@twirl_rabbit
女のような格好をすることが好きなわけではない。だが、着飾ることは気分がいい。
女のように蠱惑的に男を誘いたいわけではない。だが、そうして演じることは楽しい。
女のように思わせぶりな振る舞いをしたいわけではない。だが、相手の慌てる反応は面白い。
気分がいいことが好きだ。楽しいことが好きだ。面白いことが好きだ。そうやって好きなことばかりをずっとずっと味わっていたい。それは誰しもそうだと思っていた。
それなのに、自分の兄弟たちも、第一部隊の連中も、この本丸で最強の刀剣も、みんな辛いことをしにいく。苦しいことを感じにいく。それが不思議で不思議でしょうがなかった。「それ」に目をつぶっていれば、「それ」を無視していれば楽しいままなのに、どうしてそんなことをするのか理解できない。
「ねえ薬研」
「どうした、乱」
内番姿の兄弟は、ずれそうになる眼鏡を直しながら振り返ってくれる。その心まで通ってくるような目線が、曇っていた時期が少しでもあったことを知っている。
「どうして、あの人のところに行ったの?
辛いだけなのに。」
そしてその曇りが、あの人のところに行ってから綺麗に晴れたということもまた、知っている。
「……おいおい、随分といきなりだな?」
「ちょっと気になって。」
いつだって丁寧に手入れしている髪を、指先で触れる。その癖治せよ、と言ってきたのは誰だったか。
自分の兄弟は呆けたように自分を見ているが、顎に指を添えて虚空を仰いだ。
「そうだなぁ。」
考えるときにそうやって顎に指を添えるのは、目の前にいる兄弟の癖だ。誰にだって何かしらの癖はあるのだし、意識して治そうとしないかぎり早々自然に治るものではない。
自分で治そうと思うか思わないか、その境界線はなんなのだろう。
「辛いだけ、なぁ。」
「そうだよ。」
別に無視しててもいいはずだ。己も周囲も、今まで「無視」してきていたはずだ。それを直視することは苦しかったり煩わしかったり悩ましかったり、自分にとって何一ついいことにはならない。
気分が良ければいいじゃないか、楽しければいいじゃないか、面白ければいいじゃないか。そうして「今の生き様」を楽しんでいければいいじゃないか。ただでさえ、連日「恐怖」と戦っている自分たちだ。その「恐怖」を持て余すことだってあるのに、さらにそこに自分を追い込むようなことをしてどうしようというのだろうか。
自分には理解できない。
「苦しいのは嫌だった。」
「じゃあ苦しいことをしなければいいじゃん。」
「でも、苦しいを受け入れなきゃいけないことも、あったんだ。」
「……意味わかんないよ。」
兄弟の言う意味が、分からない。相手にもはっきりそれが伝わるように、不服そうな声と不満そうな顔を作って訴えれば、兄弟は眼の奥で、笑う。
ほら、そういう顔をするのだ。
何かを知ってしまった顔を、するのだ。
「わからないなら、聞いてこい。」
「はぁ?」
「大将と関わった奴らに、聞いてこいよ。」
そうすりゃ見えてくることもあるさ、そういって兄弟は、先ほどの笑顔なんか忘れたように晴れ晴れと笑った。
「というわけで、五虎退、教えて」
「え、え、」
虎を抱いた兄弟は、戸惑ったように自分を見ている。兄弟に抱かれていたり、足元でおとなしく座っている虎たちは、何か面白いことがあるのか伺うようにこちらを見上げてきている。
兄弟は気づいたら、あの人と仲良くなっていた。それまでは話すことはおろか、近づくことすらなかったのに。自分が遠征に行っている間に五虎退や他の刀剣も一緒にあの人に近づいたようで、今ではちょくちょく会いに行っている始末だ。自分も何度も誘われたが、断っているうちに誘われなくなった。それなのにこうして、あの人に関することを尋ねられたのが不思議なのだろう。目に浮かぶ感情が戸惑いが知らぬうちに好奇心の色に変わりつつある。
目は口ほどに物を言う、とはこういうことをいうのだろう、としみじみ感じた。
「どうして、主様のところにいったか…?」
「そう、」
「うーん……どうして、って言われても…」
そっと、兄弟は目を伏せて少しだけ唇を尖らせた。これは兄弟が何かを思い出そうとするときの癖だ。白い肌の上にある桃色の唇が可愛らしくて、それを指摘したら顔を真っ赤にしていた。そんな癖があったんだね、と困ったように言っていたけれど、可愛らしいから別に治さなくてもいいように思う。
