本編(翠風)軸で、マシュマロでいただいた「レトクロが何らかの理由で2人だけで修道院から離れて外で活動する話」です。1頁目が士官学校時代、2頁目が5年後です。
リクエストありがとうございました🙌💞
@Bombwooo
1.
俺は、勝てばそれでいいとは思っていない。
敵を退ける。陣を奪う。勝ち筋を拾う。そういうものを考えずにいられるほど気楽な立場にいるわけじゃない。けれど、ただ勝つために味方を削り、敵を削り、最後に立っていたほうが勝ちだと言われても、その先に残るものを欲しいとは思えなかった。
だから策を練る。できるだけ犠牲を少なく、次へつながるかたちで戦うために、使えるものを数え、動かせる者を見極め、退くときの道まで先に考える。
綺麗事だと笑う奴もいるだろう。実際、そういう目を向けられたことは何度もある。欲張りだと言われれば否定もできない。
俺だって、もちろん勝ちたい。だからといって、そのために切り捨てるものを増やし続ければ、いつか勝つ意味そのものがなくなる。
そう口にすれば、理想ばかり見ているように聞こえることもわかっていた。
でも、先生は笑わなかった。
修道院から離れた丘陵の端で、風に倒れた草を踏みながらこちらの話を聞いていた彼は、ただ一度だけうなずくと、足もとに落ちていた小枝を拾った。
「なら、先に決めておくことがある」
返ってきたのは、慰めでも、感心でもなかった。俺の言ったことを否定せず、そのまま戦場へ持ち込むにはどうすればいいかを考える声だった。彼は土の上に線を引き、ここが本隊、ここが追手、ここが負傷者の出た場所だと、乾いた地面に簡単な盤面を作ってゆく。
「退くことは、負けそうになってから考えることではない」
彼は、土の線から目を離さないまま言った。
「追われてから道を探しては遅い。足の速い者と遅い者で隊が割れる。負傷者を拾う者が決まっていなければ、誰かが引き返す。引き返せば、そのぶん全体が遅れる。敵に、こちらを追えば危ないと思わせるかたちを作らなければ、背後から崩される」
その言い方には、教本を読み上げるような硬さがなかった。知っているのだと思った。そういう場に何度も立ったことがあって、誰かを下げるために何を見なければならないかも、下げ損ねたときに何が起こるかも、この人はきっと身をもって知っている。
「負傷者を誰が拾うか。敵の目をどこで止めるか。先に道を確保するのは誰か。退くと決めてから考えるのではなく、戦う前に決めておく」
枝の先が土を削る。細い線がいくつも引かれ、その一本が俺の立つべき場所へ伸びた。
「それから、君の位置も」
思わず顔を上げると、先生はこちらを見ていた。
「君は、何かと前に出がちだから」
責める声ではなかった。呆れているわけでもない。ただ、これまで見てきたものをそのまま置くような声だった。
「それは、悪いことではないと思う。だが、退くときに級長が前に残っていると、皆がそちらを見ることになる。君がまだ戦っているなら、自分も退かなくていいのだと思う者が出る。戻らなくていい者まで、君のもとへ戻ることになる」
反論するには、思い当たることが多すぎた。
前へ出るのは、必要だからだと思っていた。穴が空けば埋める。誰かが遅れれば支える。追手の目を引く者が要るなら、俺がそこへ回る。それがいちばん早い。そう思っていたし、実際そうするしかない場面もある。けれど先生は、そのあとに誰が俺を見るのか、誰が足を止めるのかまで話していた。
ちゃんと見られている、と思った。
見透かされた、とは違う。暴かれた、というほど大げさなものでもない。俺が何を考えてそうしているのか、先生がすべてわかっているとは思わない。それでも、俺の動き方を見て、その結果として誰がどう動くかまで考えている。
だからこそ、先生の指摘は耳に痛いのに、不思議と嫌ではなかった。
「君が前に残らずに済むかたちを、先に作っておく。君が動かなければならない場所を減らす。そうすれば、ほかの者も余計な判断をしなくて済む」
先生は、俺の立ち位置を示す線を後ろへ引いた。そこは本隊の真ん中ではない。かといって、最後尾でもなかった。前と後ろの両方を見ることができて、指示を飛ばせる場所。敵から見れば狙いづらく、味方から見ればそこにいるとわかる場所だった。
「ここにいるのがいい。君の姿が見えれば、皆は君の指示を待てる。君が下がれば、下がっていいのだとわかる」
「俺が下がっても、敵が追ってきたら?」
