本編(翠風)軸で、マリアンヌから教わったおまじないが効いてしまったベレトの話。レト←クロ。
『キルケーの指先』とはまた別軸のお話です。
@Bombwooo
いつから眠れていないのかは、自分でもはっきりとはわからなかった。ただ、身体の重さで、それが続いていることだけはわかっていた。夜明け前に目を開けたとき、瞼の奥が鈍く痛み、肩には力が抜けきらないまま残っている。横になっていた時間は長かったはずなのに、少しも休めた気がしない。
寝台には入ったし、灯りも落とした。目も閉じた。だが、眠気が来るより早く、昨日の軍議でクロードが笑った顔ばかり浮かんだ。いつものように肩をすくめ、心配するほどじゃない、とでも言いたげに口元を上げた顔だ。誰かがいれば、彼はああいう顔をする。兵がいて、仲間がいて、自分が見ているときにも、同じように笑う。
疲れていないはずがなかった。
それでも、彼は疲れているとは言わない。言ったところで何かが変わるわけではないと知っているのかもしれないし、言えば誰かが気にするから口にしないのかもしれない。そこまでは、自分にはわからない。ただ、五年前にはなかったものが、彼の言葉の端や、書類を置く手つきや、軍議のあとに誰も見ていないと思ったときの息の吐き方に混じっているのだけは見える。
自分がいないあいだに、クロードはそれを覚えたのだ。
そう考えると、胸のあたりがざわついた。自分が眠っているあいだにも時間は進み、彼は盟主として立っていた。戻ってきたからといって、その五年を埋められるわけではない。戦場で剣を振るうことはできる。軍議で意見を言うこともできる。彼が示した道に、必要なら力を貸すこともできる。
けれど、自分にできることはそれだけだった。
翌朝。朝食の席で、マリアンヌが何度かこちらを見ていた。
食堂の騒がしさの中で、マリアンヌは皿の端に手を添えたまま、こちらへ視線を向け、すぐに伏せ、また迷うように上げる。急ぎの用ではないらしい。戦況や配置の話なら、もっとまっすぐに言う。そうではないから、彼女はあんなふうに言葉を選んでいるのだろう。
「マリアンヌ」
こちらから呼ぶと、彼女の肩がわずかに跳ねた。驚かせるつもりはなかったが、先に声をかけなければ、ずっと迷っていたかもしれない。
「自分に用があるのか」
「はい。その、お食事中に失礼します」
「構わない」
マリアンヌは膝の上で指を組み直した。言ってよいのか迷いながら、それでも言わずに済ませるには心配が残る、という様子だった。
「最近、先生があまり眠れていないように見えて……違っていたら、すみません」
違ってはいない。ただ、それを正直に言うと、マリアンヌはもっと心配するだろうと思った。だから返事に迷った。迷った時点で、否定にはならなかったのかもしれない。彼女はそれ以上こちらを責めるようなことはせず、手元に目を落とす。
「ヒルダさんから聞いたんです。元気がないときに、気持ちが楽になるおまじないがあるって」
そういえば、彼女はヒルダと親しかったのだったか。しかしその名前が出た途端、素直に受け取ってよいものか迷ってしまった。
ヒルダが持ってくるものは、たいてい誰かを巻き込む。決して、悪意があるわけではない。人をよく見ているし、面倒だと言いながら必要なところでは動く。だが、彼女が楽しそうに持ってくるものに警戒したほうがよいことは、これまでの経験から理解はしていた。
マリアンヌの声には、こちらをからかう響きはなかった。彼女はおそらく、ヒルダから聞いた話をそのまま信じたわけではない。それでも、自分が少しでも眠れるなら、何かできることがあるならと迷った末に、ここまで持ってきてくれたのだと思う。
「不安になったときに、安心できるおまじないです。ヒルダさんは、気休めみたいなものだって言っていました。でも、もし先生がそういうものがお嫌でなければ……」
