死ネタかも
@tawawago_to
クレアシオンが悪魔を呼び出したのは一週間ほど前のことだ。なんだか家族がみんないなくなってしまって、神にも悪魔にもすがる思いだったらしい。寂しさに耐えられなかったとクレアシオンは呟くように言った。
小さな港町の、海に一番近いアパートメントの三階で、小さなバルコニーから外を見るのが好きだ。バルコニーの柵の内側、それでいて一番日当たりのいい場所に、鉢植えの黄色い花を一輪置いていて、クレアシオンはいつもそれを世話している。世話好きなやつなんだ。クレアシオンは。一週間しか知らないけれど、ボクはクレアシオンをよく見て知っている。
悪魔であるボクは、クレアシオンの本当の望みを聞くために一緒にいる。クレアシオンはさみしかったから悪魔であるボクを呼び出しただけで、呼び出したら満足してしまった。誰かを呼び、誰かと繋がれるとわかっただけで満足してしまったらしい。だからクレアシオンはボクと契約をしていない。
悪魔というのは、人間と契約をしないといけないものだ。人間のサラリーと同じで、契約しないと受け取ることができない。それはもちろん崇拝だ。神様だって崇拝されているんだから、悪魔が崇拝されてはいけないと言う理論もないし、崇拝されることによって力が強くなる。弱いより強い方がいいでしょう? なんだってそうだ。弱いものは選ばれない。
残念ながら、ボクはそんなに強い悪魔じゃない。強ければ強いほど、それなりに呼び出す方法が難儀になっていくものだけれど、ボクは弱いので、簡単に呼び出される。今回のクレアシオンの召喚の儀式だって、簡単で雑なものだったけれど、ボクが暇だったので呼び出されてしまった。悪魔が呼び出される方法が、もしワンコールだったら、ボクの携帯は常に鳴りっぱなしだ。その上、応えられる願いは、すぐに片付けられるような簡単な願い事ばかりで、そんなんだから崇拝されることもあんまりない。ただただ自分の力を安売りしていくだけだ。
ボクも早いところ、もったいぶった召喚によって登場してみたい。そして三回に一回くらいはサボってみて、人間たちの選民思想を煽ってみたりする。ただの気まぐれなのに、自分には資格がなかったんだと人間が大騒ぎするのを、仲間の悪魔たちはケラケラ笑いながら眺めていた。別にそこまで意地悪なことは考えてみないけど、それをしたら偉い悪魔みたいでかっこいいから、一度でいいからやってみたい。いや、三回に一回応えないのは、一度でいいからなんてのは比喩としてもおかしいだろうか。
そんなことをペラペラと喋ってみると、クレアシオンはバルコニーにおいた小さな椅子に座ったまま、「ああ」とため息のように言った。うるさかったかな、とじっとそれ以上の言葉を待ってみても、クレアシオンはあんまり喋る方じゃないから、風の音がするばかりだ。
「ねー、だからさー、クレアシオンも何かボクに叶えてほしいことを考えてよ」
ボクは親指と人差し指をくっつけて丸をつくる。輪っかを通してクレアシオンの魂を見つめるけど、クレアシオンの魂の色は青くて澄んでいる。魂の温度が高いのだ。不純物のない炎の色。何かしら願望のある人の魂の色は、不純物が混ざって赤くなる。クレアシオンの魂が赤くなったら、そうしてそれを叶えてやったら、ボクを崇拝してくれるだろう。
クレアシオンは、「ああ、そうだな」と静かに言って、ボクをみた。魂と同じような青い瞳は、海の底のように静かだ。
「ずーっとそんなんだと、ボクも帰らなくちゃいけないからね」
嘘だ。一度呼び出されたら、ちゃんと契約を終えるまで帰ることはできない。クレアシオンは知らないだろうけど。でもクレアシオンは、「そうだな」とだけ言った。魂は揺らぎもしない。
さみしいとボクを呼び出したくせに、ボクがいなくなってもかまわない。らしい。それは少しさみしいことだ、と悪魔のボクでも知っていた。
クレアシオンは、そっとしておくと植物のように静かにしている。日がな一日バルコニーで外を眺めて海風に吹かれる。暗くなって何もみるものがなくなれば、思い出したように寝床に入るし、入らないまま、朝を迎えることもある。食事は取らない。いつの間にか人間は光合成ができるようになったんだっけ、とボクが勘違いするほどだった。