「そのために、役割を決めておく。足止めをする者、負傷者を拾う者、退路を確保する者を分ける。全員が同じことをしようとすると崩れる」
先生の言葉は平らだった。脅されているわけでも、諭されているわけでもない。戦場で起きうることを素直に並べて、そのうえでどうすれば少しでもましなかたちにできるのかを示してくれている。
「それでも、予定通りにいかないことはある」
先生はそう言って、枝を止めた。
先生は俺を見ていた。さっきと同じ真剣な顔だった。土の上に引かれた線より、その目のほうがずっとまっすぐで、俺は言葉を失った。
「もし君が下がりきれなかったら。そのときは、自分が君を守る」
よろこんでいい言葉ではなかった。
俺のしくじりで、この人が傷つくかもしれない。下手をすれば、死んでしまうかもしれない。俺がうまく動けなかったときの話をしているのだから、本来なら、ありがたいと思うより先に気を引き締めるべきだった。
それでも、守るとはっきり言ってもらえたことがうれしかった。
ずっと欲しいと思っていたものが、ほんのわずかに輪郭を持った気がした。血のつながりでも、家の名前でも、利害でもなく、ただそうすると決めてもらえること。危うい場所に立つなと言われるだけではなく、立つことになったなら引き戻すと言ってもらえること。
この人なら、と少しだけ思ってしまった。
軽く返すことはできなかった。からかう隙も、冗談にして流す余地もない。ただ、そうすると決めている人に何を言えばよいのかがわからなかった。
俺は返事を探すふりをして、土の上に引かれた線へ視線を落とした。
「……わかった。先生に助けられなくて済むよう、先に手を打つ」
「それがいい」
先生はそう言って、また枝を動かした。さっきまでの言葉がこちらに何を残したのか、まるで気づいていない顔だった。気づいていないからこそ、俺は困った。
話を聞くふりをしながら、つい先生の顔を盗み見る。
すると、目が合った。
慌てて土の線へ視線を戻す。説明を聞いているか、理解しているか、先生はそれを確かめているだけなのだろう。そこに余計な含みはない。ないはずなのに、こちらばかりが余計なものを抱えている気がして、二度目に目が合ったときには、さすがに気まずくなった。
「クロード」
「聞いてるよ」
「ならいい」
ほんとうに、それだけだったらしい。
先生は何でもないようにうなずいて、追手を止める位置へ線を足した。俺は今度こそまじめに聞こうとして、土の上の盤面に目を凝らした。敵の数、こちらの負傷者、地形、風向き、道の悪さ。先生の言葉をひとつずつ拾ってゆくうちに、いつの間にか陽は傾いていた。
そのとき、腹が鳴った。
思ったよりはっきり鳴った。
土の上の線より、先生の説明より、何より先にその音が耳へ届いて、俺は一拍遅れて自分の腹を押さえた。
先生は枝を持ったまま、こちらを見た。
聞かれた、と思った瞬間、顔が熱くなる。さっきまで命の残し方だとか、退くためのかたちだとか、わかったような顔で聞いていたくせに、腹ひとつ黙らせられないのかと自分で自分に言いたくなった。
「……いまのは、聞かなかったことにしてくれないか」
そう言うと、先生はまじめな顔のまま、手もとの枝を土の上へ置いた。
「帰ろうか」
腹が鳴ったことを、俺が思うほど大きなことにはしなかった。ただ、空の色と俺の顔を見て、ここで区切るのがよいと決めたらしい。そのまっすぐな扱い方がありがたくもあり、余計に恥ずかしくもあった。
「いや、もう少し聞きたい。頼むよ。大事な話だからさ」
言ってから、ますます恥ずかしくなった。照れ隠しに聞きたいと言ったようにも聞こえるし、実際、その気持ちがまったくなかったとは言えない。だが、それだけではなかった。先生の話のひとつひとつが、俺の知りたかったものに近かったからだ。
彼は俺を見て、少しだけ考えた。
「わかった」
先生は枝を拾い直し、さっき引いた線のうち、いちばん外側のものを指した。
「追手がここまで来たら、もう粘らない。敵の足を止める役が残っていても、合図を出して引かせる。残る者がいるかたちに慣れると、次もそれでどうにかしようとする。そうなる前に、これ以上続ければ戻れなくなる線を決める」
勝つための線ではなく、戻るための線。先生は屈むと、土に引いた細い筋を指先で軽く均した。ここを越えたら終わり、ではなく、ここで終わらせる。そう決めることも、戦いのうちなのだと彼は言っている。
