無双(赤焔/ベレト未加入ルート)軸で、EP.7~EP.14の要素を拾いつつ、クロードがあの決断を下し、終わりを迎えるまでの空白を埋めるお話。
この【改稿版】はクロードの盟主としての側面を強めたものです。【旧版】とは大筋や結末は変わりません。
【補足】
・流血、死亡表現があります。
・作中の台詞を一部引用していますが、文脈に合わせて改変しているものもあります。
・作中の展開を一部改変しています。
・ふたりの関係性の変化に焦点を当てているため、同盟側の細かな情勢や盟約の経緯などは省略しています。
@Bombwooo
王国領から流れてきた傭兵団の名を、俺は士官学校にいたころから知っていた。
ジェラルト傭兵団。
その団長の名も、その下にいる凄腕の傭兵の噂も、耳にしたことがないわけじゃない。戦場で金になる話は、流れる先を選ばない。こと強い名ともなれば、なおさらだ。
もっとも、名がそのまま使いものになるとは限らない。大げさに膨らんだ武勲もあるし、腕より口のほうがよく回る連中もいる。だから俺は、報告書の上で知っている名前だからといって、手放しで信じる気はなかった。
ただ、いまの同盟に必要なのは、きれいな忠義でも、お題目みたいな正しさでもない。盤面をひっくり返すには足りなくとも、せめて崩れかけたところへ無理やり楔を打ち込めるだけの力は欲しかった。
だから呼んだ。金で雇えるなら、それがいちばんよい。
少なくとも俺は、情で動く相手より、金で動く相手のほうがまだ信用できた。
通されたふたりを見て、まず視線が留まったのは当然、団長のほうだった。
ジェラルト。
隙のない男だった。年を重ねているのは見ればわかるが、衰えを安売りするような立ち方はしていない。こちらの値踏みを、あちらも同じだけやり返している。
けれど、少し話しただけで、もうひとりのほうへ意識が向いた。
隣に立つ、藍がかった髪の男。
こちらが話しているあいだ、ほとんど口を挟まない。聞いていない顔でもない。むしろ逆だった。黙っているくせに、どこを聞いているのかだけは妙にはっきりしている。金額や日取りより、道筋、兵の置き方、どこまで前へ出るつもりか。そういうところで、ほんのわずかに目が動く。
なるほどな、と思った。
団長の名で呼びはしたが、実際に前で働くのはこっちかもしれない。
そのときだった。
「いつまでも俺ひとりで回すのも芸がねえ。こいつにも少しは慣れさせようと思ってな。取り回しは任せるが、手は抜かねえよ。俺の目もある」
団長が、横の男を軽く親指で示してそう言った。ずいぶんあっさりしているようでいて、言っていることは軽くない。
慣れさせる。取り回しは任せる。つまり、今回の雇い入れでは、この男を前へ出すつもりなのだろう。
俺はそこで、ようやくその顔をまともに見た。この男が『灰色の悪魔』だということは、すぐにわかった。
だからといって、その呼び名をわざわざ口にする気にはならなかった。異名なんてものは、だいたい当人よりひとり歩きする。
目の前に立っているのは、そうした名札より先に、どこへ置かれるのかを見極めようとしているひとりの傭兵だった。
目が合った。あからさまな敵意も、雇い主へ向ける愛想もない。
ただ、自分がどこへ置かれるのか、どこまで使われるのかを見極めようとする、平淡なまなざしだった。感情が薄いというより、余計なものを先に出す気がないのだろう。
扱いづらそうだ、と思った。それと同時に、ごまかしも利かなさそうだとも思った。
「団長代行、ってわけか」
そう口にすると、ジェラルトさんが口の端だけで笑う。
「そんな大げさなもんじゃねえよ。戦場で動かすぶんには問題ねえ」
「へえ」
俺はうなずいて、もう一度、静かに立つ男を見る。
彼の名はもう聞いていた。ベレトというらしい。
例の異名を、わざわざなぞる気はない。目の前のこいつがどう動くかは、戦場で見ればわかる。
「じゃあ、話は早いな。こっちとしても、前へ出せる手が多いのは助かる」
軽く言うと、ベレトは黙ったままこちらを見た。
返事がないことに腹は立たなかった。たぶん、ここで余計なことを言う人間じゃないのだろう。そういう種類の無口さだった。
条件の詰めに入ってからも、ジェラルトさんは終始軽い調子を崩さなかった。
報酬、期間、動く範囲、切り上げどころ。話が細かくなるにつれ、こちらだけじゃなく、ベレトのほうにも自然と目が向く。どの線を守り、どこを切り捨てるか。その種の話になると、彼はやはり、さっきよりもわずかに気配を濃くした。
それでじゅうぶんだった。強いかどうかは、戦場で見ればいい。
ただ、少なくとも、盤面にまったく無頓着な手合いではない。それだけわかれば、いまはいい。
俺は最後に、机上へ広げた地図の端を指で叩いた。
「細かい話は、実際に動きながら合わせよう。今回の相手は、悠長に品定めしてくれるほど親切じゃない」
ジェラルトさんが短くうなずく。ベレトは一拍だけ遅れて、同じようにうなずいた。たぶん、その遅れに深い意味はない。けれど、なぜだか目についた。
名のある傭兵団を雇った、それだけの話だ。
それなのに、退室してゆく背中を見送りながら、俺はほんの少しだけ考えてしまった。
団長代行。そう言われたばかりのあの男が、どこまでもつのか。いや、どこまでもたせられるのか。
そんなことを、わざわざいまここで考える必要はなかったのに。
戦の前は、いつだって静かだ。
兵のざわめきも伝令の足音も、近くで聞けばべつに静かじゃない。それでも、盤上ではもう置く駒が決まりきっていて、あとはどこが先に崩れるかを待つだけのときがある。あの包囲戦の前が、まさにそうだった。
ベルグリーズ伯を囲い込み、退路を断つ。
それだけ聞けば、悪くないかたちに見える。実際、地図の上ではそうだった。けれど、地図はあくまで地図でしかない。同盟は、王国や帝国みたいにきれいに噛み合った歯車じゃないのだから、寄せ集めの手札を手ごろな場所へ並べただけの陣など、ひとつでも綻べばそこから先は早い。
だから、囲んだあとのほうが問題だった。
ベルグリーズ伯は、囲まれたからといって怯む相手じゃない。むしろ、追い詰めたぶんだけ牙を剥いてくる。そこへ帝国軍の救援が間に合えば、盤面は簡単にひっくり返る。
わかっていた。わかっていて、なお、ここで叩くしかなかった。
砦の上から戦場を見下ろしながら、俺は自然と視線を動かしていた。伝令の来る線。味方の前衛の押し込み具合。包囲の薄いところ。それから、ジェラルト傭兵団のいる位置。
団長本人は、後ろに引きすぎない。引きすぎないが、無理に前へ出る配置でもない。彼があそこにいるから、団員は落ち着いて戦えるのだろうと思った。代わりに、前線で目立つのはやはりベレトのほうだった。
本来なら、彼もまた南で退路を塞ぐ伏兵にそのまま組み込むつもりだった。
だが、前に出すなら、いざというときにどこでも差し込める位置へ置いたほうがいいと、ジェラルトさんは言った。実際、それは間違っていない。
包囲が崩れたときに備えて、強い手札の一枚ぐらいは、俺の近くに伏せておいたほうがまだ使いようがある。
だから彼は南端ではなく、俺の目が届く北寄りに伏せることになった。
藍色の影が、少しずつ場所を変えてゆく。
誰かを率いて目立とうとしているわけでもないのに、綻びそうなところへ入るのが妙に早い。兵の列が崩れる前にひとつ手を打って、持ちこたえたところでもう次へ移る。見え方としては地味だが、ああいう動きは放っておくと厄介だ。
ここでようやく、ジェラルトさんの言葉の意味が、腹の中に落ちた。もっとも、それで盤面そのものがひっくり返るわけじゃない。
あくまで、崩れかけたところへ楔を打つ手だ。今の同盟に必要なのも、まずはそれだった。
こちらの前衛が押し返しはじめたころ、砦へ報告が上がってきた。帝国側の動きが想定より早い。ベルグリーズ伯の軍勢は、包囲されてなお士気が落ちていない。嫌な報せだったが、驚きはない。あの男が、囲まれたくらいで折れてくれるなら、そもそもここまで厄介じゃない。
だが、次の報せには、さすがに少しだけ眉を寄せた。皇帝直属軍が見えた、という。
思ったより、早い。
まだ、崩壊とは言えなかった。ひどく危ういだけで、致命傷じゃない。そう思っていたのに、盤面はいつだって、こっちの都合がいいところでは止まってくれない。
前線の一角が食い破られた。包囲の輪が歪み、その歪んだところへベルグリーズ伯の軍勢が牙を立て、さらにエーデルガルトたちが重なった。息を吐く間もなかった。
伝令が転がり込み、また次の報せが来る。ヒルダの持ち場が危うい。防壁の一部が崩れた。ベルグリーズ伯の包囲突破が近い。
視線を走らせるたび、地図上の線が一本ずつ嘘になってゆく。いくらでも立て直し方は考えられるのに、そのどれもが、いま目の前で崩れている速度には追いつかない。
くそ、と舌打ちしかけて、やめた。こんなもの、誰に聞かせる意味もない。
砦の上から見える限りでも、戦場はもうずいぶんひどかった。砂煙が上がり、兵の列は斜めに千切れ、押し込んでいたはずの前線がじりじり削られている。
その中で、藍色だけはまだ動いていた。ベルグリーズ伯の圧の近く、いちばん血のにおいが濃い場所で、ベレトはひたすら線を繋ぎ続けている。押し返すというより、崩れきらせないための動きだった。
あれは強い。強いが、あれひとつでひっくり返る盤面じゃない。そこは、ちゃんとわかっていた。だからこそ、使いどころを間違えるわけにはいかない。
嫌な報せはまだ尽きない。皇帝直属軍の圧が増した。ベルグリーズ伯の突破が近い。
このまま砦へ籠もっても、壁ごと砕かれるだけだろう。だったら、少しでも兵を逃がす時間を稼ぐしかない。
そう判断したときには、もう腹は決まっていた。
「門を開けろ。俺が出る」
悲鳴みたいな声が、すぐ横で上がった。
「め、盟主様! なりませぬ、ここはひとまず籠城を――!」
「この期に及んで籠城に何の意味がある? 壁ごと粉砕されて終わりだ」
言いながら、自分でもひどい声だと思った。苛立ちに任せているようでいて、内心はそれどころじゃない。
飛竜の首筋を軽く叩く。呼応するように、低い鳴き声が返った。頼んだぜ、とつぶやいたのが聞こえたかどうかはわからない。
重い音を立てて、門が開く。砂ぼこりの向こうから、熱気と血のにおいが一気に流れ込んできた。
飛竜を駆って前へ出る。狙うのは、深追いじゃない。勢いを削いで、押し返して、退くための時間を作る。それだけでよかった。
それだけで済むなら、まだよかった。
目の前へ躍り出た双剣を見たとき、ああ最悪だな、と心の中でひとつ息をついた。
さっきから何度も盤面を荒らしている、あの傭兵だ。かつて俺を盗賊から救った男であり、いまは俺の首に刃を向ける男でもある。
近づかれる前に射落としたかった。上から削って、間合いを保って、それで済ませるつもりだった。
けれど、そうはならなかった。速い。思っていたより、ずっと速い。
矢を読んでいるというより、飛んでくる前提で動いているみたいだった。立体的に距離を詰められて、飛竜の機動を活かしきれない。気づけば、腰の剣を抜いていた。
激しい金属音が、耳の奥を打つ。上から振り下ろし、受け流し、離れようとしても食いつかれる。
泥臭い。最悪だった。計算どおりに事が運んでいたなら、こんな白兵戦に持ち込まれるはずがない。
「お前か? 俺の計算を散々に狂わせてくれたのは」
吐き捨てると、シェズは不敵に笑った。
「さあな。俺は傭兵だ。とりあえず、お前を手柄にさせてもらうぞ!」
冗談じゃない。だが、冗談じゃないと笑い飛ばせる余裕も、長くはもたなかった。
執拗に迫る刃を捌き損ね、腕に衝撃が走る。籠手が砕ける音がして、その下を浅く裂かれた。たいした深さじゃない。けれど、浅い傷というのは、往々にしてそうした顔をして人を苛立たせる。熱い。ひどく熱い。
腕から落ちた血が、土へ黒く滲んだ。ここまでか、とすぐにわかった。
惜しいとも思わなかった。惜しんでいる余裕がない。これ以上こいつにこだわっていても、戦線は維持できない。俺がここで無様に落ちれば、それで終わる。だったら、まだ動けるうちに兵を退かせるしかない。
飛竜の身を翻し、空へ上がる。眼下には、すでに絶望に片足を突っ込んだ戦場が広がっていた。
「すまないが、あとは任せたぜ、凄腕の傭兵さん!」
我ながら、ずいぶんひどい投げ方だった。軽口で包めば少しはましになるわけでもないのに、そうでもしないと口にできなかった。
撤退の銅鑼が鳴る。その音にかぶさるように、下で剣戟が一瞬だけ鈍った気がした。
視線を落とす。
ベルグリーズ伯の足止めに入っていたベレトが、ほんのわずかに手を止めていた。藍の髪が砂に濁って見える。その顔まではさすがに遠かったが、こちらを見上げたことだけはわかった。
呆気に取られたのか、怒ったのか。そこまでは読めない。けれど、さっきまで平たかったまなざしに、何かひとつ増えたのだけは見えた。
直後、ジェラルトさんの太い声が戦場を裂く。
「おい、そっちは任せた。俺たちは撤退した帝国軍を追う!」
ひどい話だ、と思った。俺が言えた義理じゃないが、ほんとうにひどい。退路を塞ぐ任に戻る団長。眼前には猛将。空の上では、丸投げした張本人がもう退いている。
土ぼこりと血のにおいが立ちこめる戦場の隅で、上空を睨み上げる男と、飛竜の背からそれを見下ろす俺の目が、ほんの一瞬だけ交わった。
彼は、怒っている。それだけは、どうしてかわかった。
撤退の銅鑼に追われるように野営地へ戻る途中、ヒルダと短く言葉を交わした。
やられたね、と、ひどく静かな声で言われて、俺は仕方ないさと返した。
こういう展開もあり得るとは思っていた。
「あの数の兵を、ああも活かされちゃ敵わない。地の利があっても、敵わない相手はいる」
口にしてから、自分でもずいぶん弱いことを言っていると思った。
「俺が戦うと決めたせいで、これだけの死人が出ている。おとなしく帝国に従うときが来たか、と考えないわけにはいかない」
そんなことまでこぼしたのは、たぶん、負けた熱がまだ身体の奥に残っていたからだろう。
ヒルダはめずらしいものでも見るみたいに俺を見たが、すぐに、それでも一度は決着をつけておく必要があったのだと言った。
俺だけじゃなく、あいつなりに腹を括ってここへ立っていたのだと、そのときようやくわかった。
けれど、納得したからといって、負けの重さが軽くなるわけじゃない。崩れた盤面の感触が、まだ手に残っていた。
撤退の銅鑼は、戦場の熱を引きずったまま、野営地の奥までいつまでも鈍く響いていた。
逃げのびた兵の顔はどれも土と血で汚れ、担ぎ込まれてくる負傷者のうめきと、馬の荒い息と、鉄のにおいとが、薄い天幕の布一枚ではとても防ぎきれない濃さで入り混じっていた。
いったん腰を下ろしてしまえば、もう立ち上がる気力まで地面に吸い取られてゆきそうだった。それでも盟主の顔をしていなければならない以上、俺は腕の傷だけを手早く布で縛らせ、次から次へ上がってくる損耗の報せにうなずいてみせるしかなかった。
ひどい負け方だった。
包囲は破られ、前線は崩れ、押し返したと思ったところから順に崩され、最後には、どこまでが俺の読み違いで、どこからがあいつらの力ずくだったのか、その境目さえ曖昧になるくらい、盤面そのものがぐしゃぐしゃに踏み荒らされていた。
それでも、完全に潰えたわけじゃない、まだ手はある、ここで止まってたまるかと、そういういつもの声が頭のどこかではちゃんと響いているのに、その声へ素直に従うには、気分がひどく重かった。
視線を落とせば、広げたままの地図の上に、乾ききらない血がひとしずく落ちている。
誰の血だろうな、と、どうでもいいことを考えた。
俺のかもしれないし、さっき傷口を押さえた兵のものかもしれないし、あるいは飛竜の背から見下ろしただけの、名も知らない誰かのものかもしれない。どうでもいい。どうでもいいはずなのに、そうやって考えていないと、いまこの場で目を向けるべきものから、少しだけ逃げられる気がした。
天幕の入口がかすかに鳴ったのは、そのときだった。
顔を上げる。そこに立っていた男を見て、俺は一瞬だけ、うまく言葉が出なかった。
ついさっきまで、戦場の砂に濁った藍色をしていたはずの髪が、見間違えようもなく、淡い翠へ変わっていたからだ。
血と土に汚れた顔つきも、鎧の裂けたかたちも、肩口に残る傷も、いまここへ立っているのがベレトだという事実も、何ひとつ変わっていないのに、髪の色だけが、まるでべつの理でもねじ込まれたみたいに変わっている。
さすがに、これは驚く。
だが、その驚きをそのまま口にするのは、場違いな気がした。あの戦場の只中で何が起きたのか、問いただせば答えがもらえるとも思えないし、いまこの男がここへ来た理由は、たぶんべつのところにある。
「……無事、っていうにはちょっと無理があるか」
冗談めかして言うと、ベレトは否定も肯定もせず、天幕の中へ数歩だけ入ってきた。歩き方はいつもどおり静かだったが、静かすぎるほど静かで、かえってその内面のざらつきが透けるようだった。
「君の負傷について、謝りに来た」
まっすぐにそう言われて、俺は思わず目を瞬いた。
負けた。それは事実だ。迎撃に出た俺は腕を裂かれ、撤退を告げ、結局こいつに殿を押しつけた。だから、ここでこの男が何か言いに来るとしても、せいぜい報告か、あるいは次の戦の話だと思っていたのに、最初に出てくるのが謝罪だとは思わなかった。
「……へえ。そりゃまた、律儀なことで」
「君に傷を負わせた。戦線も維持できなかった。自分が受けた任を果たしきれなかった以上、謝るべきだと思った」
感情を押しつけてくる声じゃない。ただ事実を並べているだけみたいに聞こえるのに、そのひとつひとつがやけに重い。
そこでようやく、ああ、この男はほんとうに、自分の失態だと思ってここへ来たのかとわかった。
可笑しくなって、少しだけ笑いそうになった。
あの盤面で、彼ひとりに何をどうしろと言うのか。包囲が破られたのは、彼のせいじゃない。
エーデルガルトが間に合ったのも、ベルグリーズ伯が化けものじみていたのも、俺が自分で門を開けて出たのも、ぜんぶべつの場所から崩れてきたものだ。そんなことは、盤面を見ていればわかる。
わかるのに、この男は、自分の手の届かなかったところまで引き受けて謝りに来る。まいったな、と思った。
「気にしなくていい……って言っても、納得しない顔だな」
「納得しない」
間を置かずに返ってきて、今度こそ、少しだけ口の端がゆるんだ。
「そういうところは融通が利かないんだな」
「いまは、自分のことはいい」
そこで、ベレトはほんのわずかに眉を寄せた。
「それと、君の立ち回りについて、確認しておきたいことがある」
来た、と思った。謝罪だけで終わる顔じゃないとは、薄々わかっていた。だが、思ったよりもずっと早く切り込まれて、俺は笑いを引っこめるしかなくなる。
「盟主があの位置まで出る必要はあったのか。籠もっていても勝てない戦局だったとしても、君が自分で門を開けるのはまたべつの話だろう。あの場で君が落ちれば、それで終わっていた」
「終わりそうだったから、出たんだけどな」
「それで結局どうなった? 君は怪我をしただろう」
声は低いままだったが、その低さの底に、戦場で上から理不尽を押しつけられたときと同じ、あのむっとしたものがまだ残っているのがわかった。
ああ、怒っているのか。
しかも、あの場で殿を押しつけたことだけじゃない。自分で勝手に危ない手を選んで、それを当然みたいな顔で済ませようとしていることそのものに、腹を立てている。
そこまでわかってしまうと、どうにも力が抜けた。
たぶん、俺はこの男に、慰められたかったわけじゃない。労われたかったわけでもない。ただ、負けたという事実を、余計な意味づけもなく、そのまま置ける場所が、いまはほしかった。
だから、気づけば口が勝手に動いていた。