そんな修行僧のような生活をしているから、魂に不純物がないんだ。ボクはクレアシオンを堕落させるべく、近くのスーパーで毎日食事を買う。
クレアシオンはお金がないわけじゃないらしい。お腹が空いたから何か買いに行きたいと騒いだボクに、クレアシオンは自分の財布を投げてよこした。その財布の中にはぎっしりお金が入っていて、それが少なくなれば、機械的にどこからかお金を下ろして入れてくれる。
ボクは買ってきた食料の中から、テイクアウトしたピザを選んで、一切れクレアシオンの口に押し込んだ。
クレアシオンは積極的に物を食べないだけで、断固として食べないわけではないので、口に運べば食べてくれる。もぐもぐと口を動かし始めたのをみて、ボクはよしよしとクレアシオンの隣に座る。呼び出されてしばらくしてから、ボクもバルコニー用に小さな椅子を一つ買った。もちろんクレアシオンのお金でだ。こちらの世界で使えるお金を、ボクは一銭も持っていない。
「これ、新しいフレーバーのピザだって。サラミとオリーブとモッツァレラとー、あとなんか色々乗ってるんだって」
ボクの説明を、クレアシオンはピザを食べながら聞いている。返事はしないけれど、聞いていないわけじゃない。何十分かして、たまに話題が掘り返される時があるからだ。話しかけることは堕落にもつながるし、ボクは積極的にクレアシオンに話しかけるようにしていた。いつか、ボクとの話が折り重なって、クレアシオンの魂を揺らがせることになるかもしれない。ただそれは、気の遠くなるほどの時間がかかるだろう。まるで中世の悪魔のようだ。一人の人間を何十年もかけて堕落させて、自分を崇拝させるなんて。だからこそ、崇拝されるということで、悪魔に力がつくのかもしれないけれど。
「……いつもの方がうまい」
もそもそと長い時間をかけて、一切れのピザを食べ終わったクレアシオンは、ぼそりとそんなことを言った。
「だろ。ボクもお店で試食したんだけど、そう思った。隠し味にパイナップルジャムが入ってるんだって」
ボクも同じピザを食べながら、そう教えてやる。クレアシオンは、理解できないと言った様子で眉を僅かに顰めてボクを見た。
「なんで、って顔してる」
「……そうだ。なんで買ってきた?」
あんまり美味しくないと知っているなら、なんで。その疑問はその通りだろう。
「だって、ボク一人だけでなんか微妙だなーって思っててもつまんないだろ。だからクレアシオンとわけっこしたんだ」
「わけっこ?」
「そう。ボクが一人で微妙なピザを食べたなら、微妙なピザだったなーって思って終わりだけど、クレアシオンと微妙なピザだったよなって笑ったら、クレアシオンと笑った思い出になるだろ」
「……笑ってない」
「じゃあ笑えよ。ボクの買い物損じゃん」
「オレの金で買ってるのに?」
「それもそうだね」
図星を突かれて誤魔化すように笑う。クレアシオンは少し黙ってから、ふ、と息を吐いた。それは一瞬ため息と勘違いしそうになったけれど、だんだんと顔全体に、まるで氷が溶けるように笑みが広がっていって、クレアシオンが笑っていることに気がついた。
片手で口元を隠すように笑ったクレアシオンが、少し顔を上げてボクを見る。穏やかに細められた青い瞳は、いつもより少し温度があった。
悪魔という生き物は、大抵の場合、一番欲しいものが手に入らないようになっている。
それは悪魔にかけられた呪いというよりも、決まりと考えた方がいい。犬や猫や人間や鳥やトカゲ、とにかくなんでもいい、そういうのが有機物からできているように、ボクら悪魔は一番欲しいものが手に入らないという要素でできている。だから、ボクは崇拝されたいけど崇拝なんてほとんどされない。崇拝されている強い悪魔たちは、崇拝とは別のものが欲しいけれど手に入らない。一瞬手に入ることもあるだろう。けれどもそれは本当の意味で欲しかった形で手に入ることはない。
かつて一番欲しい物を手に入れた悪魔もいるが、例外なく死んでしまったらしい。そんな存在は、悪魔の中ですらおとぎ話のように語られるばかりだ。
クレアシオンに呼び出されて三ヶ月ほど経った。クレアシオンは相変わらずバルコニーから外を眺めている。クレアシオンは自分のことを何一つ話さないけれど、スーパーで顔見知りになった近所の人たちが、ほんの少しづつ教えてくれた。
