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いずたまえのすいデート

全体公開 2 20487文字
2026-06-01 10:13:41

ワッさんのポストを参考にしつつ、たまちゃんを捏造で弱らせたで!!

Posted by @yhchfysk

 その日相鉄本線は早番で出勤するために、いつも通りの身支度をしているはずだった。
 新しい制服として支給されたポロシャツを二枚取り出し、一枚は自分の通勤用バッグに、一枚は遅番の新横浜用に置いておく。
 そうしているとトントンと足音が聞こえてきて、本日有給を取得しているはずのいずみ野がリビングに入ってきた。大事な予定でもあるのか、普段着の猫柄Tシャツ(相鉄本線チョイス)ではなく小綺麗なカットソーにシャツを合わせた服装をした支線の姿におやと顔を向ける。
 江ノ島の話を参考に、最近朝食代わりにしていると話していたプロテインをシャカシャカする支線をチラ見する。そのまま少しずつ観察するように見つめていると、やがて呆れた顔で振り返ったいずみ野に「遅刻しますよ」と釘を刺されたので、やっと本題に入る事が出来た。

「今日は多摩くんとお出かけなんですよね?」

 リビングに飾られているカレンダーの今日の日付には、若草色のペンで「タマ」の一言。
 相鉄寮は三人暮らしなので食事や家事分担の調整も兼ねて、特別な予定がある日には各々が決めたカラーペン(相鉄本線はネイビー、新横浜はオレンジ)で予定を書き込む習慣を付けているが、このタマというのは近所に住む猫の名前などではなく、いずみ野が新線時代から仲良くしている小田急多摩線の事である。
 接続もされていない二人が半世紀ものの友情を保ちながら定期的に遊びに行く様を、宿敵の会社ながら温かく見守ってきた相鉄本線だからこそ、ピンと来るものがあった。
 シェイカーを開けようとするいずみ野の肩をしっかり掴んで、無理矢理振り向かせる。丸眼鏡越しに目を合わせると、涼しい顔でやり過ごそうとしていたいずみ野の視線が僅かに逸れた。
 その僅かな変化だけで、疑惑は確信に変わる。

「ただのお出かけ、じゃありませんね? 正直におっしゃい」
「本当にただ出かけるだけですが」
「本線の目は誤魔化せませんよ」

 胸の前でシェイカーを握り締めたままじっと黙り込むいずみ野に、期待と興味に満ちた視線を注ぐ。
 そんな相鉄本線に隠しても無駄だと早々に悟った様子のいずみ野は、小さく息をついてから再度目を合わせた。
 覚悟を決め込んだ目で、シェイカーをずいとリビングの時計に向けて一言。

「あの時計、昨夜から十五分遅れてます。後で直しておきますが、本当に遅刻しますよ」

 手首に嵌めているリンゴマークがポイントのデジタル腕時計が震えた。その盤面にはしっかり「出勤(ギリ)」の一言メモが添えられていたので、「帰ったら根掘り葉掘り聞きますからね!」と捨て台詞を残した相鉄本線は慌てて通勤鞄を手に取ったのだった。



「んもぅ、小賢しく育っちゃって!」
「ソレ、わざとだったのか? いずみ野が?」
「わざとじゃありませんよ。たまたま電池交換の時期だったに決まってます」
「でも気付いてたのなら昨夜のうちに交換したって良かったような」
「いずみ野がわざとやったとでも言うんですか、これだから腹黒小田急は!!」
「でかい声出すんじゃねーよ!! 気付かれんだろうが!!」
「二人とも、うるさいぞー」

 場所は移って、江ノ島水族館前。
 いずみ野から答えを聞く前に慌てて出勤するはめになった相鉄本線だったが、どうにも胸の引っ掛かりが取れず、事務所でも落ち着かないままだった。
 気付けば貧乏ゆすりまで始まってしまったところで、ついに我慢しきれず新横浜に電話。そ●にゃんと協力してダイヤ代行してくれないかと相談したところ、「一日そ●にゃんと二人きり」という魅力的なワードに釣られた末の子はあっさり了承。すぐにでも寮を出ると言ってくれたので、後のことは職員に任せて早退した。
 そうして私用スマホでいずみ野のスマホに仕込んだGPSを検索すれば、目標は江ノ島駅に向かっているようだった。なおGPSを入れる件はいずみ野にも話してあるし、本人も「それで本線が安心出来るのなら、いいんじゃないですか」と緩い態度で了承してくれたので、決して後ろめたい事情などは無い。断じて無い。

…………や、本人の意思関係なしに、未成年でもない支線にGPS仕込むのは重過ぎて引く」
「いずみ野もよく許可したな」
「お前さ、相模相手にするような事は相模までにしとけよ。普通の奴はお前の重さ耐えられんねぇって」
「いずみ野が家出したらウチで匿うって何度も言ってるけど、今度また改めて話してみるか。いずみ野の年齢だと児相にも持ち込めねーしな……
「言いたい放題ですねぇ」

 持ち込めないと言いつつスマホにしっかり通報画面まで表示してみせる江ノ島の手を叩き落としたくなりながら、そもそも、と肩をいからせた相鉄本線が反論の姿勢に出る。

「僕はちゃんといずみ野の許可あってGPSで追っかけてきましたが、そっちこそ何コソコソしてるんですか。わざわざ自宅から追っかけてきたなら、そっちの方が過保護でストーカー臭いですよ」
「何をどう比較したところで、五十歳の支線にGPS仕込む気持ち悪さには負けると思うが」
「失礼ですね、新横浜にはGPSにプラスで防犯ブザーまで持たせてますけど、文句を言われた事なんか無いですよ!」
「六歳児への対応と一緒くたなのがそもそもおかしい」
「あと、よりによってお前達と変装の種類が似通ってるのが気に食わない! せっかく海辺らしくナウなヤングにバカウケな服装を選んだつもりなのに!」
「そこは本当に何でだろうな」

 江ノ島水族館のチケット購入列に並びながらわいわい騒いでいる三人の服装が、まるで示し合わせたように似通っているのが相鉄本線の苛立ちを加速させる。
 三者三様で色違いのアロハシャツにサングラスを着用した姿は目立っていた。
 極彩色の花柄を身に纏った集団は場所が特殊であっても異様で、観光客や地域密着型の店員を参考に溶け込んでいる江ノ島はまだしも、小田原はその佇まいからどこか品が抜けきらないので浮いているし、相鉄本線もいかにも観光名所にはしゃいでいる田舎者丸出しの様相なので、結果的に漫才トリオの空気が完成していた。

