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キルケーの指先(レトクロ)

全体公開 レトクロ 14051文字
2026-05-30 14:41:25

本編(翠風)軸で、ヒルダが面白半分でかけたおまじないが効いてしまったクロードの話。レト←クロ。ラブコメのつもりです。

Posted by @Bombwooo

「クロードくん、ちょっとこっち来てくれる?」
 ヒルダにそう呼ばれた時点で、面倒事の気配はした。
 物資の帳簿を見ていた手を止め、俺は顔だけを上げる。声の調子が明るすぎる。悪だくみをしているときのヒルダは、悪だくみを隠す気があまりない。本人は隠しているつもりなのかもしれないが、頬がかなり緩んでいる。そんなに楽しそうに面倒事を運んでくるな。
「何だ? こっちは忙しいんだが」
「うんうん、忙しいよねー。だから、ちょっとだけ。ほんとにちょっとだからさー」
 来いと言いながら、ヒルダはすでにこちらへ近づいてきていた。逃げるには遅い。そして、ここで逃げると余計に面倒になる。俺は帳簿を閉じ、椅子の背にもたれた。
「その顔、ろくでもないこと考えてるだろ」
「ひどーい。せっかくクロードくんにいいこと教えてあげようと思ったのに」
「お前がそう言うときは、たいがい俺のためじゃなくて、お前が楽をするためか、お前が面白がるためなんだよ」
 ヒルダは否定しなかった。否定しろ。そこはせめて否定するところだろう。
「アビスでね、かわいいおまじないを教えてもらったんだー」
「かわいい、の時点で俺に関係なさそうだな」
「関係あるよー。素直になれるおまじないなんだって」
「素直に、ねえ」
 口にしてみると、さっぱりかわいくない。本人が隠したいものを勝手に表へ出すなら、それはもうまじないというより尋問に近い。
「で、それをいったいどうするつもりなんだよ」
「こうするの」
 ヒルダが、何も持っていない指先をこちらへ向けた。
 糸を引くように、宙を軽く撫でる。指先がくるりと回り、最後に俺の胸元あたりで止まった。光が見えたわけでも、風が動いたわけでもない。ただ、ヒルダが満足そうに手を下ろしたので、何かは終わったらしかった。
……何で俺を指さすんだよ」
「だって、クロードくんにかけたから」
「は?」
 思ったより低い声が出た。
 他の相手なら、ヒルダはここでかわいく小首でもかしげてみせたのだろう。悪気はありません、ちょっと試しただけです、という顔を作れば、だいたいの人間は怒る前に調子を崩す。だが、俺にそれが効かないことくらい、こいつもよくわかっている。
 だから、ヒルダは開き直っていた。悪びれもせず、平然とこちらを見る。かわいこぶって誤魔化す気すらないなら、せめて申し訳なさくらいは用意してほしい。
「俺で勝手に試すなよ」
「いちばん反応が面白そうだったんだもん」
「理由が最悪だな。俺ほど素直でわかりやすい人間なんてほかにいないだろ」
「でも、効いたらかわいいと思わない?」
「思わない」
 即答したのに、ヒルダは傷つくそぶりもみせなかった。
 俺は自分の手を見た。べつに震えてはいない。胸も苦しくない。誰かに駆け寄りたい衝動も、愛を叫びたい気分もない。そもそも、そんなものがほんとうに効くなら、アビスではもっと大騒ぎになっているはずだ。
「何も変わらないぞ」
「だねー」
「だねー、じゃないんだよ」
「やっぱ嘘だったのかなー。あたしも、ちょっと怪しいとは思ったんだけど」
「そんな怪しいものを人にかけるな」
 至極まっとうなことを言ったつもりだったが、ヒルダはどこ吹く風だった。肩をすくめ、すでに興味の半分ぐらいを失った顔で、積まれた木箱のほうへ視線をやる。
「まあ、おまじないなんてこんなものだよね。でも残念だなー」
「ほら、遊んでばっかいないで、物資の準備をしてくれ。明日の朝になって足りないものが出たら、お前に補充しに行ってもらうからな」
「えー、それはやだ。やればいいんでしょー、やれば」
 口調だけは軽いが、ヒルダは仕事をいい加減に投げ出すことはしない。面倒そうにしながらも、必要なところではちゃんと手を動かす。だから俺も、それ以上は追わなかった。
 それでも、おまじない、という言葉だけが妙に耳に残った。
 ばかばかしい。そう片づけて、俺は帳簿を開き直した。数字はさっきと同じ場所に並んでいる。ヒルダは遠くで兵に声をかけ、木箱の中身を確認していた。
 相変わらず、何かが変わったようには見えない。

