本編(翠風)軸で、第二部のどこか。女神とか紋章とかのトンデモパワーで女になってしまったベレトと、そんなベレトに揺らぐクロードの話。いちおうラブコメ。
ベレトの服についてはいまだによくわかってないので、雰囲気でお読みください。
@Bombwooo
軍議に参加する先生はいつも通りだった。
地図の上に並べた駒を見て、必要なところだけを短く問い、こちらが答えればそれ以上は追わない。言葉の数は少ないが、聞いていないわけではない。むしろ、こちらが伏せた前提まで拾っていることがあるから、先生の沈黙は気が抜けなかった。
「南側の道は使わないのか」
彼がそう言って、地図の端を指で押さえた。声は間違いなく先生のものだ。低く、短く、必要なところだけを切り出す話し方も変わらない。けれど耳に残る響きが、いつもよりほんの少しだけ違う。高い、というほどではない。喉の奥にあった重さが、わずかに薄らいでいるように聞こえる。
それから、籠手の下で袖の布がいつもよりわずかに余って見えた。
装備の締め方が違うのかと思ったが、革紐はいつも通りだった。指先は迷わず街道の脇を示し、補給を分けた場合に潰されやすい位置を正確に押さえている。そこに変わったところはない。先生の指摘は相変わらず無駄がなく、余計な遠慮もなかった。
なのに、布の収まりだけが目に残った。
「使わないわけじゃない。使うなら、敵にあえて見せるためだな」
俺は駒をひとつ動かした。先生はそれを見下ろし、短くうなずく。返事のかわりに、べつの駒へ手を伸ばした。その動きも知っている。考えてから動かすのではなく、考え終えたあとに動く手だ。いつも通りだった。だからこそ、さっき引っかかったものだけが妙に浮いて見える。
気のせいだと思おうとした。
だが、先生の姿を見間違えるほど、俺は彼を知らないわけではなかった。
顔を上げた先生と目が合う。そこにも、おかしなものはない。何を考えているのか読みづらい目、こちらの言葉を待つ間の、感情の動かない顔。士官学校のころから何度も見てきた。戦場でも、食堂でも、夜更けの廊下でも、先生はたいがい同じ顔でこちらを見る。
同じ顔のはずだった。
なのに、頬から顎へ落ちる線が、いつもよりかすかに違っている。太ったわけではない。疲れているようにも見えない。むしろ表情の乏しさはいつも通りで、地図の上に戻った視線にも揺れはなかった。けれど、顔の輪郭に、見慣れた鋭さとはべつのかたちが混じっている。
「クロードくん、聞いてたー?」
ヒルダの声で、俺は地図へ戻った。
「聞いてるさ。補給の話だろ」
「ほんとかなー。なんかべつのこと考えてる顔してたけど」
「お前にそう見えたなら、そうだったんだろうな」
軽く返すと、ヒルダは肩をすくめた。それ以上は追ってこない。先生もこちらを見ない。地図の上へ視線を落としたまま、次の報告に耳を傾けている。
助かった、と思うほどのことではなかった。聞かれて困るようなことを考えていたわけでもない。ただ、べつのことを考えているように見えたのなら、実際そうだったのだろう。
軍議はそのまま進んだ。
先生は要所で口を開き、必要なことだけを言った。兵の配置に無理が出るところ、補給の遅れが出やすい場所、伝令が走るならどこを通すべきか。どれもいつもの先生だった。言葉に飾りがなくて、わかりやすい。
だから、おかしいのはそこではない。
席を立つとき、先生の外套が椅子の背に触れてかすかに揺れた。肩から落ちる布の線が、やはりどこか違って見えた。本人は気にした様子もなく、地図を畳む兵の手元を見ている。立ち方も、足の置き方も、こちらが知っているものと変わらない。
変わらないものの中に、ひとつだけ知らないものが混じっている。
そう思った。
昼を過ぎても、その違和感は消えない。
廊下ですれ違う先生は、いつもの歩幅でこちらへ向かってくる。呼び止めるほどの用はない。向こうも短く会釈をして、そのまま通り過ぎる。すれ違う一瞬、外套の裾が揺れ、首もとにかかる髪が肩へ落ちる。
何か言うべきだったか、と考える前に、先生はすでに角を曲がっていた。
俺はその背を見送ったまま、少し遅れて足を動かした。たまたま見ただけだと言い張るには、軍議からずっと同じところを見ている。頬、袖、肩、布の落ち方。どれも些細なもので、ひとつずつなら気に留めるほどでもない。それでも、先生に関してそれが重なると、見過ごしてよいものなのか判断がつかなかった。
書類を片づけ、いくつかの報告を受け、伝令に返事を持たせる。そのあいだにも、ふと地図の端を押さえた先生の手が浮かんだ。籠手の下で余って見えた布。顔を上げたときの輪郭。外套の肩の落ち方。声に残った、わずかな違い。
体調が悪いのなら、軍議中に少しは出る。怪我なら、もっと違うところに癖が出る。先生は隠すのがうまい人ではあるが、戦場に関わる不調を隠しきれるほど器用ではない。少なくとも俺は、そう思っている。
ならば、何なのか。
答えは出ない。出ないまま、夜になった。
机の上には、明日の配置を書きつけた紙がある。先生に確認したいことは、実際にいくつかあった。南側の道へ囮を出すなら、護衛を何人つけるか。補給隊を二手に分けるなら、片方を林の手前で待たせるのか、それとも川沿いまで進めるのか。聞けば早い。聞かなくても、明日の軍議で詰められる。
紙を持って立ち上がったとき、自分が確かめに行こうとしているものが、その配置だけではないこともわかっていた。
廊下は昼より冷えていた。灯りの落ちた壁沿いを進みながら、俺は歩く速さを変えなかった。急いでいるわけではない。迷っているわけでもない。明日の話をするには、少し遅い。けれど、先生なら起きているかもしれない。そういう時間だった。
部屋の前で足を止める。
扉を叩く前に、軍議のときの彼の顔を思い出した。見慣れているはずの顔。変わらない目。必要なことだけを切り出す短い声。なのに、どこか知らないものを含んでいた。声も、顔も、服の収まりも、ひとつずつなら気のせいで済ませられたかもしれない。けれど、相手が先生なら話はべつだった。
俺は手にした紙を軽く折り、指先で伸ばした。
それから、扉を叩いた。
「先生、起きてるか」
扉を叩いてから、そう声をかけた。返事はすぐにはなかった。灯りは漏れている。眠っているわけではなさそうで、しばらく待てば、部屋の中で布が擦れるような音がした。
「……クロードか」
扉越しの声は、やはり先生のものだった。
昼と同じだった。低さの底がわずかに抜けているような、けれど言葉の切り方も、こちらの名を呼ぶ温度も変わらない声。具合が悪いのかと訊くには足りず、気のせいだと流すには耳に残る。
「明日の配置で、確認したいことがある。いまいいか」
「少し待ってくれ」
そこで戻ればよかったのかもしれない。着替えの途中だったのなら、なおさらだ。けれど、扉の内側で足音が近づいたときには、もう紙を持つ手に力が入っていた。
閂が外れ、扉が開く。
先生は、シャツを羽織りかけた姿で立っていた。
顔は、いつもの顔だった。こちらを見る目も、扉を開けたあとの間も、何ひとつ変わらない。濡れた髪が頬のあたりに少しかかっているせいで、昼に見た輪郭の違いがまた目についた。見慣れた顔のはずなのに、灯りの下ではなおさら、知らない線が混じっている。
それでも、そこまでは昼からの続きだった。
問題は、その下だった。
羽織りかけのシャツの合わせ目から、見慣れない膨らみが見えた。布が隠しきれていない。隠そうとしていない、のほうが近かった。先生は自分の格好に気づいていないわけではないだろうに、こちらが何を見たのかを確かめるような顔もしなかった。
俺は、紙を持ったまま一瞬止まった。
見てはいけないものを見たのだと、理解するより先に身体がわかった。視線を上げる。上げた先には先生の顔がある。いつもの目で、いつものようにこちらを見ている。そのせいで、余計におかしかった。
身体だけが違う。
そう思ったあとで、ようやく昼のすべてがつながった。声。袖の布の余り。頬から顎へ落ちる線。肩の布の収まり。どれも先生から外れていたわけではない。ただ、先生の身体が、俺の知っているものではなくなっていた。
「……あんた、それ」
言いかけて、言葉を選べなかった。
先生は自分の胸元へ視線を落とし、それから扉をもう少しだけ閉めるようにして、身体を半分引いた。慌てた様子はない。ただ、こちらに見えすぎると判断したらしい。その判断の落ち着きもまた、いつもの先生だった。
「朝、起きたらこうなっていた」
それだけ言われても、こちらは追いつかなかった。
「朝?」
「そうだ」
「朝から?」
「そうだ」
返事は短い。声だけは昼よりはっきり聞こえた。聞こえたぶん、違いもごまかしようがなかった。
俺は扉の前で、持ってきた紙を懐へ戻した。今さら明日の配置の話をする空気ではない。いや、本来はその話をしに来たのだが、その本来が、扉が開いた瞬間にどこかへ消えた。
「誰かに話したのか」
「ヒルダたちに、最初に相談した。服と、身支度のことで困ったから」
たしかに、それは俺に言われてもどうしようもない。どうしようもない、と思ったあとで、胸に残った小さな引っかかりに気づいた。
「ほかには?」
「あと、ハンネマンとマヌエラにも見てもらった」
ハンネマン先生には言ったのか。
喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。ハンネマン先生は紋章学者だ。こういう異変なら相談するのが筋だろう。マヌエラ先生もいるなら、なおさらだ。そこに俺が割り込む理由はない。言われたところで、服を用意してやれるわけでも、身体の変化を調べられるわけでもない。
それでも、知らされる側にいるものだと思っていた。
その考えが、ひどく勝手なものに思えて、俺は一度息を吐いた。先生は何も言わずに待っている。こちらの沈黙を不審がるでも、言い訳するでもない。俺が何を呑み込んだのか、わかっているのかどうかも読めなかった。
「……で、原因は? わかったのか?」
「わからないらしい。紋章の影響かもしれないが、はっきりしたことは言えないと」
