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文体練習07(レトクロ)

全体公開 レトクロ 11 12730文字
2026-05-17 17:38:30

本編(翠風)軸で、4篇。殴る蹴るなどの戦闘描写を含みます。いちおうレトクロ(広義)。
1.素手で戦うベレトとバルタザールの話
2.本編ベレトと無双(黄燎)クロードの話
3.無双(黄燎)ベレトと本編クロードの話
4.ベレトが朝起きたら隣にクロードがいた話

Posted by @Bombwooo

1.

 前を行く賊の背中は近かった。あと数歩で届く距離のはずなのに、ベレトが湿った土を蹴るたび、クロードたちの声は木々の向こうへ遠ざかってゆく。
 誘われた。
 そう見切った時には、横合いの茂みが揺れ、錆びた槍を構えた男が低く踏み込んできていた。
 ベレトは身を半歩沈め、槍の穂先を肩口のすぐ上に通す。すれ違いざまに剣を返し、柄に近いところを打って手元を崩すと、男の膝裏へ足を入れた。倒れた身体を踏み越えながら、さらに奥から走り込んでくるふたりへ刃を向ける。
 間合いは悪くない。数は多いが、正規兵のように足並みがそろっているわけでもない。厄介なのは、この場所を選ばされたことだけだった。木の根が地面を浅く這い、湿った土が靴底に絡む。長く打ち合えば、こちらの動きも鈍る。
 振り下ろされた斧を受けずにかわし、横から伸びた短剣を剣の腹で払う。刃が刃に噛み、嫌な音がした。手首へ伝わる震えが、次の瞬間、軽くなる。
 剣身が折れた。
 鈍く光る先端が湿った土に突き刺さる。柄に残った半端な長さを見た賊のひとりが、勝ったとでも思ったのか、喉を鳴らして笑った。
 ベレトは折れた剣を見下ろすと、すぐに手放した。
 あれでは戦えない。天帝の剣も持ってきていない。ならば、空いた両手でやれるところまでやるしかなかった。
 笑った男が踏み込んでくる。ベレトはその腕の内側へ身を滑り込ませ、振り下ろされる斧の軌道を肩で外した。肘を取り、手首を返す。骨が鳴る寸前で力の向きを変え、男の身体を前へ引き落としたところへ膝を入れた。
 息が詰まる音がして、男が崩れる。
 すぐ後ろから刃が迫った。振り返るには近すぎる。ベレトは片足を軸に身体を低く回し、相手の足首を払った。体勢を失った男の襟を掴み、落ちてくる重さをそのまま地面へ叩きつける。土埃が上がった。
 得物を失えば終わりだと思っていた賊たちの顔から、笑みが消えてゆく。
 それでも数は減らない。木々の間から、また数人が姿を見せる。こちらを囲む動きは粗いが、退く先をふさぐ意識だけはあるらしい。ベレトは息を整え、拳を握り直した。正面から押し返すには、体格が足りない。力で上回る相手もいる。ならば近づく。足を止めさせる。腕を使えなくし、膝を崩し、立っていられないようにする。

