@rema_mare_
桜がひらりひらりと舞い踊る。八分咲きの桜並木の下、ぼんやりとした顔で歩く少年の手には鳥籠。ピィピィと鳴くインコを傍に、春の陽気に相応しく呑気な様子の少年の表情は、ほっと和らいだ様子だ。
住宅街に入り、目的の家の前で足を止める。帽子を取りインターホンを鳴らせば、少しのやり取りの後、まもなく玄関を開けて現れたのはグレーの髪が似合う上品な老婆。
「あら、まぁ。さすが探偵さんね。見つけてくださって、ありがとうございます」
老婆は少年が両手でもつ鳥籠の中を見て、相好を崩した。
「いえ。無事にみつけられて、よかったです」
「えぇ、えぇ。……そうだわ、探偵さん。もしよろしければお茶でもいかがでしょう。お友達にクッキーを焼いたのだけれど、気合を入れすぎちゃったみたいで。たくさんあるの」
美味しいと思うから、探偵さんも食べてみて。そう言って優しく微笑まれて、少年は困ったように笑う。どうにも人の好意を断るのが下手くそらしい純朴な恥じらいを浮かべ、それじゃあ、お言葉に甘えて。と返事をする。
家の中に入れば、焼き菓子の甘い香りに包まれる。落ち着いた雰囲気の調度品は日焼けして薄くなった茶色をしていて、どこか温かさを感じさせる。少年は着席を促された、六人は座れそうな大きなダイニングテーブルを前にして、視線をうろつかせてから端の席にちょこんと座る。クッキーとお茶を用意した老婆は少年の隣に座ると、にこやかに話しかける。
「ごめんなさいね、突然お誘いしてしまって。探偵さん……最原さんはお忙しいでしょうに」
「僕の方こそ。お邪魔してすみません」
困ったように笑って、最原はティーカップを両手で持ち口をつける。
「もうすっかり暖かくなってきたわね。ストーブを点けていたのは、ついこの間のことだというのに」
「そうですね。僕はまだ、炬燵も片付けていないくらいで」
「あら、まぁ。最原さんはおひとりで暮らしているの?」
「最近は、そうですね。家の人が仕事で出かけているので、ひとりのことが多いです」
「そうなの。お若いのに大変ねぇ。まだ学生じゃないの?」
「えっと、はい。高校生です」
「やっぱり、そうなのね」
柔らかい微笑みを浮かべる老婆と、ぽつりぽつりと穏やかな雑談が続いていく。その最中、そういえばと不意に老婆が切り出した。
「最原さんは、占いとか信じるお方?」
肩をほんの少し震わせて、最原は人並み程度には、と答える。
「私ね、占いの趣味があるの。最原さんを占ってみてもいいかしら?」
「……はい。お願いします」
顔を強張らせてぎこちなく笑う最原に少し待っているように声をかけて、老婆は部屋を出ていった。その姿を見送る目は落ち着きなさげに瞬きを繰り返す。
やがて戻ってきた老婆の手には、石でできた灰皿のようなものがあった。机の上に置くと、中には透明な水が張られていることや、意図を読み解けない文字や記号が縁に書かれているのがわかる。
「これは水盆よ。水占いで使うの。……さぁ、水面に向かって息を吹きかけてちょうだい」
水盆の観察に夢中になっていた最原は、はっとしたように頷いた。ふ、と息を吹けば、水面は揺れて波紋を描き出す。息をかけるのを辞めても水面は揺れ続けているのが奇妙ではあるが、穏やかなままの老婆の様子は、水盆に揺れ続ける仕組みがあるかのような説得力があった。
「…………やっぱり。最原さん、変転の相が出ているわ」
「、変転?」
ゆっくりと口を開いた老婆は、ただの波紋に何を見出したのか。結果らしきものを伝えられた最原の喉は渇いていて、かすれた声が出る。
「最原さんを変えるような出来事が近いうちに起こるみたいよ」
「変えるって、何を?」
「そうねぇ。考え方とか、生き方とか、住む場所かもしれないわ。人それぞれだもの。でもね、とても大きいのよ、変化っていうのは」
ずっと穏やかだった老婆の表情や仕草に、真剣さが宿る。最原は、口に溜まった唾も飲み込めず瞬きもせず、言葉に呑まれる。
「大なり小なり、世界が変わるという事よ」
窓から二列目、一番後ろ。そこが二年生最初の席。クラス替えをしたての教室はそわそわとした雰囲気で満たされているが、自席で微睡む最原に特別な変化をもたらすようなものではなかった。
変転、か。数日前に解決したペット探しの依頼人の言葉を思い出す。変わると言っても、良い方なのか悪い方なのかもわからない。特段、現状に大きな不満はないし、これ以上の変化を望んでもいない。けれど、強いて言うなら。寝る時に家の周りで騒がしく鳴る音が止んでくれたらいいなぁ。自分の腕枕の中で小さな欠伸をしながら、残りの休み時間も睡眠に充てた。
黒い影が、濃く長く伸びている。赤い西陽を背に受けながら、影を追いかけるように家路を急ぐ。
普段は日が暮れる前に帰宅するようにしていたのだが、新年度にあわせて図書室に新しく入った小説を立ち読みしているうちに、すっかり時間が経っていたようで。焦りと怯えを自覚しながら、前のめりに歩く。黄昏時は、最原にとっての鬼門だった。
囃し立てるみたいにあちこちであがる鴉の鳴き声に早歩きの速度を更に上げ、被っている帽子の鍔を深く下げる。前が見えないほどに目深に被っているからひたすら地面を見つめ、息を荒げながらも足を止めることはしない。時折、後ろを気にするようにしているが、その背を刺すものは夕陽しかない。
「……っ、何か、」