俺はうなずいた。
腹はまだ気まずいほど存在を主張していたが、ここで聞き流すのはもったいないと思った。
「よし、覚えた」
「なら、今日はここまでにしよう」
先生はそう言って、今度こそ枝を草の上へ戻した。土の上にはいくつもの線が残っている。風に乾いた土が少し崩れて、いくつかの線はもう端から曖昧になっていた。それでも、どこに本隊がいて、どこで敵の目を止め、どこで俺が下がるべきなのかは、まだわかった。
先生が立ち上がる。
俺も続こうとして、腹のことを思い出した。思い出さなくても、体は正直だった。さっきからやけに軽い風が腹のあたりを通り抜ける気がして、何か言われる前に咳払いをする。
「先生は、腹減ってないのか」
「減った」
あまりにも普通に返ってきて、今度は俺のほうが彼を見ることになった。
「減ってたのか」
「ああ」
「だったら先に言ってくれよ」
「慰めのように聞こえると思ったから、言わなかった」
そう言われると、文句を続けづらい。実際、俺は話を聞きたかったし、先生はそれに付き合ってくれた。腹を空かせたまま、俺の綺麗事を戦場で使うための線に変えてくれていた。
俺は頬の熱がまだ引いていないのを自覚しながら、土の上に残った線をもう一度見る。さっきまでそれは、隊を下げるための道筋だった。いまはもう、俺と先生が修道院へ戻る道にも見える。
丘陵を下りると、遠くに大修道院の屋根が見えた。夜と呼ぶにはまだ早いが、昼からはかなり外れた時間で、腹が鳴ったことを早く忘れたいのに、忘れるには腹が減りすぎていた。
「今日は何があったかな」
食堂の献立を思い出そうとしただけだった。なのに先生は、間を置いてから、こちらを見た。
「君の食べたいものがあるといいな」
当たり前のことのように言われた。
腹が鳴ったことを笑われなかっただけでもじゅうぶんだったのに、帰ったあとの食事まで、先生の中ではもう俺と一緒のものになっているらしい。守ると言われたときほど強くはないが、それでもうれしい。
「……先生は? 食いたいものとかないのか?」
「自分は、残っているものでいい」
「それじゃ選ぶ楽しみがないだろ」
「君が食べたいものを選べばいい。自分は君と同じものにする」
まじめな顔で返されると、こちらが余計なことを言ったみたいになる。たぶん彼は、ほんとうにそう思っている。そこに深い意味はない。ないはずのに、そういうものほど、妙に残る。
帰るための道を先に決めておく。下がりきれなければ、守ると言ってくれる人がいる。帰ったあとに、食べるものの話をしてくれる。
そのどれもが、俺が思っていたよりもずっと近い場所に並んでいた。
2.
クロードが神妙な顔でついてきてほしいと言ったので、自分は報告書をめくる手を止めた。
それ自体は、珍しいことではなかった。彼は何かと自分へ声をかけるし、目を借りたい、腕を借りたい、先生にしか頼めないと、冗談めかして言うこともある。だが、その日のクロードは、いつものように軽く片手を上げてこちらを呼ぶのではなく、声を落として、自分の前に立った。
「修道院からそう遠くない場所に、使えそうなところを見つけたんだよ。飛竜ならすぐだ。これはあんたにしか頼めない」
そこまで言われれば、断る理由はなかった。
道か、水場か、あるいは敵に使われる前に押さえておくべき場所か。
戦が続く以上、修道院の近くに見落としている地形があるのなら確認しておいたほうがよい。クロードがわざわざ自分を呼ぶなら、武器を持っていたほうがいいのかとたずねると、彼は手を顎にやったのち、いつものものがあればじゅうぶんだと言った。
じゅうぶん、という言い方が引っかかった。
だが、クロードはそれ以上説明しなかった。飛竜の支度は済ませてあると言い、先に厩舎へ向かう背中は、急いでいるようにも、浮き立っているようにも映った。どちらとも決めきれないまま、自分はそのあとを追った。
飛竜の翼は、修道院の外壁を越えるとすぐに風を掴んだ。
夏の前の空はよく晴れていて、雲は薄く、高いところで白く伸びていた。眼下には森の緑が重なり、ところどころに乾いた道が見える。大修道院の塔が遠ざかるにつれて、人の声も、訓練場の音も、鐘の余韻も風に削られていった。かわりに、翼が空気を打つ音と、クロードが手綱を引く音だけが近くなる。
彼の背中は、いつもより近かった。
