1頁目が現パロで、2頁目が本編(翠風)軸。「無防備」をテーマにした掌篇がふたつ。
1.振られたベレトを慰めるクロードの話。
2.居眠りしているクロードに遭遇するベレトの話。
@Bombwooo
1.
いまから会いたい。
ベレトから届いた文面は、それだけだった。
飲みに行こうでも、相談があるでもない。いつものあいつなら、用があれば用件を先に書く。短い言葉で済ませることはあっても、こういう連絡の仕方はしない。
何があった、と打ちかけて、やめた。聞けば答えるかもしれない。けれど、答えさせてから呼ぶのも違う気がした。
うちでよければ来るか。住所はわかるか?
送ってから、テーブルに置きっぱなしだったグラスを見た。さっきまで飲んでいた酒がまだ少し残っている。ひとりで飲むにはちょうどよかったはずの量が、急に所在なく見えた。
返事はすぐに来た。
わかる。
それだけだった。
俺はグラスを持って台所へ行き、残っていた酒を流した。氷が流しの底で鳴って、それからゆっくり崩れてゆく。べつに、ベレトが来るから酒を飲んでいてはいけないというわけではない。あいつだって、俺が飲むことくらい知っている。
それでも、そのまま置いておく気にはならなかった。
部屋は、急な客を招き入れるにはそれほど整っていなかった。というより、俺の部屋が整っていること自体、そもそもまれだ。
ソファの背に上着がかかっているし、テーブルの端には読みかけの本と、開けていない郵便物が重なっている。床に物が散らばっているわけではないから、まあいいかと思う。これ以上片づけると、今度は待っていたみたいになる。
チャイムが鳴ったのは、それからしばらくしてからだった。
扉を開けると、ベレトは鞄を手に持ったまま立っていた。来る途中に風にあおられたらしい髪は、少しだけ乱れていた。仕事帰りにそのまま来たのだろう。いつものようにまっすぐ立っているのに、靴の先だけが廊下の床に縫い留められたみたいで、こちらへ踏み出すのを忘れているように見えた。
「あんま片づいてないけど、まあ入ってくれ」
そう言うと、彼は一歩だけ中へ入った。でも、そこで止まった。靴を脱がない。鞄の持ち手を握った手にも力が入ったままで、俺が何か言う前に、彼はようやく口を開いた。
「振られた」
靴を脱ぐ前に言うことじゃないだろ、と思った。
だからといって、靴を脱いでからなら言えるような話でもなかったのだろう。
「……とりあえず靴を脱いで上がれ。そんなところでする話じゃないだろ」
返事はなかった。ベレトは言われた通りに靴を脱ぎ、揃えるのに一度手間取った。普段ならもっと要領よくやるのに、手も足も、思った通りに動いていないように見えた。鞄を置く場所にも迷っているようだったので、俺はソファの横を顎で示した。
さっきまで酒のグラスがあった場所を片づけて、かわりにお茶をふたつ入れた。冷蔵庫から出したボトルをグラスへ注ぐだけなのに、氷を入れるかどうかで一瞬迷う。結局、ふたつとも氷を入れた。音がしたほうが、何も言わない時間をごまかせる気がした。
グラスを置いても、ベレトはすぐには手をつけなかった。膝の上でこぶしを握って、じっとグラスを見つめていた。
それから、ぽつぽつと話しはじめた。彼は、相手を悪く言わなかった。自分が全部悪かったとも言わなかった。会えると思っていた日に会えなくなったこと、短く済むはずの返事を何時間も待つようになったこと、相手が冗談のつもりで言った言葉を、その日の夜になってから何度も思い返したことを、ひとつずつ話した。
怒ってよいのか、傷ついてよいのか、自分でも決められないまま飲み込んだものが増えて、最後には、会っていても先に相手の返事を考えてから言葉を選ぶようになっていたらしい。
声を荒げることもなければ、責める言葉も出てこない。けれど、話しているうちに、グラスの氷が小さくなっていった。お茶はほとんど減っていない。
ひと通り話し終えたあと、ベレトは黙った。
俺も、すぐには何も言えなかった。相手が悪いと言えば済む話ではない。忘れろと言うには、いまの彼は忘れたくないものまで一緒に手放しそうだった。次がある、なんて言葉は、あまりに先のほうを見すぎていて、目の前で靴も脱がずに「振られた」と言った男には届かない気がした。
