X以外のSNSでの投稿にはPrivatter+がおすすめです
Xフォロワー限定公開・リスト限定公開の停止について

文体練習08(レトクロ)

全体公開 レトクロ 10523文字
2026-05-23 10:32:40

短い話が4篇。温度感はまちまちです。
1.本編(士官学校時代)軸で、戦闘中にクロードが見ているものの話。ベレト視点。ちょっとした戦闘描写有。
2.本編(翠風)軸で、ふたりの髪質の話。ベレト視点。
3.無双(黄燎)軸で、ふたりの髪質の話。クロード視点。
4..無双(黄燎)軸で、足をくじいたベレトをクロードが抱えてやる話。クロード視点。
※無双(黄燎)はいちおう原作にあわせて「お前」呼びにしています。

Posted by @Bombwooo

1.

 クロードの矢は、賊の胸ではなく、足もとの土へ刺さった。
 外したのではない。そう見えたのは一瞬だけだった。矢尻は男の踏み出そうとした靴のすぐ前を抉り、乾いた土を跳ね上げた。驚いた男が足を止める。その肩がわずかに引き、手にした斧の向きが変わった。その間に、自分は距離を詰めることができた。
 刃を受ける必要はなかった。斧を振り上げるより早く懐へ入り、手首を打って得物を落とさせる。膝の外側を蹴れば、男は声を上げる暇もなく崩れた。命を奪う必要はない。起き上がるには時間がかかるし、後ろにいた者たちも、その倒れ方を見て一歩だけ退いた。
 その一歩を、クロードは逃さなかった。
 次の矢が飛ぶ。今度は先頭にいた男ではなく、横から回り込もうとしていた賊の手首だった。武器を持つほうの腕を射られ、男は短剣を取り落とす。痛みに叫んだ声へ、周囲の視線が寄った。隙ができる。レオニーの馬がそこへ割って入り、槍の柄で男の胸を押し返した。
 いつものように口もとを上げて、こちらを試すような顔をしているのではない。遠くを見る目をしていた。敵だけではなく、味方の位置も、倒れた荷車も、道の端に積まれた木箱も、こちらへ流れてくる賊の数も見ている。矢をつがえる動作は速いのに、焦っているようには見えなかった。
 ひとつ、またひとつと、賊の動きが止まってゆく。
 吊られていた麻袋の紐が切られ、中身が地面へ散った。粉か、穀物か。白く舞ったものに賊の注意が逸れる。その間に、ラファエルが回り込んだ。道の端へ逃げようとした者は、ぬかるんだ場所へ追い込まれ、踏み込むたびに足を取られている。

