@otohitoe_
その日帰宅したアジラフェルがいつも通り手洗いとうがいを済ませてから洗面所を出ると、自室から上半分だけ顔を出したクロウリーがいた。
「おかえり」
「ただい…ま、どうしたの?」
「風邪引いた」
「え」
「だから近寄るなよ。飯はある。悪いけど自分であっためてくれ」
そう言うと、クロウリーの顔が引っ込むのと同時にぱたんとドアは閉められた。アジラフェルは当然それを追い、指先で小さくとんとんとノックしてから少しだけ開けて部屋を覗く。クロウリーはベッドに片膝を付いて潜り込もうとしているところだった。
「クロウリー」
「やっぱり来た」
「そりゃあ…大丈夫?熱は?」
「少しあったけど、さっき解熱剤飲んだから」
体を重そうにしながら横たわるクロウリーの上にブランケットを掛け、そっと顔を撫でる。首筋に触れると少し腫れているようだった。
ベッドサイドには時間と体温がメモされた付箋があった。冷蔵庫の脇にいつも置いてある付箋だ。最後に計ったのは三十分ほど前で、その下に『解熱剤』とも書かれている。
「たぶんただの風邪だ」
自分でブランケットを目元まで引き上げてもそもそと低く話すクロウリーは、そうでなくても鼻が詰まって少し呼吸しづらそうではあるが穏やかで咳も無く、確かに普通の風邪のようだ。
「なにか食べた?」
「スープ飲んだ。たまごとほうれん草の」
「そっか。いいね」
「大丈夫だから早く出てけ、だめだろ病人の傍にいたら」
「もう少しだけ」
ベッドサイドにはメモのほかにいつものカラフェ、体温計と解熱剤が置かれてある。蓋のついたマグカップはたぶん湯冷ましだろう。それから充電ケーブルに繋がれたスマートフォンも。
クロウリーにかかれば自分の面倒を見ることくらいわけもないのだろうけれど、せめて連絡ひとつ入れてくれてもいいのに。
ベッドの縁に腰を掛け、労わる気持ちでブランケット越しに肩のあたりを撫でる。いつもより潤っている瞳がぼんやりとアジラフェルを見つめていた。
「明日の朝…」
「病院行く?」
「ちがう。鍋のスープ、多めに作ってあるから、朝飯にしていい…あと冷蔵庫に苺がある。今日帰りに貰って…それも全部食っていいから」
「具合悪いのに、わたしの担当の朝食のことまで考えてくれたの?」
アジラフェルは口の端を上げてわざとらしい微笑みを作って見せた。クロウリーの視線が一瞬逸れる。アジラフェルの考えていることをなんとなく察したのか、「帰ってくるまでは大したことなかったんだ…」という小さな抗議はブランケットに吸い込まれていった。
「わかってると思うけど」
「…わかってる」
「たしかにきみはわたしより大人だけど、だからってわたしが子供ってわけじゃない」
「わかってるって…」
「これでもちょっとは大人になったんだよ、わたしも」
大人しく目元を撫でられながら「知ってる…」と答える弱々しい声にアジラフェルも今のところは納得することにして、ゆっくりと身を屈めて目頭のあたりに唇を当てた。
「こら、」
当然怒られたが構わなかった。
「またうがいしとけよ、ちゃんと…」
「うん」
「あ、また、おまえなあ…、」
動きが鈍いのをいいことに、ついでに額にも口づけておいた。薬が効いているのか今はそれほど熱はないらしい。
いずれは治るものとわかっていても何もできないのがもどかしい。おまけにただ傍にいることも控えるべきだとクロウリーに言わせてしまうなんて。
「もし何かあればすぐに呼んでね。どんなことでも、何時でもいい。真夜中でも明け方でも」
「うん」
「たくさん水分とって、たくさん寝て」
「はい先生」
冗談っぽく畏まって言うクロウリーにアジラフェルも笑って応え、腰を上げる前にもう一度頬を撫でる。
「朝も起こさず行くね」