不意に、ペタ、と何かが足に触れた。見下ろせば、虎の一頭が己の右足に前足を掛けている。懐こい虎を抱き上げてから、もう一度兄弟に目線を戻す。話すことがまとまったのか、思い出す時の癖はなりを潜めてしまっていた。
「気づいて、しまったから。」
「気づいたから?」
「うん…、気づいたから。」
兄弟はその時のことを教えてくれた。虎が迷子になったこと、あの人のところに虎がいたこと、怒るどころかとても優しく接してくれていたこと、なぜ避けていたのか考えたこと、気づきそうになってその場から逃げたこと。
「……逃げたならそのまま、逃げてしまえば良かったのに。」
「それは……、」
兄弟の睫毛が震える。責めているわけではないのだが、なんだか悪いことをしている気分になってきた。考えさせてごめんね、とこちらが謝る前に、兄弟はまた口を開く。
「気づいてしまったから、逃げることができなかったんだ。」
そういった兄弟の目は、とても真っ直ぐなものだった。そしてその目に浮かぶ色に見覚えがある。
聞いて回るきっかけをくれた兄弟が浮かべた、「何かを知ってしまった」色だ。
「乱も、わかるよ。」
「わかんなくていいもん。」
「……じゃあ、なんで僕に聞きに来たの?」
兄弟に言われたから、というのはあくまで後付の理由だ。そもそも兄弟に聞きに行った理由こそが、いま目の前にいる兄弟からの質問に最もふさわしい答えだとは思う。ただそれを言おうとする唇の動きが、ひどく重い。
「……三日月さんに、聞いてみたらどうかな。」
「は?三日月さんに?っていうか、三日月さんもあの人に何か聞きに行った人なの?」
「うーん……わからないけど、でも、雰囲気、変わったよね。
僕は、上手に伝えられそうにないから」
それに僕達よりも、最初の頃から主様と一緒にいた方だよ。
虎を抱え直しながら、兄弟は笑う。そうして、前までとは違う真っ直ぐな瞳で、ね?と念を押してきた。
彼がいる周囲は、ふうわりと芳しい香りがする。なにかの香を焚きしめているのか、すれ違いざまに鼻をくすぐるその香りは好ましい反面、どこか遠い存在のように感じさせた。事実、三日月宗近という刀剣とはそこまで接点はない。「あの人と交流できる刀剣」、というのが少し前までの認識だった。
「ふむ、そう固くなるな。」
「え、あ、うん。」
三日月宗近と大広間へ通じる縁側で並んで話をする日がくるとは思わなかった。憧れていたあの香りが、彼が身動ぎするたびにいやらしくない程度に感じられる。
「して、聞きたいこととは?」
「ぁ…え、えっと……」
どのように尋ねれば良いのだろうか。どうしてわざわざ「苦しいこと」を味わいに行くのか?どうしてあの人に自分の弱いところをさらけ出せるのか?どうして楽しいことばかりじゃ駄目なのか?そもそもこんなことを聞いても良い相手なのだろうか。言葉の何もでなくなってしまった自分に、そうさなぁと太刀は呟く。
「この世界というものはとても色鮮やかだ。」
「……え、」
「目をこらせ。」
皮手袋に包まれた手が、外を指し示す。空を、木々を、池を、地面を指し示す。
自分の目には普通の景色にしか見えない。確かに美しいのかもしれない。しかし、ただ青が、緑が、水色が、茶色が、赤が、黄色が、そんな普通の色が置かれているだけだ。
言わんとすることがわからずに、戸惑って隣にいる彼を見上げる。三日月の浮かぶ瞳はいまはまっすぐに庭を見ていて、こちらを見ることはない。だからまた思わず、目線を前に戻した。けれどそこにはやはり変わらずに、普通の色があるだけだった。
「……刀剣として、いままでは在った。」
玲瓏たる声が、鼓膜を震わせる。綺麗な声だなぁ、と思いながら、顔はそのまま前をむいたままに目線は隣を見る。あいも変わらず美しい顔は、庭を見つめ続けている。ただそこに、ぱちり、ぱちりと音が加わった。その彼の手元を見れば、一振りの扇子が握られていた。それを、開いては閉じ、開いては綴じをゆるやかに繰り返している。ぱら、ぱちり、ぱら、ぱちり。それは無意識に行われている動作のように思えた。もしかしたら、彼の癖なのかも知れない。気分が落ちついている時の、心が穏やかなときに現れてしまう、癖。それを無理に治そうとするのは、逆に心に悪い影響を与えそうだ。
そうだ、治さなければいけない、などということはないのだ。
「刀剣として在ったときは、このような色を感じることはなかった。空は空、木は木、水は水、地面は地面。ただそれだけの意識しかなかった。