 クロードが射抜ける場面は、何度もあった。
 それでも彼は、急所ばかりを狙わない。足を止め、武器を落とさせ、注意を逸らし、味方が動ける場所を作る。彼の矢が飛ぶたび、誰かが前へ出られる。誰かが退ける。誰かが、無理に斬らずに済む。
 戦いが終わるころには、賊の大半が武器を捨てていた。逃げる者はいたが、追う必要はない距離だった。こちらの負傷は少ない。深く斬られた者もいない。想定より早く片づいたと言ってよかった。
 それでも、自分は少しのあいだ、クロードの手もとを見ていた。
 彼は最後の矢を戻し、弓の弦を軽く確かめている。さっきまでの冷えた目つきは消えて、こちらの視線に気づくと、人懐っこい笑顔を浮かべた。
「なんだよ、先生。さては俺の弓さばきに惚れたか?」
「君なら、射抜けただろう」
 そう言うと、クロードはすぐには返事をしなかった。からかうために開きかけた口が、そこで一度止まる。
「あの賊だ。足ではなく、胸を狙えたはずだ」
 責めたいわけではなかった。仕留めなかったことを咎めたいのでもない。ただ、クロードが何を見ていたのかを知りたかった。自分の目には、射抜けるものを射抜かなかったように見えた。けれど、戦いはそのほうが早く終わった。
「なぜ、足を狙った」
 クロードは弓を肩に担ぎ、少しだけ目を細めた。
「足を狙ったっていうより、あそこで俺が射抜くより、足を止めて、あんたに任せたほうが確実だった」
「そこまで見ていたのか」
「見てたさ。先生なら届くし、しくじらない。俺が胸を狙ってひとり倒すより、あんたが前へ出る間を作ったほうが早かったんだよ」
 クロードは、何でもないことのように言った。
 褒められているのか、使われているのか、一瞬わからなかった。けれど、不快ではなかった。少なくとも、彼は自分の動きを見ていた。どこまで詰められるか、何歩で届くか、賊の斧が振り下ろされる前にこちらが間に合うかを見たうえで、足もとへ矢を置いた。
「射る場所ひとつで、戦況は変わる。胸を射れば、そいつは倒れる。足を射れば、動きが止まる。武器を持つ腕を射れば、得物を握れなくなる。上に荷が吊ってあるなら、それを落とせば注意が逸れる。足場の悪いところへ追い込めば、思い通りに動けなくなる」
 クロードは弓の端で、道の脇に残るぬかるみを示した。さっき賊が足を取られていた場所だ。乾いた道の隣に、昨夜の雨が残っている。踏めば靴が沈み、引き抜くのにはかなりの力が要る。
「真正面から押し返せるなら、それでいい。けど、いつもそうはいかないだろ。味方が動けるなら、俺が射落とす必要はない」
「だから、皆の動きを先に見ていたのか」
「レオニーなら、足の止まった相手の前へ馬で割り込める。ラファエルなら、武器を落とした奴をそのまま押さえ込める。先生なら、斧を振り上げる前に懐へ入れる。俺が全部うまくやろうとするより、そっちのほうが確実だろ」
 言われて、さっきの戦いを思い返した。
 クロードの矢は、いつも誰かの少し前にあった。自分が踏み込む前。レオニーの馬が割り込む前。ラファエルが腕を伸ばす前。彼は敵を倒す場所ではなく、こちらが動き出すための場所を射ていた。
 だから、戦いが早く終わった。
「故郷でいろいろあったって言っただろ」
 そこで、クロードの声色が少しだけ変わった。
 軽さが消えたわけではない。ただ、さっきまで戦場に置かれていた言葉が、古い場所から出てきたように聞こえた。
「数が多い相手もいた。腕力で負ける相手もいた。体格で押し切られる相手もいた。正面からやり合って勝てるなら、それがいちばんわかりやすいんだろうけど、俺の場合はそうじゃないことのほうが多かった」
 クロードは笑わなかった。
 自分も何も言わなかった。言葉を挟めば、彼がそこまで言おうとしているものを途中で切ってしまう気がした。
「だから、正面だけを見るのはやめた。相手の足もと、手もと、背後、吊ってある荷、ぬかるんだ道、逃げようとしてる奴の目線。どこを射れば崩れるか。どこを残してやれば退くか。そういうものを見るようになったんだよ」
「それでも、君の腕なら、仕留めたほうが早いだろう」
「まあな。そこは否定しないさ。でも、全員を殺さなきゃ勝てない戦いばかりじゃない。武器を落とせば、戦えない奴もいる。足を止めれば、追えない奴もいる。注意が逸れれば、そのあいだにこっちが動ける。戦意を削ぐだけで済むなら、それがいい」
 クロードはそこで、肩に担いだ弓に視線をやった。
「俺には、そっちのほうが合ってる」
 そう言った声は、驚くほど平らだった。
 誇るでも、恥じるでもない。ただ、自分の使い方を知っている声だった。弓で敵を倒すのではなく、弓で戦いのかたちを変える。彼はそれを、自分の手に馴染んだ道具のように話している。
「いい戦い方だと思う」
 思ったままを言うと、クロードはわずかに顔を伏せた。
 すぐには返事がなかった。彼は肩に担いでいた弓を下ろし、握りのあたりを持ち直す。返事の代わりに、指先で弓の弦を弾いた。
……じゃあ、次も外せないな」
 張りを確かめるには弱すぎる音だったが、それでも彼はしばらくその弦を見ていた。


2.