 そう決めたところで、賊のひとりが横へ吹き飛んだ。
 木の幹に背中からぶつかった男が、声もなくずるずると崩れ落ちる。その向こうから、大きな影が一歩、二歩と土を踏みしめて現れた。
「お前の背中が見えたから追ってきてみりゃあ、ずいぶん楽しそうなことしてるじゃねえか」
 バルタザールは肩を回しながら笑っていた。ここまで走ってきたはずなのに、息はほとんど乱れていない。むしろ身体が温まったと言わんばかりの顔で、近くにいた賊の胸倉を掴み、そのまま地面へ放り投げる。
「囲まれている」
「見りゃわかる」
 言い終えるより早く、バルタザールの拳が次の男の腹にめり込んだ。殴られた男は足から崩れるのではなく、身体ごと後ろへ持っていかれ、仲間を巻き込みながら土の上を転がった。賊たちのあいだに、はっきりと怯えが走る。
 無理もない、とベレトは思う。
 あれは、ただ力が強いだけの拳ではなかった。大きな身体で正面を割り、相手が刃を振るうより早く内側へ入る。肩で押し、肘で受け流し、踏み込んだ足で相手の逃げる先を塞ぐ。そのうえで、最後に拳を叩き込む。力と体格で押し切っているわけではない。しかし確実に、相手の戦意を挫くものがある。
 見ていて、気持ちのよい戦い方だった。
 ベレトはその横を抜け、バルタザールが押し返した男の死角へ入る。伸びてきた腕を取り、親指の向きへひねって膝をつかせると、首の後ろを押さえて土へ伏せさせた。すぐに起き上がろうとしたべつの男の足を払う。体勢が浮いたところへ拳を入れ、息を奪った。
 殴り飛ばすほどの重さはない。けれど、立っていられなくするだけならそれで足りる。
 賊のひとりが、じり、と後ろへ下がった。正面には笑って拳を鳴らすバルタザールがいる。横へ逃げようとすれば、ベレトが踏み込み、足を刈る。どちらへ向かっても無事では済まないと悟ったのか、男の顔から血の気が引いていった。
「ぶっ飛ばした数が少ないほうが、酒を奢るってことでどうだ!」
 バルタザールがそんなことを言い出す。
 勝負に乗るつもりはない。
 そう思いながら、ベレトは低く踏み込んだ。横合いへ逃げようとした男の腕を取り、勢いを殺さず身体の外へ流す。踏ん張ろうとした膝の内側へ足を入れれば、男は自分の重さに耐えきれず、湿った土へ肩から落ちた。呻き声を置き去りにして次へ向かう。
 バルタザールのほうでは、賊がふたりまとめて吹き飛んでいた。
 拳で殴ったというより、壁でもぶつかったような音がした。大きな身体が一歩前へ出るたび、囲みの線がたわみ、崩れ、そこにいた者たちが慌てて後ろへ下がる。けれど下がった先には木の根があり、ぬかるんだ土があり、逃げることだけを考えた足は簡単にもつれた。
「さっきまでの威勢はどうした!」
 楽しげな声に、賊たちの顔がさらに青ざめる。
 ベレトはその隙を逃さなかった。怯えた男の視線がバルタザールへ吸われた瞬間、横から懐へ入り、短剣を持つ手首を押さえる。刃先がこちらへ向く前に肘を極め、男の身体をひねって膝をつかせた。骨を折る必要はない。武器を取り落とし、呼吸が乱れ、立ち上がる気力を奪えればそれでいい。
 背後で、べつの男が叫んだ。振り返るより早く、地面を蹴る音の重さで距離を測る。近い。刃が届く。ベレトは身を沈め、振り下ろされた斧の柄を片手で受け流しながら、もう片方の手で相手の襟元を掴んだ。身体の大きさでは負けている。真正面から押し返せば潰される。だから、押さない。引く。
