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上手にごめんね言えるかな

全体公開 2 86 11403文字
2026-05-15 21:01:59

喧嘩の多い甚直がセフレから恋人になって初めて喧嘩したら、なんだか様子がおかしい話

※平和な世界の付き合っている甚直
※直哉が論外の男でクソガキ気質
※恵が直哉とまあまあ仲がいい
※エロくはないが下ネタがある

 アレ? と思った。

 いつもの喧嘩、のつもりだった。少なくとも直哉にとっては。
 甚爾と直哉はよく喧嘩する。同じ家に生まれながら育った環境があまりにも違った二人は、価値観の違いと片付けるには足りないくらい思考も言動も相違点が多く、そのために意見の衝突が多い。
 甚爾が家を出て行き何やかんやあって再会してからというもの、当初は憧れの対象として遠慮がちに接していた直哉も、いつしか元来の我の強さが現れて甚爾相手でも容赦なく噛み付くようになった。そうなれば当然甚爾も黙ってはおらず、口が出て手が出て足が出ての乱闘に発展する。そうしていつのまにか仲直りする。その一連の流れは二人に体の関係が生まれてから、そしていつしかそこに恋人という名がついてからもずっと変わらない――ハズだった。

 ――なんでそないなカオするん?

 いつもなら、直哉があれこれと喧しく口論を仕掛ければ、甚爾はしだいに言い返すのが面倒くさくなって得意の暴力を使うようになり、直哉も応戦しもつれ合っているうちにセックスが始まり、甚爾の手管にグタグタにされた直哉が折れるかひと晩立って忘れるかして終わる。それが普段のパターンである。
 それなのに今、直哉が暴言を吐いた途端、甚爾は片目の下をクッと持ち上げて何かを耐えるような顔をしたあと、日頃なら繰り出してくる拳を抑え込んだ。つまり反撃してこなかった。だから直哉が吐いた暴言は一方的に甚爾にぶち当たり、甚爾をざっくりと斬りつけて終わってしまった。

 ――なんでナンもやり返してこないん。なんでそないにキズついたみたいな顔するん。こんなん――こんなん、俺がワルイみたいやんか。

 恋人になってから、初めての喧嘩だった。原因はもはや覚えていない。でも直哉だけが悪いなんてことはなかった。それだけはハッキリと言える。ゆえに直哉は普段通りライン越えの発言をズバズバとした。甚爾が当然それに殴り返してくるものだと思って。
 けれどそんなふうにされてしまっては、直哉が一方的に酷い言葉を吐いたみたいではないか。
 みたいというか、事実だが。

……チッ」
「え? っあ、ちょ、甚爾くん。まだハナシは終わってへんやろ!」

 ――バタン。
 ――ええ? うそお……

 舌打ちをして部屋を出て行ってしまった甚爾を見送って、直哉はポカンと口を開けた。
 ――え? コレ、俺がワルイ? ホンマに? 俺がワルイみたいになってる? なんで? なんで甚爾くん出て行ったん? えっ? ……
 直哉は困惑した。どうすればいいかわからなかった。だっていつもなら、いつもなら……

 ――コレ、どないすればええの?

 つまるところ、恋人になる前の二人はいつも殴り合って抱いて抱かれて、どちらが悪いとか何が原因だったとかすべて有耶無耶にする喧嘩しかして来なかったのだ。
 本来であれば喧嘩の終わりには「謝る」というフェーズが存在する。小学生ならば誰もが通る「ごめんね」「いいよ」である。
 しかし甚爾と直哉はどちらも小学校に通わなかった。おまけに直哉は生まれた頃から坊ちゃんで、相伝を継いだ次期当主候補としてヤレ天才だ特別だと持て囃され、着物を着るにも靴を履くにも誰かの手で世話をされた筋金入りだ。兄を見下し父に可愛がられ、弱者をイジメようがワガママを言おうが強者だから何でも許され、口にする謝罪は「ごめんちゃい♡」とか「スマンなあ。思ってへんけど」などその程度。