「紋章の力で女に? さすがにありえないだろ」
「女神を宿しているからかもしれない」
先生は、まるで明日の天気を言うみたいに言った。
女神。その言葉で片づけられるものが、たしかに先生には多すぎる。髪の色も、力も、これまでだって人の理屈から外れたものはいくつもあった。
だからといって、朝起きたら身体が変わっていた、まで当たり前のように並べられても困る。
「女神を宿してるからって、いきなり女になるか?」
「わからない」
「そこはわからないで済ませるなよ」
「済ませてはいない。だから調べている」
その返答が、あまりに先生だった。
困っていないわけではないのだろう。着替えも、声も、身体の重さも、勝手が違うに決まっている。けれど、先生は取り乱していない。起きたことを起きたこととして受け止め、必要な相手に相談し、調べるべきことを調べている。
だから俺も、落ち着かなければならなかった。
落ち着くべきだった。
「……いや、とりあえず、ちゃんと服を着ろ」
言ってから、自分の視線がまた下がりかけたことに気づき、無理やり先生の顔を見た。先生はそこでようやく、自分がシャツの釦をきちんと閉じていないことを思い出したのか、襟元を押さえた。
「すまない」
「あんたが謝るところじゃない。邪魔したのは俺だ」
「自分は待てと言った」
「待てと言いながら、扉を開けられるとは思わなかったんだよ」
先生は少し考えるように黙り、それから扉を閉めた。中で布を整える音がする。俺は廊下に立ったまま、懐にしまいこんだ紙のことを考える。南側の道。護衛の数。林の手前で待たせる補給隊。さっきまで口実として成立していたものが、今はただ紙の上に並んでいるだけだった。
扉がもう一度開いたとき、先生はシャツの前をきちんと合わせていた。それでも、見えなくなっただけで、違うことはもうわかっている。布の下にある身体を考えないようにして、かえって考えてしまう。顔を見れば見たで、いつもの先生がそこにいる。
最悪だな、と思った。
先生が、ではない。こちらの頭の働き方が、だ。
「入るなら入ってくれ」
「いや、ここでいい。長く話すことじゃない」
中へ入れば、もっと落ち着かない気がした。先生の部屋には灯りがあり、寝台があり、着替え途中だった名残もある。そこへ踏み込むほど、俺はまだ自分を信用できなかった。
先生は扉の内側に立ったまま、こちらの返事を待っている。まっすぐな目だった。身体が変わっても、その目だけは何も変わらない。昼もそうだった。変わっていないところがあるから、変わっているところばかりが目につく。
「男の俺にできることは少ないと思うが」
言いながら、自分の言葉の頼りなさが嫌になった。実際、俺にできることは少ない。服や身支度は、ヒルダたちのほうがよほど役に立つし、原因の調査なら、ハンネマン先生やマヌエラ先生のほうが知識はある。
それでも、言わずにはいられなかった。
「あんたが元に戻れるよう、手は尽くす。紋章のことも、女神の力のことも、こっちで調べられるものは調べる。ハンネマン先生たちの手が足りないなら、人も動かす」
「戻れると思うか」
「戻すんだよ」
先生が少しだけ瞬きをした。驚いたのか、それとも言葉を受け取っただけなのかはわからない。
「ありがとう」
返ってきたのは、それだけだった。
それだけなのに、妙に残った。信じたのか、頼ったのか、ただ聞いただけなのか。先生の声は短く、表情も変わらない。なのに、俺のほうが勝手に、そこへ意味を探そうとしていた。
「それと」
続ける声が、自分で思ったよりもこわばった。
「着替えの途中に悪かった。次からは、着替え終わるまで人を入れるなよ」
「君でもか」
「俺でもだ」
そこだけは、すぐに答えた。
先生はまた考え、それからうなずいた。納得したのかどうかはわからないが、少なくとも理解はしてくれたらしい。こういうところで素直なのも、やはり先生のままだった。
「わかった」
「ならいい。明日の配置は、朝にでもあらためて話すよ」
「いまでなくていいのか」
「いまはやめておく。あんたも休め」
そう言って、俺は扉の前から一歩退いた。先生はまだこちらを見ていたが、引き止めはしなかった。扉が閉まるまでの短いあいだ、昼からずっと引っかかっていたものが、べつのかたちで胸の奥に残った。
廊下を戻るあいだ、歩く速さはさっきと変わらなかったはずだ。
けれど、自分の部屋へ戻っても、落ち着かなかった。紙を机に置き、椅子に座り、明日の配置をもう一度見直そうとしても、文字がうまく入ってこない。
先生の声。
扉を開けたときの顔。
シャツの下に見えた、知らない膨らみ。
それを隠すより先に、いつもの目でこちらを見ていたこと。
元に戻す。
そう言ったのは自分だった。そうするべきだとも思っている。原因を探し、必要な手を打ち、先生を元の身体へ戻す。考えるべきことはそれだけでいい。
それだけでいいはずなのに、耳の奥がいやにうるさかった。
翌日になっても、それは消えなかった。
廊下ですれ違ったとき、先生の外套の留め具がずれているのに気づいた。いつもなら、見てもそのまま通り過ぎたかもしれない。本人はまるで気にしていないようだったし、歩くにも剣を抜くにも支障はなさそうだった。けれど、布が首もとに寄っているのを見ると、そのまま行かせる気になれなかった。
「待て、先生」
呼び止めると、先生は足を止めた。何か用かと問う前に、俺は彼の襟もとへ手を伸ばしていた。
留め具を正しい位置に戻すだけだった。そう言い訳するほどのことでもない。ずれていたものを直した。それだけだ。けれど指先が首もとの布を払ったとき、先生がほんのわずかに顎を引いた。
嫌がったのではない。くすぐったかったのかもしれないし、急に触れられた理由を考えていただけかもしれない。彼は俺の手もとを見下ろし、直されてゆく外套を、いつもの顔で受け入れていた。
「ずれてた」
「そうか」
「少しは気にしろよ」
「動くのに支障はない」
「そういう問題じゃないんだって」
留め具を戻して手を離すと、先生は首もとへ軽く触れた。それから短く礼を言い、また歩き出す。たったそれだけのことだった。何かが解決したわけでも、身体の異変に手がかりが出たわけでもない。
それでも、その日から目が合うことが増えた。
こちらが先生を見ているからだと思っていた。実際、それはそうだった。軍議の席でも、廊下でも、食事の前後でも、声が掠れていないか、服の収まりに困っていないか、身体の勝手に慣れてきたか、何かにつけて様子を拾っていた。
けれど、目が合うのは、こちらが見ているからだけではなかった。
先生のほうも、ふとした拍子にこちらを見るようになっていた。呼び止められる前に振り向く。軍議で意見を求めるより先に、俺の顔を見る。廊下の向こうで足を止め、こちらが何か言うかを待つ。どれも大したことではない。以前からあったことだと言われれば、そうかもしれない。
ただ、外套の留め具を直した日のあとから、その回数が増えたように見えた。
先生が何を思っているのかはわからない。
ただ、見られているのだと気づくたび、こちらのほうが少し動きづらくなった。
そのまた次の日は、進軍前に、ヒルダに先に釘を刺された。
「クロードくん、いまの先生をあんまり前に出しすぎたらだめだからねー」
言われるまでもない、と返しかけて、俺は一度口を閉じた。先生はいつも通り剣を帯び、いつも通り自分の持ち場を確認している。姿勢も、表情も、こちらを見る目も変わらない。変わったのは身体のほうで、本人の芯ではない。だから余計に、いつも通りに扱いそうになる。
「戦えないってほどじゃないだろうけど、いつもの先生と同じつもりでいるのは危ないんじゃないか。勝手も違うだろうしさ」
レオニーも、茶化さずにうなずいた。マリアンヌは言葉にはしなかったが、先生の手もとを見て、心配そうに眉を寄せている。
先生はその視線を受けても、平然としていた。
「動ける」
「動けるのと、前と同じように動けるのは違うだろ」
俺がそう言うと、先生はこちらを見た。昼の軍議でも、夜の部屋でも見た、あの目だった。自分が何かを損なったとは思っていない目。こちらが過剰に案じているのか、必要な判断をしているのか、それを測るような目。
「しばらくは、俺のそばにいろよ」
口にすると、先生はまばたきをした。
「君のそばに?」
「そうだ。前に出るなとは言わない。ただ、俺の目の届くところにいろ」
言ってから、ずいぶん都合のいい言い方をしたものだと思った。守るためだ。実際、そうだった。身体の勝手が変わっているなら、無理に前へ出すべきではない。戦場で穴を作らないためにも、こちらのそばに置くほうが理にかなっている。
理にかなっている。
だから、言い訳には困らなかった。
先生はしばらく俺を見て、それから短くうなずいた。
「わかった」
その返事があまりに素直で、俺は次の言葉を少し遅らせた。先生はすぐに踵を返し、割り振られた位置へ向かった。こちらの指示に従っただけだ。そう思えばそれで済む。済むはずなのに、戦が始まってからも、先生が俺の視界の端にいることを、何度か確かめてしまった。
彼は強かった。
身体が変わっても、剣の振り方を忘れるわけではない。迷いなく敵の間合いを読み、こちらが合図を送るより先に、必要なところへ踏み込む。けれど、踏み込みの深さがほんの少しだけ違う。受けた衝撃を逃がす肩の使い方も、前とはわずかにずれている。
それでも先生は、崩れなかった。
崩れないからこそ、危なかった。本人が動けてしまうせいで、どこまでが前と同じで、どこからが違うのか、外からは見えにくい。
「下がれ、先生」
敵の槍が横から入る前に、俺は声を飛ばした。
先生はすぐに退いた。退いた先が、こちらのすぐ近くだった。
それだけのことだ。指示を出し、彼が従い、盤面が整った。それだけのはずだった。けれど、外套の裾が風を受け、先生が俺の隣で剣を構え直したとき、さっきまで目で追っていた場所が、ようやく手の届くところへ戻ってきたように思えた。
俺のそばにいろ。