鴉の鳴き声が騒がしい中、突如、道端の影から黒い塊が飛び出す。
「う、わ、ッ!」
だから夕方は苦手なのだ。昔から、この時間帯になると襲われる事が多いから。紙一重で横に逸れながら黒い塊を避けて走り出す。右手には夕焼けに染まる町の眺望、左手には既に暗くなった森と、逃げ道のない一直線の坂道を転ばないように駆けていく。一方で最原を追うモノは、筋骨隆々とした人みたいな体に乗せた牛の頭から、荒い息を吐き出しながら猛進する。真っ直ぐに突っ込んでくる牛頭に対し、蛇行しながら走る事でなんとか躱していく。方向転換の度に肩掛け鞄が振り回されるが、なんとか立て直しながら逃げ続けて。
「わ、ぁうっ!」
先に耐えられなくなったのは、度重なる転換で酷使された脚。崩れる体を立て直すこともできず、勢いのまま坂を転がって頬や手やらが擦れてじんじんと熱く痛む。止まったところで顔をあげて、恐ろしさにまた頭を伏せた。すぐそこに迫った化け物との間に遮蔽物は無く、方向を誤る余地も無い。頭を抱え地面に蹲る頭上。一斉に飛び立った鴉達の鳴き声に羽音が混じるのが聞こえる。鴉は飛び立っていったのだろうか。衝撃を待つしかできない最原の頭は、現実逃避のように余所事を考える。
夕陽を遮って飛び回る鴉の群れによって、辺りは暗くなる。より一層体を強張らせる最原と牛頭の間。上空で舞う鴉の影の下、森から葉を散らし出てきた白い人影が牛頭の行手を阻むように立ち。
「《失せろ》」
低く鋭い声を浴びた牛頭は、それまでの勢いの一切を殺されたようにピタリと立ち止まり、硬直する。
白い人影は、少年らしい背格好で上下真っ白の服を身に纏っていた。顔立ちは幼さの抜けきらないものだが、淡紫の双眸は命令する事に慣れているように、支配者然とした雰囲気がある。少年と牛頭はしばし睨み合い、やがて観念したように牛頭は足下の影へ溶け込むように消えていった。
衝撃が一向に来ない事や何者かの声が聞こえた事を訝しみ、最原はおそるおそる顔をあげる。最原に背を向ける少年の姿に見覚えはないが、恐らく助けられたのだろう。最原が礼を言うより先に少年は振り返り、最原を助け起こす。だが、丁寧な手つきで背を支えておきながら、怪我への配慮など感じられない無遠慮な力加減で腕を取り、無理矢理に立たせようとする。
「うわ、っ!待って、痛い、っから!乱暴しないでよ!」
「え〜。このくらいでそんなに痛いの。まったくもー、そんなに脆くて大丈夫?」
最原のズボンは転んだ時に膝が破け、滲んだ血が痛々しい。少しだけ立ったがその場にまた座った最原の顔を覗きこんで、少年もしゃがみこむ。じっと交わされる目を先に逸らしたのは、最原の方だった。相手はそれに気を悪くした様子もなく、にこりと笑って口を開く。
「ボロボロじゃん。いつもこんな風になるの?」
「えっと、普段はここまで酷くないよ。……あ、遅くなってごめん。キミが助けてくれたんだよね。ありがとう」
「どういたしまして!オレも下心あり気だし」
少年は最原の腕を自分の肩に回させようとして、少し考えてから膝裏に手を回して横抱きにする。
「あの、何を」
「なんだか頼りないけど、まぁ仕方ないか。キミにお願いがあるんだよね」
「は、はぁ……」
「“妖探偵“さんって、キミのことでしょ?」
探して欲しいモノがあるんだ。抱かれたことでくっつくほどに近くなった少年のにおいには、人ならざるもののソレが混じっていた。
僕、この人と喋るの、疲れるかもしれない。探偵事務所まで最原を抱えながら歩く少年をちらりと盗み見上げたが、相手はしっかりと目線を合わせて笑うものだから、慌てて帽子で視線を遮る。
「道はまだ真っ直ぐでいいんだよね?」
「えっと、はい」
「もー、タメ口で話してって言ってるのに!」
「ご、ごめん」
初対面であるのは確かだと思う。こんなに強烈な性格をした人、一度会えば忘れられそうにない。最原はここまでのやり取りを思い出しながら、ため息を噛み殺す。
『あなたは何者なんですか。たった一言でアレを追い払うなんて』
『人に名前を聞く時は自分から言うのが当たり前でしょ!ちゃんと学校で習わなかったのかな?』
『……僕は、最原です』
『そっか、じゃあ最原ちゃんだね!』
『ちゃん……?僕は男ですよ』
『知ってるけど?こうやってキミをお姫様抱っこしてあげてるのは、オレなんだし。まぁ最原ちゃんの顔だったら、性別を間違えられた事もありそうだよね』
『…………それで、あなたの名前は?』
『オレは王馬小吉!王馬くん、でいいよ!』
『えっと……王馬、くん?』
『うん、なぁに?』
『…………』
失礼な物言いや、名前を呼んだだけでなぜだか酷く嬉しそうにする不可解さとか。
『王馬くんの依頼って、何ですか?』
『敬語やめてくれない?距離感じてヤダなー』
『……』
『…………』
『………………』
『……………………』
『その、王馬くんの依頼って何?』
『にしし!事務所に着くまでは内緒!』
タメ口を強制し、返答を引っ張っておきながら教えてくれないところとか。
『それよりさ、オレとおしゃべりしよーう!最原ちゃんは好きな人とかいるの⁉︎』
『は⁉︎急に何を、』
『だって恋バナは定番じゃん!外せないよね!まぁ、最原ちゃんみたいなおこちゃまに恋バナは早かったか』
『……僕だって、好きな人くらいいる』
『お!どんな人⁉︎』
『同じクラスの、』