 自分の髪も、クロードの髪も、濡れているあいだだけはおとなしい。乾いているときには手櫛を入れてもすぐ戻ってくる毛先が、いまは首のそばで伏せている。
 それでも、湯気の中でしばらく座っているうちに、互いの髪は少しずつ言うことを聞かなくなっていった。クロードの毛先は乾きはじめたところから外へ向かい、自分の髪は内側へ入ろうとする。頬のあたりで丸まりかけた毛先を指でつまんでいると、彼がこちらを見て笑った。
「先生、それ放っておくと大変なことになるぞ。乾かす前から整えておかないと、あとで毛玉みたいになる」
……毛玉」
「あんたの髪って細いぶん、乾くと一気にふくらむだろ。丸まるし、首の後ろなんか絡みやすそうだし。ほら、貸してみろよ」
 貸すものなのだろうかと思ったが、クロードはすでにこちらへ手を伸ばしていた。嫌ではなかったので、自分はそのまま頭を下げる。すると、伸びてきた指が一度だけ止まった。
 何かを考えたのかもしれない。
 けれど、彼は何も言わず、濡れた髪の間へ指を入れた。最初の手つきは丁寧だった。首の後ろで絡みかけたところをほどくように、根元からではなく毛先から梳いてゆく。引っ張られるような痛みはなく、むしろ触れられたところから湯の熱が抜けていくようで、目を閉じたくなる。
「ほんと、見た目より量があるな。濡れてるとわかりにくいけどさ、乾いたらしっかり膨らむんだよな」
「君も、乾くと跳ねるだろう」
「俺のは放っておいてもそれなりに戻るから、いいんだよ」
 クロードはそう言ったが、頬の隣に落ちている髪は、すでに外へ向かっていた。自分の髪を整えてくれている手つきが気持ちよかったので、同じようにすればよいのだと思った。
 だから、彼の髪へ手を伸ばした。
「なんだよ」
「君のも整える」
「いや、俺のはいいって。これは勝手に戻るし、下手に触ると余計に――
 言い終わる前に、指が毛先へ入った。
 濡れているのに、思ったより言うことを聞かない。自分の髪のように下へ落ちるのではなく、指を入れたところからふわりと持ち上がり、戻そうとするとべつのところが外へ向いた。こめかみの横を押さえれば、額の近くが浮く。首筋のほうへ流そうとすると、今度は耳のあたりが跳ねた。
 きれいにしてやろうと思ったのに、触るほどまとまりが悪くなっていく。
 クロードはしばらく黙っていた。鏡がなくても、自分の髪がどうなっているかは感覚でわかるのだろう。やがて、低く息を吐いた。
……先生」
「整えようとした」
「その結果、俺の頭はさっきよりひどいことになってるわけだ」
 彼の髪は、乾きかけのところからばらばらに外へ向いていた。触る前のほうが、まだましだったと思う。申し訳なくなって手を引くと、彼に手首を軽く掴まれた。
「いや、そこで反省されると、こっちがやりづらいんだが」
「もう自分が触らないほうがいい気がした」
「それはそれで面白くないな」
「面白い話だったのか」
「いまからそうなる」
 何を、と聞く前に、クロードの手が自分の髪へ戻ってきた。