彼女はそこで言葉を切った。
断ることもできた。まじないの類に頼るほどではないと言うこともできたし、気持ちだけでじゅうぶんだと返すこともできた。実際、マリアンヌがこちらを心配してくれたことだけで、じゅうぶんありがたい。だが、彼女なりの気遣いを、不要だとは言えなかった。
「嫌ではない。よければ、教えてくれないだろうか」
そう答えると、マリアンヌは顔を上げた。ほっとしたようにも、まだ不安そうにも見える。
「ただ、自分はそういったものに詳しくない。どうすればいい」
「ええと、聞いた通りなら……手をこうして、胸の前で一度合わせて、それから、落ち着きたいと思うだけでいいそうです。あの、詳しいことはヒルダさんも知らないみたいで、ほんとうにそれだけで」
マリアンヌは申し訳なさそうに言った。詳しいことはよく知らない。そもそも、ほんとうに効くかどうかもわからない。彼女が知っているのは、ヒルダから聞いた手順と、こちらを心配しているということだけだった。
自分は言われた通り、胸の前で手を合わせた。
食堂のどこにも、クロードの姿は見えない。朝からどこかへ呼ばれているのか、もう食事を済ませたのかもしれない。そう思ったところで、落ち着きたい、と考える前に、昨夜の軍議のあと、書類を抱えて廊下を歩いていた彼の顔が浮かぶ。
誰かに呼ばれて、すぐ笑った顔だった。肩に乗っていたものを、笑う一瞬だけ見えないところへ押しやったように見えた。
手を合わせたまま、息を吸う。
何も起きなかった。
光が見えたわけでも、身体が軽くなったわけでもない。落ち着かなさは、かたちを変えずに残っている。まじないだから、こんなものなのかもしれない。あるいは、自分のやり方が違ったのかもしれない。
マリアンヌが、心配そうにこちらを見ていた。
「どう、ですか」
「よくわからない」
「すみません」
「謝らないでほしい。教えてくれてありがとう」
そう言うと、マリアンヌはようやく小さくうなずいた。それからかすかに微笑んで、席を立った。
自分は合わせていた手を下ろした。
何も変わっていない。少なくとも、いまはそう見えた。食堂の声も、皿の音も、マリアンヌがこちらを気にしていることも、そのままだ。自分の手も、自分のものだった。
ただ、不安になったときに、安心できるおまじないだと、彼女は言っていた。
その日の軍議は、昼を少し過ぎたころに終わった。
地図の上には、動かし終えた駒がまだいくつか残っていた。帝国軍の動き、街道沿いの村に残す兵の数、補給の通る道、夜の見張りをどこへ増やすか。ひとつずつ確かめ、必要なところに印をつけ、最後にクロードが全体を見直してから、ようやく皆が席を立った。
人が出てゆくあいだ、クロードはいつもの調子で声をかけていた。ラファエルには食糧の積み出しを頼み、ローレンツには伝令の文面を確認させ、ヒルダには逃げられる前に物資の帳簿を預けていた。ヒルダがわかりやすく嫌そうな顔をしたのを見て、クロードは笑っていた。いつもの笑い方だった。
それでも、彼が地図の端へ手を置いたとき、指の動きがわずかに遅れた。
誰も気にしなかった。おそらく、気づいた者もいない。クロードはすぐに手を引き、積まれた紙をまとめ、何でもないように次の話へ移っていた。だが、こちらにはその遅れが残った。昨日の夜、廊下で見た顔と同じだった。疲れているものを、笑う一瞬だけ見えないところへ押しやる顔。
自分は何を見ているのだろうと思った。彼が何かを頼めば、応えるつもりでいる。その嘘偽りない気持ちとは裏腹に、クロードがそうして笑うたび、自分がいないあいだに増えたものを、あとからなぞっているだけのような気がした。
皆が出ていき、部屋には自分とクロードだけが残った。まだ卓の上には地図が広がっている。窓から入る光は少し傾いていて、紙の端に影を落としていた。