「……そうだよ。俺は怪我をして、戦にも負けた」
それは、盟主が口にするにはあまりに弱い、身もふたもない言葉だった。
けれど、口に出してしまったあとで、ひどく楽になるわけでも、みじめになるわけでもなく、ただ、俺の中で張りつめていたものがわずかにほどけた。
負けた。
そうだ、負けたのだ。
盤面も、読みも、手札も、何もかも、あの場では足りなかった。その事実だけが、ようやく俺の中でひとつのかたちを持った。
ベレトは、すぐには何も言わなかった。慰めの言葉もなければ、もっともらしい励ましもない。ただ、ごく浅く息を吐いた。そのそっけない反応が、いまはかえってありがたかった。
「……ああ」
ほんのひと言だった。だからこそ、次に続いた言葉は、ずいぶん深く刺さった。
「君はひどく矛盾しているな」
顔を上げると、翠へ変わった髪の下で、ベレトはまっすぐこちらを見ていた。
「兵を雑に捨てる気はないくせに、自分の命はその数に入れない。君が誰を逃がしたくて、何を守りたかったのかはわかる。だが、そのやり方で君が先に落ちれば、結局もっと多くを失う」
ひどくまっとうなことを言われている。まっとうすぎて、言い返す言葉がすぐには出てこない。
俺は少しだけ視線を逸らし、裂けた腕の布を見た。血はもう止まりかけている。浅い傷だ。浅い傷のくせに、今日ひとつの戦が終わったことを、嫌でも身体にわからせてくる。
「……後ろに、あんたたちがいると思った」
ぽろりとこぼれた。言った瞬間、しまった、と思ったが、もう遅い。
ベレトの目が、ほんのわずかに見開かれて、ああ、そういう顔もするのかと、どうでもいいことを考えた。
「だから出た。あそこで少しでも削れれば、あとはどうにかしてくれるかもしれないって、そう思った」
苦しい言い訳だった。言い訳だったが、嘘ではない。
彼らがいるから無茶をした。無茶をしたくせに、その無茶が理にかなっているつもりでいた。ひどかった。あさましくて、醜かった。
それでもベレトは、そこで軽蔑したような顔はしなかった。ただ、しばらく黙ってから、低く言った。
「それならばなおさら、次からはやめてほしい」
その言い方があまりにも正面からで、俺は返事の代わりに、乾いた息をひとつ吐くしかなかった。
だが、嫌じゃなかった。それがいちばん厄介だった。
負けた。読み違えた。兵も失った。そのうえで、ようやく雇い入れたばかりの傭兵に、ここまでまっすぐ物を言われている。
ふつうなら、腹を立てるなり、苦笑いで流すなり、そういうかたちで片づけたってよさそうなものなのに、どういうわけか、俺はそこで彼を疎ましいと思えなかった。
むしろ、そこまで言うのか、と感心しただけだ。
天幕の中は、しばらく静かだった。外ではまだ怒号やうめきが絶えず、布の向こうを人影がせわしなく行き来しているのに、この狭い中だけ、妙に音が遠い。
俺は裂けた腕をもう一度見た。布は赤く滲んでいる。浅い傷だ。浅い傷のくせに、あの戦の負けかたをずるずる引きずってきたみたいな顔をしている。
「……ずいぶん買ってくれてるんだな、俺のこと」
軽く笑うつもりだったが、思ったより乾いた声になった。ベレトは少しだけ黙った。黙って、それから、ごく平たい調子で言う。
「買っているわけじゃない」
「じゃあ、なんだよ」
「君に無茶をされると、困る」
言いきってから、彼はほんのわずかに視線を落とした。
たぶん、言葉を選んだわけじゃない。ただ、出てきた言葉がそれだったのだろう。そこが、ひどく彼らしかった。
困る、か。ずいぶん手短で、ずいぶん勝手な言いぐさだった。
こっちだって困っている。負け戦の後始末に、帝国軍への備えに、逃がした兵の立て直しに、困ることなら山ほどある。なのに、そのひと言で、それらとはべつのところを掴まれた気がした。
言葉に詰まって、俺は肩をすくめるしかなかった。
「そりゃ悪かったよ」
そう返すと、彼はうなずきもしない。赦すとも、納得したとも言わない。ただ、そこでひとつ話が終わったものと決めたみたいに、俺の机の上へ視線をやった。血で汚れた地図、乱雑に重なった報告の紙、崩れた包囲の線。彼はそれらを、ひどく静かな目で見ていた。
さっきまで戦場を縦横無尽に駆けていた男が、いまはもう、何事もなかったみたいな顔で立っている。
いや、何事もなかったわけがない。髪の色が変わった。それだけでもじゅうぶんおかしい。なのに彼は、その異変を俺に説明するでもなく、むしろ俺の盤面のほうを気にしてここへ来た。
ほんとうに、面倒だ。
「……その髪のこと、あとでちゃんと聞いてもいいか?」
思わずそう言っていた。
ベレトはわずかに目を上げたが、すぐには答えなかった。答えに困ったというより、どう返せばいいのか自分でも決めかねている顔だった。そこを見て、ああ、この手のことは彼にとっても予定外だったのだろうな、と、なんとなくわかる。
「いまは、うまく説明できない」
「だろうな」
即座に返すと、彼の目がほんの少しだけ細くなった。怒ったわけでも、笑ったわけでもない。ただ、そういう返し方をするのかと、ひとつ覚えたみたいな顔だった。
「じゃあ、説明できるようになったらでいい。無理に聞き出したいわけじゃないからさ」
それは本音だった。気になる。そりゃあ、気になる。
だが、いまこの場で問い詰めてどうなる話でもない。俺に必要なのは、神秘の解明なんかじゃなく、明日以降も立って戦える手札がどれだけ残っているかという現実のほうだ。
もっとも、その手札の中に、さっきから彼を入れて考えている自分には、少しだけ気づいていた。
気まずいような、妙に落ち着くような沈黙が落ちる。
追い返す理由はない。かといって、用もないのに引き留めるのもおかしい。
そんな半端な間を破ったのは、外から飛び込んできた伝令の声だった。
「盟主様、負傷者の振り分けが――」
「ああ、今行く」
ほとんど反射で返して、立ち上がる。立ち上がった瞬間に腕がひどく熱を持ち、思わず顔をしかめた。それを見たのか、見なかったのか、ベレトは何も言わなかった。ただ、入口の脇へ一歩だけ寄って、俺が出やすいように道を空ける。
その仕草が妙に自然で、少しだけ可笑しかった。
「……今日はもう、勝手に動くなよ」
天幕を出る前に、ついそう言う。自分でも、何を言ってるんだと思った。
雇ったばかりの傭兵に向かって、まるで部下にでも言うみたいな口ぶりだ。
だが彼は、そこでようやく、ほんの少しだけ口もとをゆるめた。笑ったというほどのかたちでもない。けれど、たしかに、さっきまでの無機質な顔つきがひとすじやわらいだ。
「君もだ」
短く返ってきたそのひとことで、もうそれ以上は何も言えなくなった。
負け戦の野営地に、俺たちはいる。血と泥と焼けたにおいが、布の隙間から絶えず流れこんでくる。そんな場所で交わすには、あまりに締まらないやりとりだった。
けれど、俺はその締まらなさに、思ったより救われていたのかもしれない。
それからの数日は、ひどく慌ただしかった。
撤退した兵をまとめ、食わせ、使える数を数え直し、砦の補修に追われ、帝国本隊の次の動きを読み、王国側の報せも拾わなければならない。負けたあとの仕事は、勝ったあとのそれよりずっと地味で、ずっと息が詰まる。
盤面をひっくり返す手なんかひとつもなく、ただ崩れたものをこれ以上崩させないためだけに、細い線を繋ぎ直してゆくしかない。
そのあいだ、ジェラルト傭兵団は、思っていたよりきちんと同盟の陣に噛み合っていた。
あとから気づいたのは、ジェラルトさんが本調子ではないということだった。
そのことを他人に悟らせまいとするみたいに、必要なときには前へ出た。だが、細かな取り回しや前線の見まわり、伝令の受け渡しみたいな仕事は、少しずつベレトのほうへ寄っていった。
体調のことは、本人から直接聞いたわけではない。ただ、見ていると、どことなく綻びが見える。言ってくれれば、とも思ったが、言われたところでどうしようもない。俺から何か言葉を投げる必要もなかった。
とはいえ、ベレトに団長代行をさせている理由は、やはり最初に聞いた通りなのだろう。場数を踏ませる。慣れさせる。言葉にすると軽いが、実際にやらせるとなれば話はべつだ。
それでも彼は、嫌な顔ひとつしなかった。いや、しなかったというのは少し違う。たぶん、顔には出ていた。
ただ、その不機嫌さも、投げ出すほうへは向かない。むしろ、ひとつでも多く働いて埋め合わせるみたいな向きで前へ出る。
雇われてすぐの戦で負けたことを、気にしているのだろうな、と、なんとなく思った。
だからといって、慰める気はなかった。そんなことをして収まるたちにも見えない。
けれど、あの負けを、彼が自分の失態のひとつみたいに抱えているのだとしたら、それは少しだけ、わかる気がした。
俺だって、負けたものは負けたまま、まだどこかに引っかかっていたからだ。
そして、その数日目だったか、もっと早かったか、ベレトが前線の報告を持ってきたとき、俺はようやく、気づくことになる。
その日も、机の上はひどかった。
損耗の紙が重なり、補給の見積もりがずれ、前夜のうちに書き直した配置の案に、もう朝から赤い線がいくつも引かれている。負けたあとの盤面は、静かに見えて、すべてがせわしない。どこも崩れきってはいないくせに、どこもまだ踏まれれば折れる。脆くなった足もとを、毎日ひとつずつ繋ぎ直してゆくしかなかった。
そこへ、ベレトが入ってくる。足音は相変わらず静かだ。
けれど、来るとわかるようにはなっていた。べつに気配が大きいわけじゃない。ただ、誰かがためらいなくまっすぐこちらへ来るときの空気だけは、なんとなくわかる。
「前線の様子は」
俺が顔を上げるより先にそう聞くと、ベレトは短くうなずいた。それから、口で報告をはじめる。
「東の斜面は持っている。だが、下の街道は土が緩い。荷車が通るには道が悪く、迂回したほうが早いだろう。北の見張りは、そのままでいい。帝国側の斥候は今朝も少ない。南は、砦の裏手に兵を隠せる。だが、焚火の跡が残っていた」
ひとつひとつは、きちんとしていた。見てきたものを、そのまま並べている。余計な飾りも、わかったようなまとめもない。だから聞いていて疲れることはない。ないのだが、途中から、どうにも引っかかる。
「待て。その焚火の跡は、どのあたりだ」
俺が地図へ手を伸ばすと、ベレトはほんの一瞬だけ黙った。黙って、それから、自分の指で机の端を示しかけて、やめる。
「……南の崖を下りた先だ。細い道がふたつに割れる、その手前」
「どっち側の道だ」
「海に寄るほう」
なるほど、と口では返したものの、頭の中では、べつのところに引っかかっていた。
もうひとつ、ふたつ聞き返して、ようやく、ああ、とわかる。この男、書いていないのか。
読めない、ではない。地図を見る顔は、ちゃんとわかっている顔だ。
けれど、自分で落として持ってくるという発想が、まるごと抜けている。だから見てきたものを、ぜんぶそのまま口で渡そうとする。
気づいた瞬間、少しだけ可笑しくなった。いや、笑いごとじゃない。俺が困る。
「……地図に落として、持ってきてくれたら早いんだけどな」
軽く言うと、ベレトはわずかに眉を寄せた。むっとした顔、と言っていい。彼は腹を立てても声を荒げないが、こういうときだけは妙にわかりやすい。
「困ったことはない」
「俺が困るんだよ」
そう返すと、彼は口を閉じたままこちらを見た。
言い返そうとしているのか、言うほどのことでもないと思っているのか、そのへんはまだよくわからない。だが、少なくとも、納得はしていないらしい。
俺は肩をすくめて、机の上の紙をひとつ引き寄せた。
「読むだけで済むなら、それでもいいさ。けど、見てきたものをこっちへ渡すなら、印ひとつでも書けたほうが早い。毎回ぜんぶ口で説明されるのは、さすがに骨が折れる」
ベレトは黙っている。黙っているが、出て行く気配はなかった。
そこまでくると、もう意地の張り合いみたいなものだ。俺はもうひとつ息をつき、紙の上へ指を置いた。
「また帝国とぶつかることもあるだろ。そのたび、あんたの見たものを、俺がいちいち頭の中で描き直すのは面倒なんだ」
軽口のつもりで言った。半分はほんとうだ。半分は、たぶんそうじゃない。
ベレトはその言葉に、さっきより少し長く黙った。それから、ひどく平たい声で言う。
「……書けるようになればいいのか」
「そりゃ、書けるに越したことはない」
「必要なかった」
「今まではな」
俺は紙の端を叩く。
「でも、いまは違う。団長代行なんだろ。だったら、兵の動きも、道も、補給も、あんたの頭の中だけに置いとくのはまずい」
そこでようやく、ベレトの視線がほんの少しだけ下へ落ちた。気まずいのだろう。あるいは、不本意なのかもしれない。
自分に足りないところがあるなんて、わざわざ人に教えられて愉快なわけがない。だが、ここで気を遣うのも違う気がした。彼はそういう慰めを喜ぶたちじゃない。俺だって、わざわざやりたくもない。
「べつに、いますぐ地図職人みたいに描けるようになれって言ってるわけじゃないさ」
紙を一枚引き寄せ、ざっくりと海岸線を引く。
つぎに街道を一本、砦を印でひとつ、村をふたつ。それから南の細い道を、少しだけ分岐させる。
「これでじゅうぶん。海、街道、砦、村。まずはそれだけ書ければいい。兵の数なんて、あとから口で足せば済む」
ベレトは紙を見ていた。見て、それから、おそるおそるというほどではないが、静かに近づいてくる。
「それで、伝わるのか」
「伝わるように書くんだよ」
「難しいな」
「そりゃあ、最初から上手くはやれないだろ」
言いながら、自分でも少しだけ可笑しかった。この人が、難しい、なんて言うのか。
戦場のど真ん中であれだけ平然としているくせに、紙の上へ線を引く話になると、ほんの少しだけ立ち止まる。ひどく妙で、だからこそおもしろい。
ベレトは、まだ紙を見ている。
「……やってみる」
不承不承、という顔ではなかった。諦めたような顔でもない。ただ、必要だと言われたから、その必要を受け取った、という顔だった。
「殊勝で助かるよ」
そう返すと、彼はむっとしたまま、俺の手もとの紙へもう一度目を落とした。
「さっきのを、もう一度」
「いまの一枚で覚えろ、と言いたいところだが……さすがに雇ったばっかりの団長代行にそこまで求めると、あんたの親父さんに怒られそうだな」
彼は何も言わなかった。だが、ほんの少しだけ、口もとが険しくなった。たぶん、からかわれたと思ったのだろう。
俺は笑いを噛み殺して、さっきより少しだけゆっくり線を引き直した。
「いいか、まず街道だ。人も荷も、結局はそこを通る。だから、迷ったら先に道を書く。海や森はそのあとで足せばいい。砦と村は、印を分ける。見返したときに混ざると面倒だからな」
そう言って、今度は紙を彼のほうへ滑らせる。ベレトはしばらく見ていたが、やがて俺が置いた筆を取った。
持ち方は、ひどく危なっかしいというほどじゃない。けれど、慣れている手つきでもなかった。
最初の一本は、少しだけ曲がった。街道のつもりで引いたらしい線が、途中でふらつく。村の印は、俺が書いたものよりずっと小さい。砦の位置も、ほんの少しだけずれていた。
俺はそれを見て、べつに笑わなかった。笑う理由がない。代わりに、紙の端を指で押さえてやる。
「そこじゃ少し南だな。道はもっと太くていい。あと、村をそんなに小さく書くな」
ベレトは黙ったまま、言われたところを書き直す。
書き直し方は素直だった。変な意地は張らない。直すべきだと思えば、そのまま直す。
ふたつめの地図は、少しましだった。
みっつめになると、街道を先に引く手つきがもう迷わない。砦の印も、ちゃんと目立つ大きさになっていた。
「……飲み込みが早いな」
何気なくそう言うと、ベレトの手がほんの一瞬だけ止まった。止まって、それから、また何でもなかったみたいに動く。
「……伝わるように書く、だったな」
「ああ、そうさ。ようやくその気になったか?」
「君が困るんだろう」
ぶっきらぼうに言われて、今度はほんとうに笑ってしまった。
「そうそう。俺が困る」
そう返すと、彼はわずかに目を細めた。あれが不機嫌の名残なのか、少しだけ機嫌が直ったのか、そのへんはまだわからなかったけれど、少なくとも、さっきまでよりはこの机の前に馴染んで見えた。
そうして過ぎる数日は、妙に細かなところばかりが目についた。
大きく崩れた線を立て直すには、結局のところ、どこで兵が足を止め、どこで補給が詰まり、どの持ち場が半刻もたずに痩せてゆくかを、ひとつずつ拾ってつなぎ直してゆくしかない。景気のよい一手なんてどこにもなく、あるのは、薄いところへもう一枚足して、崩れそうなところをどうにか明日まで保たせる仕事ばかりだった。
その日も、やることは似たようなものだった。
帝国の斥候が南の細道を探りに来ている。数としては多くない。だが、多くないからといって放っておけば、次にどこを踏まれるかの見当がつきやすくなる。こちらはまだ兵の並びを立て直している最中で、真正面からぶつかるより、薄いところをなめるように削られるほうが厄介だった。
だから、出す手も大きくはなかった。
砦から少し下った斜面に歩兵を伏せ、街道へ寄りすぎない位置へ弓を置く。その手前で一度だけ騒がせて、帝国の斥候を下げさせる。追いすぎず、削りすぎず、ただ、ここは見ているぞと思わせられればじゅうぶん。そんな、小さい戦だった。
小さい戦のはずだったのに、目の前で始まると、そういう小ささはすぐに嘘になる。
土の色が濃い。前夜の雨が残っているせいで、踏み荒らされた斜面はすぐ泥を噛む。兵の足が鈍る。矢も、わずかに重い。
砦の上からそれを見下ろしながら、俺は何度か舌打ちを呑み込んだ。地味な遅れほど、あとから効く。
その中で、ひとつだけ目立つ影がある。藍から翠へ変わった髪は、戦場の土の色の中ではかえって目についた。
ベレトは、押し込まれそうなところへ入るのが相変わらず早い。いや、早すぎると言うべきかもしれない。押し込まれそうになってからじゃない。崩れるにおいがした時点で、もうそこへいる。
あれはたしかに助かる。助かるが、助かるたびに、こちらの胃が少し痛む。
理由は単純だった。あの人は、前へ出すぎる。いや、前へ出ることそのものが悪いわけじゃない。あの腕なら、ひとつ前へ出るだけで列が持ち直すこともある。
実際、いまもそうだ。帝国の斥候が斜面の中央へ寄った瞬間、ベレトがそのひと塊へ斬りこみ、乱れた足並みを無理やりひっくり返している。こちらの歩兵が息を吹き返したのも、そのおかげだ。
けれど、だからこそよくない。持ち直した列の、その半歩先へ、彼はそのまま出てしまう。押し返した分だけ、もうひとつ先まで取りたくなるのだろう。あるいは、取れると思ってしまうのかもしれない。
それは、負け戦を一度くぐったあとの兵の動きとしては、少し危うすぎた。
前へ行きすぎるな、と思ったときには、もう遅い。
帝国側の斥候が引きながら、横へ散った。散って、ひとりぶん空いた細い隙間へ、遅れていた槍兵が滑り込む。目立たない、だが厄介な刺し込みだった。ベレト自身はたぶん見えている。見えているが、そのひと突きをかわすために、さらに斜面の下へ踏み出さなければならない。
そこまで行けば、もうこちらの弓の庇護から外れる。俺は砦の縁へ身を乗り出した。
「ベレト!」
声が届いたかどうか、一瞬わからなかった。だが、翠の頭がわずかにこちらへ向く。その間にも、槍の穂先は伸びる。
ベレトは身体をわずかに捻ってそれを避けたが、避けたことで今度は、もっと下のぬかるみに足を取られそうになる。危ない、というほどではない。けれど、ああいう一歩は、戦場ではあとで効く。
思わず、声が強くなった。
「下がれ! 深追いするな!」
砦の上から怒鳴るなんて、みっともないにもほどがある。しかも相手は雇ったばかりの傭兵だ。言い方だって、もっとほかにあっただろうに、我ながらずいぶん勝手だった。
