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Vindauga(レトクロ)※人外パロ

全体公開 レトクロ 11270文字
2026-05-25 20:22:36

FEシャドウズの鹿クロにときめいたので、設定というかガワを少しだけ拝借して書いた人外パロ。
傭兵ベレト×森の眷属クロードの3篇です。時系列はつながっています。
1頁目:人型
2頁目:人型+獣化
3頁目:獣化

Posted by @Bombwooo

1.

 霧がけぶっていた。
 森へ入ったときには、ここまで深くなるとは思っていなかった。湿った白さが木々のあいだに溜まり、少し先の幹も、倒れた枝も、輪郭から順にほどけていく。道はあったはずだった。足もとの土には踏まれた跡が残っている。けれど、それをたどっているうちに、いつのまにか人の通る場所から外れていた。
 針葉樹の黒い幹や、白樺の細い幹だけが、霧の中で淡く浮いている。風はあるはずなのに枝葉の音は遠く、苔に落ちる水滴の音ばかりが近かった。人の足音も、獣の気配もない。どこかで鳥が鳴いた気もしたが、それも霧に吸われて、すぐにわからなくなった。
 ベレトは倒木のそばに落ちていた角を拾い上げた。
 雨に濡れた古い枝のような茶褐色で、枝分かれした先が擦れている。折れた痕も、刃を入れた痕もなかった。獣から切り取られたものには見えない。ただ、濡れた苔の上に、それだけが残されていた。
 持って帰るつもりはなかった。道に迷っている。荷を増やして歩く理由もない。それでも、落ちていたものにしては妙に目につきすぎて、ベレトはそれを手に取ったまま、しばらく森の奥を見ていた。
「それは俺が落としたものだ」
 声は霧の向こうから聞こえた。
 振り向くと、木々のあいだに男が立っていた。頭には布を巻き、雨を吸った外套を肩にかけている。背には大きな弓があった。狩人だと言われればそう見えなくもないが、外套の裾が揺れた拍子に、その下から金糸で織られた衣が覗いた。森の湿り気にも、泥にも、苔むした倒木にも似合わない、明るく細い光だった。
 霧の中に立っていると、その金糸だけが薄い光を拾う。男はそれを隠すでもなく、濡れた枝を踏む音もほとんど立てずにこちらへ近づいてきた。豪奢な身なりは場違いなのに、歩き方だけは、この霧と木々のほうに馴染んでいた。
 近づいたところで、男は眉をしかめた。
 血のにおいだろう、とベレトは思った。数日前の仕事で、外套にも革手袋にも、まだ落としきれない鉄のにおいが残っている。町では誰も何も言わなかったが、この森では違うらしい。男はすぐに表情を戻し、ベレトの手の中の角を見た。
「拾ってくれたことには礼を言う。それを返してくれたら、町のほうまで案内してやるよ。どうだ、悪い話じゃないだろ?」
 欲しがっている、というより、その角を手がかりにこれ以上近づかれたくないような目だった。値のつくものを取り戻したい商人の顔にも見える。なくしたものを人の手から取り戻したい者の顔にも見える。そのどちらなのか、ベレトにはまだわからなかった。
「君のものなら返そう」
 ベレトが角を差し出すと、男は一拍遅れて手を伸ばした。