 男の勢いをそのまま前へ落とし、膝裏を蹴る。斧を振り下ろした力が逃げ場を失い、男はみっともなく土へ転がった。
「やるじゃねえか!」
 バルタザールが笑う。
 ベレトは返事をしない。返事をする代わりに、倒れた男が伸ばした手を踏み越え、次の相手の間合いへ入った。胸元を狙って突き出された槍を身体の横へ通し、柄を掴んで引き寄せる。驚いた男が槍を手放すより早く足を払い、浮いた身体を肩で受け、背中から地面へ落とした。
 息を吐く音が、続けてみっつ、よっつと重なった。
 賊の囲みは、もう囲みではなくなっていた。バルタザールの前では、誰もまっすぐ立っていられない。ベレトの前では、立ったままでいるための足も手も奪われる。逃げようとすればバルタザールに道を塞がれ、踏みとどまればベレトに崩される。
 ベレトは迫ってきた男の拳をかわし、伸びきった腕を抱え込んだ。関節を外す寸前で止める。力の向きを変えるだけで、男の身体は簡単に傾いた。そこへ膝を当て、土へ沈める。
 バルタザールが口笛を吹いた。
「いいねえ、張り合いがあるってもんよ」
 ベレトは黙った。
 代わりに、後ろから忍び寄ろうとしていた男の足首を払った。男が悲鳴を上げるより早く、バルタザールの大きな手が襟首を掴み、ひょいと持ち上げる。
「横から来るなら、もうちょいうまくやれってんだ」
 そのまま近くの仲間の上へ放られ、ふたり分の呻き声が土の上に重なった。
 それで、賊たちの気勢は折れた。
 ひとりが武器を落とす。次にべつの男が背を向けようとする。だが、逃げ道はすでに塞がれていた。森の奥から回り込んできた同盟兵の声がして、木々の向こうで弓弦が鳴る。クロードたちの一帯も片づいたのだろう。賊がこちらを分断したつもりで作った道は、今度は彼ら自身を追い込む細い袋小路になっていた。
 バルタザールは肩を鳴らし、最後まで抵抗しようとしていた男の前へ立つ。
「まだやるか?」
 男はバルタザールの拳と、横で無言のまま息を整えるベレトを見比べた。顔から血の気が引き、錆びた剣が手から落ちる。
 それを合図にしたように、残った賊たちも次々と武器を捨てた。
 ベレトはようやく拳を下ろし、地面に転がっている折れた剣へ目を向けた。拾い上げても、もう使いものにはならない。柄だけになったそれを手に取り、刃の断面を確かめる。運が悪かった、というより、手入れの甘い予備の剣を持ち出した自分の落ち度でもある。
「で、どっちが多かった?」
 バルタザールが嬉しそうにたずねた。
「数えていない」
「酒がかかってるって言っただろうが」
「自分は承諾していない」
 ベレトがそう返すと、バルタザールは声を上げて笑った。土と汗にまみれて、そこかしこに擦り傷を作っているのに、ひどく満足そうだった。
「まあいい。にしてもお前、やっぱりやるな。得物なしであれだけ動けるなら、次は最初から素手でやってみるか?」
「やらない」
「もったいねえなあ」
 捕縛に回っていた同盟兵たちが、どこか遠巻きにこちらを見ている。無理もない。ベレトは折れた剣を手にしており、隣ではバルタザールがまだ晴れ晴れとした顔で拳を鳴らしている。
 バルタザールは、まだ動けそうな賊の襟首を掴み、同盟兵のほうへ押しやった。
「こいつらは頼んだぜ。おれはまだ隠れてる奴らがいないか見てくる」
 そう言いながらも、声はどこか弾んでいる。ベレトはそれを見送ってから、折れた剣を腰へ戻すこともできず、そのまま手に持って歩き出した。