 今度の手つきは、最初ほど丁寧ではなかった。指が頭の後ろから差し込まれ、乾きかけの髪をくしゃりとかき混ぜる。首の後ろで丸まりかけていた毛先が浮き、額にかかった白い髪が目もとへ落ちる。整えていたはずのものが、あっという間に乱されていった。
「これでおあいこだ」
「自分は、君の髪をきれいにしようとした」
「俺だって最初はそうだったさ。でも、ここまでやられたら、やり返さないと不公平だろ」
 言いながら、クロードは笑っていた。怒っているわけではないらしい。こちらの髪をぐしゃぐしゃにしながら、さっき自分が乱してしまったこげ茶の髪の先を片手で直そうとして、すぐに諦めている。触れば触るほど外へ跳ねるそれを見ていると、悪いことをしたはずなのに、なぜか笑いそうになった。
 クロードがそれに気づいたのか、手を止める。
「あんた、いまちょっと笑っただろ」
「笑っていない」
「いや、笑った。ひどいな。俺の髪をこんなにしておいて、笑うなんてさ」
「君も、自分の髪をこんなにした」
「だからおあいこだって言ってるだろ」
 そう言われると、そうなのかもしれないと思った。けれど、自分の髪はさらに内へ丸まり、ところどころ浮いている。手で押さえようとすると、クロードがそれを止めた。
「あ、こら。そこで自分で直そうとすると、もっと絡むだろ」
「もう毛玉になっているだろうか」
「毛玉っつーか、鳥の巣みたいだ」
「似たようなものでは」
「巣材か、巣そのものかって違いはあるだろ」
 何ともいい加減な返事をしながら、彼がこちらに手を差し出す。
「ほら、今度こそきれいに整えてやる」
 さっきも聞いたような言葉だったが、自分は懲りずにまた頭を差し出した。クロードの指が、乱れた髪に入る。今度は力任せにかき混ぜるのではなく、絡みかけたところを外し、内へ入りすぎた毛先を指で流してゆく。
 その手が、途中でまた一度だけ止まった。
 何か言われるのかと思ったが、クロードは黙っていた。代わりに、目もとへ落ちていた髪を横へ避ける。指先が額の近くをかすめ、濡れて冷えた毛先が頬から離れた。
……これで少しはましになったな」
「鳥は住めなさそうか」
「いまのところはな。先生の髪はこっちがどれだけ整えても、最後には勝手に戻っちまうからな」
「君の髪もそうだろう」
「俺のは跳ねる。あんたのは丸まる。どっちも言うことを聞かないって意味では似たようなもんか」
 クロードはまだ、自分の髪に指を通していた。もう整え終わっているはずなのに、首の後ろの毛先をもう一度だけ梳いてくれた。こちらよりも、自分の髪のほうがよほどひどいことになっているのに、彼はそちらを直そうとはしなかった。
 自分は手を伸ばしかけて、途中で止めた。また乱してしまう気がしたからだ。
 それを見て、クロードは口の端を上げた。
「触ってもいいぜ。いまさらこれ以上ひどくならないだろ」
「ほんとうにいいのか」
「整えようとしなきゃいい」
 それならよいのかと思い、今度は直そうとせず、外へ跳ねた毛先に軽く触れた。クロードの髪はやはり、自分のものとは違っていた。濡れていてもやわらかく落ちきらず、指の下でかすかに戻ろうとする。
 彼は目を細めたが、やめろとは言わなかった。