まずクレアシオンの家族はみんな死んでしまったということ。クレアシオンはとても頭が良く、どこかの研究施設で働いていたらしいけれど、そこにこもっている間に、クレアシオン以外の家族が乗った車が事故に遭ってしまったらしい。それ以来、クレアシオンは仕事も辞め、家族と住んでいたアパートメントから、ほとんど外に出なくなってしまった。自分がいない間に家族がみんないなくなってしまったのを、まだ受け入れられていないみたいだ、と近所の人たちは言った。
まるで、外から家族が帰ってくるのを待っているようだ、とも。
スーパーから帰る道は、クレアシオンが眺めている通りとは別の道だ。なんとなく、その話を聞いて、バルコニーから外を眺めているクレアシオンを外から見てみたくなって、バルコニーが見える通りを通ってみる。
天気のいい空の下、クレアシオンのいるバルコニーは暗いような気がした。あちゃあ、これじゃあ魂を揺らがせる前に、カビが生えてしまう。部屋の中から見ていた時は、一番日当たりがいい場所と思っていたのに。やっぱり外から眺めてみないとわからないこともある。
そんなことを思いながらバルコニーを眺めていたら、ふとクレアシオンがこちらを見た。いつも遠くの方を眺めているのに、気づくものなんだなあ。ボクが手を振ると、クレアシオンは手を振りかえすこともなくじっとしていた。ちょっとくらい手を振ったっていいだろう。手を振られたら、手を振りかえすものだ。ボクはお前もやるんだよ、とジェスチャーをしてから、もう一度大きく手を振った。
クレアシオンはしばらく同じようにじっとしていたが、やがて小さく数度手を振ってくれた。
ボクはそれに満足して、アパートメントに入る。ポストを確認してから、部屋に上がると、クレアシオンはこの日初めて、「おかえり」と言ってくれた。
ボクは、「ただいま」と言った。初めてのやりとりだった。人間との。クレアシオンとの。悪魔は人間と、ただいま、おかえり、なんて挨拶は、しない。そう思っていた。
クレアシオンが悪魔を呼び出して、半年経った。
クレアシオンは相変わらず望みを言わない。まあ、自分から言い出した時が本当の堕落だろう。堕落とはつまりボクへの崇拝だ。気長に待つことにした。いちいち魂の色を確かめるのが面倒くさくなったのだ。
それに、崇拝がなくても家があるというのはボクをそれなりに満足させた。クレアシオンは昔の研究結果が特許をとっているんだかなんなんだかで、仕事を辞めても細々と暮らしていくことはできるらしい。羨ましいことこの上ない。でも、今のボクもそんなに変わらない。ボクも人間の望みを叶えて崇拝を集める、という仕事をしなくても、細々と暮らしている。
クレアシオンは相変わらずぎっしり札束の詰まった財布をよこすので、代わりに家計簿をつけている。それ以外にも部屋の掃除をしてみたり、季節の変わり目に部屋のカーテンを変えてみるなんてこともしてみた。人間の望みを叶えていない時って、こんなに暇だっただろうか。一時期、お屋敷で小間使いとして働かせられていた経験がこんなところで活きるとは思わなかった。ボクがいるおかげで快適に生活ができているとクレアシオンが気づいた時には、得られる崇拝も普段の数百倍になるだろう。わかっている。こういうのを取らぬ狸の皮算用というのだ。
クレアシオンの生活も、少しだけ変わってきた。
ボクとの生活が馴染んできて、挨拶をするようになった。おはよう、おやすみ、いってきます、いってらっしゃい、ただいま、おかえり。クレアシオンの声は低くて小さい。だからボクは挨拶をするとき、その返事を聞くために、近くに寄るようになった。クレアシオンは最初こそ、その近さに少したじろいでいたけど、「じゃあ大きい声で言って」とボクが要求すると、そっちの方が面倒だったらしく、今はその近さを受け入れている。
人間にここまで近寄るのはボクとしても初めてのことだった。まず人間は思ったより温かい。涼しい明け方にクレアシオンの近くに寄ると、ちょうどいい温度になって、思わずまどろんでしまう。椅子をピッタリ隣につけて、もたれかかって二度寝をするのがここのところのお気に入りだった。クレアシオンは特に何も思わないのか、諦めているのか何も言わない。ボクが二度寝から目を覚ますまで、放っておいてくれる。