 自分のものだとは言わなかった。落としたものだということ、拾われたことへの礼、町まで案内するという取引だけを先に並べた。それでも、差し出された角を受け取るとき、男の指は一度だけためらった。受け取るところを見られるのも嫌なのかもしれない、とベレトは思った。
 男は角を外套の下へ押し込んだ。礼より先に隠す。隠してから、何でもないものみたいに肩をすくめた。
「欲がないな、傭兵さん。こいつは高く売れるのに」
「自分はこの森を抜けられればそれでいい」
「そこまで割り切られると、こっちが拍子抜けするな。……まあいい。町まで案内してやる。酒だけのつもりだったが、飯もつけてやろう」
「では、まず布を直したほうがいい」
 男の足が止まった。
「右側だ」
 頭に巻いた布へ、男の手が上がる。何でもない仕草のようで、指先だけが一拍遅れた。角を外套の下へ隠したときよりも、よほど動揺していた。
「いつからずれてた」
「会ったときから」
「さっさと言えよ」
「言いづらかった」
 男は短く息を吐いた。怒るには遅く、礼を言うには癪だったのだろう。見られたものは角だけではなかった。ベレトはそれ以上を言わず、男も問いたださなかった。
「あんた、道には迷うくせに、細かいところはちゃんと見てるんだな」
……君は人間ではないのか」
 男はすぐには答えなかった。困ったというより、どの言い方ならいちばん面倒が少ないかを選んでいるような沈黙だった。やがて、布の端を押さえたまま、少しだけ口元をゆるめる。
「さあな。人間ってことにしておいたほうが、町では酒が飲みやすい」
「森では違うのか」
「森では、もう少し面倒な名前で呼ばれる。聖獣だとか、古きものだとか、枝角持ちだとか、風の目の鹿だとか。好きに呼べばいいさ。どれも半分くらいは当たってる」
「風の目?」
「古い言い方だ。森に吹く風の行き先を知っているとか、そういうありがたい話にされてる。実際は、迷子を町まで連れていく役目ってところだな」
 男は何でもないことのように言った。その足は、霧に沈んだ道を迷わず選んでいる。
 歩き出すと、さっきまで同じ木ばかりに見えていた森が、少しずつ道のかたちを取り戻していく。男が枝を払うわけではない。印を探すわけでもない。ただ、濡れた土を踏む場所を知っている。霧はまだ深く、すぐ隣の木でさえ輪郭がにじむのに、その背を追っているあいだだけは、森が同じ場所を繰り返しているようには思えなかった。
 途中、苔むした石の台があった。古い供物の跡らしく、乾いたパンの欠片と、雨に溶けかけた塩が残っている。男はそれを横目で見ただけで、足を止めなかった。
「森へ入る前に置いていくんだ。パン、塩、蜂蜜、葡萄酒。あとは、大きな牡鹿に会ったら追うな、角あるものの血を流すな、枝角を拾ったら森へ返せ。伝承は場所によって少しずつ違うが、だいたいそんなところだな」
「君は返さないのか」
「返さないな。で、その森のありがたい枝角持ちが、森に返すはずの角を売って酒を飲もうとしてる。なかなか罰当たりな話だろ」
 罰当たりと言うわりに、声は少しも沈まなかった。自分で自分を笑うための言葉で、森や神に頭を下げるためのものではないらしい。それでも男は、石の台に落ちた塩を靴で散らさなかった。信じているのかどうかはわからない。少なくとも、踏み荒らす気はないのだとベレトは思った。