 そう思っていたのは、その夜、先生の部屋の前へ立つまでだった。
 明日の朝に出す伝令の文面を、先生にも確認してもらいたかった。聞けば早いし、先生なら起きている時間だった。理由はある。ちゃんとある。だから扉を叩いた時点では、まだ何もおかしくなかった。
「先生、少しだけいいか。確認してほしいことがある」
 中で物音がして、それから短い返事があった。
「構わない」
 扉が開く。いつもの顔がこちらを見た。扉を開けた手も、こちらの言葉を待つ間も、昼と何も変わらない。
「明日の伝令で、確認したいことがあってさ」
 そう言った声は、まだ自分のものだった。
 そのはずなのに、次に瞬きをしたときには、先生を抱き締めていた。
 近い、では済まない。両腕がしっかり彼の背へ回っていて、その中に彼の身体が収まっている。相談に来た男の距離とはとても思えない。
……クロード?」
 先生の声が、耳のそばで落ちた。
 待て。これは何だ。俺が聞きたい。
「いや、これはだな」
 言い訳の続きを探そうとして、腕が離れないことに気づいた。
 離そうとした。頭では命じた。なのに、身体のほうは知らん顔をしている。先生の背に回した腕は動かない。むしろ、彼が身じろぎした拍子に、勝手に力が入った。う、と息が漏れる。
「苦しいのか」
「苦しいのは俺の立場だな」
 咄嗟にそう返したが、先生は冗談として受け取ったのかどうか、よくわからない顔をしていた。腕の中で動きを止め、こちらの背中をぽん、ぽん、と叩く。
 やめろ。いや、やめるな。どっちだ。どっちでもまずい。

 彼が、こちらを見た。
 背丈がほとんど同じだから、こうなると顔が近い。近い、と思った時点で負けだった。抱き締めているのは俺で、抱き締められているのは向こうのほうだ。なのに、目が合っただけでこっちのほうが追い詰められている。
 何だこれ。
 先生は何も言わない。背中を叩いていた手を止めたまま、こちらがどうにかするのを待っている。どうにかできるなら、とっくにしている。彼は何かを考えているようだった。それから、手を止める。
 次の瞬間、背中に腕が回った。
 抱き締め返された、とわかるまでに一拍かかった。彼の手が、今度は背をなだめるようにゆっくり動く。子どもを落ち着かせるみたいな手つきだ。不名誉なのに、胸のあたりが勝手にゆるんだ。
 腕の力が抜ける。ようやく身体が言うことを聞いた。俺は先生から離れ、何事もなかったような顔を作ろうとして、作る前から無理だと悟った。
……疲れてるのかな、俺」
「そうかもしれないな」
 そこで終わらせてくれるのはありがたい。ありがたいが、できればもう少し疑ってほしかった気もする。いや、疑われたら疑われたで困る。どっちに転んだって俺によいことなんてひとつもない。
 そこまで考えて、昼間のヒルダの声が頭をよぎった。
 ――素直になれるおまじないなんだって。
 いや、まさかな。そう片づけたかったのに、先生の部屋に立っているあいだ、背中にはまださっきの感覚が残っていた。抱き締め返された腕も、なだめるように動いた手も、こちらを見ていた目も、忘れられるわけがなかった。
 俺は、額に汗をかきながら手にしていた紙を広げた。
 先生に見てもらいたかったのは、明日の朝に出す伝令の中でも、進軍路から外れた西の集落へ騎士団を一隊残すかどうかだった。街道沿いの村はあらかた避難が済んでいるが、西の森に近い集落には、まだ何人かが残っている。そこの警備を手薄にすれば、夜盗まがいの敗残兵に荒らされるかもしれない。だが一隊を残せば、北の街道を先に押さえる動きは遅れる。
 先生は紙へ目を落とし、西の集落の印を指で押さえた。残したほうがいい、という判断は早い。北の街道は本隊の進みを急がせ、必要なら騎士団に先を見てもらう。西の集落を手薄にしてまで、進軍を急ぐ必要はない。短くそう言われれば、こちらもそれ以上迷う理由はなくなる。
 話せている。ちゃんと話せている。西の集落、北の街道、見回りのために残す騎士団。どれもいま考えるべきことで、少なくとも、さっき彼の背へ回っていた自分の腕について考える時間ではない。
 先生は短くうなずき、紙を返してきた。
「これでいいと思う」
「助かった。夜遅くに悪かったな」
「構わない」
 その返事までいつも通りだったので、俺はようやく紙を折った。これ以上ここにいる理由はない。用件は済んだ。彼も眠れる。俺も戻れる。部屋に戻って、寝て、朝になれば、さっきのことも疲れのせいにできる。そういうことにする。
「じゃあ、これで失礼するよ。おやすみ、先生」
「ああ」
 先生は引き止めなかった。
 よかった、と思うより先に、足が扉へ向かった。部屋を出て、廊下の冷えた空気に触れたところで、ようやく息が落ちる。閉まった扉の向こうを振り返る必要はない。振り返ったところで、先生はもう紙を片づけているか、灯りを落とす準備をしているだけだ。そういう人だ。こちらのおかしな反応を面白がって追いかけてくるような人ではない。

