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Leiðarstjarna(レトクロ)※人外パロ

全体公開 レトクロ 16205文字
2026-05-28 08:39:54

『Vindauga』のつづきで冬の話。作中に登場する伝承や神話は一部改変したりしています。クロードの設定もかなり手を入れています。

Posted by @Bombwooo

「冬は雪が深いからなあ」
 何かを約束する声ではなかった。
 来い、と言ったのでもない。来るな、と止めたのでもない。ただ、落葉の下の土が凍り、沢の縁に氷が張り、森の道がいま見えているかたちを失うことを、彼は当たり前のように口にした。
「歩きにくくなるのか」
「なるな。道は埋まるし、沢は見えなくなるし、根も石も雪の下だ。あんたの足だと、思ってるより手こずると思うぜ」
「君はどうなんだ」
「俺はまだましさ。姿を変えれば、人間の脚で歩くよりはずっと楽だからな。ただ、それでも面倒は面倒だぜ。雪の下は見えないし、吹雪けばにおいも音も消える。冬の森は、慣れてるやつにだって親切じゃない」
 ベレトはうなずいた。
 冬になれば雪が深い。森の中を歩くのは難しくなる。男はそう言い、ベレトはそれを聞いた。目の前にはまだ濡れた落葉があり、沢の音も聞こえていて、道はかろうじて道のかたちを残している。
「寄り道せずに帰れよ。秋でも、暗くなるとこのあたりは道が変わって見えるからな」
 ベレトはうなずいた。
 男は森のほうへ向き直る。外套の裾が、落葉に触れた。白樺の幹が、暮れかけた光を受け、いっそう白く輝いている。足元には黄色くなった葉が張りつき、踏めば水が浮いた。まだ雪はない。靴裏には濡れた感触が残り、道は町へと続いていた。
 数歩進んでから、ベレトはもう一度振り返った。
 男は木の陰に立っていた。枝分かれした角が、暮れかけた森の中で黒く見える。外套の下から覗く金糸だけが、傾いた日の光を拾っていた。
 ベレトが軽く手を上げると、男は一拍遅れて、外套の下から片手を出した。
 大きく振り返すことはしない。手首を少し上げ、すぐに戻す。ベレトはそれを見てから踵を返し、森の外へ向かった。背後で枝葉が揺れる音がしたが、振り向かなかった。
 白樺の幹は、町へ続く道の途中までぽつぽつと見えていた。沢の音はしばらく背中のほうで続き、やがて、人の声と荷車の音に紛れて聞こえなくなった。


 踏み出した足が、音もなく白い底へ沈んでゆく。
 想像していたよりも、はるかに雪は深い。靴は足首のずっと上まで飲まれ、引き抜こうとするたびに、重い抵抗が返ってくる。見慣れていたはずの土の道も、苔むした倒木も、すべてぶ厚い雪の下に隠されていた。どの木のあいだを抜ければ沢へ出るのか、どこで道がゆるく曲がっていたのか、秋にはまだ見分けられたものが、いまは同じ白さの下で輪郭を失っている。
 人の足跡は見受けられない。
 時折、兎か狐のものらしい小さな足跡が点々と続いているが、それも木の根元や、雪をかぶった低い茂みのあたりでふいに途切れる。そこから先は、枝の下をくぐったのか、雪のかたまりに紛れたのかもわからない。風の音すらなかった。遠くでかすかに沢が鳴っている。しかし、水の流れそのものはぶ厚い雪に覆われ、見えているのはただ白く盛り上がった地面だけだった。
 ――冬は雪が深いからなあ。
 秋の終わり、男はそう言っていた。
 たしかに、その通りだった。道は雪に埋まり、木の根も石も姿を消している。
 冷たい空気が肺の奥まで入り込む。吐く息は白く濁り、外套の襟もとにかすかに触れて消えた。荷はいつもより重くない。武器も、食料も、森を少し歩く程度なら足りるはずだった。だが、一歩ごとに膝の下まで雪を割り、隠れた根を避け、見えない沢の縁を探りながら進むには、いまの支度では足りない。
 ベレトは足を止めた。
 無理に進むことはしない。森のどこかにあの男がいるとしても、こちらがたどり着く前に日が傾けば、戻る道のほうが先に消える。秋の森でさえ、暗くなれば道が変わって見えると言われた。冬ならなおさらだった。
 枝から雪が落ちた。
 音はほとんどしなかった。ただ、白いかたまりが幹を滑り、足元の雪に沈んで、そこだけが少し盛り上がる。ベレトは来たほうを振り返った。自分の通ってきた跡だけが、白い面を深く割って続いている。兎や狐の足跡とは違う。靴を引き抜くたびにできた穴が、ところどころで崩れ、ひとつの浅い溝のようにつながっていた。
 静寂の中、ベレトは雪に刻んできた深い轍を振り返った。