それがどうだ……人間となって「感情」を得て「感性」を得て、俺はこんなにも「普通の光景」を「美しい」と思い、それが心地よいと感じている。」
素晴らしいことだろう?そうして言いながら、彼はようやくこちらを見た。その顔に浮かぶ表情は、やはり「何かを知っている」雰囲気を匂わせてくる。
その表情でようやく、踏ん切りがついた。
いまだ、いまこの瞬間を逃してはいけない。聞け、聞くんだ。じくりと痛むほどに腹の奥が熱くなる。どくりと胸が無様に脈打つ。反面して唇は震えそうになるのが情けない。それでも「聞け」と誰かが叫んだ。
「……あの人と何か話すのは、苦しくないの?」
「苦しい…?」
果て、と、突拍子もない質問に彼は首をかしげた。しゃらりと頭につけている飾りが涼し気な音を鳴らす。ごくりと生唾を飲み込む音が、自分の頭の中に直接響いてきた。
「薬研も、五虎退も…あの人と、話したの。話して、苦しくなったって言ってた。
それでもその後も何度も、あの人に会いに行ってる。
もしかしたら苦しかったのはその時だけなのかもしれないけど、でも、でも…また、苦しくなるかもしれない。それなのにどうして、あの人のところにいくの?苦しいことをなんでしにいくの?」
楽しいことだけでいいじゃん。言い放った語尾が、荒い。ぜ、ぜ、と息が上がりそうになるのを必死に抑えこんだ。浅くなった呼吸を深いものに変えて、ばくばくと走り抜けそうな心臓が落ち着くよう、それだけに集中する。
彼は自分を見たまま、何も言わない。ただほんのりと唇に笑みを浮かべて、こちらを見上げてきていた。
「苦しみは、悪いものだ。」
「そうだよ、苦しいのなんて大嫌い!」
「だが、それがないと味気ない。」
味気ない、といったのだろうかこの太刀は。思わず一瞬呼吸が止まった。はく、と動いた唇が無意識に言葉を放ちそうになる。被虐趣味でもあるの?と。しかしそんな雰囲気ではないからこそ唇は動くだけで言葉を紡ぐこともなかった。そうしてものも言えない自分に、彼は穏やかな笑みを浮かべたまま、言った。
「和泉守にも聞くといい。あれは、悩んで悩んで、悩んでから主に会いに行ったやつだ。」
きっと答えをくれるぞ、そうやって笑う彼の笑みに合わせて、ふうわりとあの香りが漂った。
「いずみ、」
「……和泉守、だ。」
「ねえ、いずみ。」
「あんだよ」
あ、今日は機嫌がいい。
会ったときに彼の機嫌を伺うようになったのはいつのころからだっただろうか、思い出すこともできない。無意識のうちに相手の顔色を伺う、これも癖に含まれるのならば、自分は癖のかたまりなのかもしれない。あまり褒められた癖ではないから、治すべきなのだろうか。癖なんて本当は、気づきたくないものなのに。
「いずみ、どうしてあの人と話したの?」
「……あ?」
「苦しくなかったの?」
薬研は苦しかったと言っていた。五虎退も苦しかったと言っていた。三日月宗近は何も言わなかったけれど、おそらくはきっと苦しい思いをしたのだと思う。そうすれば本当に不思議でしかなかった。
どうして苦しいことをするのか、どうして辛いことをするのか、どうして楽しいことだけではだめなのか、どうして楽なことだけではだめなのか。
本丸の、廊下。おそらくは部屋に帰るのであろう彼を捕まえて、問いかける。ねえなんで、どうして。自分の手はしっかりと、彼を逃がさないように彼の誇りである浅葱色を掴んでいる。
しばらくは顔をしかめて、彼は自分を見ていた。その空色の瞳の奥に宿る色はなんだろう。その色を探っているうちに、彼は目を閉じた。はー、と深く溜息を吐きつつ、右手が後頭部をがりがりと掻く。面倒事を請け負ってくれるときの彼の癖だ。馬番とか畑番とか、相棒である脇差に「一緒に頑張ろうね」と言われるたびに、彼はその動作を見せている。
「苦しいし、辛いもんだ。」
「じゃあなんでそれをしにいったの。見なくていいじゃん、感じなくていいじゃん、自分からいかなくてもいいじゃん。どうして?」
矢継ぎ早にそう問いかければ、やれやれというように彼は口を開いた。
「苦しいことから、逃げるのはそりゃ楽だろ。」
でもな、と彼は続ける。
苦しいことから逃げるのは楽だ。しかし、そうして楽になって呑気に過ごして、不意にその「苦しいこと」を思い出したとき、どう思う?どう感じる?きっと最初に苦しいと思ったときよりも、ずっと苦しい。ずっと苦しくて、辛くなる。そうしてまた忘れたいからと逃げて、忘れようとして、楽しく生きようとすればするほど、その苦しいことはどんどん大きく重くしんどくなっていく。周りにせっつかれて動くようになったときには、その重さがしんどくてしんどくてたまらない。苦しくて辛くてが倍の倍以上になって自分の心におしかかってくる。