けれど、言わずにいられなかった。ベレトはそこでほんの一瞬だけ動きを止めた。止めて、俺の声に従ったのか、たまたま退くつもりだったのか、そこまではわからない。ただ、次の踏み込みをやめ、一度だけ斜面の上へ跳び戻る。そのまま槍兵の穂先をいなし、味方の列の中へ半身だけ滑りこんだ。
そこでようやく、こちらの弓が間に合う。遅れて放たれた矢が、さっきの槍兵の肩をかすめた。
自分でも呆れた。どこまで面倒を見るつもりなんだ、俺は。
それでも、口は勝手に続いていた。
「うちは帝国ほど懐に余裕がないんだ。今ここであんたに倒れられたら、困るんだよ」
今度は、さっきよりもはっきり届いたらしい。
ベレトがあきらかに顔をしかめた。遠くて細かなかたちは見えないのに、むっとしたのだけは妙によくわかる。
ああ、怒ったな、と思う。しかし同時に、こいつが怒ろうが、知るか、とも思う。怒っていられるうちはまだだいじょうぶだ。
そのあとの動きは、少しだけ変わった。
前へ出る。だが、出たままにならない。ひとつ斬って、押し返して、すぐ列へ戻る。戻ったところで、今度は別の綻びへ入る。最初からそうしてくれれば俺の胃も少しはましなんだけどな、と、言っても仕方のないことを考えた。
帝国側が退きはじめたのは、そう時間の経たないうちだった。こちらも深追いはしない。する理由がない。追って崩すほど兵に厚みはないし、ここで欲しいのは戦果じゃなく、見張っているという事実だけだ。
撤収の合図を出してから、俺はようやく砦を下りた。泥のにおいが濃い。
踏み荒らされた斜面には、靴の跡と、血と、折れた矢が混ざっている。そう大きくない戦のあとは、かえって細かなものばかりが目についた。
戻ってきた兵のあいだに、ベレトの姿を見つける。
肩で息をしているわけでもない。顔色も、さっきと大して変わらない。けれど、近くで見ると、左の籠手に新しい傷が増えていた。浅い。浅いが、あのままもうひとつ深く入っていれば、少し面倒だったかもしれない。
ベレトは俺に気づくと、足を止めた。止めて、何か言うでもなくこちらを見る。
さっき戦場の上から怒鳴ったことを思い出して、少しだけ気まずくなった。だが、先に逸らしたほうが負ける気がして、俺もそのまま見返す。
「……死ぬ気でもあったのか?」
軽口のつもりで言うと、返ってきたのは予想どおりの、愛想のない声だった。
「ない」
「へえ。じゃあ、あの一歩は趣味か」
「押せると思った」
「押せたとしても、そのまま沈んだら意味がないだろ」
言うと、彼はほんのわずかに眉を寄せた。この人は、こういうときの不機嫌だけはずいぶん素直だ。
「……君に言われたくはない」
それを聞いて、思わず息が抜けた。たしかに、それはそうだ。敗戦のさなかに自分で門を開けた男が、よくもまあ言えたものだ。
「それはごもっとも」
そう返すと、ベレトはうなずきもしない。ただ、その目から、さっきまでの尖りがほんの少しだけ薄れた気がした。
俺は彼の籠手を顎で示す。
「それ、あとで見せてくれ。深くないように見えるが、泥を噛んでると厄介だから」
「平気だ」
「そういうの、平気って言うやつほどあとで面倒なんだよ」
ベレトは何も言わなかった。何も言わなかったが、今度はすぐに背を向けず、数拍だけその場にいる。その数拍が、さっきよりはずいぶん長く感じた。
その日の夕方、損耗の紙を見直していて、俺はふと思った。
あの人は、無茶をしているわけじゃない。平然と踏み込みすぎるだけなのだ。けれど、言えばちゃんと引く。引くべきだと納得すれば、変な意地は張らない。
そこが少し、意外だった。強いだけの手札なら、使いどころは限られている。
だが、強くて、しかも引き際まで覚えるなら、それは少し話が違ってくる。
負け戦のあとに残ったのが、伝説じみた強さより、あの人が崩れずに立っていたことのほうだったように、今日の小競り合いのあとで残ったのも、斬った数より、ちゃんと引いたという事実のほうだった。
それは、たぶん悪くない。悪くないどころか、思っていたよりずっとありがたいことなのかもしれないと、そこまで考えて、やめた。
ありがたいなんて、ずいぶん変な言い方だ。ただ、使いやすくなれば助かる。俺が困らなくなる。
そういうことにしておいたほうが、いまはまだ都合がよかった。
けれど、都合のいい言い換えというのは、たいてい長くはもたない。
その次の日には、もう机の上に紙が一枚増えていた。いや、一枚きりとは言っても、地図と呼ぶにはまだずいぶん心もとないものだった。
街道は少しだけ曲がり、砦の印はまだ小さく、村の位置もひとつ北へ寄りすぎている。見ればすぐに粗はわかる。わかるのだが、それでも、見てきたものをぜんぶ口で並べられるよりは、ずっと早かった。
「南の見張りはこのままでいい。ただ、こっちの道はぬかるんでいる」
そう言いながら、ベレトは紙の端を指で押さえた。俺はそこへ目を落とし、少しだけ考えてから、筆先で街道の先をなぞる。
「なら、荷はこっちへ回したほうがいいな。歩兵はまだしも、車輪は沈む」
「昨日も似た跡があった」
「じゃあ帝国も同じことを考える。見張りはその先へひとつ増やそう」
そう口にしてから、俺はほんの一瞬だけ黙った。もう、練習台のつもりで見ていない。
この人が持ってきた紙の上へ、そのまま次の手を置いている。
気づいても、嫌な感じはしなかった。むしろ、ああ、ようやく手間が減るな、と、そんなふうに思ってしまう自分のほうが可笑しかった。
「……その印、前よりわかりやすいな」
何気なく言うと、ベレトの視線がわずかに揺れた。大げさによろこぶわけじゃない。ただ、聞こえてはいるらしい。
「砦と村が混ざると面倒だと言っていた」
「言ったな」
「だから分けた」
それだけ言って、また紙へ目を落とす。ぶっきらぼうだった。ぶっきらぼうなのに、妙にこちらの言葉を拾っている。
可笑しくなって、俺は口もとだけで少し笑った。
「殊勝なことで」
そう言うと、今度ははっきりむっとした顔をされる。そこまで含めて、もうだいぶ見慣れてきていた。
報告のたび、紙は少しずつましになっていった。
最初は道と砦だけだったものが、つぎには見張りの位置を添えるようになり、そのつぎには補給の流れまで書き足される。線はまだ硬い。印も、俺ならそこまでは書かないと思うことがある。けれど、何を見てきて、何を問題だと思ったのかは、前よりずっと早くわかるようになった。
その変化は、じわじわしたものだった。
ある日ふと、西の細い道へ引かれた一本の線を見て、「その補給路を塞がれると困るな」と、ほとんど考えもせず口にしていた。
ベレトはすぐ横で、俺の指が示す先を見ていた。その横顔は相変わらず静かだったが、前みたいな手探りの硬さは、もう薄くなっている。
「なら、見張りはこっちか」
彼がそう言って、自分で紙の上へ小さな印を足す。俺はそれを見て、ひとつうなずいた。
「いや、もう少しだけ内側だな。そこだと相手にすぐ見つかっちまう」
「……では、こっちか」
「そう。それなら、見つかっても退きやすい」
そのやりとりがあまりにも自然で、少しだけ変な気分になった。
戦はずっと、負け続きだった。崩れた線をどうにか繋ぎ、薄いところへ手を足し、帝国の次の動きを読みながら、同盟の息を保たせているだけの、地味で息苦しい日々だった。
そのはずなのに、机の上にこの人の書いた紙が増えてゆくたび、盤面の端にひとつ、余分な手が生えたみたいな気がした。
便利な手札だ、と思う。そう思っておくのが、いちばん楽だった。けれど、たぶんそれだけじゃない。
この人は、自分で見て、自分で書いて、それをこっちへ渡してくる。
しかも、言えば引き、教えれば覚え、覚えたことをすぐ仕事のかたちにして返してくる。そういう相手に手をかけるのは、思ったより悪くなかった。
悪くないどころか、少しだけ気が楽になる。そこまで考えて、俺はまたやめた。気が楽になる、なんて言い方はずるい。そんなものを認めたら、あとで困るのはたぶん俺のほうだ。
だから、その紙をひとつ机の端へ寄せて、代わりに東から上がってきた報せへ目を移す。
東の報せは、このごろ少しずつ数を増していた。
国境沿いの動きが慌ただしい。見張りの数が増えた。人の流れが変わった。商人の足が鈍っている。どれも、それだけならまだ決定打にはならない。ならないが、じわじわと胸の奥へ溜まってゆく種類の報せだった。
フォドラの首飾りの向こうが、きな臭い。
そう言い切るには、まだ少し早い。けれど、早いからといって、見ないふりをしていい報せでもなかった。
最初に上がってきたのは、国境沿いの小さな領からの、ひどく慎ましい書きぶりの嘆願書だった。
東の見張りを増やしてほしい。最近になって、向こう側の空の騒がしさが増した気がする。商人が道を選ぶようになり、荷馬車の数も減っている。こちらで勝手に怯えているだけならいいが、そうではなかったときの備えだけはほしい。だいたい、そういう意味のことが、遠慮がちに、けれど妙に切実な筆つきで綴られていた。
その一通だけなら、まだよかった。
だが、似たような報せが、日を置かずにふたつ、みっつと重なってゆく。
書いてくる人間も、立場も、土地もばらばらなのに、言っていることだけが妙に似通っている。
空が騒がしい。見張りの交代が増えた。荷の流れが変わった。向こうの兵が、以前より落ち着きなく動いている。そういう小さな報せばかりが、じわじわと机の上へ積もってゆく。
どれも、それひとつで軍を動かすには弱い。弱いが、弱いからといって無視していい種類でもなかった。
東を預かる諸侯は、けっして臆病な連中ばかりじゃない。むしろ、土地柄もあって、向こうの動きにはそれなりに慣れている。その連中が、わざわざ同じような顔で報せを寄こしてくるというだけで、こちらとしてはじゅうぶんに嫌なにおいがした。
俺は、そのうちの一通を指先で裏返し、それからもう一度表へ戻した。
紙の端が少し湿っている。雨に濡れたまま急いで運ばれたのかもしれない。そんな細かなことまで目についてしまうあたり、どうにも気が張っているらしかった。
「東か」
声に出してみても、気分はちっとも軽くならない。
帝国とのあいだに火を残しつつも、ようやく息を整えはじめたところだというのに、今度は東。笑いたくなる。笑えるような話じゃないから、余計にたちが悪い。
その日の夕方、ホルストさんから直接、使いが来た。
文面はひどく簡潔だった。パルミラの動きが看過できなくなってきた。至急こちらへ来てほしい。それだけだ。余計な飾りがないぶん、かえってまずさがよくわかる。あの人が、わざわざ俺を呼ぶときは、たいてい笑って済む話じゃない。
俺は机の上の報せをまとめて、端から順に見直した。見直したところで、書いてあることが変わるわけじゃない。だが、そうでもしないと、焦りの置きどころがなかった。
天幕の外では、夕方の風が乾いた土をさらっていた。
その音にまぎれて、誰かの足音が近づいてくる。
顔を上げると、入口のところにベレトが立っていた。手には、今日の見まわりの紙を持っている。もうそれを持ってくるのが当たり前になっていることに、いまさらみたいに気づいて、少しだけ可笑しくなった。
「前線か」
「いや」
彼は短く答えて、紙を机へ置いた。
「東の見張りから戻った兵が、さっき通った。落ち着きがなかった」
俺は眉を上げた。
「見てたのか」
「目についた」
それだけ言って黙る。その言い方が、この人らしい。
俺は小さく息を吐いて、使いの持ってきた文を指先で叩いた。
「ちょうどよかった。俺もいまからその話を聞きに行くところだ」
そう言うと、ベレトは机の上の紙束へ視線を落とした。問い返しはしない。けれど、出ている報せの数と、その重なりぐあいだけで、話のまずさはわかったらしい。
「きな臭い」
ぽつりと落ちた言葉に、俺は少しだけ目を瞬いた。
「あんたもそう思うか?」
「ここ数日、東の空を気にする兵が増えた。理由もなく同じほうばかり見るときは、だいたい何かある」
なるほど、と俺は思った。
俺が紙の上で拾っていたものを、この人は兵の目つきから拾っていたのだろう。同じ報せを、べつのところから持ってくる。そういう一致は、ありがたい。ありがたいなんて言い方はまだしたくないが、少なくとも助かるのは事実だった。
「ホルストさんのところへ行く」
俺は立ち上がりながら言った。
「たぶん、そっちへ兵を割く話になる」
ベレトはそれを聞いても、顔色ひとつ変えなかった。驚きも、渋りもない。ただ、ごく短くうなずいて、俺の手もとにある紙を見た。
「それを持っていけ」
「言われなくてもそのつもりだよ」
返してから、ほんの少しだけ間が空く。
この人は遊撃として雇っている。パルミラとの戦いが本格的なものになるなら、当然そこへ連れてゆくことになるだろう。わざわざ確認するようなことでもない。ないのだが、それを俺から口にするのは、何か少し違う気がした。
けれど、黙ったまま天幕を出るには、数拍ぶんだけ間が長かった。
「……来るだろ、あんたも」
そう言うと、ベレトはほんの少しだけ目を上げた。
「自分は君に雇われている」
「そうだったな」
それだけのやりとりで済んだ。済んだのに、どういうわけか、胸の内側のざらつきがほんの少しだけ均された気がした。
外に出ると、東からの風はもう、夕方の冷たさを含みはじめていた。
空の端はまだ明るいが、その向こうにある峡路を思うと、どうにも喉の奥が乾く。あそこは狭い。狭いくせに、向こうから来るものはいつだって大きい。
ホルストさんのいる陣幕へ入る前に、俺は一度だけ足を止めた。
遠くで、角笛が鳴っている。
こちらのものじゃない。
風に引きのばされて、ひどく細く聞こえる。
俺は顔を上げて、東の空を見た。
まだ何も見えない。
見えないが、見えないことと、何もないことは同じじゃなかった。
俺は肩の力をひとつ抜いてから、その幕をくぐった。
中へ入ると、そこにはもう何人かの将が集まっていた。中央の卓には地図が広げられ、その上に置かれた駒が、東の細い道筋へ不穏な赤を滲ませている。ホルストさんは振り向くなり、大きな声で言った。
「来たか、盟主殿!」
その快活さに、場の重苦しさだけが少し浮く。だが、笑って済ませられる空気でもないことは、集まっている顔ぶれを見れば十分だった。東の境を預かる者、首飾り周辺の地を知る者、補給を預かる者。どの顔にも、余裕はない。
俺は卓へ歩み寄り、使いの持ってきた文と、机から持ってきた報せをその脇へ置いた。
「で、どこまでが、どうまずい?」
問いかけると、ホルストさんはすぐには答えず、指先で地図の東端を叩いた。
「まだ、向こうが本気で越えてくると決まったわけではない」
言いながらも、その声にはもう笑みが混じっていない。
「だが、見張りの増え方が露骨すぎる。飛竜の動きも多い。牽制だけで済むなら、それに越したことはないがな」
「済まなかったときの備えは」
「ほとんどない」
俺は小さく息を吐く。だろうな、とは思っていた。けれど、こうしてはっきり言われると、やはり胃が冷える。
「金と物資なら、どうにかできる」
別の将が言う。
「だが兵がない。帝国へ引き抜かれたあとの穴が、まだ埋まりきっていない」
そのひと言で、陣幕の中の空気がもう一段沈んだ。
そうだ。そこだった。
物は出せる。守りも、どうにか整えられる。だが、攻めへ転じるだけの厚みがない。押し返す手が足りない。どこかを守るために兵を置けば、べつのどこかがたちまち薄くなる。いまの同盟は、そういう盤の上に立っている。
俺は駒の置かれた地図を見た。首飾りの細い道。そこへ押し寄せる赤い駒。こちらにある黄色の駒は、見た目だけならまだ持ちこたえている。だが、持ちこたえることと、勝てることは同じじゃない。
「要は、守ることはできても、押し返すには足りないわけだ」
そう言うと、ホルストさんは口の端だけで笑った。
「さすが盟主殿、話が早い」
笑ったくせに、その目はまるで笑っていなかった。
「だからこそ、動かせる手はぜんぶ欲しい」
その言葉と一緒に、場の視線がひとつ、ふたつとこちらへ集まる。俺が何を連れてきたのか、誰を使えるのか、そういう意味の視線だった。
俺はそこでようやく、入口の近くに立ったままの気配を思い出した。振り向けば、ベレトは陣幕の端で静かに立っている。ジェラルトさんから前へ出され、敗戦のあとも働き続け、気づけばこういう場にも違和感なくいるようになってしまった男だった。
便利だな、と、また思う。
便利。使える。要になる。そういう言い方に押し込めてしまわないと、たぶん俺のほうが困る。困るのに、その視線がそこへ向いた瞬間、胸の奥がわずかに軽くなったことまで、否定はしきれなかった。
「ジェラルト傭兵団は遊撃で使う」
俺は地図へ目を戻したまま言った。
「数が足りないなら、なおさら正面へ張りつけるより、薄いところを埋めてもらったほうがいい。首飾りの東と南、どちらにも目を配れる位置へ置く」
ホルストさんがうなずく。
「いいだろう。ゴネリル家の兵は防壁と弓砲台を優先する。空から来る奴らを野放しにはできん」
「歩兵は温存気味に」
「そうだな。削られすぎると、その先がない」
短いやりとりで、置くべき駒のかたちはだいたい決まった。
派手な策じゃない。むしろ、手堅い。だが、このときの同盟に選べたのは、そういう手だけだった。
守りながら持ちこたえる。そのあいだに綻びを拾い、相手の勢いを削ぐ。勝つための手というより、負けないための手だった。
そのもどかしさに、少しだけ苛立つ。けれど、苛立ったところで兵は増えない。
俺は最後に、首飾りの狭い道筋を指でなぞった。
「向こうが来るなら、ここだ」
誰にともなく言う。
「なら、来たときに困らないようにしておくしかない」
ホルストさんはその言葉に短くうなずき、周囲へ向かって一気に指示を飛ばしはじめた。陣幕の中がにわかに動き出す。紙が渡り、駒が置き直され、兵の名が呼ばれる。そのざわめきの中で、俺は一度だけ視線を横へ流した。
ベレトはまだ、同じ場所に立っていた。
騒がしさの中でも、妙に静かだ。けれど、いまこの場にいてほしい人間がちゃんとそこにいる、というだけで、少しだけ息がしやすい。
ひどく勝手だと思う。そういうものを求めていい立場じゃない。ないはずなのに、盤上の黄色い駒を見下ろしながら、俺はその勝手さを、また別の言葉へ押し込んで飲み下した。
軍議が終わるころには、外の空はもうすっかり暮れていた。
首飾りの細い道を抜けてくる風は、もともと骨に触るようなところがあるが、その夜のそれは、まだ見えていないものの気配まで一緒に運んでくるみたいで、喉の奥がわずかに乾いた。
人の動きは早い。
指示を受けた兵が走り、物資の確認をする声が重なり、弓砲台へ回す荷が運ばれてゆく。守ると決めたときの動きは、どこも似たようなものだ。やることが多いわりに華がなく、誰ひとり気を抜けない。ひたすら、抜けを埋めてゆくしかない。
そのざわめきの中で、俺はしばらく黙って立っていた。
兵がない。
金も物資も、どうにか寄せられる。守りも整えられる。だが、押し返すための厚みがない。どこかを守れば、べつのどこかが薄くなる。いまの同盟は、そういうかたちの盤の上に立っている。
戦う前から、ずいぶん嫌な話だった。
けれど、その重たさをそのまま顔へ出すわけにもいかない。出したところで兵が増えるわけでもないし、増えないものに苛立ったところで、余計に手が狂うだけだ。
「盟主殿」
横から声がして、振り向く。
ホルストさんだった。さっきまで陣幕の中で威勢よく指示を飛ばしていたくせに、外へ出てくると、声は少しだけ落ちている。
「うちの兵は予定どおり防壁と弓砲台へ回す。首飾りの細道は、どうしたところで狭い。無理に広げて戦うより、相手に通りたくないと思わせるほうが早いだろう」
「そっちは任せる」
「ははっ、しかと任された」
軽く返してから、ホルストさんは俺の肩越しに、少し離れたところを見た。