 町へ戻るころには、外套の裾から水が滴っていた。
 森の中では音が消えていたのに、町の入口をくぐると、人の声が重なってくる。戸を開ける音、荷車の軋む音、店先で薪がはぜる音。焼いた肉のにおいが通りへ流れ、冷えた鼻先に触れた。ベレトは足を止めず、まず手袋を外した。革は雪を吸って重くなり、指を抜くと、内側に残った冷たさが肌へ移った。
 店の棚には、黒っぽく焼かれた硬いパンが積まれている。ひとつ手に取ると、見た目より重い。冬のあいだ、湿気を吸いすぎないようにするためなのだろう。店主はそれを布の上に置き、蝋を引いた紙で包みはじめた。ベレトはみっつと言いかけて、よっつにした。口に出して理由をつけるほどのことではない。森の中で食べるなら、ひとつでも多いほうがよい。
 干し肉は吊るされたまま、煙のにおいを残していた。薄く切られた端が、刃に押されてすこし反る。塩気が強いのだと店主が言う。ベレトはうなずき、包ませた。酒は迷った。荷が重くなる。火口と厚手の布、予備の手袋も要る。けれど、男が町で酒を飲んでいたときの様子を思い出して、結局、小さめの瓶を一本選んだ。
 火口は濡れないように、蝋引きの包みへ入れ直す。厚手の布は外套の内側に収め、予備の手袋は荷の上ではなく、すぐ取り出せるところへ差した。日が暮れたとき、火を起こせなくては困る。小屋があればいい。沢の近くなら水は取れる。そんなことを考えていると、ふとベレトの手が止まった。
 あの男のすみかを知らないことに、いまさら気づいた。
 これまでは、森を歩いていれば向こうから現れた。霧の中にも、沢沿いにも、落ちた角のそばにも、いつも男のほうが先にこちらを見つけた。だから、彼を探しに行くなんてことは考えたことがなかった。
 木の陰に立っている姿なら思い出せる。枝分かれした角も、外套の下で光った金糸も覚えている。しかし、戸のある場所、火を起こす場所、雪の夜をやり過ごす場所は、ひとつも浮かばなかった。

 店主が包みを差し出す。
 ベレトは礼を言い、荷の口を締めた。来たときより、肩にかかる重みが増している。硬いパンと干し肉と酒瓶が、歩くたびに少しずつ位置を変えた。町の通りにはまだ人の声があり、焼けた肉のにおいも残っている。戸口の火に手をかざす者もいた。
 その音を背に、ベレトはもう一度、白い森のほうへ向かった。


 森へ入ると、町の音はすぐに届かなくなった。
 相変わらず、人の足跡はない。ベレトは、雪の下に沈んだ道を選びながら進んだ。前に引き返したあたりまで来ると、白い面に刻まれた轍はもう崩れかけている。風が吹いたのか、枝から雪が落ちたのか、穴の縁がなだらかになり、ところどころは新しい雪に埋もれていた。沢の音はまだ遠い。水の流れは見えず、木の根も石も、すべて同じ白さの下にある。
 森の入り口に近いあたりには、古い小屋がいくつか残っているはずだった。
 猟師か、あるいは森で夜を越す者が使ったものだろう。秋の森では気に留めることもなかった木組みや、低い屋根の影を、ベレトはひとつずつたどってゆく。雪をかぶった倒木と見分けがつきにくいものもある。かろうじて戸が残っているもの、壁の片側が落ちているもの、屋根が潰れて使えないもの。誰かがひと冬を越すには心もとないが、吹雪を避けるだけならまだ役に立つものが、木々のあいだに静かに埋もれている。
 ひとつ目の小屋にたどり着いたころには、空の色が昏く染まっていた。
 戸は硬く、下のほうが雪に埋もれている。ベレトは足で雪を払い、肩で押した。木が軋み、凍りついたところが剥がれるような音を立てて、狭い隙間が開く。中は暗い。壁が軋んでいる様子もなく、炉も残っている。
 炉には古い灰が固まっていた。棚は片側が傾き、欠けた木椀がひとつ、壁際に伏せてある。隅には乾いた草を詰めた寝床のようなものがあり、その上に細い枝が数本落ちていた。人の暮らしというには足りないが、誰かがここで火を使い、寒さをしのいだ跡はある。
 ベレトは荷を下ろした。
 戸の隙間から入る雪を払い、炉の灰を端へ寄せる。火口は濡れていない。蝋引きの包みをほどくと、乾いたにおいがわずかに立った。細い枝と、棚の下に落ちていた割れ木を集め、息をかけながら火をつける。はじめは煙ばかりが出たが、やがて小さな火が炉の底で赤く揺れた。
 手袋を外すと、指先が遅れて痛む。
 ベレトは硬いパンを割り、干し肉を噛んだ。火のそばに手をかざし、濡れた手袋を膝の上に広げる。小屋の中はすぐにはあたたまらない。火の赤さだけが、床の上の荷と、伏せた木椀の縁を照らしている。

 男はいない。
 そう思ってから、ベレトは戸のほうを見た。これまでは、森を歩いているうちに向こうから現れた。霧の中で角を探していたこともある。沢沿いで声をかけられたこともある。木の陰からこちらを見ていたこともある。いざ、こうして小屋の中で待つとなると、どこへ向かえばいいのか見当がつかない。
 火が小さくはぜる。
 ベレトは外套を敷き、乾いた草の寝床に背を預けた。戸の隙間から入る白い明かりは、夜になっても消えない。雪があるせいか、外は完全な闇にはならなかった。冬の眠りについたはずの沢が、まだどこかで鳴っている。遠いのか近いのか、壁を挟むと距離がわからない。
 眠りは浅く、火の消えぎわの赤さだけが、瞼の裏に残っていた。