『あ、ちなみに嘘はダメだからね。オレって嘘吐かれるの嫌いだからさ。もしそんなことされたら、怪我で歩けないキミのことだってここで落としていっちゃうかもよ?』
『…………いないよ、好きな人』
『にしし。偉いね!それと、落としていっちゃうってのは嘘だから安心してよ。……でも、キミが嘘を吐いたら、針千本より痛い事をしちゃうかも?それが嫌ならオレに嘘は吐かないようにねー』
散々振り回したり脅したりしてきてまともな対話が難しいところとか。
この短時間のやり取りで苦手なところの具体例がいくつも挙がるほどに、接していて疲れるのだ。助けてくれた事や依頼人である事を忘れてしまうほどに、王馬という少年は最原の思考を振り回し引っ掻き回して、心をもやもやと曇らせてくる。
「ここまで運んでくれてありがとう。もう痛くないし、降ろしてもらっていいかな」
続けて、ここの三階が事務所だよと言うより先に。表情でも声音でも呆れを存分に訴えた返事がされる。
「最原ちゃんは、お姫様抱っこが恥ずかしくなっちゃったの?今更すぎるよ……いい年した男が自分より背の低いヤツに運ばれてる姿を何人に見られたと思ってるの……?」
「いや、誰ともすれ違ってないよね」
「ちゃんと周りは見てたんだ!さすが探偵さんってところかな?でもキミの言う通り誰にも見られてないんだから恥ずかしいとか関係ないし、このままでいいよね!」
最原の自宅も兼ねている探偵事務所は、貸しビルの三階に位置する。事務所まで歩かせはしたが、自分を抱えたまま階段を登らせるのはさすがに申し訳なく。しかし、馬鹿にしたようなやり取りをしながらもきっぱりと断る王馬の笑みは、一見和やかなものだが有無を言わせない雰囲気もあって。何も返せず押し黙った最原を抱えたまま、王馬は階段を登っていく。
王馬の行動だけを見れば、随分と親切なものだと思う。怪我を気にして事務所まで運んでくれたし、襲われていた最原を助けてくれたのも彼だろう。けれど、それにしては口が悪い。悪意を疑ってしまうほどに最原を馬鹿にした物言いは、照れ隠しとするには無理がある。更にはころころと移ろいながらも一貫して愉快げに歪められる表情。王馬ほど言動から真意を読み解くのが難しい人に、最原は出会った事がなかった。
やっと横抱きから解放されて、久々に自分の足で立つ。じりじりと怯んでしまいそうな痛みはあるが、それでも真っ直ぐ立とうとするのは意地だ。事務所の鍵を開けて応接スペースに案内し、コーヒーを準備していてもまだ彼の事を考えている。事務所まで抱えてくれたのは、親切心からというのが勘違いかもしれない。最原に利用価値があるから丁重に扱っているのか、後で馬鹿にするために辱めているのか、実は誰彼構わず過剰に親切だから、彼に優しくしている自覚はないとか。
「知りたいの?なんでオレが最原ちゃんに優しくするのか」
テーブルに置こうとしたカップが、返事のようにガチャンと大袈裟な音を立てた。
「言っておくけど、誰にでもこんなことするわけじゃないよ」
「……キミは、人の心を読めるの?」
「あれ、当たってたんだ。適当に言ったつもりだったんだけど」
脚を組んだ膝の上に頬杖をついた王馬が、薄ら笑いで最原を見やる。
「というかさ、初対面の相手にお姫様抱っこされてるのに拒否しないとか。最原ちゃんって危機意識なさすぎない?」
「僕はしなくていいって言ったよ」
「そうだっけ?その割にはオレに甘えて体を預けきってたけど」
ねぇちょっと最原ちゃん、コレ苦いんだけど!甘くしてよ!と、コーヒーを一口舐めて文句を喚く王馬よりも、最原の方がよっぽど苦い表情をしていた。腹いせも兼ねてスティックシュガーを二本も入れて返されたカップにも、王馬はむしろ飲みやすくなったとばかりに微笑んで口に流す。
「妖探偵なんていうからせめて事務所くらいはそれなりに護符とかあるんだと思ってたのに、何も対策してないんだね」
「その妖探偵っていうのは勝手に言われてるだけで、名乗ってるわけじゃないよ。というか、誰から聞いたんだよそれ」
「妖に関わってる人間は結構知ってるんじゃないかな?オレも人伝に聞いたし」
辺りを見回してもあるのは一般的な事務用品や雑貨ばかり。スチールの棚や机に隠れているものは、埃か小さな妖達くらいのものだ。
人ならざるモノ、人のそばにあって人には見えないモノ、見えなくとも不可思議をもたらすモノ。それらは妖とよばれている。稀に妖を見て関わることのできる人はいて、最原もその一人だった。とはいっても最原が関わってきたのは妖の中でも大人しいモノばかり。先ほど襲われた牛頭のように凶暴なモノに遭遇することはほとんどなく、あったとしても遠目に見かけるくらい。それに最原には妖を見て触れるくらいのことしかできないから、それを追い払う術など知らない。
「妖にお願いされた探し物を見つけてるだけなんだ。僕は、探し物専門の探偵だから」
「探し物専門、ね。妖への自衛もできないクセに依頼は受けてるんだ?」
「……今日みたいな事は、滅多にないよ」
「ふーん……ま、見つからなくてオレが困ってる事には変わりないし。その辺はどうにかするか」
低く呟いた後、深刻そうな表情を幻だったように軽い笑顔に変えた王馬は、なんてことない口調で依頼内容を明かす。
「オレが最原ちゃんにお願いしたいのは、『百鬼夜行の主』を探す事」
「……百鬼夜行の、主?」
「そう。ここら一帯の妖達を纏める、要はボスみたいなヤツだよ」