「ん」
「出る前に様子は見に来るよ。そのときもし具合が酷くなってたり、熱が高くなってたら一緒に病院行こう。帰りは一人でタクシーになっちゃうけど」
「大丈夫だって…」
また怒られるつもりで最後に額にキスをしたがクロウリーは何も言わず受け入れてくれるだけだった。
深夜。
張り付くような喉の渇きでクロウリーは目を覚ました。まだ熱は下がっていないらしい。熱気が籠ったブランケットをより重たく感じながら体から剥ぎ取ってなんとか上体を起こす。
風邪を引くなんて久し振りのことだ。アジラフェルの仕事のこともあるから体調管理には気を付けていたはずなのに不甲斐ない。
ベッドサイドに置いておいた解熱剤を口に放り、再び眠ろうとしたところで何となく口寂しさを覚え、キッチンを覗きに行こうとベッドから両脚を下ろす。摺り足で廊下に出るとリビングの電気が点いたままなことにすぐ気が付く。休日前でもないのにまさか夜更かししているんだろうかと静かにドアを開けてみるが、アジラフェルの姿は見えない。
そのままそろそろとソファを覗き込むと、思った通り、アジラフェルはそこにいた。肘置きに掛けたクッションを枕にして眠っている。
仕事か勉強でもしていて寝落ちしたのであれば納得できるが、床やテーブルの上にもそれらしいものは無い。起こすべきか…と考えたところで、アジラフェルの目がふっと開いた。
「んっ…クロウリー」
「何してんだ、こんなとこで…」
「きみはどうしたの。水なくなった?」
「…なんか味のついたもの口に入れたくて」
「座って」
手を引かれてソファに座ると、入れ替わりに立ち上がったアジラフェルは自分に掛けていたブランケットでクロウリーを包んでキッチンへ向かい、冷蔵庫から取り出した紙パックのフルーツジュースを三つテーブルに並べて「好きなの飲んで」とまた引き返していった。
見覚えのないジュースを訝しく思いながらオレンジを手に取る。感覚のぼやけた指先でもたもたとストローを差し、細い先端を咥えて少しずつ口に含む。喉を下っていく冷たい感触と、酸味であとからじわりと口内に唾液が滲む心地好さにほっと一息吐いたとき、小皿を持ったアジラフェルが戻ってきた。テーブルに置かれたそれの上にはフルーツフォークと小さく切られた三粒ぶんほどの苺が乗っている。
「食べられそうなら」
「…ありがとう」
隣に座るアジラフェルの掌が首筋に伸びて、そっと指の背が当てられる。たぶん体温と脈を診られている。世話を焼かれるほうには慣れていないクロウリーは妙な照れくささからつい体が強張ってしまい、それを悟られないよう咳払いで誤魔化した。
「喉痛い?」
「乾いてただけだ」
「まだ熱あるね…」
「さっきまた薬飲んだ」
「そっか」
顎の縁を撫でてから離れた掌はブランケットの裾を掴まえ、それをクロウリーの腿に乗せた。こういう労わられ方がやっぱりどうしてもくすぐったくて気恥ずかしい。
話を逸らそうとして、そういえばと一番重要な疑問を思い出す。
「それより、なんでここで寝てんだ。おまえも風邪引くぞ」
「大丈夫。当直のベッドより何倍も快適だし」
「理由になってない」
アジラフェルは口を噤み、言葉を探しているようだった。本当はわざわざ訊くまでもない、どうせクロウリーのために決まっている。きちんと寝室で寝ないのは何の気遣いにもならないのはアジラフェルにだってわかっているだろうに、まだどこか遠慮のような気持ちがあるのだとしたら少しショックだ。
クロウリーはストローの先をほんのり噛みながら答えを待った。
「理由ってほどのことはない。ただ…調子の悪いとき、真っ暗な部屋に入って自分の世話をするのって、なんだか…なんだろう、すごくさみしいだろ」
「おれのためか?」