だから、俺はグラスから手を離して、両手を広げた。
「ほら」
ベレトは俺の手と顔を見比べるようにして、それから、困ったみたいに眉を寄せた。泣きそうな顔ではなかった。むしろ、泣くほどのことではないと、まだどこかで踏みとどまっている顔だった。
その顔のまま、彼はゆっくりこちらへ来た。わずかに身をかがめながら距離を詰めてくる動きがぎこちなくて、俺は腕を回す位置に迷ってしまった。
彼の身体は腕の中に収まっても、こわばったままだった。背中に手を添えても、すぐにはこちらへ体重を預けてこない。けれど、少し遅れて彼の腕も俺の背中へ回った。肩口に額が触れると、髪が俺の頬や耳のあたりにかかった。
お茶の氷が、グラスの中で小さく鳴った。ベレトの息は近くにあって、俺のシャツに触れた額が、吸う息に合わせてわずかに動く。やわらかい髪の毛先が、頬をくすぐる。
やがて、背中が震えた。大きく震えたわけではなかった。息を吸おうとして、途中で胸のあたりがつかえたときだけ、手のひらの下でかすかに揺れる。もう一度、同じように震えて、そこでようやく、彼が泣いているのだと気づいた。
どうすればよいのか、ほんとうにわからなかった。
背中を叩くには、あまりにも静かだった。大丈夫かと聞けば、彼は大丈夫だと言いそうだった。泣いてよいと言うのも、俺が言うことではない気がした。だから結局、何も言えないまま、腕に入れた身体を離さずにいた。
彼の額が、俺のシャツへ押しつけられる。頬のあたりにかかる髪が、息をするたびにかすかに動いた。声は出ない。けれど、喉の奥でこらえたものが一度だけ漏れて、それが思っていたよりも痛くて、俺は思わず背中に置いた手へ力を入れた。
互いに、何も言わなかった。言えなかった、のほうが近いのかもしれない。壁に掛けた時計の針が進む音と、グラスの中で氷が傾く音だけが、やけにはっきり聞こえた。ベレトはときどき鼻をすすり、そのたびに背中が小さく震えた。自分の鼓動だけがやけにうるさくて、それを聞かれていないかだけが気になった。
しばらくして、ベレトが顔を離した。
俺のシャツに触れていた額をゆっくり浮かせて、肩口にかかっていた髪が頬から離れる。近くにあった体温が抜けたあと、そこだけやけに空気が薄くなった気がした。
俺の胸元に、涙のあとが残っていた。額と頬を押しつけていたあたりの布だけ、色が濃くなっている。彼は自分の目元を拭うより先にそこを見て、指を伸ばしかけた。だが、触ったところでどうにもならないとわかったのか、手は途中で止まった。
「魚拓みたいだな」
言った瞬間、ベレトが息を止めた。
目元はまだ濡れているのに、そこへ急にべつの熱が上がってくる。泣いたことより、跡を残したことのほうが恥ずかしくなったらしい。湿った前髪には変な癖がついていて、そのくせまじめな顔でこちらを見つめているので、俺は笑ってしまった。
テーブルの上からティッシュを抜いて渡す。ベレトは受け取ったが、まだシャツのほうを気にしていた。
「こっちのことは気にすんなって」
ベレトはそれでようやく、自分の目元にティッシュを押し当てた。涙を拭う手つきまで、妙にぎこちなかった。泣き慣れている人間の手ではない。拭いたあとのティッシュをどう畳めばよいのかまで考えているみたいで、そういうところまでまじめなのかと、呆れるより先に可笑しくなった。
それでもベレトは、まだ俺の胸元を見ていた。
俺はティッシュを持ったままの手ごと、もう一度引き寄せた。
今度はさっきよりゆっくり腕を回した。ベレトの息が近くで止まって、それから、遠慮がちに戻ってくる。彼の腕も、今度は最初より早く俺の背中へ回った。額を押しつける場所を探すように少し迷って、結局、さっきと同じところに収まった。
肩口に埋まる頭に、そっと頬を寄せる。あまりよくないことをしている自覚はあった。慰めるだけなら、ここまでする必要はない。それでも、背中に回った手がシャツを握るたびに、身体を離すきっかけをひとつずつ失っていった。
2.