 自分の部屋に戻り、扉を閉め、机に紙を置く。必要な修正を済ませるために筆を取ったところで、頭の中へ戻ってきたのは、西の集落でも北の道でもなく、先生の顔だった。
 あれは、よくない。
 何がどうよくないのかを考えはじめると、もっとよくない。
 どうにか伝令の修正だけは済ませ、寝台に入った。眠るつもりはあった。明日も軍議があるし、物資の確認も残っている。目を閉じて、呼吸を整えて、何も考えなければいい。
 ところが瞼を閉じるたび、扉を開けた先生の顔が浮かぶ。腕の中でこちらを見ていた目が浮かぶ。背中をやさしく叩かれた感触が戻ってくる。抱き締め返されたとき、こちらの腕から力が抜けたことまで、嫌になるくらい鮮明だった。
 そんな状態で眠れるわけがなかった。
 朝になるころには、眠ったのか眠っていないのかもよくわからなくなっていた。身体は動く。頭も働く。だが気分だけが悪い。体調ではなく、自分の往生際の問題として。


 次の日、軍議の席につくと、先生はいつも通りだった。
 地図の前に立ち、必要なところだけを問い、こちらの答えを聞けばそれ以上は追わない。昨日の夜に何かありました、という顔ではない。そんな顔が存在するのかは知らないが、とにかく普通だった。彼は地図の前に立ち、昨夜のことなど最初からなかったみたいに、必要な確認だけを重ねていた。
 助かった、と思うべきだった。
 ところが、助かったのは先生のほうだけで、俺はまったく助かっていない。
 先生が近くへ来るたびに身構えた。地図を覗き込むために肩が近づき、指が駒の横へ伸びる。そのたびに、自分の腕が勝手に動かないかを確かめる。何も起きない。手は机の上にある。腕も動かない。先生は意見を言い、駒の位置を直し、用が済めば元の場所へ戻る。
 何も起きない。それはよいことのはずだった。
 なのに、昨日の夜だけ何が起きたのかという疑問が、かえって大きくなる。疲れか。疲れだな。疲れていると、軍の相談に来た相手を抱き締めるのか。だとしたら、俺はかなり危ない奴なのかもしれない。盟主としても、人としても、だいぶ危ない。
 だが、そこではない気がした。
 そこではないと思うなら、どこなのかを考えなければならない。だから考えないことにした。

 軍議が終わると、部屋にいた者たちはそれぞれの仕事へ散っていった。鍛錬、物資の確認、見張りの交代、騎士団への伝達。昨日の伝令に関わる細かい詰めだけが残り、先生もそのまま卓のそばにいた。人が減った部屋で、地図を畳む音と、紙をそろえる音だけがやけに大きく聞こえる。
 俺は修正済みの紙を見せ、西側の村へ残す騎士団の数と、北の街道へ先に出す見回りの段取りを確認した。先生は短くうなずき、無理が出る箇所だけを指摘する。会話は滞らない。昨日と同じように、仕事の話はできる。できてしまう。
 やがて、最後の紙が重ねられた。先生がそれを持ち上げ、帰ろうと身体を向ける。