「もちろんそうだけど、わたしはきみがしてくれたことを真似してるだけ」
夜中に起こされるのは慣れたものという様子で、アジラフェルはいつも通りの微笑みを浮かべて言う。
「研修が始まった頃、しょっちゅう風邪を貰ってきてたけど、きみはいつでも待ってくれてて、わたしにそんな思いをさせなかった」
「それは、だって…」
「一緒に暮らし始めてからはほとんど毎日だ。だから今、そのお返しができてるならうれしいんだけど」
「………」
リビングの明かりを見たとき、ほっとした気持ちになったのは事実だ。自室を出たときアジラフェルがまだ起きていることを期待していたつもりも全くない。ましてや自分がしていたことのお返しだなんて、そんなの考えたこともなかった。
「べつに、おれはただ…おまえといたかっただけだ…」
「わたしもだよ」
アジラフェルに抱き寄せられて、一拍置いてはっとする。うっかり風邪のことを忘れていた。
「うつるぞ」
「当直と被らなくてよかった」
「聞けよ…」
「聞いてる。むしろわたしが貰ってきちゃったのかもね。体ぽかぽかだ、かわいそうに。ただの風邪だといいんだけど」
「ただの風邪だって…」
「苺食べる?甘かったよ」
「…少し食べる」
背中をすいとひと撫でして、アジラフェルはテーブルの小皿を手元に差し出してくれた。
さほど大振りでもないひと粒を四つ切りにしたひと欠片を、またくすぐったい気持ちで口に入れる。
「甘い」
「ね」
アジラフェルはうれしそうに微笑む。
クロウリーも、アジラフェルの世話を焼いているときうれしくなることがある。自分がアジラフェルを大事にしているということが実感できるのがうれしい。それがわかるから、こんなふうに面映ゆくなるのだ。
「食べたら部屋に戻ろう」
「ん…もういい」
「まだあるから明日も食べようね」
アジラフェルは残りの欠片をぽいぽいと自分の口に放り、クロウリーの手を取って立ち上がった。
手を引かれたまま部屋に戻り、すっかり冷えたブランケットに潜り込む。ベッドサイドにはさっきのパックジュースが再び並べて置かれていた。丁寧にも飲みかけのオレンジは一番手前に。
「そういえばそれどうしたんだ?うちにそんなのなかったよな」
「コンビニで買ってきたんだ」
「…わざわざ?」
「わざわざって言うほどでもない、すぐそこだし」
「仕事から帰ってきて行ったんだからわざわざだろ」
「いいから。そんなこと気にしないで」
有無を言わせないとばかりにぽんぽんと肩を撫でられ、クロウリーは仕方なく追及を諦めた。アジラフェルも言っていた通り、もういい大人なんだから口出しするより素直に甘えればいいと頭では思うものの、なかなか上手くは切り替えられないでいる。
「アジラフェル…もういいよ、ほんとにうつっちまうぞ」
「きみが眠るまでいる」
「………」
「だから、眠ったら教えて」
「…ふ」
優しい眼差しに見守られながらクロウリーはゆっくり目を閉じた。
熱でざわつく脚がブランケット越しにゆったりと撫でられ続けるのを、眠りに落ちるまで感じていた。
翌朝クロウリーが目覚めたとき、家の中にアジラフェルの気配は既になかった。時計を見れば納得の時間で、普段と比べればずいぶんな寝坊だ。ただ、そのおかげか体はだいぶ軽くなっていた。
ゆっくりと体を起こすと、ベッドサイドには置いた覚えのない水筒といくつかのメモ書きが追加されているのに気付く。
『行ってきます。am7:26』
『水筒にあったかいココアを入れておきます。気が向いたら飲んで』
『左頬、目尻のあたりにキスをしました。愛してる』
ふ、と自然に頬が緩む。こんなことできるようになったなんて、本当に大人になったんだな、おまえ。
なんだか感動を覚えながら、クロウリーは左頬をそっと撫でた。