そう言ったのは自分だ。守るための指示で、実際に必要な判断だった。なのに、彼がその位置へ戻ってくるたび、戦場の見え方が少しだけ変わる。遠くで危うさを探すより、隣にいることを確かめるほうが、ずっと楽だった。
戦が終わったあとも、先生はすぐには離れなかった。
報告に来た兵へ短く返事をし、血のついた剣を布で拭いながら、俺の後ろに立っている。もう指示は終わっている。俺の届くところにいろと言ったのは、戦闘中の話だった。けれど彼は、離れていいと言われるまで、そこにいた。
指示に従っただけだ。
そう思うことはできた。できたが、戦場が片づいてもなお、その距離に残られると、こちらの出した命令がべつのものに見えてくる。
離れていいと言えば、先生は離れただろう。彼はそういう人だ。命じられた位置に立ち、必要がなくなれば、次の役目へ向かう。だから言えばよかった。もういい、休め、と。けれど俺はそれを言わないまま、報告に来た兵へ返事をし、次の指示を出し、剣を拭う先生の気配をそばに置いていた。
夜更けまでふたりで資料と向き合っていることも増えた。
ハンネマン先生の蔵書から借りたもの、マヌエラ先生が引っぱり出してきた古い症例、セイロス教に残る女神の奇跡について書かれた、役に立つのか立たないのかわからない記録。机の上は日ごとに狭くなり、灯りを置く場所にも困るようになった。
先生は、文句を言わなかった。
もともと口数が多い人ではない。けれど、不便だ、不安だ、早く戻りたい、そういった言葉もほとんど出さない。頁をめくり、必要なところだけを読み、わからない部分があればこちらへ本を差し出す。声はまだ少し違っていた。短く切る話し方は変わらないのに、耳に残る響きだけが、俺の知っている先生のものから少しずれている。
それにも、少しずつ慣れてきているのがよくなかった。
「ここは、紋章石の影響と書いてある」
彼がそう言って、卓上へ身を乗り出した。
近い。
思ったときには、先生の肩がこちらの腕に触れていた。肩だけなら、これまでにも何度でもあった。地図を覗き込むとき、作戦の線をたどるとき、廊下ですれ違うとき。きょうだいの絆を結んだあとなら、なおさら、そこに大仰な意味を持たせるほうがおかしい。
けれど、いまはそれだけでは済まなかった。
二の腕に、シャツ越しのやわらかいものが触れる。彼は気づいていない顔で、文章を追っていた。指先が古い文字をなぞり、眉間にほんの少し皺が寄る。いつも通りの顔だった。困ったときの沈黙も、考え込むときの目つきも、何も変わらない。
灯りを受けた淡い翠の髪は、肌の白さを余計に目立たせていた。血の気がないわけではない。体温もある。なのに、その白さはどこか人の手から遠いものみたいで、触れれば跡を残してしまいそうに見えた。
これはベレトだ。
そう思った。思ったところで、何の助けにもならなかった。
むしろ、そう思うたびにまずくなってゆく。知らない誰かなら、こんなふうに気にはしない。身体が変わっただけの先生だから、こちらは目を逸らす理由を探し、逸らしたあとでまた見てしまう。
俺が地図の上に無茶な線を引いても、現実にしてくれた人。短い返事でこちらの考えを受け取り、ときには何も言わないまま隣へ立った人。そこにいるのは、そういう先生だった。
だから、違う。
言い聞かせる言葉は、いつも同じところへ戻ってきた。違う。何が違うのかまでは決められないまま、違うと言うしかなかった。
「クロード」
呼ばれて、俺は本へ目を落とした。
「ちゃんと読んでいるか」
「読んでる。紋章石と身体変化の話だろ」
「返事が遅かった」
「古い文字は読みづらいんだよ」
嘘ではなかった。半分くらいは。
彼はそれ以上追ってこなかった。いつものように、必要がなければ踏み込んでこない。ただ、こちらの返事を受け取ったあとも、すぐには身を引かなかった。俺の腕に触れたまま、続きを読みはじめる。
わかってんのか、この人。
問いかけたところで、答えはすでにわかっていた。わかっていてこの距離にいるなら、それはそれで困る。いや、どちらにしろ困っているのは俺だけだ。彼は文字を追い、女神の力がどうだの、器の変質がどうだの、ろくでもない記述を真面目に読んでいる。
「疲れたか」
今度は先生が訊いた。
「俺が?」
「さっきから、進んでいない」
「それはこっちの台詞だ。あんたこそ、眠いんじゃないのか」
「眠くはない」
そう言いながら、彼は一度だけまばたきをした。まばたきの仕方まで変わったわけではない。けれど、灯りの下で見る顔は、昼よりも輪郭がやわらかく見えた。濡れてもいない髪が頬のそばに落ち、細い影を作っている。目だけは変わらない。変わらないから、余計に見てしまう。
「……もう今日はやめよう」
「まだ読める」
「読めるのと、読んで意味があるのはべつだ。明日またやればいい」
そう言って、彼の前から本を引いた。拒まれるかと思ったが、先生は手を伸ばさなかった。ただ、俺を見るだけだった。
その顔が、いけなかった。
心細い、と言うほどではない。不安げだと決めつけるには、先生の表情はいつも通り読みにくい。ただ、取り上げられた本と、積み上がった資料と、まだ見つからない答えの前で、ほんのわずかに取り残されたように見えた。
俺は、手を伸ばしていた。
頭に触れてから、しまったと思う。触れるつもりではなかった。少なくとも、いま、そういうふうに手を置くつもりはなかった。
彼は動かなかった。
嫌がるでも、身を引くでもなく、何をされたのかを確かめるようにこちらを見る。逃げてくれたほうがよかった。そうすれば、こちらも軽く笑って手を引けた。だが先生は、撫でられたことを、ただ起きたこととして受け取った。
だから、俺は指先を少しだけ動かした。
「無理すんなよ」
「無理はしていない」
「そういうことにしといてやるよ」
彼の髪は、見た目よりもやわらかかった。そんなことまで知る必要はなかった。知ったところで、何になるわけでもない。男に戻れば、こんなことはしない。できない。していい理由もなくなる。
そう思って、手を離した。
彼は、離れた手を追わなかった。けれど、すぐに本へ戻ることもしなかった。ほんの短いあいだだけ、俺を見つめていた。
夜が深いせいか、部屋の灯りのせいか、彼の目はいつもより近く見えた。感情が読めないのは変わらない。何を考えているのか、こちらに何を求めているのかもわからない。ただ、その目でまっすぐ見られると、俺が何かを間違えているような気になる。
「そういうふうに見るなよ」
口にしてから、声が少し掠れたことに気づいた。
「勘違いするだろ」
彼は、すぐには返さなかった。
冗談だとわからなかったわけではないのだと思う。こちらの軽口を聞き分けるくらいのことは、先生にもできる。けれど、どこまでを冗談として捨てればいいのか、うまく選べずにいるような顔をした。
俺は先に目を逸らした。
机の上には、開いたままの資料が広がっている。女神の力、紋章石、器の変質。どれもそれらしい言葉ではあるが、朝起きたら身体が変わっていて、声も、服の収まりも、力の入り方も違う、という目の前の不便には届いていない。
書かれた言葉は、どれも遠かった。
「戻れるだろうか」
先生がぽつりと言った。
弱音というほどではない。声は平らで、問いというより、手もとに残った言葉がそのまま落ちたように聞こえた。それでも、先生の口からそういう言葉が出たのは、これがはじめてだった。
戻す、と言った。そうするつもりでいた。原因を探し、手がかりを拾い、必要なら人も動かす。そう考えているうちは、まだましだった。けれど、机の上に残っている記録はどれも遠く、先生は相変わらず静かで、戻る道だけが見えない。
このままだったら、という考えが、ふいに浮かんだ。
浮かんだものを、まともに見たくなかった。だから、冗談にするしかなかった。
「戻すって言っただろ」
先生は顔を上げた。
「信じている」
返事が早かった。
早すぎて、俺のほうが黙ってしまった。疑われていないのだとわかる。疑われていないからこそ、困った。先生は、こちらの言葉を飾りもせず、そのまま置いてしまう。軽く言ったものも、そうでないものも、同じ重さで受け取るような顔をする。
そういう受け取り方をされると、こちらが逃がそうとしていたものまで、逃がせなくなる。
俺は机の上の資料へ目を落とした。女神の力、紋章石。どれも大仰なくせに、いまここにいる先生の困りごとには届いていない。
「信じてるなら、もう少し気楽に構えてろよ」
軽く言ったつもりだった。
彼は笑わなかった。ただ、こちらを見る。夜の灯りの下で、頬の線も、声の響きも、俺の知っているものとは少しずつずれているのに、まなざしだけは変わらない。
心の中でまた、これはベレトだ、と唱える。もう、何度目かわからない。
そうやって踏みとどまろうとしているのに、思うたび、かえって足もとが悪くなる。
「このまま戻らなかったら」
そこまで言って、やめるべきだった。
やめるべきだと、どこかで思った。けれど、先生はまだこちらを見ていた。信じている、と言った顔で、次の言葉を待っていた。
冗談にすればいい。笑って流せるくらいの軽さにしてしまえば、いまの沈黙も、先生がこちらを見ていることも、全部どこかへやれる。
「俺がもらってやるよ」
彼は、笑わなかった。
怒りもしない。驚きもしない。困った顔もしない。ただ、こちらの言葉を聞いて、目を丸くした。
その沈黙が、思っていたより長かった。
軽口だとわからなかったわけではないのだろう。彼は、こちらの冗談を全部真に受けるほど鈍い人ではない。けれどいまは、どこを捨てれば冗談になるのか、選べずにいるように見えた。
「……そうか」
やがて、それだけ言った。
短い返事だった。声も平らだった。けれど、投げたつもりの言葉は、机にも床にも転がらず、そのまま先生の中に入ってしまったように見えた。
まずいものを渡した。
そう思ったのに、返せとは言えなかった。いまのは冗談だと笑い直すことも、もうできなかった。先生は資料へ視線を落としている。読んでいるのか、読んでいないのかはわからない。こちらを責めるでもなく、続きを求めるでもなく、ただそこにいた。