 そこで、胸のあたりが詰まった。
 もう少し話していたい。そう思ってしまった。
 言葉にすれば、どうということもないものだった。伝令のことでも、騎士団のことでも、進軍路のことでもいい。何かを足せば、先生はここに残る。そう考えた瞬間、俺は何も言えなくなって、かわりに手が動いた。
 先生の手のひらを、捕まえていた。
 腕ではない。手首でもない。強く引き止めたわけでもない。ただ、帰ろうとしていた彼の手を、下から包むように取っていた。指先が先生の手のひらに触れ、親指が甲のあたりへ乗っている。掴んだというより、落ちる前のものを受け止めたみたいなかたちで、それなのに、帰さないという意思だけはやけにはっきりとしていた。
 先生の足が止まる。紙を持ったまま、彼は手を引くでもなく、こちらの言葉を待っていた。
「まだ、何かあるのか」
 ある。
 ない。
 あるにはあるが、言葉にはできない。
 俺は口を開いたものの、結局何も言い出せないまま閉じた。手は離れない。昨日の腕ほど強くはない。先生が本気で引けば抜けるかもしれない。それでも、こちらから離そうとしても指がゆるまない。彼の手のひらは、こちらの手の中にそのまま収まっている。
 昨日抱き締めたことより、いま手を握っていることのほうがずっとまずかった。
 抱き締めるのは事故に見える。いや、事故と呼ぶのもかなり苦しいが、それでもそう片づけられる範疇にはあったと思う。だが、帰ろうとする手を捕まえるのは違う。そこには、行くな、とまでは言えなくても、まだここにいてくれ、ぐらいのものが見えてしまう。
 先生は、何も言わずに待っていた。
 責めない。急かさない。ただこちらの出方を見る。その待ち方のせいで、俺だけが、自分の手が何をしているのかを嫌でも思い知らされる。
……悪い」
 ようやく出た声は、自分でも情けないくらい低かった。
「離す。離すから、ちょっと待ってくれ」
 誰に待てと言っているのかわからない。でもとにかく待ってほしかった。
 先生はうなずいた。素直にうなずくな。いや、いまは助かる。助かるのに、どうしてこっちばかり追い詰められているのか。
 離そうとして、指に力が入った。先生の手が、もう一度こちらの手の中へ収まる。
 終わっている。離すために力を入れ直してどうする。
「待っていればいいのか」
 先生が静かにたずねた。
……できれば、何も言わずに待ってくれないか」
「わかった」
 ほんとうに黙ってしまった。それはそれで困ってしまう。
 沈黙の中で、繋いだ手だけがはっきりした。昨日は背中だった。今日は手のひらだ。触れている場所が変わっただけで、落ち着かなさの種類がまるで違う。彼の手は動かない。こちらも動かせない。行ってほしくない、と言うほど大げさではないはずなのに、帰ろうとした手を捕まえている事実だけが、言葉にならないまま心のどこかに引っかかっていた。
 もう少し話したかった。その程度のことを、こんなふうに見せるな。
 俺はようやく指をほどいた。今度は離れた。先生の手が、こちらの手のひらから抜ける。逃げられたわけでもないのに、足りない感じだけが残って、もうほんとうに勘弁してほしい。
「いきなり手なんか握って悪かったよ。あんたともう少し一緒にいたくてさ」
 冗談みたいに言ったつもりだった。軽く聞こえるように、いつもの調子へ寄せたつもりでもある。だが、さっきまで先生の手を捕まえていた指がまだ落ち着かないせいで、どこまで誤魔化せたのかは自分でもわからなかった。
 先生は、抜けたばかりの手を一度見て、それからこちらを見る。
「だったら、そう言ってくれればよかったのに」
 まっすぐ返されて、俺は言葉に詰まった。
 彼はまとめかけていた紙を卓へ戻し、何でもないことのように椅子へ腰を下ろした。帰るつもりだった人間が、こちらのひと言でそこに留まる。
 言えば、いてくれるのか。
 そう思った瞬間には、また手が動いていた。今度は帰ろうとした手を止めたわけではない。卓の上に置かれていた彼の手へ、こちらから指を伸ばし、その手のひらをもう一度捕まえている。
……ええと」
 ずいぶんと間抜けな声が出た。
 彼は繋がれた手を見下ろし、それから、俺が言い訳を探しているあいだに短く言った。
「まだ帰らない」
 手を掴んで止めなくてもいい、という意味なのだろう。そう受け取るしかない。そういうことではない、と言いかけて、ではどういうことなのかを説明できる気もしなかった。