その視線の先には、ジェラルト傭兵団のいる一角があった。灯の届かない半端な暗がりの中でも、鎧や武器の点検をする手つきは無駄がなく、あそこだけが妙に静かに動いて見える。
「助かるな」
ぽつりと落ちた言葉に、俺は答えなかった。
ホルストさんがどこを見てそう言ったのかは、聞かなくてもわかる。俺だって、同じことを考えていたからだ。守りに徹するときほど、遊撃の一手は重くなる。数がないなら、なおさらだ。
「過信は禁物だがな」
代わりにそう返すと、ホルストさんは笑った。
「それはそうだが、いま頼れる手があるなら、頼らない手はあるまい」
その言い方が、胸に刺さる。
頼る、だなんてずいぶんあっさり言ってくれる。頼るしかないのは、そのとおりだ。けれど、その言葉を自分の中へそのまま通すのは、まだ少し癪だった。だから、俺はそれをべつのかたちへ無理やり丸めて、口に放り投げる。
使える。助かる。そういうだけの話だ。
「そういう意味なら、俺もそう思う」
ホルストさんは何か言いたげに一瞬だけ目を細めたが、結局何も返さず、肩をすくめて去っていった。
その背を見送ってから、俺もようやく足を動かす。
自分の持ち場へ戻る途中、何人かの兵とすれ違った。どの顔もこわばっている。無理もない。首飾りで迎え撃つ戦は、派手に勝つためのものじゃない。守り抜くための戦だ。敵がどれだけ来るかもまだ読めないのに、退くことだけは許されない。そういう場所は、人の顔から余裕をよく削ぐ。
その一角を抜けたとき、金具の触れ合う小さな音が耳に触れた。見ると、少し離れたところでベレトが鎧を手入れしていた。
腰を下ろし、灯のそばで、籠手の泥を布で拭っている。派手なことは何もしていない。ただ、明日に持ち越すと面倒になるところだけを、静かに整えている。あの人は、こういうときも動きに無駄がない。
少しだけ見ていると、ふいに顔が上がった。目が合う。
べつに驚いた様子もない。ただ、そこにいるのが俺だとわかったから、見た。それだけの顔だ。
「準備は」
何となく、そう聞いた。
「もう終わる」
短い返事だった。それから、この人は俺のほうを見たまま、ほんの一瞬だけ言葉を切る。
「君は?」
「これからだよ。俺は細かいところまで見ないと気が済まないたちなんでね」
軽く返すと、ベレトは何も言わなかった。
何も言わなかったが、その視線が、俺の手もとへ一度だけ落ちる。そこにある紙束と、まだ整理しきっていない配置案と、さっきから俺がずっと抱えて歩いている盤面の重さを、まとめて見られた気がした。
「早めに寝たほうがいい」
そんなことを言われて、少しだけ目を瞬いた。
「そりゃどうも」
「眠れなくても、横にはなったほうがいい」
言い方が、やけに具体的だった。ただの気遣いというより、こちらの悪い癖を見越して先に塞いでくるみたいな響きがある。負け戦のあとの野営地で「今日はもう、勝手に動くなよ」と言ったときのことが、ふと頭をよぎった。
「ずいぶん面倒見がいいな、あんた」
からかうつもりで言うと、この人は眉ひとつ動かさない。
「君が明日倒れると困る」
またそれだ、と思った。
困る。この人は、大事なところでいつもその言葉を使う。助けたいでも、心配しているでもなく、困る。
ずいぶんそっけない。そっけないくせに、そこへ余計な飾りがないぶん、変に逃げ道がない。
俺は肩をすくめた。
「こっちも、あんたに倒れられると困るんだけどな」
「知っている」
知っている、か。たいした自信だ。けれど、ほんとうに知っているのだろう。このあいだの小競り合いと、机の前でのやりとりで、それぐらいはもう伝わってしまっている。
灯りのそばへ一歩近づくと、籠手の縁にまだ乾ききらない泥が残っているのが見えた。浅い傷も、薄く線のように走っている。大きくはない。だが、こういう小さな傷は数が重なると厄介だ。
「それ、ちゃんと洗ったか?」
思わずそう聞くと、ベレトは自分の籠手へ目を落とした。
「洗う」
「あとで?」
「あとででも間に合う」
「間に合わないことがあるから言ってるんだよ」
返しながら、自分で少しだけ可笑しくなった。
いつの間に、こんなことまで口を出すようになったのか。地図に線を引かせた時点で、もうじゅうぶんお節介だった気もするが、こうして口にすると、ずいぶん熱心に世話を焼いている。
だが、ベレトは笑いもしなければ、嫌な顔もしなかった。ただ、籠手の泥をもう一度見て、それから脇に置いていた水桶へ手を伸ばす。
「……いまやる」
その素直さが、逆に変だった。
「ほんとにやるのか」
「君がうるさいからな」
ぶっきらぼうに言われて、今度こそ口もとがゆるむ。
「そうかもな」
水に濡らした布で、この人が金具の隙間を拭ってゆく。灯りに照らされて、濁った水がかすかに揺れた。戦場ではあれだけためらいなく前へ出るくせに、こういう細かな手入れをしているときの手つきは静かだ。妙に落ち着いて見える。
俺はその場に立ったまま、しばらくそれを見ていた。
東の空はきな臭い。
兵は薄い。
守るしかない。
明日から先の盤面は、まだはっきり見えない。見えないくせに、ひとつ間違えればすぐ崩れる。
そういう話ばかりが頭の中にあるはずなのに、黙って籠手を拭うこの人が視界に入っているだけで、胸のあたりのざらつきがましになる。
ひどく勝手だった。だから、それをまたべつの言葉へ置き換えてしまう。
助かる。ただ、それだけだ。それだけのはずなのに、ベレトが拭き終えた籠手を元の位置へ戻し、何でもない顔で立ち上がったとき、俺はなぜだか、自分の肩からほんの少しだけ力が抜けたのを感じていた。
「これでいいだろうか」
「いいんじゃないか」
俺が答えると、この人は短くうなずく。それから、俺の手の中の紙束へもう一度目をやった。
「君も、早めに切り上げろ」
言うだけ言って、今度はほんとうに背を向ける。
止める理由はない。ないのに、その背が灯りから離れて暗がりへ溶けてゆくのを、俺は見送ってしまった。
それから、自分でも小さく息を吐く。
まったく、面倒だ。人のことには洗えだの休めだの口を出しておいて、自分のほうはまだ紙を抱えたまま立っている。
そういう勝手さも含めて、俺たちはどうにも締まらない。
でも、その締まらなさが、嫌じゃなかった。
翌朝、東の空はまだ静かだった。
静かだったが、それを信じていいほど甘くはなかった。
角笛の音が首飾りの向こうから初めて届いたのは、陽が高くなるより少し前のことだった。
首飾りへ着いたときには、東の空はもう、見間違える余地もないほどに騒がしかった。
飛竜の影が遠くに見える。土煙が細く長く尾を引いている。
まだ本隊同士がぶつかったわけじゃない。だが、もう牽制では済まない。来るつもりでいる。そうとしか見えない。
こちらの兵は、一見すれば少なくないように思える。
ゴネリル家の兵がいて、防壁があり、弓砲台も立っている。金も物も、かき集められるだけかき集めてある。見栄えだけなら、どうにか持ちこたえられそうなかたちだ。
だが、中身は薄い。
見ればわかる。列の厚みがない。前へ出して削れたときに、その穴を埋めるだけの余剰がない。守るための兵はある。けれど、押し返すための兵がない。勝つための盤面ではなく、負けないためだけに何枚も薄い板を重ねたみたいな盤面だった。
そこへ向こうは、空からも来る。厄介だ。
いや、厄介どころじゃない。ひどく相性が悪い。首飾りの地の利がこちらにあると言っても、飛竜が混ざれば話はべつだ。高いところから見下ろされ、崩れかけたところを上から抉られれば、こちらの守りはあっけなく軋む。
だから、遊撃の置きどころがそのまま肝になる。
俺は首飾りの高みから、布陣の最後のかたちを見渡した。ホルストさんの兵は予定どおり防壁と弓砲台を支える。歩兵は前へ出しすぎない。射線を通し、抜かれたくない道へ厚みを足す。地味だが、選べる手札があまりにも限られすぎていた。
ジェラルトさんたちは、その外側に置いた。
正面へ置いておくには惜しい。数がないなら、なおさらだ。薄くなるところ、視線が届きにくいところ、押し込まれたときにすぐ返したいところ。そういう場所へひとつずつ差し込める位置がいい。
要だな、と、考える。要。便利。使える。そういう言い方へ押し込めておけば、まだましだった。
配置へ散る前、最後の確認のために目をやると、ベレトはすでに持ち場の手前にいた。
いつもどおり、余計なことは言わない。言わないが、周りはちゃんと見ている。こちらの飛竜が上がるときに死角になりそうな岩場、弓の射線が途切れやすい崖の折れ、兵が一度足を止める細い坂。そのへんを、彼はもう目でなぞっているらしかった。
ジェラルトさんが短く何かを言う。ベレトはそれにうなずき、すぐ隣の団員へ二、三の指示を落とす。声は低く、短い。けれど、迷いがない。団長代行なんて言葉は、もうわざわざ意識しなくてもよかった。少なくとも、彼はもうそういう顔をしていた。
俺が見ているのに気づいたのか、ベレトが一度だけこちらを見た。
「何だ」
「べつに」
そう返すと、彼はそれ以上は聞かなかった。その代わり、視線を動かして、俺の飛竜の下へ続く斜面を見やる。
「あそこは足を取られやすい」
それだけ言う。俺は少しだけ眉を上げた。
「ご忠告どうも」
「前へ出るなら、気をつけたほうがいい」
まるで、当然みたいな顔だった。
前へ出るな、とは言わない。出るつもりでいるなら、そこで足を取られるな、という言い方をする。その按配が、妙にこの人らしい。
俺は飛竜の首筋を撫でながら、小さく笑った。
「気をつけるよ。あんたにまた怒られるのも癪だしな」
そう言うと、ベレトは何も返さなかった。返さなかったが、目もとはほんの少しだけやわらいだように見えた。見えただけかもしれない。たぶん、その程度の差だ。けれど、あの人の顔でそれだけ動いたのなら、こっちとしてはじゅうぶんだった。
合図が上がる。東の空から、竜の影が降りてくる。
地鳴りに似た音が、細い道の向こうから首飾りへ流れ込んでくる。兵が持ち場へ散り、弓が上がる。こちらも飛竜を前へ出し、上から全体を見渡す。
戦そのものは、ひどく忙しかった。忙しいくせに、できることは少ない。前へ出しすぎれば削られる。籠もりすぎれば押し切られる。だから、そのあいだを、ずっと踏み外さないように歩いてゆくしかなかった。
その中で、何度か、ああ助かるな、と思う場面があった。
ひとつは、こちらの飛竜が旋回する下へ、ベレトが自然に入りこんでいたときだ。
空へ意識を割いたぶん手薄になる斜面の中腹で、パルミラの兵が押し上がろうとしたところを、彼が横から断っていた。べつに、俺を守ろうとしたのかどうかはわからない。たまたま最も厄介なところへ入っただけかもしれない。けれど、あの一手がなければ、こちらはもうひとつ兵を割かされていた。
もうひとつは、砲台の下へ竜騎兵が寄ったときだ。
弓で落としきれなかった一騎が岩場へ着地し、そのまま上の弓兵へ食いつこうとした。そこへ、ベレトがいつのまにか入っていた。速い、というより、位置がいい。
見えてから動いたのでは間に合わないはずの距離を、気づけばちょうど塞いでいる。剣が閃き、竜の喉がひと鳴きして崩れる。そのまま彼は深追いせず、次に綻びそうなところへすぐ移った。
ああいうのがあると、息がひとつ楽になる。楽になるのを、そのまま認めたくなくて、俺は頭の中でべつの言葉に置き換える。
使える。配置がいい。無駄がない。
そういう話だ。たったそれだけのはずなのに、彼が視界のどこかにいるだけで、こちらの手がひとつ増えたみたいに感じる。どこまでも身勝手だった。
もちろん、向こうだってただ押されているだけじゃない。
首飾りの細道は、押し返しても、押し返しても、次の波がすぐ見える。空からの圧も消えない。下を支えれば上が薄くなるし、上を見れば下が詰まる。こちらの兵はよく持ちこたえていたが、持ちこたえている、というだけで、余裕があるわけじゃなかった。
そのせめぎあいの中で、一度だけ、ホルストさんの大きな声が風を裂いた。
「盟主殿、右が薄い!」
「見えてる!」
返しながら飛竜を返し、右へ回る。
下では兵が押され、竜の影が差し、細い道の上で槍の列が斜めに崩れかけている。
まずいな、と思う。まずいが、切れてはいない。まだ、ひとつ手を差し込める。
そのとき、右の岩場の陰から、ジェラルトさんが前へ出た。
さすがに目を引く。あの人がひとつ入るだけで、兵の足が止まる。止まって、持ちこたえようとする。
そのわずかなあいだに、ベレトがさらにその脇へ入る。親子で並んだ、というほど綺麗なものじゃない。けれど、あのふたりが同じ場所にいるだけで、崩れかけた列の呼吸がひとつ戻る。
強いな、と思う。だが、ただ強いというだけじゃ、いまの胸の軽さは説明しきれなかった。
結局その日は、押し切りも、押し返しもできないまま、互いに薄く削り合って終わった。
勝ったとは言いがたい。だが、守り切った。この時点では、それでじゅうぶんだった。
夕方、兵を引かせながら、俺は首飾りの上から東を見た。
向こうの空には、まだ竜が小さく回っている。完全に退くつもりはないのだろう。こちらもわかっている。今日で終わりじゃない。終わりじゃないからこそ、余計に胃が重い。
その重さの中で、ふと視線を落とすと、斜面の中腹でベレトがこちらを見ていた。
ただ見ただけだ。何か言うでもない。手を振るでもない。
それでも、ああ、この人はまだ動けるな、とわかる。それだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
助かる。また、そう思ってしまう。
助かる。便利だ。使える。要になる。そういう言い方へ押し込んでも、押し込んでも、少しずつあふれてくるものがあるのが厄介だった。
その夜、陣へ戻ってから、損耗の報せと補給の確認がひととおり済むまで、かなり時間がかかった。
首飾りの向こうもこちらも、妙に静かだった。
静かと言っても、戦のあとの物音が消えたわけじゃない。負傷兵を運ぶ声も、竜を落ち着かせる低い呼びかけも、砲台の傷みを確かめる音も、夜気の底で細く長くつづいている。ただ、昼のあいだあれほど首筋へ食いこんでいた切迫だけが、いったん薄く形を変えて、陣の上へ被さっていた。
明日も来る。
向こうは退き切っていない。
首飾りを越える気を失ったわけでもない。
だから、本当は気を抜いていい夜じゃない。いい夜じゃないのに、兵の顔つきには、今日ひとまず守りきったことへの緩みが、ほんの少しだけ見えた。その緩みを責める気にはなれなかった。責めたところで、張りつめた糸が余計に切れやすくなるだけだ。
俺は灯の下で、今日上がってきた損耗と補給の紙を順に見ていった。数は少なくない。けれど、恐れていたほどではない。その事実に胸を撫で下ろしたところで、すぐに別の重さが乗る。明日も、明後日も、この薄さのままもたせなければならない。そう考えると、指先が紙の端を押さえる力だけ、少し強くなった。
その隣へ、ベレトの持ってきた見取り図が置かれている。
首飾りの細道。砲台の下。今日いちど崩れかけた右の斜面。以前よりずっと見やすくなった線が、必要なところだけをきっちり拾っていた。足りないところはまだある。だが、足りないところがあるとわかる書き方になっているだけでも、ずいぶん違う。
その紙へ目を落としながら、俺は小さく息を吐いた。
助かる。そう思う。
思ってしまうから、また別の言葉へ直したくなる。
使いやすい。目が届く。仕事が早い。そういう乾いた言い方へ押しこめてしまえば、少しは楽になる気がする。けれど、直したあとにも、もとのかたちは残った。それが厄介だった。
灯の下で紙を見ていると、ふいに机の端へ影が落ちる。
ベレトだった。鎧にはまだ土がついている。髪も少し乱れている。けれど、その目は戦の前と変わらず静かだった。
「右の斜面にはもう少し兵を寄せたほうがいい」
開口一番、それだった。俺は少しだけ笑う。
「労いのひと言ぐらいないのかよ」
「必要か」
「べつに。そんなものなくても死なないけどさ」
そう返すと、ベレトはほんの一瞬だけ黙った。黙ってから、机の上の地図を見て、指先で右の斜面を示す。
「ここだが、今日の押され方だと、明日はもっと来る」
労いなんかより、よほど役に立つ。そういうことか、と、ひとりで納得する。
俺は地図へ目を落とした。
「……そうだな。あそこはもうひとつ厚くしたい」
「弓はそのままでいい」
「歩兵を寄せるか」
「たぶん、そのほうがいい」
その短いやりとりが、なぜだかひどく落ち着いた。
戦が終わっても、この人はその続きを机の上へ持って来る。持って来て、俺の盤へそのまま繋ぐ。そういうところが、いまはずいぶんありがたかった。いや、ありがたいという言い方もまた、少し違う。少し違うのだが、べつの言葉へ変えたところで、胸の内側に残るかたちはそんなに変わらない気もした。
俺は地図の端を指で叩いた。
「わかった。明日はそうする」
そう言うと、ベレトは短くうなずく。
それから、少しだけ言いづらそうに間を置いた。
「……無理はしていないか」
思わず、顔を上げる。
この人の口から、そういう問いが出るとは思わなかった。けれど、からかうには、声がまっすぐすぎた。
「してない。……たぶん、な」
「たぶんか」
「断言すると、また怒られそうだからな」
そう返すと、ベレトは何も言わなかった。何も言わなかったが、目もとのわずかな固さが、ほんの少しだけほどけた気がした。
その変化が見えた瞬間、胸のどこかが、ひどく静かに満たされた。
まずいな、と思う。こういうのは、まずい。だから、俺はその感触を、またいつもの言葉へ押し込んでしまう。
この人がいてくれて助かる。ただ、それだけだ。
それだけのはずなのに、その夜、灯りを落としてからもしばらく、斜面の中腹でこちらを見上げていた翠の頭と、いま机の前でごく短く言葉を置いていった声だけが、妙に長く残りつづけていた。
翌日からの戦も、ずっと地味だった。
地味、という言い方が合っているのかはわからない。竜は飛ぶし、矢は絶えず頭上を裂くし、首飾りの細道は朝から夕まで土と血でぬかるんでゆく。
ひとつ踏み外せば、そのまま崖へ落ちてもおかしくない。そういう場所での戦を、地味と呼ぶのは、たぶん少し違う。
けれど、少なくとも華やかではなかった。向こうは道をこじ開けたい。こちらは、それをさせたくない。
やっていることは、その押し引きの繰り返しだ。上から削られ、下から押し上げ、ようやく一度返したと思えば、すぐ別のところが薄くなる。勝つための一手を打つ余裕はない。あるのは、崩れそうなところへそのつど手を差しこみ、どうにか今日一日を終わらせるための仕事ばかりだった。
そういう戦では、何が効いているのかが、かえってよく見える。
ベレトは、毎回いちばんまずいところへいた。
いや、いちばんまずいところへ行く、と言ったほうが近いのかもしれない。こちらの飛竜が旋回する下。弓の射線が薄くなる角。兵が押し返されて、ずれたところから崩れそうになる、その手前。気づけばいつも、彼はそこにいる。
それを見ていると、ひどく息がしやすかった。もちろん、言葉にする気はない。
あの人がどこにいるかを気にしている、なんて顔をするのは癪だ。だから俺は、その感覚をまたいつものかたちにする。
使いやすい。配置がいい。無駄がない。
ただ、それだけだ。それだけのはずなのに、こちらの飛竜が高度を変えたとき、その下へ自然に彼の姿があると、肩からひとつぶんだけ力が抜ける。抜けたことに気づくたび、勝手だと思う。
この人のほうも、べつにそれを隠そうとはしない。
朝の布陣のあと、俺が持ち場へ上がる前に、彼はだいたい一度だけこちらを見る。何かを言う日もあれば、言わない日もある。
今日は風が強い。右の坂は昨日より乾いている。砲台の下が見えにくい。
その程度のことを、ただ落としてゆく。それが気遣いなのかどうかは、わからない。