俺は広げた資料を一冊閉じた。
「今日はここまでだ」
先生はうなずいた。
その夜、部屋を出るまで、俺はもうその話をしなかった。先生も何も言わなかった。
ただ、扉を閉めたあとも、さっきの「そうか」だけが耳に残っていた。
それから三日後、先生は男に戻った。
長い軍議を終え、部屋へ戻って、溜まった書簡に目を通していたところへ、扉を叩く音がした。
「クロード」
扉越しの声を聞いて、俺は顔を上げた。
低い声だった。
ここしばらく耳に残っていた、淡い響きではない。短くこちらの名を呼ぶ、その切り方は同じなのに、喉の奥に戻った重さで、何かを言われる前からわかった気がした。
「入ってくれ」
そう返すと、扉が開いた。
先生が立っていた。
見慣れた肩幅、見慣れた外套の落ち方、籠手の下で余らない袖の布。頬から顎へ落ちる線も、ここ数日目にしていたものとは違う。灯りの下でも、廊下の薄い影の中でも、俺が知っている先生の顔だった。
「戻った」
先生は、そう言った。
それだけだった。けれど、その声も、立ち方も、こちらを見る目も、全部がひとつの答えになっていた。
俺は、持っていた書簡を机に置いた。
「そうか」
思ったより、声が軽く出た。安心したのだと思う。実際、安心した。原因はわからないままでも、元に戻ったのなら、ひとまず最悪の線は外れる。服も、身支度も、戦場での重心も、周囲の視線も、いちいち気にしなくていい。彼が、彼の身体で、いつも通りに動ける。それは、どう考えてもよいことだった。
それに、真っ先に来てくれた。
男の俺にできることは少ないと言いながら、それでも手は尽くすと言った。戻すと言った。先生はそれを覚えていて、戻ったことを知らせに来たのかもしれない。
「よかったな」
「ああ」
先生は短くうなずいた。
以前なら、そこで頭に手を置いたかもしれない。
いや、以前なら、というのは違う。男の身体に戻った先生に、そんなことをする理由はない。ここ数日のあいだだけだ。疲れているように見えたから。身体の勝手が違ったから。元に戻る方法がわからず、夜遅くまで資料を読んでいたから。こちらが気にかけても、手を伸ばしても、理由があった。
先生は戻った。
戻ったのなら、こちらも戻ればいい。そう思ったのに、手は動かなかった。机の上に置いたまま、指先だけが書簡の端を押さえている。以前なら、外套の留め具がずれているだけで呼び止めた。夜更けに目元が疲れて見えれば、本を取り上げ、頭に手を置いた。そんなことをしてもいい理由が、ここ数日のあいだはいくらでもあった。
いまは、もうない。
目の前の先生は、何も変わっていないはずだった。低い声も、外套の収まりも、表情の読みにくい目も、こちらが知っているものだ。けれど、その身体の上に、ここ数日の記憶が重なってしまう。夜の灯りの下で見た頬の線。袖の余り。近づいたときに腕へ触れたやわらかいもの。頭に置いた手を、退かずに受けた彼の目。
このまま戻らなかったら、俺がもらってやるよ。
自分で言った言葉まで、遅れて戻ってきた。
彼は、何もなかったようにこちらを見ている。あの夜のことを気にしているのか、忘れているのか、そもそもどう受け取ったのか、顔からは読めなかった。読めないことに、少しだけ助けられた気がした。
「ハンネマン先生には?」
「まだだ」
その返事に、俺は少しだけ言葉を失った。
「……先に俺のところへ来たのか」
「いちばんに、君に知らせたかった」
短い答えだった。彼は、そうするのが当然だとでもいうようにこちらを見ていた。元に戻ったことを、真っ先に知らせに来た。こちらの言葉を覚えていてくれた。 俺が手を尽くすと言ったことも、戻すと言ったことも、彼の中でまだ消えていなかったのだと、その返事だけでわかった。
「なら、このあと診てもらえ。ハンネマン先生とマヌエラ先生、両方だ。戻ったように見えても、何がどうなってるかわからない」
「わかった」
「何か変なところがあれば、すぐ言えよ」
「君に?」
「俺にもだ」
会話は、普通だった。
普通にできている。先生の身体が元に戻ったことを確認し、今後の注意を伝え、無理をするなと釘を刺す。それだけなら何もおかしくない。やさしくないわけでもない。気にかけていないわけでもない。
ただ、近づけなかった。
外套の留め具が、今日はまっすぐ留まっていることに気づく。気づいただけで、触れる必要はない。肩にかかる髪も、直してやるほど乱れていない。疲れているかと訊くには、顔色も悪くなかった。そばに置く理由も、頭に触れる理由も、夜更けまで同じ本を覗き込む理由も、きれいになくなっていた。
「明日の軍議には出られそうか」
「問題ない」
「なら、いつも通りでいい。急に戻ったんだ、今日は早めに休んどけ」
「君も」
「俺はこれを片づけたら寝るさ」
彼は机の上の書簡へ視線を落とし、それから俺を見る。何か言いたかったのかもしれない。ただ、言葉にはならなかった。こちらも促さなかった。
促して、何を言わせるつもりなのかわからなかった。
彼はうなずいてから、踵を返した。歩き方も、もういつものものだった。数日前のわずかなずれはない。外套の裾が揺れ、靴音が部屋の床に落ちる。扉が閉まる直前、先生が一度だけ振り返った。何か言うかと思ったが、彼はただこちらを見て、それから部屋を出た。
その背中を見送ってから、俺はようやく息を吐いた。
よかった。
それはほんとうだった。
元に戻ったことを、真っ先に知らせに来た。こちらの言葉を覚えていてくれた。心配していたことが届いていた。なら、それでいい。それでいいのに、部屋の中だけが、数日前から動いていないようだった。机には書簡があり、明日の軍議で使う地図もある。何ひとつ変わっていない。変わっていないものの中に、触れなかった手と、言えなかった言葉だけが残っている。
できるはずだった。
でも、できなかった。
元に戻ったのは、彼だけだった。
戻った、とわかったとき、最初に思ったのは、クロードに知らせに行かなければ、ということだった。
ハンネマンにも、マヌエラにも、まだ診てもらっていない。ヒルダたちに服のことを頼む必要もなくなっていたし、レオニーに身体の勝手が戻ったかどうかを見てもらうこともできた。それでも、足は先にクロードの部屋へ向かっていた。
理由は、うまく言葉にならない。
彼が戻すと言ったから。手を尽くすと言ったから。そう言われたことを、自分は信じたから。いくつか並べれば理由のようなものにはなるけれど、扉の前まで来たときには、そういう言葉はどれも少し違うのだと気づく。
自分はただ、知らせたかった。
「クロード」
扉越しに呼ぶと、中で紙の擦れる音が止まった。
「入ってくれ」
返ってきた声は、いつものクロードのものだった。扉を開けると、彼は机の向こうでこちらを見ていて、書簡を持っていた手を止めたまま、ほんの少しだけ目を見開いた。
その顔を見て、自分は先に来てよかったのだと思った。
クロードはすぐに笑わなかったし、大げさに喜びもしなかった。ただ、こちらを見て、声や肩や外套の収まりを確かめるように視線を動かした。失礼な見方ではない。ここ数日、彼が何度もこちらを見ていたときと同じ目だった。
「戻った」
そう言うと、クロードは持っていた書簡を机に置いた。
「そうか」
声が、思っていたより軽かった。
安心したのだとわかった。彼の肩から、ほんのわずかに力が抜け、表情もいつもの軽さに戻りかけていた。心配していたのだろう。元に戻れるよう手は尽くすと言ったことを、ちゃんと自分のこととして持っていたのだろう。
「よかったな」
「ああ」
短くうなずいた。
それで、終わると思っていなかった。
前なら、手が伸びてきた。外套の留め具がずれているだけで呼び止められたし、夜更けまで資料を読んでいると、本を取り上げられ、頭に手を置かれた。戦場では、俺のそばにいろと言われ、調べものをするときは、同じ本を覗き込む距離にいた。
だから、戻ったと伝えれば、クロードはまた何かをするのだと思っていた。
頭を撫でるのかもしれない。肩を軽く叩くのかもしれない。外套の襟元を見て、何もずれていないのに、何か言うのかもしれない。そういうものを、こちらは待っていた。
けれど、彼の手は机の上に置かれたままだった。
手が伸びてこない。
そのことに気づいて、首をかしげたくなった。
「ハンネマン先生には?」
「まだだ」
クロードは短く黙った。
「……先に俺のところへ来たのか」
「君に知らせたかった」
それ以上のことは、言えなかった。言えなかったというより、自分の中ではそれで済んでいた。戻った。だから、知らせる。クロードに。
彼はそこで一瞬だけ目を伏せたように見えたが、すぐに顔を上げ、いつもの調子で言った。
「なら、このあと診てもらえ。ハンネマン先生とマヌエラ先生、両方だ。戻ったように見えても、何がどうなってるかわからない」
「わかった」
「何か変なところがあれば、すぐ言えよ」
「君に?」
「俺にもだ」
やさしいのだと思った。
冷たくはない。クロードは自分を案じている。必要な相手に診てもらえと言うし、異変があれば言えとも言う。きっと休めとも言うだろう。彼がそういうことを言うとき、軽く聞こえても、だいたいは本気だ。
だから、さっき気づいた小さな違和感を、その場で口にすることはできなかった。
手が、こちらに伸びてこない。
ただそれだけのことだった。戻ったのだから、もう頭を撫でる理由も、外套に触れる理由も、近くへ置く理由もないのかもしれない。身体の勝手が違っていたから、彼は気にしてくれていた。元に戻ったのなら、元の距離へ戻るのが自然なのかもしれない。
それでも、自分はがっかりした。
「明日の軍議には出られそうか」
「問題ない」
「なら、いつも通りでいい。急に戻ったんだ、今日は早めに休んどけ」
「君も」
「俺はこれを片づけたら寝るさ」
机の上には書簡が重なっていて、明日の軍議で使うのだろう紙もある。彼はやるべきことの途中で、そこへ自分が来た。クロードは手を止めて、話を聞き、必要なことを言ってくれた。