 森の湿り気が薄くなるにつれて、霧の向こうに人の声が混じりはじめた。鍛冶場の槌の音、荷車の軋む音、遠くで犬が吠える声。ベレトが迷い込んだ森の静けさとは違う、いくつもの音が重なっている。
 町へ入るころには、男の口数が増えていた。どこの酒が薄いとか、どこの料理は塩気が強いとか、坂の上のパン屋は昼を過ぎると硬いものしか残らないとか、どうでもよいことまでよく知っている。
「この時期にしか、人のいる場所に来られないんだよ。だから、多少は楽しまないとな」
 そう言う声は、心なしか弾んでいた。
 男は町の端で足を止めると、外套の下に隠していた角の位置を確かめた。
「角を売ってくる。ここで待ってろ」
「わかった」
「なんだよ、ずいぶんあっさりしてるじゃないか。ついてくるって言われても困るが、少しは怪しんでもいいんだぜ」
「君のものだろう。どうするかは君の自由だ」
 男は一度、言葉を探すようにベレトを見た。売り物だと言い張ったものを、そのまま売り物として扱われるより、少しだけ面倒な返され方だったのかもしれない。
「あんた、変わってるな。……まあ、待っとけ」
 そう言って、男は町の奥へと消えた。

 しばらくして戻ってきたとき、男は重そうな革袋を片手に提げていた。歩くたび、中で硬いものが擦れ合う音がする。袋の口が開いた拍子に、金貨の縁が見えた。
「そんなに高く売れるのか」
 ベレトが言うと、男はあたりを見回し、わずかに身を寄せた。声をひそめているのに、隠しきれないうれしさが混じっている。
「俺の角だからな」
 そう言って笑う男は、森で角を外套の下へ押し込んだときとは違っていた。自分のものだと言わずに済ませようとした口が、金貨の袋を持った途端、誇らしげにそれを認めている。
 返してよかった、とベレトは思った。売れば金になるからではない。男がそれを取り戻して、売って、重い革袋を提げて戻ってきたことを、思ったよりうれしそうにしていたからだった。

 男はその金で葡萄酒を買い、香草をまぶした串焼きと、焼きたてのパンを買った。蜂蜜を塗った菓子の前では、自分では食べないと言いながら、ベレトのぶんをひとつ足した。金貨の袋は重そうなのに、使い方に迷いがない。森の聖獣というより、久しぶりに町へ降りてきた若者のようだった。
「どうしてこの時期にしか来られないんだ」
「そうだな。角が伸びてるあいだは、あまり人目につく場所へは出ない。出れば拝まれるか、怖がられるか、狙われるかだ。どれも面倒だろ」
 男は葡萄酒の入った杯を揺らし、町の通りへ目をやった。売り声、鍛冶場の槌の音、馬の鼻息、焼けた肉のにおい。森の霧の中では遠かったものが、ここでは何もかも近かった。
「だから、角が落ちてるあいだに来る。酒を飲んで、飯を食って、布を買って、ついでに少しばかり罰当たりな商売もする。森にいると、こういうものは勝手には出てこないからな」
「森には食べるものがないのか」
「あるぜ。実も肉も水もある。だが、串に刺して塩を振って、煙で焦げ目をつけてくれる奴はいない。酒も勝手には湧かない」
 男は串焼きをかじり、熱かったのか、少し目を細めた。それから満足そうに息を吐く。森では人ではないものに見えた。町では人のように食べ、酒を飲み、店主と値のことで言い合う。それでも、ふと横顔が霧の残るほうを向くと、ベレトには、男が完全にこちら側へ来ているわけではないのだとわかった。
 日が傾く前に、男は森へ戻ると言った。町の音はまだ背後にあり、通りには人の行き来も残っている。けれど男は、重い金貨の袋と真新しい布だけを外套の下へ忍ばせ、葡萄酒や菓子をまとめた袋を手に提げると、もうじゅうぶんだとでもいうように森のほうへ歩き出した。
「途中までついていく」
 ベレトが言うと、男は少しだけ振り返った。
「迷子だったあんたが森へ戻ってどうするんだよ」
「入口までだ」
「懲りない奴だな」
 そう言いながらも、男は止めなかった。
「角があるときの君は、どんなふうに見えるんだ」
 ベレトがたずねると、男は得意げに笑った。
「立派だぜ。俺が歩くだけで森の連中は勝手に道を開けるぐらいにな」
 男はそこで一度、森のほうを見た。町の明かりが届く場所から見る森は、昼間よりも暗い。霧は薄くなっていたが、そのぶん木々の奥が深く見えた。人の足で入れる場所と、入ってはならない場所の境が、はっきり線を引いているわけでもないのに、そこにあるようだった。
 布の下に角はない。それでも男が森を見ているあいだだけ、ベレトには、霧の奥に立つ大きな影が見えるような気がした。枝分かれした角を掲げ、風の行き先を知っているもの。さっきまで町のざわめきの中にいた男は、森の前に立つだけで、また遠くなる。
「なら、その時期にまた来る」
 男はすぐには答えなかった。信じていない、というより、そういう約束を数に入れないことに慣れているようだった。
「期待しないで待ってる」
 そう言って、男は森へ戻っていった。霧の中で、金糸だけがやわらかく光り、それから木々のあいだに消えた。


2.