 湯気はもう薄くなっている。乾きはじめた互いの髪は、触られたところからまた好きなほうへ向かおうとしていた。自分の髪は内へ丸まり、彼の髪は外へ跳ねる。彼が整えたところも、いずれ元に戻るのだろう。
 それでも、クロードはもう一度だけ、こちらの髪を指で梳いた。その手つきは最後まで丁寧だった。


3.

 湯浴みの時間がベレトと重なったのは、その日がはじめてだった。
 行軍先の砦に用意された浴場は広いものではなく、王だからといっていつでも好きに使えるわけでもない。兵たちに先を譲り、報告を片づけ、明日の進路についてヒルダと二言三言交わしてから向かえば、たいてい最後のほうになる。だから、湯気の残る脱衣場でベレトと鉢合わせたのは、偶然と言えば偶然だった。
 彼はもう湯浴みを終えたあとらしく、濡れた髪をそのまま肩へ落としていた。
 普段はあまり意識しない。戦場ではもっと見るべきものがあるし、近くにいても、まず目に入るのは剣の位置や足運びや、こちらの声に反応する速度だ。だが、水分を吸った髪はいつもより小ぢんまりとして見えた。肩にかかる毛先が重たく下がり、首筋のあたりへ張りついている。乾いているときの、どこか軽く浮いた色合いとは違っていた。
 つい、見てしまった。
 ベレトがこちらを向く。気づかれた、と思ったときにはもう遅い。彼は濡れた髪を片手で軽く押さえ、何を見ているのかと問うように、こちらへ目を向けていた。
……お前の髪って濡れると印象がだいぶ変わるな」
 ごまかすにしては、ずいぶんと下手な言葉選びだった。だが、変に言い繕うよりはましだろう。ベレトは怒ったふうもなく、自身の髪を見た。
「そうだろうか」
「乾いてると、もう少しふわっとしてるだろ。けっこう量が多いんだな」
 軽く返したつもりだった。
 だが、ベレトは適当に下ろしたままの髪を見ている。濡れているせいでいつもよりはおとなしいが、それでも毛先は好き勝手に外へ向いていた。どうせ乾けば、もっと跳ねる。
 突然、視界の端から白い手が伸びてきた。
「おい」
 ベレトの指が、俺の髪へ触れる。乱すでもなく、引くでもない。濡れた毛先を確かめるように、そっとつまんで、すぐに離した。
「自分のものとは違う」
「そりゃ違うだろ。髪質なんて人によるだろ」
「しっかりしている」
「そのぶん、癖も強いけどな」
「羨ましい」
 あまりにもまっすぐ言われて、返事が遅れた。
「濡れているあいだはまだましだが、乾いたら勝手に外へ跳ねるし、朝はそれなりに手間がかかるぞ」
「そうなのか」
「そうだよ。だから、そんないいもんでもない」
 ベレトは、なるほど、とでも言うように俺の髪へ目を向けていた。触られたところの毛先は、もう外へ戻りかけている。しばらくして、彼は近くに置いてあった布を取ると、髪を拭きはじめる。
 次の瞬間、淡い翠の髪が布の中でぶち、と鳴った。
「待て待て待て。何してる」
「拭いている」
「それは拭いてるんじゃなくて、髪を痛めつけてるんだよ。いま、嫌な音がしたぞ」
「乾けばそれでいい」
「よくない。お前、俺の髪にはあんなに慎重に触ったくせに、自分のはどうしてそんな雑なんだよ」
 ベレトは不思議そうにした。
「君の髪は、自分のものではない」
「だからって、自分のものなら乱暴にしていいって話でもないだろ」
 言いながら、俺はベレトの手から布を取った。彼は抵抗しなかった。というより、こちらが何をするつもりなのか、じっと見ている。こういうところがある。止められれば止まるし、渡せと言えば渡す。だが、それが納得したからなのか、ただ次の動きを待っているだけなのかはわかりにくい。
「まったく、王様にこんなことさせるのは、お前ぐらいのもんだぞ」
「自分は頼んでいない」
「頼まれなくても、こっちが気になるんだよ」
