ホットケーキを作ってもらえない🥞くんのおはなし。
この漫画の後日談↓
@koto456
埋れ木一郎は、ホットケーキが好きな青年である。
その好意の起源は彼の人間としての根源とも深くつながるものであるが、今はその因果の話を割愛する。
千年王国研究所。日差しも優しい、穏やかなある日の午後。
メフィスト3世は、背中に突き刺さる無言の熱い視線をいなすように、キッチンの作業台の上に『ホットケーキミックス』の箱をトン、と置いた。
メフィスト3世の手つきは迷いがない。手際よく卵を割り入れ、冷たいミルクを注いで静かに解きほぐしていく。黄金色の液体の中に、純白のミックス粉がさらさらと投入されていくその一連の工程を、一郎は文字通り瞬きもせずに見守っていた。
思い返せば前日のことだ。
メフィスト3世は、あの黄金色に焼けた丸く温かく香しい『ホットケーキ』を焼くのだと見せかけながら、その実、湯気を立てる丸く温かく香しい『蒸しパン』を錬成してみせ、一郎の度肝を抜いた。あの時の、グラシンカップを前にした世界の崩壊に比べれば、今日のこの光景は一郎にとって小さな希望に思えた。
本日は大本命の、あのふかふかとしたホットケーキであってほしい。
直立不動のまま、ただ視線だけで無言の圧をかける一郎の心の声が聞こえそうであったが、メフィスト3世のへらりとした態度は変わらない。メフィスト3世は火にかけたフライパンへと、お玉一杯分にも満たない緩い生地を掬い上げ、驚くほど薄く、円を描くように流し込んだのである。流麗な手つきでひっくり返され取り出されたのは、一郎が切望した厚みとは程遠い、ペラペラの向こうが透けそうなほどに薄い生地だった。メフィスト3世はそこに手際よく白い生クリームを絞り、美しくスライスされたバナナを並べると、くるりとそれを包み込んでみせた。
「……」
一郎は、無表情ながらに内面で激しく動揺した。悲劇は繰り返されてしまったのだ。
甘い絶望のデジャヴに脳が一時的にフリーズする。しかし、メフィスト3世の気まぐれな調理はそこで終わらない。
次に彼は別のボウルへ、通常のホットケーキのレシピには存在しないはずの多めのバターを贅沢に投下した。さらに、漆黒の粒々が輝くチョコチップを大量に放り込む。それらとミルクと粉を合わせて、一切の容赦なく力強く捏ね上げ等分に成形すると、すでに予熱の完了していたオーブンの暗黒へと躊躇なく放り込んでしまう。
さらに、また別のボウルが用意される。今度は極少量のミルクと卵そして残りの粉だけを混ぜ、あえてボソボソとした不均一な質感に仕上げた生地を、器用に小さな団子状へと丸めていく。そして、熱せられた深い油の海の中へ丁寧に一つずつ投入した。小気味よいパチパチという音と共に、キッチンに香ばしい甘い匂いが充満していく。
一郎は憮然とした表情のまま、目の前に次々と並べられていく『それら』をただじっと凝視していた。
そこにあるのは、繊細に畳まれた品よく鎮座するクレープ、闇から救出されたばかりの香ばしい匂いを放つチョコチップスコーン、そして油を吸って狐色に爆ぜたサクサクとした丸いドーナッツ。
小麦粉と砂糖が焦げる、幸福そのもののような甘い香りは完全に部屋を満たしている。
しかしそれらはどうひっくり返しても、一郎が求めていた『ふかふかとした、中央でバターを溶かし、メープルシロップを吸い込むあの円盤』ではなかった。
「食わないなら別にいいぞ。俺が全部もらうから」
メフィスト3世はわざとらしく肩をすくめると、出来立てのまだ熱を孕んだドーナッツを一つ指でつまみ、サクと小気味よい音を立てて自分の口へと運んだ。
「……だから、僕は食べないとは一言も言ってない」
沈黙を破った一郎の声は、いつも以上に言葉少なで低かった。
一郎はまず目の前で誇らしげに油を切っているドーナッツを掴むと、そのまま無言で口へと運んだ。
モグ、モグ、と機械的に、だが確実にその規則正しい咀嚼音は響く。
顔の筋肉は相変わらずピクリとも動かないし、全身からは不機嫌極まりないオーラが漂っている。
しかし、次なる菓子へと滑るように一郎の手は伸びていく。
無言で、だがそれなりに速く口に運ぶ様子を見て、メフィスト3世はフッと満足げな、どこか呆れたようなため息をはいた。
「おいおい、そんな急いで食うなよ。誰も取らねえからさ…
ほら、喉つまらせるなよなー」
そう言って彼が一郎の前に差し出したマグカップには、一郎が好んでいる温かいココアが入っていた。
一郎は差し出されたマグカップを黙って受け取ると、表面に浮かぶ微細な泡ごと甘い液体をゆっくりと喉に流し込む。
求めていたホットケーキの姿はどこにもなかったが、満たされた胃袋とココアの熱は確かに心地よく、研究所にはただ二人の静かで不器用な、しかしひどく穏やかな空気だけが満ちていくのだった。
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「それで、これは一体なんなんだ、メフィスト」
カップの縁から口を外して、一郎は静かに尋ねた。
「え? あー…たまには違うおやつもいいかなって思ったんだよ」
メフィスト3世は視線を泳がせながら、そっぽを向いた。
一郎はそのわざとらしい態度を不審に思い、再びキッチンの奥へと目を向ける。
そこには、自分たちが今ここで食す以外の、手付かずの菓子が残されていた。
皿の上に無造作に置かれているのではなく、透明な袋に小分けにされ、ご丁寧に愛らしい配色のラッピング用リボンが施されている。
その過剰なまでの装飾と、彼の不自然な挙動。そこまで条件が揃えば、一郎の明晰な頭脳が答えを導き出すのは容易だった。
「賄賂か」
「わ、賄賂なんかじゃねえ!! 人聞きの悪い事を言うな!!
こ、これはその、日ごろお世話になってるし、いわばご近所付き合いっていうか…!」
図星をつかれたメフィスト3世の顔を見て、一郎の気持ちは幾ばくか慰められた。
無理もない。この千年王国研究所の財政事情は、いつだって火の車なのだ。
怪異に関するまともな相談などそう頻繁に来るものではなく、運よく仕事にありつけても十分な報酬を得られぬまま帰ってくることも度々ある。結果として、しばしば家賃の支払いは滞るのが常であった。
メフィスト3世はこの建物の大家である婦人『さなえ』に対して言葉にできない淡い想いを抱いている…メフィスト3世が彼女に、心底すまなそうに何度も頭を下げ、事後に自身の格好悪さを嘆く光景を見たのは一度や二度ではない。なおかつ、その幼い娘である『みお』は家賃滞納の件で容赦なく一郎とメフィスト3世の前に立ち塞がりポカポカと小さな拳で殴りつけてくるのだ。
次なる家賃回収の襲撃を前に、この哀れな会計係が手作りの甘い菓子で大家親子の機嫌を取り、物理的・精神的な損害を未然に防ぎたくなるのは当然の帰結であった。
一郎は小さくため息をついて、再び眼前の、ラッピングから漏れた分の菓子を掴んで口に運ぶ。
相棒の、そのセコくも必死な防衛に付き合ってやるのも、パートナーの義務なのかもしれない…そう思えた。
終