 夢の中で、ベレトは小屋の中にいた。
 炉の火は消えかけていて、灰の底だけが赤い。戸は開いていた。外には大きな牡鹿が立ち、白い光の中に、雪へ沈んだ蹄が見える。枝分かれした角が、戸口の上にかかる影をさらに暗くしていた。声はない。ただ、こちらをじっと見ている気配だけがある。
 牡鹿は入ってこない。雪の上に立ったまま、しばらくこちらを見ていた。ベレトは何かを言おうとした気がする。声になる前に、角の影も、蹄の沈む白さも、炉の赤い点も、眠りの中で薄れていった。


 朝を迎えても、小屋の中は何も変わっていなかった。
 炉の灰は昨夜のまま低く積もり、寝床の草も、荷も、戸口の内側も乱れていない。誰かが入ってきた跡はない。木椀は壁際に伏せられたまま、蝋引きの包みも荷のそばにある。火は消えて、灰の底にわずかに熱が残っていた。
 ベレトは戸を開けた。
 外の雪は明るい。夜のあいだに、すこしだけ新しい雪が降ったらしい。昨日の轍は薄くなっている。けれど、小屋の前に、それとは違う跡があった。
 大きな蹄の跡だった。
 小屋の戸口の前で止まり、そこで一度、雪を深く踏んでいる。蹄のかたちははっきり残っていた。そこから、森のほうへ戻っている。小さな獣の足跡ではない。雪を割り、重さを残した跡が、木々のあいだへ続いていた。
 夢で見た牡鹿の蹄と、同じ大きさだった。
 ベレトはしばらくそれを見ていた。小屋の中に入ってきた痕跡はない。声も聞いていない。戸も閉まっていた。それでも、夜のあいだに何かが来て、ここで止まり、また森へ戻っていった。
 ベレトは外套を纏い、荷を背負い直した。
 火の始末をし、戸を閉める。外へ出ると、冷たい空気が顔に触れた。
 蹄の跡は、小屋の前からゆるく曲がり、木々のあいだを抜けている。途中で雪に埋もれかけているところもあったが、大きな蹄の跡は、思ったよりも深く森の奥へ続いていた。雪の上に残った窪みは大きく、ひとつずつが深い。小さな獣の足跡なら、枝の下や茂みの向こうでふいに消えることもある。けれどこの跡は、木々のあいだを曲がり、雪を割り、ところどころで白樺の根元を避けながら、迷いなく先へ伸びていた。
 ベレトはそのあとを追った。
 歩くたび、膝の下まで雪が沈む。その下で、凍った枯れ枝が鈍く折れる音がした。荷の重みが肩にかかり、外套の裾は何度も雪を払った。蹄の跡はまっすぐに見えて、近づくとそうでもない。低い枝の下をくぐり、倒木を回り込み、沢の音が一度近くなって、また遠ざかる。今度は隠れた根を踏み、足がわずかに取られた。倒れはしなかったが、手をついた幹から雪が落ち、袖に白く散った。
 彼なら、もっと楽に進むのだろう。
 そう思ってから、ベレトは足元の跡を見た。人の脚ではなく、獣の脚が通ったあとの深さがそこにある。秋の終わりに聞いた通りだった。道は埋まり、沢は見えず、根も石も雪の下にある。男が姿を変えれば人間の脚より楽だと言ったことも、いまならよくわかった。
 息が白く流れてゆく。
 蹄の跡は、やがて小さな斜面を越えた。木々のあいだに、煙が見えた。はじめは枝にかかった薄い霧かと思ったが、空へまっすぐ昇らず、屋根の上で風にほどけている。そこだけ雪の色が暗い。小屋があった。
 さきほど夜を越した小屋よりも、人の手が入っているように見えた。壁の隙間には布が詰められ、戸口の前の雪は払われている。屋根には雪が厚く乗っているが、炉の煙は消えていない。蹄の跡は小屋の前で止まり、戸口を踏み固めたところから途切れていた。
 ベレトは戸の前に立った。
 中から、火の気配がする。乾いた草のにおいと、古い木が温まるにおいも混じっていた。人の声はない。だが、誰もいない小屋の静けさではなかった。ベレトは手袋の雪を払ってから、戸を軽く叩いた。
 返事はすぐにはなかった。
 もう一度叩くか迷っていると、中で何かが動いた。布の擦れる音。火にかけたものをずらすような、小さな木の音。やがて、戸の向こうから声がした。
「驚いたな」
 あの男の声だった。
 戸が少しだけ開く。隙間から、火の明かりと、男の目が覗いた。
「よくここまで来れたな」
「蹄の跡があった」
……残したつもりはなかったんだが」
 男は戸をさらに開けた。いまは人の姿をしている。頭には角があり、枝分かれした先が小屋の暗がりにまぎれていた。
 彼は外套を脱いでいた。下に着ているのは、以前町で見たものと同じ意匠の衣だった。ただ、冬の小屋で見るそれは、金糸の織りも布地も少し厚く、炉の火を受けると、模様のところだけが沈んだ金色に見える。
 入れ、とは言わない。その代わり戸口から身体を引いて、小屋の中にひとり分の隙間を作った。ベレトは雪を払ってから中へ入る。
 小屋の中は狭かった。炉には小さく火があり、壁際には乾いた草と毛皮が重ねられている。壁際には弓が立てかけられ、矢筒は手の届くところに置いてあった。粗い木皿がふたつ、棚の上に重ねてある。戸口の内側には、雪を入れないように敷いた板があり、その上だけが濡れていた。
 男は戸を閉めると、ベレトの足元の雪を見て、眉を寄せた。
「そのまま入るなよ。戸口で雪を落としてからにしろ」
「なぜ」
「古い小屋には、小さい番人がいるんだとさ。炉の灰を散らすな、食べものを少し残せ、戸口では身体についた雪を払え。あとは、火をぞんざいに扱うな、道具を壊したままにするな、とかな。そういう作法がある」
 男は炉の前に戻り、灰の端を木片で整えた。大げさな仕草ではない。慣れた手つきだった。火を大きくしすぎず、灰を崩しすぎず、木片を使ったあとも炉の縁へきちんと置く。
「機嫌を損ねると、翌朝には火口が湿ってたり、靴が片方なくなってたりするらしい。粥やバターを置いておくとよろこぶ、なんて話もあるな。ここには粥もバターもないから、俺は飯を少し残すくらいにしてるが」
「そんなものがほんとうにいるのか」
 ベレトが言うと、男は炉の火から目を上げた。
「俺の前でそういうこと言うか」
「君は目に見える存在だから」
「見えてるから信じるってのも、なかなか傭兵らしいな」
 男は笑った。怒ってはいない。むしろおもしろがっているようだった。ベレトは戸口で靴についた雪を落とした。さきほどまでなら気にせず踏み込んだかもしれないが、そう言われたあとでは、そのまま小屋へ入る理由もない。
 男はそれを見て、炉のそばに腰を下ろした。
「信じないなら、試してみるか? 飯を残さず寝てみるとか」
「君は試したことがあるのか」
「ある」
 返事は早かった。
「俺も一度、面倒くさがって飯を残さずに寝たことがある。朝になったら、弓が消えてた」
「盗まれたのか」
「隠されたんだよ。小屋の中にも外にもない。外にも跡はない。半日探して、梁の上に吊られてるのを見つけた。あれは腹が立つぞ。怒鳴る相手が見えないんだからな」
 言いながら、男は弓へ目をやった。弓は炉から離れ、雪を払う道具と矢筒のそばに立てかけてある。火の粉も戸口の雪も届かず、それでいて手を伸ばせばすぐ取れる位置だった。ベレトが弓から梁へ目を移すと、男は苦いものを呑み込むように肩をすくめた。
「それからは守っているのか」
「守ってる。俺は賢いからな」
 炉の灰を整え、戸口では念入りに雪を払う。声の調子のわりに、その手つきはまじめだった。
 ベレトは荷を下ろし、蝋引きの包みを開いた。荷の底から小さな酒瓶を出した。町で買ったものだった。自分で飲むつもりはあまりなかった。
 男のほうへ差し出すと、彼は目じりをゆるめた。
「へえ、これを俺に?」
「ああ。好きだろうと思った」
「ありがたい。ひと足先に春が来た気分だ」
 男は瓶を受け取り、炉のそばへ置いた。すぐには栓を開けない。その扱い方だけで、いらないものではなかったのだとわかった。
 ベレトはそれから硬いパンをひとつ取り、端を割る。自分で食べるぶんを手元に置いてから、もうひとかけを木皿のそばに置いた。
「信じたのか」
「そういうわけではない。ただ、君が嘘を言っているようにも思えない。だったら、いるかもしれないものの機嫌を損ねないほうがいいだろう」
 男は一瞬黙り、それから声を立てずに笑った。火の明かりが目元にかかり、角の影が壁へ伸びる。小屋の外では雪が戸に触れる音がしている。中では、炉の火が小さくはぜた。
 ベレトは濡れた手袋を外し、戸口の雪を踏まない場所に置いた。木皿は壁際へ戻す。火口は濡れないように包み直す。どれも大げさなことではない。ただ、この小屋で夜を越すなら、そのくらいの作法は覚えておいてもよいと思った。
 小さい番人がほんとうにいるのかどうかは、まだわからない。だが男はそれを知っているように振る舞い、少なくとも一度、弓を隠されたのだと言った。ベレトの前には、炉の火があり、木皿があり、壁に立てかけられた弓がある。そして彼が困ったと言うのなら、作法に従う理由はそれでじゅうぶんだった。


