ベレトス双子設定で、レト→クロ→レスが前提で、ベレスに失恋したクロードがベレトに慰めてもらう話。ベレト視点。
『またその靴を履くかもしれないし』と大筋は同じで序盤はほぼ同じ。途中からちょっと違いますが、ハッピーエンドです。
こちらもいつも以上に自分向けに書いたものなので、苦めです。
@Bombwooo
クロードがベレスの部屋へ行くと知ったのは、三日前のことだった。
ベレスから連絡があった。今度、何人かで集まるのだという。料理を作るほどのことではなく、酒と簡単なものを用意して、話すだけの集まりだと彼女は言った。その中に、クロードの名前があった。
それだけで、手が止まった。
おもしろくない、と思った。
ベレスの部屋に誰が来ても、自分には関係がない。クロードがそこへ行くのも、おかしなことではない。彼はベレスと親しいし、ほかの友人たちも来るのなら、なおさら自分が何かを言うことではなかった。
でも、おもしろくはなかった。
「ベレトも来る?」
ベレスは、いつもの調子でそう聞いた。深い意味もない。単に、自分にも声をかけておこうと思ったのだろう。
「行かない」
「そっか。もし気が向いたら教えて」
「うん」
自分は、ベレスとクロード以外に共通の知り合いがいるわけではない。行けば、ベレスは気を遣うだろうし、クロードはうまく場を回すだろう。そして自分はその横で、クロードがベレスを見るところを見ることになる。
それは嫌だった。理由はよくわからない。ただ嫌だということだけを、自分は知っていた。
だから、今日は早く寝るつもりだった。
明日の準備は終わっている。洗い物もない。部屋もいつも通り片づいている。寝ようと思えば、すぐに寝られる状態だった。
けれど、眠気は来なかった。
クロードはいま、ベレスの部屋にいる。そう思うと、何をしていても手が遅くなった。彼はたぶん、いつものように笑う。誰かが話しやすいようにあいづちを打ち、場が重くなれば軽くして、ベレスが笑えばそれを見る。
そこまで考えて、やめた。続きを考えたところで、見たくないものがもっとはっきりするだけだった。
ふいに、そばに伏せていたスマートフォンが震えた。
画面にクロードの名前が出ているのを認めた瞬間、身体が跳ね起きた。寝るつもりでいたのに、眠気はどこにもなかった。そのことに、起き上がってから気づいた。
まだ起きてるか?
短い文面だった。
起きている、と打つつもりで、指が一度滑った。すぐに消して、打ち直す。送る文面には何も残らない。けれど、さっきの一文字だけで、自分の手が落ち着いていないことはわかった。
起きている。
送ると、すぐに既読がついた。
いまから飲める?
自分は飲まない。
知ってる。付き合ってくれって意味。
この時間に、クロードが飲みたいと言う。ベレスの部屋にいるはずの夜に、自分へ連絡してくる。しかも、付き合ってくれ、と書いている。
何かあったのだとわかった。
彼がつらい顔をしているのなら、それはよくない。そう思うべきだったし、実際そう思った。けれど、それより先に、彼が自分へ連絡してきたことがうれしかった。
自分は、ひどい人間だと思った。
近くに二十四時間営業の店がある。
外はいやだ。
なぜ。
いまは、知らない奴に顔を見られたくない。
それで、もうじゅうぶんだった。
彼は、うまく笑えなくなっている。少なくとも、自分ではそう思っている。そうでなければ、知らない人間に顔を見られたくないとは言わない。彼はそういうことを、うまくやり過ごせる男だった。
あんたの部屋に行ってもいいか。
その文面を、しばらく見ていた。
来てほしくなかった。でも、来てほしかった。
構わない。
送ってから、息を吐いた。自分の部屋に来る。クロードが、ここへ来る。そう思うと、何をすればいいのかわからなくなった。
ひとりで待つより、迎えに行くほうがまだましだった。部屋で待っていると、いろんなことを考えてしまう。クロードがどんな顔で来るのか。何を持ってくるのか。ベレスの部屋で何があったのか。その全部を、待っているあいだずっと考えることになる。
迎えに行こうか。
返事はすぐに来た。
いいよ。道なら覚えてるし、こんな夜遅くに出歩くと危ない。
それも、クロードらしい断り方だった。彼のほうがよほどひどい顔をしているはずなのに、こちらが夜に出ることを気にする。そういうところまで、いつも通りだった。
だから余計に、いつも通りではないのだとわかった。
わかった、待ってる。気をつけて。
送ったあとも、しばらく画面から目を離せなかった。
待っている。自分でそう送ったのに、その言葉でますます落ち着かなくなる。
部屋は片づいている。散らかったものはない。洗い物もない。クロードが来るからといって、何かを急いで隠す必要もなかった。それでも一度、部屋を見回した。低いテーブル、ソファ、壁際の棚、台所。いつもと同じ場所に、いつもと同じものがある。
同じなのに、少し違って見えた。
彼が、ここへ来る。そう思うだけで、部屋の中のものがひとつずつ意味を持つような気がした。彼はどこに座るのか。何を見るのか。何を言うのか。水はあったほうがいい。グラスもいる。酒を飲みたいと言っていたから、何か持ってくるかもしれない。
台所へ行き、グラスを出した。水も用意した。お茶も冷蔵庫から出しかけて、いったん戻した。何をするにも早い気がした。早いのに、何もしないでいることもできなかった。
迎えに行く、と言いきればよかった。
歩いているあいだは、考えなくて済む。マンションの下でクロードの姿を探し、見つけたら声をかける。それだけでよかった。部屋でひとり待っていると、彼が来るまでの時間がそのまま胸の中に溜まってゆく。
クロードがどんな顔で来るのか。
ベレスの部屋で、何があったのか。
なぜ、自分のところへ来るのか。
考えたくなかった。けれど、待っているあいだ、考えずにいる方法がなかった。
スマートフォンを何度か見た。新しい通知はない。来ると言ったのだから来るのだろう。そう思っても確認したくなる。やっぱりいい、と送ってくるかもしれない。酔った勢いだったと気づくかもしれない。途中でひとりになりたくなるかもしれない。
それがいちばんよいかたちなのだと、頭ではわかっている。
部屋番号を呼び出す音が鳴った。
身体が先に動いた。玄関のほうへ向かい、画面を見る。そこにクロードの顔が映っていた。
現実なのか、と思った。
クロードが、マンションの入口にいる。画面越しの顔は薄暗く、表情まではよく見えない。それでも、いつものように笑っていないことだけはわかった。
「どうぞ」
自分の声は、思ったよりいつも通りだった。
通話を切ってから、深呼吸をひとつする。エレベーターが上がってくる時間を数えようとして、すぐにやめた。数えたところで早くなるわけではない。
もう一度、チャイムが鳴った。
扉を開ける。
クロードは、コンビニの袋を片手に提げて立っていた。いつも通りの顔をしているつもりなのだろうと思った。口元には少しだけ笑みのかたちがあったし、肩にも余計な力は入っていないように見えた。
でも、目が違った。
それから、袋の中に見えた缶で、だいたいわかった。度数の高い酒がいくつも入っている。お茶もある。つまみらしいものもある。ひとりで潰れるための量ではないが、まともに飲むための量でもなかった。
ベレスの部屋で、何かあったのだと思った。
ひどい、と思った。
そう思ったすぐあとで、自分のもとへ来てくれた、と思った。
それもひどいと思った。
「入って」
それだけ言って、扉を大きく開けた。
クロードはわずかにこちらを見た。似ている、とでも言いたげな顔だった。
すぐに目が逸れる。逸らされたことはわかったが、何も言わなかった。掛ける言葉がなかった。
彼を中へ入れる。扉を閉める。鍵をかける。その音が、いつもより大きく聞こえた。
クロードは部屋へ入って、あたりを見回した。
「何もない部屋だな」
「必要なものはある」
いつもなら、それで終わる。けれど今夜は、クロードの視線が長く棚の上に留まった。もらったものを置いてある場所だ。ベレスからもらったものもある。べつに隠す理由はなかったが、今夜見られるのはまずかったといまさら気づく。
「じゃあ、あれも必要なもの?」
クロードが顎で示す。
「もらったものだ」
「誰に」
「ベレス」
答えてから、クロードの顔を見た。ほんの少しだけ、彼の目が動いた。
聞かないほうがよかったと思っている顔だった。自分で聞いたのに、傷ついた顔でもあった。
わかりやすい、と思った。でも、それを言うのは違う気がして、気づかないふりをする。
クロードはすぐに笑うような顔を作った。
「へえ。あんた、物に執着なさそうなのにな」
「自分で買ったものには、あまりない」
「もらったものは?」
棚の上を見た。
捨てていないものがある。高いものではない。使い道もない。けれど、もらったときにうれしかったことは覚えている。だから置いている。
「ある。捨てられないとも思う」
「……捨てられない?」
「もらったとき、うれしかったから」
クロードは少し黙った。
その沈黙が、何に触れたのかはわからなかった。ただ、彼は何かを呑み込んだような顔をした。
「……らしいな」
「そうだろうか」
「そうだよ」
そう言って、クロードはコンビニの袋をテーブルに置いた。
袋の中から酒の缶が見えた。思ったより多かった。言うべきことはいくつかあった。そんなに飲むのか。やめたほうがいい。水を飲め。そのどれもがまだ早い気がした。
クロードはいま、そういうことを言われたいわけではない。だから、言わなかった。
台所へ行き、グラスをひとつ持って戻る。ついでに、さっき出しかけて戻したお茶を取った。酒を取り上げるつもりはなかったし、止める権利があるとも思わない。ただ、お茶は置いておいたほうがよいと思った。
クロードの前に、グラスと茶を置く。
彼はそれを見て、少しだけ笑った。
「言わないんだな」
「何を」
「飲みすぎるな、とか」
「言ってほしいのか」
「……べつに」
そう言って、クロードは酒の缶を開けた。薄い金属の音がした。
自分は向かいに座った。
何かあったのはわかっている。けれど、こちらから聞いてよいのかはわからなかった。聞けば、彼は話すかもしれない。話さないかもしれない。どちらにしても、いまここで自分から踏み込むと、彼が来た理由をこちらが決めてしまう気がした。
だから待った。
彼は缶を傾けた。喉が動く。強い酒のにおいが、こちらまで届いた。
「さっきまでさ、ベレスの部屋にいたんだよ」
「知っている」
「……知ってたのか」
「ベレスから、人が来るとは聞いていた」
「そこじゃなくてさ」
クロードはもう一度、酒を飲んだ。
その顔を見て、やっぱり何かあったのだと思った。うまく笑っているようで、笑えていない。声も軽い。軽すぎる。軽くしないと置けないものを持っているときの声だった。
クロードのことなら、わかることがある。うまく笑っているようで笑えていないことや、声を軽くしすぎていることや、あの量の酒を何でもない顔で持ってくるときには、たいてい何かを抱えていること。そういうものは、見ていればわかる。
なのに、それが自分に向けられたものになると、途端にわからなくなる。