「先生、悪い。ここの確認だけ付き合ってくれないか。すぐ済むからさ」
クロードはそう言って、こちらへ一枚の紙を差し出した。いつものように軽く聞こえるようにしているのだろう、と思った。そう思った時点で、落ち着かなくなる。
「構わない」
受け取った紙には、夜の見張りの交代と、翌朝に出す伝令の順番が書かれていた。内容を見れば、どこを迷っているのかはすぐにわかる。こちらが指で印を押さえると、クロードは隣に立ち、地図のほうへ身を傾けた。
彼の肩が近い。
近いこと自体は珍しくない。軍議でも戦場でも、クロードは必要ならすぐ隣に立つ。こちらもそれを拒まない。ただ、今日は彼の呼吸がいつもより浅く聞こえた。近いから聞こえるのか、こちらが聞こうとしているから拾ってしまうのかはわからない。
「ここの見張りを一隊減らすと、北側の道が空く。けど、村に残ってる連中を考えると、あんまり見張りを薄くするのもな」
「残したほうがいい」
「だよな。俺もそう思う。だが、そうすると伝令が遅れる」
「村が荒らされるほうが困る。北側は本隊で補える」
「あんたがそう言うなら、ローレンツも文句を言いながら納得するだろ」
クロードは笑った。先ほどと同じように、軽く肩をすくめる。ほんとうに冗談を言っているのかもしれない。何も無理をしていないのかもしれない。自分が勝手に、彼を疲れていることにしたいだけかもしれない。
彼の目元にある翳りを認めた瞬間、手が動いた。
紙を返そうとしていたはずだった。地図の印を指し直すつもりだったのかもしれない。だが実際には、どちらでもなかった。伸びた腕はクロードの肩を越え、彼の背中へ回っていた。もう片方の手も、少し遅れて彼の脇のあたりへ入る。気づいたときには、クロードを抱き締めていた。
クロードの身体が、腕の中で固まった。
「……先生?」
声は近かった。驚いている。そう聞こえた。驚くのは当然だ。軍議のあと、書類の確認をしている途中で、いきなり抱き締められる理由などない。当然、自分にもなかった。
「すまない」
「謝られると、こっちも反応に困るんだが。あんたの具合が悪いのか、それとも俺が何かしたのか、まずそこを教えてくれないか」
「君は何もしていない」
「じゃあ、あんたのほうか」
「自分にもわからない。ただ、離そうとはしている」
どうにか腕を離そうとした。離そうとしたはずなのに、クロードの背中に回した手は動かなかった。外套の布が指の下にある。肩甲骨のあたりが手のひらに触れている。体温が近く、クロードが息を吸ったぶんだけ、腕の中の身体がわずかに動いた。
「気分が悪いかもしれないが、少しだけ我慢してほしい」
「気分は悪くないけどさ。ただ、理由のわからないまま抱き締められて、そのうえ我慢してくれと言われてる状況は、かなりおかしいと思うぞ」
「そうだと思う」
「あんたもそう思ってるなら安心したよ。とりあえず、いったん離れようか」
クロードはそう言いながら、こちらの腕を剥がそうとした。手がこちらの手首にかかる。力は入っている。彼が本気で抜け出そうとしていることはわかった。
その瞬間、自分の指にも力が入った。
「先生、痛い」
クロードの声が跳ねた。
自分はすぐに力を抜こうとした。痛くしたいわけではない。クロードが嫌なら離れるべきだと思った。そう思ったのに、彼がもう一度身を引こうとすると、また腕が勝手に強くなる。背中に回した手が外套ごしに彼を引き寄せ、肩を押さえてしまう。
「痛くしたいわけではない」
「それはわかるんだが、動くと痛いのも事実なんだよな」
「どうすればいい」
「俺は動かない。じっとする。だからあんたも、これ以上力を入れない。まずはそれでいこう」
「わかった」
「……頼んだぜ。俺はまだ話を聞けるが、痛いままだと文句しか出なくなる」