 炉の中が静かになるころ、男の耳が戸口のほうへ動いた。
 さっきまで戸板に触れていた雪の音が止んでいる。風も弱い。男はしばらく外の音を聞いてから、炉の端に残った燠を崩さないよう、灰をそっと寄せた。燃え広がらないように覆い、戻ったときには息をかければ起こし直せるだけを残してゆく。小さい番人の話をしたあとだからか、灰を扱う手つきは雑ではなかった。
「少し出てくるよ。あんたも来るか?」
「どこへ行くんだ」
「薪を見てくる。沢のほうと、近くの小屋もな。ここだけで冬を越すつもりはない」
 男は炉の灰を寄せながらそう言った。そこでようやく、ベレトはこの小屋が彼のすみかそのものではないのだとわかった。火を起こす場所、眠る場所、雪を避ける場所が、森の中にいくつかある。そのあいだを、彼は天気や風の向き、人の気配、角の状態に合わせて移っている。
 彼は戸口へ向かい、角が梁に触れないように身をかがめた。次の瞬間、輪郭が大きく揺れ、腰から後ろへ大きな獣の身体があらわれる。床板を踏んだ蹄が低く鳴った。頭上の角は、人の姿のときより大きく、黒く、いびつに広がる。炉の火を受けても明るくならず、暗がりの中で、男の上だけ夜が濃くなったようだった。彼はそれを戸口に当てないよう、身体を斜めにして外へ出る。
 ベレトはそれを見ていた。はじめて見たわけではない。何度も見た。それでも、すぐそばにいた男が戸をひとつ越えるだけで大きな牡鹿になるのを見ると、呼吸が一拍遅れる。驚いたというより、目の前で起きた変化を追うほうが先だった。
 牡鹿は振り返った。
「なんだよ。もう珍しいものでも何でもないだろ」
「珍しくはない」
「じゃあ、その目は何だ」
「何度見ても不思議だから」
「うは、正直だな」
 男の声は、獣の喉を通るとやや低く聞こえた。けれど、言葉の選び方は変わらない。ベレトは荷を持ち直し、小屋の外へ出る。戸口の板を踏み荒らさないように足を置くと、彼が鼻先を動かした。
「もう覚えたのか」
「弓を探すのに半日かけたくない」
「そこを覚えるんじゃなくて、作法のほうを覚えろよ」
 男はそう言いながら、戸口の外へ下りた。月が出ているのか、雪そのものが光をためているのか、木々の影だけが青く沈んでいる。戸口の前に落ちた足跡も、離れるとすぐに見えなくなった。
 蹄が白い面を深く押す。人の足よりもずっと大きく、重さもあるはずなのに、沈み方はベレトとは違っている。前脚で一度、足元を確かめるように踏み、それから沢の音がするほうとはべつの道を選んだ。
 ベレトはそのあとに続いた。
 数歩で、違いはわかった。男の蹄が作る跡は大きく、そこを踏めば楽に進めるように見える。しかし実際には、歩幅が合わない。深く踏み固められたところへ足を置こうとすると、次の一歩が遠くなる。外れれば、膝の下まで雪に取られる。外套の裾が雪を払うたびに、溶けた水が布へ染みていった。
 男は数歩先で足を止めた。
「傭兵だったら、雪の中を歩いたことはあるんだろ」
「ある。冬の山道を抜けたことも、雪の中で夜を越したこともある」
「そりゃあ大変だ」
「手がかじかむし、食べものが硬くなるし、眠る場所がない日もあった」
 牡鹿の長い鼻先から白い息が落ち、雪の上を低く流れて、夜の青さに紛れてゆく。
「あんたはそれを『慣れてる』って言うんだろ」
「ああ、慣れている」
「あんまりいい言葉じゃないな。寒くて動けないのも、食うものが硬いのも、眠る場所がないのも、慣れれば平気って話じゃない。慣れたってことにしなきゃ、次の日もやってけないだけだろ」
 ベレトは返事をしなかった。傭兵団にも、似たようなことを言う者はいたが、牡鹿の姿をした男がそう言うと、冬の森の音に紛れてべつのものを聞いた気がした。人ではないものが、人の冬を嫌がっている。
 次の一歩で、靴の先が雪の下の枝か根に引っかかった。膝の下まで沈んだ足が抜けず、ベレトは倒れないように体勢を立て直そうとする。
 それを見かねてか、男が戻ってきた。蹄の音は雪に吸われてほとんど聞こえない。大きな影が横へ立ち、夜の空をわずかに隠す。
「乗れよ。この雪じゃ、のんびり歩いてるうちに夜が明けるぜ」
 ベレトは男を見た。男の背には、雪の粉が薄く乗っていた。毛並みは冬の獣らしく厚く、近くに立つと、熱を持った皮膚のそばだけ、空気がわずかに揺らいでいる。
「気安く乗ってもいいのか」
「いまさらだろ」
「君の背だ」
 男はそこで口を閉ざした。
 遠くで沢が鳴っていた。ベレトの足元には、さっき抜けなかった雪の穴が暗く残っている。男は少しだけ横を向き、ベレトが乗りやすいように前脚を折った。胴は揺れず、こちらを待つ上体だけが人のときと同じように静かだった。
「あんたは特別」
「そうなのか」
「もっとよろこべよ。俺の背に乗れる人間なんて、そういないんだぜ」
「ありがとう。助かる」
「そういう意味じゃないんだがな」
 男はそう言ったが、それ以上は続けなかった。
 ベレトは角には触れず、肩の後ろに手を置いた。毛並みを強く掴まないよう、指の位置を少しずつ変える。かつて救われた夜のように、急ぐ必要はない。あのときは角を掴めと言われた。だがいまは、彼が前脚を折って待っている。
 背に上がると、足を引き抜くたびについてきた雪の重みが消えた。
 男がゆっくり立ち上がる。視界が高くなり、さっきまで目の前をふさいでいた低い枝の雪が、今度は肩の下に見えた。ベレトは荷が片側へ寄らないように押さえ、もう片方の手を男の肩の後ろに置いた。
 男はすぐには進まなかった。ベレトが姿勢を整えるまで、蹄を雪に沈めたまま待っている。歩き出してからも、はじめの数歩はゆっくりだった。
 大きな牡鹿は、雪よけの枝の下に積まれた薪を確かめ、雪に半分埋もれた小屋の戸口を見て、水の音が近くなる手前で進む向きを変える。人の足なら何度も止まる場所を、彼は迷わず通った。
 ベレトは男の背に手を置いたまま、夜の森を見た。どこを見ても、人の通る道は雪の下だった。もう、ひとりで雪を割って進む必要もない。吐いた息が男の肩のあたりで白く散り、角の向こうで、星の光がまたたいていた。
 薪の置き場と沢の音を確かめ終えるころ、男は来た道とはまたべつの、まっさらな道へ蹄を向けた。木々はどれも白く、同じ夜の中に立っている。だが彼だけは、どの幹のあいだを抜ければ小屋へ戻れるのかを知っていた。
 暗い木々の向こうに、見覚えのある小屋の輪郭が見えた。
 ベレトは丁寧に雪を落としてから中に入り、灰の下の燠へ息を落とす。灯りが戻るころには、獣の気配は薄れ、人のかたちをした影が壁に揺れていた。