 倒れた荷車のそばで、クロードが指示を出している姿が見えた。
 彼に気づかれる前に、先に修道士たちに診てもらえばよい。腕も指も動く。痛みはあるが、剣を握れないほどではない。報告を終えてからでも、じゅうぶんにごまかせるはずだった。彼の視線がこちらに向いていないことを確認して、ベレトは遠回りをして修道士たちのもとへ向かう。
「先生」
 ふいに、背後から声をかけられ、足が止まった。振り返るまでもない。クロードだった。
「剣はどうしたんだよ。それに、ずいぶん泥だらけじゃないか」
 ベレトは振り返り、何でもないような顔をした。
……剣は、折れた」
「へえ。それで素手でやり合ってきたのか」
「ああ」
 クロードは笑っていなかった。怒鳴りはしない。ただ、こちらの手元と袖口、土で汚れた膝、擦れた拳を順に見て、それからゆっくり目を細めた。
「で、俺に見つからないうちに修道士たちに診てもらおうって?」
……早く診てもらったほうがいいと思った」
「それは正しいな。俺に見つからないうちに、ってところ以外は」
 ベレトは黙った。
 少し離れたところでは、戻ってきたバルタザールがヒルダに捕まっていた。ヒルダは彼の腕や肩を確かめるように見ている。
「バル兄もちょっとは反省してよねー。すっごく心配したんだから」
「いやあ、つい興が乗っちまってな」
「つい、でそんなぼろぼろになるまで戦われるの困るんですけどー」
 ヒルダの声は軽いが、目は笑っていなかった。バルタザールはそこでようやく口を閉じ、ばつが悪そうに首の後ろを掻く。
 クロードはそのやりとりを横目で見てから、短く息を吐いた。怒ろうとしているのはわかる。けれど、折れた剣と、囲まれて退けなかった状況を考えると、いまここで叱りつけても仕方がないと判断したのだろう。
「いったんは見逃してやる。だが、診てもらった結果は聞かせてもらうからな。バルタザールと一緒に」
 そこまで言われて、ベレトはようやく、ぜんぶ見透かされていたのだと気づいた。
 バルタザールが助けに入ったことも、途中から面白がっていたことも、自分がそれに乗ったことも。先に怪我の程度だけを確かめ、たいしたことはないと言い張るつもりでいたことまで。
 クロードが踵を返す。彼の足音が遠ざかってから、遅れて拳が痛みはじめた。