「百歩譲って、僕達がうっかりドリカム風になってしまったのは置いておくとして」
「ファンに叩かれろ」
「喩えが古い。せめて誰が吉田で中村か言え」
「あの腕時計はどういう事ですか。誰か詳細に説明できる奴はいますか」
「いつかに多摩がニッコニコで着けてたから、よっぽど気に入ったのかって聞いたら、「いずみ野とお揃いなんだー」とは言ってたけど」
「定期的に買い換えてるっぽいよな。男同士でお揃いなんて珍しいから、すげー仲良いなとは思ってたけどよ」

 そこは現代っ子らしい感性だろうと、あまり気にしていなかったそうな。

「僕が今のアッポーウォッチを買う際に、ついでにいずみ野の分も買いに行きましょうかって聞いたら「今のやつ気に入ってるんで」と断ってきたのはフラグだったか……!」
「隙を見て何でもかんでも支線とお揃いにしようとするなよ。怖ぇよ」
「いいじゃないですかー。僕にとってはいずみ野が初めての純正家族なんですから、言ってしまえばお前達みたいなものですよ。いずみ野だって僕にこんなにも愛されて、さぞ自己肯定感爆上がりでしょう」
「お前のその根拠のない自信 is 何処から?」
「でもちょっと興味深いな。江ノ島、お前俺に愛されて自己肯定感上がってるのか」
「はぁっ!?」

 目の前でかつての同僚二人がイチャつき出したので、相鉄本線は素知らぬ顔でチケット販売列の前方をガン見する。
 慣れた様子でチケットを購入したいずみ野が多摩に一枚差し出していて、受け取った多摩が何事かを機嫌良さそうに提案しているように見える。チケット代の代わりに食事代を出す提案か、はたまた既に代金のやり取りを済ませた上で施設内の順路について話しているのか、この距離ではわからない。
 それ以上に気になったのは、角度的にいずみ野の表情はわからないが、はっきり見える多摩の表情が見慣れたものではない事。
 いつも年長者二人の側でキョトンとしている印象の強い子の表情が、いずみ野の前ではこれ以上なく穏やかで甘ったるく目を細めたそれでいて、なんとなく「見てはいけないものを見てしまった」と思った相鉄本線は、それ以上を視界に入れないよう敢えて目を逸らした。
 逸らした先で江ノ島が小田原の胸ぐらを掴み、今にもキスしかねない至近距離で凄んでいるのを見て、「こっちを向くんじゃなかった」と後悔するハメになったが。

「あー……。まぁ、互いの支線が仲良しで良かったってことで、今日のところはもう、」
「お兄さん達、ちょっといい?」
「はい?????」

 なんとなく、この二人にあの表情はまだ刺激が強い気がして、気付かれないうちに退散しようと思った。何かと憎たらしい宿敵だが、この平和な日常の中で積極的に傷付いてほしいわけでもない。
 そんな相鉄本線のわずかな仏心が顔を出したところで、横槍が入った。暑い時期にもきっちり制服を着込んでいる所謂お巡りさんが、笑顔とは真逆の冷ややかな視線で三人を見据えている。

「見るからに怪しい三人組が騒いでいるって通報が入ってね。ちょっとお話聞かせてもらえる?」
「こんなに無害な地域住民になんて言い様ですか」
「地域住民じゃねーだろ。敢えて地域住民言うなら俺だけだ」
「観光?」
「いえいえ、俺らはその、弟分達の行く末を見守りに来ただけで」
「まずは身分証見せてね〜」

 あーーーーーー。
 チラと横目に水族館の入り口を見れば、目的の二人は既に姿を消している。もしかしたら尾行もとっくにバレていたかもしれない。
 どうにもこうにも解放してくれなさそうな様子で己の職務を全うしている警察官に突っかかるわけにもいかず、ドリカムこと漫才トリオこと、それぞれ地域で凄まじい黒字率を誇っている三名は、公権力の前では無力な顔で身分証を差し出すしかなかった。



「今日は僕達の保護者トリオが職質くらった記念日☆」
「あまり撮ってやるなって……あの人達プライド高いんだから」
「だって面白くない? あの三人が揃って職質なんてレアだもん」
「多摩が楽しいならいいけど」

 いいのかよ、と突っ込んでくれそうな人材こと江ノ島も、しっかり職質を食らっているのでこの場に駆けつけられない。
 保護者達の追跡にとっくに気付いていた多摩といずみ野は、特に何か言ってくるでもなくコソコソ付いてくる三名を敢えて泳がせていた。隙を見て巻いてやろうとかそういう魂胆ではなく、単に「あの人達何してるんだろう」という至極真っ当な疑問からである。

「GPS切っとけば良かったか?」
「そしたら相鉄本線が発狂しちゃうんじゃないの。どっちみち小田っちと江ノちゃんも追いかけて来てたから、遅かれ早かれだと思うよ」
「だよなぁ」
「でも、僕そんなに浮かれてたかな。二人纏めて来ちゃうなんて」
「そうかもな。俺も隠してたつもりだけど、見破られてたし」

 職質される保護者達の姿を入り口の死角からたっぷり写真に収め、気が済んだら館内の展示を順路通りにゆっくり眺め始める。
 それから自らの頬を両手でうにうに揉んでみせる多摩に向けて、いずみ野はしれっと「今朝から浮かれてました」の告白をしてみせた。
 そういう、昔から変わらない素直さに、多摩は自分の表情が蕩けていくのを実感して。

「えへへ。今日もいっぱい楽しもうね、僕のいずみ野」

 新線時代から変わらない遠慮の無さで、しっかりといずみ野の手を掴んだ。
 体の大きさが違うからほとんど多摩が包み込む形になるけれど、握り返すいずみ野の手も積極的な意思を示している。
 二人の間で揃いの腕時計が、水族館内の微かな照明を反射して、きらりと光った。



「いずみ野、おいで!」

 あぁ、まただ。
 口数もリアクションも豊富じゃないから楽しくないだろうに、多摩は出会ってすぐにいずみ野を構い倒した。
 挨拶の直前に小田原が言った「多摩の方がちょっとだけお兄さんだから、優しくするんだぞ」という言葉に瞳を輝かせたのには気付いていたが、年下の存在というのはそんなにも珍しいのだろうか。まだ自分より年下の路線というものに出会った事がないいずみ野にはピンと来ない。