 先生はそのまま、手を引かなかった。
 帰らない、と言ったのだから、もう捕まえておく必要はない。理屈としてはそうだ。だが、俺の指はまだ先生の手のひらを包んでいる。力を込めているわけではない。押さえつけてもいない。それなのに、離れろと命じても身体のほうが言うことを聞かない。
 先生は、空いているほうの手で俺の手の甲を軽く押さえた。
 ほどこうとしているのではなかった。叱るわけでもない。ただ、そこにいると示すような触れ方で、それを受けた途端、指の力があっさり抜けた。
 俺は今度こそ手を離し、椅子の背にもたれた。先生は帰らないと言った通り、卓の向こうに腰を下ろしたままだ。用件は終わっている。紙も片づいている。なら何を話せばいいのか、こちらが誘ったくせに何ひとつ思いつかない。

 結局、そのあとは大した話もしないまま終わった。物資の数、見張りの交代。どれも話す必要はあったが、いまこの場でなければならないものではない。
 それでも先生はそれを責めるどころか、急かしたりもしなかった。必要なところだけ返事をして、たまに笑って、話が途切れると紙の端を揃えたり、俺が出しっぱなしにしていた駒を地図の隅へ寄せたりして、帰る理由をわざわざ作らないまま座っていた。


 それから数日、どういうときに身体が勝手に動くのか、嫌でもわかってきた。
 皆の前では、何も起こらない。軍議の席で先生が隣に来ても、食堂で同じ卓につくことになっても、兵たちが行き来する廊下ですれ違っても、俺の手は俺のものだった。ヒルダが探るような視線を向けてくる日もあったが、何も起きないものは起きない。そこだけ切り取れば、やはり疲れだったと言い張れた。

 問題は、人の気配が引いたあとだ。
 軍議が終わって、先生が帰ろうとする。誰もいない廊下でふたりだけになり、彼がこちらの返事を待つ。そういうときに限って、身体が余計なことをする。何か強い衝動があるわけではない。口に出すほどの用件があるわけでもない。ただ、もう少し話したい、いま帰られると惜しい、さっきまでこちらを見ていた相手がべつのところへ行くのがつまらない。そんな、言葉にするにはみっともない、いつもなら呑み込めていたはずのものが、気がゆるんだ瞬間に手や腕へ出る。
 仕事の顔をしているあいだは、まだよかった。人の目があれば、なおさらだ。けれど仕事が終わり、紙を片づけ、先生が帰ろうとする。そういうところで、手だけが先に動く。書類を渡すだけのはずが、指先が相手の手に残る。地図を畳んでいるだけなのに、先生の袖に触れたまま離れない。外套の端を捕まえていることに、あとから気づく日もあった。
 触れたい、と思った覚えはない。行くな、と言った覚えもない。ただ、そう思う前に手が出て、気づいたときにはもう捕まえている。

 そのたびに、先生は騒がなかった。
 俺の背中をやさしくさする。手を握り返す。帰らないと言う。椅子へ腰を下ろす。こちらが何をしたのかを責めるより先に、何を返せば離れるのかを覚えてゆく。やさしく返されると時間はかかるが確実で、反対に、こちらが意識を逸らせるくらいべつの刺激を与えられると早いこともあった。
 それを試したのは、俺のほうだ。
 何度目かに手が離れなくなったとき、俺は半分やけになって言った。
「なあ先生、試しに俺が嫌になるぐらい強く握り返してみてくれないか」
 先生は一度眉をひそめたものの、言われた通りに指へ力を込めた。悶絶しそうなほど痛い。情けなさより先に痛みが来て、身体はあっさり言うことを聞いた。
「離れた」
……離れたが、これはこれで人として大事なものを失ってる気がするな」
 先生はなぜか納得した様子だった。握られた手はまだじんじんと痛む。
 そこで終われば、まだよかった。痛かった。離れた。対処としては成功だ。そういう扱いにできたかもしれない。だが先生は、力を込めたこちらの指をそのまま放さず、何かを確かめるように手元を見たあと、親指で俺の手の甲をゆっくりさすった。
「痛かったか」
「そりゃ、嫌になるぐらいって言ったからな」
「すまない」
「いや、頼んだのは俺だし、謝られると立場がなくなるんだが」
 先生はそれでも、もう一度だけ指のあたりをさすった。痛みはもう引いている。なのに、その手つきのせいで、離れたはずのものがべつのかたちで残ってしまう。痛くされれば早い。やさしくされれば、確実に離れられる。そこまではいい。
 先生はそれを、おそらく疲労への対処だと思っている。
 甘えたいのか、頼りたいのか、安心したいのか。そのあたりの、どうにか人に言えそうな言葉へ置き換えているのだろう。実際、俺は先生を頼る。頼るが、普段からわかりやすく甘えるほうではない。だから彼は、俺が自分にそういうものを預けてきたのだと受け取っているらしかった。
 ありがたいが、それで済ませられるほど俺はできた人間ではない。ただの疲れであれば、手が離れた時点で終わるはずだ。問題は、やさしくされたときだけ、身体より先にこっちの気持ちが勝手に満足することだった。