  
2.

 目の前のベレトは、ベレトであって、ベレトではないらしい。
 本人の口からそう聞かされたとき、クロードはまず冗談だと思った。冗談にしては出来が悪いし、なにより笑いどころがない。けれど、目の前の男は笑わなかった。冗談を言うためにそんな顔をするほど器用な男ではないし、そもそもそんな回りくどい真似を好むとも思えない。
 ならば、信じるしかない。信じたところで何がわかるわけでもなかったが、疑ってみせたところで、この奇妙な状況が少しでもましになるわけではなかった。
 仕方なくそう決めて、クロードはあらためて彼を見た。
 顔は同じだった。淡い髪も、感情の読みづらい目も、必要なことだけを口にするところも、よく知る男に似ている。けれど、よく見れば違った。目の色が、ほんの少し沈んでいる。こちらへ向ける視線の置き方も、いつものベレトとは違う。
 あれは、必要だと思えば踏み込んでくる男だった。クロードの都合も、言い訳も、黙っておきたいものも、必要と判断すれば迷わず越える。だが、いま目の前にいる彼は、越える前に一度止まる。こちらが何を言うのかを、待っている。
 その一拍が、どうにも落ち着かなかった。
……そんなに大人しくされると、こっちが調子狂うな」
 軽く笑って言えば、彼は瞬きだけを返した。
「大人しくしているつもりはない」
「そうか? 俺の知ってるベレトは、もっと遠慮がないぜ」
「そういう君は、こちらの自分にも、そんなよそよそしい態度をとるのか」
 返ってきた言葉に、クロードは少しだけ黙った。
「よそよそしい? 俺が?」
「ああ」
……あんたの知ってる俺ってのは、そんなに愛想がいいのかよ」
「愛想はいい」
 彼は迷わずに言った。
「自分は、その愛想によく騙される」
 騙される、という言葉のわりに、声には恨みがなかった。困っているようでもない。むしろ、その愛想ごとよく知っていて、知ったうえでそばにいるのだと告げるような静けさがあった。
 クロードは笑いかけて、うまく笑えないまま息を吐く。
「それ、褒めてるのか?」
「褒めている」
「へえ」
「騙されてもいいと思うくらいには」
……あんた、そういうことをさらっと言うんだな」
 べつの自分の話だ。目の前の彼が見ているのは、このクロードではない。それはわかっているのに、同じ顔をした誰かが、そんなふうに見られているということが妙に引っかかった。
 自分なら、そんな言葉をどう受け取るだろう。笑ってごまかすか、茶化すか、聞かなかったことにするか。おそらく、どれもやる。うまく受けた顔をして、そのあとでひとりになってから、しばらく持て余す。
「君は?」
「俺?」
「こちらの自分を、信用してくれているのか」
「なんだよ、急に」
「自分の扱いで困っているなら、少しは力になれるかもしれない」
「いい手綱の握り方を教えてくれるって?」
 言いながら、クロードは笑った。笑ったが、彼は乗ってこなかった。ただ、こちらの返事を待っている。そうやって待たれるのが、妙にやりづらい。
「そうだなあ……信用してもいいかな、とは思ってるぜ。腕が立つし」
「それだけか」
……それだけ、だよ」
 声の端が、わずかに鈍った。自分でもわかるくらいだった。
 腕が立つ。それはほんとうだ。必要だと思っている。それも嘘ではない。いてもらわなければ困るし、戦場に立てばあれほど頼もしい相手もそうはいない。けれど、それだけで済むなら、もっと簡単だったはずだ。
 彼は怒らなかった。当の本人ではないから当然なのかもしれない。ただ、不思議な気分だった。
「それを、君は自分に伝えたのか」
「伝えたさ」
「ほんとうに?」
……伝えたって」
 言った、とは思う。少なくとも、戦力として買っていることは伝えた。必要だということも、それなりには言っている。けれど、それが信用と呼べるかたちだったかどうかはまたべつだった。相手が受け取れる言葉だったかどうかとなると、もっとあやしい。