わからないが、少なくとも、俺の動きを視界に入れたうえで言っていることだけはわかる。そういう事実だけで、じゅうぶん困った。
困る、というのは、べつに嫌という意味じゃない。嫌じゃないから、困るのだ。
ベレトは、だいたいいつもやって来た。
傷を増やしている日もある。泥と血でひどいありさまの日もある。けれど、この人は俺のもとへやって来る。
やって来て、その日のうちに見たものを地図へ落とし、足りないところだけを短く寄越す。そこに余計な言葉はない。ただ、どこが薄いだの、道が悪いだの、明日はここが危ないだの、そういうことだけが置かれる。
それでよかった。俺には、過ぎるくらいだった。
戦は三日続いた。三日目の昼、ようやく向こうの押しが少し鈍った。
こちらの守りが厚く見えたのか、それとも首飾りを抜くには思ったよりも血を流すと踏んだのか、そのへんはわからない。わからないが、少なくとも、初日に比べれば向こうの竜の動きには慎重さが混じっていた。無理に押しきるより、どこか別の薄い道を探るような揺れ方をしている。
その揺れを、俺はまた空から見ていた。
まだ終わっていない。終わっていないが、今日すぐ崩されるかたちでもない。
そう判断したとき、ようやく俺の中にわずかな余白ができた。その余白の中で、向こうの列のさらに奥にいる飛竜へ目が留まる。
シャハドだ。
顔が見えるほど近くはない。だが、あの立ち方は見まちがえようがない。首飾りを挟んだ遠さの向こうで、兄はまだこちらを見ている。越えられると思っているのか、それとも、越えられないのを承知で何かを測っているのか、そのへんはわからない。
わからないが、少なくとも、今日ここで決着がつく顔はしていなかった。
それを認めた瞬間、頭の後ろがひどく冷えた。
退けば終わり、ではない。押し返したから終わり、でもない。ここで持ちこたえたとしても、東の火種そのものが消えるわけじゃない。
ほんとうに厄介だ。けれど、その厄介さを噛みしめている余裕は、向こうもこちらにくれなかった。
右の列が押される。風下へ矢が流れる。そこへ、またベレトが入る。
ひとつ斬って、押し返して、味方の列へ呼吸を取り戻させる。その動きを上から見ていて、俺は無意識に息をついていた。
助かった。助けられた。またそう思ってしまう。
単純だった。この人がいるから、この戦はまだ崩れない。
そういう種類の安心が、じわじわと身体へ馴染んでしまっている。理屈に変えれば、遊撃が機能している、配置が噛み合っている、それだけの話だ。それでも、理屈へ直したところで、胸のあたりへ残るものまで消えるわけじゃない。
結局、その日は陽が傾く前に、向こうがいったん引いた。全面的な撤退じゃない。かといって、深追いするほどこちらに余裕もない。
ただ、今日これ以上はこじ開けられないと判断したらしい動きだけを残して、パルミラの兵は首飾りの向こうへ距離を取っていった。
とにかく守り切った。そして、それでじゅうぶんだと言い聞かせなければならない戦でもあった。
兵を退かせ、負傷者を下ろし、砲台の損耗を見ているうちに、陽はすっかり落ちた。空の端に残っていた赤みまで消えるころ、ようやく俺は息をついた。
そのとき、すぐ近くで金具の鳴る音がした。見ると、ベレトがいた。
土と、薄い血のあとが、まだ鎧のあちこちに残っている。翠の髪も、風に煽られて少し乱れていた。けれど、顔つきだけは静かで、さっきまであの土煙の中を駆けていた人間には見えない。
「終わった、とは言えないな」
何となくそう言うと、彼は短くうなずいた。
「また来る」
「だろうな」
短いやりとりだった。それだけで済んだのに、その短さがどこかしっくりきた。
ベレトはそこで、首飾りの向こうを見た。その目がどこを追っているのか、俺にはわかる。さっき、向こうの列の、さらに奥にいたあの影を、この人も見ていたのだろう。
「討たないのか」
ぽつりと落ちたその問いに、俺は少しだけ眉を上げた。誰を、とは言わない。
言わなくても通じると思っている、その淡々とした置き方が、いかにも彼らしかった。
「討てるなら、とっくにやってるよ」
俺は東の暗がりを見たまま答えた。
「だが、あそこまで踏み込むには兵が足りない。こっちは守るので手いっぱいだ」
口に出してから、とことん嫌な響きだな、と思う。
足りない。守るので手いっぱい。そういう言葉ばかりが、ここへ来てから頭の中に増えている。
ベレトは何も返さなかった。返さなかったが、その沈黙は否定ではなかった。たぶん、言っていることが事実だとわかっているのだろう。わかっているから、べつの慰めも、励ましも挟まない。
俺は小さく息を吐いた。
「厄介なんだけどな。あいつらを黙らせないと、こっちはずっと薄いままだしさ」
言ってから、少しだけ笑う。
「金も物も、どうにかかき集められる。けど、兵だけはなかなか湧いてこない」
「そう見えた」
「だって、隠せてないからな」
そこでようやく、ベレトがこちらを見た。
その目に、余計な同情はない。ただ、いま目の前にある盤面を、そのまま見ているだけだ。
そこが、ありがたかった。ありがたい、なんて、また少し違うかもしれない。けれど、少なくとも、言い訳をしなくて済む。
「……あんたがいて、助かった」
気づけば、そう口にしていた。言った瞬間、自分で少しだけ驚く。
便利だ、使える、そういう言い方へ押しこんでおけばいいはずのものを、そのまま口へ出してしまった。
けれど、もう遅い。ベレトはほんのわずかに目を見開いた。
すぐにいつもの静かな顔へ戻ったが、その一瞬だけでじゅうぶんだった。ああ、この人も、そういう顔をするのかと思う。
「君が使ったんだろう」
返ってきたのは、それだけだった。誇るでも、否定するでもない。ただ、その事実だけを置いてくる。
その言い方があまりにもまっすぐで、俺はほんの少しだけ目を逸らした。
「そうとも言うな」
軽く言って、ごまかしたつもりだった。
だが、たぶんごまかせていない。胸の奥へ、さっきよりずっと深く何かが残っている。
ひどく面倒だった。東の火種は消えない。兄は諦めていない。兵は足りない。
それでも、この人がいるだけで、今日の盤面はどうにかなった。どうにかなってしまった。
その事実が、あとに残る。残るのを、そのまま認めたくなくて、俺はまた別の言葉へ変えようとする。けれど、今夜ばかりはうまくいかなかった。
助かった。それ以上でも、それ以下でもない言葉なのに、口にしたあとのほうが、かえって厄介だった。
パルミラの兵が首飾りの向こうへ退いても、空の騒がしさまでは消えない。商人の足は戻りきらず、見張りの数もすぐには減らない。
シャハドが討たれていない以上、それは当然だった。あちらにまだ手があり、こちらにそれを追って潰すだけの兵がない。考えれば考えるほど、胃の奥が重くなる。
そして、その重さの上に、べつの現実が静かに乗ってきた。
ジェラルト傭兵団との契約が、そろそろ切れる。
デアドラに戻って最初にその紙を見たとき、俺は少しのあいだ、動けなかった。読めばわかる。もともと決めた期間だ。延びたわけでも、縮んだわけでもない。なのに、その数字だけが妙に遠く見えた。
何も終わらない。何もできない。そのうえ、この人まで去ってしまうのか、と、ひどく勝手なことを思う。
だから、その考えを頭の隅へ押しやって、俺はまた紙へ目を戻した。期限が来る前に、次の持ち場をどう埋めるか考えなければならない。抜けた手の代わりを、別のどこかから引いてこなければならない。そういう顔をして計算するのは、俺の役目だ。
けれど、その計算の途中で、ふと手が止まる。
代わりがきかないな、と気づいてしまったからだ。
腕の話だけじゃない。あの人が見て、書いて、持ってくる紙。必要なところだけを置いてゆく物言い。こちらが動くときに、いつのまにか下へ入っている立ち回り。そういうものが、もう俺が描く盤面の中に組み込まれてしまっている。
まいったな、と思う。
金で雇った手が、盤の上でよく働くことと、いなくなるのが痛いことは、本来ならべつべつに数えられるはずだった。けれど、いまの俺は、それをうまく切り分けられない。
執務室の扉が、わずかに開いた。
顔を上げると、ベレトが立っていた。いつもどおり、隙のない立ち方だった。
「まだ起きてたのか」
何となくそう言うと、彼は短くうなずいた。
「灯りが漏れていたから、気になった」
「ああ……やることが山積みでね」
返して、それきり少し黙る。こういう半端な間が、いつからこんなに増えたのか、自分でもよくわからなかった。
ベレトは机の上の紙へ目を落とした。配置案。補給の見積もり。首飾り周辺の地図。どれもいまさら見られて困るようなものではないのに、視線を置かれるだけで、落ち着かなくなる。
「明朝に発つ」
先に口を開いたのは彼だった。
わかっている。わかっているのに、実際にそう言われると、胸の奥が少しだけ鈍く重くなる。
「そうか」
出てきたのは、それだけだった。
もっと気の利いたことがあるだろう、と、どこかで思う。思うが、いまさら引き留めるような顔をするのも違う気がした。
ベレトは俺の返事に何も足さない。ただ、そのまま机に広げられた地図を見ている。この人は、こういうときに余計な慰めも、もっともらしい飾りも挟まない。だからこそ、こっちも下手な顔をしないで済む。なのに、それで終われないのが厄介だった。
「あんたはこの先どうするつもりなんだ」
気づけば、そう聞いていた。
それから、自分でも少し遅れて意味を考える。何を聞こうとしていたのか、きれいにはわからない。このまま戦い続けるのか。べつの場所へ行くのか。雇われればまた剣を取るのか。そんなことを、いまさら聞いてどうする。
だが、言葉はもう出てしまっていた。
ベレトは、ほんのわずかに目を上げた。
そっけない問いだと、たぶん他人が聞けばそう思うだろう。けれど、この人はそれを、そのままの問いとして受け取ったらしい。
「まだ決めていない」
「へえ」
「ジェラルトがどうしたいのかにもよる。だが、いまは仕事があるなら受ける。ただそれだけだ」
いかにも彼らしい返事だった。味気ない。曖昧で、けれどごまかしてはいない。そういう返しを聞いて、そりゃそうだよな、と思う。何を期待していたのか、自分でもわからない。
そこで会話が切れそうになって、それがなぜだか、少しいたたまれなかった。
言う必要はない。ないのに、黙ったまま終わるには夜はまだ長かった。
「俺は、」
口にしてから、ひと呼吸ぶんだけ止まる。紙の上へ落ちていた視線を、ようやく持ち上げた。
「このフォドラを囲む壁を、壊したいと思ってる」
言ってしまった、と感じた。盟主として整えた説明じゃない。どこへ向かって、どう変えて、その先に何を置くのか、そんな話ではない。ただ、いまの俺の中にある、いちばん粗いかたちだけを、そのまま外へ出してしまった。
ベレトは黙っていた。黙っているが、聞いていない顔ではない。あの人はいつもそうだ。言葉の飾りじゃなく、そこにある骨格だけを見る。
「内とか外とか、そんな垣根をなくしてさ。狭い世界で小競り合いをするのは、もううんざりなんだよ」
そこまで言って、俺は小さく息を吐いた。
「まあ、道のりは遠いけどな」
軽く言ったつもりだった。けれど、少しも軽くなっていない。
ベレトはしばらく口を閉ざしたまま、俺を見ていた。それから、ほんのわずかにうなずく。
「遠そうだな」
返ってきたのは、それだけだった。
それだけなのに、思いのほか救われる。笑われもしない。慰められもしない。立派だとも、無謀だとも言わない。ただ、遠いものを遠いと認める。その言葉ひとつで、肩の力がふっと抜けた。
「そうだろ」
「ああ」
「あんたも、そう思うよな」
締まらないやりとりだった。けれど、長い夜だったから、それでよかったのかもしれない。
ベレトはそこで、地図へもう一度目を落とした。首飾りの細道。見張りの位置。まだ消えきらない東の火種。あの人は、そのぜんぶを見たうえで、べつに何も言わない。
ただ、ぽつりと落とす。
「君なら、進み続けるんだろう」
思わず、目を上げた。それは励ましというより、確認に近い声だった。できるかどうかじゃない。やるつもりなのか、という問いを、もう自分の中で済ませた相手の言い方だ。
俺は口もとだけで笑った。
「どうだろうな。途中で立ち止まるかもしれないぜ」
「君は止まらない」
間を置かずに返されて、今度はほんとうに笑ってしまう。
「買い被りだろ」
「買っていない」
似たようなやりとりを、どこかでしたような気がする。なのに、今夜聞くと、どこかちがって響く。
部屋の中はしばらく静かだった。外では見張りの足音が遠くを行き、潮風が窓枠を鳴らしている。その静けさの中で、もう話すことはないような気がしたし、まだ何かあるような気もした。
けれど、先に背を向けたのはベレトのほうだった。
「では、失礼する」
短く、それだけ。
「ああ」
俺も短く返す。
引き留める理由はない。ないのに、その背が遠ざかってゆくのを、しばらく見送ってしまった。
夜明け前、ジェラルト傭兵団は静かにデアドラを出た。
銅鑼も、見送りの声もない。馬の吐く白い息と、湿った土を踏む足音だけが、まだ薄暗い朝の底へ吸い込まれてゆく。
俺は窓から、ベレトの背を遠くに見ただけだった。近くまで行かなかった。行けば、何か言わなければならない気がしたし、それを言ったところでどうにかなるとも思えなかった。
見えなくなるのは、あっという間だった。
そのあとで執務室へ戻ると、机の上に残った紙の束だけが、妙にきちんとして見える。見慣れた印。少し太くなった街道の線。砦と村を分けた印。そういうものが残っているくせに、肝心の手だけが抜けている。
ひどく締まらない気分だった。
だから俺は、それをまたいつもの言葉へ押し込める。
困る。ただ、それだけだ。
そういう顔をして、俺は次の紙へ手を伸ばした。
デアドラの城館で過ごす時間が、いつのまにか長くなっていた。
べつに籠もると決めたわけじゃない。街道の様子を見に行くこともあれば、城壁へ上がる日もある。しかし、このごろは、机の前にいる時間のほうがずっと長い。机の上の紙をめくり、地図に線を引き、次の文へ返事を書いているうちに、気づけば陽が傾いている。そういう日ばかりが増えていた。
そして、机の上は少しずつ荒れていった。
べつに物を乱暴に扱った覚えはない。報せを読めば脇へ寄せ、返事を書けば重ね、地図を広げれば端へ避ける。そのくり返しをしているだけだ。なのに気づけば、開きっぱなしの文がひとつ、書きかけの指示書がふたつ、読み返す前に次の報せに押しやられた紙がみっつと、整えていたはずのものから順に机の端へ追い詰められている。
盤面も似たようなものだった。
黄色の駒は、前よりずっと少なく見える。減ったぶんを埋めるための報せばかりが増えてゆくくせに、置ける手は増えない。どこかへ兵をやれば、べつのどこかが薄くなる。街道の見張りを増やせば、河岸の荷が危うくなる。近ごろ不穏な動きが報告されるコーデリア領へ手を回せば、今度は西の治安維持がおろそかになる。ひとつ繕えば、もうひとつが裂ける。そんなことばかりだった。
ある朝、地図の上へ指を置いたまま、俺はしばらく動けなかった。
南へひとつ、いや、東か。そう考えて、無意識に手が灰色の駒を探す。探してから、何もないことに遅れて気づく。置くつもりだったわけじゃない。ただ、そこにあればまだ考えようがあったのだと、身体のほうが勝手に覚えているだけだ。
ばかみたいだ。
だからすぐに、その考えを押しやった。ないものを数えても仕方ない。必要なのは、いまある駒で明日を繋ぐことだ。そういう顔をして、俺は黄色の駒をひとつ内側へ寄せる。寄せて、代わりに薄くなった道筋へ赤い線を引いた。朱は増える。駒は減る。その釣り合わなさに、見ないふりをするのもだいぶ上手くなっていた。
帝国と盟約を結んだのは、まちがいではなかった。
そう思う。思わなければならない、ではなく、実際そうなのだ。あの時点で同盟の息を繋ぎ、余計な血を減らし、潰れきる前に膝を折る。それが盟主としてとれる、もっとも傷の浅い手だった。誇れるかどうかはべつとして、盤面のうえでは正しい。少なくとも、あのときの俺にはそれしか選べなかった。
だが正しかったからといって、こぼれ落ちるものまで消えるわけじゃない。
街道は荒れる。賊は増える。帝国に頭を下げたことをよしとしない顔がある。口には出さないまでも、こちらを見る目つきが変わったとわかる日もある。ああ、そうだろうなと思う。責める気にはなれない。矜持とともに膝を折った男に、胸を張った盟主のかたちを期待できるほど、この国の連中も甘くはない。
それでも、時々ひどく息が詰まる。
守るために折れた。そうしてなお、守れないものが多すぎるからだ。
野望のことは、考えないようにしていた。
フォドラの壁を壊すだの、内と外を繋ぐだの、そういう遠い話を胸の中へ置いたままでいられる余裕がなかった。
机の上の文、治安の乱れ、減ってゆく兵、傷んだ街道、その日のうちに片づけなければならないものばかりが、朝から晩まで隙間なく積もる。その中で遠い夢へ目をやると、かえって胸が締めつけられた。だから見ない。見ないまま、今日を繋ぐための線だけを引いてゆく。
それでも、ふとした拍子に脳裏をかすめる。
こんな盤面を見たら、あの人は何と言っただろう。
肯定してほしいわけじゃない。慰められたいわけでもない。ただ、一度だけ、言い訳を並べなくても見られていたことを思い出してしまう。理解されていた、あのしあわせを思い出してしまう。思い出した瞬間、余計に嫌になる。そんなものをものさしにしている場合じゃないだろうと、自分で自分へ言い聞かせるしかない。
控えめに、扉を叩かれる。
「盟主様、コーデリア伯から使いが」
またか、と思う。声には出さず、机の端へ寄っていた紙の束を掴んだ。上にあるのは街道の見張りの報せ、その下は河岸の荷の遅れ、さらにその下には、昨夜のうちに目を通すはずだった文がまだ残っている。どれも後回しにしていい話じゃない。そのくせ、先に片づけると他が遅れる。
俺はひとつ息を吐いて、乱れた紙を揃えもせず立ち上がった。
今日もまた、見たくないものが増えてゆく。
それでも、盟主の顔をして、それを見に行かなければならなかった。
使いは、まだ若かった。
汗の乾ききらない額に土が張りついている。靴の先には街道の泥がこびりつき、肩で息をしているわりに、背筋はしっかりと伸びていた。ここへ来るまでに、同じ文を何度も胸の中で繰り返してきたのだろう。そういう顔つきだった。
「コーデリア領の外れにある集落が、昨夜、襲われました」
差し出された文を受け取る。封は雑に切られていて、端のほうに薄く煤がついていた。火をかけられた家がいくつか。逃げ遅れた者がふたり。街道沿いでも荷馬車がひとつ襲われ、護衛が怪我をしている。
賊、と片づけるには物騒な手際だった。奪うだけ奪って去ったにしては、残された焼け跡が多すぎる。脅すためにやったのか、それとも、ただ荒らすのが目的なのか。そのどちらにしても、ろくでもない。
文を読み終える前に、机の端へもうひとつの紙が置かれた。帝国からの使いだった。
こちらは文面が整っている。言葉づかいも丁寧だ。友軍としての派兵を求む。西側の見張りを一時的に厚くしたい。食糧と金は不足なく回す。必要な兵数はこの程度。だいたい、そういうことが、いかにも融通を利かせてやっているとでも言いたげな筆致で並んでいた。
俺はふたつの文を並べて、しばらく見た。
片や、火をかけられた集落。
片や、盟約相手からの要請。
どちらも無視できない。無視したところで、あとからもっとひどいかたちで返ってくるだけだ。
地図を引き寄せる。黄色の駒をひとつ、コーデリア領寄りへ動かす。すると今度は街道の見張りが薄くなる。そちらへべつの駒を寄せると、帝国へ回すはずの兵数が足りない。兵そのものは、どうにかひねり出せる。そこはまだいい。
