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それは小さな光のような(レトクロ)

全体公開 レトクロ 8271文字
2026-05-12 18:34:18

本編軸(翠風)で、5年後のふたりで5篇。最後だけED後の話になります。付き合ってないけど距離が近いふたり。

Posted by @Bombwooo

1.

 弓を教えてほしい、と先生が突然言い出した。
 使える手は多いほうがいい。理由はそれだけだった。
 剣ひとつでたいていのことを片づけられる人が言うと、少しばかり嫌味にも聞こえたが、本人にそんなつもりがないことぐらいはわかっている。
「教えるのは構わないが、相手があんただからって手加減しないぞ」
「それでいい」
「途中で嫌になっても知らないからな」
「頼んだのは自分だ」
 そうまで言われてしまえば、こちらもうなずかないわけにはいかなかった。

 さっそく訓練場に向かう。はじめに立つ位置を決めさせ、足の置き方を直した。先生は覚えが悪いわけではない。言われたことを理解するのも早い。ただ、どうしても剣を持つときの癖が残る。
「腰を落とすな」
「落としたほうが安定する」
「剣ならな。いまあんたが構えてるのは何だ?」
 先生は言われた通り腰を戻した。戻したが、弦を引こうとした瞬間、今度は肩に力が入った。
「肩が上がってる」
「上げているつもりはない」
「上がってる。腕だけで引こうとするな」
「腕ではないのか」
「腕だけじゃない。胸を開いて、的を見る」
 そう言うと、彼はまっすぐ的を見た。が、すぐに視線が矢の先へ落ちる。
「下向いてるぞ」
「的を見ている」
「矢を見てる。的はその先だ」
 口では伝わらないところは、手で直すしかなかった。腰の高さを戻し、肩に入った力を抜かせ、肘の位置を示す。彼の背中が丸まりかけたところで止め、胸を開かせる。
「もう一度。引いたら十数える」
「数えればいいのか」
「数えるのは俺がやる。あんたは姿勢を保つことだけに意識を向けろ」
「わかった」
 弦を引いたまま、先生は的を見た。三つ数えるころには肩が上がり、五つで息が詰まり、七つで腰がわずかに沈む。
「やり直し」
「どこがいけなかった」
「肩が上がった。途中で目線も落ちた。踏み込もうとするな。あと、腰を落とすな。胸は開いたまま、的から目を逸らすな」
 最初のうち、先生はそれなりに言い返してきた。落としたほうが安定する、腕に力を入れなければ保てない。どれも彼の身体の使い方としては筋が通っているのだろうが、弓では邪魔になる。

 それでも何度か繰り返すうちに、彼の口数が減った。
 こちらが腰に手を添えて位置を戻し、肩を押さえ、肘の高さを示しても、先生は黙っている。言われたことをそのまま身体に入れようとしているのは見ればわかった。それでも、さっきまで当然のように返ってきていた声が途切れると、こちらが触れていることばかりが気になった。
 触りすぎたかもしれない、と思った。
 指導のつもりだった。というか、実際、そうしなければ直らないのだ。彼の身体は薄く見えるくせに、半端に押さえたくらいではびくともしない。だからきちんとそばへ寄って、腰の高さも肩の線も確かめる必要があった。
 それでも、一度気にするとだめだった。