 即ち、直哉に「心から謝る」というコマンドは存在しない。
 甚爾が直哉の暴言を殴り返してくれなかったとき、暴力と快楽で有耶無耶にしてこなかったとき、直哉自身がどのような態度を取ればいいのかわからない。
 常に機嫌を伺われる側だったから、喧嘩の途中で黙って出て行ってしまった恋人の引き止め方も、知らない。

 ……由々しき事態だった。


 焼肉屋の一角で項垂れる直哉を、恵は冷めた目で見下ろした。

「そんなん謝ればいいじゃないですか。フツウに」
……。フツウに……!?」

 はあ、とため息をついて、恵は焼けた肉を裏返す。あからさまに「ナニ言ってんのかなこの人」という顔をしていた。

「ごめんなさい、俺が悪かったです、許してください。コレでいいじゃないですか。言えるでしょ、大人なんだから」
……………………

 直哉は頭をかかえて俯いている。着物の袖が肉につきそうだ。恵はそっと皿を避難させると、焼けた肉を端から白米とともにもりもり食べる。

「なんなら今練習してみたらどうですか。ごめんなさい、俺が悪かったです、許してください。ハイ、どうぞ」

 そう手を差し向けると、直哉はちょっと顔を上げた。フキゲンそうな、あるいは見ようによってはどこか心細そうな顔。それが恵から目線をズラし、もにょもにょと口を動かす。それから小さく、「ご……」と呟いて、

「ご、……ごめ………………ごめんちゃい♡」

 とニッコリ首を傾げた。恵はシラケた目を向けて、もう一度はあ、とため息をついた。

「フザけた態度しかとれないんですか。そりゃ怒りますよ親父だって」
「だァって! 俺生まれてこの方心からアタマ下げたこと一遍もナイもん!」
「言ってて情けなくならないんですか」
「謝罪って、ああスマンなァ悪かったなァ、あないなことしてもうたけどホンマはせえへんほうがよかったなァ悪いことしたなァ……ってときにするモンやろ? 俺そないなこと思ったことあらへんもん。今回やってなんも、そら確かにちょびっと言い過ぎたかもしれへんケド、あんなんいつものことやし! アッチやってヒドイこと言うた!」
「次期当主の座が危うくなりかけたとき、俺を殺そうとしたことなどは……?」
「ソレなんか俺悪いことある? 寝首かかれるンはキミが弱いのが悪いねんで」

 恵は甚爾の息子だが、実の父には幼い頃からほぼ放置されて育ち、現在は五条悟が後見人となっている。禪院相伝の十種影法術を所持している関係で、一時は禪院家に引き取られる(実際は金銭のやり取りがあった人身売買まがいのことだが)という話もあったところを、悟が甚爾ごと東京高専にかかえこんだため何やかんやとフクザツな立場にいる子供だ。直哉ともまあまあ様々なごたごたがあったものの、今はそれなりに穏やかな関係を築けている。

「あれから甚爾くん、あんまし部屋戻って来やんみたいやし……たまに様子見に行って顔合わせても、口きいてくれへんの……
「そうですか」
「なんであないに怒っとるん? こないに長引いたの初めてや……。いつもやったらあんくらい、そのうち手ェ出て足出てセックスしてケロッと収まんのに」
「親のシモの話とか聞きたくないんですけど」
「せやからこうしてメシ奢ってあげとるやん。キミ甚爾くんの遺伝子持っとるクセにホンマヒョロいなァ、もっと食べ」

 餅は餅屋と言うんではないが、甚爾のことについて相談するのなら直哉の交友関係の中ではやはり実の息子の恵が一番参考になる。恵はげんなりとしながら、しかし高級焼肉を奢られていることは事実であるため、どんどん網に追加されていく肉を裏返した。

「冷蔵庫にこっそり肉置いといたら、許してくれたりせえへんやろか……
…………
「ハナシ途中で投げ出して出て行きたなるくらい、俺マズイこと言ったんかな……そんな変わったこと言うた気ィしやんけど……

 ぐにゃぐにゃと肉も食べずにちる直哉を一瞥し、恵は肩を落として息をつく。

……付き合ったからでしょ」
…………え?」
「アンタら最近、ようやく恋人になったんでしょう? だからじゃないですか。アイツはロクデナシだけど……恋人に無闇やたらと手ェ上げるようなタイプじゃ、なかったんで」