 冬の小屋で過ごす日が重なるうちに、ベレトは男の生活を少しずつ覚えていった。
 外へ出る前には耳が戸口を向く。戻れば戸口の手前で雪を落とし、角を框に当てないように身をかがめて、人の姿で炉のそばへ戻ってくる。獣の身体が外へ消えたあとも、床板には蹄の低い音がしばらく残っているような気がした。ベレトはそれを見届け、手袋を火に近づけすぎないところへ移す。焦げない距離も、乾くまでの待ち方も、いつのまにか身に馴染んでいた。
 その夜も、彼は炉の前に座っていた。
 町で買った酒瓶はまだ空になっていない。木椀の底へほんのわずかに注ぎ、口をつけては、また栓を戻している。ひと足先に春が来た気分だと言ったわりに、飲み方はひどく慎重だった。
 揺れる炎が、彼の横顔を照らしていた。長いまつ毛の影が頬に落ちては揺れ、頭上の角の影が壁の上で大きく伸び縮みしていた。
「そういえば、君の名前を聞いていない」
 ベレトが言うと、彼は木椀を持ったままこちらを見る。
「俺も、あんたの名前は聞いてなかったな」
「ベレトだ」
「ベレト、ね」
 彼は一度だけその名を口の中で確かめるように転がした。
「俺はクロード」
 薪のはぜる音にも、戸の外で雪が板に触れる音にも紛れず、その名はまっすぐに届いた。
「クロード」
 呼ぶと、耳がぴくりと動く。伏せるほどではない。ただ、こちらへ向いていた耳が、返事より先にその音を拾い上げていた。
「それが君の名か」
「いまはな。生まれた場所ではもう少し違う音だったんだが、このあたりでは馴染みがなかったせいか、呼ばれるうちにかたちが変わったってわけさ」
「正さなかったのか」
「最初は丁寧に言って聞かせてたんだけどな。だが、毎回やってるときりがない。商人も、猟師も、自分が呼びやすいように勝手に変えるんだよ。酒を買うたびに発音に口を出すのは、さすがに面倒だろ」
 クロードは木椀を膝のそばへ置いた。酒の甘いにおいが、古い木と灰のにおいに混ざってゆく。
「だから、いまはクロードだ」
「クロード」
「ああ」
 今度は目を逸らさなかった。炉の赤光を吸い込んだ瞳が、静かにこちらを見つめ返している。
「あんたと出会ったときの名前だから、あんたにはそっちで呼んでもらえるとうれしい」
 酒瓶を受け取ったときより、ずっとやわらかな声だった。ベレトは静かにうなずく。呼ぶ名が決まっただけなのに、炉を挟んだ距離が先ほどと同じではないような気がした。
「故郷に帰りたいとは思わないのか」
 ふと、ベレトはそんなことをたずねる。生まれた場所という言葉が、まだ火のそばに残っていたからかもしれない。
 クロードはすぐには答えなかった。椀を持ち直し、飲むでもなく縁に指をかけている。目を伏せたせいか、その表情は炎の落とす影の中に沈んで見えなかった。
「帰りたいとは思うよ」
 やがて、ぽつりとそうこぼす。
「向こうの風も、土も、呼ばれてた名も覚えてる。冬のにおいだって違う。雪が深い場所もあるが、ここみたいな積もり方はしない。故郷を忘れたわけじゃないさ」
「なら、帰るのか」
「いつかはな」
 木椀の中で、酒がかすかに揺れる。クロードはそれを見てから、ふたたび炉の火へ目を戻した。
「でも、いまはここが俺の故郷みたいなもんだ。小屋がある。番人の機嫌を損ねないよう、整えてやらなきゃいけない炉がある。町には布を縫ってくれる店も、酒を売ってくれる店もある。面倒な連中もいるが、それも含めてな」
 そこまで言って、クロードは目だけをこちらへ向けた。
「それに、ここにはあんたもいるしさ」
 クロードはそこで口を閉ざした。
 耳がわずかに伏せている。言いすぎたと思ったのか、その先を言葉にするには火のそばが明るすぎたのか。彼は木椀の縁を親指でなぞりながら、残った酒のにおいをしばらく見つめているようだった。
 ベレトがこの森へ来られなくなったあと、この男は生まれた場所へ帰るのかもしれない。あるいは、べつの森へ移るのかもしれない。ふたりの生きる時間の違いが、ふいに炎のあいだへ落ちたような気がした。
 けれど、そのさびしさは長くは残らなかった。
「まあ、そんなわけで、しばらくはここにいる」
 その声は、さっきよりもずっといつもの調子に近かった。
 ベレトは炉のほうを見る。細い薪の端が割れて、灰の上に小さな火の粉が落ちた。酒瓶は炉から離れたところに置かれ、戸口の隙間からは白い雪が覗いていた。
 クロードという名は、まだ唇の上に残っていた。呼べばあの耳が素直に動くことも、ベレトはもう知っている。