それで、じゅうぶんなはずだった。
じゅうぶんなはずなのに、何かが足りなかった。
部屋を出る前に、一度だけ振り返った。クロードはまだこちらを見ていた。何か言うかもしれないと思った。
結局、彼は何も言わなかった。
だから自分も、何も言わずに部屋を出た。
廊下に出ると、戻った身体はよく馴染んでいた。歩幅も、肩の重さも、声の出し方も、何も考えなくてよかった。数日前まで当たり前だったものが戻っている。そう思うと、安心していいはずだった。
けれど、安心は一拍遅れてきて、その前にがっかりした気持ちが残った。
戻ったのは、身体だけのはずだった。
なのに、クロードはずっと近くにいたことまで元に戻してしまったように見えた。
それから数日経っても、彼はやはりやさしかった。
軍議で意見を言えば、きちんと返してくれるし、必要があればこちらを見る。無理をしていると思えば休めと言い、戦場でも配置を雑にはしない。こちらの判断を疑うこともなかった。
冷たくなったわけではない。
だから、余計にわかりにくかった。
クロードは、こちらを見ていないわけではなかった。外套の乱れにも気づくし、顔色も見る。資料を持っていけば手を止め、読みやすいように場所を空けてくれる。戦場でも軍議でも、必要なところでは変わらずこちらを数に入れている。
ただ、その先へは来なかった。
以前なら、気づいたあとに手が伸びてきた。ずれていた外套を直され、近くに立たされ、同じ本を覗き込む距離に置かれた。疲れているように見えれば本を取り上げられ、頭に手を置かれた。
いまのクロードは、気づいても触れない。気遣ってはくれる。必要なことは言う。けれど、前にあった近さだけが、きれいに抜け落ちていた。
ひとつずつなら、何でもないことだった。戻ったのだから、それが普通なのかもしれない。女になっていたあいだのほうが、むしろ特別だったのかもしれない。
そう思おうとした。
思おうとして、うまくいかなかった。
身体が変わってしまったあいだ、自分はうれしかったのだと気づいたからだ。
クロードに見られるのがうれしかった。外套を直されたとき、なぜそこまで気にするのかと思ったが、嫌ではなかった。そばにいろと言われ、彼の手が届くところに立つのは落ち着いた。夜に同じ本を覗き込み、彼がこちらの距離に困っているのを見るのも、悪くなかった。
頭に手を置かれたときは、どうしてよいかわからなかった。けれど、振り払いたくはなかった。
そういうふうに見るなよ。勘違いするだろ。
あのときの彼の声を、まだ覚えている。
何を勘違いするのかは言わなかった。けれど、こちらを見る目はいつもの彼より少しだけ余裕がなくて、冗談のかたちをしているのに、きれいには落ちなかった。
このまま戻らなかったら、俺がもらってやるよ。
あれも、軽口だったのだろう。
わかっている。彼はそういう言い方をする。場を軽くするために、相手を安心させるために、自分が本気で考えたくないものを笑って済ませるために。
それでも、自分はうれしかった。これからもずっと一緒にいられるのだと思った。
そこまで考えて、ようやく自分が怒っていることに気づいた。
クロードは何もしていないわけではない。むしろ、よくしてくれた。心配してくれた。触れた。近くに置いた。言葉をくれた。
それを、男に戻った途端、なかったことにするのか。自分だけが好きになってしまったのか。
さびしかった。だが、それ以上に腹が立った。
だから、確かめようと思った。
クロードがこちらを雑に扱うようになったわけではない。それはもうわかっていた。問題はそこではなく、彼が以前と変わらないように扱おうとしているところだった。
けれど、変わらないように扱われるほど、変わってしまったものが目についた。
最初は、外套の留め具を、わざと少しずらした。
鏡の前でそれをしたとき、自分でもばかなことをしていると思った。ずれていても動きに支障はない。見た目が少し落ち着かないだけで、わざわざ誰かに直してもらうほどのことではなかった。けれど、以前のクロードは気づいた。気づいて、呼び止めて、当たり前のように手を伸ばした。
だから、確かめたかった。
廊下でクロードとすれ違う。彼は書類を片手に持っていて、こちらを見ると、いつものように軽く片眉を上げた。
「先生」
「何だ」
「いや」
彼の視線が、一度だけ首もとへ落ちた。
気づいた。
そのことだけで、胸の内側が少し跳ねた。けれど彼の手は動かなかった。書類を持っていないほうの手も、腰のあたりに置かれたままだった。
「留め具、ずれてるぞ」
「そうか」
「直しとけよ。引っかけると面倒だ」
「わかった」
自分で直した。指先で金具を戻すあいだ、彼はそこを見ていなかった。書類に目を落とし、すぐに別の話へ移る。明日の補給のことだった。必要な話だ。こちらも聞いた。答えも返した。何もおかしくはない。
それでも、気づいているのに触れないのだとわかった。
次の日は、書庫で隣に座った。
クロードは古い記録を広げていて、こちらが椅子を引くと、目だけを上げた。前なら、近いと文句を言いながらも、結局そのまま読ませてくれた距離だった。だから同じように座った。肩が触れそうなところまで寄せると、彼は少しだけ本の位置をずらした。
「それじゃあ読みづらいだろ。こっちから見たほうがいい」
そう言って、資料を自分と自分のあいだではなく、机の中央へ置く。親切だった。読みやすくはなった。けれど、肩は触れなかった。
「ここでいい」
「あんた、今日はやけに近いな」
「そんなことはない」
「いやいや、近いんだって」
笑っているような声だった。けれど、指は紙の端を押さえたまま、こちらへ伸びてこなかった。
廊下では、隣に並んで歩いた。
いつもなら半歩ほど空く距離を、少し詰める。クロードはすぐには離れなかった。こちらの歩幅に合わせ、書簡を抱え直しながら、次の軍議の話をする。普通だった。何もおかしくなかった。
それなのに、曲がり角で通りかかった兵に声をかけるふりをして、彼は自然に一歩ぶんだけ離れた。
あまりに自然だったので、腹が立った。
避けていると責めるには足りない。けれど、何もしていないと言わせるには、少しずつ足りないものが増えてゆく。
夕方には、外套の留め具をまた少しずらした。クロードも、たぶんわざとだということはわかったのだと思う。視線が首もとへ落ち、ほんの短いあいだだけ止まった。
「またずれてるぞ」
「そうか」
「……直せるだろ、自分で」
「直せる」
「なら直せよ」
彼はそう言ったきり、手を伸ばさなかった。
気づいている。気づいていて、触れない。
そこまで確かめて、ようやく、これは気のせいではないのだと思った。
夜には、クロードの部屋へ行った。話す内容は配置のこと、進軍路のことなど適当に見繕った。
「なあ、昨日も来たよな」
「今日も用がある」
「用って、今度はなんだよ」
「確認だ」
「何の」
「君が自分を避けているのかどうか」
彼は、そこで書類を押さえる指に力を入れた。紙がかすかに鳴る。それから顔を上げ、いつもの調子を作るように口もとだけで笑った。
「なんだよ、それ」
「こちらに触れないようにしている」
「戻ったんだから、前みたいに気を遣う必要がなくなっただけさ」
「ほんとうにそれだけか」
「そう言ってるだろ。しつこいぞ」
しつこいと言われても、嫌だとは言われなかった。
それが、よくなかった。
心の底から嫌がっているなら、クロードはもっと上手に退ける。こちらを傷つけない言い方も、冗談に落として終わらせる方法も、彼はいくらでも知っている。なのに、いまの彼は少し遅れる。視線を合わせるまでに間がある。こちらが手を伸ばすと、その先を見てから、ようやく身を引く。
嫌がっているのではない。
困っている。隠そうとしている。
そう見えた。
だから、退けなかった。
「……薄情者」
言うと、彼は目を瞬かせた。
「いきなり何だ」
「薄情者だと言った」
「それは聞こえた。俺はそんなことを言われる意味がわからないって言ったんだよ」
「君が見た。触れた。そばに置いた。もらってやるとも言った」
「あれは」
「軽口だろう。わかっている」
わかっている、と言ったのに、腹は立ったままだった。わかっているなら流せばいい。流せないから、いまこうしている。自分でも、どこからが怒りで、どこからがさびしさなのか、まだうまく分けられなかった。
「君があんなふうにするから、自分は好きになってしまった」
言ってから、自分の言葉に驚いた。
怒っているつもりだった。なかったことにされたことに腹を立てているのだと思っていた。けれど、口に出した言葉は、それよりもっと奥にあった。
好きになってしまった。
そう言うと、胸の中にあった釈然としないものが、急にかたちを持った。
彼は笑わなかった。
何も思っていないなら、もっと簡単に笑う。そんなつもりじゃなかったと言う。勘違いさせたなら悪かった、と、器用に距離を取る。
けれど、彼はすぐには何も言わなかった。
「自分だけが好きになったのか」
「先生」
「責任を取らないのか」
「責任って、なあ」
クロードはそこでようやく息を吐き、手もとの書類を揃えた。逃げる準備のようにも見えたし、考える時間を稼いでいるようにも見えた。
「それは、あんたが勝手に」
「勝手に好きになったとでも言って逃げる気か」
彼の言葉が止まる。
自分でも、ずいぶん無茶を言っていると思った。好きになった責任を取れと言われても、困るだろう。もらってやる、などと言ったのは彼だが、それをずっと本気にしていたわけでもない。自分でも、どこまでを責めたいのか、まだわかっていなかった。
ただ、なかったことにはされたくなかった。
彼は視線を逸らし、机の端を指で叩いた。
「とにかく落ち着けよ」
「落ち着いている」
「どこがだよ」
「君よりは」
「言うねえ」
いつもの軽口だった。けれど、いつものようには逃げきれない。こちらが黙って見ていると、彼は少しだけ口を閉じた。
「だいたい、男に戻ったわけだろ。なら、いろいろ話が変わってくる」
「何が変わるんだ」