「お前はそれでも、苦しい、辛いから逃げんのか?」
「……それは、…でも、」
彼のいうことはとてもよく分かる。よく分かるということがどういうことなのかを考えるのが、また苦しかった。どうしよう、こんな思いをするんだったら聞きに来なければよかった。自分の中に疑問だけを抱えて、いつしか忘れるようになるまで無視していれば良かった。
目の前に立つ彼がいつの間にかとても大きくて重圧をかけてくる存在になった気がした。自分の手が浅葱色から離れる。その布にはしっかりと握っていた皺がついていて、いつの間にか力を込めて握っていたことを思い知らせてきた。それがなんだか癪に障って、心がムカついた。
「じゃあ言い方変えるか?」
「……え?」
「お前、気づいてんだろ。「苦しい」ことに。そっから逃げたいのに逃げれないから、あちこち聞いて回ってんだろ。」
ざっくりと、言葉が心にささった気がした。
気づいている?苦しいことに?なんのことだ、何を言っているんだ。ひくりと口の端が震えた。笑おうとしたのに笑顔が上手く作れない。笑えない。いつもの軽口でごまかそうとしても、頭がうまく回らずに唇が少しも動かない。
気づきたくない、知りたくない。「それ」を抱えていることに気づくことは更に苦しくて辛い。
笑っていたい。楽しいことをしていたい。面白いことをしていたい。気分よく過ごしていきたい。それは誰しもが思うことだ。誰しもが思う、ことだ。
「乱藤四郎、」
「な…なに、」
「お前が背負う「粟田口」に顔向けできないことだけはすんなよ。」
そうして、ぽん、と頭の上に乗った彼の手は、妙に熱く感じる。
鼻の奥が痛い。唾液が口の中に溢れてくる。喉が不自然にしゃくりあげそうになったのをぐっと堪えれば、喉の粘膜がびりびりと痛みを生んだ。
何から自分が逃げたいのか、を今更自分で思い知るつもりもない。けれどトボトボ歩く廊下の先に、兄弟が立っていた。
「よう乱、答えは出たか?」
「……みんなに聞いて回るなんて、しなきゃよかった。」
苦しいを放置すればもっと苦しくなる、辛いを放置すればもっと辛くなる。
そんなの知っている。知りすぎている。それでもそれに向き合うには、何かが足りない。
それは勇気だろうか、希望だろうか、奮い立たせるための褒美だろうか。
悩んでいる己を見て、兄弟もまた頭を撫でてくる。黒手袋に包まれた手はやはり、熱すぎるような温度で、今度は目頭が痛いほどの熱を持った。針で差されたような、そんな一点に集中してくる痛みだ。
自分は何をしているのだろう。わかっているくせに兄弟に訪ねて、聞いてまわれと助言を貰い、あちらこちらに赴いて話を聞いて、結局は「苦しいことから逃げるな」なんてごくごく当たり前の情報を上塗りしただけだった。
そして、はたと気づく。
一つ答えの出ないことが、あった。
「ねえ薬研。」
「うん?」
「……三日月さんが言ってたの。」
苦しみがないのは味気ない、それの意味がわからない。ただの被虐趣味をさらけ出した言葉ではないはずだ。その言葉の意味を知ることができれば、なにか、何かを得られる気がする。
藁にもすがる思い、とはこういうことなのだろうか。
「味気ない…ねぇ、なるほど。」
くく、と楽しげに兄弟は笑う。
笑って、言った。
「俺っちたちは「感情」なんて持ち合わせてるから、こうして悩む。苦しむ。辛くなる。」
「うん。」
「だが「感情」を持ち合わせてるから、楽しい。面白い。気分が良い。」
「……うん。」
わかるか?と、兄弟が笑った。
「苦しいや辛いを乗り越えた先に、もっと強い楽しいや面白いがある。」
「先に?」
「ああ……それが、「成長」ってやつなんだろうなぁ。」
頭を撫でてくる手は優しいのに、言葉も視線も強い。鋭い刃先のように冴えて煌めくその目が、兄弟の本心を物語っているように感じた。
その本心が、自分の感情にじんわり染みこんで動かしてくる。
「辛い、苦しいから逃げる癖、治そうや。まずは、そこから。
怖いなら、一緒にいてやる。俺っちだけじゃねえぜ、一兄含む粟田口全振りがついてんだ。」
声による、返事はない。
ただ、ぱたりと足元に水が落ちた音が、自分の答えを示している気がした。