目標が思ってもみない大物で、最原の目は困ったように揺らめく。最原が妖への自衛手段を持たないことは先ほど王馬自身が指摘したとおり。なるべく依頼を断ることはしたくないが、だからといって身の丈に合わない依頼を受けて迷惑をかけるわけにもいかない。自分がどこまで関われるのか、線引きをするために口を開く。
「探すっていうのは、居場所のことかな」
「それも込みで、正体とか素性とか色んな情報が欲しいんだ」
「色んな情報って、具体的には?」
「色々は色々だよ!とにかくあるだけ全部!」
「あるだけ全部なんて難しいよ。せめて何が知りたいか絞って教えてくれないと」
あまりにも依頼内容がぼんやりしていると、どこに向かって調査を進めればいいのかもわからない。王馬は話を聞きながら、わざとらしく難しい顔をしてうんうんと唸ってから提案する。
「じゃあさ、こうしよっか。九月に近くでお祭りがあるでしょ?最原ちゃんはその日まで百鬼夜行の主についてなんでも調べる。オレはその調査成果に対して報酬を払う。その間、他の依頼を受けていいし、なんならオレも手伝ってあげる。成果報酬とは別に、毎月手当も支払うよ」
「……そう、だね。その形なら受けれるかも。手伝いは別にしなくていいけど。あと、たまに情報を探られるのを嫌がって報復してくる妖もいるから、その危険性が出てきた時には調査を中断するよ」
「それでいいよ!じゃあ調査依頼を受けてくれるんだね!」
「うん。どこまでできるかはわからないけど、やらせてもらうよ」
「にしし!よかった!じゃあこれからよろしくね、最原ちゃん!」
二人の間にある机から身を乗り出した王馬は、最原の手を掬い取って握手をするようにぶんぶんと上下に振る。王馬があまりにも嬉しそうに笑っているものだから、最原もよくわからないままつられて柔らかくはにかむ。
「今日はもう遅いし、細かいところはまた話していくとして。最原ちゃんはどこで寝てるの?」
「え?」
依頼の話の前後に雑談を振られる事は今までもあったが、どこで寝ているかなんていきなり聞かれた事はない。日が暮れて帰り道が暗いからという気遣いだろうか。それなら家の場所を聞きそうなものだが。
「事務所の奥で寝泊まりしてるよ」
「お風呂とかも奥?」
「あ、うん。そうだよ」
「オッケー!じゃあオレ、いったん帰るね!」
ばいばーい!と元気よく手を振って事務所を出ていく王馬を見送りながら、
「……いったん?」
妙なことを言われたが、聞き間違いか言い間違いだろうと思って片付けを始める。
いつも通りのシングルベッドの上が、やけに広く感じる。手足を思いっきり伸ばしてから力を抜いて部屋を見渡すが、おかしいところは何も無い。いつも通りの最原しかいない部屋に、昨晩の事は夢なんだとほっとする。
事務所を片付た後、夕食を済ませてお風呂から出ると部屋の中に大荷物を持った王馬がいたとか、今日からここで寝泊まりすると言ったとか、当然のようにお風呂を使って出てきたとか、追い返そうとしてもむりやり最原のベッドに入ってきて狭いベッドの中でくっついて寝ることになったとか、そんなものは全部夢だったのだ。ずいぶんと寝ぼけてるなと眼を擦り朝支度をする。王馬は初対面の最原をこれでもかと振り回してくるような人だが、さすがに断りなく家に泊まるなんて真似はしないだろう。
そう、夢といえば。王馬が泊まりにくるものの他に、もうひとつ見たような気がする。いつもより早めに目覚めて時間に余裕があるため、のんびりした足取りで考え事をしながら登校できる。いつもこうならいいのにと苦笑しながら、もうひとつの夢を思い出してみる。温かい水の中を漂っていると、何かが頭や背を撫でてくれたような気がする。王馬の夢に比べたら触覚ばかりの曖昧なものだったが、なんだかぽかぽかして心地よかった気がする。あたたかい気持ちを抱えて、今日はいい日になるといいなと帽子のつばを少しあげる。
「どうもー、王馬小吉でーす!本当は昨日に転校してくる予定だったんだけど、遅くなっちゃった!いやー、オレってば悪の組織の総統をやってるんだけど、部下がやらかしちゃってその尻拭いをさせられちゃってドタバタだったんだよね……総統も楽じゃないよ……。それはともかく、これからよろしくね!」
いい夢を見たからといって、いい日になるとは限らないらしい。王馬が言う悪の総統だとか部下の尻拭いだとかは、デタラメとしか思えなかった。けれど、最原が牛頭に襲われていた場に居合わせたのは偶然なのだろうか。そうして考え事に耽っていたが、ふと真正面に誰かが立った気配がして顔をあげる。
「……王馬くん?」
「にしし、昨日ぶりだね最原ちゃん!オレの席はキミの隣だよ!ちなみに聞いてなかっただろうから教えてあげるけど、学校の案内とかよろしくって言われてたからね」
教壇を見ると笑いながら鷹揚に頷く担任と目が合う。隣の席は、たしかに空いていた。最原ちゃんと学校でも一緒なんて嬉しいなー!よろしくね!と、席で頬杖をつきながらにこにこする王馬。逃げるように目を逸らせば、転校生に向けるべき好奇の目を王馬と最原とに纏めて送ってくるクラスメイト。変転、という言葉が頭を過ぎった。どうやら占いに出た最原の変化というのは、学校での平穏が乱されるという意味だったらしい。
