無双(赤焔/ベレト未加入ルート)軸で、アリルの会戦を生き延びたクロードが、デアドラへ戻ったあとの話。
@Bombwooo
盤面は、もう帝国のものだった。
悔しいが、覆せなかった。あのまま戦ったところで削られて終わる。逃げたところで、逃げ切れないこともわかっていた。それでも、退くしかなかった。
飛竜の首筋に伏せるみたいにして手綱を握る。翼が打たれるたび、鞍の下で骨ごと軋むような鈍い揺れが返ってきた。羽ばたきが明らかに弱い。飛ぶためというより、落ちないためだけの動きに近い。こいつももう限界だった。
後ろで馬がいななく。ひとつではない。短く切れた声が重なって、すぐに乱れた蹄の音へ埋もれる。兵の列はとっくに崩れていた。揃っているのは、みんな同じ方角へ逃げているということだけだ。振り返れば、谷の向こうから黒い波みたいに帝国軍が流れ込んでくる。途切れない。離れない。こっちが息を継ぐ間すら与えず、そのまま喉笛まで食いついてくるつもりなのが、追い方だけでわかった。
ベレトを置いてきた。
それだけは、何度思っても頭の中でうまくかたちにならなかった。死んだ、と言い切るには、さっきまでそこにいた気配が濃すぎる。まだ生きている、という考えがよぎらなかったわけじゃない。だがそのたびに、飛竜が大きく揺れた。脇腹の傷がひらく。後ろではヒルダの飛竜が息を荒くしている。
俺たちは進めないまま、デアドラまで戻るしかなかった。ここで退けば終わりだとわかっていても、あの場に踏みとどまれるだけのものは、もう残っていなかった。
悔しさも、喪失感も、後悔も、全部ある。あるのに、どれひとつとして向き合う暇がない。いまそれをやったら手綱が緩む。緩めたら終わる。だから噛み潰して前だけ見た。
ようやくデアドラの石壁が見えたとき、助かったとは思わなかった。
ただ、ここまでかもしれないとは思った。
飛竜は着地と同時に大きくよろめいた。俺も鞍から降りた拍子に膝が笑う。まともに立て直す前に、後ろから戻ってきた兵が叫んだ。帝国軍が近い。わかってる。見ればわかる。門を閉じる、負傷者を運ぶ、残っている兵を集める、誰かが怒鳴って、誰かが走る。けれど、立て直すには何もかも足りなかった。時間も、人も、物も、そして俺自身も。
武器を捨てる気にはなれなかった。捨てたところで何かが戻るわけでもないし、ここまで来たものまでなくなる気がした。
籠もって耐えられる数じゃない。ここで奥に引っ込んだところで、押し潰されるのが少し遅くなるだけだ。だったら前に出るしかない。俺がそう決めるまでもなく、ヒルダはもう斧を持って歩き出していた。
飛竜から降りたあいつの足取りは、見ているこちらまで落ち着かなくなるほど危うかった。肩口の血はまだ乾ききってない。顔色も悪い。それでも斧だけは離さない。
「クロードくん、ひどい顔してる」
先にそう言ったのはヒルダのほうだった。息が上がってるくせに、口もとだけで笑う。
「お前こそ」
「乙女に向かってそういうこと言うー?」
「そもそも、乙女はそんなもん振り回さないだろ」
「盟主様を守るために、仕方なく振り回してるだけだよー」
言い返す気力が残ってるなら、まだ大丈夫だ。
そう思った瞬間、帝国側の喚声が近づいた。石壁にぶつかって、跳ね返る。考える時間は終わりだった。
弓を持ち直す。右の肩はもう満足に上がらない。脇腹も、動くたび服の下で嫌な熱を持った。
ヒルダは最初から、俺を庇う位置にいた。俺が前に出れば、あいつはさらに前へ踏み込む。それがわかっていて、なお行くしかない。最悪だ。けれど、ここで俺だけ下がれば、もっと最悪なことになる気がした。
帝国兵が雪崩れ込んでくる。矢を放ち、踏み替え、また引く。腕に痺れが走る。重い。飛竜の上ならごまかせた傷が、地に足をつけた途端にこっちを向いた。ヒルダの斧も、振るうたびに軌道が鈍っていた。踏み込みが浅い。息も続いていない。
長くはもたない。見ればわかる。
それでも、終わりは思っていたより早く訪れた。