「何がって……そう簡単な話じゃないんだよ。結婚だの、立場だの、フォドラの今後だの、いくらでもあるだろ」
それは、正しいのだろう。
クロードはいつも、先のことを見る。自分ひとりと相手ひとりだけでは済まないものを、最初から数に入れる。フォドラのこと、同盟のこと、教団のこと、これからの秩序のこと。彼の、そういうものを軽んじないところを、自分は知っている。
けれど、それは自分を好きではない理由にはならない。
「自分は、君と結婚できないのか」
クロードが固まった。
「……そこに着地するのか?」
「君が結婚の話をした」
「したけどさ、そういう詰め方をされるとは思わなかった」
「できるのか、できないのかを聞いている」
彼は額に手をやりかけて、途中でやめた。こちらを見て、また視線を逸らす。
「簡単じゃない、って言ってるんだよ」
「自分が女ではないからか」
彼の口が、そこで一度止まった。
突飛なことを言ったつもりはなかった。女だったあいだに赦されていた近さが、男に戻った途端なくなったのなら、まずそこを確かめるしかない。彼が見ていたもの、触れたもの、避けるようになったものをひとつずつ並べれば、そこへ行き着くのは自然だった。
けれど、彼からすればそうではないらしかった。
「……先生」
「自分に、胸がないからか」
今度は、ほんとうに固まった。石みたいだった。
女だった自分にはあった。いまの自分にはない。彼が目を逸らしたもの、触れないようにしたもの、見てはいけないもののように扱ったものがそこなら、なくなったことも理由になるのかと思った。
「いきなり何言い出すんだよ」
「女だった自分にはあった。いまはない。だからか」
「違う。いや、違うっつーか、その確認の仕方はやめろ」
「では、君と同じものがついているからか」
彼の視線が落ちた。
ほんの一瞬だった。すぐに戻した。そのことに、少し傷ついた。けれど同時に、何も感じていないわけではないのだとも思った。
「それなら、また女になればいいのか」
言った瞬間、胸の内側が冷えた。
これは言わないほうがよかったのかもしれない。言いながら、また自分で自分を傷つけたのがわかった。男に戻った自分ではそばにいられないのかと、そうたずねているのと同じだった。
クロードが小さく唇を噛んだのが見えた。
軽口にできるところではなかった。彼はそれをわかっている顔をしていた。目を逸らしたまま、書類の端を押さえている指が、少しだけ白くなる。
「……そういうことじゃない」
ようやく返ってきた声は、いつもより低かった。
「では、どういうことだ」
彼は答えなかった。答えないなら、まだ退けない。
自分は、彼を困らせたいわけではなかった。嫌がるならやめるつもりでいた。嫌なら諦める努力はする。忘れられるかどうかはわからないが、それでも、彼がほんとうに嫌だと言うなら、押しつけるべきではない。
けれど彼は、嫌だとは言わない。
触れないようにしている。目を逸らす。言い訳を並べる。こちらが近づけば、肩が揺れる。指に力が入る。それなのに、完全には離れない。
だから、まだ終わりにはできなかった。
「君が嫌なら、諦める」
彼が顔を上げた。
「諦める努力はする。だが、なかったことにはできない」
言いながら、自分の声が思っていたより落ち着いていることに気づいた。怒っている。さびしい。好きになってしまったことにも、腹が立っている。けれど、それでも、ここだけは間違えたくなかった。
「すべて、君がくれたものだからだ」
クロードは何か言いかけて、結局、何も言わなかった。
その沈黙が、また腹立たしかった。
それでも、少しだけ勝ち目があるようにも見えた。
地上では聞きにくいことがある。
ハンネマンに聞けば、紋章や身体の変化については答えてくれるだろう。マヌエラなら、もっと人の気持ちに近いところで話を聞いてくれるかもしれない。ヒルダやレオニーに聞けば、きっと率直なことを言う。
けれど、どれも違う気がした。
相手に責任を取らせるにはどうすればいいのか。
それをたずねるには、地上は明るすぎた。
だから、アビスへ行った。
地下へ降りる道は、いつ来ても空気が重い。埃と湿気と、火のにおいが混じっている。地上の大修道院とは違う場所だ。ここでは、きれいな言い方をしなくても、言葉がそのまま落ちる。落ちても、誰もいちいち拾い上げて眺めたりしない。
そういう場所なら、聞ける気がした。
ひとまず、近くにいた三人に酒をおごった。
ひとりは年嵩の女で、こちらの顔を見るなり、面倒な話を持ってきたな、という顔をした。もうひとりは、やけに気のいい男だった。三人目は、話を聞く前から面白がっている若い男で、杯を受け取るなり、遠慮なくこちらの隣へ腰を下ろした。
「で、何を聞きたいんだよ。金か、喧嘩か、色恋か」
「責任について聞きたい」
三人とも、少しだけ黙った。
「……広いなあ」
「相手に責任を取らせたい」
「一気に狭まったな」
若い男が笑った。女は杯を口へ運びながら、片眉だけを上げる。
「何されたんだい」
「見られた。触れられた。そばに置かれた。もらってやるとも言われた」
「取らせろ」
即答だった。
「やはりそう思うか」
「思うね。そこまでやって逃げるなら、首根っこ捕まえとけ」
「ものの喩えだからね、真に受けるんじゃないよ」
真に受けるところだった。
首根っこを捕まえたところで、彼はきっと笑う。笑って、うまくすり抜けてゆくだろう。捕まえるなら、首よりも言葉のほうがいい。あの人は言葉で逃げる。だから、こちらも言葉で追わなければならない。
「だが、相手が望まないなら押しつけられない」
「そりゃそうだ」
女はそこだけ、すぐにうなずいた。
「嫌なら諦めるのかい」
「努力はする」
「忘れられる?」
「わからない」
「あっはは、正直でよろしい」
女は笑った。ばかにする笑いではなかった。
「嫌とは言われていない」
「じゃあ、まだ押せるんじゃねえの」
「そう思う」
思う、と言ったが、自信があるわけではない。
嫌だとは言われていない。違う、そういうことではない、簡単ではない、落ち着け。そう言われた。けれど、嫌だとは言われていない。肩は揺れた。視線は落ちた。指に力も入った。完全に離れもしなかった。
だから追ってしまう。
「で、どこまで責任取らせる気なんだ。結婚か?」
「それは聞いた」
「聞いたのかよ」
「自分とはできないのか、と」
「強いなあ、あんた」
「簡単ではないと言われた」
「あー、まあ、そりゃ言うだろうな」
男は笑いながら杯を置いた。
「相手は貴族か?」
「……立場がある」
「面倒だねえ」
「面倒だと思う」
「でも諦めてないんだろ」
「諦める理由にはならない」
「いいねえ」
若い男がやじを飛ばす。女はそれを軽く睨み、それからこちらへ向き直った。
「で、あんたは何が聞きたいんだい。責任取らせたいってだけなら、さっき答えたよ」
そこからが、聞きにくかった。
酒をおごったのだから、聞いてもいいはずだった。ここまで来たのだから、聞くべきでもあった。けれど、言葉がすぐには出てこなかった。
相手が自分を避ける理由を、ひとつずつ潰したかった。
女ではないからか。胸がないからか。同じものがついているからか。そうたずねても、はっきりした答えは返ってこなかった。なら、知らなければならないと思った。男同士で何ができて、何ができないのか。身体の違いでほんとうにできないことがあるのか。それとも、相手がただ困っているだけなのか。
逃げ道を塞ぎたい、という言い方もできるのかもしれない。
けれど、それだけではなかった。
もし相手が受け入れてくれたとき、自分が何も知らずに、乱暴に触れてしまうのは嫌だった。相手が嫌だと言う前に、痛い思いをさせるのは嫌だった。あの人は平気な顔をする。軽口も言う。困ったことを困ったと言わないかもしれない。
責任を取れと言ったのは自分だ。なら、自分も、相手に触れることについては責任を持たなければならない。知らなかったでは済ませたくなかった。
だから、聞く必要がある。
「男同士では、どうするのかを知りたい」
場が、静まり返った。それから、若い男が吹き出した。
「相手、男かよ! 兄ちゃんやるなあ!」
しまった、と思った。
名前は伏せていた。立場がある、としか言っていない。けれど、男同士、と言った時点で、隠せることはかなり減っていた。
「そうだ、相手は男だ」
「堂々と言うじゃねえか」
「そりゃ結婚もすんなりうなずいてもらえないわけだよ」
「名は言っていない」
「そこだけ守ってもなあ」
女が呆れたように言った。
「にしても、話が飛ぶねえ」
「飛んでいるだろうか」
「飛んでるさ。責任から結婚へ行って、そこから一気に身体の話かい」
「大事な話だろう」
「真面目そうな顔してやるねえ」
「真面目そう、ではなく真面目に聞いている」
相手を困らせたいわけではない。まして、嫌がる相手に何かをするつもりもない。ただ、もし必要になったときに、知らないままでは困る。
「気が早すぎるのは、わかっている」
「わかってるならいいけどよ」
「だが、知らないままでは困る」
「誰が?」
「相手が」
そう答えると、女の表情がわずかに変わった。
「自分じゃなくて?」
「自分も困る。だが、自分が知らないことで、相手に嫌な思いをさせるほうが困る」
「へえ」
女は杯を置いた。
「じゃあ、まずひとつだけ覚えときな。嫌だって言われたら止める」
「それはわかっている」
「途中でも、だよ。ちゃんと止める。痛がらせるな。急ぐな。相手が強がってても、顔つきを見な。言葉で平気だと言っても、身体がそうじゃないことはある」
「では、君ならどうする」
女は杯を持ったまま、露骨に嫌そうな顔をした。
「そこであたしに振るんじゃないよ」
「経験があるのだろう」
「あるから言ってるんだよ。相手による」
それでは答えになっていない、と思った。
自分が黙っていると、隣の男が笑いながら肩をすくめた。
「俺なら、まあ、いったん止まるな。で、聞く」
「何を」
「続けていいか、とか、痛いか、とか、そのへんだよ。言わせんな」
「では、君は」
若い男は、杯を置いて両手を上げた。