クロードはしばらくこちらの腕を押していたが、やがて息を吐き、力を抜いた。怒っているのか、呆れているのか、痛いから諦めたのか、自分にはわからなかった。
クロードの声にはまだ不満があった。だが、彼はそれ以上こちらを剥がそうとはしなかった。腕の中で、肩に入っていた力が下りてゆく。完全に預けているわけではない。逃げるのをやめただけかもしれない。痛いから動かないだけかもしれない。それでも、こちらの腕の中で固まっていた身体が、ほんのわずかだがこちらへ近づいた。
そこで、ようやく息ができた気分になった。
抱き締めているのは自分のほうなのに、助かったと思った。おかしな話だ。クロードのほうが困っている。痛い思いをしたのも彼だ。それなのに、クロードが抵抗をやめてこちらの腕の中で息を吐いた途端、気分が落ち着いた。
何がよかったのかはわからない。
クロードが逃げなくなったことか。彼の体温が腕の中にあることか。疲れた顔をしていた人が、いまだけは書類も地図も持たずにいることか。
どれも、言葉にしようとすると違う気がした。
手はまだクロードの背中にあった。指を開こうとすると、今度は思った通りに動いた。それからゆっくり腕を下ろすと、クロードの身体が離れる。離れたあとも、手のひらには布の感触が残っていた。
クロードは一歩だけ下がり、痛むらしい脇のあたりを押さえながらこちらを見た。目が合ったあと、彼はすぐに視線を外す。困ったように息を吐き、片手で髪をかき上げた。
「……先生、疲れてるのか?」
「そうなのかもしれない。正直、自分でもよくわからない。痛い思いをさせてしまったことは謝る」
そう言うと、クロードは眉尻を下げた。怒っているなら、すぐ文句を言ったと思う。呆れているなら、もっと軽く返したかもしれない。彼は脇を押さえたまま、こちらを見たり、地図を見たりして、それから短く息を吐いた。
「まあ、次からは先に言ってくれ。抱き締められるにしても、俺にも心の準備ってものがあるからな」
「次があるのか」
「あるかもしれないだろ」
自分は下ろした手を見た。もう、手は勝手に動かない。心も、先ほどより穏やかだった。何が起きたのかはわからない。マリアンヌに教わったまじないのせいなのか、それともべつの何かなのか、判断できるものは何もなかった。
ただ、クロードが疲れた顔で笑ったあと、自分の手が彼へ伸びたことだけは事実だった。
それからも、同じようなことが何度か起きた。
手が動くきっかけも、触れ方も、離れられるまでの長さも、そのたびに違っていた。食堂でクロードが疲れた顔をしていても、周囲に人がいれば何も起きない。軍議の最中、彼が返す言葉を探して紙の端を指で押さえていても、こちらの手は地図の上に置いたままだった。兵や仲間の目があるところでは、身体はきちんと自分のものとして動く。
困るのは、人が引いたあとだった。
軍議が終わり、最後に残った紙をクロードがまとめている。廊下の角で誰かの足音が遠ざかり、部屋の中にクロードと自分だけが残る。そういうときに限って、彼はいつもの調子を崩さずに明日の話をする。軍の疲弊や損耗、同盟諸侯へ出す手紙。どれも必要な話だった。自分も聞く。答えも返す。けれど、クロードが話しながら目をそらし、まとめた紙を持つ指に力を込めると、そちらばかり見てしまう。
役に立てているのか、と考えるのはそういうときだった。
彼が笑って済ませようとするものに対して、自分が差し出せるものはすぐには出てこない。五年も不在にしていたことを謝ったところで、過ぎた時間は戻らない。戻らないとわかっているのに、クロードが紙を置く手つきを見ていると、言葉より先に、何かをしなければならない気がした。
その何かが言葉になる前に、手が動く。
二度目は、抱き締めたあと、背中を撫でていた。
