解した瞬間、酔いとはべつの熱が顔に上ってくる。
「いやいや、なんでだよ」
「飲めないなら、何もしない」
「酒ならもう飲んでる」
「そういう意味ではない」
「あんたは男を抱いたことがあるのかよ」
「ない。君もないだろう」
「……ない」
「じゃあ、お互い様だ」
「そういうまとめ方するか、普通」
「ほかにどう言えばいい」
平然と返される。経験がないことを恥じるでもなく、得意げに見せるでもなく、ただ事実として置いてくる。その落ち着きが腹立たしくて、同じくらい、救いでもあった。
ベレトはようやく手を離すと、敷きかけのマットレスへ視線を落とした。
「少し出てくる」
「何を」
「必要なものを買ってくる」
何が必要なのか、聞き返すほど野暮ではなかった。
わかってしまったせいで、胃のあたりがいやに冷える。さっきまで自分でそこへ話を向けていたくせに、相手が具体的な手順として受け取った途端、急に足場がなくなったみたいだった。
「……べつに、そこまでしなくても」
「するなら必要だ」
「しないかもしれないだろ」
「するとなったときにないと困る。だから買ってくる」
逃げるならいまだ、と言われているようにも聞こえた。
ベレトは財布と鍵を手に取ると、こちらを一度だけ振り返った。
「戻ったときに、君がまだ同じことを言うなら聞く」
そう言って、部屋を出ていった。
ひとりになると、部屋の静けさが急に濃くなった。
テーブルの上には、俺が買ってきた酒の缶が並んでいる。まだ開いていないものもある。手を伸ばせば届く距離だったが、触れた瞬間、ベレトの顔が浮かぶ気がしてやめた。
ほんとうに、来るんじゃなかった。
そう思った。
思ったくせに、帰ろうとはしなかった。玄関へ向かうこともできたし、いまならまだ、酔った冗談だったと逃げることもできた。それでも、ベレトが戻ってくる部屋でひとり待っていることに、どうしようもなく安心している自分がいた。
最低だな、と声に出さずに思う。
ベレトは、思ったより早く戻ってきた。コンビニの袋を片手に提げていて、中には必要なものと、なぜか酔い覚ましの飲み物まで入っていた。髪はさっきよりも乱れていて、やわらかい髪がゆらゆら揺れている。
「ただいま」
「……おかえり」
「水を買ってきた。君が飲むといい」
そんなやさしくするなよ、と思った。
口には出せなかった。出したところで、この男はたぶん、やさしくしているつもりはない、とでも言うのだろう。必要だからしている。それだけの顔で、また俺を逃げられなくする。
「まだ、同じことを言えるのか」
ベレトが聞いた。
問い詰める声ではなかった。ただの確認だった。だからこそ、酒のせいにも、勢いのせいにも、ベレトのせいにもできない。
「言う」
「あれは、酒のせいではないと?」
「……たぶん」
「たぶんでは困る」
「じゃあ、言い直す。酒のせいだけじゃない」
ベレトはしばらく俺を見ていた。やがて小さくうなずくと、テーブルの上を片づけはじめた。
「わかった。自分は片づけがあるから、君が先にシャワーを浴びてくるといい」
「俺が?」
「酒臭い」
「そりゃしこたま飲んだからな」
「そのまま寝るつもりなのか」
「寝るとは限らないだろ」
言ってから、自分で墓穴を掘ったことに気づいた。
彼は何も言わず、洗面所のほうを示した。
それ以上言い返すのもばからしくなって、俺は立ち上がった。足元がわずかにふらつく。彼がわずかに手を伸ばしかけたのが見えて、反射的に目を逸らした。支えられたら、いよいよほんとうにだめになる。
浴室に入って、熱い湯を頭から浴びる。
湯を浴びているうちに、酔いの膜が少しずつ剥がれていった。
さっき自分が何を言ったのか、どんな顔でベレトに手を伸ばしたのか、いまさら輪郭を持って戻ってくる。酒のせいにできるほど、何もわからなくなっていたわけではない。けれど素面だったなら言えたかと問われれば、それもわからない。
鏡の中の俺は、ずいぶんひどい顔をしていた。
外で飲みたくなかった理由を、そこでようやく思い出す。こんな顔を、誰にも見られたくなかった。
なのに、ベレトにはもう見せてしまった。
浴室を出て、用意されていたタオルで髪を拭く。洗面台の横には部屋着が畳んで置かれていた。彼のものなのか、客用なのかはわからない。ただ、少し大きめで、俺が着ても窮屈ではなさそうだった。
そういうところまで気が回るのが、また嫌だった。
借りた服に袖を通して、髪を拭きながら部屋へ戻ったところで、足が止まった。
さっきまで床に敷かれていた客用のマットレスが、もう片づけられていた。薄い掛け布団も、枕もない。テーブルの上は整えられ、飲みかけの缶だけが端に寄せられている。
「……俺の寝床、どこ行ったんだよ」
「片づけた」
「なんで」
「使わないだろうと思った」
ベレトは、まるで当たり前のことのように言った。
勝手だな、と言いかけて、やめる。勝手にしたのは、そもそも俺のほうだった。夜中に転がり込んで、酒を飲んで、慰めろなんて言って、その意味までこちらから汚した。いまさらマットレスひとつ片づけられたくらいで、被害者みたいな顔をするのは無理がある。
それでも、さっきまであったはずの逃げ道がなくなっているのを見ると、喉の奥が少しだけ乾いた。
「気分は悪くないか」
「悪くない」
「水は」
「飲んだ」
「ならいい」
ベレトはそれ以上、何も言わなかった。
寝室の扉は半分だけ開いている。奥に見えるベッドはひとつだけで、シーツはやけに丁寧に整えられていた。
戻ろうと思えば戻れた。玄関を出て、タクシーを拾って、酔っていたのだと笑えばいい。明日になれば、今夜のことは曖昧な冗談にできるかもしれない。
けれど、ベレトは何も言わなかった。そういう沈黙が、俺を黙らせるのにいちばんいいとわかっているのかもしれない。
彼は寝室の前で立ち尽くす俺を一瞥すると、浴室へと消えていった。
翌朝、目を覚まして最初に思ったのは、喉が渇いた、ということだった。
次に、気分が悪い、と思った。頭の奥には鈍い重さが残っていて、胃もむかむかした。昨日、自分が何本缶を開けたのかを思い出そうとして、すぐにやめる。思い出したところで何も得をしないし、そもそも昨夜の俺は、得になるようなことをひとつもしていない。
身体も痛かった。
痛い、と言っても、乱暴に扱われたせいではない。そこを取り違えられない程度には、記憶は残っている。むしろ、思ったより悪くはなかった。悪くなかった、と認めてしまった瞬間、余計に気分が悪くなった。
最悪だ。
喉は渇くし、頭は痛いし、身体もやけに重い。昨日の自分が何を口走ったのか、どんな顔をしていたのか、思い出したくもないことばかりが嫌に鮮明に残っている。おまけに、隣で眠っている男の寝顔は、朝の光の中で腹が立つほどきれいだった。
似ている、と思った。
それから、違う、とも思った。
昨夜も両手では足りないぐらい同じことを考えたはずなのに、懲りずにまた同じところへ戻っている。その事実がいちばん情けなかった。ベレスに似ている。けれど違う。そんな当たり前のことを、俺は何度確かめれば気が済むのだろう。
枕元には、水の入ったグラスが置いてあった。
いつ置いたのかはわからない。俺が眠っているあいだか、目を覚ます少し前か。どちらにせよ、俺が起きたら喉が渇くだろうと、この男は考えたのだ。
ほんとうに、来るんじゃなかった。
そう思いながら、俺は水を飲んだ。
ベレトは俺が起きていることに気づくと、気分は悪くないか、と短く聞いた。悪い、と答えれば、そうか、と言って、今度はシャワーを浴びてこいと言う。あまりにも当たり前の顔をしているので、こちらも反論する気を失った。
熱い湯を浴びて、昨夜とは違う意味で少しだけ正気に戻る。戻らなければよかった、とも思う。浴室の鏡に映った自分は相変わらずひどい顔をしていて、こんな顔をベレトに見られたのかと思うと、いますぐ排水口に流れて消えたくなった。
部屋へ戻ると、テーブルには簡単な朝食が並んでいた。
「食べよう」
「いや、俺はいい」
「食べたほうがいい」
「気分悪いって言っただろ」
「だったら、少しでも何か食べたほうがいい」
理屈が通っているようで通っていない。少なくとも、いまの俺に反論できるほどの気力はなかった。結局、出された味噌汁をすすり、焼いた卵を少しずつ口に運ぶ。胃は重かったが、温かいものが入ると、身体のほうが勝手に息をついた。