盟約を結んだあとのいまは、少なくとも金と物は前よりましだ。帝国が面倒なくらい手を出してくるぶん、飢えと補給だけは以前ほど喉元へ食いこまない。
だが、将がいない。
そこを任せられる人間がいない。兵を百、足したところで、ただ百いるだけだ。どこが崩れるかを見て、引く時機を決めて、ひとつの持ち場をひとつでもたせられる手がない。以前なら一枚で足りたところに、二枚、三枚と重ねなければならない。そうやって層を厚くしないと、守ることさえ怪しくなっている。
帝国は兵を貸す。物も寄越す。
そのくせ、強い将は返さない。
笑える話だった。いや、笑えないからこそ、よけいにたちが悪い。
盟約を結んだのなら、少しは手もとへ戻してくれてもよさそうなものなのに、向こうがそうしない理由は、考えなくてもわかる。逆らう力だけは削いでおきたいのだ。こちらが立ち直らない程度に支え、牙だけは抜いておく。そのほうが扱いやすいに決まっている。
俺は指先で駒をひとつ弾き、すぐにやめた。
まったく、ひどい首輪だ。
膝を折ったことそのものを悔やんでいるわけじゃない。盟主としては正しいことをしたと、いまでも思う。そうでなければ、もっと多くを失っていた。だが、正しかったことと、息が詰まらないことは、同じじゃない。
文を持ってきた若い使いは、黙って俺の返事を待っていた。コーデリア領のほうも、帝国の使いも、どちらも焦りを隠していない。俺がここで迷っているあいだにも、火は燃え、人は怯え、道は荒れてゆく。
迷っているように見せるわけにはいかなかった。
「街道の見張りをひとつ削る」
口に出してから、地図の上の駒を動かす。西の線が薄くなる。代わりにコーデリア領へ兵を回す。さらに帝国への派兵には、デアドラ近郊の守りから歩兵を抜いて充てるしかない。ひどい綱渡りだった。ひとつ選ぶたび、べつのどこかが弱くなる。
「将は」
控えていた使いが問うた。
俺は返事の前に、地図の上をもう一度見た。名を書ける駒が、足りない。
無意識に、空いた場所へ指が止まる。そこへ置けるはずのものは、もうない。灰色の駒は、ずいぶん前から机の上にないのに、こういうときだけ、まだ手が探す。
「いない」
言うと、部屋の空気が少しだけ重くなった。
「だから、持ち場を細かく割る。ひとりに預けすぎるな。危ないと思ったらすぐ引け。守るべきものを増やすな。まず、燃えてるところから順に消す」
ずいぶんみみっちい指示だった。だが、いまの同盟には、そういう指示しかできない。大きく勝つ手ではなく、崩れきる前に次の日へ渡すための手ばかりだ。
使いは深く頭を下げた。感謝しているのか、諦めているのか、そのあたりはわからない。おそらく両方だろう。
出てゆく背を見送ってから、俺はもう一度、机の上の文へ目を落とした。帝国の文は綺麗な字で、こちらの事情など最初から織り込み済みとでも言いたげに整っている。コーデリア領からの文は、急いで綴った筆の荒れがそのまま残っていた。
どちらも、俺が引き受けなければならない。
盟主としては、それでよい。
よいはずなのに、胸のどこかがじわじわと冷える。
自分が膝を折ったことに、意味はあったのか。
その問いは、このごろ、答えが出る前に胸の底へ沈んでゆく。なかったとは言えない。あったに決まっている。それでも、あったのだと強く言い切るには、守れないものが多すぎた。
ふと、こんな地図を見たら、あの人は何と言うだろうと思った。
たぶん、慰めるようなことは何も言わない。
ただ、厳しいな、とでも言うのかもしれない。
あるいは、それでもやるのか、と。
そこまで考えて、いやになった。
どうしても、言い訳を重ねなくても見られていたことを思い出してしまう。そのしあわせだけが、ふと脳裏をよぎる。よぎった瞬間に、余計に息が詰まる。
俺は乱れた紙の束を無理やり揃え、帝国への返書を引き寄せた。
外では、港のほうから風が上がっている。窓の隙間で鳴るその音を聞きながら、俺はまた、筆を取った。
その綱渡りは、四日ともたなかった。
最初に綻んだのは、西へ抜ける街道の見張りだった。
こちらがコーデリア領へ兵を寄せたぶんだけ、街道は薄くなる。薄くなったところへ、帝国の荷を狙ったらしい連中が出た。
ただの略奪ではなかった。奪えるだけ奪って散るならまだましだ。だが連中は、荷車を焼き、逃げた御者を追い、あとから来る人間に、ここはもう安全ではないのだと知らしめるみたいに、わざわざ目につくかたちで荒らしていった。
報せを受けたとき、俺はすぐには声が出なかった。
守れなかった。
そう言ってしまえば、それだけだ。
だが、そこへ兵を割けば、コーデリア領の外れはもっと薄くなっていた。そちらを拾えば、今度は帝国への派兵が遅れる。どれも捨てられない。どれも、遅らせたぶんだけあとで大きな火になる。だから選んだ。選んで、片方を守って、片方を落とした。
理屈はわかる。
わかるが、納得できない。
地図の上へ指を置く。街道を示す細い線。その上に置いた黄の駒は、ひとつ減っている。たったひとつだ。たったひとつのはずなのに、その抜けたかたちだけが、どうしようもなく目についた。
そこへ兵を置けていたなら、と思う。
思った瞬間、遅れて腹が立つ。
置けていたなら、なんて。
置けなかったから、いまこうなっている。
使いがもうひとつの文を差し出してきたのは、そのときだった。コーデリア領の村は、どうにか持ちこたえたらしい。火は上がったが、鎮圧は間に合った。被害は軽くない。軽くないが、街道のほうに比べればまだましだと、そういう筆つきで書かれていた。
まし、か。俺はその言葉を黙って眺めた。
どちらかしか守れない。
守れたほうを、ましだと呼ぶしかない。
それがいまの同盟の現実だった。
机の上に広げた紙の端へ、いつのまにか爪が食いこんでいた。気づいて手を離す。紙は少しだけ歪み、その歪みが癇に障る。物に当たったところで何も変わらない。変わらないから、よけいにみじめだ。
扉の外で控えめな足音が止まり、ヒルダが顔をのぞかせた。
「……入るよ、クロードくん」
「どうぞ」
そう返すと、ヒルダはそっと中へ入ってきた。いつもみたいな軽い顔ではない。机の上の文と、地図の駒をひと目見ただけで、もうだいたい察したらしい。
「……街道のこと」
「ああ」
「コーデリア領のほうは間に合ったんだよね」
「そうだな」
短いやりとりだった。
ヒルダはそれ以上すぐには何も言わず、机の端へ寄ったまま地図を見ていた。黄色の駒は薄い。薄いくせに、行き先だけは増えている。その見え方は、たぶん俺にだけじゃなく、あいつにも苦いのだろう。
「どっちかしか、助けられなかったんだよね」
まっすぐ言われて、俺は少しだけ目を伏せた。
「そういう日もある、で済ませられるうちはよかったんだけどな」
「だんだん、済ませられなくなってきたよね」
「最初から済んじゃいないさ」
口に出した声が、自分で思ったより乾いていた。
ヒルダはそこで黙る。慰めるでもなく、軽く流すでもなく、ただ黙る。その沈黙がありがたくないわけじゃないが、今日はそのありがたさが重かった。
「帝国は?」
「ああ。兵は出せる。物も回してくる。そこは前よりずっとましだよ」
地図の端を指で叩く。
「けど、こっちがほんとうに欲しいものは寄越さない。ただの兵なら埋められる。……が、そこを預けてもたせられる人間は、まだ向こうの手の内だ。だから結局、ひとつ守るために、もうひとつを削るしかない」
ヒルダはしばらく地図を見ていた。それから、ひどく静かな声で言う。
「……きついね」
そのひと言が、やけに耳に残った。
俺は小さく笑った。笑ったつもりだったが、たぶんうまくいっていない。
「きついどころじゃない。首輪をつけられて、膝まで折って、このざまだ」
口にしてから、自分がどこまで言ったのかを考える。
ヒルダの目が、わずかに細くなった。
「クロードくん、」
「盟約を結んだのは間違ってない」
先にそう言った。
言い切らないと、どこかが崩れそうだった。
「間違ってないんだよ。あのときはあれしかなかった。わかってる。……わかってるけど、その正しさで守れないものが多すぎるって話」
ヒルダはそれを聞いても、すぐには返さなかった。
机の上の文、駒の減った地図、朱で引き直した線、そのぜんぶをひと通り見てから、ようやく息を吐く。
「……帝国のやり方、あたしは好きじゃないなー。ただきれいに見えるだけな気がして」
ぽつりと落ちた言葉に、俺は目を上げた。
「だろうな」
「従った相手には手を貸す。けど、その手の貸し方が、ほんとに助けるためかって言われると、そうじゃないんだろうな」
それ以上、ヒルダは踏み込まない。踏み込まないが、どこまで見えているのかは、何となくわかった。ただ口に出させるのは、酷だと思った。
俺は地図へ視線を戻した。
「……いずれ、盟約を反故にするしかなくなるかもしれない」
自分の声が、妙に遠く聞こえた。
ヒルダはすぐには何も言わなかった。
たぶん、すぐに否定したくはなかったのだろう。
けれど、そこでうなずくこともできない。
その迷いが、沈黙の長さにそのまま出ていた。
「いまは、だめだよー。言うのも、だめ」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
「そういうこと、口にしたら、戻れなくなるから」
やわらかい声だった。
言い聞かせるみたいでも、責めるみたいでもない。ただ、先に行ってほしくないのだと、それだけがわかる声だった。
俺は眉を上げる。
「止めるのか」
「止めるよ」
ヒルダはそこでようやく笑った。笑ったというより、困ったように口もとがゆるんだだけかもしれない。
「止めるよ。ちゃんと止めるけど……たぶん、強くは言えない」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
「あたしも、これがいいかたちだなんて思ってないし」
続いた声は、静かだった。
「でも、クロードくんを危ないところへ押し出したくないの。止めきれなかったら、あたし、あとでたぶんずっと後悔する」
その正直さが、ヒルダらしかった。
正しいことを言いたいわけではないのだろう。きれいに割り切れている顔でもなかった。ただ、自分の大事なものを守りたい。そのために、言い切れないものを抱えたまま、ここに立っている。
俺は視線を落とした。
盟約を結んだのは、俺だ。膝を折ったのも、首輪を受けたのも、俺だ。
それなのに、その重さを俺ひとりだけで引き受けているわけじゃないことが、こういうときに嫌でもわかる。
「……悪いが、そのときが来たら、ついてきてくれ」
口にした瞬間、自分で少し遅れて、その重さに気づいた。
ずいぶん勝手なことを言っている。
同盟を、ここまで一緒に支えてきてくれた相手に向かって、それでもなお俺のほうを向いてくれと、そう言っているのだ。
ヒルダは一度だけ目を伏せた。すぐには答えない。答えられないのだろう。
けれど、黙ったまま背を向けることもしなかった。
「……仕方ないなー。他ならぬクロードくんのお願いだしね」
明るく言ったつもりなのだろう。
けれど、その声の底にあるものまで、聞こえないふりはできなかった。
ふいに脳裏をよぎる。あの人なら、何と言っただろう。たぶん、立派なことは言わない。肯定もしない。慰めもしない。
ただ、薄いな、とか、足りない、とか、そういう骨だけを見ただろう。あるいは、このかたちでは守れないと、平たい顔で言ったかもしれない。
そこまで考えて、ひどくいやになった。
いない相手の声を借りるな。そんなことをしたところで、盤面は変わらない。
わかっている。わかっているのに、一度だけ、言い訳を重ねなくても見られていたことを思い出してしまう。そのしあわせだけが、ふと脳裏をかすめる。かすめた瞬間に、余計に息が詰まる。
「……いまはまだ、切れない」
ヒルダへ言ったのか、自分へ言ったのか、よくわからなかった。
「切れないが、このままでいいとも思ってない」
ヒルダはそこで、ごく小さくうなずいた。それでじゅうぶんだった。じゅうぶんだったが、少しも楽にはならない。
机の上の紙は相変わらず荒れている。黄色の駒は薄い。灰色の駒は、どこにもない。
それでも、盟主の顔をして、次の手を選ばなければならない。
そういう日ばかりが、またひとつ増えた。
それからの毎日は、勝った負けたと呼ぶにも値しないものばかりだった。
街道の見張りを増やせば、河岸の荷が滞る。河岸へ兵を回せば、今度は村の外れで火が上がる。同盟領内の不穏が少し収まったかと思えば、今度は帝国からの要請が重なる。
兵を出せ、道を貸せ、補給を回せ。言っていることはどれももっともだった。もっともだからこそ、腹が立つ。
反論できない。断りきれない。断れないまま、地図の上の黄色の駒だけが、少しずつ細ってゆく。
ひとつの持ち場に、以前なら一枚で足りた。いまは二枚要る。それでも不安で、ほんとうはもう一枚ほしいと思う。そんなふうに守りの層ばかり厚くしているうちに、攻めの手はどこにも残らなくなった。
それが、盟約を結んだあとに残った同盟のかたちだった。
机の上の紙は、片づけても片づけても減らなかった。読んで、脇へ寄せ、返事を書き、次を開く。その繰り返しのはずなのに、気づけば、前に読んだはずの報せをもう一度開いていることさえある。
見落としが怖くて、怖いくせに頭は鈍っていて、そういう自分に気づくと、余計に手が止まる。
傷も、増えた。
大きなものじゃない。肩口を掠めた傷。籠手の下へ浅く入った裂傷。飛竜から降りるときにひねった足。
どれも寝台へ倒れるほどではない。だから厄介だった。その程度ならまだ動ける、と身体のほうが勝手に覚えてしまう。痛みを抱えたまま机に向かい、紙をめくり、地図に線を引き、必要ならそのまま戦場に向かう。そういう日が重なるにつれて、自分の身体が、いつから重くなったのかもわからなくなっていった。
夜更け、ふと腕を持ち上げたときに、鈍い痛みが遅れて走る。そこでようやく、ああ今日もどこかをぶつけたのか、と気づく。その程度のことばかりだった。
それでも、日々は進む。
ある日、机の前で地図を見ていて、俺はふいに目を閉じた。
壁を壊したい。内と外を繋ぎたい。
そういう夢を、前はもっと遠くに置いたままでも持っていられたはずだった。
それなのに、いまは思い浮かべるだけで、胸が締め付けられる。
夢が間違っているわけでもなければ、消えたわけでもない。俺は、信じている。
ただ、それへ目をやった瞬間に、いまここで守れないものや、取りこぼしてきたものや、変わってしまった同盟のかたちまで一緒に見えてしまう。だから考えない。考えないようにして、もっと近くの火だけを見る。今日の紙。今日の兵。今日の損耗。そういうものへ自分を押しこめて、その日を終わらせる。
終わらせるたびに、何かが少しずつ乾いてゆく気がした。
デアドラの窓から見える海は、相変わらず同じ色をしている。港には船が出入りし、街の中では人が行き交い、季節だって進んでいるはずなのに、自分の時間だけが停滞しているようだった。
昨日も今日も同じだ。紙の位置が変わり、駒の数が減り、傷が増える。それだけの違いしかない。
そんな日が続くと、何かを感じること自体が面倒になってくる。
怒るのも、悔しがるのも、ひとつひとつちゃんとやっていてはもたない。だから流す。流して、あとでひとりになったときだけ、胸の底に沈んだものの重さを知る。知っても、拾い上げはしない。拾い上げたところで、次の日の駒が増えるわけじゃないからだ。
それでも、時折、どうしようもなくみじめになる瞬間がある。
たとえば、軍議の最中に、誰かが俺の顔色を窺うとき。
たとえば、帝国から届いた文の末尾に、あまりに整った気遣いの文句が添えられているとき。
たとえば、薄くなった持ち場をどうにか埋めるために、いつもより若い兵の名を地図の端へ書きこむとき。
そういうときに、ああ、自分はまだ泥をすすっているのだなと思う。
あの選択に意味がなかったとは言えない。けれど、その意味を信じきるには、あまりにも報いが薄い。
薄いどころか、こちらが折れたぶんだけ、もう元のかたちには戻れないものが増えている。
ふいに、紙の端へ視線が止まる。もう何日も触っていない古い見取り図が混ざっていた。細い道筋。太くなった街道の線。砦と村を分けた印。見ればすぐにわかる。あの人が持ってきた紙だった。
指が、そこへ伸びかけて止まる。見たところで、何も変わりはしない。そう思う。思うのに、胸のどこかが、それを見れば気が楽になると勘違いしている。
俺はその紙を、ほかの文の下へ押し込んだ。
こんなものにすがってどうする。あの人はもういない。
その手つきを思い出したところで、黄色の駒は増えない。減ってゆくものは減ってゆくし、守れないものは今日もどこかでこぼれ落ちる。
わかっている。わかっているのに、一度だけ、理解されていたという事実が、しつこく胸の底に残っている。
それが、嫌だった。
肯定されたいわけじゃない。慰められたいわけでもない。
ただ、盟主でも、王子でもないところにいる自分を、たしかに見られていた、あの記憶だけが、乾いたところへ水みたいに沁み込んでくる。触れてくるから、余計に見ないようにしなければならなかった。
扉の外で、新しい足音が止まる。
また報せだろう。
たぶん、ろくでもない話だ。
そう思いながらも、俺は机の上の紙を無理やり寄せ、盟主の顔を思い出す。
擦りきれていても、乾ききっていても、まだ終わってはいない。終わっていない以上、次を選ぶしかない。
そうやって繋いだ明日に、いまはまだ何の意味も見いだせなかった。
帝国は、返書だけはきちんと寄越した。
遅すぎることもなければ、露骨に冷たいこともない。文面はいつだって丁寧で、こちらの苦境へそれなりに心を砕いているようにも見える。兵も、物資も、人手も、貸せるだけは貸すと書いてある。
それでも、肝心なところだけが抜けている。
将を戻してほしいと書けば、その件は追って検討すると濁される。裁量を広げてほしいと求めれば、いまは連携を優先すべきだと返される。こっちが息を繋ぐためにほんとうに欲しいものだけが、毎回、きれいな言い回しの向こうへ押しやられていた。
最初のうちは、まだ書いた。
文面を変え、理屈を変え、言い方をやわらげたり強めたりもした。どこまで書けば向こうの奥まで届くのか、届いた先で誰が止めているのか、そんなことまで考えながら、何通も、何通も書いた。
だが、ある夜、返ってきた紙を開いたところで、ふと手が止まった。
また同じだ、と思ったからだ。
言葉は違うが、意味は変わらない。こちらを見捨てるわけではない。だが、こちらが自分の足で立てるところまでは決して戻さない。そういうかたちだけが、毎回少しずつ違う筆致で繰り返されている。
そこでようやく、俺は筆を置いた。
説き伏せるのは、もういい。向こうも、わかっていないわけじゃない。わかったうえで、このかたちにしているのだ。
そう思った瞬間、怒りより先に、静かな諦めが胸へ落ちた。落ちたくせに、楽にはならない。ただ、同じところを何度も叩いていた手が、ようやく止まっただけだ。
夜更け、机の上の紙をひとまず端へ寄せて、俺はべつの地図を引き寄せた。
同盟領の周りだけを描いたものじゃない。もっと広く、フォドラの外側まで見渡せる地図だった。ガルグ=マク。王国との国境線。帝国が手放したくない場所。そのどれもが、いまの机の上では遠い話のはずなのに、目で追っているうちに、ひどく生々しく見えてくる。
王国と教団が、いずれガルグ=マクを奪い返しに来る。
奪われたまま終わる連中じゃない。帝国だって、それをわかっている。なら、向こうは必ず止めに行く。止めるために兵を割き、将を置き、補給路を通す。そういう盤面になる。
そこまで考えたところで、俺は黄色の駒をひとつ、地図の端へ置いた。
勝つための盤面じゃない。正面から噛み砕くための盤面でもない。帝国がいちばん嫌がるところで、いちばん嫌なかたちに噛みつくための盤だ。