 恵が告げると、直哉はポカンとして顔を上げた。まったく予想外のことを言われた様子でパチパチと目を瞬く。

……俺が、恋人やから?」
「たぶん。そうじゃないですか」
「今まではセフレやったから容赦なくぶん殴っとったけど、付き合うたからそうはしやんくなってこうなっとる言うこと?」
……じゃ、ないですかね。イヤ知りませんけど。なんとなくそうなんじゃないかなってだけで確証はありません」

 直哉は呆然と焼けていく肉を眺めた。口を半開きにしてしばし間を置き、何かを考えてから、ぐ、と眉を歪める。

「せやったら、はじめっから付き合わなよかった……
「ハイ?」
「別れたい………………

 深刻なトーンでこぼされ、恵はギョッとした。

「ちょっ……めったなこと言わないでくださいよ。そんなこと本人に聞こえたら殺されますよ」
「殺されたほうがエエわ……こないなことなるんやったら」
「アンタらこれまでさんざんすったもんだしてきたの忘れたんですか。俺もういい加減、親のそういうとこ見たくないんですよ。一度丸く収まったんだから心入れ替えてサッサと仲直りしてくださいよ」
「こないなふうに無視されるんやったら、殴ってきてくれたほうがエエ……。恋人やからって殴らんくなるのも意味わからんし、エエやん別に、セフレも恋人もそう変わらんのやから……
「変わるでしょ」
「変わるか……?」

 恵はドン引きした目を向ける。親父も大概だがこの人も大概、いや論外だ。だからこそ似合いなのかもしれないが。

「とにかくそんな物騒なこと言わないでください。そこまで極端にならなくてもいいでしょう。俺、とばっちり受けるのは御免ですから」
「物騒ではナイやろ」
「直哉さんって、わりと親父のこと勘違いしてますよね」

 直哉は珍しくしょぼくれた顔で怪訝に恵を見上げた。

「たかだか『ごめんなさい』が言えない程度で別れたいなんて言ったら、大変な目にあいますよ」
……。殴ってくれるンやったら、そっちのがカンタンでええ……
……殴られるだけで済めばいいですが」

 恵は視線を斜めに向ける。恐ろしい想像が浮かび、背筋に寒気が走った。このような(直哉には悪いが、恵にとっては)さしたる問題でないことで冬眠中の熊を起こすようなマネをされてはたまらない。コホン、と咳払いをし、直哉に向き直る。

「ちゃんと話し合ってくださいよ。簡単なほうに逃げないでください。恋人なんだから、フツウに謝れば親父だって許すでしょう。フツウに」
……フツウに」
「フツウに、謝ればいいんです。わかりました?」
…………

 ――そのが、俺らはわからんねん。
 直哉は机に俯せて、「ぐうう〜……」と唸り声をあげた。威嚇する獣のような声だった。「袖にタレつきますよ」と恵は言った。


 そもそも、なぜ甚爾と直哉が恋人になったのかと言えば――

 直哉自身、成り行きはよくわかっていない。最初に肉体関係を持ったとき直哉はべろべろに酔っ払っていて、目を覚ましたらなぜかケツがあらぬことになっていて、なぜかそのままセフレということになった。直哉は甚爾のことがもちろん幼い頃から大好きだが、男に抱かれる趣味はなかったので色々と抵抗した。が、甚爾の手管があまりに上手うわてすぎて、なし崩し的に体の関係が続いた。
 そうこうしているうちに、なんだか今まで甚爾にいだいたことのないような感情がどんどん湧いてきてしまって……それはたとえば独占欲とか、心配とか、愛おしさとか、甘やかしてやりたい気持ちとか……そんな自分が気持ち悪すぎて有り得ない量の任務を入れていたらちょっとポカをしてしまい、一週間寝込む傷を負って、それに甚爾がなぜかショックを受けて、すったもんだの末に恋人になったのである。なぜか。いつのまにか。