 乾いた薪が燃え尽き、壁のあいだの空気がじわじわと冷えはじめていた。
 炉には燠が残っている。小屋の外では風の音がしない。戸板を押していた雪もいつのまにかやみ、沢のほうから、水が低く鳴る音だけが届いていた。彼は木椀を置き、しばらく外の気配を聞いてから、戸口のほうへ目をやった。
「なあ、あんたは極光って知ってるか」
「知らない」
「このあたりじゃあ、空に光の帯みたいなのが出ることがあるんだよ」
 彼はそう言って立ち上がった。角が梁に触れないよう、自然に身を低くする。ベレトは手袋を取り、外套の留め具を確かめた。硬くなっていた指先は、火のそばに置いたおかげでいくらかましになっている。
「いまから見に行くのか」
「ああ。もし極光が見れなくても、星はきれいだ。損はさせないさ」
 彼は戸口へ向かい、人の姿のまま外を見た。冷気が小屋へ入り、燠の奥がかすかに明るくなる。彼は灰の端を軽く寄せ、火が広がらないように整えてから戸を開けた。
 外へ出ると、彼は戸口の前で身を低くした。人の影が揺れ、次に雪を踏んだのは大きな蹄だった。ベレトは外套の前を合わせる。もう、彼のどこからどこまでが人で、どこから獣なのかを追いかけることはしなかった。戸口で雪を落とすことや、灰の下に燠を残すことと同じように、彼は外へ出ればこの姿になる。
「乗れ。人の足でたどり着ける場所じゃない」
 クロードは、お辞儀をするように前脚を折った。ベレトは角に触れないよう、肩の後ろへ手を置き、背に上がる。小屋で火のそばにいたときとは違う高さで、木々のあいだが見えた。
 大きな牡鹿の影は沢の音を横へ置くように進んだ。低く垂れた枝を避け、白く沈んだ道を迷わず抜けてゆく。凍りついた木々の幹が、星明かりを弾いて青白く浮かび上がっていた。