 俺は、少し離れて見ることにした。
 声だけで直せるなら、そのほうがいい。構えを見て、悪いところだけを短く指摘する。
「肩」
「直す」
「下向いてるぞ」
「的を見る」
「息、詰めてるぞ」
「吐く」
 先生は言われた通りに直そうとする。けれど、自分の身体がどう傾いているのか、どこに余計な力が入っているのか、彼自身からは見えない。口で言えばわかるというものでもなく、触って直せばまた俺が気にしてしまう。
……一度見たほうがわかりやすいか」
 首をかしげる先生の手から、訓練用の弓を借りる。
「俺が手本を見せる。ちゃんと見とけよ」
 まず、立つ位置を決める。
 いつもなら、ここまで丁寧にはやらない。数を撃つために削った動きが、もう身体に癖として残っていた。
 戦場で一射ごとにかたちを確かめていたら、きりがない。矢をつがえ、弦を引き、射る。必要なところだけを残して、あとは身体に任せていた。
 だが、先生に見せるならそうはいかない。どこをどう使うのかがはっきり見えるように、いつもより丁寧に構える。
 足を開く幅を確かめる。腰を落とさない。肩を上げない。胸を開いて、的だけを見る。
 丁寧にやると、案外疲れる。弓を覚えたてのころは、こんなふうに一射ごとに身体を止めていたのを思い出した。
 そのまま引いて、保って、射る。
 矢は、的のど真ん中に刺さった。
「きれいだった」
……俺が言いたいこと、ちゃんと伝わったよな?」
 素直に褒められて悪い気はしないが、思わず苦笑してしまう。
 先生はそれ以上何も言わなかった。ただ、もう一度弓を受け取ると、さっきより少しばかり慎重に足を置いた。
 そこからはもっと口数が減った。こちらが言う前に目線を戻し、肩が上がりかけると自分で直す。返事も短い。素直すぎるぐらいだった。
 だが、次に弦を引いたところで、彼の身体が固まった。弦は引けているのに、鏃がかすかに揺れ、肩だけが弦に引かれるように前へ出る。
「待て」
 結局、俺はまたそばへ寄るしかなかった。腰を支え、背中を起こさせ、肩の余計な力を抜かせる。
「力を抜く場所を間違えるな。肩を下げる。胸を開いて、的を見る」
 先生は黙ってうなずいた。
 気まずくなったわけでも、不満を飲んだわけでもない。ただ本気で覚えようとしているだけなのだと、そこまで来ればさすがにわかる。頼んだのは自分だと言ったから、その通りにしている。
 けれど、わかったところで、こちらの気まずさが消えるわけではない。
「このまま十数えるぞ」
「わかった」
 短い返事を聞きながら、俺はまだ添えた手を離せずにいた。


2.

 修道院近くの街道を、帝国の偵察兵がうろついているのが見えた。
 数は多くない。追い払うだけなら難しくないはずだったし、クロードも同じように考えたのだと思う。こちらが距離を詰めるより早く、彼の矢が先頭の兵の足もとを射抜き、相手の動きが一瞬止まった。
 それで済むはずだった。
 けれど、道端に横倒しになっていた荷車の陰に、もうひとり伏せていた。気づくのが、一拍遅れた。刃が届く前にクロードが射落としたものの、その一瞬で彼の肩口が浅く裂かれた。
 深手ではない。だが、服は裂け、血も滲んでいる。
 ひとまず修道院へと戻る。医務室へ向かうよりも、自分の部屋のほうが近いと判断し、平気だと言って聞かない彼の腕を掴んで椅子に座らせる。
 傷は深くなかった。だが、手当をしなくてよいほど浅くもなかった。
 布を切り、血を拭い、薬を塗るあいだ、彼はいつもの調子で軽口を叩こうとする。途中で一度、包帯を巻く手がずれたので、じっとしていてくれ、と言った。
「してるだろ」
「していない」
「厳しいな」
 厳しくもなる。服ごと裂けた肩口は見た目ほどひどくなかったが、血を吸ったシャツも、その上に羽織っていたものも、もうまともに着られる状態ではない。
 手当を終えてから、破れた布を見下ろした。本人は気にしないだろう。けれど、このまま外へ出すのはよくない。
 自分は衣装箱からシャツを一枚取った。
「これを着てくれ」
「いいのか?」
「そのままでは出歩けないだろう」
「俺はべつに困らないけどな」
「そういう話ではない」
 クロードは一度こちらを見たのち、可笑しそうに口元をゆるめた。それから、シャツを受け取って肩に羽織る。袖を通すと、すぐに布の張り具合を確かめるように腕を動かした。
「肩がきついな」
「すまない」
「でもまあ、これはこれで悪くない」
 クロードは羽織ったシャツをしばらく眺めていた。見慣れないものを見ているような顔だった。彼のものではない布が肩にかかっていることを、確かめるように指先で軽くつまむ。
 何がそんなにもうれしいのか、自分にはわからなかった。クロードが、自分のシャツを着ているだけだ。しかも、体に合っているわけでもない。けれど、彼が気分よさそうに笑うので、こちらまで何かをもらったような気がした。
「これ、皆に見せて回ってこようかな」
「やめなさい」
 考えるより先に言葉が出ていた。止める理由は、すぐには思いつかなかった。
 誰かに見られて困るものではない。彼が自分の服を着ているからといって、何かを知られるわけでもない。それでも、少しきつそうな肩や、シャツを羽織ったまま笑っている顔を、ほかの誰かに見せるのは惜しいと思った。
 クロードはその返事で何かを察したのか、ますます楽しそうに目を細めた。
「じゃあ、誰にも見せない。そのかわり、これ着たまま泥の中で転がってきてもいいか」
……やめなさい」
 それは困る。泥の中を転がる意味もわからない。
 クロードは返事をしなかった。聞いていないのか、そもそも聞く気がないのか、まだ楽しそうに自分の肩を見ていた。