明るい性格で会話回しも上手い王馬は、転校初日だというのにすぐにクラスの人気者になっていた。それは別にいい。休み時間になると彼の席の周りには人が集まり、隣にある最原の席も人混みに埋まってしまう。よくはないけれど、それも置いておく。
「ねぇねぇ、最原ちゃんもそう思うよね!」
「いや、別に……」
「えー、ツレないなぁ。オレと最原ちゃんは運命で結ばれた前世からの恋人同士なのに」
「前世でも今世でも恋人じゃないよ……。変な嘘を吐くのはやめてくれないかな」
「あは!恥ずかしがってるの?」
何に辟易しているかといえば、いちいち最原を会話に巻き込んできては、皆の前で性質の悪い冗談ばかり吹聴することだ。これでは最原のいないところで何を言われているかわからなくて、王馬から離れることができない。先ほどもトイレへの行き帰りだけで、最原が王馬の部下というのは本当なのか、二人はどんな関係なのかと数人から質問される始末。そのせいか普段以上に視線が気になってしかたない。おまけに人間達が騒がしくしているからか、妖達までもが好奇の視線を送ってきているのだ。自分の手を握ってみれば、指先まで冷え切っている。人にも妖にも、注目されたくないのに。視界が暗く感じるのは気のせいでなく、気分を落ち着けようと何度も目深に被り直した帽子のつばが低くなっているのだ。
ちゃんと、やめてほしいって言おう。王馬さえ話しかけてこなくなれば、無数の視線に囲まれる事もなくなるだろうから。
昼休みのチャイムが鳴る。空腹に耐えかねたのか、教師がまだ話している途中にも関わらず机の上を片付け始める生徒がいるが、最原も今日限りはその一人だった。けれど最原が昼休みを待ち焦がれたように勢いよく立ち上がったのは、昼食のためではなく。
「王馬くん。ちょっと来て」
「なに最原ちゃんそんな怖い顔しちゃって。え、ほんとなに、めちゃくちゃ強引じゃん告白ならもっと恥じらいと可愛げを、」
「違うってば!」
返事を待たずに腕を掴んでぐいぐいと引っ張っていく最原の勢いに呆れたように、王馬は連れられるがままになる。最原ちゃんの困ってる顔、見せてほしいのにな。そう思ったものの、今は何を言っても聞いてもらえる気配がないため、黙ったままで腕をひかせる。
「ねー。そろそろ教えてくれない?こんなところまで連れてきた理由」
「……」
大人しく着いてきた王馬だったが、明らかに人通りのない校舎裏で最原の足が止まったことでようやく尋ねる。
「……王馬くんは、どうして僕に話しかけてくるの?」
「どうしてって。初めての場所って緊張しちゃうし、知り合いがいたら、話しかけちゃうのは当然だと思うけど?」
「え、キミが、緊張……?」
「なになに最原ちゃんってば。オレのことを心臓に毛が生えてるどころか羽毛でふさふさふわふわで愛くるしい毛並みを持ってるとでも思ってたの⁉︎」
「そこまでは思ってないよ。そもそも心臓の毛並みが良いって、褒め言葉なの?」
「毛並みが良いは褒め言葉に決まってるじゃん!」
「えっ、と。そうなんだね。……それで、話しかけてくる本当の理由は何?」
話を適当に流さないでよ!と抗議しながら顔を近づける王馬から距離を取るように最原は後退り、最初の質問に立ち戻った。
「へぇ。最原ちゃんは、オレのことが気になるんだね」
「え、うん……?まぁ、キミの目的とか正体とかは気になってるけど」
「そっか!じゃあ特別に、教えてあげようかな」
王馬がまた一歩、最原に寄る。同じように最原も一歩遠ざかろうとしたが、すぐ後ろに壁があるせいで半歩すら下がれない。
「、やめてよ」
帽子に手をかけられて声をか細く震わせながら拒否しても、王馬は止まらない。
「オレはね、最原ちゃんと仲良くなりたいんだ」
「っ!返して」
「おっと、ダメだよ!」
明るくなった視界に目が眩みながらも、帽子を持つ王馬の手を掴もうとする。最原の方が頭半分ほど背が高いはずなのに、王馬は器用に最原を避けて帽子を取り上げ続けた。仲良くなりたいだとか言っておきながら、どうして人の物を取ってくるのだろう。唇を噛み締め、手で空を掻き続ける最原の顔には冷や汗が浮かんでいて、持ち物を奪われた怒りではなく強い焦燥が窺えた。
「最原ちゃんがオレに話しかけられたくないのって、コレのせいでしょ?」
「、……」
「最原ちゃんが視線にビクビクしてるのはわかってよ。だからさ、最原ちゃんが視線を気にしなければ、オレともおしゃべりしてくれるってことだよね!」
「な、じ、自分勝手すぎる……!」
「にしし!でもね、これは最原ちゃんのためでもあるんだよ」
「どういうこと……?」
「視線にビンカンな割には、気づくべきことにすら気づけてないんじゃない?こんなの被ってるせいでしょ」
最原の訝しむような目を意に介さず、王馬は最原の頭を両手で挟みながら親指で眦をそっと撫でる。怯んで目を閉じる最原が顔を背けようとするもそれを許さず、顔を真正面から見つめ合う状態が続く。
「最原ちゃんさぁ。ちゃんと妖と人間の区別ついてるの?」
「……え?」
「妖のお願い事も聞いてるから妖探偵なんて呼ばれてるんだよね。親切が悪いとは言わないよ?でもね、」
頭を掴む力が緩んで、王馬の両手は最原の頬にあてがわれる。穏やかに撫でてくる王馬の手つきには優しさがあるような気がして、最原は更に混乱した。
「人間が妖のために、妖が人間のために。違う理で生きる者相手の願いを叶えすぎるのはダメだよ。最原ちゃんは人間なんだから、人間の困り事を聞かなきゃいけないでしょ」