 やがて、視界が少し開けた。
 針葉樹がまばらになり、空が見えるだけの場所だった。風に払われたのか、積もったものはほかより低く、ところどころに黒い岩の肩が出ている。
 彼はそこで足を止め、ベレトを下ろすと、胴に巻いていた布をほどいた。厚手で、獣の身体に合わせて長く巻いてあったものだ。ほどかれた布には、まだ彼の体温が残っていた。
「じっとしてると冷えるからな」
 ベレトが受け取ろうとするより先に、彼は布をベレトの首へ回した。人の姿のときほど手つきは器用ではない。だが、布の端を引きすぎず、息が苦しくならないところで止める動きは、妙にきちんとしている。
「自分で巻ける」
「知ってる。俺が巻いてやりたいだけ」
 クロードは布の端を外套の内側へ押し込み、それからもう一度、前脚を折った。大きな身体が低くなる。ベレトが立ったまま姿勢を迷っていると、彼が横目で見た。
「寄りかかっていいぜ。椅子みたいにさ、遠慮なく背中を預けてくれりゃいい」
「重くないのか」
「まったく。だから遠慮するなよ」
 ベレトは折られた前脚のあいだに近いところへ腰を下ろし、クロードの体に背を預けた。外套越しに熱が伝わってくる。獣の体は大きく、後ろで胸がゆっくり上下していた。吐いた息がベレトの肩を越え、夜へ流れてゆく。
「どうだ、あったかいだろ」
「あたたかい。そう言う君は寒くないのか」
「この姿のときは、そんなに寒くないな」
「ならよかった」
 彼はそれ以上、茶化さなかった。頭を上げ、空を見上げるよう促す。ベレトはその向きに合わせて顔を上げた。
 針葉樹の梢には雪が残り、枝の先が星の光を受けている。空気が冷たく澄んでいるためか、光のまたたきは氷の粒のように鋭かった。遠くで沢が鳴っていた。小屋の壁越しに聞くよりも低く、木立のあいだを通って届く音だった。彼の胸が背中で動くたび、ベレトの身体もそれに合わせて揺れる。
「極光のことを、狐の火だと言うやつもいる」
 頭上から、静かな声が降ってくる。
「巨大な狐が雪原を駆けて、尻尾が粉雪を舞い上げた火花が夜空に現れたんだとさ」
「狐が空まで届くのか」
「届くと思ったやつがいたんだろ。冬の夜は長いからな。自然とそういう話も増えるんだろ」
 空には、まだ何も出ていなかった。星だけが輝いている。細かく散ったものもあれば、いくつか連なって見えるものもある。
「星にも、そういう話はあるのか」
「あるぜ。土地によっては、ああいう星の連なりを川と呼ぶ。べつの場所じゃ、道と呼ぶ。そこを魂が通るんだよ」
……君はまるで、見たことがあるように話すんだな」
「ほんとに見たことがあるからな。遠い、昔の話だが」
 返事のあと、クロードはしばらく黙った。大きく吐き出された息が、ベレトの髪の上を越えて夜の冷気の中へ白く溶けてゆく。背中に触れている厚い毛並みの下からは、人のそれよりもずっとゆっくりとした、重い鼓動が伝わってきていた。
「俺は、樹みたいに根を張ってどこかに立ってるわけじゃない。いくつもの場所のあいだを吹く風みたいなものだった。生きているもののそばにも、死んだもののそばにもいた。行こうと思えば、どこへでも行けた」
 ベレトは振り返らなかった。
「世界を繋ぐ風、なんて呼ばれ方もした。聞こえはいいだろ。けど、実際は繋がらないほうがいい場所もある。昔の俺は、そのことをちゃんとわかってなかったんだよ」
 クロードの首がわずかに動いた。
「俺のこの姿、森の眷属にしては物騒だろ」
 言われて、ベレトはクロードの肩のあたりへ視線を移した。飾りのような意匠は、炉のそばで見たものとは違い、星の下では冷えた影に近かった。たしかに、近づきすぎてはいけないもののかたちにも見える。だがいまは、その熱に背を預けている。
「そういうものなのかと」
「もう少し驚いてもいいんだぜ」
「見慣れてしまった」
 彼は息を吐いた。笑ったのかもしれない。ベレトには、背中に触れている胸の動きでしかわからなかった。
「俺は、やっちゃいけないことをした。聞かせなくていい声を、生きている者に聞かせた。戻してはいけないものを、一度だけ戻した。生きているものと死んだものの境を、曖昧にしちまった」
 星のまたたきは変わらない。空は冴え渡ったままだった。
「それでいまは、冥府の番みたいなことをしてる。大げさに言えば、だけどな」
「番?」
「たいしたことはしてないさ。夜明け前に森の端で足音を数える。ひとつ多ければ追い返す。ひとつ足りなければ探しに行く。境を越えちゃいけない声が、町へ下りないように見てる。それだけだ」
 それだけ、とクロードは言った。ベレトは、そうは思わなかったが、口にはしなかった。いまは彼の言葉が夜の中へ落ちてゆくのを聞いていたかった。
……だから、最初に会ったとき、君は血のにおいを嫌がったのか」
 あの日のことは覚えている。ベレトが森へ入ったとき、彼は眉をしかめた。血のにおいを厭うように見えた。
「嫌がったっていうか、迷ったんだよ。あんたが生きてこっちへ来たのか、もう帰れないほうの道から来たのか、一瞬わからなかった。……血のにおいをさせて森へ入ってくる奴は、たまにいる。生きてる奴も、そうじゃない奴もな。あんたは目つきがしっかりしてたから、たぶん生きてるんだろうなって」
「目でわかるものなのか」
「わかるときもあれば、わからないときもある。あんたはちょっとわかりにくかった。だから見てた」
「それで、声をかけたのか」
「そういうことにしておく」
 そこだけ、普段の調子へ戻った。最初に会った日の血のにおいが、違うものとして思い出される。嫌われたのではなく、見分けられていた。生きているのか、帰れない道から来たのか、クロードはそこで迷ったのだ。