頼られているのか、使われているのか、逃げ場にされているのか。どれも近い気がしたし、どれも違う気もした。少なくとも、彼がここへ来たことはうれしかった。
でも、それをうれしいと思うのは、よくないことだと、自分は知っている。
クロードは缶を持ったまま、しばらく黙っていた。
話すつもりでここへ来たのだと思う。だが、いざ口にしようとするには、足場を失っているようにも見えた。自分は何も言わずに待った。待つことならできる。急かしてはいけないこともわかっていた。
「ベレスがさ」
「うん」
「俺とは、そういうので関係壊したくないって」
その言葉で、だいたいのことはわかった。
だいたいわかったのに、彼が抱え込んできたものの重さが、こちらの腹の中まで落ちてくるのには時間がかかった。
彼は笑おうとしている。笑い話にしたいのだと思った。格好のつかない話だと、自分で先に決めてしまいたいのだろう。
でも、それは笑うことではなかった。
「それを、君は直接聞いたのか」
「聞いた、というか言われた。本人を前にしてだぜ。笑うだろ」
「笑わない」
すぐに答えた。彼が口を閉ざす。
笑ってほしかったのかもしれない。くだらないと言ってほしかったのかもしれない。そうすれば、自分も同じくらい軽いものとして扱えたのだろう。それでも、自分にはできなかった。
彼が傷ついている。それはわかった。そしてその傷を、自分が笑って薄くすることはできないし、したくないと感じていることもわかった。
「そうだよな。あんたは笑わないよな」
「笑うことじゃない」
「……笑ってくれなきゃ、俺が困るんだよなあ」
そう言って、クロードはまた酒を飲んだ。
飲みすぎだった。いま言えば、彼はきっと笑ってごまかす。止めれば、うるさいと言うかもしれない。それでも止めたほうがいいのかもしれない。けれど、その前に、彼が言葉を続けようとしているのがわかった。だから、まだ止めなかった。
クロードは、少しずつ話した。
ベレスのどういうところが好きだったのか。いつから、そういう目で見るようになったのか。自分では隠しているつもりだったこと。いま思えば、どれもわかりやすかったのかもしれないということ。
ところどころで笑おうとしていた。そのたびに、うまく笑えていなかった。
自分は、短くあいづちを打った。ああ、とか、そうか、とか、そのくらいしか言えなかった。気の利いた言葉は出てこない。慰めになる言葉も見つからない。かといって、無理に言葉を足すことだけは違う気がした。
たまに、目が合う。彼は、そのたびに目を逸らした。
似ていると思っているのだろう。それもわかった。
わかったが、どうすればいいのかはわからなかった。似ている顔で、違うものとしてここにいる。自分にできることは、それくらいだった。
缶が空いてゆく。
言葉の順番も、徐々に乱れていった。言わなくてよかったことと、少しだけ言えばよかったこと。これでよかったのだという声と、よくなかったのではないかという声。彼はそのどれもを軽くしようとして、軽くできずにいた。
もう寝たほうがいいと思った。
「……もう寝たほうがいい」
立ち上がると、クロードがこちらを見た。
「眠くない」
「眠そうだ」
「そう見えるだけ」
「そう見えるなら、寝たほうがいい」
そう言って、クローゼットを開けた。客用のマットレスはある。使う機会は多くないが、ないと困ると思って買っておいたものだった。
床へ広げて、シーツを出す。
そのあいだ、クロードは黙ってこちらを見ていた。
「……備えがいいな」
「客用だ」
「俺、客だったんだ」
「いまは」
「へえ。いまは、ね」
声は軽い。
軽いが、酔っていた。
自分はシーツの端を整えた。彼を寝かせる。水を飲ませる。明日の朝、何か食べさせる。そこまでは考えられる。考えられることがあると、気分が楽だった。
「なあ」
「うん」
「慰めてくれよ」
手が止まった。
慰める。
その言葉の意味を、まず自分は普通に受け取った。傷ついた人間にすること。そばにいること。話を聞くこと。必要なら、触れて落ち着かせること。
だから、マットレスから手を離して、クロードの隣に座った。
「ああ」
手を伸ばす。
前髪が乱れていた。指先で避けて、ゆっくり髪をすく。彼は一瞬だけ身じろぎしたが、逃げなかった。だから続けた。泣いているわけではない。けれど、泣いている人間にすることと、あまり変わらない気がした。
彼の髪は、自分のものとは違った。しっかりとしていて、でも艶はある。指ですくと整髪料と汗の混じったにおいがして、腹の底によくないものが溜まってゆく。
「……そういう意味じゃない」
低い声だった。
髪に触れていた手が止まる。
しばらく、意味が入ってこなかった。入ってきてから、頭の中がさっと冷えた。
本気か、と。
彼は酔っている。傷ついている。ベレスの部屋を出て、自分の部屋へ来た。顔が似ているからかもしれない。黙って話を聞くと思ったからかもしれない。ただ、今夜だけの逃げ場がほしかったのかもしれない。
それでも、自分を見ている。
ひどかった。ひどいのに、自分はよろこんでいる。
「では、どういう意味だ」
「言わせるなよ」
「わからない」
わからなかったわけではない。半分ぐらいは、わかっていた。
だが、彼の口から聞かなければならないと思った。酔っているからこそ、傷ついているからこそ、こちらが先に意味を決めてはいけない。そう思った。思ったのに、それだけではなかった。
自分も、確かめたかったのかもしれない。
彼はうまく笑えないまま、こちらへ手を伸ばしてきた。肩に触れるつもりだったのか、頬だったのかはわからない。けれど、触れられる前に、その手首を掴んでいた。
「クロード」
「なんだよ」
「そういう意味なら、条件がある」
掴んだ手首は、思っていたよりあたたかかった。脈がある。酒のせいか、べつのもののせいか、わずかに早い。
ここで受け入れれば、どうなるのかはわかっていた。
彼は自分を見ている。でも、その目の奥に誰がいるのか、自分にはわからない。わからないまま、彼に抱かれる側に回ることはできなかった。
それでは、自分はただの身代わりになる。
それだけは我慢ならなかった。
「君が、自分を抱くんじゃない。自分が、君を抱く」
クロードが固まった。数秒して、彼の顔が赤くなった。
「いやいや、なんでだよ」
「飲めないなら、何もしない」
「酒ならもう飲んでる」
「そういう意味ではない」
「あんたは男を抱いたことがあるのかよ」
「ない。君もないだろう」
「……ない」
「じゃあ、お互い様だ」
「そういうまとめ方するか、普通」
「ほかにどう言えばいい」
わからなかった。
経験があるふりをする必要はない。ないものはない。ただ、それでも譲れないものはあった。そこだけは、うまく説明できなくても変えられなかった。
自分は手を離した。
クロードの手首に、わずかに指の跡が残っている。それを見て、胸が詰まった。
「少し出てくる」
「何を」
「必要なものを買ってくる」
彼の顔つきが変わった。
そこまで考えていなかった顔だった。自分で言い出したことなのに、具体的な手順になった途端、言ってしまったことの重大さに気づいた顔をしている。
「……べつに、そこまでしなくても」
「するなら必要だ」
「しないかもしれないだろ」
「するとなったときにないと困る。だから買ってくる」
それは事実だった。
事実だったが、それだけではなかった。
部屋にいたままでは、たぶん自分が先に揺らぐ。彼の髪に触れた感覚がまだ指に残っている。手首の熱も残っている。このまま近くにいれば、必要な確認を飛ばしてしまうかもしれない。
冷静になる時間が必要だった。
財布と鍵を取る。玄関へ向かう前に、一度だけ振り返った。
「戻ったときに、君がまだ同じことを言うなら聞く」
彼は何も言わなかった。
その顔を見て、怖くなった。
自分が戻るまでに、彼は考えるだろう。やっぱりやめると言うかもしれない。酔っていただけだと笑うかもしれない。帰ってしまうかもしれない。
そうなったほうが、正しい。
それでも、そうなってほしくはなかった。
部屋を出て、鍵を閉める。
夜の廊下は静かだった。エレベーターを待つ時間が長い。階数の表示が変わるのを見ながら、自分の手がまだかすかに熱を持っていることに気づいた。
外に出ると、空気は冷えていた。
コンビニまでの道を、早足で歩いた。冷静になりたかった。彼から距離を置けば、さっきのことを考え直せると思った。それなのに、歩いているあいだに考えたのは、クロードをひとりにしてきたことばかりだった。
酒をまた飲むかもしれない。
帰るかもしれない。
心変わりするかもしれない。
それが怖かった。
怖いと思ったせいで、足がまた早くなった。
必要なものを買って、会計を済ませた。
袋の中に入っているものが何なのか、考えないようにした。考えれば、また足が止まる気がした。
マンションへ戻る道は、来たときより短かった。さっきよりも早足になっていることには気づいていた。けれど、ゆっくり歩くことはできなかった。
エレベーターに乗る。
扉が閉まる。階数の表示がひとつずつ上がってゆく。それを見ているあいだ、呼吸が浅くなった。
帰って、どういう顔をすればいいのかわからなかった。
クロードがまだ部屋にいるとは限らない。いても、さっきと同じことを言うとは限らない。どちらもありうることだったし、どちらを選んでも彼が悪いわけではなかった。
部屋の前に着く。鍵を差し込む指先がもつれる。扉が重い。
扉を開けると、クロードはまだそこにいた。
テーブルの前でじっと座っていた。酒の缶は増えていなかった。少なくとも、開いてはいないように見えた。こちらを見る顔はさっきより酔いが抜けていて、そのぶん、逃げ場も減ったように見えた。
まだいる。それだけで、こわばっていた肩から力が抜けた。
「ただいま」
声は、いつも通りに出たと思う。
「……おかえり」
クロードは少し遅れてそう言った。
その返事で、また何かが崩れた気がした。ここは自分の部屋で、出ていったのも戻ってきたのも自分なのに、おかえり、と言われた。それだけのことを、うまく受け止められなかった。
袋をテーブルに置く。
「水は飲めるか」
「飲もうと思えば」
「気分は悪くないか」
「悪くはない」
「酔いは」
「少し醒めた」
なら、確認しなければならなかった。
水だけを取り出して、袋はそのままテーブルの端へ置いた。それから、彼の前へ座る。距離はさっきと同じはずなのに、少しだけ近く感じた。
「まだ、同じことを言えるのか」
彼はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、肺のあたりが硬くなる。やっぱり、と先に思いかけた。酔っていただけだったのかもしれない。ベレスのことで傷ついて、似た顔の男のところへ来て、吐き出して、それで我に返ったのかもしれない。
それなら、それでよかった。
「言う」
短い声だった。
「あれは、酒のせいではないと?」
「酒のせいだけじゃない」
彼は、今度は目を逸らさなかった。
それで、もうだめだった。
ひどいとか、ずるいとか、そういうことを考える余地が消えた。傷ついたから来たのだろう。ベレスに似ているからだろう。今夜だけの逃げ場なのだろう。そういう言葉はまだどこかにあったはずなのに、ひとつずつかたちをなくしてゆく。