「……意味のわからない事を言って、はぐらかさないでよ。帽子、返してってば」
「えー、これはもうオレのものだよー!」
最原の手をひょいと身軽に避けて、帽子を被った王馬は軽やかに駆け出す。
「ちょっと!待ってよ!」
「待って、最原くん」
「え……?」
王馬を追いかけようとした最原の後ろに、いつの間にか立っていたらしい誰かから引き止められた。振り返って相手を確認してみるが、相手に見覚えはない。同じ制服、同じ学年色を身につけているから同級生なのだろう。しかし相手は最原の名前を知っているというのに、最原は相手の名前にまったく覚えがなかった。相手は前髪が長くて目元が窺えないが、申し訳なさから思わず帽子を深く被るように手を動かしてしまう。しかし頭には何も無い。そうだ、王馬くんに帽子を取られたままだった。
初速はある程度あった方が追いかけっこをしやすい。そう踏んだ王馬は、最原が追いつけないくらいの速さで駆け出した。鬼ごっこをして遊ぶくらいの役得はあっていいはずだと、浮かれていたかもしれない。そのせいか、最原が追いかけてきていないことにすぐ気づけなかった。
「……今は、あんまり離れたくなかったんだけどなー」
まったくもー、最原ちゃんったら困ったさんだよね!独り言とは思えない大声で文句を吐き、王馬は来た時よりも明らかに速足で最原の元へ戻っていく。
「最原くんは、あの転校生とどういう関係なの?友達?それとも本当に恋人なの?」
あぁ、なんだ。また王馬くん絡みの質問か。最原は胸の中が疲れたように重たくなる。男子生徒は噂話で最原を一方的に知っていただけなのだ。目の前の同級生に見覚えがないのも当然だろう。
「恋人どころか、友達ですらないよ。たまたま席が隣なだけで。……王馬くんは、僕を揶揄って面白がってるだけなんじゃないかな」
「最原くんは、アイツのこと嫌い?」
「え、」
王馬のことが嫌いかと聞かれても、困る。好きとか嫌いとか以前に、出会ったばかりの相手で。最原にとっては依頼人でもあるのだ。しかし、王馬の言動のせいで疲弊しているのも事実。好きでも嫌いでもないけれど、大人しくしてほしいと思う、というのが本心だと最原は結論づけた。
「嫌いではないけど、好きでもないかな……」
「いなくなってくれると嬉しいんだよね?」
「えっと。静かになってくれると嬉しいけど、いなくなってほしいとまでは、」
男子生徒の物言いといい険しい目つきといい、王馬に対して攻撃的な雰囲気があるように感じられた。その上、最原の気持ちを断定するように畳み掛けられて、少し怖くなる。
「最原ちゃん」
唐突に背後から呼びかけられて、体がびくりと強張った。
「……王馬、くん」
先程まで王馬を話題にしていただけに、気まずくて半身だけ振り返る。
「お昼休みって何時までだっけ?教えてよ」
「何時って……え、もうこんな時間なんだ」
「えー!最原ちゃんのせいでお昼食いっぱぐれちゃったんだけど!」
「元は王馬くんが……いや、それより僕の帽子返して。なんで勝手に被ってるんだよ」
「最原ちゃんってすっごくどうでもいいことばかり気にするんだね……。そんなんだと今時生き残れないよ?器の広さがものを言う時代なんだからさ」
「何の話だよ……」
「さあね。そういや最原ちゃん、さっきまでだれと話してたの?」
「誰って、……あ、ごめん、話の途中、で……」
謝りながら正面を向くが、誰もいない。そこには確かに男子生徒がいたはず。彼は王馬のことが好きではないみたいだから、逃げたのだろうか。
「最原ちゃんはさ、オレに感謝した方がいいよ」
「え?なんで、わ、」
後ろから最原にしっかりと帽子を被らせた王馬は、最原の手を取り繋いで歩き出す。
「……なんで手を繋ぐの?」
「ん?ここに来る時そうしてたでしょ」
「してないよ。僕は腕を引いたんだけど」
「やっぱり最原ちゃんってば変なこと気にするね」
にししと笑いながら、王馬は繋ぐ手の力を強める。……誰かと手を繋ぐなんて、いつぶりだろうか。最原は記憶を辿ろうとして、やめた。それよりも、どうしてだか繋がれた手の温かさが心地いいような、懐かしいような。どうして、手を離すのが惜しいと感じてしまうのだろう。誰かに見られたら恥ずかしいはずなのに、王馬に対してあまり良い感情を抱いていないはずなのに。このままでいたいと思うのは、何故なのか。答えは自分の中にあるだろうに、ちっとも出処のわからない感傷が、不思議で仕方ない。
他人の体温であれば誰でもこうなるのかもしれない。でも、相手が王馬だからという可能性は。別の人と手を繋いでみて比較をするのが手っ取り早いだろうが、こんな事をできる相手なんて最原にはいない。孤児院にいた頃でも滅多に人と触れ合わなかったのだから、出てきた今なんて尚更そんな機会は無さそうだ。
「どうしたの?そんなに手を見つめちゃって」
「あ、……えっと、王馬くんって体温高いんだね」
「な、なんでそんなこと言うの……?オレのこと、こども体温だなんて……そんな最原ちゃんなんて、こうだ!」
「いたっ、振り回さないでよ肩が痛い……!」
「生意気な最原ちゃんがわるーい!」
「どう考えてもキミが悪いよ!それに僕はそんなこと言ってないからな!」
手を繋いだままぐるぐると腕を回す王馬に対抗しようと最原は手を引くが、がっちりと握られたままでまったく離れてくれない。……王馬くんって、意外と力が強いのか。