起きたらスーパーに買い出しに行くこともあるし、洗濯を干すこともある。外に出て帰ってくる時には、必ずバルコニーが見える通りから帰るようにしていた。ボクが、「クレアシオン!」と大きく手を振って呼ぶと、クレアシオンは小さく手を振替してくれる。それが気に入っている。
何も人間から望まれず、自分のお気に入りのものが増えていく生活は初めてだった。
強い悪魔になりたくて、いつも人間からの崇拝が欲しくて、そればかり考えていた。
クレアシオンとの生活は、崇拝はもらえないけれど、代わりに違う場所が満たされていくようで不思議だった。数日ぐらいであれば、人間から崇拝されたいという願いを忘れることもある。もしかして、人間から崇拝が、ボクの一番欲しいものじゃなくなったんだろうか。
どうやらそうらしい、と確信したのは、ある日の新聞に『数百年前の古文書を発見! 悪魔崇拝に関する新解釈』という記事が出たからだった。
その記事で紹介されていた本は、確かに昔ボクをよく呼び出した人が書いていたもので、ボクに酷く感謝しているということが書かれているようだった。『簡単な召喚術で見返りもなく手助けをしてくれる様は、悪魔というよりも天使と言ってもいい』という記述には辟易してしまったが、これにより悪魔は人間に対してとても好意的なのではないかと考える人間が増えたらしい。
「ねえ! みて! クレアシオン! すごいでしょ。これでボクの力も強くなっちゃうな〜」
事実、今までにないほど、力がみなぎっている感覚がしていた。今だったらなんでもできそうだ。
「地球を滅ぼすとか、時間を巻き戻すとかは無理だけど、天候を変えるとか、宝くじの結果を教えるとか、そういうことなら叶えられちゃうよ」
失せ物探しや絶対に取れないシミ落としの願いを叶えていた今までとは違う。自信満々にそう宣言したが、クレアシオンはただ穏やかに、「そうか」と言うだけだった。
クレアシオンは海風に吹かれながら、ボクを見た。やっぱり、ボクには何も望まないのだろうか。今までよりは色々できるようになったのに。それでも力が足りないのだろうか。
「ねえ、クレアシオン。もっとボクを崇拝してくれる人が増えたら、もっとできることが増えるよ。たとえば、」
運命の相手を見つけることだって。
さみしい、と思って悪魔にすがったクレアシオンだ。きっとずっと一緒にいられる人間が見つかれば、嬉しいだろう。望みとして思いついていないだけで、そう提案してやれば、きっと魂が揺らぐだろう。
けれども、喉が塞がって言葉が出てこなかった。
おかしい。
クレアシオンと契約して望みを叶えたら、ボクはクレアシオンのそばから離れて、三回に一回召喚に応じないいじわるをしても許されるような、強い悪魔として活動できるだろう。実際、ボクについて書かれた本の内容が、いろんな言語に訳されて出版される予定らしい。そうなれば、そこに召喚方法だって書いてあるので、ボクはいろんな人に呼び出されるはずだ。そうして契約して、願いを叶えて、崇拝を集める生活に戻れば、いい。契約もしない、望みもない人間のそばにいるよりも。まるで人間のように暮らすよりも。
強い悪魔になりたいのに。
そう思っていたのに。
胸の辺りがしくしくと痛み、熱を持っていた。まるで燃えているようだ。
ああ、そうか。本当に欲しいものがわかってしまった。一番手に入れたいものがわかってしまった。
黙っているボクに、クレアシオンは静かに、「本当に何もいらないんだ」と言った。
クレアシオンの魂の色なんて、わざわざ見なくてもわかる。ボクは、「こまるよ」と笑った。
ほらね。本当にいちばん欲しいものは、手に入らない。悪魔はそういうふうにできている。
悪魔、つまりはボクについて書かれた本が、世界中で発行された。なんでも、悪魔らしくない悪魔としていろんな国で人気らしい。どうでもいいことだ。
でも、崇拝されることによって、力は格段に上がっていた。力がなくて今まで十六歳くらいの姿にしかなれなかったけれど、今はどんな姿にもなれる。でも、姿をコロコロ変えるとクレアシオンがボクをわからなくなるかもしれない。だから召喚されてからずっと同じ姿で過ごしている。