「俺に聞くな。俺ならその前に逃げられてる」
「君は参考にならないな」
若い男は大げさに肩をすくめた。女はそれを横目で見て、杯を置いた。
「あんた、どうしても答えをひとつだけにしたいんだね」
「ひとつではないのか」
「相手が違うのはもちろん、同じ相手でも、その日で違う。だから手順じゃなくて相手を見るんだよ」
「相手を見るのは得意なつもりだった」
「あんたが見たいところだけ見てる可能性もあるね」
それは、少し耳が痛かった。
女はあきれたように笑った。
「嫌なら止まる。痛そうなら止まる。返事が鈍ったら急がない。平気な顔してても、無理してそうならそこで止まる。だいたいはそれだけだ」
「それでいいのか」
「いい悪いじゃない。そこを飛ばしたら、何を知ってたってだめなんだよ」
答えをもらいに来たつもりだった。
けれど、返ってきたのは、答えをひとつにしようとするな、という話だった。
「あと、準備も要るよ」
横から、気のいい男が口を挟んだ。
「そこは大事。ここで大声で細かく説明する話じゃないけど、何も知らずにどうにかなると思うな。必要なら、そういうのを知ってるやつに聞きな。ただし、軽い気持ちで聞くな。相手がいる話だろ」
「ああ」
どれも当たり前のことのようで、聞いておいてよかったと思った。
「それと、相手が男だからどうこうっていうより、相手がその気かどうかだよ」
年嵩の女が言った。
「男同士だからできないこともある。けど、できることもある。順番と準備を間違えなけりゃ、どうにでもなることもある。ただし、相手が嫌なら何もするな」
「相手が嫌なら、何もしない」
「そこだけ覚えとけば、半分は大丈夫だ」
「半分だけなのか」
「残り半分は、相手と話せ」
「逃げられる」
「逃げるやつなのかい」
「逃げる」
「じゃあ、逃げられないところまで追い詰めるんじゃなくて、逃げなくてもいいところまで連れてこい」
難しいことを言う、と思った。
けれど、正しいのだろう。逃げ道を塞げば、相手はもっと遠くへ行く。あの人は逃げるのがうまい。言葉でも、態度でも、笑い方でも、いくらでも逃げ道を作る。
なら、逃げなくてもいいと思わせるしかない。
「とことん真面目だなあ」
「そうだろうか」
「そうだよ。普通そこまで熱心に聞かねえよ」
「相手を傷つけたくない」
「なら、そのまま本人にも言え」
「言ったほうがいいのか」
「言えるならな。まあ、あんたの相手、逃げ足早そうだけど」
「早い」
「だろうなあ」
なぜわかったのかは聞かなかった。たぶん、こちらの話し方でわかるのだろう。逃げ足の早い相手を追っている人間の顔をしているのかもしれない。
「で、その男は、あんたのこと嫌がってんのか?」
「嫌だとは言わない」
「じゃあ何て言うんだよ」
「簡単な話じゃない。そういうことじゃない。とにかく落ち着け」
「逃げてんな」
「自分もそう思う」
「じゃあ追え」
無責任な声だった。
けれど、背中を押された気がした。
「ただし、押し倒すなよ」
「押し倒さない。それはよくない」
「そう。そこは合ってる」
笑われた。
女も笑っていたが、そこだけは否定しなかった。
「好きになったから責任取れ、だけだと相手も身構えるだろ。嫌なら諦める、でもこっちはなかったことにはしない。そこはちゃんと言っとけ」
「言った。すべて言った」
「言ったのかよ。見かけによらず結構やるなあ」
「じゃあ、次は態度だね」
「態度?」
「嫌なら止める。でも嫌じゃないなら、こっちは諦めない。そういう態度さ」
それなら、できるかもしれないと思った。
言葉で追えば、相手は言葉で逃げる。けれど、言葉だけで追うと、もっと遠くへ行くかもしれない。だから、態度で示す必要もある。
自分は諦めていない。けれど、嫌がることはしない。その両方を、同時に。
アビスの空気は、やはり地上より少し重い。明かりも暗いし、床も湿っている。乱暴な言葉も、無責任なやじも飛んだ。けれど、嫌がる相手にするな、痛がらせるな、ひとりで決めるな、というところだけは誰も笑わなかった。
「ありがとう」
そう言うと、女は手をひらひら振った。
「うまくやんな」
「努力する」
「責任、取らせろよー!」
後ろから男の声が飛んだ。
自分は振り返り、うなずいた。
「必ず取らせる」
「真に受けんなって!」
また笑われた。
けれど、自分は真剣だった。
責任を取ってほしいという言葉は、地下へ降りる前よりも、少しだけかたちを変えていた。
縛りたいのではない。嫌がるものを押しつけたいわけでもない。見たこと、触れたこと、そばに置いたこと、言葉をくれたことを、なかったことにしないでほしい。
そのために、自分も知らないままではいたくなかった。
そう思いながら、地上へ戻った。
確かめるなら、夜だと思った。
昼のあいだは、クロードはいつも通りだった。軍議ではこちらの言葉を拾い、必要なところでだけ口を挟み、終われば何事もなかったように書類へ戻る。こちらが近づけばわずかに身を引くが、見ていないわけではない。
地図の端を押さえたとき、彼の視線は手もとへ落ちた。廊下ですれ違えば、外套の留め具を一度見る。夕方、書庫で同じ棚の前に立ったときは、こちらが本を取ろうとして伸ばした腕を、彼は避けなかった。ただ、触れないように、自身の手を遅らせた。
気にしている。そう思った。
冷たいのではない。興味がないのでもない。嫌なら、もっとはっきり退くはずだった。クロードはそれができる人だ。傷つけないように笑って、こちらが何も言えなくなるくらい上手に距離を作ることができる。
けれど、いまの彼はそうしない。
触れないようにしている。見ないふりをしている。言葉で逃げる。だが、こちらが近づいたときの反応だけは、隠しきれていない。
なら、確かめるしかない。
男に戻った自分に触れられ、くちづけられることを、クロードはほんとうに嫌だと思うのか。
嫌ならやめる。それは決めていた。けれど、嫌ではないのなら、これ以上、なかったことにされたくなかった。
その夜、クロードの部屋を訪れた。
扉を叩くと、返事はすぐには返ってこなかった。灯りはついている。彼はたぶん、今日も書類か本を読んでいる。そう思うと、胸が騒いだ。
「どうぞ、開いてるぜ」
声はいつも通りだった。
扉を開けると、クロードは机のそばに立っていた。書類は片づけられていない。地図も、封を切った手紙も、読みかけの本も、いつものように机の上で場所を取り合っている。
けれど、寝台の上だけが空いていた。
普段なら、そこにも本が積まれている。読んでいる途中のもの、読み終えてそのまま置いたもの、あとで確かめるつもりの紙束。そういうものが、今夜は床へ下ろされていた。きれいに片づけたわけではない。寝台の脇に、不格好な山ができている。
来るかもしれないと思っていたのだろうか。
都合のいい見方かもしれない。眠る場所を作っただけかもしれない。それでも、クロードはこちらの視線に気づくと、眉を寄せた。
「見るなよ。片づける暇がなかったんだ」
「寝台の上は空いている」
「寝る場所くらい作るだろ」
「本は床に置いてある」
「だから片づいてないって言ってるんだよ」
こちらを追い出すつもりはないようだった。自分は寝台へ向かう。
「そこで何を確かめる気だよ」
クロードの声が背中にかかった。振り返ると、彼は机のそばに立ったまま、こちらを見ている。追い返す声ではなかったが、何をするつもりなのかは知りたいらしい。
「自分が君に触れる。君がそれを嫌がるのか、確かめる」
彼は返事をしなかった。
「嫌ならやめる。君には断る権利がある。諦めると言ったのも、嘘ではない」
そう言うと、彼は机の端へ視線を落とした。笑って流すなら、ここだったと思う。けれど彼はそうしなかった。
息を吐き、寝台の脇に積まれた本を見ないまま、こちらへ歩いてくる。
「確認って言えば何でも通ると思ってるだろ」
「思っていない」
クロードはそれ以上言わなかった。そして結局、寝台の端へ腰を下ろした。
まず、手に触れた。
膝の上に置かれていたクロードの手へ、自分の指を重ねる。彼の手はあたたかかった。触れた瞬間に動いたが、引かれはしなかった。しばらく待っても離れないので、指を滑らせ、一本ずつ絡めた。
彼はそれを見ていた。
言葉はなかった。手を引くこともなかった。絡めた指に、彼の力がかすかに返ってくる。握られたと言い切るには弱い。けれど、こちらが離そうとすれば、そのまま離れるような手でもなかった。
「これは、嫌ではないのか」
「……質問しながら進めるのかよ」
「必要だろう」
「必要かもしれないけどさ」
彼は息を吐いた。呆れているようでもあり、困っているようでもある。ただ、手は離さなかった。
次に、肩を寄せた。
絡めた手をそのままにして、隣へ詰める。肩が触れる。前なら、ここで彼は笑って、近いだの何だのと言ったかもしれない。今も言おうとしたように唇が動いたが、声にはならなかった。
もう一度、近づいた。
胸元が触れる。男に戻った身体は、彼の腕の中へ入るには硬かったかもしれない。以前のようなやわらかさはない。肩も、腕も、声も、すべて自分のものに戻っている。
それでも、彼は退かなかった。
だから腕を回した。
抱きしめると、クロードの身体がはっきりとこわばった。けれど、押し返されない。離れろとも言われない。しばらくして、絡めていないほうの手が持ち上がり、迷ったあと、自分の背へ回った。
息が近い。
それだけで、思っていたよりも落ち着かなかった。
確かめるだけだ。嫌ではないのか。受け入れられるのか。そういうことを知りに来たはずだった。なのに、彼の腕が背に回っただけで、自分の中にあった怒りのかたちが崩れた。
怒っているだけではなかったのだと思った。
顔を近づける。
クロードは逃げなかった。目を伏せることもしない。ただ、こちらを見ている。いつもなら軽口で逸らすところだ。そういうふうに見られると、こちらのほうが困る。確かめに来たのは自分なのに、腹の底からべつのものが上がってくる。
「いまから、君にくちづける」
「宣言するなよ」
「嫌ならやめる」