うれしかった。ただ、それだけになった。
クロードがここにいる。酒を飲まずに待っていた。まだ同じことを言う。自分を見ている。
それだけで、胸の中が塗り潰されてゆく。もう、手遅れだった。
「わかった」
そう言うと、彼の肩がわずかに落ちた。緊張していたのだと、そこでわかった。いつものように軽い顔を作って、こちらをからかうようなことを言って、それでも緊張していた。
応えたいと思った。
慰めるためでも、傷を埋めるためでもなく、まずその緊張に応えたかった。彼がここに残って、同じことを言った。そのことを、なかったことにしたくなかった。
「自分は片づけがあるから、君が先にシャワーを浴びてくるといい」
「俺が?」
「酒臭い」
「そりゃしこたま飲んだからな」
「そのまま寝るつもりなのか」
「寝るとは限らないだろ」
言ってから、クロードは唇を引き結んだ。
自分も黙った。
沈黙が落ちる。けれど、さっきまでのものとは違っていた。逃げるためではなく、触れる前に足場を確かめるための沈黙だった。
洗面所のほうを示す。
「タオルは出してある」
「準備いいな」
「必要だと思った」
クロードは何か言いかけて、やめた。その顔が少し困っていて、少しだけ照れているようにも見えた。
やはり、応えたいと思った。
その顔にも、声にも、まだ名前のつかないものにも。
彼が立ち上がる。足がふらついていたので、手を伸ばしかけた。だが、彼は目を逸らした。そこまで踏み込むべきではなかったかと、手を引っ込める。
「気分が悪くなったら言ってほしい」
「はいはい」
「返事は一回でいい」
「そこは細かいな」
彼はそう言って、控えめに笑った。
今度は、さっきよりましな笑い方だった。
その顔を見送ってから、自分はテーブルの上を片づけた。開いた缶を端へ寄せる。まだ開いていないものは袋へ戻す。買ってきたものは、見えない場所へ置いた。見えなくしたところで、なくなるわけではない。
それでも、いまは見えないほうがよかった。
浴室から、シャワーの音がした。
その音を聞きながら、マットレスを見た。さっき敷きかけたままのそれは、床の上で半端に広がっている。彼を寝かせるために出したものだった。今夜を、そういう夜にしないためのものでもあった。
でも、もう使わないだろうと思った。
そう思った瞬間、耳の奥がどくどくと鳴った。
自分で決めて、片づけた。薄い掛け布団も、枕も、もとの場所へ戻す。
逃げ道を片づけたようにも見えた。
ひどいけれど、どうしてもそうしたかった。
テーブルの上に水を置く。グラスは新しいものに替えた。酔い覚ましの飲み物も出しておく。必要なものを必要な場所に置いていくと、気持ちが落ち着いた。
浴室の音が止まる。
しばらくして、クロードが戻ってきた。用意しておいた部屋着も、窮屈ではなさそうだった。濡れた髪をタオルで拭きながら、彼は部屋の中を見て、それから床へ目を落とした。
「……俺の寝床、どこ行ったんだよ」
「片づけた」
「なんで」
「使わないだろうと思った」
クロードは黙った。
その沈黙で、自分が何をしたのか、少し遅れて理解した。客用のマットレスを片づけた。薄い掛け布団も、枕も戻した。水は置いた。寝室の扉は半分だけ開けたままにしてある。
ひとつずつ見れば、大したことではない。
だが、並べてしまえば答えだった。
もう後には引けない、と思った。
引くつもりで片づけたわけではない。むしろ、引かないために片づけた。そう気づいても、いまさら戻す気にはなれなかった。
「気分は」
「悪くない」
「水は」
「飲んだ」
「ならいい」
自分はうなずいて、浴室のほうを見た。
「自分もシャワーを浴びてくる」
「……いまから?」
「いまから」
「はいはい」
「返事は一回」
「まだ言うのかよ」
彼はまた笑った。
その笑い方が、さっきよりずっと耳に馴染む。うまく笑えている、と思った。そう思っただけで、頬のあたりが熱くなる。
浴室へ入って、頭からシャワーを被った。でも、冷静にはなれなかった。
ただ、頭ははっきりした。はっきりしたぶんだけ、マットレスを片づけたことも、水を置いたことも、寝室の扉を開けたままにしていることも、全部自分が選んだのだとわかった。
クロードはまだ部屋にいる。
それだけを考えた。
湯を止めて、髪を拭く。鏡の中の自分は、いつもとあまり変わらない顔をしていた。そう見えるだけだと思った。胸の内は、少しも穏やかではなかった。
部屋へ戻ると、クロードはテーブルの前に座ったまま、水の入ったグラスを眺めていた。
こちらに気づいて、顔を上げる。
「遅い」
「そうだろうか」
「いや、べつに」
彼はそう言って、またグラスに視線を戻した。
寝室の扉は、まだ半分開いている。
彼も、それに気づいているはずだった。気づいていて、何も言わない。言わないまま、立ち上がる。少しだけ足元が不確かだったが、今度はこちらから手を出さなかった。
彼は一度だけ、片づけられた床を見た。
そこにはもう何もない。そのあと、こちらを見る。
「……ほんと、勝手だよな」
「そうかもしれない」
「否定しろよ」
「できない」
そう答えると、彼は困ったように肩をすくめた。
自分は寝室のほうへ歩いた。先に行きすぎないように、途中で立ち止まる。クロードが来るのを待った。
待っているあいだ、呼吸が浅くなった。
彼はゆっくりこちらへ来た。逃げようと思えば逃げられる歩幅だった。けれど、逃げなかった。
そのことが、またうれしかった。
「クロード」
「なんだよ」
「嫌になったら言ってほしい」
「……言うよ」
「うん」
「そっちこそ、我慢しなくていいからな」
少しだけ、意味がわからなかった。
下ろされた前髪の隙間から、彼がまっすぐこちらを見て言った。
「嫌になったら、ちゃんと言えよ」
自分が嫌になる可能性を、クロードは考えている。酔っていて、傷ついていて、自分の部屋へ来て、それでもこちらのことをどうにか見ようとしている。嫌になるはずなんてないのに。
「わかった」
それだけ言うと、クロードは小さくうなずいた。
朝、先に目が覚めた。
隣でクロードが眠っている。昨夜より顔色はましに見えたが、眉間には浅い皺が残っていた。酒のせいか、身体のせいか、あるいはべつのもののせいかはわからない。わからないまま、しばらく見ていた。
傷つけていないだろうか、と思った。
何度も確かめた。嫌なら言えと伝えた。クロードも、言うと答えた。
それでも、朝になればまた話はべつだ。昨夜の彼は酔っていて、傷ついていて、自分の部屋にいた。こちらが差し出したものを、拒まなかった。だが拒まなかったことと、傷ついていないことは同じではない。
そこまでは、わかった。
けれど、その先を考えようとすると、昨夜の顔が戻ってきた。
こちらを見る目。息を詰める前の、ほんの短い間。何かを言いたげなのに、言葉になる前にこちらを見ていた顔。あのとき、クロードは自分を見ていた。ベレスに似た顔ではなく、傷を埋めるための場所でもなく、たぶん、自分を。
そう思うのは、都合がよすぎる。
わかっている。
わかっているのに、忘れられなかった。
指先に、まだ髪の感触が残っている気がした。手首の熱も、肩に触れた重みも、眠る前に落ちた息の近さも残っている。けれど、そのどれよりも、あの目が残っていた。
あれを覚えている自分が、おそろしかった。
クロードが身じろぎした。
考えるのをやめて、枕元のグラスを見た。水はまだ少し残っている。けれど、起きれば喉が渇くだろうと思った。昨夜はかなり飲んだ。頭も痛いだろう。
起こさないようにベッドを抜けて、新しい水を入れる。
それくらいならできる。いや、それくらいしか、できることがなかった。
グラスを枕元へ置く。置いてから、手が止まった。
水を置いたのは、クロードが喉を渇かせているだろうと思ったからだ。それはたぶん、間違っていない。でも、その水をクロードが飲むところを見たいとも思った。自分が用意したものを、彼が受け取るところを見たい。またよくないことを考えていると思った。
台所へ行き、朝食を用意した。重いものは避ける。胃に入りやすいもの。温かいもの。昨夜の酒が残っていても、少しなら食べられそうなもの。そういうことは考えられる。考えられることがあると、やはり気が楽になった。
味噌汁を温める。卵を焼く。お茶を淹れる。
ひとつずつ手を動かしているあいだも、寝室のほうが気になった。起きたら、どんな顔をするのだろう。昨夜のことを後悔しているかもしれない。ひどいことをしたと思っているかもしれない。自分の顔を見て、来るんじゃなかったと思うかもしれない。
どれもあり得ることだった。
それでも、食べてほしいと思った。
食べられるくらいには、ここにいてほしかった。自分が出したものを、少しでも受け取ってほしかった。
クロードが起きてきたのは、自分が朝食を並べ終えたあとだった。
顔色はよくなかった。髪は乱れていて、目元も重そうだった。こちらを見ると、ほんのわずかに視線が止まる。それから、気まずそうに逸れた。
嫌われたのではないかと思った。
そう思っただけで、全身の至るところから熱が抜けた気がした。
「気分は悪くないか」
聞くと、彼は少しだけ顔をしかめた。
「悪い」
「そうか」
「そうか、って」
「シャワーを浴びるといい。少しはましになるかもしれない」
彼は何か言いたそうにしたが、結局うなずいた。素直に浴室へ向かう。その背中を見て、ようやく息を吐く。
受け取った。
水も飲んでいた。浴室も使う。ただそれだけのことで、少し落ち着く。
浴室から戻ってきたクロードは、少しだけ顔色がましになっていた。それでも、まだ気分は悪そうだった。テーブルの上を見て、眉を寄せる。
「食べよう」
「いや、俺はいい」
「食べたほうがいい」
「気分悪いって言っただろ」
「だったら、少しでも何か食べたほうがいい」
「理屈通ってるようで通ってないんだよな、それ」
「通っている」
「そうかよ」
彼は文句を言いながら、テーブルの前に座った。
座った。
そのことに、またほっとした。
箸を取る。味噌汁をすする。卵を小さく切って、ゆっくり口へ運ぶ。食べる速度は遅かったが、残さずにいるつもりらしい。
自分が用意したものを、クロードが食べている。
それだけで、張り詰めていた肩の力が静かに落ちた。
昨夜のことを、彼がどう思っているのかはわからない。自分をどう見ているのかもわからない。けれど、目の前で温かいものを食べている。それは、いまここにいるということだった。
それだけでよかった。よかったはずだった。
けれど、食べ終えたあと、彼が帰り支度を始めると、また落ち着かなくなった。
彼が帰るのは当たり前のことだった。朝になった。仕事もある。ここに留まる理由はない。むしろ、昨夜のことを考えれば、早く帰ったほうがいいのかもしれない。
それでも、帰ってほしくなかった。
だが自分にはそんなことを言える権利はない。だから、言わない。
彼は借りていた部屋着を畳んだ。几帳面な畳み方ではなかったが、投げ出すような置き方でもなかった。彼は、そういうところで雑になりきらない。
自分はそれを見ていた。
部屋着を受け取ると、まだ少しクロードの体温が残っている気がした。