 クロードの態度に、ベレトは顔をしかめた。表情の動かし方が、いつも見ているものより少しだけやわらかい。
「君の態度を見るに、伝わっていないと思う」
「言い切るなあ」
「いまでも、そういうことを察するのはむずかしいから」
 クロードは、返しかけた言葉を呑み込んだ。
 いまでも、と彼は言った。それは目の前の男自身の話だったのだろう。べつの世界で、べつのクロードのそばにいるベレトの話。騙されてもいいと思うほど相手を知っていて、それでも、言われなければわからないことがあると言う。
 なら、こちらのベレトはどうだろう。
 あの無遠慮な男は、クロードが言葉にしなかったものをどこまで拾っているのか。必要だと言えば伝わったつもりでいた。戦場に立たせ、策に組み込み、そばに置くことで、じゅうぶんに示したつもりでいた。だが、伝わっているかどうかまでは考えたことはなかった。
……だったら、あんたも助けてやってくれよ」
 ベレトが、わずかに目を細めた。
「そっちの俺も、頼りにしてるくせに、ちゃんと言わないかもしれないだろ。いいように使われて癪なこともあるだろうけどさ」
「正直、癪だと思うことはある」
「あるのかよ」
「でも、頼られるのは嫌ではない。力になりたいと思っている」
 その答えに、クロードは少しだけ笑った。
 目の前の彼は、こちらが黙っているあいだも無理に踏み込んではこなかったが、だからといって退くわけでもない。言葉を選ぶ時間だけを静かに差し出してくるせいで、クロードはかえって身動きの取り方がわからなくなる。
 こちらのベレトなら、軍議が終わってクロードが席を立つ前にはもう隣へ来ているし、戦場帰りに黙っていれば、何をたずねるでもなく顔を覗き込んでくる。必要だと判断すれば、こちらが赦す前に距離を詰め、返事を待たずに手を伸ばす男だったから、黙っていれば相手のほうから来るという気楽さに、クロードはいつのまにか甘えていたのかもしれない。
 策に組み込んでいること。危ない場所を任せていること。失えば困る戦力として数えていること。そういうものを並べれば伝えたことになると思っていたし、実際、それ以上を言葉にしなくて済むならそのほうが楽だったのだと、目の前の男に待たれてはじめて気づかされるのも癪だった。
「戻ったら、伝えたほうがいい」
「何を」
「君がこちらの自分を、どう思っているのか」
「なあ、ほんとに言わなきゃだめか。ちょっとぐらいは伝わってると思いたいんだが」
「言われなければ、わからない」
 責める声ではなかった。けれど、自分もそうだったと知っている声ではあって、その静けさが妙に堪えるので、クロードはすぐに軽口を返せなかった。
「そういうのは、あんまり得意じゃないんだけどな」
「知っている」
「それはあんたの知ってる俺の話だろ」
「いまの君も、得意そうには見えない」
 今度は笑えた。負けた気もしたが、そこを認めるといよいよこのよく似た別人の言い分を聞き入れることになるので、クロードは肩をすくめて、戻れたら考える、とだけ返した。
「考えるだけか」
「まずはそこからだろ」
 そう言ってから、クロードはもう一度彼を見る。目の色は違うのに、こちらを見るときの視線の動きだけは、よく知る男に似ていた。黙っているあいだは待つ。けれど、クロードが笑って話を軽くしようとすると、そこだけはきちんと見ている。自分から踏み込んではこないくせに、こちらが言葉を畳もうとした場所だけは見落とさないのだから、やりづらいにもほどがあった。
 戻ったあと、あの男が同じことを言うとは思えない。ここまで丁寧には待たないだろう。隠そうとすれば、隠した場所ごと踏んでくる。そういうところに救われていたのだと認めるのは癪だったが、言わずに済ませていたものが思ったより多かったのだと、ここで気づかされるのはもっと癪だった。
  