横から来た槍をヒルダが柄で受ける。受けきれずに斧の石突が石畳を滑る。そこへ二本目が入った。避ける。だが肩を掠める。身体が傾く。俺が名前を呼ぶより先に、三本目が来た。
ヒルダの膝が落ちる。
斧が石畳を打った。嫌な音だった。耳に残る。戻れ、と喉まで出たが、出なかった。もう戻れないと、見た瞬間にわかってしまったからだ。
槍先がいっせいにそっちへ向く。駆け寄ろうとした、そのときだった。肩に衝撃が走る。今度は矢だった。深く入った。迷う暇はない。俺は矢柄を掴んで、そのまま引き抜いた。視界が一瞬白く弾けて、足の裏から地面が遠のく。
ヒルダが倒れた。
その事実だけが、少し遅れて腹の底へ落ちた。
だが、止まれない。止まれば、あいつのところへ向いた槍も、こちらへ向かってくる槍も、次の瞬間には俺を貫く。弓を持つ手が滑る。血か汗かももうわからない。喉の奥へ鉄の味が落ちてくる。前を見る。ここで膝をついたら終わる。こうなるってわかってたんだろ。そう自分に言い聞かせるみたいに、もう一度だけ踏み込もうとしたところで、ふいに、腕を後ろから強く引かれた。思わず体勢がぶれる。前へ出る俺を、止めるための手だ。
振り返る。
ベレトがいた。
髪は、出会ったときの色に戻っていた。外套は土と血に塗れ、裂けた布のあいだから傷口がそのまま覗いている。肩も脇腹も赤く濡れて、立っているのが不思議なほどひどい有様だった。それなのに、俺を掴んでいる手だけは揺るがない。
ベレトはもう一度、俺の腕を引いた。
「行こう、クロード」
はっきりと、そう言った。自分がどれだけ傷ついてるかなんて、最初から勘定に入れていないみたいな言い方だった。
身体が、そちらへ引かれる。傷だらけの脚が石畳を擦る。それでも、そこで止まった。
「まだ間に合う。君は生きている」
振り払うことはできなかった。そんなふうにはできない。できないまま、空いている手でベレトの手に触れる。
「……無理だ」
口の中が乾いて、声がうまく出ない。けれど、ここは曖昧にできなかった。
「俺だけ逃げるなんて真似はできない」
ベレトは黙っている。けれど目は逸らさない。
「こうなるってわかってて、ここまで来た」
言葉を継ぐたび、肩の傷が疼いた。
「こうなるってわかってて、ついてきてくれた奴らがいた」
ヒルダが倒れた場所を見る。土埃に遮られて、姿はよく見えない。それでも、あいつがそこで戦ったことだけは消えない。
「それを、俺は裏切れない」
やっとのことで言い切る。息が灼ける。肺の奥まで血の味が満ちる。
少しのあいだ、戦の音だけがふたりのあいだを埋めた。鉄のぶつかる音。飛竜の叫び。誰かの短い断末魔。すべてが近い。どこにも逃げ場なんてない。
それから、ベレトが言った。
「……自分も、もう、どこにも行けない」
そのひと言でじゅうぶんだった。
ジェラルトさんはいない。傭兵団も、もう彼の居場所じゃない。帝国の恨みも買った。そんな身体で、どうにかここまで来た。どこにも行けない奴が、俺のところへ来た。
張りつめていたものが、そこで危うく切れかける。
行くところがなければ、俺のところに来てくれ。そんなことを言ったのは、ほんの少し前のはずなのに、妙に遠い。もっとべつの場所で、もっとましなかたちで返事をもらえるつもりでいた。なんとも勝手な話だ。
ほんとうに来てくれたんだな、と思う。
ふたりのあいだに、何もなくなっても。
それでも、俺は行けない。
彼の手を取ってここを離れたら、きっと楽になれる。ほんの少しのあいだだけでも。
だけど、その先へ行けない。ヒルダを置いて、ここまでついて来てくれた奴らを置いて、俺ひとりだけ生きるための道を選んだら、それこそ何も残らない。
「そうか」
ひどく落ち着いた声だった。自分でも驚くくらい、まっすぐ出た。
「じゃあ、最後までここにいろよ」
ベレトは何も言わなかった。
ただ、もう一度俺の腕を取った。今度は逃がすためじゃない。そこにいるための手つきだった。
俺は手を重ねなかった。
だが、振りほどきもしなかった。