クロードはそのとき、最初ほど大きくは驚かなかった。こちらの腕が背中に回った瞬間、彼の肩はしっかりこわばったし、紙を持っていた手も止まった。ただ、声を荒げる前に、前回の痛みを思い出したようだった。
「……先生、またか。いや、またかって言い方もどうかと思うが、俺は今回も何かやった覚えはないぞ」
「君は何もしていない」
「こうなってる理由もわからないんだろ」
「わからない。離れようとはしている」
「なら、俺は動かない。前に決めた通りだ。あんたも、痛くなるほど力は入れない。それでいいな」
「ああ」
クロードは紙を卓の上へ置いた。抵抗しないと決めたのか、痛いのが嫌だっただけなのかはわからない。彼の腕は身体の横で止まり、こちらの手を剥がそうとはしなかった。肩のこわばりが抜けるまでには時間がかかったし、息も最初は浅かった。
背中に回した手は、ただ抱き締めているだけでは満足できなかったらしい。肩甲骨のあたりをゆっくり撫でている。そうしている、と気づいたのは、クロードが小さく息を止めたからだった。
「先生、背中」
「痛いか」
「痛くはない。痛くはないが、俺はどうして背中を撫でられているんだ」
「すまない。自分にも、これが何なのかわからない」
「そう素直に謝られると、こっちも怒りどころを見失うんだよなあ」
謝っても、手は止まらなかった。傷つけたいわけではない。無理に引き寄せたいわけでもない。ただ、クロードの背中を撫でていると、指先から余計な力が抜けてゆく。先ほどまで紙を持つ手に力を入れていた彼が、いまは書類も地図も持たず、自分の腕の中にいる。そのことを確かめるように、手が同じところを行き来する。
彼はしばらく黙っていた。視線は床のあたりをあてもなく泳いでいる。呆れているようにも見えたが、指先が背中を滑るたび、彼の呼吸が少しずつ深くなっていくのがわかる。
しばらくして、彼の息がひときわ長く抜けた。
そのあと、ようやく腕が離れた。背中に触れていた手を下ろしても、そこにいた身体の温度が残っている。何がきっかけで離れられたのかはわからない。クロードが動かずにいてくれたからなのか、背中を撫でていたからなのか、さっきの息でこちらまで力が抜けたからなのか、ひとつには決められなかった。
三度目は、頭だった。
夜ではなかった。昼の光が残る時間で、窓の外には訓練場の声も聞こえていた。クロードは人を送り出したあと、扉が閉まるなり、椅子の背もたれに片手を置いた。ほんの短いあいだだった。すぐに姿勢を戻し、こちらを見て笑った。
「あー、悪い。いまの話、どこまで聞いてた?」
「全部聞いていた」
「なら助かる。俺、途中で自分が何を言ってるのかわからなくなってきてさ。寝不足かな」
クロードが自分で寝不足と言った。
珍しいことではないのかもしれない。冗談のようにしてしまえば、いくらでも口にできる言葉なのだろう。だが、その言葉を聞いた瞬間、昨日までより強く手が動いた。抱き締めるより先に、手が彼の頭へ行っていた。
髪に触れると、彼はぴたりと動きを止めた。突然のことにどう振る舞えばいいのかわからず、身動きが取れなくなっているように見えた。
「……先生?」
止めようとはした。だが、手はクロードの髪を撫でていた。額に落ちかけた髪を指で分け、頭のかたちを確かめるように、ゆっくり動く。風で乱れた髪を整えるのとは違う。傷がないかを見る手つきでもない。どう見ても、撫でている。
「すまない」
「念のため確認するが、俺を子ども扱いしてるわけじゃないよな」
「していない」
「なら、この手は何だ」
「止めようとはしている」
「止まってないぞ」
クロードは顔をそらした。彼の喉仏が小さく上下するのが見えた。こちらの手を払おうとはしない。痛い思いを避けるためかもしれないし、前の二回で、抵抗しなければすぐ終わると覚えたのかもしれない。