玄関へ向かう。クロードが靴を履く。
扉を開ける前に、彼が一度だけこちらを見た。何を言えばいいのかわからない顔だった。自分も、何を言えばいいのかわからなかった。
けれど、このまま何も言わずに送り出すのは嫌だった。
「じゃあ、また」
言ってから、それが言いたかったのだとわかった。
また、というのも、昨夜の続きをするという意味ではない。そういう意味にしたくなかった。ただ、ここで途切れないでほしかった。昨夜のことを、間違いだったとしても、間違いだけで終わらせないでほしかった。
彼は静かに息を吸った。
その沈黙のあいだ、息が止まる。
「……また、な」
そう返ってきて、ようやく息ができた。
部屋を出る彼を見送る。扉はすぐに閉めなかった。
共用廊下の空気は冷えている。クロードは数歩進んでから、振り返った。
大きな声は出せない。
彼は少しだけ手を上げた。
自分もうなずく。
角を曲がる前に、彼はもう一度振り返った。まだこちらを見ていたのだとわかって、彼はわずかに困ったような顔をした。
それでも、すぐには扉を閉められなかった。
結局、彼の背中が見えなくなるまで、じっと立っていた。
部屋へ戻ると、急に静かになった。
それまで静かではなかったのかと言われれば、そうでもない。クロードは朝からずっと、いつもより言葉が少なかった。酒のせいで頭が痛そうで、身体も重そうで、こちらの顔を見るたびに何かを言いかけてやめるようなところがあった。
それでも、彼がいるだけで、部屋の中には何かがあった。
扉が閉まって、それがなくなった。
テーブルの上には、使ったグラスと、朝食の皿が残っている。クロードが座っていた場所には、畳み損ねた膝掛けがずれていた。昨日の夜、自分が片づけたマットレスはもうない。寝室の扉も閉めた。水を替え、皿を下げ、流しに置く。
片づけることはあった。
あったので、ひとつずつ片づけた。
そうしているうちに、テーブルの端に残った袋が目に入った。昨夜、クロードが持ってきた酒の袋だった。未開封の缶が二本、入ったままになっている。
気づかなかったわけではない。
朝、クロードが帰り支度をしているときにも見えていた。玄関で靴を履く背中を見ながら、言えばよかった。忘れている、と言えば、彼はたぶん持って帰った。
だが、言わなかった。
言えなかった、というほどではない。言う時間はあった。言うこともできた。ただ、言わなかった。
捨てることもできた。
自分は飲まない。置いておく理由もない。台所の隅に置いたところで、次に使うこともない。けれど、捨てるために袋を持ち上げたところで、手が止まった。
これを忘れ物と呼べば、クロードへ連絡できる。
よくない考えだと思っているのに、捨てられなかった。
袋をテーブルの端に戻す。戻してから、息を吐いた。酒の缶がかすかにぶつかって、小さな音がした。
忘れ物。
そう呼べるものが、この部屋に残った。
連絡したのは、二日後だった。
そのあいだ、酒の袋はテーブルの端から棚の下へ移した。見える場所に置いておくと、何度も目に入る。でも、見えない場所に置いても、それがあることはつねに意識のどこかにこびりついていた。
忘れている、と送るだけなら、すぐに済む。
それだけのことを、二日かけてしまった。
酒を忘れてる。
送ってから、画面を閉じるつもりだった。けれど、閉じられなかった。すぐに既読はつかない。仕事中かもしれない。移動中かもしれない。見たうえで、返事を後回しにしているのかもしれない。
どれもあり得ることだった。
捨てていい、と返ってきたらどうするのかを考えた。そのときは言葉通り、捨てればいい。それだけなのに、そう返ってくるのは嫌だった。
しばらくして、画面が光った。
そのうち取りに行く。
彼が、取りに来る。
その文字を見て、ふっと余計な力が抜けた。
酒を取りに来るだけだ。忘れ物があるから来る。それ以上の意味はない。そう思えばよかったし、おそらく彼のほうもそう言うだろう。
けれど、自分の部屋に残ったものを、いらないとは言わなかった。
取りに行く、と言った。
それだけで、ほっとした。
ほっとしてから、それが酒の話ではないとわかった。
今日でもいい。
送ってから、少しだけ手が止まった。
今日でもいい、というのは、ただ都合の話だった。忘れ物を取りに来るなら、今日でも構わない。それだけの文だった。
それだけの文にした。
しばらくして、返事が来る。
じゃあ、今日の帰りに寄る。取りに行くだけだからな。
取りに行くだけ。そう書いてあるのに、また来るのだと思った。
うれしかった。
でも、取りに来るものがあるからだとも思った。
そこで少しだけ、冷静になった。理由があるなら来る。忘れ物があるなら、部屋に入る。酒を返す必要があるなら、会える。
そういうかたちなら、自分にもわかりやすかった。
クロードが来るまでに、食事を用意した。
酒を取りに来るだけだと言われている。だから、食事を作る必要はなかった。お茶を出すくらいならまだしも、米を炊き、汁物を用意し、冷蔵庫にあったものを皿に移して、ふたり分の箸を並べる必要はない。
ないのに、そうした。
ずるいと思った。
取りに来るだけだと言った彼を、少しでもこの場に留められるかたちで待っている。ここまで用意してしまえば、彼は断りにくくなる。そういうことくらいはわかった。
わかったが、やめなかった。
インターホンが鳴った。
画面に映ったクロードは、前よりいつもの顔に近かった。こちらを見て、軽く片手を上げる。酒を取りに来ただけの顔をしている。そう見えるようにしている顔だった。
「どうぞ」
そう返すと、つかえていたものがほんのわずかに溶けた気がした。
来た。時計を見る。鍋を見る。玄関のほうを見る。うれしいということが、落ち着かない。
扉を開けると、クロードは片手に小さな袋を提げていた。中には茶と、簡単につまめそうなものが入っている。手ぶらで来るのは気が引けたのだろうと思った。そういうところまで、彼はいい加減にならない。
「来たぞ」
「見ればわかる」
クロードは部屋へ入って、すぐにテーブルの端に置いてある酒の袋へ目をやった。
「あれか」
「うん」
「悪かったな。置いてって」
「困ってはいない」
「飲まないものが手元にあっても困るだけだろ」
そう言いながら、クロードは酒の袋を手に取った。未開封の缶が中でかすかに鳴る。そのまま鞄へ入れれば、それで用は終わる。
終わるはずだった。
「君のぶんも作ったから、食べていってほしい」
言った。言ってしまった。
クロードはこちらを見た。それから、低いテーブルの上に並んだ皿を見て、少しだけ目を細める。
「俺、取りに来るだけって言ったよな」
「聞いた」
「聞いたうえでそれか」
「うん」
「うん、じゃないだろ」
そう言いながら、クロードは笑った。困ったような、呆れたような顔だった。けれど、怒ってはいないように見えた。
怒っていない。
それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
「食べないのか」
「……食べるけどさ」
クロードは酒の袋をいったん床に置き、テーブルの前へ座った。
それだけのことに、ほっと胸をなでおろす。自分が用意した場所に、彼が座る。用意した箸を手に取る。出した茶に口をつける。
ひとつずつ受け取られてゆく。
そのたびに、少し安心した。
クロードはただ食べているだけだ。こちらが勝手に用意したものを、仕方なく受け取っているだけかもしれない。
それでも、残されるよりは、断られるよりはよかった。
「昨日、あまり食べていないだろう」
「見てたのかよ」
「見えた」
「言い方」
「見えた、が正しい」
クロードは笑って、汁物に口をつけた。
その顔を見て、また落ち着いた。
「味は薄くないか」
「ちょうどいい」
「そうか」
「……作ってもらって文句言うほど、ひどい人間じゃないぞ」
クロードはそう言って、少し迷ってから口を閉じた。
たぶん、そのあとに何かを続けようとしたのだと思う。昨夜の自分は、とか、ひどいのはもうじゅうぶんだ、とか。そういう言葉が、声になる前に止まったのがわかった。
言わなかった。
そのことに、ほっとした。
クロードが自分を悪く言わなかったことに。昨夜のことを、先に自分で汚さなかったことに。
「……そうか」
「そうだよ」
クロードは何でもない顔をして、もう一度箸を動かした。
自分も、それ以上は聞かなかった。
ベレスの名前は、その夜には出なかった。
なくなったわけではないと思う。クロードがお茶を飲んでいるあいだも、汁物に口をつけているあいだも、床に置いた酒の袋を見たときも、その奥にまだあるのだと思った。
それは、クロードの痛みだった。
自分のものではない。
けれど、もう遠くにも置けなかった。
食事のあと、彼はすぐには帰らなかった。
茶をもう一杯淹れると、彼は断らずに受け取った。低いテーブルの前で、足を崩して座る。酒の袋はまだ床に置かれたままだった。持って帰るために来たはずのものが、そこにある。
話したのは、大したことではなかった。仕事のこと。近所の店のこと。最近読んだ本のこと。ベレスの名前は出なかった。昨夜のことも出なかった。彼も、こちらも、そこへ触れなかった。
何も起きなかった。
触れなかった。触れたいとも言わなかった。クロードも、そういうことは言わなかった。
何もなくても、夜は進んだ。
「じゃあ、帰るわ」
クロードがそう言ったとき、鈍い重さが底のほうへ沈んでいった。
彼が帰るのは当たり前のことだった。酒を取りに来て、食事をして、お茶を飲んだ。用事は終わっている。引き止める理由はなかった。
なかったので、何も言わなかった。
「ああ」
立ち上がったクロードが、床の酒の袋を拾う。今度は忘れなかった。忘れなかったことに、さびしくなってしまう。
玄関で靴を履くクロードを見ながら、また、と思った。
また来てほしい。
そう言えばいいだけだけなのに、言えない。
「じゃあ、また」
代わりに、そう言った。
クロードは少しだけ振り返る。
「ああ。またな」
返ってきた。
それだけで、張り詰めていたものが、わずかにゆるんだ。
扉が閉まってから、部屋に戻る。テーブルの上には空いた皿と、グラスが残っている。酒の袋はもうない。
取りに来るものは、なくなった。
それなのに、また、と返ってきた。
そのことだけが、部屋の中に残っていた。
クロードから連絡が来たのは、仕事が終わる少し前だった。
机の上には、まだ片づいていないものが残っていた。今日中に返さなければならない連絡もあるし、目を通すだけで済む書類もある。急げば終わる。急がなければ、少し残る。そのくらいの量だった。
スマートフォンが震えた。
画面にクロードの名前が出ているのを見て、手が止まる。
今夜、空いてるか。
短い文面だった。
すぐに返した。
空いている。
返事が早すぎた気もしたが、空いているのは事実だった。まだ仕事はどうにか終わらせればいい。
終わらせればいい、と思った時点で、もう今夜の予定は決まっていた。
少しして、また画面が光る。
ほんとに早いよな、返事。
クロードらしい文面だった。
それに返す言葉を考えているうちに、続けてもう一通届いた。
どこか行くか?