それもまた、最悪だった。
ベレトは向かいで水を飲んでいるだけだった。俺が食べる姿を見るだけで、昨夜の話を蒸し返すこともしない。何もなかったような顔をしているわけではない。単に、何かあったからといって、こちらを変に扱うつもりがないだけなのだろう。
そのどちらでもない態度が、いちばん扱いに困る。
朝食を終えると、俺は借りた服を脱ぎ、乾いていた自分の服へ着替えた。畳むべきか、そのまま置いていいのか、少し迷ってから、借りた部屋着をできるだけ丁寧に畳む。こんなところで礼儀正しくしたところで、昨夜のことが帳消しになるわけでもないのに。
帰り支度をしているあいだも、ベレトは黙っていた。
こちらも、何を言えばいいのかわからなかった。世話になった、と言うには、世話の範囲を大きく踏み越えている。悪かった、と言うには、彼が何を悪いと受け取るのかわからない。じゃあな、と軽く流すには、俺のほうがまだそこまで立ち直れていなかった。
いつもなら、何かしら言えたはずだった。
泊めてもらった礼でも、朝飯への文句でも、あんた意外と手際いいな、くらいの軽口でも。そういうものが、ひとつも出てこない。
玄関で靴を履く。扉を開ける前に、一度だけ振り返った。
ベレトは、いつもの静かな顔でこちらを見ていた。
「じゃあ、また」
そう言われて、返事に詰まった。
また。
昨夜の続きをする、という意味ではなかったと思う。少なくとも、彼の声はそんなふうには聞こえなかった。ただ、ここで終わりにするつもりはないのだと、ひどく当たり前の顔で言われた気がした。
あんな夜を挟んでも、俺たちのあいだにあったものは途切れない。途切れたことにしてくれない。
「……また、な」
どうにかそれだけ返して、俺は部屋を出た。
共用廊下の空気は、朝のくせに少し冷えていた。背中で扉が閉まる音を聞くはずだった。けれど、音はしなかった。
数歩進んで、振り返る。
ベレトは扉の外に立ったまま、こちらを見送っていた。
大きな声は出せなかった。ここは共用部で、どこかの部屋の換気扇が低く回っていて、遠くでエレベーターの動く音がしている。そんな場所で、何を言えばいいのかもわからない。
だから、少しだけ手を上げた。
彼も、小さくうなずいた。
エレベーターの角を曲がる前に、もう一度だけ振り返る。まだ、見送っていた。
その姿が見えなくなったところで、ようやく息を吐いた。
帰れたはずなのに、ちっとも逃げ切れた気がしない。
自分の部屋へ帰ってきて、鍵を閉めた瞬間、ようやくひとりになったことを実感した。
ひとりになったからといって楽になるわけではなかった。むしろ、ベレトの部屋の静けさや、朝の味噌汁の湯気や、玄関の外でこちらを見送っていた顔が、遅れて部屋の中までついてくる。靴を脱いで、上着を適当に掛けて、いつも通りの部屋に立っているはずなのに、どこか身体の置き場がわからない。
スマートフォンが震えた。
画面には、ベレスの名前が出ていた。
昨日は片づけ手伝ってくれてありがとう、という、何でもない文面だった。最後に、今度お礼するね、と笑っている絵文字がひとつ添えられている。
それを見て、俺はようやく、ほんとうに失恋したのだと思った。
昨夜、ベレトの部屋で話している間は、まだどこか、自分の傷を言葉にして眺めているだけだったのかもしれない。くだらない失恋だと笑って、格好がつかない話だとおどけてみせて、似た顔をした男に聞かせて、それで少しは片がついたような気になっていた。
けれど、ベレスは何も変わっていなかった。
俺を傷つけたことも知らず、俺に慰められる隙を与えたことも知らず、いつものように、いつもの距離で、こちらに礼を言ってくる。その近さが、いまさらどうしようもなく遠かった。
返事を打つのに、ずいぶん時間がかかった。
こちらこそごちそうさま。気にするなよ。
それだけの文字を送るまでに、何度も画面を閉じた。たったそれだけの返事が、やけに重かった。
送信してすぐ、別の通知が入った。
無事に帰れたか。具合はどうだ。
ベレトだった。
思わず笑いそうになって、結局笑えなかった。あの男は、こういうところでほんとうに逃がしてくれない。昨夜のことにも、今朝のことにも触れない。ただ、俺を心配している。
無事帰れたよ。ありがとう。
少し迷って、送った。
それから具合は問題ない、と打とうとして、やめた。
悪い。かなり。
そこまで打ってから消す。
結局、少し頭が痛い、とだけ送った。
すぐに返事が来た。
たくさん水を飲んで、今日は早く寝ろ。
あまりにも予想通りで、今度こそ少しだけ笑った。けれど、その笑いはすぐに喉の奥でつかえた。
ベレスへの返事より、ベレトへの返事のほうが楽だった。そのことに気づいてしまったからだ。
俺は机の上にスマートフォンを伏せ、ソファに沈み込んだ。
昨日までの俺なら、たぶんベレスの名前を見て、少しだけ浮かれていた。今度は何の用だろうと考え、返事の文面ひとつに余計な意味を探していた。
いまは、ただ胸が重かった。
その重さを抱えたまま、ベレトの部屋で朝を迎えたことを思い出している自分がいる。
それが何より、どうしようもなかった。
ベレトからまた連絡が来たのは、あの夜から二日後のことだった。
「酒を忘れている」
それだけの文面を見て、俺はしばらくスマートフォンの画面を眺めていた。捨てていい、と返せば済む話だった。そもそも、あんなものをわざわざ取りに行くほど惜しんでいるわけでもない。
けれど、そう返したら、あの夜まで一緒に袋へ詰めて捨ててしまうような気がした。
結局、俺はそのうち取りに行く、とだけ送った。
すぐに返事が来た。
今日でもいい。
何でもない文面だった。都合が合うなら今日でもいい、というだけの意味なのだろう。けれど、その気安さはいまの俺には重かった。ベレトの中で、あの夜は俺を遠ざける理由にはならなかったらしい。なかったことにする理由にも、おそらくなっていない。
それがありがたいのか、困るのか、自分でもよくわからなかった。
じゃあ、今日の帰りに寄る。取りに行くだけだからな。
わかった。
取りに行くだけ。念を押したのは、彼に対してというより、自分に対してだった。
手ぶらで行くのもどうかと思い、途中のコンビニで適当な飲み物と、彼が食べそうなものをいくつか買った。甘いものがいいのか、しょっぱいものがいいのか、よくわからない。よくわからないくせに、棚の前でずいぶん迷ってしまった自分がいて、またうんざりした。
ベレトの部屋の前でチャイムを鳴らすと、前と同じようにすぐ扉が開いた。
「来たぞ」
「見ればわかる」
そう返すと、ベレトは少しだけ首を傾げ、それから俺の手元の袋を見た。
「それは?」
「ここに来るついでに買ってきた。あんたが食うと思って」
「食べる」
「だろうな」
あまりにも迷いなく返されて、思わず笑いそうになる。
笑いそうになったことに気づいて、唇をそっと引き結んだ。
部屋に入ると、例の酒はテーブルの端にまとめて置かれていた。未開封の缶が二本。見覚えのある袋に入れられて、まるで忘れ物としての役目だけをきちんと果たしているかのように、そこにあった。
「これか」
「うん」
「悪かったな」
「困ってはいない」
「飲まないものが手元にあっても困るだけだろ」
ベレトは何も言わず、俺が買ってきた袋を受け取って台所へ向かった。俺は酒の袋を手に取ったものの、そのまま鞄へ入れることができず、もう一度テーブルへ置いた。
ほんとうに取りに来ただけなら、ここで帰ればいい。
わかっていた。
わかっていたのに、靴を履く気にはならなかった。
「君のぶんも作ったから、食べていってほしい」
台所から、当然のように声がした。
「俺、取りに来ただけって言ったよな」
「聞いた」
「聞いたうえでそれか」
「昨日、あまり食べていないだろう」
「見てたのかよ」
「見えた、が正しい」
その言い方に、反論するのを諦める。
結局、俺は低いテーブルの前に座り、簡単な飯を食べることになった。温かいものが胃に落ちていく。ひどく腹が減っていたわけではないはずなのに、身体は思ったより素直に受け入れた。