 彼の背後へ回ると、長い襟足が首の後ろで重なっていた。濡れているせいで細く見えたが、布で挟むとそれなりに量がある。擦らず、上から押さえて水を吸わせる。毛先が布に逃げようとするのを、指で軽く分けた。
 ベレトは黙っていた。
 戦場であれだけ動く人間が、こういうときには妙におとなしい。首を傾けろと言えば傾けるし、動くなと言えば動かない。けれど、さっき自分で拭いたときの手つきだけは信じられないほど乱暴だった。
「痛くないか」
「痛くない」
「引っかかったら言えよ。お前みたいにぶちぶちと髪を痛めつける趣味はないからな」
 こいつは引っかかってもどうせ何も言わないだろうと思ったが、いちおう、言っておいた。
 ぞんざいに扱われていた髪は、細くてやわらかい。俺のものとは違った触り心地だった。ここで初めて、俺はまずいことをしているのではないかと思った。
 だが、悪い気はしなかった。おとなしく髪を拭かれている後ろ姿を眺めているのは、むしろ気分がよかった。
 布を替え、最後に肩へ落ちた水を払う。彼の髪はまだ湿っていたが、絡んだところはだいたいどうにかなっただろう。
「これで、だいぶましになったんじゃないか。あとは風に当てすぎるなよ」
 布を返そうとしたところで、ベレトが手のひらを差し出してきた。
「なんだよ」
「君のも拭こう」
「いや、いいって」
「なぜ」
「なぜ、って、俺は自分で拭ける」
「自分も、自分で拭けた」
 その言い方で来るか。反論しようとして、やめた。これは長くなるやつだ。ベレトは納得するまで引かないし、そもそも悪気がない。俺がいま彼の髪を拭いたことと、彼が俺の髪を拭こうとしていることは、彼の中ではきれいに並んでいるのだろう。
「あー……わかった。頼むよ」
 布を渡すと、ベレトはうなずいた。
 彼は俺の背後へ回らなかった。正面へ立ち、一歩距離を詰めるとこちらの髪へ布を当てる。手を伸ばせば届く距離に、濡れた淡い翠の髪と、湯上がりで赤みの残る耳がある。てっきり背後へ回ってくると思っていたぶん、拍子抜けした。
 いや、拍子抜けというより、助かったのかもしれない。
 背後に立たれるのが嫌だと、言った覚えはない。だが、ベレトはそうしなかった。何かを言うでもなく、当然のようにこちらから見える位置に立っている。
 布がこめかみのあたりへ触れた。
 自分の髪を拭いたときとはまるで違う手つきだった。擦らない。引っ張らない。跳ねた毛先を押しつぶすこともせず、水を含んだところだけを布で包み、軽く押さえる。指先が髪の流れを確かめ、絡みそうなところでは手が止まる。
……丁寧にやろうと思えばできるじゃないか」
「君の髪だから」
「自分の髪にもそれくらいしてやれよ」
「自分のものは、多少切れても困らない」
「困るだろ。手入れしづらくなるぞ」
 ベレトは答えず、額に落ちた髪を布で挟んだ。俺がわずかでも動けば、すぐ手を止める。濡れた毛先を引っ張らないように、布の位置を何度も変えている。戦場で剣を振るう手と同じものとは思えないほど慎重だった。
 拭かれているだけなのに、落ち着かない。
 髪に触られているせいか。距離が近いせいか。彼が何も言わずに、こちらの様子を確かめながら手を動かしているせいか。どれかひとつではないのだろう。
 やがて、ベレトは布を下ろした。口もとが、わずかに緩んでいる。
「これでいいだろう」
 満足したらしい。その表情を見て、返事が一拍遅れた。
……ありがとう」
 言ってから、息を吐く。これで終わりだと思った。布を受け取ろうとして手を伸ばしたところで、ベレトの手がもう一度こちらへ来る。
「まだ何かあるのかよ」
「ここが跳ねている」
 今度は布越しではなかった。こめかみの横で外へ向いていた髪を、ベレトはつまんで引くのではなく、手のひらで一度受けてから、指先でゆっくり耳へかけた。濡れた毛先が耳の上に収まり、手が離れる。
「跳ねるなら、こうしておけばいい」
 ベレトはそう言って、何でもないように手を下ろした。