どこか。その文字を見て、考える。
外でもいい。会うだけなら、店でいい。食事をするだけなら、どこでもいい。だが、外へ出れば人がいる。時間も決まる。帰る場所も、それぞれべつになる。
それはそれで、正しい気がしたのに、そうしたいとは思えなかった。
外でも、自分の部屋でも。
送ってから、息を深く吐き出した。
自分の部屋、という言葉をこちらから出した。けれど、決めるのはクロードだった。自分はただ、選べるかたちにしただけだ。
そう思うことにした。
しばらく返事が来なかった。
そのあいだに、机の上の書類へ目を戻す。戻したが、内容はあまり入ってこなかった。彼がいま、何を考えているのかが気になった。外と部屋のどちらを選ぶのか。そもそも、なぜ今夜会おうと思ったのか。
何かあったのかもしれない。
そう考えると、浮ついた期待をせずに済む。
画面が光る。
あんたの部屋がいい。
その文面を見て、息を塞いでいた緊張が、音もなくゆるんでゆく。
うれしかった。
でも、外ではなく部屋なのだった。人目のない場所。前に来た場所。触れた場所。そういうものが、順番に頭の中へ並ぶ。
うれしいのに、怖い。
わかった。待っている。
送ってから、スマートフォンを伏せた。
とにかく、仕事を終わらせなければならなかった。クロードと会う。自分の部屋に来る。そう思うと、残っていた作業は思っていたよりも早く片づいた。早く片づけようとした、というより、手が勝手に急いでいた。
間違いがないか確認する。送るべきものを送る。片づけるべきものを片づける。そうしているあいだも、どこかでずっと、今夜のことを考えていた。
水はある。昨日作ったものは残っていない。何か用意するなら、帰りに買えばいい。
用意する必要があるのかはわからない。クロードは、食事をしに来るとは言っていない。慰めてほしいとも言っていない。ただ、今夜空いているかと聞いただけだった。
それでも、自分はもう、何を出せるかを考えている。
仕事を終えて、部屋へ帰る途中で、簡単に食べられるものを買った。クロードは部屋に来てもすぐ帰るつもりかもしれない。それでも、何もないよりはいいと思った。
そういう言い方をすれば、日常に溶け込める気がした。
部屋に戻ると、まず水を確認した。冷蔵庫にはお茶もある。買ってきたものを皿に移すべきか、袋のまま置いておくべきか迷って、結局、すぐ出せるようにだけしておいた。
食べるかどうかは、クロードが決めればいい。口に出すと、ほんの少し楽になった。
インターホンが鳴った。
画面を見ると、クロードが立っていた。片手に紙袋を提げている。仕事帰りの服で、髪は少し風に乱れていた。疲れているようにも見えたが、顔にはいつもの笑みが乗っている。
ほんとうに来たのだと思った。
「どうぞ」
自分の声は、いつも通りだった。
エレベーターが上がってくるまでの時間、部屋の中をもう一度見る。水はある。お茶もある。買ってきたものも出せる。そう確認してから、自分が何をそんなに確かめているのかと思った。
チャイムが鳴る。
扉を開けると、クロードは少しだけ紙袋を持ち上げた。
「よう」
「お疲れさま」
「これ。あんた、食うだろ」
「食べる」
「返事早いな」
「食べるから」
「そりゃそうか」
紙袋を受け取る。中には惣菜と、日持ちしそうな菓子が入っていた。適当に買ったようにも見えるが、たぶん選んでいる。前に食べたものと似たものもある。自分が食べると言ったものを、彼は覚えていた。
手ぶらでは来られなかったのだと思った。
そう思うと、整理がついた。仕事帰りに近くまで来た。手土産がある。渡すものがある。だから部屋に入る。そういうかたちなら、ここへ来る理由になる。
「入って」
「お邪魔します」
クロードはそう言って、靴を脱いだ。前より少しだけ慣れた動きだった。こちらが何も言わなくても、低いテーブルの前へ向かう。その場所に座るのが自然になりつつあることに気づいて、また少し息が詰まった。
いつもの場所、と思った。
まだ、そう呼ぶほどではないはずだった。
クロードはテーブルの前に腰を下ろし、部屋の中を軽く見た。すぐ帰る人間の動きではなかった。かといって、泊まると決めているようにも見えない。ただ、ここに座ることを選んでいる。
それだけで、うれしかった。
でも、それだけではわからなかった。
「お茶を淹れる」
「ありがと」
台所へ行き、湯を沸かす。クロードの持ってきたものと、自分が買っておいたものが台所に並ぶ。どちらも、ここにいてよい理由のように見えた。クロードが来る理由と、自分が待つために用意した理由。
お茶を淹れて戻ると、クロードはスマートフォンをポケットにしまった。画面を見ていたわけではないらしい。ただ、手持ち無沙汰で触っていただけのように見えた。
お茶を置く。
クロードは礼を言って、すぐに口をつけた。
「何かあったのか」
聞くと、クロードは少しだけ目を伏せた。
「ちょっと、な」
嘘ではないのだと思った。けれど、全部でもない。仕事のことかもしれない。ベレスのことかもしれない。あるいは、自分が知らないべつの何かかもしれない。
何かあったから来たのだと思えばわかりやすいのに、わかりやすいことが、自分には痛かった。
「よければ聞こうか」
クロードは少しだけ笑った。
「話すほどのことでもないさ」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
クロードはお茶を飲み、こちらが出した皿を見て、わずかに眉を上げた。
「また何か用意してるな」
「食べるかどうかは、君が決めればいい」
「そういう言い方は卑怯だろ」
「食べないのか」
「いや、食べるけどな」
クロードはそう言って、箸を取った。
彼は食べながら、仕事のことを話してくれた。面倒な連絡があったこと、駅が混んでいたこと、途中で買った惣菜の店が前より混んでいたこと。大した話ではない。けれど、その大したことのなさが、かえって落ち着かなかった。
クロードは、ここで普通にしている。
普通にお茶を飲み、普通に食べて、普通に話している。そのどれもがうれしいのに、何のために来たのかはまだわからない。わからないから、こちらは理由を探してしまう。
慰めが必要なのだろうか。そう思った。
だが、こちらからは言えなかった。
違うと言われたら、それで終わってしまう気がした。何が終わるのかはわからない。わからないが、怖かった。
彼が箸を置いた。
しばらく黙って、茶碗の縁を指でなぞる。それから少しだけ、目を伏せたまま言った。
「……また、慰めてくれるか」
その言葉で、固く結ばれていたものが、静かにほどけた気がした。
言ってくれた。すごくうれしかった。
なのに、痛かった。慰めなら、自分は触れられる。慰められるために、彼はこの部屋にいる。けれど慰めであるかぎり、彼はまだ何かの傷を抱えている。
それでも、自分はクロードのそばに寄った。
彼は少しだけ顔を上げた。目が合う。疲れていて、まだどこか傷の残った目だった。けれど、初めての夜よりはこちらを見ている。
「慰めなら、する」
それだけ言うと、クロードはくすぐったそうにした。
手を伸ばす。
髪に触れると、クロードの肩がわずかに動いた。逃げたわけではない。身構えただけだと思った。横に流した髪をゆっくりすく。どうすればいいのかはわかっていた。どのくらいの強さなら嫌がらないのか、どこに触れれば黙るのか、少しだけ知っている。