「ここから小田っちと接続して、こっちの方に伸びてくんだよ。それでねぇ」

 わざわざいずみ野と遊ぶために持参したという画用紙に色鉛筆で路線図を書きながら、将来の姿を図解してみせる多摩の表情はいつだって明るい。
 保護者達が近くでわぁわぁ言い合う声をBGMにした殺風景な会議室でも、風が吹き抜ける自然豊かな木漏れ日の下でも、多摩の大きな丸っこい瞳は希望の光に満ちている。

「ここが出来上がったら、すっごい施設が出来る予定なんだよ! まだナイショだから、誰にも言っちゃダメなんだけどね。いずみ野だけトクベツだよ」
「多摩はすごいな」

 極小の語彙の中で素直に思った事を言ったまでだが、多摩はまるで存在ごと全肯定されたかのようにパァッと頬を赤らめて、一層瞳の輝きを増した。
 接続予定こそ無い相手だが、多摩の開業後の話ならいずみ野も少し知っている。多摩があまりにも楽しそうに話すものだから、ある日なんとなく相鉄本線に尋ねてみたところ「住宅地を中心に駆ける支線って意味では、いずみ野の仲間かもしれませんね」と雑に括ってくれたからだ。
 知識を得るだけなら、そうやって身近な誰かに聞けば事足りる。いずみ野はまだ難しい漢字は読めないものの、口頭で説明されれば何となくの理解は可能だ。
 それでも多摩本人の口から聞かされるそれは大人の事情が絡んだ末の行き先だとしても、他の人から聞かされるそれとはまるで視点が違っていて、聞いているだけで自分事のようにわくわくする。
 そして多摩は決まって、必ずいずみ野本人を話に絡めてきた。いつでも遊びに来ていい、将来的には商業施設も沢山出来る予定だから、きっと乗りに来たくなるはずだと。

「接続のカンケーでどんどん知り合いも増えるし、仲良くなれたらいずみ野にもショーカイしてあげるね」
「ん……おれはいいよ。たぶん、しばらくは本線と二人きりだし」
「そうなんだ」

 あからさまに声が曇った。
 気分を害したというより、「それって寂しくないのかな」と疑問を覚えている態度だ。
 我ながらリアクション芸人と対極の位置にいるいずみ野と違って、全身で感情を豊かに表現するのが得意で社交的な多摩からしてみれば、開業してもこの先何年も家族と二人だけで過ごすのを当たり前に容認しているいずみ野の環境を退屈に感じるのだろう。こればかりは向き不向きだ。

「友達は多摩がいるし、本線もおれには優しいから」
「そっかぁ」

 それならそれで、いいのかな?
 そんな顔で一応の納得をしてみせる多摩の言いたい事も、実はわからなくもない。
 足るを知るべきというだけの話ではあるが、話の中の多摩は常に小田原か江ノ島のどちらかに面倒を見られていて、両者とも不在のシチュエーションがほとんど無いようだった。
 一方で相鉄本線は多忙で、体は一つしかない。
 構ってほしくても寝不足で頑張ってる姿を見たら、無邪気に口から出そうになった言葉も静かに引っ込む。代わりに手招きしてくれた職員と手持ち無沙汰に過ごす時間も多くて、そんな時ばかりは常に身の周りに関係者のいる多摩が羨ましかった。
 だけど多摩はいずみ野と顔を合わせれば甘やかな顔と声で呼び寄せてくるので、羨ましく思いはしても、妬みの感情とは程遠い。遠い所をわざわざいずみ野に会うために来てくれるだけで嬉しいし、いずみ野が持ちうる拙い言葉でも喜んでくれるのなら、出し惜しみをする理由もなかった。
 口数が少ない代わりに、多摩のお喋りにはいくらでも付き合う。気になる事や要領を得ない内容には「これってどういうこと?」と素直に質問して、えっへんと答えをくれる姿になるほどと頷きを返す。
 そうするだけで、まるで人間の肉親であるかのように、血の繋がった弟を見るような態度で、ひたすらに多摩はいずみ野を可愛がってくれた。

「いずみ野って、僕の言う事を疑わないよね」

 もう何度目かも数えられないくらい遊んだある日、唐突にそんな事を言われた。
 心当たりが無くてはて? という目で見ると、何か嫌なものを飲み込みきれないといった表情をした多摩が言葉を重ねてくる。
 多摩があからさまに表情を曇らせるのを、いずみ野はこの時初めて見た。

「僕が話を盛ってるとか、適当な事を言ったとか疑わないよねって」
「盛ったの?」
「盛ったというか……大きくなったら絶対叶えるけど、開業してすぐってわけじゃない話もあったというか……

 しどろもどろになる様子に、普段は息をしていない人間関係への勘めいたものがピンとくる。

(誰かにそう言われた?)

 言葉を飲み込むのに慣れていて良かった。ただでさえ口数が多くないのに、余計な事を言ってさらに曇らせたくはない。
 けど、きっと正解だ。あんなにもいずみ野に対して誇らしげに話していた内容を同じようによそで話した多摩は、誰かの何気ない否定の言葉を正面から受けて落ち込んだのだろう。
 いずみ野も薄っすら感じる事はあった。
 相鉄本線から聞く多摩の開業後の大体の見通しと、多摩本人の口から出てくる夢のような計画は剥離している。あまりにも大きくて、キラキラした夢のような内容。だけどいずみ野はそれを嘘つきだとか、大袈裟に感じた事は一度もない。
 多摩ならきっと、いつか、時間がかかってでも全部実現するだろうと感じていたからだ。彼の話にはそれくらい、夢と渇望がふんだんに詰め込まれていた。
 雲の上に王国を作りたいとか、特急列車で銀河を駆け巡りたいとか、そんな突飛な発想じゃない。いつか親しい友人が気軽に訪れる事を期待した、まさに地に足の着いた、彼の内面を表すような輝かしい未来予想図。
 開業直後であれ、数十年後であれ、いつかは必ず叶えるという意気込みを身振り手振り付きで年下の路線に解説してみせる、溌剌とした多摩の姿が好きだった。
 けれど今後多くの人間関係を築いていく多摩の周囲は、もしかしたら想像していたより優しい環境ではないのかもしれないと、いずみ野はこの時初めて感じた。