 とはいえ、恋人になったというのも直哉としてはあまり実感がない。傷がよくなり間もなく退院するというときに「オマエ、もう俺の目が届く範囲から出るな」といきなり言われて、「イヤそれは無理やろ。甚爾くん京都キライやし、俺は京都帰らなアカンもん。最近は東京入り浸っとるケド」と返したら、「じゃあ俺のモノになれよ」と言われた。何が「じゃあ」なのかはわからなかったが、甚爾があんまり真剣な顔をするので、直哉はつい「ええよ……」と頷いてしまった。それで恋人ということになった。
 あのとき頷かなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。
 直哉は別に、恋人になどならなくてよかった。ただ甚爾のそばにいて、今まで通り何となく喋って何となく笑ってくだらないことで喧嘩して、たまにセックスもしていられればそれでよかった。というか、そうしていられると思ったから恋人になったのだ。
 こんなことになるハズではなかった。

 今日も直哉は甚爾の住まう部屋の周りをうろちょろとする。高専が用意した職員寮代わりの一室。意味もなく足踏みをして、甚爾がいないことに安堵と落胆を同時に覚えて、なんで俺がこないな思いせなアカンねん、と理不尽な怒りに口を尖らせる。
 直哉がこんなにも他人のゴキゲンを伺うなんて……。実家の者が目にすれば失笑されそうだ。想像して不快感を覚える。架空の嘲笑にフンと鼻を鳴らし、直哉は踵を返した。そのときだった。

「うわ、」

 真後ろに、甚爾が立っていた。その巨大な真っ黒い圧を認識した途端、全身からさっと血の気が引く。
 呪力のない甚爾は、相変わらず気配がまったく掴めない。一体いつから後ろにいたのか。直哉は狼狽えながら、どうにか平静を装って口を開く。

「と、……甚爾、くん」

 名を呼んで、閉じる。ここからどう言葉を繋げればいいかわからなかった。久しぶりやね? 元気してた? ……そんな言葉を吐けるような雰囲気ではない。甚爾は黙って直哉を見下ろしている。
 「謝ればいいじゃないですか」。ふいに、恵の声が脳裏に蘇った。「謝れば親父だって許してくれるでしょう」。本当だろうか。なんだかすごいプレッシャーを感じるけれど。おまけに顔もめちゃくちゃ無表情で、逆光になってものすごく恐いけれど。本当だろうか。

「あの、俺、……その、えー……

 直哉はしどろもどろに視線を動かした。気まずさにヘラリと顔が勝手に笑みを作る。ほほが引き攣り、冷や汗が垂れる。
 ――ごめんなさい、俺が悪かったです、許してください。コレでいいじゃないですか。

「ご、……ご、……

 ――フツウに、謝ればいいんです。わかりました? わかりました? わかりました? ……
 …………………………

……ご機嫌ななめやなァ、何やその顔、まだ怒っとるん? ねちっこい男は嫌われんで? 甚爾くんがそないに恋人に対してケツの穴の小さい男やとは思わんかったわ」

 ダメだこりゃ。
 脳内であちゃーと額を抑えた恵が白旗を振っている。ダメだ。言えない。やはり、恵に助言された通りにはできない。肉まで奢ったのに。
 イヤ、もうこの際コッチの路線で行こう。と直哉は開き直った。甚爾をとにかく怒らせて煽てて手を出させるのだ。そうすればいつもの通りになる。
 度を過ぎれば直哉も多少怪我をするかもしれないが、無視され続けるよりずっといい。直哉はずっと人を煽り続けてきた人生だったから、激昂した相手の対処は十分心得ている。むしろそのほうがラクだ。

「いつもはすーぐ力に頼ってくるクセに、今回はどないしたん、腰抜けになったん? 俺に負けたと思たんならスナオにそう言い、ここで謝りゃ許してやるから。それとも何や、イヤならやっぱし拳で決めよか?」

 ヒラヒラと掌を上向ける。甚爾は一切表情を変えず、ただ冷たい瞳で直哉を見下ろした。これほどまでに色をなくした目を向けられるのはいつぶりだろう。もうしばらく見なくなった温度のはずだ。
 ――早く何か言え。怒れ。こんくらい言われたんやから、オトコなら手や足のひとつやふたつ出しいや!
 だが直哉の願い虚しく、甚爾は太い腕でぐい、と直哉を退かすと、何も言わずに部屋の扉へと向かっていく。