 枝が折れる音が、また近づいた。
 ひとりではない。霧の向こうで、革の擦れる音と、鉄が当たる音がいくつも重なっている。森へ入れば撒けると思ったわけではなかった。ただ、ほかに道がなかった。ベレトは短剣の柄に手をかけたまま、ぬかるんだ土を踏み、倒木を越え、霧の濃いほうへ進んだ。
 以前、男に教えられた道をたどっているつもりでいた。だが、森は同じ顔をしていない。苔は水を含み、踏めば沈む。枝葉から落ちるしずくが肩を打ち、襟の隙間から冷たさが入った。背後で誰かが短く叫ぶ。応じる声が左から返る。右からも返る。
 このまま進めば、左右から詰められる。
 ここで斬れば血が流れる。森へ入る前に聞いた、角あるものの血を流すなという古い言い伝えが、なぜかそのときだけ頭をかすめた。人間の血ならよいのか、と考える余裕はない。足を止めれば追いつかれる。進めば、どこへ出るのかわからない。

 そのとき、前方の霧が大きく揺れた。
 荒い息が聞こえる。馬より低く、鹿より重い。湿った土を叩く音が四つ、速く、迷いなく近づいてくる。倒木の向こうで枝葉が割れ、追手の声が一瞬だけ乱れた。ベレトは短剣を抜きかけたまま、霧の奥を見た。
 大きな牡鹿が、こちらへ駆けてきていた。
 ただの鹿ではない。頭上には枝分かれした角が広がり、雨を受けた角は茶褐色に沈んでいる。顔も人のものではなく、細い鼻梁と濡れた息を持つ獣のものだった。けれど首から肩にかけて、ただの獣にはない身じろぎがある。霧を裂いて走るたび、身にまとった布の端が跳ね、その色だけが森の緑と灰色の中でかすかに浮いた。
 その色を、ベレトは知っていた。
 前に森の中で見た金糸の衣とは違う。しかし、風を受けて翻る布の扱い方と、背に負った大きな弓のかたちには覚えがあった。獣の顔がこちらを向く。細い鼻梁も、濡れた息も、人のものではない。それでも、ベレトをまっすぐ捉える目つきには見覚えがあった。
「傭兵さん、伏せろ!」
 吠えるような声だった。
 その声で、ようやくわかった。名はまだ知らない。しかし、霧の中で角を取り戻し、町で葡萄酒を飲み、期待しないで待っていると言った、あの男だった。
 ベレトが身を低くすると、矢が頭上を抜けた。牡鹿が四つの脚で地を蹴りながら、上体をひねる。大きな弓が引き絞られ、放たれた矢は、ベレトの背後へ回ろうとしていた追手の足もとに突き刺さった。一本、二本、三本。殺すためではなく、踏み込ませないための矢だった。霧の中で、追手の足が乱れる。
「乗れ! 角を掴め!」
 ためらっている余裕はなかった。ベレトは駆け寄り、差し出された肩と背を足場にして、牡鹿の背へ上がった。指が枝分かれした角の根元を掴む。硬い。木のようでもあり、骨のようでもあり、雨に冷えた表面の下に、生きているものの熱があった。