4.

 ベレトが足をかばっていることには、少し前から気づいていた。
 本人は平気なつもりなのだろう。歩幅は変えないし、表情にも出さない。剣を振るうときの踏み込みも、敵の目を欺くにはじゅうぶんだった。だが、戦闘が終わって気を張る必要がなくなった途端、右足が地面につくたびに、ほんのわずかだけ体重の逃がし方が変わった。
 このまま天幕まで歩かせると、あとで面倒なことになる。
「お前、足やっただろ」
 そう言うと、ベレトはこちらを見た。否定するには遅く、肯定するには不服そうな間だった。表に出ているものは少ない。けれど、黙ってこちらを見る時間が、いつもより一拍長かった。
「歩ける」
「歩けるのはわかった。で、そのまま歩かせて悪化したら、俺がジェラルトさんに何て言えばいいんだよ。戦力を借りてる立場としては、そういう報告はできるだけ避けたいわけなんだが」
「問題ない」
「問題あるから言ってるんだよ。ひとまず飛竜のところまで運ぶだけだから、おとなしくしてろ」
 返事を待たずに、彼の背と膝裏へ腕を入れた。抗議をしてくる前に抱え上げる。薄くて細い。見た目だけなら、もう少し軽いと思っていた。
 だが、腕にかかった重さは予想よりも確かだった。
 危うく、落としかけるほどではない。そこまで情けない鍛え方はしていないつもりだ。弓を引き、飛竜を御し、戦場で王の顔をして立つなら、それなりの身体は要る。ただ、それでも抱え上げた瞬間に、こちらの腕が勝手に力を入れ直した。
 ベレトはその動きを見逃さなかったらしい。
「重いか」
「見た目よりはな。悪い意味じゃないぞ。軽そうに見えたんだが、中身がしっかり詰まってるって感じだな」
「自分は貧弱ではない」
「知ってる。貧弱な奴があんな踏み込みをするかよ。だから、見た目と抱えた感じが合わなかったって話だ」
 ベレトは納得したのかしていないのか、俺の肩や腕のあたりを見た。抱えられているくせに、観察する余裕はあるらしい。
「君の身体つきはしっかりしている」
「そりゃそうだろ。弓も飛竜も、細腕でどうにかなるもんじゃない」
 そこまでは、まだ適当に流せる話だった。
 彼はしばらく考えるように黙り、それから、特に声をひそめることもなく言った。
「脱げば、それなりに逞しいのだろう」
 足が止まりかけた。ついでに、こいつも落としてやろうかと思った。
……どうしてそこに行き着くんだよ」
「シェズが言っていた」
「だから、シェズとお前は何の話をしてるんだ」
「君の身体つきの話だ」
「するな、そんな話を。いや、元は俺が言ったことなんだけどさ。……しかしあいつも、何でよりにもよってお前に話すかなあ」
 言いながら、歩みを進める。止まっているほうが変に間ができる。だが、腕の中のベレトは、話が終わったとは思っていないらしい。こちらをじっと見ていた。
 今度は肩や腕ではない。顔だった。
「じっと見るな」
「シェズが、」
「待て。他に何を聞いた」
「君が、いくらでも眺めていいと言っていたと」
「だから、なんでそんな話までしてるんだよ」
 言った。言ったような気はする。シェズ相手なら、その程度の軽口で済む。あいつもあいつで適当に流すし、こっちも本気で受け取られるとは思っていない。
 だが、ベレトに同じ目で見られると話が変わる。
「シェズはいい。だがお前はだめだ」
「どうして」
「まだ、俺がいいと思えないから」
 言ってから、もう少しどうにかならなかったのかと思った。だが、出てしまったものは戻らない。ベレトは腕の中で、こちらの言葉をそのまま受け取ったようにうなずいた。
「そうなのか」
 納得したのなら視線も外せばよいものを、眉のあたりや、口もとの動きや、こちらが息を吐く前の間まで拾うように、まっすぐこちらを見ていた。抱えているせいで距離も取れない。見つめ返してやろうとして、すぐにやめた。あまりに近い。
 結局、先に顔を背けたのは俺のほうだった。それでも、腕の中にいるベレトの気配は消えない。視界の端で、彼が一度まばたきをするところまで見えてしまった。
……飛竜のところまでだからな」
「わかった」
 視線が頬に突き刺さる。俺が言いたいことは微塵も伝わっていないようだった。
 飛竜までの距離は、さっきより少しだけ長くなった気がした。


投稿にいいねする


© 2026 Privatter All Rights Reserved.