 ある夜、部屋で先生に背中をさすられて離れたあと、俺はとうとう机に額を打ちつけた。鈍い音が響き渡る。
「あんた、もう少し疑ったほうがいいぞ。俺を」
 うなるようにそう言うと、先生は黙った。問い返されても困るが、黙って考え込まれるのも困る。俺は顔を上げないまま、片手で額を押さえた。
「疲れてるだけの男は、ここまで何度も抱き締めたり手を掴んだりしないだろ」
「そうなのか」
「そりゃそうだろ。でなきゃこの修道院の中はいまごろ地獄絵図だっての。……こんなの、俺だって初めてだ」
 言ってから、余計なことを口走ったと気づいた。
 初めて。じゃあ、何が初めてなんだ。
 こんなふうに理性が効かないことか、それとも、この人が相手だからか。自分で言っておきながら、その先の言葉がまるで見つからない。それでも彼はそこを拾わず、ただ静かに俺の肩へ手を置く。慰めているのか、落ち着かせているのか、それともまた何かの対処だと思っているのかはわからない。なのに、肩に置かれた手の重さで、さっきまで暴れていたものが静かになってゆく。
 それもまた、かなりまずかった。
「きょうだいはやさしいな」
 冗談にしたかった。いつもの調子で流したかった。だが先生は、肩に置いた手をすぐには離さなかった。
「きょうだいだから、だけではない」
 じゃあどういう意味なんだよ、とは聞けなかった。問い返して、明確な答えが返ってくるのが怖い。答えが返ってこないのも、それはそれで困る。そもそも、理由もまともに説明できないまま外套の裾を握ったり、手を掴んでいる男に、この人の真意を確かめる権利などあるわけがなかった。
「落ち着いたか」
……少し」
「なら、これでいいのか」
「いいかどうかで言えば、何もよくない」
 それでも、俺はその手を振り払わなかった。彼も離さなかった。しばらくそのままにされて、こちらが何も言わないでいると、彼はふいに手を下ろした。途端に、肩に残っていた重さだけがはっきりした。
 足りないと思ってしまった。もうだめだな、こりゃ。
 だが、まだ言わない。言えない。まじないのせいかもしれない。疲れているせいかもしれない。寝不足かもしれない。戦続きで気が張っているのかもしれない。言い訳ならいくらでも並べられる。並べているあいだだけは、どうにか自分を保てる。
 先生は、そんなこちらの都合など知らないまま、もう一度椅子へ腰を下ろした。
「今日も、帰らないほうがいいのか」
 その言い方があまりにそのままで、俺は笑いそうになった。笑ったら終わる。泣くよりはましだが、どちらにしても終わる。
「いや、俺のことはいい。帰られると困るけど、ここにいられるのも困る」
「むずかしいな」
「俺もそう思ってる」
 先生は一拍置いて、それから立ち上がった。
「では、帰る」
「そうしてくれ」
 顔だけを上げて、扉へ向かう背を見送る。今度は手が動かなかった。動かなかったことに安心して、すぐにさびしくなる。もう、ほんとうにどうしようもない。
 先生が扉の前で振り返った。
「明日も、疲れていたら言ってほしい」
「ああ。……人のいないところでお願いするよ」
 先生はうなずき、何でもないことのように部屋を出ていった。