ベレトは向かいに座って、俺が買ってきた惣菜を淡々と食べている。昨夜のことを蒸し返しもしない。何かを期待しているようにも見えない。ただそこにいて、たまにこちらを見る。
それがかえって落ち着かなかった。
「……あんたさ」
「うん」
「ほんとに何も聞かないんだな」
「聞いてほしいのか」
「そういう返しが困るって言ってるんだよ」
「そうか」
「そうか、じゃなくて」
言いながら、自分でも何を言いたいのかわからなくなった。
聞かれたくない。だが、聞かれないと、自分が勝手にここへ来たことだけが残る。
あの夜のことも、ベレスのことも、ベレトの部屋で目を覚ました朝のことも、何ひとつ整理できていない。それなのに、こうして飯を食っている。身体に触れるでもなく、酒に逃げるでもなく、ただ向かい合って箸を動かしている。
たったそれだけのことが、思ったよりたちが悪かった。
食事を終えたあとも、すぐには帰れなかった。ベレトがお茶を出して、俺はそれを飲んだ。話題は大したことではなかった。ベレトが最近読んだ本の話だとか、近所の店の惣菜がうまかったとか、俺の仕事が相変わらず面倒だとか、そんな話ばかりだった。
それだけで、夜が少し進んだ。
何も起きなかった。
ベレトは俺に触れなかったし、俺も手を伸ばさなかった。寝床を用意されることもなく、シャワーを使えと言われることもなく、ただ、取りに来たはずの酒を鞄に入れて立ち上がった。
「じゃあ、帰るわ」
「うん」
「……ほんとに、酒取りに来ただけだったな」
「そうだな」
「飯までご馳走になったけど」
「ひとりで食べるより、ふたりで食べたほうがいい」
「はいはい」
いつもの調子で返したつもりだった。だが、自分の声は少しだけやわらかかった気がする。そう聞こえていなければいいと思った。
玄関で靴を履く。
ベレトは扉のそばに立って、こちらを見ていた。
「じゃあ、また」
まただ。
あの朝と同じ言葉なのに、今度は意味が違って聞こえた。昨夜を挟んでも途切れなかったものが、今度は何も挟まなくても途切れない。身体に触れなくても、酒に逃げなくても、飯を食って、茶を飲んで、帰るだけで、まだ続いてしまう。
「……またな」
そう返して、部屋を出た。
共用廊下を歩きながら、鞄の中で酒の缶がかすかにぶつかる音がした。今日はこれを取りに来ただけのはずだった。
それなのに、どうしてこんなに手ぶらで帰るみたいな気分になるのか、俺にはわからなかった。
仕事帰り、気がつけばベレトの住むマンションに近い駅で降りていた。
近くまで来た、と言い訳することはできる。実際、今日の訪問先からこの駅まではそれほど遠くない。けれど俺の家は、ここか反対方向にある。わざわざ乗り換えて、わざわざ歩いて、わざわざこの改札を出ている。
通りがかった、というには、いくらなんでも手間がかかりすぎていた。
改札を抜けてから、しばらくスマートフォンを握ったまま立ち尽くす。帰ればいい。まっすぐ帰って、風呂に入って、適当なものを食って寝ればいい。そうすれば何もおかしくない。誰にも迷惑をかけないし、俺だって、明日にはもう少しましな顔ができる。
それなのに、足は家のほうへ向かなかった。
「今夜、空いてるか」
送ると、すぐに返事が来た。
「空いている」
いつも返事が早いよな、とまず思う。
思ったあとで、そういうことに安心している自分に気づいて、スマートフォンを握る手に力が入った。
「外か部屋、どっちがいい」
続けて届いた文面を見て、しばらく立ち止まった。
外。部屋。たったそれだけの選択肢なのに、どうしてこんなに答えにくいのか。外、と打って消した。そっちに行く、と打って、また消した。何でもない顔をした文面に整えるために、三回ほど書き直してから、ようやく送る。
「あんたの部屋がいい」
送信した瞬間、変な汗が出た。
ただの場所の指定だ。そう自分に言い聞かせる。
手ぶらで行くのもおかしな気がして、駅前で適当な店に入った。いや、おかしいのは手ぶらかどうかではなく、そもそも行こうとしていることのほうだろう。そういう正しい指摘は、店の自動扉が閉まる音と一緒に頭の外へ追い出した。
ベレトが何を好きなのか、俺はまだよく知らない。とにかく食べるということだけしか知らない。甘いものを食べるのか、しょっぱいもののほうがいいのか、そもそも味の違いをどれくらい気にしているのかも怪しい。迷った末に、日持ちしそうな焼き菓子と、前にうまいと言っていた惣菜をひとつ買った。
会計を済ませて袋を受け取った瞬間、もう引き返せなくなったと思った。
ベレトの部屋の前でチャイムを鳴らすと、すぐに扉が開いた。前よりも、その早さに驚かなくなっていることに気づき、嫌になる。
「よう、お疲れさん。これ手土産。食うだろ」
「食べる。だがそこまで気を遣わなくていい」
「気を遣ってるというか、俺が買いたくて買っただけ。そういうことにしといてくれ」
軽く返したつもりだった。なのに彼は袋を受け取ったまま、すぐには台所へ向かわなかった。ただ、こちらの顔を静かに見ている。
「何かあったのか」
そう聞かれて、俺はようやく思い出した。
そうだ。用事があるから来ているのだ。近くまで来たからでも、手土産を渡すためでも、ベレトの返事が早かったからでもない。もっとも、その用事をきちんと口にするつもりがあったのかと聞かれれば、かなり怪しい。
「ちょっと、な」
ぼやかしたつもりだった。
だが、ちょっとという言葉で済む顔をしていないことくらい、自分でもわかっていた。ベレトもたぶんわかっていた。わかっていながら、追い立てるようなことはしない。ただ、俺が続きを言うのを待っている。
その待ち方が、ほんとうに困る。
部屋に入ると、低いテーブルの上にはすでにふたり分のお茶が用意されていた。俺が来ると言ってから、それほど時間は経っていないはずなのに。まるで、いつ来てもいいようにしていたみたいで、そんなふうに考えた自分がまた嫌だった。
買ってきたものを渡すと、ベレトは袋の中身をひとつずつ確かめ、焼き菓子を見てわずかに目を細めた。
「すぐ食えって意味じゃないからな。ちゃんと日持ちするやつ選んだんだぞ」
「わかった」
「ほんとにわかってるか?」
「たぶん」
たぶん、かよ。そう笑おうとして、うまく笑えなかった。
ベレトは何も聞かず、お茶を俺の前に置いた。酒ではない。あたたかいお茶だった。俺が酒を持ってきていないことを見て、何か思ったのかもしれない。思わなかったのかもしれない。どちらにせよ、今夜の俺はその沈黙に少しだけ救われていた。
少しだけ、ということにしたかった。
「……また、慰めてくれるか」
口にした瞬間、初めての夜よりずっと言いづらい言葉だと思った。
あの時は、まだ意味がずれていた。酔っていたし、傷ついていたし、自分でも何を求めているのかわからないふりができた。いまは違う。ベレトはたぶんわかっている。俺も、それをわかっていて言っている。
だから、余計にたちが悪かった。
ベレトはすぐには答えなかった。
それから、静かにこちらへ歩いてきて、俺の前に立つ。
「慰めなら、する」
その言い方に、笑いそうになった。でも、次は笑えなかった。
ベレトの手が伸びてくる。身構えるより先に、指先が髪に触れた。乱れた前髪を避けるように、ゆっくりとすかれる。初めての夜より、その手つきはずっと自然だった。慣れた、というほどではない。ただ、どう触れれば俺が黙るのか、知ってしまった手だった。
子どもみたいな扱いだな、と思った。
傷ついて、眠れなくなった子どもを宥めるみたいに、髪をすかれる。額に唇が触れる。次に瞼へ落ちる。頬にも、確かめるような口づけが触れてくる。
それは欲というより、いたわりに近かった。
近かったから、余計に困る。
こんなふうに大事にされていると思いたくなかった。思ったら、あの夜のことも、いまこの部屋にいることも、全部ただの慰めでは済まなくなる。
「……あんたなあ、俺のこといくつだと思ってるんだよ」
「君の年齢は知っているが」
「そういう話じゃない」
「では、どういう話だ」
「子ども扱いされてる気分だって話」
ベレトは少しだけ考えた。
「嫌なのか」
その聞き方が、また困る。
嫌だと言えばやめるのだろう。きっとほんとうにやめる。けれど、やめられたらやめられたで、俺はまた勝手に傷つく。
「……嫌とは言ってない」
「そうか」