3.

 その夜は、どうしても確かめたい記録があった。
 明日に回そうとは思ったものの、一度気になったものをそのまま置いておけなかった。部屋を出ようとして、前髪をおろしたままだったことに気づく。
 だが、見た目を整えるほどの用でもない。誰かに会うつもりもない。多少だらしなかろうと、見られて困るのは、せいぜいローレンツとリシテアぐらいのものだ。
 そう開き直って、俺は燭台を片手に部屋を出た。

 書庫へ向かう廊下の角で、見回り中の先生と鉢合わせた。
 先生は足を止めた。
 こちらも止まった。
 彼は、俺の顔を見ている。見ているのに、何も言わない。剣を抜くほどではないが、知らない相手を前にしたときのような間があった。
 こりゃ、わかってないな、と思った。
「先生、俺だよ」
 そう言うと、ようやく彼の目が瞬いた。
……クロードか」
「他に誰に見えたんだよ」
「わからなかった」
 ずいぶん正直に言う。
 そこでようやく、前髪をおろしたまま人前に出たことがほとんどなかったのを思い出した。
 べつに、隠していたつもりはない。額を出しているほうが邪魔にならないし、そのほうが自分の顔にも合っている。だから、人前に出るときはだいたいそうしていた。前髪をおろすのは、寝る前か、朝整える前か、せいぜい部屋で気を抜いているときくらいのもので、誰かに見せるための姿ではなかった。
 可笑しくなって、笑ってしまった。そんなに違うものなのかと思いながら、ふと、彼の額に落ちた前髪が目に入った。立ち止まった拍子に乱れたのか、いつもより目もとへかかっている。
 俺は手を伸ばして、先生の前髪をそっと上げた。
 彼は避けなかった。黙ったまま、されるがままになっている。額が出ると、顔のつくりがいつもよりはっきり見えた。きれいな顔をしているな、と感心する。
 けれど、しばらく眺めているうちに、やっぱり、とも思う。
「こっちのほうがしっくり来るな」
 手を離すと、前髪がもとの位置へ落ちた。乱れたところを、指で整えてやる。先生はまだ黙っていた。

 ふいに、彼が同じように手を伸ばした。
 今度はこちらの前髪に触れられる。おろした髪を持ち上げられて、額を出される。まっすぐ見つめられて、俺のほうが先に居心地が悪くなった。
……なんだよ」
 先生は答えなかった。
 ただ、俺がしたのと同じように、持ち上げた髪を離した。落ちた髪が視界の端で乱れる。それを指先ですいて、もとの流れに戻してゆく。
 それから彼は、何かに納得したようにひとつうなずいた。
 何も言わず、俺の横を通り過ぎてゆく。見回りの続きへ戻る背中を、呼び止める間もなかった。


4.