もう召喚されてから一年以上経った。クレアシオンは一日中バルコニーにいることはなくなった。午前中だけだ。午後はボクと散歩に出たりする。これはボクが、「ずっと同じ場所にいたら苔が生えてきちゃうよ」と文句を言ったからだった。
クレアシオンも苔が生えるのは嫌だったのだろう。外に出るようになったので、クレアシオンの新しい服も買った。クレアシオンがクローゼットにしまいっぱなしだった服は、いくつか変色してしまっていた。
ボクを呼び出す前から、バルコニーでぼんやりする生活を何年も続けていたのだろう。クレアシオンはどのくらいああ生活していのか、自分ではよくわからないようだった。
近所のことも、すっかりボクの方が詳しくなっていた。ワンブロック先の角に、人懐こい犬がいることや、お小遣い稼ぎに毎週土曜にレモネードを庭で売っている子供がいる家や、ピザ屋は火曜に割引をしていることを、散歩をするたびに少しづつ教えた。クレアシオンはいつも黙って聞いている。でも時々、「今日は犬に会わなくていいのか」だとか、「パン屋は。今日新しく開くところがあるって言ってただろう」とか、そうぽつぽつと返ってくる時がある。クレアシオンの中に、ボクの言葉は確かに蓄積されていて、クレアシオンの一部になっていた。
もうクレアシオンの堕落は望んでいなかった。クレアシオンが堕落しなくても、崇拝はされているようだし、ボクの力が強くなろうと、なんでもできるようになろうと、クレアシオンはボクに何も望まないようだった。崇拝も力も、なにも意味をなさなくなった。そう思った途端に手に入るようになる。悪魔は難儀だ。
ただ静かに、クレアシオンとの生活は続いていった。涼しい朝方に、バルコニーでクレアシオンにくっついて二度寝をするのも変わらないし、スーパーの帰りはバルコニーにいるクレアシオンに大きく手を振った。
バルコニーには少しだけ花が増えた。クレアシオンが育てていた黄色い花の話をスーパーでよく会うご近所さんにしたら、モーニンググローリーをくれたのだ。明け方に咲く花だから、よく朝早くにバルコニーにいるあなたたちにぴったりよ、とご近所さんは笑っていた。
ボクが勝手に貰ってきた花だけれど、クレアシオンはいつの間にか世話をしているらしく、気がつくと鉢植えの土が湿っている。だから、ボクはただ貰ってきただけで、花の世話なんて一つもしていない。
貰ってきた時から、もういくつかつぼみをつけていて、花が咲くのは時間の問題のようだった。
「いつ咲くかな」
ボクがバルコニーを眺めながら言うと、クレアシオンは、「すぐだろう」と言った。
「何色の花かな。明け方に咲くんだって」
クレアシオンは、「お前が寝てる間に咲くかもな」と小さな声で笑った。それから、「起きてきても、いつもすぐ二度寝するから」とも言った。
「だって、クレアシオンの体温がちょうどいいんだ。朝はちょっと涼しいだろ。クレアシオンにくっついてるとあったかくて眠くなってくるんだ」
「そうか」
「二度寝って堕落だろ。悪魔だから、堕落は好きなんだ」
堕落ではなくて、クレアシオンと一緒にそうやっているのが好きなんだけど、そんなことをわざわざ言う必要はなかった。悪魔は堕落が好きなんじゃなくて、堕落させるのが好きなんだから。
クレアシオンは、「そうか」とまた言った。それから続けて、「他には?」と尋ねる。
「他?」
「他の、お前の好きなもの」
「他、他、そうだなあ」
ボクはすっかり馴染んだ、いくつものお気に入りをクレアシオンに答える。
「クレアシオンと挨拶するのが好き。悪魔だから、人間と挨拶するなんてほとんどしたことがなかったから。それからスーパーから帰ってきて、通りからお前がバルコニーにいるのを見るのが好き。手を振ったら手を振り返してくれるだろ。それから、クレアシオンと散歩するのが好き。ただ歩くのが楽しいと思ったことなんて、一度もなかったから、楽しいのが不思議で、変な気分なんだ。でも気に入ってる」
それから、と言いかけて、ふとクレアシオンを見る。
クレアシオンはいつかと同じように、穏やかに笑っていた。優しい瞳でボクを見ている。
ボクはたまらず、「お前が好き。ずっと一緒に暮らしていけたらな」と呟いた。