兵数で勝てないのなら、ぶつける場所を選ぶしかない。真正面ではなく、逃がしたくないものの脇腹へ。守りたい線を増やさせるように。薄いところを、向こうにも味わわせるように。
指先が、無意識にアリルのあたりで止まった。
溶岩と、乾いた土地と、道の狭さ。兵の厚みで押しきれないなら、ああいう場所ほど盤面は素直になる。
きれいに並べた力の差を、そのままぶつけられない場所だ。どう塞げば、帝国は嫌がるか。どう置けば、向こうは想定した手を一度崩さざるを得ないか。それから、どう引けば、王国の進軍経路にぶつからないか。
考えはじめると、あっという間だった。
黄色の駒だけで足りるかたちへ、手が勝手に寄ってゆく。ここを削れば、向こうはこう動く。そのときこちらは、あちらを捨ててこっちへ寄せる。王国と教団が中央へ噛みつくなら、帝国は正面を無視できない。そのわずかな歪みのぶんだけ、こっちには噛みつく余地が生まれる。
やる、と決めたわけじゃない。まだそんな段階じゃない。反故にする覚悟を固めたわけでもない。
ただ、理屈だけを追っているあいだ、胸のつかえがわずかに下りるのを感じた。
そのことが、いちばんよくなかった。
俺はしばらく黙ったまま、地図の上の黄色の駒を見ていた。灰色の駒は、ここにもない。ないままでも、盤面は組める。組めてしまう。組めてしまうからこそ、余計に口の中が苦くなる。
これが逃げだと、わかっていた。
いま目の前にあるどうにもならない現実から目を逸らすために、もっと先の盤面へ潜りこんでいるだけだ。
机の上の灯りが、地図の端を細く照らしている。
俺はその明かりの中で、もうひとつだけ駒の位置を直した。
直してから、自分でも小さく息を吐く。
まるで、ずいぶん前からこの盤を知っていたみたいだ。そんなわけがないのに、手だけは迷わなかった。
けれど、盤面は、考えたからといってすぐ現実になるものでもない。
そう思っていたはずなのに、数日して届いた報せは、夜の机で追っていた線と、いやに似たかたちをしていた。
王国側の動きが、少しずつ慌ただしくなっている。荷の流れが、西ではなく中央へ寄っている。
ディミトリもばかじゃない。帝国に西部をとられた以上、のこのことその前を通るわけがなかった。人の足も、兵の影も、目立たないように散っているくせに、向かう先だけが揃っていた。
どれも、それひとつで軍を動かすほどの報せじゃない。ただ、ばらばらに置けば小さいものが、地図の上へ並べると同じ方向を向く。
俺はその紙をひとつずつ読み、しばらく黙っていた。
来るのか、と思う。
王国と教団が動くということは、人が死ぬということだ。帝国が中央へ兵を寄せれば、こちらはもっと薄くなる。こぼれ落ちるものが、また増える。それがわかっているのに、盤面が現実のほうから寄ってくることへ、安堵した自分がいる。
ひどいな、と思う。ひどくて、あさましい。それでも、そのあさましさを打ち消せるほど、いまの俺はきれいじゃなかった。
その日の夕方、帝国から来た返書は、相変わらず整っていた。
王国側の動きは把握している。必要な備えは進めている。こちらも警戒を怠らぬように。連携のため、今しばらくは持ち場を堅持せよ。だいたい、そういうことが、少しも荒れない字で書かれている。
把握している。備えている。
その言葉のどれもが、たぶん嘘じゃない。嘘じゃないのに、どうしてこうも息が詰まるのか、自分でもよくわかっていた。
向こうは、見えているのだ。
見えていて、こちらへ寄越すのは、やはり兵と物と、きれいに整った文だけだった。ひとつの線をもたせる手は戻らない。こちらが自分の足で立つためのものだけが、いつもきれいに抜かれている。
俺はその返書を閉じ、しばらく机の上へ置いたままにした。
腹が立たないわけじゃない。けれど、怒ったところで遅いということも、もうよく知っている。だから怒りはすぐ、もっと乾いたところへ落ちてゆく。
向こうは、この程度で同盟の息を繋がせておけばいいと、そう判断している。
そしてその判断は、盤面としてはそう外れていない。
それが、いちばん癪だった。
夜になって、俺はまた地図を広げた。
王国の南。フォドラの中央。ガルグ=マク。帝国が動かさざるを得ない線。そこへ黄色の駒を置いてゆく。ひとつ置き、ずらし、もうひとつ置いて、要らない道を消す。
反故にする、と、まだ言い切れるわけじゃない。帝国に恭順すると決めたことに、意味がなかったとは思えない。思えないからこそ、そこへまだすがっている。
いま切れば、あのときの選択ごと、自分で踏みにじることになるような気がした。盟主として選んだ正しさを、自分の手で否定するようで、それはまだ、うまく呑み込めない。
けれど、このままでいいとも、もう思えなかった。
そのふたつのあいだで揺れながら、手だけが先へ行く。
ここをこう動かせば、帝国は北を見ざるを得ない。
北を見れば、こちらへ向ける目がひとつ減る。
その減ったぶんだけ、こちらは噛みつける。
策、と呼べるほど立派なものではない。出せる手札をすべて出しきったのなら、最後は力比べだ。
昼の報せが夜の盤面を少しずつ裏打ちしてゆくたび、俺は自分の指先が迷わなくなるのを感じていた。
ひどい話だ、と思う。
まだ決めてもいない。決められるはずもない。
それなのに、盤面だけが先に現実味を帯びて、俺のほうへ寄ってくる。
昼の光は、だいぶやわらいでいた。
執務室に籠もっているあいだに、いつのまにか陽が傾いていたらしい。窓の外では港のほうから風が上がり、積み上げた紙の端をかすかに鳴らしている。机の上には、昼のあいだ動かした黄色の駒と、夜になってから別に引き寄せるつもりだった広い地図が、半端に重なったまま残っていた。
ひとつ片づけるより先に、もうひとつ別のものへ手を伸ばす。このごろは、そんなことばかりだ。
扉の外で、人の気配が止まった。
次の報せかと思った。どうせろくでもない話だろうと、半ば投げやりな心持ちのまま顔を上げる。けれど、控えめに叩かれた音のあと、入ってきた影を見た瞬間、俺は椅子の背から身を起こしたまま、しばらく動けなかった。
淡い翠の髪が、傾いた光を受けて鈍く沈んでいる。
ベレトだった。
長い旅の土が外套の裾に薄くこびりついている。顔色は悪く、頬はわずかに削げ、目の下には浅い影が落ちていた。立っているだけで崩れそうというほどではないが、ここへ来るまでまともに休んでいないことぐらいは、見ればわかる。そういうありさまだったのに、足取りだけは妙に迷いがなかった。
みっともなく浮足立ってしまって、俺はその感覚を押し戻すみたいに、先に口を開いた。
「……久しぶり、だな」
間の抜けた呼びかけだった。ほかに出てくる言葉がなかった。
ベレトはいつもの平たい目でこちらを見た。声も、変わらない。
「来た」
見ればわかる、と思ったくせに腹は立たなかった。むしろ、そのぶっきらぼうな一言が、変なところに触れて、胸のあたりがよけいに軋む。
俺は視線を逸らすふりをして、机の上へ散った紙を見る。街道の報せ。帝国からの返書。半端に置いた広い地図。夜のあいだに何度も動かした黄色の駒。
いま見られて困るものじゃない。それなのに、俺のすべてをこの人の目の前へ晒しているようで、妙に落ち着かなかった。
「ジェラルトさんは」
先に出たのは、その問いだった。彼の顔に、ごくわずかな翳りが差す。
「もういない」
短く言ってから、ベレトは続けた。
「帝国軍の、双剣の傭兵に討たれた。君に傷を負わせた、あの男だ」
「……そうか」
それ以上は続かなかった。気の利いたことを言ってやる間柄でもないし、いまの俺にそんな余裕もない。ただ、ここへひとりで来たという事実が、そのひと言の重さをそのまま机の上へ置いていった。
ベレトは何も足さない。どこから来たのかも、何を見てきたのかも、自分からは言わなかった。その無愛想さがひどくこの人らしくて、だからこそ、こちらもごまかしが利かない。
俺は椅子から立ち上がった。
「それで、俺のところに来たってわけか」
確認というより、ほとんど独り言に近い声だった。
ベレトは目を細める。
「帝国へ向かうつもりだった」
「ああ」
「君も、そうすると思ったから」
あまりにあっさりしていて、俺は思わず笑いそうになった。笑える話じゃないのに、そうでもしないと間がもたない。
「買い被りすぎだろ」
「買っていない」
またこのやりとりか、と思う。けれど、いま聞くと、ひどく始末が悪い。
俺は机の端へ指をつき、広い地図の上に視線を落とした。アリルのあたりで止まった黄色の駒が、そのまま残っている。
「あんたは知らないだろうが、同盟はいま、帝国と盟約を結んでる」
わざと平たく言う。試すつもりだった。ここで一歩でも引くなら、それまでだと思った。
「つまり、俺は帝国の側にいる。来る場所を間違えたっていうなら、いまのうちだぞ」
ベレトは少しも顔色を変えなかった。
「知っている」
そこですぐ言葉が返ってくる。
「ジェラルトから聞いていた」
それだけ言って、ひと呼吸ぶんだけ間を置く。
「それでも来た」
机の上で、何かが切れた気がした。
大げさな音がしたわけじゃない。誓いが砕けるような劇的なものでもない。ただ、ここまで丁寧に巻きつけていた鎖の最後のひと巻きを、この人がためらいもなく断ち切ってしまったのだと、遅れてわかる。後先を考えてのことではないのだろう。必要だから来た。ただそれだけの顔で、目の前に立っている。
復讐のためでもあるはずだ。ジェラルトさんを失い、シェズが帝国の側にいる以上、帝国へ刃を向ける理由はじゅうぶんある。けれど、それだけなら、俺を頼る必要はなかった。ひとりで動くことだってできたはずなのに、この人は俺が帝国を受け入れるとは思わなかったと言って、まっすぐここまで来てしまった。
子どもみたいだと、ふと思う。目の前にある鎖を、ただ邪魔だからという顔で切ってしまう。
「……あんたって人は、ほんと」
そこまで言って、言葉が続かなかった。
困る。ひどく困る。
理屈なら、だいぶ前から揃っていた。帝国を切る盤も、アリルへ収束するかたちも、夜ごと地図の上で組んできた。けれど、それはまだ、紙の上の話だった。膝を折った意味にしがみついたまま、このままではいられないことだけを知って、そこで止まっていた。
そこへ、この人は来た。
帝国と盟約を結んでいると知っていて、それでもここへ来た。その事実だけで、理屈の外側にあるものがいっぺんに身体へ戻ってくる。安堵してしまったことを隠す余地もない。ごまかしていたものが、ぜんぶこちらへ向き直ってくる。
「困るのか」
ベレトが言う。
問いとして、妙に正確だった。俺は口の端だけでどうにか笑う。
「困るさ。しかも、かなり」
「なぜ」
「なぜ、って」
返しかけて、やめる。そんなもの、こっちが聞きたいぐらいだった。
沈黙のあと、俺は机の上の地図を指で叩いた。
「……あんたが来ると、進んじまうんだよ」
苦し紛れみたいな言い方だったが、嘘ではなかった。盤面はもうある。けれど、この人が目の前に立つと、それが盤面のままでは済まなくなる。
「いや、俺が止めてただけか」
ベレトは何も言わなかった。余計な慰めも、もっともらしいことも挟まない。ただ、そのまま受け取る。その感じが、相変わらず厄介で、ありがたくもあった。
「君が帝国をそのまま受け入れるとは思わなかった」
「受け入れていたさ」
「そう思いたいだけだろう」
そのひと言が、胸をえぐるように刺さった。
買い被りでも、励ましでもなく、ただそう見えなかったと、この人は言う。盟主として整えた言葉ではなく、王子として飾った理想でもなく、もっとむきだしのところを、そのまま見て言っている。
俺は目を伏せた。机の上には黄色の駒しかない。灰色の駒は、どこにもない。それでも盤面は組める。その理屈に、ずっとしがみついてきた。
「……あんたのせいで、戻れなくなったって言ったらどうする」
冗談めかしたかったが、声は思ったより乾かなかった。
ベレトはしばらく黙っていた。それから、平たい声のまま言う。
「君は、戻りたいのか」
そう返してくるか、と思う。しかも、いちばん痛いところを。
俺は机の上の地図を見る。アリルで止まった黄色の駒が、薄い夕方の光を受けて沈んでいた。戻りたいかと問われれば、答えはもう、とっくに出ている。
「……いや」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「戻りたくはないな。ずっと前から、戻りたくなかったんだと思う」
そう言った瞬間、胸のあたりが軽くなった。
大義も理屈も立派な言葉もなく、帝国と盟約を結んでいると知ったうえで、それでも俺のところへ来た。
俺は顔を上げた。
「来てくれて助かった、って言ったらさ」
そこまで口にして、口もとだけで笑う。
「今度は、あんたが困るか?」
ベレトは一瞬だけ目を見開いた。それから、ほんのわずかに視線を逸らし、ごく低く返す。
「……困らない」
短いのに、深く沁みた。
部屋の中には、夕方の光がまだ薄く残っている。外では風が鳴り、港のほうから遠い音が上がる。何も決着はついていない。帝国との盟約も、削られた同盟のかたちも、夜ごと組んできた盤面も、何ひとつ片づいてはいない。
それでも、もう迷えない気がした。
理屈は、もうあった。足りなかったのは、それでも踏み出せない自分のほうだった。
俺は机の上の地図をそっと引き寄せる。
「話がある」
そう言うと、ベレトは黙ってうなずいた。
その仕草を見た瞬間、自分の奥底に沈んでいた何かが、ようやくひとつのかたちを持った。
帝国を切る。
その言葉はまだ、声にはしない。しないが、もうさっきまでとは違う場所にある。目の前に立つこの人が、後先もなくそれを断ち切ってしまったからだ。だからきっと、俺ももう、ごまかしたままではいられなかった。
俺は机の上の地図を、ベレトのほうへ回した。
この人は何も言わずに近づいてくる。長い道を歩いてきた土が、まだ外套の裾に薄く残っていた。近くで見ると、やはり消耗している。頬は少し削げ、目の下には影が落ち、立ち姿そのものは崩れていないくせに、余計なものを削ぎ落としたあとの静けさだけが残っているようだった。
その視線が、アリルのあたりで止まった黄色の駒へ落ちる。
「王国と教団は、いずれガルグ=マクを奪い返しに来るだろう」
俺は地図を見たまま言った。
「帝国の連中はそれを止めたい。止めるなら兵を寄せる。真正面からやり合って勝てる数じゃない以上、こっちはその横腹を裂くしかない」
指先で、細い峡路をなぞる。
「だからアリルだ。兵数だけで押しきれない場所へ、先に引きずりこむ」
ベレトは地図を見ていた。王国側が中央へ動くこと、帝国がそれを無視できないこと、その隙に同盟が噛みつける場所がどこか。ひとつずつ説明しなくても、目の動きだけで、もうそこまで追っているのがわかった。
俺はその夜のうちにエーデルガルトのもとへ向かった。
帝国に忠を尽くす盟主の顔で、なるべくもっともらしく。
王国軍と教団の残兵が中央へ集まりつつあるなら、どうせどこかでぶつかる。ならば、早いうちに迎え撃つべきだ。地の利を揃え、相手の足を削ぐなら、アリルは悪くない。
だいたい、そういう意味のことを、さも帝国を想っての言葉のように並べてみせた。
エーデルガルトもヒューベルトも、渋い顔をした。それはそうだろう。帝国からすれば、自ら強みを投げ捨てることになる。
彼らが何を信じようとしたのかはわからない。少なくとも、俺ではないだろう。アリルにさえ向かってくれれば、彼らが信じるものは何でもよかった。
それでも、ぐ、と息が詰まった。首輪は外れていない。外れていないまま、その長さだけを測り、届くところまで歩いている。そういう気分だった。
数日のうちに、報せはひとつずつ重なった。
王国側の兵の流れが、やはり中央へ寄っている。教団の残党も、その影に沿うように動いているらしい。帝国軍はそれを無視できず、ガルグ=マクを睨みながら北へ、少しずつ重心を移しはじめた。
夜ごと地図の上で動かしていた駒が、昼のあいだに現実のかたちをとってゆく。
理屈のうえでは、望んだ通りだった。
それなのに、報せを読むたび、胸の内側は少しずつ冷えていった。
もう戻れないと、嫌でもわかるからだ。それでも、手は止まらなかった。
帝国軍の進路に合わせてこちらの兵をどう流すか、どこを薄く見せ、どこへ厚みを置くか、王国側の進軍と真正面からぶつからないためにはどこで時間をずらすか。机の上では、ベレトが持ってくる見取り図と、俺が引き直した広い地図が、いつのまにか同じ束の中で混ざるようになった。
この人は、相変わらず多くを喋らない。ただ、必要なときに必要なことだけを置いてゆく。
そのたびに、夜の机で追っていた線が、報せの中に、兵の動きの中に、少しずつかたちを持ちはじめた。
アリルへ向けた行軍の途上、吹きさらしの荒野に張られた天幕の外は、血を流したみたいな赤に染まっていた。地平線へ沈んでゆく夕陽が、乾いた大地の輪郭をやけに鋭く浮かび上がらせている。
俺は天幕の外に立ったまま、西の空を見ていた。兵の列は長く伸び、馬具の鳴る音と、乾いた土を踏む足音とが、夕方の薄闇の中で絶えずつづいている。ずいぶん、遠くまで来てしまった。ここまで来てしまえば、あとに残るのは踏み込むかどうかだけだ。
単騎で斥候に出ていたベレトが戻ってきたのは、そのときだった。
砂をかぶった外套のまま、ほとんど息も乱さずこちらへ報告を落とす。
「帝国の皇帝直属部隊が、アリルへ向かっている」
来たか、と思う。思った瞬間、胸の底で長く揺れていたものが、ようやくひとつの位置に定まった。
「情報ありがとう、ベレト。おかげで心が決まったよ」
「………………」
返事はない。ただ、あの静かな目だけがまっすぐこちらへ向いている。俺は西の空を見たまま、小さく息を吐いた。
「実は、ずっと迷ってたんだ。どうすりゃいいのかって。あんたみたいな奴が、初めから俺のそばにいてくれたらよかったのにな。そうしたら俺も、もっと別の道を選べたかもしれない。レスターの……いや、フォドラのかたちだって、べつのものに変わっていたかもしれない」
「きっと、過大な評価だ」
「そうかな? 人を見る目には自信があるつもりなんだが」
そこでようやく顔を向ける。
夕陽の残りが、この人の翠の髪へ薄く引っかかっていた。痩せた頬も、落ちた影も、長い道のりを物語っているくせに、そのまなざしだけは少しも鈍っていない。
「まあいいさ。もしこの戦いが終わって、他に行くところもなければ……ぜひ、俺のところにやってきてくれ。期待して待ってるからな」
口にしてから、ずいぶん勝手なことを言っていると思った。
けれど、いまさら引っこめる気にはなれなかった。
ベレトは黙った。黙ってから、ひどく平たい声で言う。
「悪くない気がするな……考えてみよう」
思わず、笑いがこぼれる。
「おっと、思いのほかいい手応えだな」
冗談めかしたつもりだったが、胸のあたりは静かだった。
もう言い訳は尽きた。尽きたうえで、それでもこの人に先の話をしてしまった。そして、受け取られてしまった。
だからこそ、そのまま隣へ置いておくわけにはいかなかった。
俺は笑みを引っこめ、天幕の中から地図を引っ張り出す。
「じゃあ、配置を詰める」
そう言って地図を広げると、ベレトはすぐ脇へ寄った。
彼の外套の裾が、乾いた音を立てる。近くで見ると、やはり顔色はよくない。それでもまなざしだけは落ち着いていて、もう盤の上に立っている顔をしていた。
俺は峡路の東を指で叩く。
「東をあんたに見てもらいたい」
ベレトが目を上げる。
「中央へ入れる気はない。東を拾ってくれ。薄いところを繋いで、必要ならそのまま北へ上がってもらって構わない。王国側の動きも、その先で見たい」
ひと呼吸置いてから、つづける。