 クロードの声を忘れていたわけではない。
 毎日のように聞いていた。講義でも、戦場でも、食堂でも、彼はよく話していて、頼んでもいないのに隣から話しかけてくることもあった。こちらが返事をしなくても、勝手に続きを喋っていた。
 それなのに、五年ぶりに近くで聞く彼の声は、記憶の中のものとは違っていた。

「先生、聞いてるか?」
 そう言われて、返事が遅れた。
……聞いている」
「ほんとか?」
「ほんとうだ」
 クロードは疑うようにこちらを見た。疑われても仕方がない。彼は何かを話していたし、自分も聞いていたはずだった。けれど、途中から話の中身よりも、声のほうが耳に残っていた。
 人前で話すときのクロードの声は、もっとからっとしている。軽くて、聞きやすくて、湿り気を残さない。五年前もそうだった。だからこそ、彼が何を考えているのか、声だけではよくわからないことも多かった。
 けれど、いまは違う。
 気を抜いたとき、声が低く落ちる。言葉と言葉のあいだに息が混じる。からかっているのか、ただ普通に話しているのか、よくわからないところで耳に引っかかる。
「五年前も、そうだっただろうか」
「何が?」
「君の声が」
「声? あんた、そんなに熱心に俺の声を聞いてたのか?」
「熱心に聞いていたわけではない」
「じゃあ、なんだよ」
「耳に入ってきた。こちらが返事をしなくても、君はよく話していたから」
「俺が勝手にひとりで喋ってたみたいに言うな」
「違うのか」
 クロードは少し黙ったあと、呆れたように笑った。
「で、その俺の声がどうしたって?」
「落ち着かない」
「落ち着かない?」
「聞いていると、むずむずする」
 口にしてから、変な言い方だったかもしれないと思った。けれど、ほかに合う言葉もなかった。嫌な感じではない。聞き苦しいわけでもない。ただ、後を引くものがある。
「むずむず、ねえ」
 クロードはしばらくこちらを見ていたが、やがて口元だけで笑った。
「だから慣れるまでは、自分から離れて話してほしい」
 そう言い終えるより早く、肩を引き寄せられた。距離が詰まる。逃げる前に、彼の声が耳の近くへ落ちてくる。
「わかった、先生」
 低い声だった。耳の奥をくすぐられたようで、肩のあたりまで勝手に力が入る。さっきよりもはっきり、落ち着かないものが首筋に残った。
 反射で、クロードの腕を叩いた。一度では足りず、二度、三度と叩く。
「離れて話してほしいと言った」
「わかったって言っただろ」
「わかっていない」
「わかったうえでやった。俺が勝手に喋ってたみたいに言った罰だよ」
 クロードはとうとうこらえきれないように大笑いした。
 自分はもう一度、彼の腕を叩いた。今度はもっと力をこめた。


5.