 牡鹿が走り出す。
 森が開いたように見えた。枝が避けたのか、牡鹿が避ける場所を知っていたのか、ベレトにはわからない。濡れた土が跳ね、霧が後ろへ流れ、追手の声が遠ざかる。男は振り返らない。ただ、ときどき上体をひねって矢を放ち、追いつこうとする足を確実に止めていった。
 やがて怒号が消え、残ったのは沢の音だけになった。
 牡鹿は速度を落とした。ベレトが背から降りようとした、そのときだった。頭上で枝が大きく揺れ、鈍い音がする。
……嘘だろ」
 四つの脚で森を駆け抜けてきたものとは思えないほど、その声は人のものだった。荒い息も、湿った土を蹴る脚も、頭上に広がる枝角も獣のままなのに、困ったように落ちたそのひと言だけが、前に霧の中で会った男の声をしていた。
 見ると、伸びた角の先に蔦が絡まっていた。沢沿いの木から垂れた太い蔦が、枝分かれした角へ幾重にも巻きついている。牡鹿が首を動かすと、蔦はさらに引き締まり、四つの脚が一歩だけ土を掻いた。
 次の瞬間、姿が揺らいだ。
 獣の脚が薄れ、人の脚が土を踏む。大きな胴は外套の下へ縮むように消え、男は膝をつきかけたまま、絡まった角に引き戻された。角だけは残っていた。森で自慢したとおり、枝は多く、広く、立派だった。そのぶん、蔦は外れそうにない。
「なあ、ほんといい加減にしてほしいんだが」
 男は蔦を押さえたまま、ベレトを見た。
「何で俺が見られたくないとこばっか見るんだよ、あんたは。前は落とした角で、今度はこれか。せっかく恰好いいところを見せたのに、締めがこれじゃ台無しだろ」
 言い終えてから、男は一度だけ口を閉じた。蔦はまだ角に絡みついていて、首を少し動かすだけで枝葉が引きつれる。ひとりでは外せないのだと、言う前からわかっているようだった。
……これ、ほどいてくれないか」
 ベレトは近づき、まず指で蔦を外そうとした。濡れた蔦は見た目よりしぶとく、角の枝分かれしたところへ深く食い込んでいる。引けば動くが、動いたぶんだけ根元へ響くらしい。男の肩がこわばったのを見て、ベレトは手を止めた。
「角に触れていいのか」
「いまさらかよ。さっき掴めって言ったのは俺だろ」
「あれは走るためだった」
「これは、俺が頼んだ。だからいい。いいってことにしてくれ」
 言い返す声はいつもの調子に近かったが、蔦を押さえる指には力が入っていた。ベレトはもう一度、角と蔦の絡まり方を見た。手でほどこうとすれば、何度も引くことになる。短剣で切るほうが早い。
 ベレトが腰の短剣を抜くと、男の耳が伏せた。
 それを、ベレトは初めてはっきり見た。前に会ったときは布の隙間から覗いただけだったものが、いまは濡れた髪のあいだからあらわになっている。鹿のものに似て、短く、そしてよく動く耳だった。刃の光に怯えたというより、先に身体が危ういものを感じ取ってしまったように、頭の横へ低く倒れている。
「君を傷つけはしない」
 男はすぐには返事をしなかった。森の中を駆け、追手の足を矢で止め、ベレトを背に乗せてここまで運んできたものが、刃物を前にして、息をひそめている。ベレトは刃を寝かせ、角には触れないよう、濡れた蔦だけをすくった。
「そういうふうに言われると、信じるしかなくなるだろ」
 怒るでもない。笑うでもない。言葉にしてしまえば任せるしかなくなることを、男のほうもわかっているようだった。
 ベレトは蔦を一本ずつ切った。繊維が裂けるたび、男の肩がかすかに動く。途中で一度、蔦の下に指を差し入れる必要があって、ベレトは短剣を持たないほうの手で角の枝を支えた。硬い。雨を吸った木のようで、骨のようでもある。しかしその下には、先ほど掴んだときと同じ熱があった。
「痛いか」
「痛くはない。でも傷をつけたら高く売れなくなるから、気をつけてくれよ」
 その言い方で、刃物を前にしたときのこわばりが少しゆるんだのだとわかった。森へ返すはずの角を売る、と笑っていたときと同じ調子で、けれどいまは、ベレトの指がその角を支えている。値段の話をしているのに、品物として扱えという響きにはならなかった。
 最後の一本が落ちると、枝角の先に溜まっていた水がベレトの手の甲へ落ちた。
 男はしばらく動かなかった。解放された角をすぐには揺らさず、まず息を吐いた。それから、ようやく顔を上げる。
……で、どうだ。今度はちゃんと伸びてるだろ」
「立派だ」
 ベレトが言うと、男は困ったように目を伏せた。枝角はまだベレトの手の近くにあり、そこに触れた感触も残っていた。森の中で畏れられるものが、いまは雨に濡れた蔦の下で、息を殺してこちらに身を任せていた。その近さを、冗談だけで払いのけるには少し遅かった。
「期待しないで待ってるなんて、言うもんじゃないな」
 ベレトは短剣を鞘に戻した。手の甲には、角の先から落ちた水の冷たさが残っている。だが、角を支えた指の腹には、硬さだけでなく、その下にあった熱もまだ残っていた。
 人ではないのだと、わかっているはずだった。
 それでも、手のひらには熱があった。


3.