ベレトは短く答えて、もう一度、髪に指を通した。
その手のやさしさに、喉の奥が詰まる。
逃げるために来たはずだった。ベレスのことを忘れるために、あの夜の自分を笑うために、あるいは何もかもを身体のほうへ落としてしまうために。そんなろくでもない理由をいくつも抱えて、この部屋に来た。
それなのに、ベレトは俺を雑にしてくれない。
慰めにしては、たちが悪かった。
ふと、低いテーブルの端に置かれた小さな紙袋が目に入った。見覚えのない、新しい袋だった。中身は、聞かなくてもなんとなくわかった。
「……もう買ってあるのか」
「必要だと思った」
「準備いいな」
言ってから、後悔した。
また同じだ。うれしいと思いかけた瞬間、俺はすぐにその特別さをべつのものへ落とそうとする。備えがいい。慣れている。必要だから。そういう言葉にしてしまえば、逃げられる気がするからだ。
ベレトは、俺の顔を見た。
「足りなくなったら困るだろう」
「そりゃそうだけどさ」
「だから買った」
あまりにも真面目に言われて、今度はこっちが目を逸らした。
額や瞼に口づけてきた同じ男が、あんなに静かに髪をすいてきた同じ手が、必要なものとしてそれを用意している。いたわりと欲が、同じ部屋の中に並べられている。
その差に、妙に気恥ずかしくなった。
「……にしても、けっこう買ったんだな」
言ってから、しまったと思った。
数を気にしてどうする。多いから何だ。少ないから何だ。聞いたところで、自分が気にしているものの浅ましさが浮き彫りになるだけだ。
ベレトは紙袋へ一度目を落とし、それから何でもない顔でこちらを見た。
「君以外には使わない」
「語弊しかないぞ、その言い方」
思わず笑ってしまった。笑うしかなかった。
ベレトのほうは、なぜ俺が笑ったのかわからない顔をしている。たぶん彼は、ほんとうにただ、君としかこういうことはしない、と言いたかったのだ。
その言葉の下手さが、どうしようもなく彼らしかった。
「……あんたさあ」
「うん」
「そういうの、もう少し言い方あるだろ」
「そうか」
「そうだよ。もう少し学んでくれ」
文句を言いながら、胸の奥が少しだけ楽になっていることに気づいた。
最悪だった。俺はいま、ゴムの数を気にした挙句、ベレトのあまりにも不器用な言葉に安心している。
君以外には使わない。
語弊しかない。ほんとうに語弊しかない。
それでもたしかに、張り詰めていたものが、わずかにゆるんだ気がした。
「やめようか」
ベレトが聞いた。
「……それ、毎回聞くつもりか?」
「確認は必要だろう」
「必要じゃない」
即答してから、少し遅れて、自分の声が思ったより頼りなかったことに気づいた。
ベレトは笑わない。
笑わないまま、ただ俺を見る。
初めての夜もそうだった。この男は、俺が逃げるために置いた軽口を、ほとんど拾ってくれない。拾わずに、踏み越えて、こちらがほんとうに言いたくなかったところの近くへ立つ。
「なら、こっちを見てほしい」
静かな声で言われた。
見たくなかった。
でも、見ないわけにもいかなかった。
顔を上げると、ベレスによく似た、けれどやっぱり違う顔がそこにあった。やさしくて、少しだけ眠そうで、でも俺というものから目を逸らさない顔だった。
俺は、また来るんじゃなかったと思った。
思ったくせに、今度も帰ろうとはしなかった。
それから、俺は何度かベレトの部屋へ行った。
何度か、という言い方はずいぶん曖昧だが、実際こちらも正確な回数を数える気にはならなかった。
仕事帰りに近くまで来た、というには無理のある距離の駅で降りて、夜、空いてるか、と送る。返事は相変わらず早かった。空いている、だとか、いまならいる、だとか、たいていそれだけだったが、その短さに少しずつ慣れてゆく自分がいた。
ベレトのマンションは、俺の家から近いわけではない。むしろ帰り道からは外れている。わざわざ乗り換えて、わざわざ歩いて、わざわざあの部屋の前まで行く。それでも俺は、通りがかったとか、近くまで来たとか、誰に聞かせるわけでもない言い訳を毎回きちんと用意した。
手ぶらでは行かなかった。
駅前の店で、日持ちのする菓子を買う。前にベレトが黙々と食べていた惣菜を買う。コンビニでお茶を買う。そうやって何かしらの袋を提げていれば、ただ会いに行くわけではないという言い訳ができた。実際には、会いに行く以外の理由など、だんだん薄くなっていたわけだが。
まず、部屋着が増えた。
最初は、ベレトのものにしては少し大きい服がひと組あるだけだった。それがいつの間にかふた組になり、俺が着ても肩まわりが窮屈ではないものが、洗面所の棚に畳まれて置かれるようになった。俺用か、と聞けば、必要なら、とベレトは答える。
「俺が必要としなかったら?」
「しまっておく」
「ふうん」
歯ブラシも増えた。
洗面台の隅に、封を切られていない一本が置かれていた日、俺はしばらくそれを見てしまった。
使えと言われたわけではない。置いてあるだけだ。しかし置いてあるということは、次があるということでもあった。そう思った瞬間、嬉しさより先に、そんなものまで用意させている自分への居心地の悪さが来た。
「備えがいいな」
そう言うと、ベレトは不思議そうにした。
「君が泊まるなら、必要だろう」
「泊まるって決まってるわけじゃないだろ」
「決まってはいない」
「じゃあ、なんで置いてるんだよ」
「使うかもしれないから」
まったく、逃げ場のない言い方をする。
使うかもしれない。
泊まるかもしれない。
また来るかもしれない。
その全部を、ベレトは何でもない顔で部屋の中へ置いていく。俺のほうはそのたびに、まだこれは借り物だとか、たまたまだとか、必要だから置いてあるだけだとか、いくつも言い訳を考えた。
だが、洗面台の歯ブラシも、畳まれた部屋着も、冷蔵庫に一本多めに備えられた水も、言い訳を重ねれば重ねるほど、確かな顔をしてそこに残った。
何もない夜もあった。
飯を食って、お茶を飲んで、ベレトが最近読んだ本や出掛けた場所の話を聞いて、俺が仕事の愚痴を少しこぼして、それだけで帰る夜。泊まるつもりなどなかったのに終電を逃し、結局部屋着を借りて寝る夜。手を伸ばすことも、伸ばされることもなく、ただ同じ部屋で朝を迎える夜。
何かある夜もあった。
なのに、どちらの夜も、変わらなくなっていった。大事に扱われる。水を置かれる。気分が悪くないかと聞く。朝になれば、食べていけと言う。俺はそれを無下にできず、結局食べる。帰り際には、また、と言われる。
その繰り返しが、少しずつ日常のふりをし始めていた。
ベレトの変化に、気づいていなかったわけではない。
ただ、見ないふりをしていただけだ。見ないふりというより、見えているものに、なるべく都合のいい名前をつけていた。
あの男はもともと、必要だと思ったものを必要な場所に置く。食べていない人間には飯を出すし、具合が悪そうなら水を置く。もらったものを捨てられないのと同じように、一度部屋に入れたものを粗末にできないだけなのだろうと、そういうことにしていた。
けれど、だんだん、そういうふうには思えなくなってきた。
俺が行くと伝えた夜、食事は最初からふたり分用意されていた。前にうまいと言ったものが、何でもない顔で出てくるようになった。そっちに着くのが遅くなると連絡すれば、わかった、気をつけて、とだけ返ってくる。その短さはいつも通りなのに、そこにほんの少しだけ間が空くことがあった。
たった数秒だ。
それで何かが変わるわけではない。返ってくる言葉も、いつもと同じだった。責められているわけでもないし、引き止められているわけでもない。
それなのに、俺はその短い沈黙を、しばらく見てしまう。
ベレトが何を思ったのかはわからない。わからないはずなのに、その間に何かがあったような気がして、毎回それを見なかったことにした。
そんなことが、徐々に増えていった。
その日も、別に大した理由があったわけではない。
仕事が早く終わって、外は少しばかり冷えていて、まっすぐ帰るにはどうにも部屋が遠く感じた。
ベレスの名前をどこかで聞いたわけでもない。ひどく疲れていたわけでもない。どうしようもなく飲みたい夜でもなかった。
ただ、スマートフォンを開いたら、指が勝手にベレトの名前を探していた。
今日、行っていいか?