「あのね……いずみ野は、僕の言うことを何でも信じちゃうから言うけど、たぶん、僕はいずみ野が思ってくれてるより凄くないし、素直でもないみたいだよ」

 続けて言葉を飲み込むいずみ野に、晴れない顔のまま後ろ向きな発言をこぼす多摩を見上げる。
 いつもはいずみ野がじぃっと視線を合わせると多摩は嬉しそうにしてくれるのに、この時ばかりはいつまで経っても視線を合わせてくれなかった。

「本当に素直っていうのは……色んな人に真っ直ぐに好かれるのは、きっと、いずみ野みたいな……

 視線は合わせられなかったけど、肩を引いてぎゅっと抱き寄せられた。
 同時に、今の言葉でわかった。多摩は口達者で物事を真っ直ぐに見るから、きっと周りの人達と衝突が多い。いずみ野のように言葉を飲み込む経験も多くないから、余計にそんな場面が多くなるのだろう。
 そうしている内に否定的な事を言われる機会も増えて、きっと他にもいずみ野に言えないような内容も言われている。多摩本人が内側で色々考えて、場を盛り上げようと本人なりに気遣った場もあっただろうに。
 無力感を覚えている多摩の腕の中で、いずみ野からもおずおずと手を伸ばした。

「ん」

 きゅっと服を握る形で背中を抱き返したら、木漏れ日が降り注ぐ空間の中で、多摩が息を詰める。
 気まずさを感じない静けさの中で、緑の匂いの風がさぁっと吹き抜けた。
 どれくらいそうしていたのか、互いの体を離さないままの姿勢で、多摩はとても穏やかな口調になった。

「いずみ野、ずーっと友達でいてね。僕達は歳も近いから、きっと僕達にしかわからない出来事もこれから増えていくよ。その時になったら、きっと」

 小田原や江ノ島の気持ちも、わかるようになるかもしれない。

 そんな風に続きそうな言葉の切れ方に、多摩も色々と大変なんだなと漠然と思う。
 あまり顔を合わせる機会が多いとは言えない年下に縋りたくなるくらい、彼の周りに手頃な味方がいないのだとしたら、早く大きくなった彼と沢山の思い出を積み重ねて自信に変えてやりたいと、この時いずみ野は強く思った。



 深夜を回りそうな時間帯だった。
 私用の携帯で呼び出されたいずみ野が向かった先の個室居酒屋で、既に酔いの回った多摩がぐでっとテーブルに突っ伏している。
 お待ち合わせのお客様ですねと言って従業員に通された先で「最初から呼び出し前提か」とぼやいて、渋い顔で多摩の正面に腰掛けた。

「だっていずみ野は来てくれるでしょ。えへへ、すんなり通されてよかったね。入り口で年確されなかった? いずみ野ちっちゃいもんね」
「わざわざ湘南台まで来てそれか」

 不服でいっぱいの顔をしながら、それでも電話一本で駆けつけたいずみ野を見てニマニマしている。終電ギリギリに呼び出しておいてこの面構えに、満足そうで何よりだと小さく溜息をついた。
 接続先が増えた現在でも狭い交友関係を維持しているいずみ野にとって、多摩の事は変わらず優先順位の上位に置いてしまっているのだから仕方ない。

「ご注文は」
「烏龍茶。と、水をジョッキ一杯」
「水やだー。飲みたくない」
「意識のない180cmを背負って歩く気はない」
「けちー。可愛くない。僕達無二の友達なのに」
「ぐだぐだ言える程度には元気そうだな、しっかり飲めよ」

 運ばれてきた二杯のジョッキを受け取ったいずみ野が、無色透明な方を多摩に差し出して、自身は烏龍茶の方を口にする。僕まだ飲めるもん、と力の入らない体でぼやくのを「今日はもう駄目だ」ときっぱり断ると、それ以上は文句を言ってこなかった。こういう時のいずみ野が本気で心配しているのをわかっているからだろう。
 仕方なさそうに水をくぴくぴ飲み始めた多摩だが、酔いが覚めるまでには時間がかかるだろう。双方無言タイムが挟まったが、静寂を気まずく感じる事は昔からない。あまり電子機器が発達していなかった頃などは何もない草むらや公園で、二人並んで空を見上げながらぼーっと過ごした事もある。
 そうして暫くぼんやりしてたら、ちょっとずつ話したい気分になってきたようだ。

「僕ってまだまだ、あの二人の仲間になれてないんだなって」

 何も知らないガキ。
 それが小田原と江ノ島から多摩への、二十年以上経っても変わらない認識のようだった。
 多摩とて小田急の路線として生きていく以上、二人の背中を追うだけでなく並び立ちたいと思っていた。だから紙面から熱心に歴史を学び、何度も過去の実態を聴きたがった。
 だけど暗黒面から切り離したいのか、それとも子ども扱いをする事で何らかの均衡を保とうとしているのか、多摩にとってもどかしい状況が開業以来ずっと続いた。
 そうして二十年以上が経って、江ノ島がいずみ野と接続して、人間でもとっくに学生を卒業して社会に馴染む年齢になったとしても、二人からの多摩の扱いは変わらない。
 多摩としても最初の頃は、それが二人の望みであれば、それもいいと思っていたようだ。多摩は現在の立ち位置もそこそこ気に入っているし、これはこれで一つの家族の在り方だと納得しようとしたらしい。
 それでも。
 二人の独特の空気に入り込めない寂しさと、「僕も家族の一員じゃないの?」「認めてもらえないの?」という疑問は、時間をかけてガリガリと多摩の精神を削っていった。
 多摩を最も削る「仲間外れ」という状況を二十年以上笑顔で受け流して、いよいよ濾過しきれなくなった心が軋みを上げるようになってきて、限界になった口が二人に強く当たってしまう前に、どうにか発散したくて頼った先が、幼い頃から見知った弟分こといずみ野だったようだ。

「ちっちゃい頃みたいに僕を喜ばせてよ。多摩は凄いとか、よく我慢したとか、多摩ならきっと出来るって言ってさぁ」
「今の多摩は凄く呑んでる」
「そうじゃなくてぇ」

 大きいいずみ野は意地悪だ、可愛いけど可愛くない、なんて言いながら、ほとんど上がらなくなった頭をテーブルにぐりぐり押し付ける。
 そのままいずみ野のばか、僕のこと何だと思ってんの、とぐだぐだ絡んでくる様に、この姿を保護者連中が見なくて良かったと思う。
 接続してから江ノ島と話す機会も随分増えたが、江ノ島は多摩に向けてある種の理想を抱いているように感じていたからだ。それを多摩が望んでいるかは、完全に度外視で。