クロードは子どもではない。傷ついて、眠れなくなって、誰かに宥められるためだけに来たわけでもない。それでも、髪をすくと彼は瞼を閉じた。だから額に唇を落とした。瞼にも、頬にも、確かめるように触れる。
欲より先に、いたわりが出た。
それは嘘ではなかった。
だが、自分にあるのはいたわりだけでもなかった。
「……あんたなあ、俺のこといくつだと思ってるんだよ」
「君の年齢は知っているが」
「そういう話じゃない」
「では、どういう話だ」
「子ども扱いされてる気分だって話」
子ども扱いをしたつもりはない。けれど、そう見えたのなら、そうなのかもしれない。傷ついている彼を前にすると、どう触れればいいのかわからなくなる。触れたいと思う。抱きたいとも思う。それでも、まず大事にしたくなる。
その順番は、たぶん変えられなかった。
「嫌なのか」
聞くと、彼は顔をしかめた。
「……嫌とは言ってない」
「そうか」
それならいいと思った。
よくないのかもしれない。けれど、嫌ではないなら、まだ触れていられる。そう思って、もう一度髪に指を通す。クロードは逃げなかった。
低いテーブルの端に置いた紙袋へ、クロードの視線が動くのがわかった。
「……もう買ってあるのか」
「必要だと思った」
「準備いいな」
その言い方に、引っかかった。
必要だから用意した。そういうことにすれば、こちらの欲も、期待も、待っていた時間も、全部ただの備えになる。
けれど、そうではなかった。
必要だと思ったのは事実だった。するなら必要だ。それは最初の夜と変わらない。けれどそれだけではない。クロードがまた来るかもしれないと思った。来たときに、ないと困ると思った。困るのはクロードだけではなかった。
自分も、困ると思った。
「足りなくなったら困るだろう」
「そりゃそうだけどさ」
「だから買った」
クロードが目を逸らした。
その顔を見て、こちらもまっすぐ彼を見れなくなる。額や瞼に触れて、子どもを宥めるように髪をすいて、その同じ部屋に、必要なものを置いている。いたわりと欲が、並んでしまっている。
彼も、それに気づいているのだと思った。
「……にしても、けっこう買ったんだな」
言ったあと、彼の顔が変わった。
しまった、と思っている顔だった。数を気にしたことも、それを口にしたことも、自分で嫌になっているように見えた。
紙袋を見る。それから、彼を見た。
「君以外には使わない」
「語弊しかないぞ、その言い方」
彼が笑った。
笑ったので、少し安心した。なぜ笑ったのかは、すぐにはわからなかった。ただ、自分は事実を言っただけだった。君以外とはこういうことをしない。君以外のために買ったものではない。そういう意味だった。
ほかにどう言えばいいのか、わからなかった。
「……あんたさあ」
「うん」
「そういうの、もう少し言い方あるだろ」
「そうか」
「そうだよ。ちょっとは学んでくれ」
クロードは文句を言いながらも、表情をやわらげた。
言い方は間違えたのかもしれない。けれど、クロードが少し楽になったのなら、それでいいと思った。そう安堵しかけたところで、急に怖くなる。
楽になったように見えることと、続けてよいことは同じではない。クロードはまだ傷ついていて、自分はそれを、都合よく受け取ろうとしているのかもしれなかった。
「やめようか」
聞くと、クロードがこちらを見る。
「……それ、毎回聞くつもりか?」
「確認は必要だろう」
「必要じゃない」
必要ないと言いながら、クロードはまだ不安そうに見えた。傷ついているのか、迷っているのか、自分でもわかっていないのかもしれない。けれど、やめるとは言わない。
やめないでほしい、と言われたわけでもない。
それでも、必要ないと言われた。
その違いを、うまく考えられなかった。
「なら、こっちを見てほしい」
そう言うと、クロードの顔が明らかにこわばった。
見たくないのだろうと思った。
それでも、見てほしかった。
似ている顔ではなく、自分を見てほしい。ベレスの代わりではなく、いまここにいる自分を見てほしい。そう言えばよかったのかもしれない。けれど、そこまでは言えなかった。
だから、こっちを見てほしい、とだけ言った。
クロードがゆっくり顔を上げる。
目が合った。
その瞬間、胸の奥が止まった。
クロードは、こちらを見ていた。逃げるためでも、笑ってごまかすためでもなく、何かを諦めるように、あるいは受け入れるように、自分を見ていた。
その目を、忘れられないと思ったし、忘れたくないとも思った。それはよくないことだった。
クロードは慰めを求めていて、自分はそれに応えようとしている。それだけなら、まだかたちは保てた。けれど、あの目を覚えていたいと思ってしまえば、もう慰めだけではなくなる。
わかっていた。
わかっていても、もう遅かった。
クロードから連絡が来たのは、それから数日が経った夕方のことだった。
今日、空いてる?
画面にその文面が出た瞬間、返事は決まっていた。空いている。会いたい。来てほしい。そう思った。
思ったのに、指が止まった。
今日は、何もない。忘れ物もない。酒もない。慰めてほしいと言われたわけでもない。クロードが傷ついているのかどうかもわからない。ただ、空いているかと聞かれている。
それだけだった。
今日はむずかしい。
送ってから、息が詰まった。
少し間が空いた。
そっか、わかった。
それだけだった。
理由は聞かれなかった。
当然だと思った。自分がむずかしいと言ったのだから、クロードは引いた。それだけだ。正しい。踏み込まないのは、たぶん彼のやさしさでもある。
それなのに、傷ついてしまった。
どうして、と聞いてほしかったのだと思った。何かあったのかと、無理をしていないかと、もう少しだけこちらへ来てほしかったのだと思った。
そう聞かれたら困ったはずなのに、聞かれなかったことが、ひどく静かに残った。
連絡したのは、翌日だった。
用事はなかった。
なかったが、職場の人から酒をもらった。自分は飲まない。捨てるほど悪いものでもないし、誰かに渡すなら、クロードがいいと思った。
そこまでは、まだ理由になった。
それから、食事も多く作りすぎた。
作りすぎた、というのは嘘ではない。実際、ひとりで食べるには多い。けれど、ひとりで食べる量にできなかっただけでもある。皿に分ければ、たぶんふたり分になる。
理由が多すぎた。
酒をもらった。自分は飲まない。君なら飲める。食事も多い。ひとりでは食べきれない。どれも嘘ではない。けれど、並べれば並べるほど、言いたいことが別にあるのが見えてくる。
それでも、何も言わなければ何も起きなかった。
酒をもらった。
送ってから、焦る。
自分は飲まない。
続けて送る。
君に飲んでもらえると助かる。
そこまででやめるつもりだった。
けれど、画面を見ているうちに、もう一文を打っていた。
食事も作りすぎてしまった。
送ってから、しばらく動けなかった。
これはもう、来てほしいと言っているのとあまり変わらないのではないかと思った。
でも、来てほしいとははっきり書いていない。そういうかたちにした。
しばらくして、既読がついた。
昨日むずかしいって言ってたのに?
肺のあたりが、わずかに硬くなる。
責められているわけではない。彼はただ確認しているだけだ。
昨日、自分が断ったことを覚えている。当然だった。自分で断った。断られて、クロードは理由を聞かなかった。
それがさびしかったのに、さびしかったとは言えなかった。
今日は大丈夫。
それだけ返した。少し間が空いた。
じゃあ、行ってもいいか?