頭を撫でると、背中を撫でたときより早く手から力が抜けた。彼の髪が指のあいだを通り、彼が抵抗しないでそこにいる。それだけで、さっきまで入っていた力が少しずつ抜けてゆく。
「……先生、そろそろどうだ」
彼の声は、最初より低かった。怒っている声ではない。困っている声だった。そう聞こえた。
「もう少しで離れられる気がする」
「希望が見えてきたな。……それはそれとして、俺の髪がだいぶひどいことになってないか」
「あとで直す」
「あんたが直すのか」
「こうなったのは自分のせいだから」
クロードは目をそらしたまま、何か言いかけてやめた。そこへもう一度手が動き、髪を撫でると、彼は小さく息を吐いた。
その吐息を聞いて、やっと手が離れた。けれど、すぐには下ろせなかった。もう手は言うことを聞く。いまなら、何もなかったように話へ戻れる。でも、彼の髪を乱れたままにしておくのは違うと思った。自分が乱したからだ。そう言い訳をして、指で髪を整える。額にかかった毛先を戻し、跳ねたところを押さえる。直しているあいだ、彼はずっと大人しかった。
四度目は、髪を撫でるというより、かき混ぜるように乱していた。
クロードが抗議したので、それはわかった。自分では撫でているつもりだった。だが、彼の髪は手の下でひどく乱れ、彼は途中から半ば諦めたように、抵抗を見せなかった。
「先生、これは落ち着かせてるのか、荒らしてるのか、どっちなんだ」
「落ち着いてほしいと思っている」
「俺に?」
そう聞かれて、すぐには答えられなかった。
クロードも、自分で口にした言葉の行き先に困ったようだった。乱れた前髪の隙間から見える目は、こちらではなく卓の上の地図へ落ちている。こちらの手は彼の髪に入ったまま止まっていたが、彼はその手を払わなかった。
指の力を抜くと、彼の首筋から少しだけこわばりが消えた。こちらへ寄りかかってきたわけではない。肩が触れるほどでもない。ただ、手の下にあった身体が、逃げるための力を抜いたように見えた。逃げようと思えば、身を引くことはできたはずだった。少なくとも、こちらの指を髪から外すくらいはできたはずだ。
それでも彼は動かなかった。
痛みを避けたいだけかもしれない。抵抗するのが面倒になっただけかもしれない。けれど、こちらが伸ばした手を、彼が払いのけずにいる。そのことを手のひらで受け取った瞬間、自分の手も止まった。
髪から手を下ろせば、そこで終わる。撫で続ける理由はない。止める理由ならいくらでもある。それでも、乱れた髪のあいだに指を置いたまま、自分はもう少しだけ彼の呼吸を聞いていた。
クロードは、文句は言う。こちらの手が動けば眉を寄せるし、髪の中に指が潜れば、またか、と言いたげに息を吐く。だが最初のころのように、すぐこちらの腕を剥がそうとはしなかった。手首にかかる力も弱くなった。単に慣れてしまったのか、それともべつの理由があるのかはわからない。わからないまま、彼が動かずにいる時間だけが少しずつ長くなる。
こちらが髪に触れても、彼は目をそらしたまま耐えるようにしている。前髪を乱され、頭を撫でられ、整えたはずの髪をまたかき混ぜられても、口では抗議するのに、こちらの手を払う動きは前より遅い。遅い、というより、一度考えてからやめているように見えた。
「先生、これ、もう見張りの話でも伝令の話でもないよな」
クロードはそう言って、卓の上に置いていた手を握ったり開いたりした。逃げる準備なのか、何か言い返す言葉を探しているのかはわからない。こちらの手は、彼の髪に入ったまま止まっていた。
「そうだな」
「認められると余計に困るんだが。あんた、俺を落ち着かせたいんだったか」
「そう、なのだろうか」
「そこを俺に聞かれても困るんだよな」
クロードは笑おうとしたのだと思う。だが、唇の端がいつもより、うまく上がらなかった。こちらを見ないまま、乱れた髪を自分で直そうとして、途中で手を止める。自分の指がまだそこにあったからだ。