 ひとりになってから、俺はあらためて机に突っ伏した。我慢できずにとうとう笑ってしまった。声はほとんど出なかったが、肩だけが揺れた。
 ――素直になれるおまじない。
 あのときのヒルダの声を思い出して、すぐに打ち消す。
 違う。まだ違う。違うことにしておく。
 ただ、皆の前では何も起きず、あの人とふたりきりになると身体が勝手に動くこと。疲れたふりで誤魔化せるほどには軽くなく、かといって言葉にするにはまだひどく情けないこと。先生が何か返してくれると、腕も手もようやく言うことを聞くこと。
 そこまでは、もうわかっていた。
 わかってしまったことを、明日どう誤魔化すかまでは、まだ考えたくなかった。
 考えたくなかったが、逃げ回るにしたって限界はある。おかしなまじないをかけられてからのこの数日、先生は丁寧に付き合ってくれるし、俺の手は相変わらず余計なところで動く。それなのに、元凶のヒルダだけは何も知らない顔で物資の帳簿を抱えて歩いているのだ。
 知らない顔、というのもおかしい。あいつは、何かが起きたら面白いと思って俺にかけた。面白いと思っただけで済ませるには、こちらはこの数日でだいぶ余計なものを削られている。
 責任を取らせる、とまでは言わない。言わないが、少なくとも、あれが何だったのかくらいは吐かせてもいいはずだった。


 翌日。物資の数を確認し終えたヒルダを、人気の少ない廊下の端で捕まえた。ヒルダは帳簿を抱えたまま、最初から逃げる構えを取っていた。さすがの勘と言ったところか。
「よう、ヒルダ」
「なあに、クロードくん。あたし、今日はちゃんと仕事したよー。足りないものもなかったし、補充にも行かなくていいはずなんだけど」
「仕事の話じゃない」
 そこでヒルダの目がほんのわずかに動いた。こちらの顔を見て、帳簿を持つ手に力を入れる。心当たりがある顔だった。
「お前がこの前、俺に勝手にかけたまじないの話だ」
 ヒルダは一度だけ瞬きをした。それから、ああ、と言った。
「あれ、効いたんだ」
 あまりにも軽かった。
 軽すぎて、怒るより先に呆れた。詰めに来たはずなのに、相手が最初から答えを持っていると、こちらの勢いが一瞬だけ余る。
「お前な」
「だって、あのときは何も起きなかったでしょ。あたしも嘘だったのかなーって思ってたし。へえ、効いたんだー」
「へえ、じゃないんだよ。こっちはかなり迷惑してる。あれの効果はかわいいで済む範囲を越えてるんだよ」
 どんなふうに、と聞きたそうな顔をされたので、先に睨んでおいた。言うわけがない。先生の背中も、手のひらも、外套の裾も、ヒルダに並べて見せる気はない。こちらが知りたいのは、俺が何をしたかではなく、ヒルダが何を知っていたかだ。
 ヒルダは少し口をすぼめた。
「でも、あたしが聞いたのは、素直になれるってことだけだよー。ほんとにそれだけ。どんなふうに効果が出るとか、どれくらい続くとかはわかんない」
「そんな情報の少ない、怪しいまじないを人にかけるな」
「クロードくん、そういうの絶対隠すでしょ。だからちょっとぐらい出たらかわいいかなって」
「かわいいで済んでたら、俺はお前を廊下の隅に追い詰めてない」
 ヒルダは帳簿の角で口元を隠した。笑いかけたのか、反省しかけたのか、判別がつかない。おそらく前者だとは思うが。