 フォドラに残る者と、フォドラを離れる者の話をするには、まだ少し早いかもしれない。
 それでも、戦は終わった。終わってしまえば、次に来るものはわかっている。誰が王のそばに立ち、どの名がどの書類に残り、新しい王国がどう動くのか。そういう話ばかりが、こちらの都合など待たずに積み上がってゆく。
 ベレトも、いずれその中心に立つことになる。
 王冠というものは、似合う似合わないで頭に載るものではないらしい。もっとも、彼の場合、似合わないということもなかったから、なお悪い。
「後に名を残すなら」
 ふいに、ベレトが言った。
「自分は、女として描かれたい」
 俺は書類から顔を上げた。
「どうしてまた」
 ベレトは、当たり前のことのように続ける。
「パルミラ王と結婚するから」
……おお」
「子どもは五人ぐらい」
「すごいな。急ににぎやかになった」
「しあわせな家庭を築く」
「ほう、家庭ね」
「政治もうまくやる」
「そこは外さないんだな」
「フォドラとパルミラは、生涯友好関係を築く」
「大事だな」
「交易も安定させる」
「政策案になってきたぞ」
「後世の人間は、自分たちの婚姻によって、両国の関係が安定したと書く」
「後世まで巻き込むのか」
「そして、君の名の隣に、自分の名が残る」
 そこまで言われて、俺はようやく笑うだけでは受け流せなくなった。
 後に名を残す話だったはずが、いつのまにか俺との結婚が前提になっている。
 冗談にしては話が大きすぎる。かといって、本気で言っていないわけでもない。
 ベレトはいつも、妙なところでまっすぐだ。筋道がおかしいようで、彼の中ではきちんと一本につながっている。
……そう来るか」
「だめだろうか」
「だめっつーか、変な外堀の埋め方をするな」
「そうでもしないと、君は結婚してくれないだろう」
 ベレトは、わずかに眉を寄せた。怒っているというほどではないが、こちらが肝心なところをわかっていないとでも言いたげだった。
「そんな顔をされてもな」
「何がだ」
「俺は一度も、あんたに結婚してくれなんて言われた覚えはないぜ」
 ベレトは黙った。
 そこを突かれると弱いのだろう。遠回しな言い方は、これまでにもいくらかあった。こちらを見ている目も、期待するような沈黙も、冗談に紛れたような言葉も、俺がまったく気づいていなかったわけではない。けれど、言われていないものは、言われていない。
「言えば、考えてくれるのか」
「さあな。絶対はないが」
「どう言えば考えてくれる」
「どう、って。いまはそんなすぐ考えられないぞ」
「待つ」
「何年先になるかわからないのに?」
「待つ。十年でも、二十年でも」
 あまりにも迷いがなかった。
 こちらのほうが一瞬遅れた。冗談の続きで流せるはずだった話が、そこでべつのかたちを持ってしまう。ベレトはきっと、求婚のつもりで言っていない。ただ、考えてくれるなら待つ、と言っている。十年でも、二十年でも。
……あんた、たまにとんでもないことを、なんでもない顔で言うよな」
「自分は、とんでもないことを言っているだろうか」
「言ってるさ。……そもそも、さっきの話をぜんぶかたちにしようとしたら何年かかるんだよ。しかも無理なものまで混ざってるし」
 パルミラ王との結婚。五人の子ども。しあわせな家庭。政治。フォドラとパルミラの友好関係。後世の記録に書かれる婚姻。並べてみれば、冗談として流すにはずいぶん手が込んでいるし、現実にするには無茶が多い。
 そう言うと、ベレトは口を閉ざした。言い返せなくなったのではなく、ほんとうに考えはじめたらしい。
……まず、自分は子どもを産めない」
「そこから整理するのか」
「だから、子どもはなしにする」
「なしにするんだな」
「家庭は築ける。……君と」
……結婚する前提で話を進めるな」
「アガルタの残党は殲滅する」
「それは実現が早そうだな」
「パルミラと和平も結ぶ」
 言いながら、彼はひとつずつ余分なものを外しているようだった。
 諦めたわけではなさそうだった。むしろ、俺が逃げられる言葉を減らしている。女として描かれること。子どもを持つこと。後世の人間に、婚姻によって両国が安定したと書かれること。そういうものを順に並べて、必要なものと、いまは外していいものを分けている。
 けれど、その中にベレト自身まで混ぜてほしくはなかった。俺の名の隣に残りたいのだとしても、そのためにべつのものとして描かれる必要はない。知らない誰かに都合よく書き換えられた名ではなく、いま目の前にいる彼のまま残ってほしかった。
「でも、俺は、」
 そこまで言ってから、言葉を選び直した。
……あんたがあんたとして残るほうが、俺は嬉しいよ」
 ベレトは瞬きを繰り返したのち、また考えはじめた。女として描かれること。パルミラ王と結婚すること。子どもを持つこと。しあわせな家庭を築くこと。彼はそれらをもう一度並べ直して、どこまで削れば俺が逃げられなくなるのかを探しているようだった。
「では、さっきの話はなしにする」
「それがいい」
 ようやく諦めたか、と少しだけ気を抜いた。
 その判断が甘かったと気づくまでに、そう時間はかからなかった。
 ベレトは当然のようにこちらへ寄りかかってくる。肩に重さが乗る。重いというほどではない。けれど、退く気のない近さだった。
「アガルタの残党を殲滅して、パルミラと和平を結ぶ。そうしたら、君に結婚を申し込む」
……話、聞いてたか?」
 返事はなかった。後に名を残す話だったはずなのに、残ったのは俺の逃げ道を塞ぐ手順ばかりだった。
 伏せられたまつ毛の影が、すぐそばの頬に落ちている。俺はその横顔を見下ろしたまま、続きを言いそびれた。


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