「そうか」
「うん」
「それは——」
クレアシオンは真顔に戻って、「悪魔だから?」と言った。ボクは、「ううん。多分違う」と笑った。
強い悪魔になりたかった。人間からたくさん崇拝されたかった。それなのに、いつの間にか、いちばん欲しいものが変わってしまった。クレアシオンと少し生活しただけで! こんなことが起こるなんて、考えてもみなかった。
それから、それはきっと手に入らないことも。
「お前にこの気持ちを見せてやれたらな」
笑いながら泣いていた。心臓が痛くて、燃えるように熱かった。こんな気分になるのは初めてのことだった。今までいちばん欲しかったはずの崇拝ですら、こんなに焦がれたことはなかった。憧れに近かかったのだろう。じゃあ、もしかしたら、本当にいちばん欲しいものは、今、初めて、ボクの中に現れたのかもしれなかった。本当に欲しいものができるのは、なんでこんなに苦しいのだろう。
クレアシオンは黙ってボクを見ていた。やがて、クレアシオンは立ち上がり、バルコニーへ向かった。そしていつもの椅子に座って、ボクの椅子を引き寄せると、手招きをする。
ボクは止まらない涙を拭いながらクレアシオンの隣に座った。
「……いつも、誰かが帰ってくるんじゃないかと思って待ってた。でも誰も帰ってこなかった」
クレアシオンは夕方のオレンジ色に燃える通りを指差して言った。きっと家族を待っていたのだろう。クレアシオンがいない間に、事故で死んでしまった家族を。一人で寂しくて、悪魔になんて頼るほどだった。悪魔に頼る人間は、みんな途方に暮れている。クレアシオンも途方に暮れていたのだろう。
ボクは朝起きて、二度寝をするときのようにぴったりとクレアシオンにもたれかかる。クレアシオンはボクの頭を撫でて、「でも」と続けた。
「今は、お前が帰ってくる」
涙で滲んだ視界の中、クレアシオンは嬉しそうに笑っていた。
「だから本当に何もいらなかった」
クレアシオンが、「契約をしてくれ」と言う。ボクは、「いいよ」と頷いた。
「お前の気持ちを、オレに見せてみてくれ。代わりに、オレの魂をお前にやる」
悪魔との契約は、そういうものだろう、とクレアシオンは笑った。
「いいの?」
「いい」
クレアシオンは念押しするように、もう一度、「いい」と言った。
胸の奥から何かが燻るような音がした。それからすぐに炎が吹き上がり、ボクの心臓が燃え上がる。クレアシオンが、「アルバ!」とひどく心配した声でボクを呼んだ。ボクはそれどころではなかった。本当に欲しいものが手に入るのに、それなのに、なんでまだ心臓は熱を持って苦しいのだろう。
「しんぱいしなくてだいじょうぶ。クレアシオン」
心臓から上がる炎で、喉も舌も燃えていく。燃え盛る炎に、クレアシオンが触れた。これがそうだ、とクレアシオンもわかったのだろう。クレアシオンがちょっとおかしそうに笑って、ボクの炎がうつった手で自分の胸に触れた。まるで燃え広がるように、クレアシオンの心臓も燃えていく。クレアシオンは、「同じだ」と笑った。
「クレアシオン、ほんとうは、あくまとのけいやくにたましいなんていらないんだよ」
「そうか」
「でも、ボクはクレアシオンのたましいがほしい」
「そうか」
赤い炎がクレアシオンの全身を包んでいく。ボクも同じ炎の中だった。クレアシオンは人間だ。炎の中では生きられない。クレアシオンはボクと両手を繋いで、炎の中で笑っていた。嬉しそうに。魂の色なんて見なくてもわかりきっていた。クレアシオンの魂の色はこの炎と一緒で真っ赤だ。ボクにはクレアシオンの本当の望みがわかる。本当に欲しいものも。それはボクと一緒だった。
やがて、クレアシオンの全ては焼け落ちた。赤い炎が燃え続けている心臓一個きりになった。それがクレアシオンの魂だった。悪魔だったので、ボクはどんなに燃えても死ぬことはなかった。
その代わり、心臓から吹き出す炎は消えなかった。クレアシオンへの恋によって燃えている。クレアシオンの魂を抱き抱えて、ボクはバルコニーで一人きり座っていた。
燃えているのに、涙が出た。クレアシオンがじっとしていた気持ちがわかった。世界は夜になるところだった。きっとこの世が終わっても、この火が消えないだろうことは、ボクもクレアシオンも知っていた。