「そもそもさ……僕は知り合いは多いけど、誰かと並び立ったり、一番になれた事って、今までに一度も無いんだよ」

 これまで聴いた話を、素直に受け止めるならば。
 多摩が開業後に知り合った路線達には大概、既に一番大切な存在が並び立っていて、そこに後から多摩が介在出来る余地はない。
 友好的にはする。時には助けてくれる。でも、一線を踏み越えるような関係は決して構築出来ない。
 知り合いが沢山出来たのに、多摩にとっては開業前と大きく変わらない状況が、まさしく二十年以上も続いた。
 その事実に打ちのめされている今このタイミングで、小さないずみ野が褒めた内容をそのまま言い聞かせたとて、一種の皮肉となってしまいかねないだろう。

「いずみ野には相鉄本線がいていいよね。小田っちにとっての江ノちゃんみたいな立ち位置でしょ。いっぱい依存してもらって、大事な話も内緒の話もしてもらってるんだ」
「──どうだかな」

 いずみ野の実感として。自分を生み出してくれた本線とは毎日肩を並べているし、二人ぼっちの家族として大切にされているし、それなりに心を許されている実感もある。
 だけど心の柔らかい部分をずっと遠くにいるひとに注ぎ続けている本線と自分を、小田原と江ノ島を始めとした他の路線達と同じ属性に括るのは違うのではないかと感じていた。
 本線がそういうひとなのは生まれた時からわかってたし、本線なりにいずみ野を大事にしてくれているので、特段それを気にした事も無かった。
 それよりも。

「多摩」
「なーに」
「その言葉、他の奴にも吐いたか」
「? ううん、今だけだよ。だって、皆、僕の言葉なんて、まともに受け取ってくれない」

 きょとんとした声が少しずつ震えて、徐々に涙声に変わっていく。
 溢れた涙がとうとうぽろ、と一筋頬を伝った。喜怒哀楽のうち喜と楽を発するのが得意で、怒と哀を滅多に出さない男でも涙が出てしまうくらいには、多摩というひとりの路線としての人格が悲鳴を上げているらしい。
 いつも冗談めいた態度で覆っているものの、欲しいものをいつまでも与えられず、家族の前でも望まれるままの振る舞いで生きていた多摩の魂ごと、限界になったのが今夜なのだろう。よく二十年以上耐えてきたものだ。
 いずみ野としてはもっと、彼らしいのびのびとした姿勢で、いつまで経っても打破されない状況にわかりやすく怒ってわがままを言って、多摩自身を守っても良かったろうにと思わないでもない。実際のところは彼にしかわからないので、言葉にはしないけれど。
 ふ、と息が漏れた。少なくとも、こんな状態の彼を家に帰すわけにはいかない。いずみ野の個人的な想いを無視するにしても、友人として頼られた以上は放置の選択肢もない。
 ぐすぐすと沈んでいる多摩の頭を横目に携帯でカコカコとメールを打ち、一通目は相鉄本線へ。続けてもう一通を江ノ島に向けて送信する。今夜は友人と二人で湘南台に泊まる旨と、江ノ島には「俺が急用で呼び出したせいで、慌てさせたようです。すみません」と言葉だけの謝意を付け加えた。

「今夜は俺の部屋に泊まっていけ。それなら江ノ島さんも無断で入れないから」
「うん……

 メールの件は明日以降口裏を合わせればいい。まずは多摩が安心して休める場所の確保が優先だ。
 何気ない会話の中で突然飛び出していった多摩を、小田原と江ノ島は心配しているだろうか。それとも呆れているだろうか。
 いずみ野の送ったメールをどう受け取るかはわからないが、一言「了解」と書かれた返信は受け取れたので、それ以上は詮索せずに携帯をしまう。
 ぽたぽたと溢れる涙を止めるのを諦めた多摩が、力の入らない両手で掴んだジョッキの中身を減らしていく様を頬杖をついて見守る。
 きっと本人は色々と限界だった中で、たまたま口の固い友人として思い浮かんだのがいずみ野だったってだけでここに来たのかもしれないが、そんなでも頼られるのは少なからず嬉しかった。

 ※ ※ ※

 いつもは相鉄本線と一緒に二俣川で休むので、繁忙期やイベントの準備で寝泊まりする時しか、基本的に湘南台の部屋を使用することはない。
 後の使用目的といえば多摩が遊びに来てくれた時くらいなもので、いずみ野が新百合ヶ丘や多摩センターに行く事もあったが、多摩がこちらに来てくれる時はもっぱらこの部屋で雑魚寝していた。
 そういった慣れもあって、交互にシャワーを浴びて置きっぱなしの部屋着に着替えれば、双方何も言わずともギリギリ大人二人が収まるベッドにすんなり横になった。多摩の脚もはみ出さないほど大きなベッドを申請した時は相鉄本線に何か言われるかと思ったが、いずみ野が何かを言う前に「ほどほどにね」と言い渡されただけですんなり通ったので、数少ない友人を招く事も事実上黙認されているに等しい。
 相鉄本線は表立っては小田急を宿敵扱いして憚らないが、支線の人間関係にまで嘴を差し込まないでくれるのは素直にありがたい。いずみ野にもっと沢山の友人がいれば、また話は変わっていたかもしれないけれど。

「いずみ野、起きてる?」
「寝ろ。ちゃんと寝ないと、明日以降江ノ島さん達に何か言われても誤魔化せないぞ」
「起きてるんじゃん」

 幼い頃に泊まりっこをした時はぴったりと体をくっつけて寝ていたが、今はいずみ野側の都合により、ベッドの端で背中を向けて横たわっている。
 多摩は最初の頃こそ「その体勢で休める?」と聞いてきたが、いずみ野が「寝る時の癖だ」と言い張れば、それ以上は突っ込んでこなかった。

「目が覚めちゃった。眠くなるまで喋ろうよ」
「喋ってたら眠くならない」
……だって。夜中って、変な事ばっか考えちゃうし」

 小田急の年長の二人の間でしか共有されない当時の情報、感情。それらを同じ温度で共有される日は、ひょっとしたら百年経っても来なくて、小田原と江ノ島はそう思っていなくとも、多摩からしたら永遠に家族ではなく後追いのゲストにしかならないんじゃないかという、途方もない無力感でいっぱいになるらしい。

 誰の一番にもなれない宙ぶらりんな立ち位置のまま。
 ニコニコとご機嫌に笑っている事だけを求められて。
 僕は、小田急多摩線である限り生まれてくるこの渇望は、一体何のためにあるんだろう。