「えっ、」

 直哉はあ然とした。
 わざとらしいまでにきっぱりとした、無視。こんなことは初めてだった。直哉が高専で甚爾に再会したばかりのときですら、調子のいいことを言えば不快そうにしつつも何かしら言葉は返してくれていた。もっと言えば幼いときだって、一応直哉がしつこく食い下がれば多少はかまってくれたのだ。それが今は、まるで道端の障害物を避けるように直哉を拒絶している。

「待って、甚爾くん、」

 直哉は慌てて声をかけた。甚爾は足を止め、ゆらりと直哉を一瞥する。……見てはくれる。つまり、話を聞く体勢自体はある。存在そのものを無視しているわけではない。
 甚爾は直哉の言葉を待っている。何かを言うのを待っている。直哉は俯き、甚爾の腹のあたりを見つめた。甚爾の顔を見ていられなかった。

……ぁ、だ、から、つまりその、」

 ごめんなさい、俺が悪かったです、許してください。ごめんなさい、俺が悪かったです、許してください。ごめんなさい、俺が悪かったです、許してください。
 そう誠意を込めて頭を下げればきっと終わる話なのだろう。けれどそんなかんたんな三文芝居のセリフが、直哉には気が遠くなるほど難しかった。なぜこんなに言葉が詰まるのか、自分でさえもわからない。
 ……否、本当はわかっている。直哉は結局のところ「俺が悪い」などとは微塵も思っていないのだ。心のどこかであの喧嘩の責を自分が負うことに納得していない。甚爾に無視されることは恐ろしくても自分がなぜこんな目にあうほど追い詰められなければいけないのか、こんなことになってまで憤りを感じている。それを甚爾に見透かされていると知っているからこそ、心にもない謝罪を舌に乗せることができないのだ。

「わ、」

 どくどくと心臓が逸る。甚爾はじっと直哉を見ている。その瞳にはやはり怒りがあった。甚爾はまだ直哉を許していない。許していないから、こんなヒドイことをするのだろう。
 直哉は舌をもつれさせながら、とうとう言った。

「別れよう」

 そう吐いた喉の奥が、絞められたように狭い。頭の後ろからじわりと熱が這って、何かが溢れ返りそうだった。

「別れよか、俺ら。なァ、そうしよう」

 直哉が今おのれを省みることがあるとすれば、それは売り言葉に買い言葉で甚爾に暴言を吐いたあの瞬間ではない。俺のモノになれと言われてつい頷いてしまった、あのときだ。
 関係を変えなければよかった。恋人になどならなければよかった。関係を変えて甚爾の態度が変わって、それで直哉まで変化を強いられるのなら最初からお断りしておけばよかったのだ。こんな気持ちになるくらいなら……
 そう思った途端、目から熱いモノがボロッ、とこぼれ出て、直哉はふしぎに思ってほほに手をやった。

「?」

 濡れている。何だコレは。
 表面張力に耐えかねたしずくは次から次へと直哉のほほを伝い、顔面を濡らす。視界がかすんで邪魔くさく、直哉は躍起になって目元をぬぐう。

………………。ハァ――……

 すると、デカデカとしたため息とともに、ついに甚爾が口を開いた。

……オマエ、さァ」

 そう言って、一歩直哉に近づく。直哉はビクリと肩を揺らし、目の前に落ちた影から逃げるように後ずさった。その肩を力強く掴まれる。

「マジで、バッカじゃねえの」

 ――怒っている。
 ゾッとした。
 直哉は今すぐ術式を発動しこの場から立ち去りたかった。けれど甚爾の瞳が縫い止めるように直哉を見下ろすので、息を呑んで立ち尽くすしかなかった。

「恵に忠告されたろ? ソレ、って」
…………
「ハァ……

 甚爾はにわかに視線を逸らし、ため息をつく。それがひどく失望されたように聞こえて、直哉はまたボロッと目から涙を落とした。恵には数え切れないほどため息をつかれたところで何とも思わなかったのに、相手が甚爾となるとダメだ。血液がざあっと下がって、地面がいきなり奈落にすげ変わったような心地になる。
 絶望的な表情でぼろぼろ涙する直哉を横目で見下ろし、甚爾はまたひとつ、今度は比較的仕方なさげな息をついた。