「人が来たら手は離してあげるから。もう少しこのままでいてよ」
どうして、必要以上に最原を構うのか。不可解な事を言ってくるのは何故か。……なんでそんなにも、嬉しそうで寂しそうな顔をしているのか。王馬は、言ってることもすることも訳がわからない。でも、よくわからないのは王馬の方なのに、まるで最原を逃さないように、あるいは縋るように手をしっかりと握るものだから。少しくらいはいいかと、思ってしまうのだ。
「……うん。人が来るまでなら、いいよ」
「にしし。やった。ありがとね」
今度は無理に振り回すのではなく、繋ぐ手の存在を確かめるように軽く揺らされる。王馬の幼いこどものような仕草に、最原は呆れ半分、もう半分は、嫌ではないという曖昧な気持ちを抱いていた。けれどその呆れは王馬にではなく、自身に向けられたもの。王馬のことを話しづらい、疲れる相手だと思っていたというのに、簡単に絆されてしまっている。出会ったばかりだというのに遠慮なく物を言えるから、気を許してしまっているのか。もしくは、自分が流されやすいかもしれない。王馬のことと自分のことが絡まりあって、酷く複雑になっているような気がした。
昨日は夕暮れ時に襲われたということもあり、最原はホームルームが終わってすぐ下校することにした。早く帰れるかどうかの懸念点に王馬の存在があったものの、彼も用事があったのか挨拶もそこそこにさっさと帰っていき、ほっとしたような、肩透かしを食らったような妙な気分になる。歩きながら今晩の献立を考えて、スーパーで手早く食材を手に入れてから帰宅しても、まだ夕焼けは見えない。
胸を撫で下ろしながら家に入ると、ふと妙な違和感を覚えた。微かな物音がするような、何かがいるような。小さな妖達がいつも部屋のあちこちにいるのだから、何もいないということは無いけれど、それにしてはもっと存在の大きなモノの気配がする。
食材を入れた袋をそっと置いて、携帯電話を片手に忍び足で廊下の奥へ進む。人間がいたら、とにかく警察を呼ぼう。でも妖だったら、どうしよう。以前から夜になると異音がしていたし、人間だろうと放置していたそれが妖の仕業だったのかもしれない。今更になって湧き上がる後悔と恐れを自覚して。情けなくなる。……王馬くんを呼べば、来てくれるのだろうか。王馬の正体はわからないが、妖を追い払う力は持っているらしい。でもそんなの、彼を都合よく扱っているみたいだ。こちらは彼に何故話しかけてくるのかと聞いておいて、嫌いでも好きでもないと言っておいて、都合のいい時だけ頼るのはもっと自分が情けなくなりそうで。
ガタン、と物が落ちるような音が洗面所から聞こえる。勝手に落ちたのでなければ、何かは確実にいるのだ。何がいても、王馬くんには連絡しない。そう心に決めて洗面所の扉に手をかけ、
「え、は、え、なに、なんで……⁉︎」
最原が開くより先にひとりでに開いた扉の向こう。そこにいたのは、先程まで最原の頭の中にいた人物で。
「あ、最原ちゃんおかえり。お風呂お先にもらったよ」
「おか、え、おかえりって、なんで、王馬くんが……僕の家で、お風呂に入ってるの……?」
「なんでって……オレ、昨日も最原ちゃん家のお風呂使ったし、一緒に寝たけど、覚えてないの?」
覚えてないと返す前に、そういえばと思い出す。今朝みた、王馬が今日からここに泊まると言って最原のベッドに潜り込んできた夢。あれは夢ではなく、昨夜の記憶だったのでは。
「…………おぼえ、てるけど。どうしてだったかな」
「覚えてないじゃん。護衛みたいなもんだって。また昨日みたいに襲われたらオレだって困るしさ。しばらく一緒に住むって言ったでしょ」
「えぇ……僕だって困るよ。急に王馬くんがずっといるなんて」
「でもお家の人は半年は帰ってこないんでしょ?昨日言ってたよね」
家の事情まで喋ってしまったのか。どうにも昨夜の記憶は朧げで、自信がない。依頼人相手におじさんの予定まで伝えるのかと疑問に思うが、王馬が言ったことは正しいし、本当に伝えたのだろう。
「……困るのは、家のことだけじゃなくて。急に護衛とか言われても、僕らは依頼人とその請負人、もしくはただのクラスメイトだから。キミが僕を守る必要なんてないよ。それにキミは僕が襲われたら困るって言うけど、その時は他の人に依頼すればいいだけの話だよね。……僕には、キミにそうしてもらう理由も無い、から……」
視線を外しながら伝えたら、困っていることが相手にはわかないのでは。そう思った最原は、王馬から目を逸らさないようにしていたけれど。最原の言葉を受けても、口を薄く弓形に吊り、目を細め見つめてくる王馬の笑みに、言葉をなくしてしまった。護衛だとか言ってくるのは、王馬の厚意だと最原は思っている。なら厚意を断られたはずの王馬が、酷く愉しげな顔をしている意味は。厚意ではなく、他に理由があるのか。
「最原ちゃんは理由があれば納得するんだよね?キミじゃなきゃダメだって根拠が。さすが探偵さん!探究心たっぷりで素敵だよ!それとも親切にしてくれるオレからの好意を期待して、後から傷つきたくないからとか?最原ちゃんはかわいいね」
「違う、僕は申し訳ないから……。キミはまたそうやって、話をはぐらかすんだね」
「別にはぐらかしてなんかないよ?だってオレは、最原ちゃんを口説いてるんだから」
「……は?」
耳の奥で、ドンドンと叩くような音がする。これは、鼓動の音?