 ぽつぽつと、多摩にしては歯切れ悪く伝えてくる言葉を纏めるとそういう事だ。
 新線の頃には誰よりも明るく、希望に満ちた力強いスタートを切っていたはずの多摩が、得意気に未来予想図を語っていた弟分の前で、今は何ひとつ満たされていない暗い表情で湿っている。
 その事が、いずみ野の胸に奇妙な苛立ちを湧き立たせる。

「いずみ野、こっちを向いて。…………お願い」

 無茶振りと言うにはあまりにささやかで、切実な声色。
 はぁと短く息をついて、ゆっくり多摩の方へ振り返る。いずみ野と出会った頃から何かとお兄さんぶっていた友人は、カーテンから差し込む僅かな明かりの中、声も出さずに目元を涙でぐしゃぐしゃにしていた。
 あまり見られたくもないだろう。すぐに自分より大きな体に身を寄せて、背中を丸めさせる格好で肩に目元を押し当てる。じわりと肩が濡れていく感覚を覚えながら、広い背を手のひらでさすった。

「ゆっくり呼吸しろ」

 すう、はぁ、と息を吸って吐く体を見下ろしながら、釈然としない気持ちになる。
 路線としてはいずみ野よりもよほど恵まれていて、本人の体格も大きく健康的なのに、魂だけが欠乏症で不健康になっている様は、傍目からは酷くアンバランスだ。
 相鉄本線が狂おしいほどに相模を求めていても「相模さんは大変だな」と他人事に感じるだけで、それとは別に与えられる家族愛で足るを知る一方、多摩へ向けた想いを時間をかけて沈めようとしているいずみ野とは全然違う。
 多摩という人格は、足るを知る事も、諦める事も一切できないまま、二十年以上欲しい欲しいと、道化の顔をした裏で周囲に強く訴え続けていたのだ。

(どうやって狂わずにいられたんだ)

 多摩の芯は本来とても頑丈だ。
 いつでも瑞々しくて、活発で、見ているだけで眩しくなるような理想を語る姿に「きっと将来は、俺みたいな退屈な奴に構う暇がなくなるくらい、色んな人に愛されるんだろうな」と感じて、いつその時が来てもいいように古いだけの友人という肩書きで一線を保っていたのに。

「朝になったら普段通りになるから、今日はこのまま寝かせて」

 いまだじわじわといずみ野の服を濡らしながら縋ってくる多摩の背を撫でながら、「もういいんじゃないか」と自分に言い聞かせる。

 もう、いいんじゃないか。提案するくらいは。

 このまま朝になって小田急に返しても、きっとまたすぐに限界が来る。
 限界になるまで、多摩は求められた家族の役割をして、言葉の切れ端で本音を訴えて、そうして次が訪れた時に、またいずみ野の前で泣いてくれるとは限らない。
 多摩の背中を撫でる手の動きに合わせた深呼吸が疲れ果てた寝息に変わる頃には、暗闇を見つめるいずみ野はもう腹を括っていた。



「あーーーー……

 最悪の目覚めだった。
 昨夜の失態を思い起こして、無人のベッドをぽすぽす叩く。自棄になっていたからって、よりによって年下のいずみ野の前でみっともない姿を晒してしまった。
 だけど他に「迷惑をかけても全面的に許してくれそうな友人」がいなかったのだ。宥めてくれそうな相手はいるけど、絶対に誰にも口外しない保証こそ無い。ただの笑い話で収まるならまだいいが、悲劇的な形で小田原と江ノ島の耳にでも届いたらコトだ。
 だからこそ適当に押しかけて、適当に泣いて、そんな多摩の失態を見ても黙っていてくれる相手が必要だった。多摩の中でそんな相手は、ほぼ一択でしかなくて。
 そうしている間に多摩の私用の携帯が震える音がして、開いてみれば三通のメール。
 まずは昨夜の小田原から「落ち着いたら帰ってきなさい」という意味深な一言。江ノ島からは「あんまいずみ野に迷惑かけんなよ」という、いつもの小言。それからたった今、いずみ野からの「どれがいい?」というコメントと共に添付された、コンビニおにぎりの画像。

「珍しい」

 多摩がベッドの上でもだもだしている間に、いずみ野はさっさと近所のコンビニに行っていたようだ。
 この部屋に泊まった翌日はいつも二人で部屋着のまま近場の飲食店に入って、ダラダラと駄弁りながら朝食を摂るのが恒例だったのに。昨夜散々泣いた多摩がよく寝ていたから起こさなかったのかもしれないが、そこまで気を遣わなくてもいいのにと思いながら、好きな具を指定したメールを返信する。
 ややあって帰ってきたいずみ野は片手にコンビニの袋をぶら下げて、お茶と一緒に差し出されたそれを二人で食べた。ほぼ無言の食卓はこれまでも何度もあったが、若干の気まずさを感じているのは多摩ばかりのようで、いずみ野は何事も無かったかのようなしれっとした顔のまま鮭おにぎりを頬張っている。

(何も無かった事にしてくれるのかな)

 それならそれで、ほっとした。昨夜の多摩は普段ならありえないほどデリケートな状態で、それを基準に気を遣われても困る。
 オムライスおにぎりを食べながら、昨夜に比べて大分落ち着いた気分を自覚して「今ならまた、小田っちと江ノちゃんの前で平気な顔でいられそう」と安心する多摩に、先に食事を終えたいずみ野がおにぎりの包装を捨てて「さて」と静かに切り出した。

「この後、腕時計を買いに行かないか」
「? 欲しいモデルでもあるの」
「拘りはない」

 なら「一緒に買い物に行きたい」という示唆か。
 それにしても腕時計とは限定的だと思いながらお茶を飲むと、やけに真剣な目をしたいずみ野が言葉を続ける。

「今日から付き合うぞ、俺達」
「へー…………。えぇっ!?」

 残り一口のおにぎりを落っことすかと思った。
 慌てて頬張って飲み込み、話し合いをするべくお茶で流し込む多摩を見ながら、表情ひとつ変えないいずみ野は「考えてみたけど」と淡々と話を進めていく。

「一般的には何かしらお揃いの物を持つカップルが多いらしいが、下手な装飾品は時代の規則の影響を受けやすいだろ。その点指輪、眼鏡、時計のいずれかであれば、時代の影響も受けにくく継続して身に付けやすい。とはいえ指輪は意味深過ぎるし、俺達は視力も悪くないから、消去法で腕時計が適切だと判断した」
「待って。いずみ野、待って。いい子だから待ってね」