送ってから、自分で少しだけ呆れた。
恋人でもない相手の部屋へ、こうも当たり前みたいに行っていいかと聞く。しかも、行く理由らしい理由もない。これで返事が来ることを、どこかで当然のように思っている。
ひどい話だ。
既読はすぐについた。
けれど、返事はすぐには来なかった。
たったそれだけで、手の中のスマートフォンが急に重くなる。画面を消して鞄へしまえばよかった。返事が来るまでべつのことをしていればよかった。それなのに俺は、駅の柱のそばで立ち止まったまま、意味もなく画面を見つめ続けていた。
やがて、短い文面が届いた。
今日はむずかしい。
それだけだった。
むずかしい。ああ、そうか、と思った。そうだよな、とも思った。ベレトにも都合くらいある。俺が行きたい時に、いつでも部屋を開けて待っているわけがない。そんなこと、考えてみれば当たり前だ。
当たり前のことが、思ったより痛かった。
了解。急に悪かった
できるだけ軽く返したつもりだった。
そのあとに何か続けるべきか少し迷って、結局やめた。
何か用事か、と聞くことはできた。
体調が悪いのか、と聞くこともできた。
誰か来ているのか、と、いちばん聞きたくないことを聞くことだって、たぶんできた。
でも、できなかった。
聞ける立場ではなかった。
俺は恋人でもなければ、同居人でもない。部屋着と歯ブラシを置かれているからといって、あの部屋の時間を好きに使える権利を与えられたわけではない。向こうが今日はむずかしいと言えば、それで終わる。
そんな当たり前のことを、断られて初めて思い出す。
スマートフォンを鞄にしまい、改札へ向かった。家へ帰るだけの道が、やけに長く感じた。途中のコンビニで何か買う気にもなれず、駅前の店の明かりだけを横目に見て通り過ぎる。
手土産を買わない帰り道は、思ったより手持ち無沙汰だった。
そのことに気づいた瞬間、自分がほんとうに嫌になった。
それから数日、俺はベレトに連絡しなかった。
忙しかったわけではない。いや、仕事はいつだって忙しい。けれど、これまでだってその隙間を縫って、夜、空いてるか、と送っていたのだから、忙しさを理由にするには無理があった。
連絡しなかっただけだ。
ベレトからも何も来なかった。
それが正しい距離なのだと思う。そう思おうとした。行きたい時に行って、断られたら引く。それでいい。それ以上の何かを求めるほうがおかしい。
おかしいはずなのに、スマートフォンが震えるたび、少しだけ期待している自分がいた。
そうして三日目の朝、ようやく画面にベレトの名前が出た。
空いている日はあるか。
それだけの文面だった。
しばらく、意味がわからなかった。いや、意味はわかる。空いている日はあるか。俺の予定を聞いている。ただそれだけだ。なのに、なぜか手のひらに汗が滲んだ。
思えば、いつも俺からだった。
夜、空いてるか。今日、行っていいか。近くまで来た。部屋に行ってもいいか。
そんなふうに、こちらが勝手に投げて、ベレトが受け取る。そういう形に、いつの間にか慣れていた。慣れていたから、断られた時にあれだけ間抜けに傷ついたのだろう。
会いたくないわけではない。むしろ、会いたかった。
それは認めるしかなかった。認めたところで、何かが楽になるわけではなかったが、認めないほうがかえってみじめな気がした。
だからといって、いつでも空けられる、とは送れなかった。送りたくなかった。そんなことを言えば、あまりにもこちらが待っていたみたいになる。実際、待っていたのだとしても、それをそのまま差し出すほど、俺はまだ素直ではなかった。
返事を打つ。
そっちは?
そう送る前に、いったん消した。
冷たすぎる気がした。
俺は合わせられるけど、あんたは?
これも消した。
合わせられる、という言葉が余計だった。
結局、少し間を置いてから、短く打ち直す。
あるよ。
いつが都合いいとか、そういうのはないのか。
すぐに送るのは癪だった。
だからスマートフォンを伏せて、しばらくべつのことをするふりをした。洗面所へ行って顔を洗い、冷蔵庫を開けて、何も取らずに閉める。意味のない動作ばかりをいくつか重ねてから、結局我慢できずにスマートフォンを拾った。
まだ、送信欄にはさっきの文面が残っている。
ばかみたいだと思いながら、送った。
返事は、相変わらず早かった。
今夜でも、いつでも。
今夜でも。
いつでも。
そういう言い方をするなよ、と思った。
いつでも、なんて簡単に言うな。まるでほんとうに、俺のために空いているみたいじゃないか。こちらが勝手に期待して、勝手にそこへ行ってしまう余地を、そんなふうに何でもない顔で残すな。
そう思うのに、胸の奥で硬くなっていたものがゆるんだ気がした。
じゃあ、今夜。
そこまで打って、しばらく画面を見る。
わかりやすすぎる。けれど、明日と打つ気にも、週末と打つ気にもなれなかった。
結局、そのまま送った。
わかった。
ベレトからの返事は、やっぱり早かった。
続けて、もう一通。
部屋でいいか。
俺は少しだけ笑った。
外か部屋か、と聞いてこないのは、たぶんベレトなりの変化だった。あるいは、俺が部屋を選ぶともう知っているだけなのかもしれない。
どちらでも、たちが悪い。
いいよ。なんか買ってく。
無理に買わなくていい。
それを見て、また笑ってしまった。
つまり、買ってくるな、ではない。来るな、とも言わない。手ぶらで来てもいい、とでも言いたいのだろう。けれど俺には、それがうまくできない。
俺が落ち着かないんだよ。
そう送ると、少しだけ間が空いた。
そうか、わかった。
気をつけて。
その短い返事に、また負けた気がした。
日常のふりをしていたものは、いつの間にか、ちゃんと日常の顔をしはじめていた。いつも乗っていた電車には、乗り遅れてしまった。
その日の仕事は、いつもより早く片づいた。
いや、片づけた、というほうが正しい。明日に回してもいい資料まで勢いで整理して、確認の返事を待つ必要があるものは全部相手に投げて、これ以上ここに残る理由はない、という状態を強引に作った。
そこまでしておきながら、俺は自分がベレトの部屋へ急いでいることを認めたくなかった。
駅前の店で手土産を買う。前より迷う時間は短かった。ベレトが食べるもの、余っても困らないもの、次の日に回せるもの。そういう選び方がもう身についていることに気づいて、また嫌になる。
マンションの入口で部屋番号を押した。
呼び出し音が鳴る。
たったそれだけで、初めてここへ来た夜のことを思い出した。あの時も、妙に指先がこわばっていた。どうぞ、と短く返された声に、ひどく安心したことまで、はっきりと覚えている。
「どうぞ」
今日も、同じ声が返ってきた。けれど少し硬い気がした。
気のせいにすることもできたが、そういうものを気のせいにするには、俺はもうこの男の声を聞きすぎている。
部屋の前でもう一度チャイムを鳴らす。扉が開いて、ベレトと顔を合わせた瞬間、背中に変な汗が浮いた。
ベレトは俺の手元の袋を見る。
「それは」
「手土産。あんたが食べそうなやつ」
「食べる」
「知ってる」
軽く言ったつもりだった。けれど、ベレトはすぐには動かなかった。袋を受け取ったまま、こちらの顔を見ている。
俺も、酒は買っていなかった。
飲まないと決めていたわけではない。ただ、今夜は持っていかないほうがいいと思った。そう思った時点で、もうずいぶんこの部屋に振り回されている。
飯を食べた。
ベレトが用意していたものと、俺が買ってきたものを適当に並べて、いつもみたいに低いテーブルを挟んで座る。会話はあった。仕事の話だとか、近所の店の話だとか、どうでもいいことばかりだった。
ベレトはたまにこちらを見た。見て、すぐ逸らす。
珍しいこともあるものだと思った。普段なら、こちらが居心地悪くなるくらいまっすぐ見てくるくせに、今夜に限って落ち着かない。こないだのことを気にしているのだろう、とそこでようやく思い当たった。
今日はむずかしい。
あの短い文面を思い出して、喉の奥が詰まった。
べつに、こちらから言うことでもない。気にしていると思われるのも癪だった。だから流すことにした。大人なので、そういうことにした。
食事を終えて、お茶を飲んで、それでもすぐには帰らなかった。
ベレトのソファに座る。最初は借りているような気分だったその場所にも、いつの間にか身体が馴染みはじめている。よくない傾向だと思うのに、立ち上がる気にはならなかった。
ベレトは少し離れた床に座っていた。いつもならもっと近くてもおかしくないのに、今日は妙に距離がある。
やがて、彼が静かに立ち上がった。
水でも取りに行くのかと思ったら、そうではなかった。彼はそのまま俺の隣まで来て、迷うように視線を落とし、それからソファの端へ腰を下ろした。
「この前のことだが」
低い声だった。
「この前?」
わかっていて、わからないふりをした。