彼は答えなかった。
答えないまま、手だけが背中の布を掴んだ。
拒まれなかった。だから、くちづけた。
最初は、ただ触れるだけだった。唇を重ねる。彼の息が止まり、それからゆっくり戻ってくる。こちらも息を止めていたことに、遅れて気づいた。
嫌ではないのだと思った。
それだけの確認のはずだった。
けれど、彼の手が背中から離れなかった。首もとへ回ってくる。引き寄せるというほど強くはない。けれど、離れるなと言うように、指が外套の縁を掴んだ。
もう一度、くちづける。
今度は、クロードが返した。
ほんのわずかだった。こちらの唇を受けるだけではなく、彼のほうからも触れてくる。息を探るように、控えめに返ってくる。
それが、自分だからなのか、そういう触れ合いそのものに反応しているだけなのか、一瞬わからなくなった。
誰かに触れられれば、こうなるのかもしれない。逃げきれず、持て余したものがこちらに返ってきているだけなのかもしれない。そう疑うには、言葉が足りなかった。彼は何も言わない。好きだとも、選んだとも、自分だからだとも言わない。
けれど、首に回った腕は離れなかった。
指がこちらの髪に触れ、迷ってから、そこに残る。目を開けると、彼がこちらを見ていた。逸らしていなかった。誰でもよいなら、こんな目はしないのではないかと思った。
そう思った途端、耳の奥がひどくうるさくなった。
自分が想像していたよりもずっと、彼のことが好きだった。
怒っている。腹も立てている。責任を取れとも思っている。なかったことにするなとも思っている。けれど、それだけではなかった。くちづけられていることがうれしい。受け入れられていることが、想像していたよりもずっと、うれしい。
しかしそれは、まずいことでもあった。確かめるだけでは、済まなくなる。
もう一度、唇を重ねた。さっきより深くなる。彼の手が首の後ろへ回り、指先が髪に入った。こちらも抑えられなかった。唇を舐めると、彼の肩が揺れた。止めろとは言わない。
口が開かれたので、誘われるように舌を入れた。
彼が息を詰めた。けれど、押し返さない。むしろ、絡めた手に力がこもる。首に回った腕も離れない。こちらの舌を受け、迷いながら返してくる。慣れているのかどうかはわからなかった。余裕があるのか、ないのかもわからない。
ただ、拒まれてはいなかった。
それがうれしくて、もっと欲しくなった。
欲しい、と思ってしまった。
このままではよくない。はたと、そう思った。
確認ではない。これは、確認ではなくなっている。彼が嫌ではないことを知るために来たのに、これ以上続ければ、自分が欲しがることになる。言葉をもらっていないのに、触れて、受け入れられて、足りなくなってしまう。
それは、いまはよくない。
自分は身体を離した。
クロードの腕が、一瞬だけ残った。離れるのを惜しむように指が外套の布を掴んで、すぐにほどけた。
彼の髪が乱れていた。自分の髪もたぶん乱れている。彼の唇は濡れていて、息が上がっていた。こちらも同じだった。
言葉がない。
それが、まだ引っかかった。
拒まれなかった。くちづけを返された。手も離されなかった。首に腕も回された。けれど、クロードはまだ言葉をくれない。
それでも、確認はできた。
「このままではよくない」
自分がそう言うと、彼はまだ息を乱したまま、こちらを見た。
「……は?」
「確認はできた」
「待て、先生」
「ありがとう」
「いや、そこで礼を言うな」
言い終える前に、扉へ向かった。
これ以上ここにいると、また触れたくなる。もう一度くちづけたくなる。言葉がないことに引っかかっているのに、言葉より先に身体を近づけたくなる。
「先生、」
呼ばれて、振り返る。
クロードは、寝台の端に座ったままだった。乱れた髪を直すことも忘れたように、こちらを見ている。何か言いたそうだった。けれど、やはり言わなかった。
だから、自分も待たなかった。
「また来る」
「来るのかよ」
「確かめたかったことは、確かめた」
そこで一度、唇の熱を思い出して、言葉が少し遅れた。
「だが、まだ返事はもらっていない」
彼は片手で顔を覆った。
その反応を見て、期待してもいいのかもしれないと思った。
部屋を出ると、廊下の空気は冷たかった。髪が乱れているのがわかり、唇にはまだ熱が残っていて、胸の中も落ち着かないままだった。
答えをもらったわけではない。
クロードは、好きだとも、自分だからだとも言わなかった。選んだとも、そばにいろとも言わなかった。こちらがほんとうに求めていたかたちでは、何ひとつ返ってきていない。
それでも、拒まなかった。
手を離さなかった。くちづけを返した。離れようとしたとき、一瞬だけ引き止めるように外套を掴んだ。それを答えだと言い切ることはできないが、諦められるほど何もなかったわけでもない。
期待してもいいのかもしれない。
そう思ってしまったことが、夜の冷たさの中でも消えなかった。
それからも、夜になるとクロードの部屋へ行った。毎晩ではない。疲れて眠ってしまう夜もあったし、どうしても軍議の準備が長引いて行けない夜もあった。
隣に座るだけの日もあれば、手をつなぐだけの日もあった。くちづける日も、何も言わず同じ部屋で本を開いているだけの日もあった。
行けなかった夜の翌日、クロードが何気ないふりで「昨日は来なかったな」と言ったことがある。待っていたのか、と聞きそうになって、やめた。聞けば逃げると思ったからだ。
だから、自分は「疲れて眠ってしまった」とだけ答えた。
彼はそれ以上聞かなかった。けれど、聞かずにはいられなかったのだと、自分は思った。
最近は、扉を叩いても返事が遅れなくなった。寝台の上の本も、こちらが座れるだけは空いている。クロードはそれについて何も言わないし、自分も聞かない。ただ、来ることをまったく考えていない部屋ではなくなっていた。
それでも彼は、まだ言葉をくれなかった。
自分は、言葉がほしかった。くちづけても、抱きしめても、手を離されなくても、ほしいものは変わらない。好きだと言ってほしい。自分だからだと、男に戻った自分でもいいのだと、彼の口から聞きたかった。
けれどクロードは、そこへ来ると必ずべつのものを並べる。
フォドラのこと。同盟のこと。教団との関わり。これからの自分たちの立場。世継ぎ。きょうだいの絆。責任。どれも大事なのだろう。大事なのだと思う。自分にも、それを軽く扱うつもりはなかった。
「でも、それは自分を嫌っていることの証明にはならない」
彼は黙った。簡単な話ではないと言う。ほんとうにそうなのだろうとも思う。
けれど、それはクロードの話だった。彼が自分の気持ちをどこへ置くか、そのために必要な話であって、自分を嫌いだという証明ではない。
それでも、彼は離れなかった。
男に戻った自分の手を握り、肩が触れる距離にいて、くちづけても逃げない。言葉では返さないくせに、こちらが離れようとすると、ほんのわずかに指へ力を込める。
クロードは、もう変わってしまっているのだと思った。
それを認めるための言葉を、彼はまだ持っていない。あるいは、持っていても出せない。だから別の理由を探す。納得できるものを並べ、どうにか自分をそこへ置こうとする。
どうしても、納得できない。
それでも今夜だけは、言葉で固めるのをやめる。諦めるのではない。納得したわけでもない。ただ、これ以上言わせようとしても、彼の口から出てくるのは、きっとまたべつの理由だ。クロードが自分を保つための理由をいくつ聞いたところで、自分のほしい返事にはならない。
だから、今夜は彼を見ることにした。
離さない手を。こちらを見たまま逸らさない目を。近づいても退かない身体を。
自分は、クロードのほうへ身体を寄せた。
彼の肩がわずかに揺れる。何度も見た反応だった。けれど、もう身を引かない。逃げるための笑いもない。こちらが近づいたぶんだけ、クロードは呼吸を浅くして、それでも手を離さずにいる。
くちづけてもいいか、と聞こうとして、やめた。
代わりに、顔を近づける。クロードは目を伏せなかった。こちらを見たまま、息だけが浅くなる。近い。前ならここで何か言ったかもしれない。あんたはほんとに、だとか、まっすぐ来すぎだとか、そういう言葉を挟んだかもしれない。
なのに、今夜は何も言わなかった。
唇を重ねる。
クロードはすぐに返した。前より迷いが少ない。慣れたのかもしれない。諦めたのかもしれない。あるいは、最初からこうしたかったのかもしれない。そのどれなのかは、まだわからなかった。
こげ茶の髪が額の上で乱れていた。いつもなら、それさえ計算のうちのように見える。けれど今夜は、うまく笑いきれていなかった。
それでも、手は離れない。
くちづけを深くすると、クロードの指が髪の中に潜った。掴むほどではない。逃がさないというほどでもない。ただ、そこに触れて、確かめるように残る。
その手が、髪から首の後ろへ落ち、肩に触れる。
女になっていたときとは違う。あのときのようなやわらかさはない。薄いが、骨も筋もある、男に戻った自分の肩だ。クロードの指はそこで迷うように止まり、それから、逃げずに布越しの線を確かめる。肩も腕も胸も、すべて男に戻った自分のものが、くちづける近さの中で彼の身体に当たっている。
彼は避けない。
むしろ、引き寄せられる。こちらの身体が彼のほうへ傾く。寝台に積まれていた本の山が、脇でかすかに崩れた。紙の擦れる音がして、クロードが一瞬だけそちらを見る。見たが、手は離さないままだった。
自分は、もう一度くちづけを落とす。
言葉はない。まだない。でも、何もないとも言えない。クロードが返す。息が乱れる。こちらが離れようとすると、絡めた指に力が入る。そういうものを、今夜はいったん受け取ることにした。
全部ではない。足りてはいない。しかし、拒まれてもいない。
そう思ったとき、クロードが唇を離した。すぐ近くで、息がかかる。彼の目はまだこちらを見ていた。身じろぎをした彼の腿が、こちらに触れたまま、ぴたりと止まる。
彼が、少しだけ笑ったように見えた。
「……当たってるぞ」
その声は、掠れていた。