 男に助けられた夜から、ベレトは何度か傭兵団の陣を抜け出して、あの森へ足を運んだ。
 毎回会えるわけではない。呼べば来るわけでもない。それでも、沢の音や、苔むした石の台や、白樺の細い幹が並ぶ場所を少しずつ覚えて、簡単には道を見失わなくなっていた。人の気配が遠ざかるところ、霧が溜まりやすい低地、踏むと深く沈む土の場所。そういうものの違いも、いまではいくらか見分けがつく。

 けれど、その日の森はいつもと違っていた。
 木の幹が荒れている。一本ではなかった。沢へ続く道の脇に、樹皮を大きく削られた木がいくつも立っていた。はじめは獣の痕かと思ったが、傷の位置が高すぎる。普通の牡鹿が角を擦りつけたにしては、削られた場所も、抉れ方も深い。木肌は濡れて色を変え、剥がれた樹皮が根元に散っている。
 ひときわ大きな傷の前で、ベレトは足を止めた。
 枝分かれした角を支えたときの硬さを思い出す。雨に濡れた茶褐色の角と、その下に感じた温もり。ここまで深く木を削れるものを、ベレトはひとつしか知らなかった。
 奥で、角のぶつかる音がした。
 乾いた音ではない。湿った森の中で、骨と骨が合わさるような重い音だった。ベレトが枝を避けて進むと、木々の開けた場所に二頭の牡鹿がいた。一頭は森に棲む獣で、もう一頭は、それよりずっと大きい。肩の高さも、頭上に広がる枝角も、土を掻く前脚の力も違う。勝敗を考えるまでもなかった。だからこそ、よくなかった。
 勝てる。勝てるから、相手を傷つける。勝てるから、自分の角も傷める。
「やめろ」
 声をかけると、大きな牡鹿がこちらを向いた。獣の吐息が白く濁り、伏せきらない耳が森の音を拾うように細かく動いている。
「止めるなよ。見りゃわかるだろ、俺のほうが強い。そんなに心配しなくても勝てるさ」
 喉の奥から落ちた声は低かった。怒っているというより、身体のほうが先に怒りのかたちを取ってしまっているようだった。
「わかっている。だから止めている。勝てる相手と角を合わせて、君が傷つきにいくのを見過ごせない」
 男は返事をしなかった。
 その沈黙のあいだに、相手の牡鹿が一歩下がった。そのまま枝葉を鳴らして森の奥へ走り去ると、男は前脚を上げ、二度と来るなと言わんばかりに土を蹴ろうとした。ベレトはすぐさま男の横へ回り、その尻のあたりを平手で軽く叩いた。
 強くはないが、止めるには足りた。
 男の前脚が止まる。まだ鼻息は荒かったが、蹄が地を叩く動きだけはおさまった。ベレトはそのまま、さっき叩いたあたりを二度ほど撫でた。興奮した獣をなだめるときと同じつもりだった。肩や首へ手を伸ばすより、いまはそちらのほうが危なくないと思っただけだった。
 男の耳が、遅れて低く倒れた。
……あんた、俺を何だと思ってるんだ」
「大きな鹿」
「合ってるが、正面からそう言われると癪に障るな。こっちはいま、自分でも持て余してるんだよ」
 言ってから、男は嫌そうに息を吐いた。認めるつもりではなかったのだろう。だが、足元ではまだ土を乱していて、角の根元には熱があり、枝分かれした先には新しい傷がいくつも見えた。木に擦りつけた痕だけではない。さっき牡鹿と合わせたときについたのだろう、片側の角には細い裂け目が走っている。
「角が、高く売れなくなる」
 そう言うと、男は一度だけ黙った。角を売ると笑っていたのは自分なのに、その言い訳をそのまま返されるとは思っていなかったのだろう。下がっていた耳が、さらに頭の横へ寄った。
……言われなくても、わかってるよ」
 ベレトは、沢の音がするほうへ足を向けた。男は止めなかった。こちらを見ないふりをして、前脚で土を掻きかけ、途中でやめる。
 苔のあいだから流れる水は冷たかった。取り出した布を浸すと、濁った水が指の間を抜け、すぐに澄んでゆく。それを軽く絞ってから、男のそばへ戻り、角をもう一度見た。さっき見えた裂け目には、泥と血が入り込んでいた。
「人には戻らないのか。手が届かない」
「いまは戻りたくない」
「なぜ」