「君が来ていいかと聞いてきた日があっただろう」
「ああ」
できるだけ何でもない顔で返す。
「あの日、用事はなかった」
数秒、意味がわからなかった。
「……は?」
「嘘をついた」
ベレトはまっすぐこちらを見ていた。いつものように静かな顔だったが、膝の上に置かれた指先には力がこもっていた。
ああ、と思った。
この男は、たぶんずっとこれを言う機会を探していたのだ。下手な駆け引きの後始末を、自分でもどうしていいかわからないまま抱えて、今日まで持っていた。
「断りたかったわけではない」
「じゃあ、なんで嘘をついてまで断ったんだよ」
「……うまく言えない」
「それで済むと思ってるのか?」
「済むとは思っていない」
あまりにも真面目に返されて、怒る場所を見失った。
怒ればよかったのかもしれない。嘘をつかれたのだから。用事もないのに断られて、こちらは勝手に傷ついて、理由も聞けずに引いた。怒ってもいい理由は、少しぐらいはある。
なのに彼の顔を見ると、どうにもそれができなかった。
「俺、理由聞けなかったんだからな」
言ってしまってから、しまったと思った。
彼の目が、わずかに揺れる。
「聞けばよかっただろう」
「いや、聞ける立場じゃないだろ」
声が思ったより硬くなった。
その沈黙で、俺の頭も冷えてゆく。言いすぎた、と思った。けれど、取り消す気にもなれなかった。
「……べつに、あんたを責めてるわけじゃない」
「責めていい」
「責めたいわけでもないんだって」
また黙る。
ほんとうに下手だな、と思った。人を試すのも、嘘をつくのも、謝るのも、全部下手だ。こんなに下手なくせに、どうしてそんなことをしたのか。
わからない、ということにした。
わかってしまうと、たぶん俺のほうが困る。
「俺が遠慮しないから、断りにくかったんだと思う。そこは悪かった。……でも、嘘はやめてくれ。次からは無理せず断ってほしい」
「……うん」
「気分とか、いろいろあるだろ。ひとりでのんびりしたいとか、今日は顔見たくないとかさ。いつも急に押しかけてるの、俺のほうだし」
「君の顔を見たくなかったわけではない」
「そこを拾うなよ」
思わずそう返すと、ベレトは目を伏せた。真面目に受け取ったのか、言葉の選びどころを間違えたと気づいたのかはわからない。
「でも、嘘をついた」
「そこはまあ、そうだな」
「すまない」
「……謝られると、こっちも困るんだよ」
ほんとうは、困るだけではなかった。
断られたことより、理由を聞けなかったことのほうが痛かった。けれど、それを言えば言うほど、自分があの部屋に何を求めていたのかまで白状することになる。だから俺は、困る、なんて曖昧な言葉で濁した。
ベレトは、腰を上げて少しだけこちらへ寄った。
触れるほどではない。けれど、さっきまであった距離よりは近い。
それでじゅうぶんだと思ったのか、ベレトはそれ以上、何も言わなかった。俺も、何も聞かなかった。聞けばきっと、奥まで行ってしまう予感があった。
それから、頻度は少しずつ戻っていった。
何もなかったように、とまではいかない。むしろ、何かがあったからこそ、前より慎重になった。
夜、空いてるか、と聞けば、ベレトは相変わらず早く返事を寄越す。だが、たまに断るようにもなった。俺のほうも、仕事が詰まっている日は、今日は無理だと送るようになった。
おかしなことに、どちらもそこへ理由を添えた。
今日は疲れている。
仕事が長引いた。
明日の朝が早い。
買い出しに行くつもりだった。
ひとりで片づけたいことがある。
書かなくてもよいことばかりだった。俺たちはべつに、互いの予定を報告し合うような関係ではない。断るなら断るだけでいいし、都合がつかないならそれだけで済む。なのに、理由をつける。まるで言い訳するみたいに。
何に対して弁解しているのかは、よくわからなかった。
けれど、それで前よりずっと自然でいられる気もした。
その自然さが、余計に苦しかった。
飯を食べて、お茶を飲んで、どうでもよい話をして帰る夜がある。泊まっても何も起きない夜がある。ベレトが本を読んで、俺が隣で仕事の返事を片づけて、日付が変わるころにどちらともなく寝る夜がある。
健全だな、と思った。
思った瞬間、嫌になった。
健全でいられるなら、どうして俺はまだ、あの男にすがる必要があるのだろう。
行為の前には、いつも少しだけ、かわいそうな自分を思い出そうとした。ベレスに勝手に失恋して、夜中にベレトの部屋へ転がり込んで、酒のにおいをまとったまま慰めてくれと頼んだ自分。格好がつかなくて、みっともなくて、彼のやさしさに甘える理由としては、いくらかわかりやすい自分。
それでも、その傷はもう、最初の夜ほど鮮やかではなかった。
擦り切れて、色褪せて、同じ場所をなぞりすぎた紙みたいに薄くなっている。それでも俺は、そこを見せるふりをした。まだ痛いんだと、まだ大丈夫じゃないんだと、そういう顔をしていれば、ベレトが俺に触れる理由が残る気がした。
ベレトは、いつも慰めた。
かわいそうな俺を、いつも、丁寧に抱いた。
それがほんとうに慰めだったのかどうかは、考えないことにしていた。
外で会うようになったのは、どちらが言い出したのだったか、よく覚えていない。
いつも部屋に行くばかりなのも変だろ、と俺が言った気もする。ベレトが、買いたいものがある、と珍しく用件らしい用件を口にした気もする。どちらにせよ、大した始まりではなかった。
駅前で待ち合わせて、店を回って、飯を食べた。
それだけだった。
それだけなのに、妙に疲れた。悪い意味ではない。むしろ、普通に楽しかった。ベレトは相変わらず表情が薄いくせに、食べ物を前にすると目元がかすかに綻ぶ。俺が適当に選んだ店で、出されたものを黙々と食べて、ときどき短く感想を言う。
そういうのを見ている時間が、嫌ではなかった。
嫌ではないどころか、ずっと続けばよいとすら思った。
帰り道、俺たちは駅へ向かって歩いていた。夜の通りにはまだ人が多くて、店の明かりがあちこちに残っている。隣を歩くベレトの肩が、たまに俺の腕に触れそうになる。触れそうで、触れない。
恋人みたいだな、と思った。
思った瞬間、足元が少しだけ危うくなった。
違う。そういうものではない。俺たちはただ飯を食って、買い物をして、同じ方向へ歩いているだけだ。たったそれだけのことに、余計な名前をつけるほうがおかしい。
そう言い聞かせたところで、気休めにもならなかった。
角を曲がった先に、派手な明かりが見えた。
見覚えがある、というほどではない。だがどういう場所かはすぐにわかる。駅へ向かうなら、べつの道もあった。そちらを選べばよかった。けれど俺は、なぜか歩調を変えなかった。
ベレトも、何も言わなかった。
その沈黙に、また勝手に意味を見てしまう。
「……寄ってくか」
軽く言ったつもりだったのに、心臓がうるさい。
ベレトがこちらを見る。
責めるでもなく、驚くでもなく、ただ確かめるように見てくる。その目が、俺をいたわるときのものとあまり変わらないことに気づいて、ますます胸が苦しくなった。
「ああ」
あんなに普通に飯を食って、普通に歩いて、普通に帰れるところまで来ていたはずなのに、結局ここへ落とすのか。
家では何もしない夜がある。飯だけ食って帰る夜もある。彼の部屋着を借りて、ただ眠るだけの夜もある。
それなのに、外で普通に楽しかった帰り道には、こうなる。
俺たちの関係は、どこまで行ってもここへ戻らないとかたちを保てないのか。おぼつかない輪郭が、明るすぎる光に照らされている。
終わったあと、いちばん腹が立ったのは、ベレトがいつも通りだったことだ。
いつも通り、水を置いた。気分は悪くないかと聞いた。寒くないかと確かめた。備えつけの薄い布団を、こちらの肩まできちんと引き上げた。
場所が変わっただけだった。
部屋の照明は安っぽいし、壁紙は煙草の煙を吸って黄ばんでいるし、擦りガラスの向こうには見慣れない街の雑踏が滲んでいた。どこをどう切り取っても、あの静かな部屋の延長にはない。棚の上の贈り物もない。いつものグラスもない。朝になれば食べていけと言われる台所もない。
それなのに、彼だけは変わらなかった。
どこまでも日常の延長みたいな顔をして、こちらを見ている。ひどく整った、きれいな顔だった。そう思ってしまったことがまた気に食わなくて、俺は渡された水を半分ほど飲んでから、ボトルを乱暴に置いた。
「機嫌が悪いのか」
「べつに」
「そうは見えない」
自分でもずいぶん子どもじみたことをしていると思った。
彼は怒らなかった。困った顔もしなかった。ただわずかにまつ毛を伏せて、俺が乱暴に置いたボトルをテーブルの奥へ寄せた。倒れないように、というだけの動きだった。その小さな気遣いまで目について、いよいよ嫌になる。
ここなら、もっと軽く済ませられると思っていた。