その文字を見て、どっと力が抜けた。
クロードは、こちらの下手な理由を見た。見たうえで、見なかったふりをしてくれているのだと思った。来いと言わせず、行くと決めつけもせず、こちらが断れるかたちのまま置いてくれている。
昨日、自分が断ったからかもしれない。罪悪感で胸が痛んだ。
君の都合がよければ。
送ると、返事はすぐに来た。
じゃあ、仕事終わったら行く。
返事を見て、大きく息を吐き出す。これでよかったのか、よくなかったのか、自分にはもうわからない。
それから、少しずつ連絡の回数が増えた。
最初は、クロードからだった。今日空いてるか、と短く聞かれる。空いている、と返す。外か、自分の部屋かを聞く。クロードがこちらの部屋を選ぶ。そういうかたちなら、まだ受け止めやすかった。
クロードが来たいと言った。
だから、部屋に入れた。
クロードが来ると言ったのなら、自分はそれを受け入れればいい。彼がまだ何を忘れられずにいるのかわからなくても、何かあったのだろうと思えば、部屋に入れる理由になる。慰める理由にもなる。
自分が会いたかったからだと、考えなくて済む。
でも、そのかたちばかりではなくなっていった。
自分から連絡することも、増えた。増えたといっても、ただ会いたいと送ったことはない。そういう言葉は、まだ送れなかった。画面の上に打つことすら、うまくできなかった。
代わりに、用件を作った。
用件があれば、少しだけましだった。
クロードがまだベレスのことを忘れられないのなら、自分が何もないまま呼ぶのは違う気がした。けれど、食べるものがある、渡すものがある、今日のほうがいい。そういう形なら、まだ送れた。
前に君が食べていたものに似たものを見かけた。
送ってから、それだけでは足りない気がして、続ける。
たぶん日持ちはしない。
これでもまだ、ただの報告に見える。
だから、もう一文足す。
食べるなら、今日のほうがいい。
送ってから、しばらく画面を見ていた。
長い、と思った。
クロードなら、もっと短く送る。今日行っていいか。空いてるか。そういう一文で済ませる。自分も、そうすればいいのだと思う。けれど、できなかった。
理由が必要だった。
前に似たものを見かけたから。日持ちしないから。今日のほうがいいから。そう並べれば、自然に見える気がした。というより、そういう理由が多ければ多いほど、自分が納得できた。
少しして、返事が来た。
それ、断りづらいやつだな。
頭の後ろがすっと冷えた。
そういうつもりではなかった。
そう思った。思ったが、結果としてそういうかたちにはなっている。日持ちしない。今日のほうがいい。そう書けば、今日来る理由になる。断りづらくもなる。
そこまでは、わかった。
無理ならいい。
すぐに送った。
責めてるわけじゃない。
その文面を見て、返事に窮する。
責めているわけではない。たぶん、ほんとうにそうなのだと思う。クロードはこういうところで、軽く触れてくる。触れて、それでこちらがどう返すのかを見る。責めるためではなく、どこまで踏み込んでいいのかを測っているのだと、頭ではわかった。
それでも、責められたような気がした。
わかっている。
わかっている、と打ったが、実際はわかってはいなかった。
少しして、また返事が来た。
行くよ。
それだけだった。
その文字を見て、ようやく息ができた。
べつの日も、どうにか理由を作って、彼に連絡した。
前に君が好きだと言っていたお茶に似たものを買った。
送る。
すぐに、続ける。
ほんとうに似ているかはわからない。
それから、また少し迷って、もう一文送る。
確認するなら、置いておく。
送ってから、確認するなら、という言い方は何だろうと思った。
飲みに来るか、と書けばよかった。けれど、それは書けなかった。飲みに来るか、は、ほとんど来てほしいと言っているのと同じだと思ったから。
しばらくして、返事が来た。
俺、茶の鑑定士じゃないんだが。
その文面を見て、ふっと肩の力が抜けた。
知っている。
知ってるなら何で確認させるんだよ。
これもまた、返事に困った。
困っているうちに、次の文面が届く。
まあ、飲みに行く。置いといて。
その文字を見て、こわばった指先が静かにゆるんだ。
クロードは、来ると言った。
お茶を飲みに。
たぶん、お茶だけではない。そう思いかけて、すぐにやめる。そういうことは、自分で決めるものではない。彼が来る。いまは、それだけでよかった。
理由は、どんどん増えた。
食べきれない。
もらいものがある。
近くに来るなら渡せる。
今日でなくてもいい。
今日でなくてもいい、と書きながら、今日がよいと思っていた。
そのたびに、文面は長くなった。短く書こうとしても、足りない気がした。足りない理由を足す。相手が断りやすいように、逃げ道も足す。けれど、逃げ道を足せば足すほど、来てほしいという言葉だけが薄く浮いて見える。
それでも、送った。
クロードは、たいてい来た。
仕事帰りに寄る、と言う日もあった。
遅くなるけどいいか、と聞く日もあった。
今日は無理、と返す日もあった。
無理と言われると、落ち込んだ。
そうやって沈むことも、もうわかっていた。けれど、そこで何かを言い足すことはできなかった。わかった、と返す。気をつけて、と送る。それだけにする。
断られたことは、悪いことではない。クロードにも都合がある。仕事も、予定も、疲れもある。自分が連絡したからといって、必ず来る必要などない。
それくらいはわかっている。
わかっているのに、さびしかった。
それでも、彼が来る日が増えると、自分はどんどん勘違いしそうになった。
もう、あの夜のことは薄れているのかもしれない。ベレスのことも、少しずつ遠くなっているのかもしれない。そう思いかけて、すぐにやめた。
それを自分が決めていいはずがなかった。クロードが何をまだ覚えていて、何を忘れられずにいるのか、自分にはわからない。わからないものを、自分の都合で軽くすることはできなかった。
だからかもしれない。鏡を見ることが増えた。
髪を整えるためでも、服を選ぶためでもない。はじめは、そういうことにしていた。けれど、日を追うごとに違うと理解してしまった。
自分は、ベレスに似ているところを探していた。
目。口元。黙っているときの顔。自分ではよくわからない。わからないのに、似ていると思えるところを見つけると、傷ついた。それでいて、安心もした。
似ているなら、クロードが来る理由になる。自分を見ているのではなくても、ここへ来る理由にはなる。慰める役でいられる。代わりとしてなら、まだ求められている理由がわかる。
そう考えることが、いちばんよくなかった。
クロードが来る日は、部屋の中が変わったように思えた。
水を冷やしておく。茶を出せるようにする。食べるかどうかわからないものを用意しておく。部屋着を洗っておく。泊まるとは言われていないのに、タオルの場所を確認する。
必要だから、と思った。
来たときに困らないように。
食べると言ったときに出せるように。
泊まることになったときに慌てないように。
そういう理由は、いくらでもあった。
クロードはそれを、全部知らないわけではなかったと思う。
部屋に入って、低いテーブルの前に座り、出されたお茶を見て小さく笑う。
「今日も理由が多そうだな」
「そうだろうか」
「そうだろ」
「嘘ではない」
「それ、最近よく言うな」
たしかに、よく言っている気がした。嘘ではない。酒をもらったのも、食事を作りすぎたのも、お茶を買ったのも、ほんとうだ。
けれど、嘘ではないことと、全部を言っていることは同じではなかった。
クロードは、たぶんそこまで見ている。
見ているのに、いつもそこで止まる。理由が多いな、と笑う。嘘じゃないんだろうな、と受け取る。自分の用意したものを食べる。お茶を飲む。ときどき、泊まる。
それがうれしかった。
うれしいから、困った。
理由を並べれば、クロードは来る。
用意すれば、受け取ってくれる。
水を置けば、飲む。
また、と言えば、またな、と返す。
そのひとつひとつが、少しずつ自分を動けなくしてゆく。
理由があるなら、会える。
理由があるなら、触れられる。
理由があるなら、待っていてもいい。
そう思うようになっていた。
だから、その日はいつもよりも楽だった。
外で会う約束だった。買い物をして、食事をする。それだけの約束だった。部屋ではない。忘れ物でもない。作りすぎた食事でもない。慰めでもない。クロードがまだ何を抱えているのかわからなくても、外で食事をするだけなら、そこへ触れずに済む気がした。
ただ、外で会って、食べる。
それだけなら、理由はひとつで済む。
出かける前にも、鏡を見た。
外で食事をするだけなら、顔を気にする必要はあまりない。そう思ったのに、少し長く見ていた。
ベレスに似ているだろうか。
似ていなければいいと思った。似ていればいいとも思った。どちらも本当だった。
待ち合わせ場所にクロードが来たとき、胸の奥が少しだけ軽くなった。彼は仕事帰りの顔をしていて、こちらを見つけると片手を上げた。いつものように軽く笑う。こちらも、うなずく。
店に入って、食事をした。
大した話はしなかった。仕事のこと。最近混んでいる店のこと。駅前の道が工事で通りにくいこと。クロードが前に話していた店のことを覚えていたので聞くと、彼は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「覚えてたのか」
「ああ」
「へえ」
「君が話してくれたことは、基本覚えている」
「そりゃ光栄だな」
クロードは笑って、グラスを持ち上げた。
普通だった。
普通に会って、普通に食べて、普通に話した。帰り道も、並んで歩いた。夜の道は人が多く、クロードは人の流れを避けるようにこちらの横へ寄った。肩が近い。触れるほどではない。けれど、近かった。
それで済むはずだった。
済むなら、それでよかったのかもしれない。
駅へ向かう角の手前で、クロードが足を止めた。
「……寄ってくか」
軽い声だった。
やっぱり、そこへ戻るのだと思った。
外で会って、普通に食べて、普通に話しても、最後にはそこへ戻る。クロードの中にまだ残っているものを、自分が慰める。
軽い声に聞こえるようにしているのだと思った。
けれど、こちらを見ていた。
どこへ、と聞く必要はなかった。近くにそういう場所があることは、自分にもわかった。クロードも、こちらがわかっている前提で言っている。
断ればよかった。
今日は帰る、と言えばよかった。外で会って、買い物をして、食事をして、話をして、それで終わる夜にすればよかった。そうすれば、普通のまま帰れた。
でも、自分は断らなかった。
「ああ」
短く答えると、クロードはこちらを見た。
その顔が、何かを確かめるようにも、少しだけ安心したようにも見えた。
それが、よくなかった。
部屋に入ると、クロードは少しだけ気まずそうに笑った。
「変な感じだな」
「そうだろうか」
「変だろ。あんたの部屋じゃないし、俺の部屋でもない」
「うん」
確かに、どちらの部屋でもなかった。
低いテーブルも、いつもの茶も、クロードが置いていった部屋着もない。食事も、忘れ物も、作りすぎたものもない。ここには、理由にできるものがほとんどなかった。
それなら、わかりやすいはずだった。
そういう場所なのだと、思えるはずだった。
けれど、クロードが疲れた顔をしていたので、水のボトルの封を開けて、手渡す。
「飲んでおくといい」
クロードは水を見て、それからこちらを見た。
「……ここでもそれやるんだな」
「喉が渇くだろう」
「まあ、渇くけど」
クロードは笑った。
その笑い方を、うまく見られなかった。
水を渡す必要はあった。たぶん、ある。何をするにしても、喉は渇く。体調が悪くなれば困る。水はあったほうがいい。
そういう理由なら、またすぐ出てきた。
だが、ここに来たのは、そのためではない。
理由を外した場所に来たはずだった。食事も、お茶も、忘れ物もない場所で、ただそういうことだけをすれば、少しはかたちが変わると思ったのかもしれない。
けれど、自分は結局、水を渡している。