「泣くほど思い詰めてるクセに、ンでひと言『ゴメンなさい』が言えねえんだよ。ガキでもできるぞ、こんなん」
……、やって、」

 直哉は駄々っ子のような声を出す。

「なんで、甚爾くんがこんなに怒ってんのか、わかんない……
…………
「俺が恋人になったから、殴るんやなくて無視するようなったんやろ? なら恋人もうやめようや。俺イヤやこんなん、なんで、無視すんの」

 直哉はぐずぐずと湿っぽく言った。ガキみたいに泣いている直哉に、甚爾はふ、と肩を落とす。
 ――ホント、バッカじゃねえの。小学生以下だ、コイツは。しかしそんな小学生以下の姿を見て、胸にかかえていた怒りがどんどん萎んでいくのも事実だった。

「ナニが悪かったかわかんねえ?」

 甚爾が尋ねると、直哉は大人しくこくりと頷いた。甚爾の声は既に、冷たくも尖ってもいなかった。
 直哉は露ほども気づきやしないだろうが、独占欲とか、心配とか、愛おしさとか、甘やかしてやりたい気持ちとか……それは直哉だけでなく、甚爾も持っている。でなければ、恋人になんかならない。でなければ、たかだかくだらない喧嘩ごときでいちいちこんな面倒なことなどしない。

「じゃあもうそこは理解しなくていいから、とりあえず俺をキズつけたことを謝れよ。そんならできるだろ」
…………甚爾くん、キズついたん?」
「そうだよ。オマエ、自覚あんだろ。自分で言葉選んだんだろうが。ムカついたら後先考えずに相手がいちばんキズつくこと言うの、オマエの常套手段だろ」

 図星らしく、直哉はウッと顔を顰めた。甚爾が言った通り、直哉は非常に口が達者だ。どういう言葉を選べばより的確に素早く他人の怒りのスイッチを押せるか、その判断能力に長けている。それは元来の性格のせいかもしれないし、生まれ育った環境のせいかもしれない。あるいはその両方だと、甚爾は思っているが。
 さて、ここまで言えばちゃんと謝れんのかね。甚爾は目をすがめて直哉を見つめた。直哉は口をひん曲げ、ほほを伝う涙をほったらかしにしたまま、ごちゃごちゃと指先をいじくったり開いたり閉じたりし、

……………………、ご…………ごめん、なさい…………

 と、たっぷり十五秒ほどかけて初めての謝罪を口にした。甚爾は幾度目か、腹の底からため息をついた。

……よくできました」

 喧嘩が起こってから今日まで、およそ一週間と少し――
 ようやくここまで辿り着いた。甚爾は感慨深く、ぽん、と直哉の頭に手を置く。デカイ仕事をひとつやり遂げたような気持ちだった。肩の力を抜き、片頬をふっとゆるめる。
 その微笑を目にして、直哉はじわあっと涙を溢れさせた。

「うっ、ううっ、よくできましたってなんやあ〜っ! 見下すんやナイわあっ、甚爾くんのアホお〜っ!」
…………
「そら、言い過ぎたんは、わるかったけど! 俺もっ、俺もキズついたあ〜っ! なんで無視なんかすんのおっ!? そっ、そこまで、しなくたってええやん!」

 急に安心したのか恥も外聞もなく喚き始めた直哉に、甚爾は思わず目を点にして「コイツ……」と笑みを引っ込めた。

「いつもは、そんなことっしやんのにい! 俺もうっ、これでダメやったら、逆に甚爾くんのことぶん殴るしかっないかと思って、えっ!」
「ンでそーなんだよ……
「やって甚爾くんがしやんからあ! いっ、いつもはっ、無理やりウヤムヤにしてくンのにっ、うっ、う〜っ……うううう!!」