「伝令も兼ねてくれ。こっちが崩れたとき、いちばん困るのは、どこがまだ生きてるのか見えなくなることだからな」
ベレトは地図へ目を落としたまま、低く言う。
「自分を、主戦場から外すということか」
まっすぐで、逃げ場のない聞き方だった。
俺は肩をすくめる。
「そういう言い方もできる」
「君のそばでは戦わせない、と」
ほんとうに、この人はこういうところだけ妙に鋭い。
「俺のそばに置いて、そこで削る気はないんだよ」
半分だけ本音を言う。それなら、まだ盟主の顔で通せる。
「相手からすれば、こういう薄い場所にあんたがいるほうが厄介なんだよ。だから、東を見ろ。前に出るなとは言わない。そのかわり、中央から西は見るな。あんたが見るのは、東と北だけ。いいな?」
ベレトはすぐには答えなかった。
地図の東、その先の北を黙って見ている。納得していない顔だったが、ここで押し返してくるほど子どもでもない。
「……わかった」
短い返事だった。
それだけで済んだのに、胸のあたりが少しだけ重くなる。
俺は地図から手を離した。
「心配しなくていい、とは言わないさ」
つい、そんなことを言ってしまう。
軽く流すつもりだったのに、声は思ったより静かだった。
「けど、あんたにはあんたのやるべきことがある。俺の面倒を見てる余裕なんてないだろ」
ベレトがわずかに目を細める。
「君は、すぐそういう言い方をするな」
「一応、盟主なんでね」
肩をすくめてみせると、彼はそれ以上は何も言わなかった。ただ、その沈黙は納得からくるものではなさそうだった。
「くれぐれも、無茶だけはしないでほしい」
戒めというより、確認に近い。俺は思わず笑った。
「逆だろ。俺があんたに言うならわかるけどさ」
「逆じゃない」
間を置かず返ってきて、もう笑うしかなくなる。
「……善処するよ」
「善処では足りない」
「厳しいなあ」
そう言いながらも、嫌ではなかった。
むしろ、会戦の直前にそういう声を向けられることのほうが、俺の中に深く残った。
風が強くなる。その向こうで、帝国軍の気配がふくらんでゆく。
「じゃあ、行くか。戦場では頼んだぜ」
ベレトは答えなかった。東端へ向かうその背を一瞬だけ見送り、それから俺も前を向く。
もう、ごまかせない。
ごまかしたままでは進めなかった盤面へ、俺自身がいまから駒として足を踏み入れる。
まだ口にしていない言葉がある。それを俺は帝国にも、王国にも向ける、それはもうほとんど抜き身の刃だった。
アリルの熱気は、もうすぐそこまで来ていた。
夜が明けるより早く、兵は持ち場へ散った。
アリルの峡路は、朝のうちはまだひどく静かに見える。風だけが先に通り、乾いた土をさらって、崖の折れや細い坂の輪郭を白く浮かび上がらせていた。静かに見えるだけで、静かであるはずがない。見張りはもう何度も合図を返し、伝令の足は止まらず、兵の顔も、よく見れば硬い。
俺は飛竜の背から、それをひとつずつ確かめていった。
東は脆い。北へ抜ける線も細い。中央はどうせ血が濃くなる。
わかっていた。わかっていて、なお、ここへ来たのは俺だ。兵がない。将の厚みもない。それでも正面からぶつかれば押し潰されるだけの盤面を、ひっくり返せるのはここしかなかった。
ベレトの姿を、探すつもりはなかった。探したところで手もとが狂うだけだと、もう知っている。だから視線はあくまで盤の上をなぞる。東の岩陰、北へ抜ける細い坂、そのあたりに、あの翠が一瞬だけ見えた気がしたが、俺はそのまま目を逸らした。
合図の角笛が鳴る。
向こうから来る音は低く長い。峡路の奥で反響して、まるで大地そのものが唸ったみたいに聞こえた。兵が槍を構え、弓が上がり、飛竜が首をもたげる。俺は手綱を軽く引き、息をひとつ吐いた。
ここから先は、もう言葉のいるところじゃない。そう思ったのに、口は勝手に開いた。
「みんな、聞いてくれ!」
肺がじわりと熱を持つ。伝令がそれを拾って駆け、近くの兵が顔を上げ、そのざわめきが列の奥まで走ってゆく。
俺は兵たちに、帝国との盟約をここで断ち切り、王国にも与せず、レスターはレスターのために戦うのだと告げた。
皇帝にも王にも従わず、この戦で自分たちの行く末を奪い返すのだと、アリルの乾いた空気の下で言い切る。
兵のあいだから、息を呑む気配が立った。
「いまここにレスター諸侯同盟は、帝国と王国への宣戦を布告する!」
驚きと、戸惑いと、理解の遅れが、まずひとつの塊になって黒い岩の上を走る。無理もない。ここまで膝を折り、首輪をつけられ、どうにか息を繋いできたのだ。
だが、ひとたび言葉が外へ出てしまえば、首のあたりが楽になった気がした。
やがて、エーデルガルトの号令に呼応するように、帝国軍の熱気がうねった。
もう戻れない。戻れないから、いまさら惜しむものもない。
「撃て!」
俺の声に、最初の矢が上がる。
空気を裂く音が何十、何百と重なった。峡路へ黒い雨みたいに降りそそぎ、盾の上で鈍く跳ねる。すぐに向こうも応じた。矢が飛び、飛竜が上がり、狭い空がいっぺんに騒がしくなる。
開いた。
アリルの会戦が、ようやくその名にふさわしい顔を見せる。
帝国軍は、やはり数が多い。しかも押し込むのに慣れている。先頭を削っても、その後ろからすぐ次が出る。こちらはひとつ綻ぶたびに、べつのどこかを削って、縫わなければならない。最初からわかっていた苦しさが、そのまま目の前のかたちになった。
右が沈む。左を支える。上を見れば下が詰まり、下へ手を回せば騎馬兵と重騎兵が寄る。どこもかしこも、少し遅れれば崩れる。
しかし、もう足りないとは思わなかった。いや、思ってはならないのだ。
勝つためだけに、俺はいまここにいる。
帝国に牙を剥いたと知った瞬間、怯むどころか、かえって腹を括った顔をする者がいた。ずっと喉の奥で呑み込んでいたものが、ようやく外へ出たのだろう。そういう顔を見ると、ほんの少しだけ救われる。救われるが、だからといって戦況が楽になるわけではない。
中央へ重騎兵が押し寄せる。こちらの矢がそれを迎える。その下で歩兵が押される。押されたところへ、また別の列が食い込む。息をつく暇もない。
伝令が来る。中央の一角が削られた。北へ抜ける線が危うい。王国軍も動いているが、帝国軍が一歩早かった。またひとつ、王国軍の砦が落ちる。
どれも嫌な報せだ。嫌な報せのくせに、驚きはしない。こうなるとわかっていて、ここを選んだのだから。
視線を走らせた先、東寄りの崖の折れに、一瞬だけ翠が見えた。
やはり、あそこにいる。前に出るなとは言わなかった。言わなかったから、あの人は必要なだけ前へ出ている。東の薄いところへ入り、ひとつ斬り、列を繋ぎ、そのまま北へ抜ける線を保たせていた。中央は見るなという命令は守っているらしい。その従順さが、いまはかえって腹立たしかった。
だが、それでいい。それでよかったはずだ。
中央から西が、思ったより早く崩れはじめたのは、その少しあとだった。
向こうは正面から押すだけじゃない。ひとつ削って、そこへ別の圧を重ね、こちらが足を止めたところをさらに踏み込む。
兵の、個の力だけはどうしようもなかった。
だから、ひとつ崩れると、そのひとつを埋めるために別のどこかを削らなければならない。その繰り返しが、いよいよ追いつかなくなってくる。
「クロード様、西の前線がもちません!」
飛び込んできた声に返すより早く、下ではすでに列が斜めに歪んでいた。兵が下がりたいのに下がれず、詰まっている。アリルという地形が、ここに来て俺たちに牙を剥く。
あのまま押し切られれば、そこから一気に食い破られる。食い破られれば、全体の呼吸が乱れる。
俺が手を打つしかない。
「俺が出る! そのあいだに兵を下げろ!」
俺は手綱を握り締める。伝令が走る。兵がざわめく。
ほんとうなら、ここで動くべきじゃない。盟主が前へ出るには早い。それでも、目の前で押し潰される兵の列を見て、座っていられるほど冷酷にはなれない。
無茶をするなと言われたことを思い出す。それでも、立ち止まる理由にはならなかった。
とにかく時間を稼ぐ。あわよくば、戦力を削ぐ。それだけだ。だから。
俺は飛竜を駆って、前へ出る。
帝国の重騎兵が列をなす、その少し奥。土煙の向こうで、見覚えのある双剣が閃いた。
ああ、と、胸の内でひとつ息をつく。
結局また、あいつか。
シェズが、こちらを見た。
その瞬間にわかる。あれはただ前線で斬っている顔じゃない。同盟の将を討ちに来た目だ。
兵を退かせるために前へ出た俺と、将を討ち取るために前へ出てきたあいつ。盤の上で、最悪のところで噛み合った。
飛竜の手綱を握り直す。乾いた土のにおいの中で、血の気だけが少し静かに引いてゆくのがわかった。
ここから先は、また泥臭くなる。そして、最悪だ。
シェズは迷わなかった。
こちらが西の崩れを繕うために兵へ声を飛ばしている、そのわずかな隙へ、双剣のきらめきだけをまっすぐ差しこんでくる。
速い、と思うより先に、飛竜の首を返した。まずは距離だ。こいつとまともにやり合うのは本意じゃない。ここにいるのは斬り合うためじゃなく、兵を下げるためだ。
弓を引く。
最初の一矢は、シェズそのものじゃなく、その足もとの帝国兵へ落とした。前へ詰める流れを一度だけ乱し、その隙に同盟兵を割って退かせる。つづけて二の矢、三の矢。狙うのは急所より、足を止めるためのところだ。盾の縁、槍の握り、飛竜の影へ踏みこもうとする兵の肩口。射抜くというより、押し返すための矢だった。
「下がれ! 列を切るな、ふたつに割って退け!」
怒鳴りながら、さらに弦を鳴らす。兵の頭上を飛び越えた矢が、押しこんでくる先頭へ細く食いこむ。ひとり倒せればそれでいいわけじゃない。一歩でも相手の足が鈍れば、そのあいだにこちらの兵を抜けさせられる。
そのための距離だった。
そのための弓だった。
だが、シェズはそこをまっすぐ裂いてくる。
矢筋を見て避けているというより、最初からそこへ矢が来ると決めて身体をずらしているみたいだった。飛竜の影へ入り、兵のあいだを蹴って、死角だけを拾うように詰めてくる。ひとつ牽制を入れても止まらない。止まらないどころか、そのぶんだけこちらの手数を削りに来る。
舌打ちが喉まで出かかった。
もう一矢。今度はシェズの肩を狙う。浅くてもいい、触れれば止まる。そう思って放った矢は、双剣の片方で弾かれた。金属音が乾いた空気を裂く。
厄介だ。
西の列がようやく割れはじめていた。兵がひと塊で押し潰される前に、どうにか退路だけは作れている。あと少し、あと少しだけここをもたせればいい。そう思うのに、シェズが近い。近いせいで、弓を引く間そのものが削られてゆく。
飛竜を駆って間を取り直そうとした、そのときだった。
双剣のひと振りが鞍の脇をかすめ、革と金具が耳のすぐ近くで軋んだ。あと少し遅ければ、飛竜ごと斬られていた。
まずい。
弓の弦を張るには、もう距離が足りない。足りないくせに、西はまだ下がりきっていない。ここで空へ逃げれば、退きかけた兵の頭からまた踏み潰される。
しぶしぶ、というのがおそらくいちばん近かった。
腰の剣へ手をかける。抜きたくはなかった。ここまで弓でもたせるつもりだったし、もたせなければならないと思っていた。だが、もう文句も言っていられない。これ以上詰められれば、兵を退かせるどころか、俺が落とされる。
剣を抜いた。
金属の重みが手に馴染むより先に、シェズがまた来る。受けるしかない。双剣と剣がぶつかり、腕の奥まで痺れが走った。弓で距離を測っていたときとは、息の詰まり方がまるで違う。近い。速い。嫌な間合いだった。
それでも、ここで退くわけにはいかない。
西の列が、まだ見える。盾を引きずる者、傷口を押さえたままよろめく者、仲間の肩を抱いて下がる者。あれを見てしまえば、あと一手ぶんぐらいはどうにかなると思いたくなる。
ほんとうなら、思わないほうがいいのに。
飛竜を反転させ、今度はこちらから間合いを詰めた。上から一気に押し切る。そう決めて剣を振り下ろす。シェズはそれを横へ流し、土を蹴って斜め下から潜りこむみたいに跳ねた。読み切ったつもりの剣筋が、最後のひとつでずれる。
舌打ちが喉まで出かかった。
だが、そのずれを拾う暇すらない。双剣の片方が籠手を擦り、もう片方が鞍の縁へ食いこんだ。飛竜が大きく身をよじる。その揺れに合わせて、自分の呼吸まで乱れるのがわかった。
まずい。
そう思うのに、まだここを譲るわけにはいかなかった。
「お前は、ほんとうにたちが悪いな」
吐き出すみたいに言うと、シェズが息を弾ませたまま笑った。
「褒め言葉か?」
「好きに受け取れ」
言いながら、剣を返す。まともに打ち合って押し切れる相手じゃない。ならば、ほんの一拍だけ遅らせ、食いついてきたところを断つしかない。
そう思って選んだ手は、間違ってはいなかった。
ただ、身体がその半歩に追いつかなかった。
シェズの刃が肩口をかすめ、浅く、だが長く裂く。血が吹くほどではない。けれど、ああいう傷は、すぐに熱を持って腕の動きを鈍らせる。わかっていた。わかっていたのに、避けきれない自分に、腹が立つ。
飛竜が高く嘶いた。
その声にまぎれて、どこか遠くで、また角笛が鳴る。王国側か、帝国側か、その区別を考える余裕はなかった。盤面はもう、最初に描いたよりずっと汚れている。それでも、まだ壊れてはいない。そのぎりぎりのところへ、自分の身体ごと釘を打ちこんでいるような気分だった。
シェズがもう一度来る。
今度はまっすぐだった。さっきまでみたいな探る速さじゃない。討ち取れると踏んで、仕留めに来る速さだ。こちらの鈍りを見たのだろう。そういうところまで、こいつは嫌によく見ている。
剣を上げる。受ける。だが、受けきれない。金属の鳴る音が近すぎて、耳の奥が痛む。もう一撃。さらにもう一撃。双剣が細かく角度を変えて迫り、こちらの守りを一枚ずつ剥がしてゆく。
押されている。
いや、削られている。
たぶん、これがいちばん正しい。いきなり叩き折られるのではなく、まだ動けると思っているうちに、少しずつ、確実に、俺のほうが削られている。
そのときだった。
視界の端で、何かが走った。
翠だ、と、先に思った。
東のほうから、まっすぐこちらへ向かってくる。
ベレトだ。
来るな、とも思う。来るな、見なくていい、中央から西は見るなと命じたのは俺だ。
なのに、来てしまったのだとわかった瞬間、視界の端だけが、ひどく鮮やかになった。
まず、シェズがいるからだと思った。あいつを追ってきたのだろう、と。そのほうが、まだ理屈としてはきれいだ。
次の瞬間に見えた顔が、その言い訳を少しだけ鈍らせた。
遠い。まだ遠い。
それでも、あの目がひどく切羽詰まっていることだけはわかった。
もしかすると。
そこまで考えたところで、双剣のひとつが剣の腹を滑り、手首まで痺れが抜けた。危ない。どうにか鞍の上へ踏みとどまる。ベレトのほうを見る余裕はもうない。ないのに、一度目が合ってしまった気がした。
その一瞬だけで、力が戻ってくる。
なんだ、まだやれるじゃないか、と本能のほうが先に言う。
そんなはずはない。
息はもう浅いし、肩口も腕も熱を持っている。飛竜の動きだってさっきより鈍い。それでも、あの翠を見た瞬間だけ、もう一手ぐらいなら届くような気がした。
勝手で、あまりにも都合がよすぎる。
それでも、剣を握り直した。
「まだだ」
誰に聞かせるでもなく、低くこぼす。
シェズが目を細めた。
「しぶといな」
「簡単に首が獲れると思われちゃ、困るんだよ」
笑ったつもりだったが、声は思ったより掠れていた。
最後の力を絞るようにして前へ出る。今度は俺からだ。受けるだけでは削られる。ならば、一度でもあいつの足を止めなければならない。
剣を横へ流し、双剣のあいだへ無理やり刃を差しこむ。シェズが舌打ちして退く。その一歩をさらに詰める。食いつけ。ここで切る。そう思った。
だが、踏み込みが浅い。
浅いと悟った瞬間には、もう遅い。シェズの腰が沈む。低くなった視線の下から、刃が逆に跳ね上がった。避けきれない。飛竜を庇えば自分が空く。自分を庇えば飛竜が崩れる。どちらかひとつしか残らない場面で、俺は昔から同じほうを選ぶ。
がら空きになった首へと向かう刃を弾こうと、身を投げ出すように乗り出した。
ふたつの刃の片方はどうにか逸らしたが、もう踏ん張りがきかない。足が宙を掻く。景色がぐるりと裏返り、そのまま土埃のなかへ落ちた。
息をつく間もなく立ち上がる。
地に落ちた隙を見逃すほど、あいつは甘くない。
上から降ってくる刃を受け止める。重い。上にいたときとは違い、刃の重さがじかに腕や足腰へとのしかかってくる。
刃を滑らせていなしても、次が来る。右、左、斜め下。打ち返す隙などまったくなかった。
下がるしかなかった。一歩、また一歩と土を擦って退く。
背後に切り立った岩が迫る。これ以上下がれば背中をぶつける。頭では理解しているのに、踏ん張る力が残っていない。
シェズが大きく踏み込んでくる。
刃が重なるように迫る。防ぎきれない。岩に打ちつけられるのを覚悟して、背中をこわばらせた。
だが、ぶつからなかった。
代わりに背中を受け止めたのは、かすかに脈打つ温かな何かだった。
飛竜が、俺の真後ろへ降り立っていた。岩と俺のあいだに身をねじこみ、ぶ厚い肉で勢いを吸い込んで、崩れかけた背中を支えてくれる。
すぐ耳の後ろで、馴染んだ鳴き声がした。
その声に背中を押されるようにして剣を跳ね上げたが、やはり遅かった。
衝撃が来た。深い。さっきまでの浅い傷とは、比べものにならない。
息が、止まる。視界が揺れた。
何を斬られたのか、一瞬わからない。ただ、熱いというより、冷たい。身体の芯にあるものをまとめて持ってゆかれたみたいに、急に手足の先が遠くなる。
それでも崩れ落ちなかったのは、相棒がどうにか踏みとどまってくれたからだろう。背中を支えられたまま、俺はまだ地に膝をつかずにいた。
シェズが、わずかに息を呑む。
仕留めたと思ったのか、それとも、まだやるのかと思ったのか。そこまでは読めない。
もう一度、身体を起こそうとした。
剣を振り上げようとした。
だが、腕が言うことをきかない。
だめだ、と、遅れてわかる。もたない。
そのとき、今度ははっきり声がした。
俺の名ではない。短く、鋭く、ただ刃のように飛んでくる。
また、ベレトだ。
土を蹴る音が近い。速い。
けれど、間に合わないことも、同時にわかってしまう。
シェズが振り向く。
その一瞬、こちらへの圧がゆるむ。
いまなら逃げられるか、と、一瞬だけ考えた。考えて、すぐに消える。もうそんな綺麗な退き方ができる身体ではないし、できたところで、この盤の上へ何を残すのかも、よくわからなかった。
ベレトの顔が、ようやく見える。
近くなって、はじめて、その目が思った以上に切迫していたことを知る。
やっぱり、ここへ来た理由はシェズだけじゃないのかもしれない。
そう思ったのは、ほんの一瞬だった。
見られたくなかったものは、もうずいぶん見せてしまった。みじめなところも、取り繕っていたところも、とうに隠しきれていない。それでも、最後に見たかったものまで見られてしまったのだから、まったく勝手な話だ。
うれしい、のだと思う。
そんなことに、いまさら気づくのもどうかしている。
けれど、そのうれしさより先に刺さるものがある。
そんな顔で、ここまで走って来させてしまった。それだけは、少し、申し訳なかった。
喉の奥で、何かがほどける。
答えはもう、ほとんどそこまで来ていた。見られたくなかったものも、見たかったものも、うれしさも、申し訳なさも、全部同じところへ落ちてゆく。その名を、たぶん俺はもう知っている。
知っているはずなのに、そこへ手が届くより早く、音が遠のいた。
ベレトが何か叫んでいる。
シェズの刃がどう動いたのかも、もうよく見えない。
ああ、と、思う。最後なんだから、そんな顔するなよ。
そう言えたのか、思っただけだったのか、それすらもうわからなかった。
次の瞬間には、光も、音も、何もかもが静かに薄れていった。