「オレがキミを守ろうとしたり親切にしたりするのは、最原ちゃんが好きだからだよ」
突然好意を伝えられてしまった時は、なんと返せばいいのだろう。本当に好きなのか確認する、相手の気持ちを否定する、受け止めずに軽く流す。最原の頭の中にはいくつもの選択肢が浮かぶが、実際にとる行動はどれでもなかった。
「うわっ⁉︎な、なに、なに⁉︎」
ぐらりと体が崩れるほどの揺れ、そして家の壁が強烈に叩かれる音。先程から鳴っていたドンドンという音は、どうやら鼓動の音ではなかったらしい。
「よし、上手く釣れたみたいだね」
「え、ちょ、ちょっと、おうまく、わっ」
「うーん……バスタオルじゃちょっと小さいか」
「急になに、え、王馬くん?」
「いいから着いてきてよ」
あたふたとする最原に王馬が被せたのは、自分が使っていたバスタオルだが、必要な大きさには不十分だった。最原の手首を掴んで向かう先は最原の部屋。クローゼットを開けた王馬は掛け布団を引っ掴み、最原の真上で広げてその姿を覆い隠す。
「んんんん!」
「こら!出てきたらダメだからね!命が惜しいなら、そこで静かに隠れてなよ」
茶化すような物言いだが、王馬の声に感じるものがあったのか。布団から脱出しようと藻搔いていた最原の動きが、ピタリと大人しくなる。
壁を叩く音が、聞こえなくなった。部屋には静けさが満ち、二人の呼吸だけがやけに際立って聞こえる。布団の中の最原が息苦しさから少し身じろいだ、その時。
「ーーっ」
「入ってきたね」
玄関のドアを壊れんばかりに開け放ち、次いで廊下の床や壁を打ちながら最原の部屋に向かってくる物音が。そして、妖特有の煙たいようなにおいも漂ってくる。妖の気配を感じて身を固くする最原とは対照的に、王馬の立ち姿は自然体で余裕そうなものであった。
「お願い、おねがイ、お願い」
老若男女いずれのものとも判別できない、音らしき声が懇願をしてくる。布団越しの最原の耳にもはっきりと聞こえる声は異常で、やはり妖の仕業なのだろう。けれど必死に一言だけを繰り返す存在が気に掛かってしまい、そろりと顔を覗かせようとしたところで、王馬の手が最原の頭に乗せられた。
「何を言われても、返事をしちゃダメだよ」
「オねがい、お願い、欲しい、ほシイ、おねが……、あ、アァ、お前!ジャマ!取るな!邪魔!」
「あー、目が見えてなさそうだね。でも耳は聞こえてるのかな?」
「何処!返せ、カえセ!邪魔、欲しい、メ、返セ!」
「錯乱してるからどうかな。言ってもわかんないだろうけど、あの子はお前の願いを叶えられないよ。……それか、あの子の目を食べようとしてるのかな」
「目、ホシい、メ、邪魔ぁァ!」
「お!ちゃんと聞こえてるみたいだね!なら……《お前の目は、森の中にある。人間は、お前の願いを叶えない》」
「ア、ぁあ……?」
言葉と共に、王馬の目が昏く光を帯びる。すると、ひたすらに大きな声で王馬に詰め寄っていた妖はゆらりと揺れて黙った。布団の隙間から様子を見ていた最原には、妖が困惑しているように見える。王馬の言葉を咀嚼したのか。妖は部屋の隅にある濃い影に溶けるようにして消えていった。
今のはなんだったのだろう。最原にわかるのは、妖に狙われたのは自身であること、近ごろ家の壁を叩いていたのは今の妖であること、そして、王馬が最原を守ってくれたこと。
「いつまでそうしてるの?もしかして、被ってるの気に入っちゃった?」
「え、うわぁ!」
いつの間にか王馬の顔がすぐ目の前にあり、驚いて最原は後ずさる。
「そんなにびっくりしなくてもいいじゃん。それとも、怖かったの?」
「き、キミが布団に入ってくるからだろ……!剥がせばいいのになんで入ってきたんだ!」
「最原ちゃんが気に入ったみたいだし、どんな感じなのかなーってさ」
「別に気に入ってはないよ。……あの妖はどうなるの?」
「あぁ。もう最原ちゃんのとこには来ないと思うよ」
「……妖の目は、見つからないの?」
断片的にしか聞こえなかった会話の中でも、妖は目を欲していて、更には最原を頼ってきていたらしいことはわかった。
「アイツの目は探して出てくるものじゃないよ。潰れてるんだからさ」
「潰れてる……?」
「もう無いものを、最原ちゃんからもらおうとしてたみたい」
「でも僕、あるものは探せても無いものは無理だよ」
「……人も妖も、何故だか違う理に生きるモノに無責任な希望を押しつけがちなんだよね」
人間がする神頼みを、妖側も人間にしてるってことだよ。そう呟く王馬の顔から、何かの感情を読み解けそうで。最原はじっと見つめていたが、掴む前に表情が貼り付けたような笑みになってしまう。
「ちなみにアイツ、学校にいたんだよ」
「でも妖はこう、どろどろした見た目だったよね。あんなのいなかったと思うけど」
「生徒の姿をしてたからね。目は無かったみたいだけど。ちなみにオレは気配ですぐ気づいたよ!あんなに粘っこくて気持ち悪いのに、よく気づかなかったね?」
危機感が足りないと揶揄いたいのか。最原は拗ねたような気持ちを飲み込んで、疑問を口にする。
「なら王馬くんはあの妖を釣るために、学校でも僕と仲良く見える言動を取ってたの?」
「ん?……へぇ。最原ちゃんはそう思うんだ」
「……え、違うの?」
「違くはないけど惜しいね!30点ってところかな」
「残りの7割、は……」
妖に襲われる前に、王馬に言われたこと。王馬が最原に構うのは、好きだからという発言。これが、7割なのだろうか。
「なんてね、嘘だよ!最原ちゃんが言った理由が10割!だいせいかーい!」
「えっ、」
「なぁに?不思議そうな顔しちゃって。それとも最原ちゃんには、オレがそうした他の理由に心当たりがあったの?」
「……ない、よ」
「…………」
嘘を、ついた。けれど、この嘘は誤魔化しにすぎない。誤魔化したところで、自分の頭まで騙すことはできなかった。
「最原ちゃんって、釣った魚に餌をやらないタイプだよね」
「急になんなんだよ。しかも、知った風に言って……僕だって金魚の世話はちゃんとしてたよ」
「そういう話じゃないんだなぁ」
「じゃあなんだよ。釣りに行ったことはないからな」
「うーん、惜しくもない……かすりもしない……」
釣った魚は通常、返すか食べるものだと思っていたが、持ち帰って育てる人もいるのだろうか。わからないが、今回のお礼にいつか王馬を釣りに誘ってみようと最原は思った。