扉が半分だけ開いていた。
クロードの自室だった。廊下の床に、昼の光が細く落ちている。中から声はしない。紙をめくる音も、椅子を引く音もない。開いた隙間から見える部屋は明るいのに、人の気配だけが薄かった。
人がいないのだと思って、近づいた。
けれど、机の前にクロードがいた。椅子に腰かけたまま、片手に書簡を持って眠っている。肘を机につき、頬だけを袖口のあたりへ傾けていた。指の力は抜けきっていなくて、紙の端だけがかすかに曲がっている。机の上には、封を切った書簡と、まだ開けていないものとが分けて積まれている。羽根筆の乾きかけた先が、机へ落ちた日差しの中で細く光っていた。
窓から入る日はあたたかそうだった。クロードの肩にかかり、腕の上に落ち、書簡の白い紙を明るくしている。
疲れているのだろうと思った。
それでも、自分はその場を離れなかった。半分開いた扉のあいだから部屋の中へ入る。床板は鳴らなかった。近づけば近づくほど、彼の呼吸が聞こえる気がした。眠っている人の呼吸は、起きているときより頼りなく聞こえる。そんなことを考える必要はなかったのに、机のそばまで来てしまった。
そのとき、クロードのまつ毛が動いた。
人影に気づいたのだろう。目を開けても、すぐにはこちらを見なかった。何度か瞬きをして、まだ眠りに引かれているような目が、ようやく自分のほうへ合う。垂れたまなじりはいつもよりやわらかく、瞼も開ききっていない。普段ならこちらを見る前にもう笑っているはずの口元も、いまは力が抜けていて、何かを言うまでに時間がかかった。
「……先生?」
声まで、まだ眠っていた。
「扉が、開いていた」
言ってから、閉めてやればよかったのだと気づいた。
開いていたのなら、中を見る必要はなかった。そっと閉めれば、クロードはもう少し眠れたかもしれない。書簡を持ったまま目を覚ますことも、自分にこんな顔を見られることもなかった。
彼はしばらく自分を見ていた。書簡を持った手を机へ下ろし、遅れて状況を飲み込むように瞬きをする。それから口元だけで笑おうとして、いつものかたちまで届かないまま、息を吐いた。
「悪い。天気がよくて、寝ちまった」
言い訳にしては、声がやわらかかった。まだ起ききっていないせいか、語尾もゆるい。彼は身体を起こそうとして、椅子の背へもたれた。額に落ちた髪が乱れていて、袖口に触れていた頬には赤い跡が残っているのが、そのとき見えた。袖の皺が頬の下へ薄く移っていて、そこだけ血が集まったように赤い。
眠っていたあいだにできた跡なのに、彼はまだ気づいていないらしい。いつもなら、自分がどう見えるかをよく知っている人だった。なのにいまは、額に落ちた髪も頬の跡も直さないまま、まだ眠そうにこちらを見ている。
見てはいけないものを見た気がした。
それなのに、自分は手を伸ばしていた。指先で、赤くなった跡に触れる。触れたところで消えるわけではない。痛むのかどうかを確かめる必要もない。必要のないことだとわかっていたのに、指は頬の線の上で止まった。
クロードは眠気の残る目で、ただ自分を見上げている。いつもなら何か言うはずだった。からかうか、茶化すか、こちらが触れた理由を先に言葉にして、こちらが困るようにするはずだった。
でも、彼は何も言わなかった。
いよいよ、指先で触れただけでは足りなくなってしまう。自分は、彼の頬へ手のひらを寄せた。頬の熱が、思ったよりはっきり伝わってくる。
クロードは、こちらの手を払わなかった。それどころか夢のつづきにいるような目でこちらを見上げたまま、手のひらへ頬をすり寄せる。甘えるような動きではなかった。まだ身体が起ききらず、近くにあった手のひらへ頬を預けただけなのだと思う。支えてやらないと、そのまま机のほうへ戻ってしまいそうだった。
そう思うことにすれば、彼に触れた手を、まだ引かずにいられた。