 ずびっ、と洟をすする。甚爾は半目になって直哉を眺め、襟ぐりを掴んで直哉のほほを拭ってやった。「キダナイ〜……」と直哉が泣きながら文句を言う。
 まァ確かに、いきなり態度を変えたのは悪かったと思っている。直哉が戸惑うのも無理はない。今回発端となった喧嘩は、さほどいつもと変わらない本当にしょうもないモノだった。これまで通りだったら、甚爾は直哉の言うようにテキトーに手を出し足を出し、面倒くさくなったらテキトーにセックスに持ち込んでカラダから落として直哉に折れさせただろう。
 そうしなかったのは、恵が見抜いた通り直哉と恋人になったからだ。正確には、甚爾が「なることを選んだ」から。

 甚爾は面倒事が嫌いだ。何日も長引くような諍いをするくらいなら、得意の体力勝負に持ち込んで有耶無耶にするのが甚爾にとっては最もラクな選択である。喧嘩だけでなくほかのすべての事態においても、甚爾はいつだって様々な面倒事を自分の得意分野に持ち込んでのらりくらり躱してきた。
 直哉と肉体関係を持ったときも、直哉が甚爾に恋愛感情めいたモノをいだき始めたときも、甚爾はそうした。
 はじめは、酔っ払って口の軽くなった直哉からぶつけられる憧憬とそれに類する感情を真正面から受け取るのが恐ろしくて、快楽で混ぜこぜにして誤魔化した。一度だけで終わらせようと思っていたのに、それから幾度もまばゆい感情が甚爾を襲うから、同じことを繰り返していくうちにズルズルと関係が続くようになった。
 そしていつしか向けられるようになった生ぬるく甘ったるい感情を見て見ぬフリをして、美味しいところだけをつまむように関係を続けていた。妻が死に高専に飼われてからひたすら惰性で生きる甚爾にとって、フクザツな感情を真剣に咀嚼するのはひどく億劫だったから。だがそうしているうちに、直哉は勝手に甚爾の手からこぼれ落ちかけた。こぼれ落ちかけたソレを考えるまでもなく反射的に掴んでしまった時点で、甚爾は悟った。

 自分はおそらく、コイツから逃げることはできない。
 いつまでも面倒だからと目を逸らし続けていれば、いずれきっと、自分は後悔する。
 そう悟ったから、甚爾は直哉との関わり方を変えざるを得なかったのだ。コイツのこのどうしようもない性格。あの忌々しきドブ池のような家で育てられた、いっそ愛おしいほど憎ったらしい性質に、真正面から付き合っていかなければいけないと……

「オマエ、次『別れる』とか言いやがったら、その足二度と使い物にならなくなるように折ってやるからな」
「えっ」
「俺ァもう、メンドくせえからって理由でオマエから逃げたりしねえ。だからオマエもちょっとイヤんなったからって、カンタンに離れようとすんじゃねえぞ。俺のモンになるって、自分で頷いたんだからな」

 直哉はくちびるをわななかせた。後悔しているのかもしれない。こんなハズではなかったと時を巻き戻したい思いに駆られているのかもしれない。しかし、もう遅い。甚爾の手は既に直哉を掴んでいる。
 一度吐いた言葉は取り消せない。いくらおのれを省みようと、深く過去を悔いようと……。だから社会には謝罪という行為が必要なのだ。

「まずは……こんなことしなくってもちゃんとスナオに『ごめんなさい』って言えるように、俺と練習しようなァ。直哉」
「え。? えっちょ、……え?」
「百回言うまで寝かせねえから」

 ガッ、と直哉の首根っこを引っ掴み、甚爾は自分の部屋へと足を進める。直哉はキョトンとし、甚爾の手からのがれようと反射的にもがいた。が、直哉はいくら口喧嘩では甚爾を押し切れても、力勝負になればとんと負け続きだ。ズルズルと抵抗の甲斐なく引きずられながら、

「待っ、ちょ、え? な、なにす、イヤちょっと待って、いっ――言う! 言うからっ、言う言う言う! ごめんなさいっ、ごっ……ごめん! なァ、ホンマに!」

 そう繰り返し告げる悲鳴が誰もいない廊下に響き……やがて、無慈悲に扉の閉まる音がした。
 その後の直哉がどうなったかは、翌日直哉に出くわした恵の表情から察していただきたい。

 おわり


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