3.

 目の前のクロードは、クロードであって、クロードではないらしい。
 そう聞かされたあとも、ベレトはしばらく彼を見ていた。
 顔は同じだった。垂れた目元も、笑うときの唇の動きも、こちらの反応を測るように目を細めるところも、自分の知るクロードによく似ている。けれど、外見が違った。見慣れた紫ではなく、金を帯びた衣が肩から背中へ流れていて、短く整えられた髭が輪郭に沿っているせいか、頬から顎にかけての線がはっきり見える。同じ顔のはずなのに、いくらか年上に見えた。
 クロードは、見られていることに気づくと、やわらかく笑った。
「そんなに見られると、さすがに照れるんだが」
「見ているだけだ」
「だから、それが照れるって話なんだけどな」
 そう言いながらも、彼は目を逸らさなかった。見られることに慣れている、というより、見られたあとに何を返せばいいかを知っている顔だった。自分の知るクロードも、こちらの視線に気づけば軽口を返す。だが、目の前の彼はもうひとつ落ち着いていて、からかうにも、受け止めるにも、余裕があった。
「髭が気になるのか?」
「気になる」
「正直だな」
「自分の知っているクロードにはない」
「そりゃ、そっちの俺はまだ若いんだろ」
「若いといっても、そんな差はないだろう」
 ベレトはそう言って、彼の輪郭へ手を伸ばした。
 触れる直前で、クロードの手がこちらの手首を取った。強い力ではない。だが、やめさせるにはじゅうぶんだった。
「待て待て。あんた、そっちの俺にもそんな無遠慮な触り方してるのか?」
「していないと思う」
「思う?」
「少なくとも、無遠慮だと怒られたことはない。自分が怒られるのは、無茶をしたときだけだから」
「まあ、そうだよな。俺があんたに対して怒るところって、そのへんぐらいだよな」
 クロードは口元を緩めた。困っているようにも見えるのに、声はどこか楽しそうだった。ベレトの手首を取ったまま、彼は空いたほうの手をゆっくり持ち上げる。
「触るなら、触られる覚悟をしてからにしろよ」
 指先が、ベレトの顎の下に触れた。
 くすぐるような、確かめるような手つきだった。退こうと思えば退ける。しかし、いま退けば、触れられたことを意識したのだと伝わりそうだったので、ベレトはそのまま彼を見ていた。
……そうやって君は、こっちの自分をたぶらかしたのか」
 クロードが、声を立てずに笑った。
「おいおい、人聞きが悪いな。むしろ俺がたぶらかされた側かもしれないぜ?」
「君が?」
「そう、俺が」
 ベレトは彼の顔を見た。まだ笑っている。だが、まったく嘘を言っている顔ではないようにも見えた。自分の知るクロードなら、こういう言い方をするだろうか。考えてみても、すぐには答えが出ない。彼はもっと軽く言うかもしれないし、言ったあとでべつの話にしてしまうかもしれない。
「それは、少しわかる気がする」
「わかるのかよ」
「自分の知っているクロードも、触れられると困った顔をする」
 顎に触れていた指が、かすかに止まった。
……いまのは聞かなかったことにしてやる。そのかわり、あんまり人前でそういうことをべらべら喋るなよ。そっちの俺がかわいそうだろ」
「そうなのか。これは、さすがに怒られるだろうか」
「怒られる、ってより、口をきいてくれなくなるかもな」
 ベレトは黙った。
……それは困る」
「軍議の席とか、必要なところでは話すと思うが。それ以外はわからん」
「まずい」
「だよな。まずいよな」
 クロードは目じりを細めた。顎の下から指が離れても、手首はまだ取られたままだった。このまま触れられていてもよいと、そう思わせる何かが彼にはある気がした。
「そっちの俺もずいぶん面倒な相手を選んだもんだな」
「選んだ?」
「ああ。いや、選んだというより、欲しがったのかもしれないが」
 ベレトは、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。クロードはもう一度、こちらの手首を軽く持ち上げる。咎めるためではない。ただ、そこにあるものを確かめるような仕草だった。
「必要なら踏み込めばいい。そっちの俺は、あんたのそういうところに救われてるんだと思う。ただ、踏み込んだあとで黙ったままにするのは、あんまりよくないと思うぜ」
「雇い主は君なのに、自分が面倒を見るのか」
「ややこしいから、その言い方やめろって。……あんたさ、人の面倒を見るのはべつに嫌いじゃないだろ?」
「嫌いではない」
「じゃあ、見てやってくれよ」
 ベレトは、取られたままの自身の手首を見て、それからクロードを見た。
「だったら自分も言わせてもらう。君も、面倒を見てもらっている相手を手のひらで転がすような真似はしないほうがいい」
「うは、言うねえ」
 彼は笑った。先ほどまでより目を細めて、顎をくすぐったときよりもゆるく、しかしこちらを見逃してはいない顔で。
「そっちの俺も、毎日大変そうだ」
「大変だろうか」
「大変だろうな。けど、悪くはなさそうだ」
 そう言っても、クロードの指はまだ手首にかかっていた。痛くはない。引けば離れる程度の力で、それなのに、彼は離さない。ベレトもまた、強く引こうとは思わなかった。
 何を確かめているのかよくわからないまま、取られた手首だけがその場に残っていた。
  