 いまだ、頭上に光が現れる気配はない。
 黙っていると、クロードが見上げている空とはべつの方角へ目を向けた。
「こういう存在は、何も俺だけじゃない。もっと南の渓谷には黒鷲の女王がいるし、西の平原には獅子の王がいる。どっちも気難しいところはあるが、悪い奴らじゃない。あんたのことも、きっと気に入るだろうさ」
「会わせるつもりなのか」
「そのうちな。世界はあんたが思ってるよりずっと広い。それを見せてやりたいのさ」
 クロードの胸が、背中の後ろでゆっくり上下する。言葉の余韻が、大きな獣の身体の深いところから低く震えて伝わってくるのを背中に感じながら、ベレトは空を見たまま、短く返した。
「そうか」
 彼は満足したのか、それきり口を閉ざした。

 ふたりはしばらく、空を眺めていた。雲はない。星はよく見えている。けれど、狐の火も、光の帯も現れなかった。空は黒いまま、針葉樹の梢の上に底知れぬ深さで広がっている。
「出ないな」
「そういう夜もある。見ようと思って見られるものでもないからな」
「だったら、またふたりで見に来よう」
 言ってから、ベレトは首に巻かれた布へ触れた。クロードの胴に巻かれていた布は、もう外の冷気を吸いはじめている。それでも、内側にはまだ熱が残っていた。
 クロードはすぐには返事をしなかった。
 待っている、とは言わない。約束だとも言わない。大きな牡鹿の身体でベレトの背後を囲ったまま、空を見ている。やがて、耳がこちらへ動いた。
「今年の冬は、いい冬になりそうだ」
 極光は見えなかった。
 それでも、ベレトの背中には、預けたままの獣の熱があり、首にはほどかれた布が巻かれている。空は暗いままだったが、見えなかった光のことを、今夜のうちに惜しむ気にはならなかった。


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