 お腹いっぱいになったばかりの体だが、今度は胸焼けがしてきた気がする。
 多摩はいずみ野からそういう意味で好きだと言われた事がないし、友人として常識的な範疇で優先的に扱われていた自覚こそあるけれど、交際しようとかそういう意図で触れられた事もなければ、あからさまな下心をぶつけられた覚えもない。
 ……はたして、本当にそうだろうか。多摩は年下の友人を可愛がって、家族のように甘えて、いずみ野もそれに応えてきた。その対応こそが特別扱いでしかなかったと言われたら、否定しきれないものがある。

「僕が昨日変なこと言ったからかな。いずみ野は気にしなくていいのに」
「無茶言うな。気にするに決まってる」
「だよねぇ。なんか本当にごめん」
「多摩」
「次からはいずみ野の前で変なことしないから」
「多摩、こっち見ろ」

 急かすような、ほんの少し怒気が混ざった声色に驚いて、言われた通りに顔を上げる。
 いずみ野は多摩相手に呆れる事はあっても、怒りの感情をぶつけてくる事は滅多に無い。というより、初めてな気がする。
 なんとなく居心地が悪くておずおずと低い位置の目を見れば、いずみ野の目は怒っているというより、どこか据わっているように見えた。

「これまでは友人の肩書きのままでもいいと思ってたけど、それだと多摩の中で俺と他の奴らとの区別がつかないんだって、俺も昨夜やっと気付いた」
「えー、つまり、どういう事? いずみ野は僕に何をしてくれるつもりなの?」
「出来る範囲で、何でも。多摩がしてほしい事をいつまでもしてくれない奴らを気にしてる暇があるなら、いつでも多摩を優先してる俺を真っ先に意識した方が、生きてく上でストレスが無いに決まってる。あとは、理由付けだ」
「理由付け」

 まだいまいち全貌が掴めなくて、なんとなく居住まいを正しながらおうむ返しをする。
 一方で「ひょっとしてこれ、いずみ野流で口説かれてる?」「それともお説教されてるのかな」と脳内が忙しい。

「積もり積もった話を整理すると、多摩の悩みは人間関係における孤独感と疎外感から発生する、満たされない飢餓の経験によって生じた焦りや不安だと思う」
「そう、なのかな。うん、そうかも」
「俺と多摩が友人じゃなくて恋人になったら、家族とは別枠の特別な一人って事になる」
「それは、うん。そうだね? でも」

 それってそんなに変わるかな。
 言いながら、何だか変な気持ちになった。
 いずみ野は長年良い友人として付き合いを続けてくれていたが、目立って恋人らしいスキンシップをしていないだけで、かなり上位の馴れ合いを経験してきてた気がする。なので今更肩書きが変わったところで、そこまで目に見えて何かが変化するだろうか、という疑問が尽きない。
 そんな多摩を前に、いずみ野は当然といった態度でピシャリと「全然違う」と言い切ってみせる。

「友人相手には躊躇するような事も、恋人であれば踏み込みやすい。昨夜みたいな急な呼び出しも、何なら理由も無くただ顔が見たいってだけでも、恋人であれば駆け付けるのが当たり前になる。迷惑かけるかもしれない、なんて遠慮も過ぎらなくなるし、俺個人は隠さなきゃいけないようなやましい事情も抱えてないから、浮気や裏切りを疑う余地も一切ない。多摩相手なら俺の狭い交友関係から、話の流れで私用携帯とキャッシュカードの暗証番号だって洗いざらい教えられる。あと、これが一番重要な点だが、何かにつけて「俺がいる」と言ってやれる」
「いずみ野がいる」
「飢餓の記憶を上書きするんだ。他の奴らがそうであるように、当たり前のように満たされたいのに、その経験が無いせいで積もり積もった不満が爆発して、ついに防衛本能が働いて小田原さん達から逃げてきただろ」

 昨夜のやりとりを思い出して胸が痛む。
 いつものノリで会話をしていたはずだった。多摩が話題を振って、江ノ島が突っぱねて、小田原がその隣でナァナァにする。たったそれだけのやりとりが、昨夜の多摩には耐えられなかった。
 顔面から表情が抜け落ちるのを感じて、二人に見られる前に咄嗟に背を向けて、どうにか「用事思い出した!」とだけ叫んで飛び出してきた。そこで全部の気力を使い果たしたのだろう。
 一人ぼっちになりたくないのに、知り合いに今の姿を見られたくない。
 矛盾した思考が巡る脳内でどうにか「彼なら過剰に反応する事も、むやみに宥めすかすような真似もしないだろう」と縋ったのが、新線時代からずっと静かな態度で接してくれていたいずみ野だった。

「言ってみろ。お前には俺がいる」
…………。僕には、いずみ野がいる……
「また飢える感覚に陥りそうになったり、寂しくなったりした時に唱えるんだ。声に出すのが難しい状況なら、少しだけ目線を下げて揃いの腕時計を見ればいい。そのために今日買いに行く」
「いずみ野がいる。……本当に? やっぱり無しとか、そこまでじゃなかったとか言わない?」
「言わない。多摩の性格や悩みを知ってて後から手のひらを返すくらいなら、最初から提案なんかしない。もし俺がそんな奴なら、俺の本線はきっと今日まで俺をこんなに大事にしてくれてない」

 妙な説得力があった。
 身内扱いであればあるほど気性の激しさを隠さない相鉄本線は、傍目にもわかりやすくいずみ野を心の特等席に置いている。
 それは相鉄本線を大手私鉄の本線に押し上げた功績だけでなく、長年付き添った上での信頼関係があるからだろう。いずみ野本人がそれをどう感じているかはさておき。
 そんないずみ野が、先ほどから念を押すように「俺個人の全部を明け渡す」と宣言して憚らない。
 それは多摩がずっと欲しがっていた、「最も信頼できる誰かの一番」という席そのものではないだろうか。

「もちろん、これらはあくまで提案だ。多摩が望まないなら意味が無いし、他にもう好きな相手がいて、そいつじゃなきゃ嫌だって言うならこの話は終わりだ。けど俺個人としては、泣くほど追い詰められている時に近くにいられないような奴に、俺の大事な奴を任せる気にはなれない」