クロードはそれを受け取って、ふた口ほど飲んだ。それから、ボトルをベッドサイドに置いた。
受け取った。
そう思って、また少し安心した。
安心した自分が嫌だった。
ここまで来ても、まだ同じことをしている。水を渡す。体調を見る。嫌なら言ってほしいと思う。無理をしていないか気にする。彼が受け取れば安心する。
そういうことを、やめられない。
彼を嫌いになれたらよかったのに。
こんなふうに誘われて、傷ついたのだと思えるなら、そのほうがよかった。外で会った夜ですら、最後にはこういう場所へ持ってきた相手なのだと、軽蔑できればよかった。
自分には、できなかった。
クロードが軽く言ったのは、こちらが断れるようにするためだったのかもしれない。こちらを見ていたのは、嫌なら引くつもりだったからかもしれない。そう考えてしまう。考えてしまえば、嫌いにはなれなかった。
それどころか、断らなかった自分のほうばかりが残った。
普通に食事をして、普通に帰れる夜だった。
それを、もっと一緒にいたくて、断らなかった。
自分はもう、引き返せないところまで来てしまった。
そう気づいた瞬間、耳の奥がひどくしんとした。
すべての音が遠のいて、それから、少し遅れて苦しくなった。
それ以来、鏡を見るのが嫌になった。
似ているところを探せば傷つく。似ていないところを探しても、安心はできない。どちらを見ても、クロードが何を見ているのかはわからなかった。
それでも、鏡の前に立つことは増えた。
似ているから来るのだと思えば、まだ役割でいられる。似ていないのに来るのだと思えば、自分が期待してしまう。
そのほうが、ずっと怖かった。
ベレスの代わりかどうかだけでは、もう説明できないところまで来ている。
そう思いかけた。
けれど、いつもそこで足が止まる。クロードが自分を見ているのだと決めることはできなかった。
ただ、自分のほうがもうずっと深いところまで来ていることだけは、わかった。
なのに、まだ役割のことばかり考えている。
慰めるから、触れられる。
理由があるから、会える。
求められるから、ここにいていい。
そう思わないと、立っていられなかった。
どうしたって、自分は彼を嫌いにはなれない。
なら、嫌われたほうがいいのかもしれない。
そんなことを、初めて思った。
そのあとは、連絡するときの文面を短くした。
今日は来るのか。
それだけ送った。
送ってから、少しだけ画面を見ていた。
理由をつけない。食事のことも、お茶のことも、もらいもののことも書かない。これなら雑に見えるのではないかと思った。
しばらくして、返事が来た。
急に素直だな。
素直。そう見えるのかと驚いた。
そうだろうか。
理由がない。
ない。
理由がなくてもいいんだな。
画面を見たまま、少しだけ動けなくなった。
よくはなかった。
けれど、そう返す前に次の文面が届いた。
行く。
失敗した、と思った。
クロードが来ても、食事は出さないつもりだった。
今日はそういう日ではない。食事をするために呼んだわけではない。お茶も、水も、自分からは出さない。そう決めていた。
クロードは低いテーブルの前に座り、部屋の中を少し見た。
「今日は何もないんだな」
「ない」
「そうか」
それだけだった。
何も言われないことに、少しだけ傷ついた。自分で、そうなるよう仕向けたくせに。
「……何も食べてないのか」
聞いてから、また失敗したと思った。
クロードは視線だけをこちらへ向けた。
「ああ」
「そうか」
冷蔵庫には残っているものがあった。すぐに温められる。米もある。汁物も作れる。そう考えている時点で、もうだめだった。
「少しならある」
「何が」
「食べるもの」
クロードはじっとこちらを見た。
「出さないんじゃなかったのか」
「……食べていないなら、出す」
「俺に嫌われたいなら、そこで出すなよ」
自分が受け取られたいように受け取られたことに安心するべきなのに、彼が平気そうな顔をしているのがどうしてかこたえた。
食事を出すと、クロードは食べた。
お茶も飲んだ。低いテーブルの前で、いつものように少し足を崩して座っていた。
その夜は、食事のあとも落ち着かなかった。
彼は、自分が出したものをいつものように受け取っている。こちらの部屋にいる顔をしている。
思っていたのと違う。嫌いになってほしいのに、彼の横顔は穏やかだった。
「今日は」
声を出すと、彼がこちらを見る。
「そういうことだけしかしない」
言ってから、口の中に苦いものが広がった。
ひどい言い方だと思った。少なくとも、ひどく聞こえるはずだった。食事も、お茶も、何でもない話もいらない。ただ身体だけでいい。そういう意味に聞こえるはずだった。
「……そういうことだけ?」
「ああ」
「飯まで作ってくれたのに?」
「たまたま、材料があったから」
「へえ」
彼の声が低くなった。それが、怖かった。
でも、ここで引けば何も変わらないと思った。嫌われたいなら、ちゃんと嫌われるようなことを言わなければならない。彼が、これは嫌だと思うような言葉を選ばなければならない。
「君に、身体以外の価値を求めていないと言っているんだ」
ひどい声が出たと思った。
彼は瞬きを繰り返したのち、呆れたように言った。
「俺をただの道具扱いするならさ、せめて飯食わせる前に言えよ」
「……道具とまでは、思っていない。嫌なら、やめる」
「だから、そこで気遣うからだめなんだろ」
何も言えなかった。
彼はそれ以上、何も言わなかった。
それでも、赦されたわけではないことくらいはわかった。わかったのに、自分はそこから先を止めなかった。
身体だけにするというのは、もっと簡単なことだと思っていたのに、現実はぜんぜん違った。
終わったあと、すぐには触れなかった。
水を置かない。気分も聞かない。髪にも触れない。そう決めて、彼のほうを見ないようにした。
けれど、沈黙が長くなるほど、自分のほうが耐えられなくなった。冷たくしているつもりだったのに、実際はただ何もできずにいるだけだった。
「……水なら、冷蔵庫にある」
言ってから、頭を抱えたくなった。
クロードは重そうに瞼を開く。
「おう、グラス借りるぞ」
あまりにも普通だった。
彼は起き上がって、台所へ向かった。冷蔵庫を開ける音がする。食器棚を開ける音もする。どこにグラスがあるのか、もう覚えているようだった。
水を注いで戻ってくる。ひと口飲んで、グラスをテーブルに置いた。
「なあ、ベレト」
「うん」
「俺に嫌われたいならさ、もう少しちゃんとやれよ」
息が止まった。
クロードは笑っていなかった。怒っているようにも見えなかった。
「水の場所なんか教えるな。飯も作るな。気分が悪くないかなんて聞くな。帰るって言ったら、気をつけてなんて言うな。ほんとに嫌われたいなら、俺を全裸で外に叩き出すくらいしろ」
「それはしない」
考えるより先に、そう答えていた。
「だろうな」
その声は静かだった。
「できないんだよ、あんたは」
何も言い返せなかった。
「……自分は、君を振り回した」
ようやく出た声は、思ったより低かった。
彼は黙っていた。
「一度、君からの誘いにむずかしいと返したことがあるだろう」
「あったな」
「会いたくなかったわけではない」
「…………」
「何もなかったからだ。忘れ物も、酒も、食事も、君が慰めてほしいと言ったことも。何もなかった。だから君を部屋に入れたら、自分が会いたかっただけになる」
言ってから、指先が少し冷えた。
「それが怖かった。でも、結局会いたくなった。だから理由を作った。酒をもらったのも、食事を作りすぎたのも、お茶があったのも、全部ほんとうだ。でも、君に来てほしかった」
とうとう、言ってしまった。
「そうやって、君を振り回した」
クロードはしばらくこちらを見ていた。
それから、深く息を吐く。
「……あんたなあ」
呆れたような声だった。けれど、冷たくはなかった。
「酒と、飯と、茶で、俺を釣ったと思ってる、と」
「事実だ」
彼は、低いテーブルのグラスへ目を落とした。
「俺は、行きたくなかったら行かない。食いたくなかったら食わないし、飲みたくなかったら飲まない。あんたが理由を並べたからって、それに乗っかって全部受け取ったのは俺だ」
彼の言っている意味が、すぐにはわからなかった。
自分が理由を作った。用意した。差し出した。クロードはそれを受け取った。けれど、自分はずっと、無理に受け取らせたのだと思っていた。
そのほうが、楽だったから。
「だいたいさ」
彼の声が、少しだけ低く、自嘲するような色を帯びた。
「最初にあんたを都合よく利用したのは俺のほうだろ。酔って転がり込んで、勝手に慰めろなんて言って。あんたのやさしさに甘えた自覚ぐらい、俺にだってあるんだからな」
彼はグラスから視線を上げ、こちらをまっすぐに見た。
「俺がそんな最低な真似をしてるのに、あんたが理由を作って俺を振り回したぐらいで嫌われると思ったか? 見積もり甘すぎるだろ。つーか、そもそもそんな振り回されてもないし」
「…………」
「ほんとに俺に嫌われたいなら、もっとほかに効くことがあるだろ」
「たとえば」
「あんたに初めて慰めてもらった夜、俺のこと、ひどい奴だと思ったか」
言葉が止まった。
「……思った」
「じゃあ、それを言えよ。都合よく利用するなとか、お前みたいなやつ振られて当然とか、何でもいい。そっちのほうがよっぽど効く」
言えなかった。
たしかにひどいとは思った。あの夜、扉を開けてクロードの顔を見たとき、酒の袋を見たとき、慰めてほしいと言われたとき、自分は傷ついた。
でも、それだけではなかった。
来てくれた、と思った。自分のところへ来たのだと思った。そのことがうれしかった。うれしいと思った自分も、ひどいと思った。
それでも、彼を人でなしだとは思わなかった。振られて当然だとも思わなかった。傷ついているなら、何かしてやりたかった。
好きだったのだと思った。
あの夜からではない。たぶん、その前から。彼がベレスを見るところを見たくなかったときから、もうそうだったのだと思った。
だから、言えなかった。
嫌われたかったのに、彼を嫌うための言葉は、どこにもなかった。
クロードはグラスを低いテーブルに置かなかった。水を飲み終えても、ダイニングのほうに立ったままだった。
「じゃ、話も済んだことだし、シャワー浴びて、帰る準備でもするわ」
一瞬だけ、息の仕方がわからなくなった。
「帰るのか」
思ったより早く、声が出た。
彼がこちらを見る。グラスを持ったまま、少しだけ目を細めた。
「帰るよ。あんたは引き留めてくれないしさ」
何も言えなかった。
たしかに、自分は引き留めていない。泊まる理由も、ここにいる理由も、もう何も差し出していなかった。水も、食事も、慰めも、全部使えない。
「引き留めるならいまだぞ」
彼は、静かにたずねた。
帰ってほしくない。ここにいてほしい。
けれど、そう言うのはむずかしかった。理由もない。用事もない。今夜はもう、これ以上何かをしてほしいわけでもない。それでも、帰ってほしくはなかった。
「……今日は、泊まっていってほしい」
ようやく、そう言った。
彼は少しだけ黙ったあと、息を吐くように笑った。
「泊まるよ」
「……そうか」
「最初からそのつもりだった」
「なら、なぜ帰ると言った」
「言わせたかったから」
何を、と聞かなくてもわかった。
彼は、困ったように笑った。
「理由がなくても、言っていいんだって。そっちのほうが俺はうれしい。まあ、言えなかった理由は、俺にあるんだろうけどさ」
すぐには返せなかった。
彼はグラスを流しに置いて、浴室のほうへ向かった。扉が閉まり、少ししてシャワーの音が寝室まで届いた。
自分は、まだベッドの上にいた。
口にした言葉を、あとから頭の中で反芻した。忘れ物でも、食事でも、お茶でも、水でもなかった。クロードが疲れているからでも、慰めが必要だからでもない。ただ、帰ってほしくなかっただけだった。
彼のいた側のシーツには、まだ皺が残っている。
直そうとして手を伸ばしかけたが、指先が触れる前にやめた。いまきれいに整えてしまえば、あの言葉ごと消えてしまうような気がした。
だから、そのままにしておいた。