4.

 目を覚ましたとき、ベレトは自身の寝台にいた。
 そこまでは、おかしなことではない。おかしいのは、身体にかかる布の軽さで、肌着に近い薄さのまま横たわっていると気づいてから、ベレトはしばらく天井を見つめていた。
 記憶は、クロードの部屋で晩酌に付き合っていたところで途切れている。杯を取る。彼が何か言って笑う。酒のにおい。そこから先がない。
 そのうえ、隣にクロードがいた。
 彼は横向きになり、片腕を枕の下に差し込んだ姿勢でこちらを見ている。眠っていなかったのかもしれない。髪は乱れ、襟元は片側だけ引かれたように歪み、袖には皺が寄っている。彼もずいぶんと薄着だった。シャツの合わせが緩んでいて、普段なら服の下に隠れている鎖骨の線が、朝の光の中に少しだけ覗いていた。
 喉が鳴る。
 鳴ってから、自分でその音に驚いた。
……よう、きょうだい。気分はどうだ」
 その声は軽かったが、目の下には眠れなかった夜の色が残っていて、口元だけはいつもの調子で笑っているのに、髪も、襟も、袖も、何もかもが昨夜の何かに巻き込まれたあとのようだった。
 薄着の自分と、乱れた彼の姿と、同じ寝台と、途切れた記憶。それらを並べたところで、考えはひとつの方向へ滑ってゆく。
 いくらなんでも、早すぎる。そう思っても、目の前の彼の襟元は緩んでいて、そこに視線が吸われたことも、慌てて戻したことも、もうなかったことにはできなかった。
 もしかして。
 やはり、そういうことなのかもしれない。
……自分は、君に何をした」
 声は思ったよりも掠れていた。
 クロードは、ほんのわずかに口の端を上げる。疲れているくせに、こちらの反応を見て楽しむだけの余力はあるらしい。あるいは、そう見せようとしているだけかもしれない。
「へえ、まずそこから聞くのか。水がいるかとか、頭は痛くないかとか、昨日の酒は強かったとか、あんたが言い訳できるかたちをいくつか用意してやるつもりだったんだけどな」
 彼がそう言うなら、昨夜、自分は言い訳を必要とすることをしたのだろうか。彼がこちらのために、わざわざ軽口のかたちへ整えて渡してやろうとするくらいのことがあったのだろうか。
 ベレトは目の前の襟元から視線を引き剥がした。見てはいけない気がする。だが、見なかったことにはできない。彼の服は乱れている。自分は薄着だ。寝床に入るまでの記憶はない。そして、彼は疲れている。
「答えてくれ」
「答えたら、あんたはどうするんだよ」
 クロードはゆっくりと自分の袖へ視線を落とす。
 その仕草だけで、ベレトの中の空想はさらに悪い方向へとねじ曲がる。袖を引いたのか。襟を掴んだのか。あの首筋に顔を寄せたのか。見えていた鎖骨のあたりに、指をかけたのか。覚えていないからこそ、どれも否定できない。
……一線を、越えたのか」
 彼は、すぐには答えなかった。
 その沈黙が、答えのように思えた。
 ベレトは寝台の中で手を握りしめる。クロードがここにいて、疲れた顔をして、思わせぶりな言葉の陰に何かを隠しているのなら、知らなかったことにはできない。覚えていないことを、なかったことにはできない。
 彼は少しだけ笑った。
「俺の口から言わせる気か?」
 ずるい声だった。ベレトは、答えられない。
……責任、取ってくれるよな。先生」
 軽い声だった。冗談にしようとしている。けれど、ベレトにはそれを冗談として受け取る余裕がなかった。乱れた襟、袖、疲れた目、自分の薄い服、同じ寝台で目を覚ました朝、さっき喉が鳴ったことまで、ひとつずつその言葉の下へ集まってくる。
「わかった」
 クロードの笑みが、わずかに止まる。
「責任は取る。順序がよくなかったことはわかっている。自分に記憶がない以上、君の言葉を疑う理由もない。君が望むなら、自分はできる限りのことをする」
……先生?」
 最初は、償いのつもりだった。
 だが、言葉にした瞬間、胸の奥で何かが変わる。クロードは朝までここにいた。酔った自分を放り出さず、眠れないままそばにいて、目を覚ましたあとも逃げずにこちらを見ている。罰を引き受けるつもりで口にしたはずの言葉が、彼がそれを求めたのだと思った途端、なぜか背筋が震えた。怖い。申し訳ない。それなのに、責任を取れるのなら取りたいとも思う。
「大事にする」
 ベレトが言うと、クロードが眉を寄せた。
……一応確認するが、何を大事にするつもりだ?」
「君を」
 彼はしばらく黙っていた。
 それから、息を漏らす。最初は咳のようだったが、すぐに肩が揺れて、片手で口元を覆っても隠しきれない笑いになった。ベレトが見ている前で、彼はとうとうこらえきれずに吹き出した。
「悪い、先生。そこまで真に受けるとは思わなかった」
 ベレトは瞬きをする。
……嘘なのか」
「嘘つーか、そこまでの話じゃない。あんたは酔って暑がって、俺が水を取りに行っているあいだに服をどんどん脱ごうとして、俺はこれ以上脱ぐなってあんたを止めながら散らかったものをどうにか片づけて、そしたら急に襟を掴まれて、寝台に引きずり込まれた。で、逃げようとしてもあんたが離してくれないもんだから、結局ここで朝を迎える羽目になった。それだけさ。俺は何もされてないし、あんたにも何もしてない」
 あっけらかんと、答えを放り投げられる。ベレトはそれを、少し遅れて受け止める。
 一線は越えていない。自分が思ったようなことは起きていない。それに安堵してよいはずだったが、彼に言われた言葉だけは、もう元の軽さへ戻らない。

 ベレトは布の下でクロードの手を探る。指先に触れると、クロードは逃げなかった。だから握った。
 笑っていた気配が、そこで止まる。
 ベレトはそばにある身体を抱き寄せた。乱れた布が膝のあたりで擦れる。さっきまで冗談を言っていた男が、急に言葉を失くしたのがわかった。


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