 怒涛のようにぶつけられる、「俺は当たり前に多摩が大事」という宣言に、息が止まりそうになる。胸の奥が煮えるようだ。
 いつになく鋭いいずみ野の眼光からつい目を逸らしたくなった刹那、両頬を掴まれてそちらを向かされた。こんな時だというのに、その手つきには強引さがなくて優しい。

「多摩が幸せじゃないなんて、認めない。他の誰もやらないなら、俺の手で幸せにさせろ」

 疑いようもなく、決定打だった。
 多摩がいずみ野を可愛がったのは、年下の路線が珍しい上に、口数や表情の変化が乏しくとも、呼べば懐いた猫のように寄ってくる素直さが堪らなかったからだ。
 大きくなってからは多少言葉の揚げ足を取ってくる事はあっても、真に傷付くような事を言われた覚えはない。
 それら全てを過去に可愛がった経験からの地続きだと思っていたけれど、こうなると「いつから?」と聞きたくなってくる。

「で、どうする」

 腹を括った顔。
 差し出せるものは大体提示したのだから、後はそっちが決めろという態度である。およそ情熱的な告白をしたばかりの男の姿とは思えない。
 そんないずみ野の威風堂々っぷりに押されたわけではないが、まだ混乱していながらも胸に湧き上がる嬉しさは否定出来なくて、口角が自然と上がってしまうのを自覚しながら、頬に添えられた手に自分の手を重ねた。

「せっかくなら、かっこいい文字盤のやつがいいな」



 あれから小田急に戻った多摩は、多少の心配はされながらもケロッとした顔で帰れたらしい。
 それどころか何かあるたび「僕にはいずみ野がいる」と唱え、時には腕時計を眺めているうちに、寂しいだとか、周りを羨ましいだとか考えることも無くなったようだ。
 今では小田原と江ノ島がイチャつきながらあからさまに話題を逸らしても「もー、二人はしょうがないんだから」と軽く流せるようになったのだとか。

「僕にはいずみ野がいるもん。他の人は、よそで適当に幸せになってくれればいいよね!」

 ようやく悩みや不安から切り離された多摩のスッキリした表情を見て、どうやら自分は正解の選択肢を引いたようだと安心する。
 一方、「小田原さんをはじめとした、周りの人達の対応も間違ってはなかったんだよな」といずみ野は振り返っていた。
 思えばいずみ野を含めた多摩の周囲全員が、同じ事を考えていたのだろうから。

『この子はこんなに魅力的なんだから、きっといつか相応しい相手が見つかって幸せになるだろう』

 その相手は自分ではないだろうけど。
 いつかのどこかで、何もかもを実現出来る下地のある多摩なら、その力強い大きな手で自ら幸せをも掴み取れるだろうと。
 だけど多摩本人からしたらそれは、誰もが遠巻きに見てくるだけで、誰一人多摩個人と真剣に向き合ってくれていないと感じさせる原因になった。
 相鉄本線と相模の関係を生まれた時から見慣れていたいずみ野にとって、個人の幸せとは「遠くにあるもの、そう簡単に叶わないもの」という認識で、「いつか俺にもそんな日が来るのだろうか」とぼんやり意識するかしないか程度のものだった。
 だけど身近に癒着した関係がある多摩からすれば、皆と同じものを得たいのに得られない渇望と、誰も彼もが他人事な対応をしてくるのもあって、殊更孤独を感じやすい環境にいた。
 いずみ野からしてみれば、正直、今でも多摩のことを「本来は手に入るはずのない、高嶺の花のようなもの」と感じている。相変わらず自分は特別面白みがあるわけではないと思っているし、いつまでも本線と地域住民と猫に囲まれてぼんやり生きながら、気まぐれに遊びに誘ってくる多摩の眩しさに当てられるくらいで丁度良いのだと。
 だけどあの夜に多摩の方から、寂しい、苦しい、助けてと手元に転がってきたのだから、そんなのは、手を伸ばすしかなくなるだろう。
 かつて友人面していた頃には、「多摩にとって良い条件の奴とか、よっぽど好きな奴が出来たら、俺の事は二の次三の次になっても仕方ないよな」と思うようにしていた。
 けれど今はもう、「他に好きな人が出来たから別れてほしい」と多摩本人に言われたとて、二つ返事ですんなり了承してやれる気がしない。
 今のいずみ野には、周りに何を言われようと、ずっと相模を求め続けている相鉄本線の気持ちがよくわかる。

「僕としては一つくらい型落ちでもいいかなーと思うけど、いずみ野はどう?」
「最新ともっと比較しよう。どのみちベルトのパーツがあまり無いのが気になるから、無理にソッチにしなくてもいいと思うけど」
「でも僕アッポーなウォッチ欲しい」
「ならアッポーにするか」

 今日は時計を買い換える相談の日だ。
 多摩の魂を支える大切なアイテムだから、挙動や時代に応じて買い換えていこうという話は最初にした。もしも中途半端な時期に動作が止まったり、好きな服装に合わなくなって身に付けられなくなったら本末転倒だ。
 そういうわけで本日は大切な物事を決める日ということで、気合いを入れて各メーカーのカタログを持参してきたわけだが、楽しみすぎて相鉄本線に気付かれたのはいただけない。
 けれど多摩も楽しみにしていて、そのせいで普段と違う様子を心配した保護者二人が付いてきてしまったのだから、これはこれで可愛らしいハプニングと思うべきだろう。いずみ野の方は、ただのうっかりだとしても。

「あ、あそこの席空いたっぽい」
「どの辺だ?」
「こっちこっち!」

 水槽いっぱいのクラゲをじっくり鑑賞して、しっとりした空気を纏ったままオーシャンビューのカフェでドリンクを買う。
 平日だというのに店内はそこそこ混んでいて、いずみ野目線では着席が難しい状況だが、背の高い多摩視点ではばっちり空席が見えたようだ。

「いずみ野、こっちだよ!」

『いずみ野、おいで!』

 陽の当たるテラス席に向かいながら振り返る多摩の表情は、あの頃の記憶のままに眩しい。
 何の悩みも迷いも無い、真っ直ぐにいずみ野を照らす柔らかい眼差し。
 この顔を曇らせるものを取り払う手伝いが出来るのなら、自分は何でもしよう。
 何十年経とうと新たな決意を抱かせる多摩の笑顔は、他の誰が何と言おうと、いずみ野にとって変わらぬ愛しい光だった。





総評:えのすいデートの話なのにデートあんましてねぇ。


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