そういうことをするための場所で、そういうことをしただけなら、何かを間違えずに済む気がした。飯を食って、茶を飲んで、部屋着を借りて、歯ブラシを使って、朝になればまたと言われる、あの部屋の中の続きではないのだと、言い訳できる気がした。
それを、ベレトは赦してくれなかった。
どこへ連れて行っても、同じように水を置く。同じように髪に触れる。同じように、こちらが嫌だと言えばやめるつもりの顔をしている。
気を遣われている。
そう思った瞬間、心底みじめになった。
みじめなのに、その手を振りほどけない。差し出された水を飲み、肩にかけられた布団もそのまま受け入れている。髪に触れようとする手が近づいてきても、避けることはしなかった。
避けなかったくせに、俺はふてくされた顔をしている。
最悪だ。いくらなんでも格好がつかない。
「クロード」
「なんだよ」
「もう少し休んでから出よう」
その言い方が、小さな引っかき傷のように耳に残った。帰るでも、休むかでもない。ここを出ることだけは決まっていて、それでも今すぐではなくていい、という言い方だった。
そういう場所にしたかったはずなのに。
用が済んだら出ていくような、軽くて、後に残らない場所に。それなのにベレトは、そこでもやっぱり俺を急がせなかった。
「……わかった」
「無理はしなくていい」
ベレトはそれだけ言って、もう何も聞かなかった。
俺は枕に顔を埋めたくなった。
慰めに押し込めるつもりだった。健全になりかけたものを、ちゃんと不健全な場所に戻して、かわいそうな自分が慰めてもらうだけのかたちに戻すつもりだった。
でも、戻らなかった。
彼が、戻してくれなかった。
どこで何をしても、この男は俺を雑に扱ってくれない。
それがいちばん、たちが悪かった。
しばらくして部屋を出た。
受付も、廊下の照明も、出口の自動扉も、どこか白々しかった。用が済んだら何事もなかった顔で出ていけるようにできている場所なのだと、いまさらのように思う。
それなのに、隣を歩くベレトの横顔は、相変わらずだった。何もなかったような顔ではない。けれど、あったことをこちらに背負わせるような顔でもない。
それが、嫌だった。
「駅まで送ろうか」
「いい。ひとりで帰れる」
「そうか」
彼はそこで無理に食い下がらなかった。
送ると言われても困る。引かれても困る。何をされても、どうせこちらは勝手に傷つくのだろう。そんなことはわかっているのに、わかっているだけでどうにかなるなら、そもそもこんな場所には来ていない。
「気をつけて」
別れ際、彼が言った。
打ちのめされてあの部屋へ向かった夜と、同じ言葉だった。
どうにか口角を上げて、手を上げた。
うまく笑えていたかどうかは、わからない。
それから少しのあいだ、ベレトの部屋へ行く頻度は落ちた。
避けていた、というほどではない。連絡が来れば返したし、こちらからも何度か送った。飯も食ったし、お茶も飲んだ。何もない夜もあった。何かある夜もあった。
ただ、送信する前に数秒ほど指が止まるようになった。
夜、空いてるか。
今日、行っていいか。
その短い文面を打つたびに、あの白すぎる廊下と、急がなくていいと言ったベレトの声を思い出した。
どうにか、初めのころの俺たちに戻したかったはずなのに、結局戻らなかった。
その失敗だけが、いやに後を引いている。
ベレスに恋人ができたらしい、と耳にしたのは、それから数日経ったある日のことだった。
昼休みに入った店で、共通の友人が天気の話でもするみたいに、あっさりと口にした。
その場では、へえ、とだけ返した。思ったより普通の声が出た。
代わりに、席を立つ。考えるより先に、身体が動いた。
「悪い、ちょっと」
誰も深く聞かなかった。俺は店の奥にある狭いトイレへ入り、鍵をかけて、鏡の前に立った。
ひどい顔をしていると思ったのに、そうでもなかった。
泣く権利も、誰かに心配されるほど打ちのめされる資格も、もう自分にはないのだと突きつけられた気がした。
それがいちばん、こたえた。
スマートフォンを取り出す。ベレスの名前ではなく、ベレトの名前を探していることに気づいたのは、もう画面を開いたあとだった。
どうして連絡するのか、自分でもわからなかった。
会って何を言うつもりなのかもわからない。ベレスの話を聞いて、ベレトに会いたくなるなんて、いくらなんでも筋が通らない。最初の夜から何も変わっていないみたいで、笑えた。
夜、空いてるか。
送ってから、指先が冷たくなった。
取り消すならいまだった。何でもない、間違えた、また今度にする。いくらでもごまかせる。しかし画面にはすぐ既読がつき、短い返事が届いた。
空いている。
スマートフォンをポケットの中にしまい、しばらく鏡の中の自分を見た。やっぱり、ひどい顔ではなかった。
少なくとも、誰かに心配されるほどではない。席へ戻れば、たぶんいつも通りに笑える。
俺は手を洗い、何もなかった顔を作って席へ戻った。
ベレスの話題は、もうべつの話に流れていた。誰かが仕事の愚痴を言って、べつの誰かが笑っている。そこに座り直して、俺も適当にあいづちを打つ。
スマートフォンの中には、ベレトの返事がある。
それだけで、さっきより少しだけましな顔をしている自分がいる。
ほんとうに、どうしようもなかった。
店を出るころには、もういつもの顔に戻っていたと思う。
ベレスに、そういう相手がいるのかもしれない。そう聞いた。少しだけ、さびしかった。
だが、本人に確かめようとは思わなかった。相手が誰なのか、いつからなのか、どんな顔で笑っているのか。知りたいことはいくつか浮かんだが、べつに知らなくてもよかった。
知らなくても、たぶん、もう生きていける。
そんな大げさな言い方をするほどのことでもない。いや、失恋した夜の俺なら、きっとそうは思えなかった。あの夜の俺は、ベレスの言葉ひとつで足元がおぼつかなくなって、彼女の弟の部屋へ逃げ込んだ。ばかなことをたくさん言った。
それを思えば、ずいぶんましになったものだ。
そういう顔をして、俺はいつもの店で手土産を買った。ベレトが食べるもの、余っても困らないもの、明日に回せるもの。選ぶ手順は、もうほとんど考えなくても済むようになっていた。日持ちする焼き菓子と、前にうまいと言っていた惣菜をひとつ。ついでにペットボトルのお茶を買う。いつも通りだ。
そう思いながら、袋を提げてベレトのマンションへ向かった。
インターホンを押すと、すぐにどうぞ、と返ってくる。その声を聞いて、息が深くなる。緊張していたことには、気づかないふりをした。そういうものは、直視しないほうがうまくいく。
部屋の前でチャイムを鳴らす。扉が開いて、ベレトが顔を出した。
手土産の袋を渡すと、彼は無言でそれを受け取った。けれど、いつものようにすぐ台所へは向かわない。皿を出すことも、お茶を淹れることも、先に靴を脱げと促すこともしない。ただ袋を持ったまま、玄関のたたきの上でこちらを見据えている。
それだけで、肺の奥がぎゅっと縮むような錯覚を覚えた。
何かあったのだと、彼にはわかっている。俺がいつも通りの顔をして、いつも通りのものを買って、いつも通りここへ来たつもりでいることまで、おそらくすべて。
責められているわけではない。
問い詰められているわけでもない。
ただ、いつもの夜のかたちにしてくれない。
その沈黙の中で、用意してきた言い訳が音もなく剥がれ落ちてゆく。
「……たぶん、もう大丈夫なんだと思う」
口にした瞬間、自分でも驚いてしまった。
こんなに早く切り出すつもりはなかった。少なくとも、靴も脱がないうちに、手土産の袋を渡したまま、玄関先で言うことではない。
ベレトの指が、袋の持ち手をわずかに握り直した。
それだけで、続きを待たれているのだと悟る。
「ベレスのこと」
声の出し方を忘れたように、喉がこわばった。
「そういう相手ができたんじゃないかって、聞いた」
ベレトは、すぐには答えない。
彼が何かを返す前に、俺は言葉を継いだ。ここで間を置けば、たぶん何かを聞かれる。聞かれたら、答えられなくなる。だから、なるべく平らな声になるように気をつけながら、用意してきたわけでもない言葉を、用意してきたみたいに並べた。
「ほんとうかどうかは知らない。俺も、確かめるつもりはない。相手が誰なのかとか、いつからなのかとか、気にならないわけじゃないけどさ、聞いたところでどうにもならないだろ。ベレスが誰かとそういうふうになったとして、俺が何か言えるわけでもないし、言いたいわけでもない。だから、たぶんもう大丈夫なんだと思う」
言い終えてから、吸い込んだ空気が胸のあたりでつかえた。
うまく言えた。うまく言いすぎた。
ベレトは動かなかった。知らない、とも、そうか、とも言わない。その沈黙が、いま並べたものを簡単には受け取らないと告げているようで、俺は思わず目を逸らした。
「もう、慰めてくれなくていい」
そこまで吐き出して、ようやく、自分が何を言いに来たのか理解できた。