 そのとき、背後から足音がした。
 この廊下を通る者はいくらでもいる。べつにおかしなことではない。おかしなことではないのに、俺の肩は勝手にこわばった。ヒルダの視線が俺の後ろへ抜ける。あ、と口を開いた時点で、もうだめだった。
「クロード」
 先生の声だった。振り返ると、先生が書類を片手に立っていた。軍議後に出す伝達の確認だろう。いつも通り、必要があれば声をかける、というだけの様子で、こちらの都合の悪さなど知るはずもない。
「いまは、その、ヒルダと話を」
「ああ」
 こちらが取り込み中だということだけは、伝わったようだった。
 それで終わればよかった。だが、わかったような返事をしたくせに、先生はこちらの意図を何ひとつ理解していなかったらしい。持っていた書類を片手ごと脇へそらし、迷うことなく俺に向かって両手を広げてくる。
 ヒルダの目が、見たこともない速さで俺と先生のあいだを往復した。
 終わった。
 いや、まだ終わっていない。終わらせるな。ここで終わったら、俺がこの数日どうにか守ってきたものが全部廊下に散る。
「先生」
「何だ」
「いまはいい。いや、いいというか、いまは人がいる」
「今日は大丈夫な日なのか。それとも手を握るほうがよかったか」
「そういうことをいまここで言わないでくれ」
 声はどうにか抑えたつもりだったが、ヒルダにはじゅうぶんだったらしい。俺と、両手を広げたままの先生を見比べたあと、彼女は口元をゆるめた。にやにやするな、頼むから。
 先生は両手を下ろしかけた。下ろしかけただけで、俺の手がほんの一瞬そちらへ動いた。捕まえてはいない。袖の端が揺れた程度だ。捕まえてはいないが、ヒルダには見えたらしい。最悪だ。
「先生、それはねー」
「やめろ」
 ヒルダの声にかぶせるように言った。
 思ったよりはっきりした声が出た。ヒルダが口を閉ざす。先生もこちらを見る。ここで軽口を足せば、まだいつものかたちに戻せたのかもしれない。先生に変なことを吹き込むなとか、お前が喋るとややこしくなるとか、いくらでも言いようはあった。
 だが、口から出たのはべつの言葉だった。
……自分の口で言う」
 しまった、と思った。
 何を言うのかまでは言っていない。言っていないのに、ヒルダはもう全部わかった顔をしている。先生だけが、何の話だ、というふうに俺を見ていた。そこがいちばん困る。聞かせたい相手だけが、何も知らないまま、両手を下ろすべきかどうかをまじめに待っている。
 ヒルダは帳簿を抱え直した。
「そっか。じゃあ、あたしからは言わないでおくね」
 そこで終わるかと思ったが、ヒルダは先生を見て、それからまた俺を見た。
「でも早めに言ったほうがいいと思うなー。たぶん、困ってる人を助けてるだけって感じがする」
 ヒルダは肩をすくめた。最初にまじないをかけたときよりは、ほんの少しだけ悪びれている。それでも、ほんの少しだ。俺が被った被害に対しては明らかに反省が足りないが、これ以上詰めると、俺のほうが余計なことを言ってしまいそうだった。
 先生は、まだそこにいた。
 両手はもう下ろしている。書類も持っている。だが、こちらが何か言うのを待っている。いまこの場でどうすればいいのか、その判断まで含めて待たれている気がして、俺は額を押さえたくなった。
「クロード」
「ああ。悪い、先生。書類の話だな」
「それもある」
「それも、ってなんだよ」
 ヒルダが、今度こそ完全に察した顔で一歩下がった。笑いをこらえているのか、口元が膨らんでいる。
「ほら、やっぱりかわいい」
「うるさい」
 反射で返したあとで、否定するところがそこではないと気づいた。かわいいかどうかではなく、何を見られたのか、何を察されたのか、何を先生の前で言われかけているのかが問題だった。だがヒルダはもう満足そうに帳簿を抱え直していて、これ以上こちらが何を言っても、都合よく受け取るだけだろう。
 先生は、ヒルダの言葉を気にする様子はなかった。ありがたい。いや、ありがたいのかもよくわからない。
「なるべく、君のそばにいたほうがいいのかと思って」
 そこでそう来るのはずるいだろう、とは言えなかった。先生はほんとうに、俺を困らせるつもりで言っていない。手を握るのが違うなら、抱き締めるのも違うなら、それでも落ち着かないなら、そばにいるだけで足りるのかもしれない。そういう順番で考えたのだろう。こちらが何を隠しているのかではなく、どうすればましになるのかを探している。
……先に書類を見せてくれ。そばにいるかどうかは、そのあとで考える」
「わかった」
 先生はあっさりとそれを受け入れた。こちらへ手を出すのをやめ、書類のほうを差し出してくる。それでまた、胸のあたりが変なふうに痛んだ。
「じゃ、あたしは物資の確認に戻るねー。クロードくん、がんばって」
「何をだよ」
「いろいろ?」
「あとで覚えてろよ」
「うわー、こわいこわい」
 まったく怖がっていない声でそう言って、ヒルダは廊下の向こうへ行った。追いかけるべきか、放っておくべきか迷ったが、わざわざここまで来てくれた先生を置いてゆくのも違う気がした。

 俺は書類を受け取った。
 今度は、彼の手を捕まえなかった。捕まえなかったことにほっとして、すぐ、惜しいような気持ちになる。
 ヒルダのまじないがまだ効いているのか、それとも効き目なんてものはとっくに切れていて、俺が勝手に同じことをしているだけなのかは、わからない。わからないまま、先生は隣に立っている。俺は書類を見ている。
 手は、もう勝手に動かない。


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