 男は答えなかった。耳だけがわずかに動く。戻れない、とは言わなかった。戻りたくない、と言った。なら、姿を変えること自体ができないわけではないのだろう。
 人の姿になれば、角の根元にも、耳の近くにも手が届く。傷も確かめやすい。それでも戻らないなら、手が届く場所が増えることを嫌がっているのかもしれなかった。
 ベレトは、道すがら見た木の幹を思い出した。一本ではなかった。いくつも樹皮を削られ、生木の色をさらしていた。負けるはずがない相手にわざわざ角をぶつけ、前脚で土を掻き、息を荒くしていた。
 怒っているだけではない。痛みだけでもない。森の奥で、何かに引っ張られているようだった。ベレトが近づく前から耳を下げ、触れられるより先に身体を硬くする。嫌がっているというより、触れられたあとの自分を先に警戒しているように見えた。
「発情期か」
「蹴るぞ」
 返事は早かった。さっきまで言葉を選んでいたくせに、そこだけは迷わなかった。けれど、蹄が土を乱しただけで、ベレトへは向かない。耳も下がったままだった。
「違うのか」
「あんたには言いたくない」
 男は顔を逸らした。怒っているように見せようとしていたが、角の根元には赤みが差している。枝分かれした先にも、まだ泥と血が残っている。ベレトが布を持って近づくと、耳の先がまたわずかに沈んだ。
「言いたくないなら言わなくていい。だが、君の傷は放っておけない」
……勝てる相手に突っかかったのも、木の幹を削ったのも、角を傷つけたのもよくなかった。それは認める。けど、尻を叩くな。ついでに撫でるな。あれは効くとか効かないとかじゃなくて、いろいろだめだろ」
 言葉は多いのに、逃げるための一歩は出なかった。前脚はもう土を掻いていない。ベレトが角へ手を伸ばすと、男は顔をそらしたまま、大きな身体を地に伏せた。耳だけはこちらに向いている。何かを待っているような沈黙だった。
 ベレトは角の枝先についた泥と血を拭った。
 男は文句を言いかけたが、声にはならなかった。濡れた布が枝角をこすると、寝かせていた耳が一度だけ震える。大きな体がわずかに沈み、大きく波打っていた呼気が短く途切れた。
「痛むか」
……痛くない」
 嘘だと思った。しかし、痛みだけではないのだともわかった。ベレトの手が近づくたび、さっきまで気が立っていたものが、少しずつ言葉を失ってゆく。
 枝先を拭ってから、ベレトは角の根元を確かめた。そこは硬い角とは違って、濡れた毛の下で強い脈が打っている。擦れたのか、片側だけ赤みが差していた。耳の付け根へ指が近づくと、男の耳がびくりと跳ねた。
「そこは怪我してないだろ」
「赤くなっている」
「それは、まあ、そうなるだろうな。でもいまの俺にそういう触り方をするなって、さっきから言ってるつもりなんだが」
 声だけは文句のかたちをしていた。けれど、耳を低くしたまま動かない。逃げるために倒しているというより、触れられたところから力が抜けてしまったように見えた。
 ベレトは指を離し、今度は鼻面の近くへ手を移した。荒く吐かれていた息は、さっきより浅くなっている。濡れた鼻先の上、獣のかたちをした長い輪郭のあたりに泥がついていたので、布の端で拭った。
 男はとうとう黙り込んでしまった。
 不快だったかと思い手を止めると、耳だけが小さく動いた。拒む動きではなかった。続けろとも言わない。さっきまで言い訳を並べていた口は閉じていて、鼻先だけがベレトの手の近くにある。
「続けていいのか」
 男は答えなかった。代わりに、低く倒した耳がもう一度だけ揺れた。蹴られはしなかった。前脚も土を掻かない。
 ベレトはそれを答えとして受け取り、布で鼻面の泥を拭った。濡れた毛並みの下で、息が浅く震える。男はまだ何か言いたそうにしていたが、言葉は出てこなかった。大きな牡鹿の姿をして、耳を横へ倒したまま、ただベレトの手に身を任せている。土を掻いていた前脚も、追い払うための角も、いまはどこにも向けられず、濡れた草の上で静かにしていた。


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