最後まで、自分の都合でしかないことぐらいわかっている。勝手に失恋して、勝手に転がり込んで、勝手に慰めてもらって、勝手にもう大丈夫になったから終わりにしようとしている。
「都合のいい話だけどさ」
そう続けようとしたところで、ベレトが口を開いた。
「それを、君が言うのか」
怒っている、とわかった。
声を荒らげたわけではない。顔が大きく歪んだわけでもない。それでもわかった。ベレトは怒っている。たぶん、俺が想定していたのとはまるで違う場所で。
「……何が」
「都合がいいかどうかを、君が決めるのか」
「いや、だって、そうだろ。俺はあんたのことを、ずっと」
「知っていた」
遮られて、息が止まる。
「君が昔からベレスを好きだったことはもちろん、その傷を抱えたまま自分のところへ来たことも、都合よく扱われていることも、全部知っていた」
ベレトの声は平淡だった。平淡なのに、逃げ場がない。
「それでも、自分は君を迎え入れた。君の話を聞いた。君に触れた。君を抱いた」
「……やめろよ」
「やめない」
即座に返されて、返す言葉を見失う。
ベレトは、一歩も動かなかった。何でもない夜のかたちに戻すつもりがないのだと、その姿だけでわかる。
「君は、自分が一方的に使ったと思っているのか」
「そうだろ」
「違う」
ただの否定の言葉なのに、頬を殴られたような痛みがあった。
「君が来るのが嬉しかった。君が自分の部屋で食事をするのが嬉しかった。君が歯ブラシを使うのも、部屋着を着るのも、何もせずに眠るのも、帰り際にまたと言えることも、全部、嬉しかった」
「……ベレト」
「君が触れてくるのを待っていた夜もある。帰らなければいいと思った夜もある」
聞きたくなかった。聞いてしまえば、俺が用意してきた言い訳がすべて崩れる。
「自分が、やさしさだけで君に触れたと思っているのか」
そのひと言で、言葉が喉の奥に張り付いた。
ベレトは、短く息を吸った。怒りを抑え込むように。
それでも、目だけは逸らさなかった。
「君が自分を都合よく使っただけだというかたちにすれば、楽なのかもしれない。悪かったと言って、自分を解放したつもりになれば、それで終われるのかもしれない」
違う、と言いたかった。でも言えなかった。当たっていたからだ。
「でも、こちらの欲まで、君がきれいに片づけようとするな」
低くて、ひどく静かな声だった。
「自分は、君に頼まれたから触れたんじゃない。かわいそうだったから抱いたんじゃない。君がほしかったから、触れた」
手元の袋が、かすかに音を立てた。彼の指に力が入っているのがわかる。
「都合がよかったのは、君だけじゃない」
俺はてっきり、こちらが一方的に傷つけているのだと思い込んでいた。やさしさに甘え、泥を塗りつけ、それでも最後にはきれいなまま手放してやれるつもりでいた。
だが、ベレトは手放される側に立っていなかった。
ずっと、同じ場所にいた。
俺が見ないふりをしていただけで。
「……そんなの、言われなきゃわかるわけないだろ」
ようやく絞り出した声は、情けないほど掠れていた。
「言ってないからな」
「なんで」
「君がベレスを好きだったから」
あまりにもまっすぐに言われて、頭の芯が痺れた。
「それでも、君が自分のところへ来た。ひどい思った。嬉しいとも思った。どちらもほんとうだった。だから、君だけが汚いわけではない」
その言い方が、いちばん残酷だった。
俺が抱え込もうとしていたものを、ベレトは半分奪ってゆく。俺だけが悪かったことにして、きれいに終わらせようとしたものを、そんなふうには終わらせないと突きつけてくる。
「君がもう大丈夫なら、それはいい」
ベレトは言った。
「ベレスのことで、君が苦しまないなら、それはいいことだと思う」
そこで一度、言葉が途切れる。
「でも、自分が君にしてきたことを、慰めという言葉だけで片づけないでほしい」
胸の奥が締め付けられて、声が出なかった。
手土産の袋を持ったまま、ベレトはまだ玄関に立っている。いつもなら、もうとっくに靴を脱いで、お茶を飲んで、何でもない夜のふりをしているはずだった。
今夜だけは、そうしてくれない。
俺が逃げるために整えた言葉を、ひとつも通してくれない。
「……どうしてほしいんだよ」
気づいたら、そう口走っていた。
ただの八つ当たりのようにも聞こえる声が情けなく震えていて、それがまた腹立たしかった。
ベレトは、そこで初めて視線を落とした。
怒っていた顔が、わずかに崩れる。
「わからない」
「わからないって」
「でも、君が勝手に終わらせるのは嫌だ」
まっすぐな言葉だった。
不器用で、身も蓋もなくて、逃げ道のない言葉だった。
俺は、しばらく何も言えなかった。言い返せることなら、いくらでもあったはずだ。終わらせようとしたわけじゃないとか、あんたのためを思ったとか、もうこれ以上甘えるのは違うと思ったとか。どれもきれいな顔をしていて、そのぶん、ひどく薄かった。
ベレトはまだ、手土産の袋を持ったまま玄関に立っていた。持ち手を握る指の関節が、白く張っている。さっきまでの静かな苛立ちが、そこに残っているように見えた。
「じゃあ、俺はどうすればいい」
責めるつもりだったのか、すがるつもりだったのか、自分でもわからなかった。言った瞬間、どちらにも聞こえる声だと思った。
彼は唇を引き結び、ほんの数秒だけ言葉を探す。その沈黙のあいだに、俺はまた逃げる言葉を探しかけた。わからないならいい。今日は帰る。今度にする。何でもいい。ここから出てゆくための言葉なら、まだいくらでも作れた。
だが彼が顔を上げるほうが早かった。
「帰らないでほしい」
小さな声だった。
それから、遅れて付け足す。
「今夜は」
ずるい言い方だった。
ずっと、とは言わない。これからも、とも言わない。そのくせ、目は逸らさない。彼の手には、まだ力が入っている。
俺は何か言い返そうとして、失敗した。
帰るつもりで来たわけではない。終わらせるつもりでは来た。けれど、それは同じではなかったのだと、いまさらわかる。俺はベレトを解放しに来たつもりで、実際には、玄関先で自分の逃げ道だけを整えていた。
「……わかった」
声に出してから、少しだけ息が抜けた。
彼はすぐには動かなかった。こちらの返事を確かめるように、しばらく俺を見ていた。それからようやく、手土産の袋を持ち直す。
「上がって」
その言葉で、自分がまだ靴も脱いでいなかったことを思い出した。
足は、すぐには動かなかった。玄関のたたきに立ったまま、俺は彼の手元にある袋を見つめる。
終わらせるために持ってきたつもりだった。いつも通りの顔をするために買って、いつもの夜に紛れ込ませてしまうつもりでいたのに。
ベレトは、その袋を持ったまま言った。
「これはいまから食べる」
「……決定かよ」
「君が買ってきてくれた」
「買ってきたけど、いますぐ食えとは言ってない」
「だから、いまから食べる」
そんなむきになる話でもないのに、ベレトは譲らなかった。
「お茶を淹れる。君は先に風呂を使ってくれ」
「なんで急に指示が多いんだよ」
「決めたほうがよさそうだから」
そう言われて、黙った。
たしかに、何も決められなかった。帰るのか、帰らないのか。終わるのか、終わらないのか。さっきまで自分できれいに片づけようとしていたくせに、ベレトにひとつずつ壊されたあとでは、どこに足を置けばいいのかわからなくなっていた。
だからベレトが決めた。
手土産はいまから食べる。お茶を淹れる。俺は風呂を使う。それだけのことなのに、ずいぶん先まで決められたような気がした。
「泊まるって決まったのか」
「帰らないと言った」
「俺はわかったって言っただけだろ」
「同じではないのか」
「微妙に違う」
そう返すと、ベレトはまた問い返してくる。
「では、帰るのか」
聞き方は静かだった。責めるようでも、試すようでもない。ただ、ほんとうにそこを確かめている声だった。
帰れるのか、と聞かれたわけではない。帰るな、と言われたわけでもない。だからこそ、答えに詰まった。
帰ろうと思えば帰れた。玄関を出て、エレベーターに乗って、駅まで歩けばいい。終わらせるために来たのだから、そのまま背を向ければ理屈は通る。けれど、もう理屈で片づく話ではなくなっていた。
「……帰らない」
言ってしまってから、喉が乾いていることに気づく。
ベレトは小さくうなずいた。
「なら、靴を脱いで」
当たり前のことみたいに言われて、少しだけ笑いそうになった。
靴を脱ぐというたったそれだけのことが、やけにむずかしかった。
俺は玄関のたたきに視線を落とし、土埃のついた自分の靴を見た。ここへ来るまでに踏みしめてきたアスファルトと、けじめをつけるために買った手土産と、ベレトに叩きつけられた言葉が、全部そこに残っているような気がした。
帰らないでほしい。今夜は。
その言葉を思い出しながら、俺は片方ずつ靴を脱いだ。