同じ飛竜に乗っているのだから当然だ。そう思って、目の前の肩から視線を外す。クロードは振り向かなかった。振り向かないまま、もうすぐだと言った。
着いた先にあったのは、湖だった。
森の切れ目にひらけた場所で、水は陽を受けてきらきらと光っていた。岸辺には丈の低い草が生え、風が吹くたびに細い葉がいっせいに同じ向きへ傾く。遠くで鳥が鳴いた。人の気配はない。敵の足跡も、火を使った跡も、誰かが潜んでいるような空気もなかった。
ただ、眺めがよかった。それだけだった。
自分はしばらく湖面を見て、それからクロードへ向き直った。
「ここが君の言う、使えそうなところなのか」
「ああ」
彼は飛竜から降り、手綱を近くの木へゆるく結びながら答えた。
「敵は」
「いない」
「密使は」
「来ない」
「急ぎの用は」
「あるだろ」
「何だ」
「日が高いうちに見たい」
自分はそこで、ようやく理解した。
騙された。
自分が顔をしかめると、クロードは肩をすくめてみせた。
悪びれた様子はない。むしろ、ここまで自分を連れて来たことに満足しているようだった。
「休めって言ったところで、あんたは休まないだろ」
「休んでいる」
「へえ」
彼は、待っていた答えが来たという顔をした。
「座って報告書を読むことを休むって言ってるなら、俺とはだいぶ認識が違うな」
言い返そうとして、すぐには言葉が出なかった。報告書を読むときは座っている。お茶があれば飲むこともある。休んでいないとは思っていなかったが、クロードの言い方では、それは休みのうちに入らないらしい。
彼は湖畔の草を軽く踏みならし、こちらを見上げる位置に腰を下ろした。先に座ってしまえば、自分も座ると思っているのかもしれない。いかにも、わかっているとでも言いたげな振る舞いだった。
「なあ、せっかく来たんだし半刻だけ。かわいい生徒からの頼みだぞ」
「それですべて済ませられると思うな」
「じゃあ、きょうだいの頼みだったら、聞いてくれるよな」
甘えた声だった。わざとだとわかる。わかっているのに、その言葉をそんなふうに使われると、自分は弱い。
クロードは片手を差し出した。下からこちらへ伸びてくる手は、戦場で指示を出すときのものよりずっと気安く、けれど、断られるとは思っていないようにも見えた。
取らなければよいだけだった。大げさな顔で自分をここまで連れてきたことは事実で、頼みというなら最初からそう言えばよかったのだと、言うべきことはいくつもある。
なのに結局、その手を取ってしまった。
指が触れた瞬間、身体ごと強く引かれた。思っていたより力があり、踏ん張るより先に体勢が崩れる。倒れる、と感じたときにはもう、彼の腕が背中に回っていた。
そのまま草の上へ倒れ込む。クロードは背中を打ったはずなのに、自分を抱きとめる腕を離さなかった。低い草が頬のそばで折れ、湖から吹く風に混じって、青いにおいが近くなる。自分の手は、いつの間にかクロードの肩を掴んでいた。
「……いまのもよくない」
「べつに嘘はついてないだろ」
「だまし討ちに近い」
「あんたが手を取ってくれたから、俺はちょっと力をこめただけさ」
「取らせた」
「取ってくれた、だな」
間近で言い直されて、自分は眉を寄せた。言い返そうとしたのに、草の上に寝転んだままこちらを見上げるクロードの顔が、思ったよりも無防備だった。額にかかった髪もそのままに、こちらの反応を待っている。
また騙された。
そう思ったのに、クロードの瞳があまりに明るくて、自分は言いかけた言葉を飲み込んだ。湖の光を拾ったようにきらきらしていて、勝ったことをよろこんでいるというより、自分が手を取ったことそのものをよろこんでいるように見えた。
「あんたはやっぱり俺に甘いな」
そう言われても、返す言葉はなかった。実際、自分は彼に甘いのだと思う。嘘をつかれて、強引に手を引かれて、それでも彼の腕を振りほどかずにいる。よくないとわかっているのに、こんな顔を見せられると、怒るための言葉がどこかへ行ってしまう。
湖面を渡る風が、クロードの肩越しに吹いてくる。夏の前の風はまだ熱を持ちきっておらず、草のにおいと水のにおいをいっしょに運んできた。遠くで、また鳥が鳴いた。
半刻だけ、と彼は言った。
それぐらいなら、と自分は思った。思ってしまった時点で、もう彼の思う通りなのだろう。彼の腕の中で身を起こし、今度は自分から湖のそばへ腰を下ろした。
それから、クロードが隣に座り直す。
乱れた髪を直しもせず、彼はまだ嬉しそうに湖を見ていた。