その手をどかせばよかった。こちらが乱したものをこちらで直すと言い訳しても、もうじゅうぶんなほど彼に触れていた。これ以上続ける理由はない。そう思っているのに、彼がこちらの手を払わずにいるせいで、指は髪のあいだに残ったままだった。
「クロード」
「何だよ」
「君が困っているのはわかっている」
「わかってるなら、なおさらさっさと手を下ろすところだと思うぜ。……まあ、そうならないから、俺が困ってるんだよな」
相変わらず文句は言う。けれど、卓の縁に置いた手は動かない。こちらの手を退けるでもなく、身を引くでもなく、ただ乱れた前髪の隙間から地図のほうを見ている。
その沈黙を、受け取ってよいものなのかはわからなかった。
こちらがほんとうに困っていると理解しているから、どう扱えばいいのかわからないだけかもしれない。あるいは、ほんの少しだけ、このままでいることを赦してくれているのかもしれない。それでも、クロードはそこにいた。自分の手の下で、髪を乱されたまま、逃げずにいる。
その事実を認めると、手で触れているだけでは足りなくなった。
何が足りないのかはわからない。髪には触れている。頭のかたちも、乱れた前髪も、こちらが通した指の跡もわかる。彼がそこにいることも、手のひらでわかる。それでも、クロードが目をそらしたまま逃げないでいるのを見ていると、指先で確かめるだけでは足りなかった。
顔が近づいた。
クロードがはっきり息を止めた。口元を覆っていた手が、そのまま目元まで上がる。こちらを見たくないのか、見られたくないのかはわからない。ただ、指の隙間から見える耳の先が赤かった。
「先生、待て。……いや、待てって言って止まれるなら、もう止まってるか」
声は手のひらにこもっていた。いつものように流そうとして、うまくいかなかった声だった。
クロードは逃げなかった。
卓の縁に置いた手には力が入っている。顔は隠している。耳は赤い。それでも足は動かず、肩もこちらを避けるほうへは引かれなかった。こちらが乱れた髪へ頬を寄せるまで、彼は顔を隠したまま、じっとしていた。
髪が頬に触れた。少し遅れて、こめかみのあたりの体温が伝わる。撫でるより近い。抱き締めるより、どこが触れているのかがはっきりわかる。こちらの頬が乱れた髪を押し、ゆっくり擦り寄せると、クロードの肩が小さく跳ねた。
「……何なんだよ、いったい」
怒っているわけではなさそうだった。クロードはまだ顔を見せようとしない。こちらを押し返す手はない。身を引く動きもない。ただ、息だけが一度止まり、それから細く吐かれた。
その息を聞いて、ようやく頬が離れた。
けれど、すぐには下がれなかった。顔を隠したままのクロードがそこにいて、乱れた髪と赤い耳だけをこちらへ見せている。そのまま放っておくのは違う気がした。自分は彼の髪へもう一度手を伸ばし、頬を寄せたところをなぞるように整えた。
クロードが、指の隙間からこちらを見た。目が合う前に、彼はすぐそらした。嫌だとは言わない。だが、平気でもなさそうだった。
「クロード」
「……なんだよ」
「もう離れられる」
「それはよかったな」
言葉だけはいつもの調子に戻そうとしていた。だが、彼はまだ顔を半分隠したままで、こちらをまっすぐ見なかった。自分が一歩下がるまで、クロードは動かない。こちらが離れてはじめて、彼は顔を覆っていた手を下ろし、乱れた髪を自分で押さえた。
押さえたところで、さっきこちらが撫でたせいで、余計にまとまらなくなっていた。それを見て、もう一度手を伸ばしかける。今度は止まった。止まれたことにほっとしたのか、止まったことが惜しかったのか、そこまではまだわからなかった。
アロイスの名を出したのは、それから数日経ってからのことだった。
その日は、頬を寄せるところまではいかなかった。髪に触れて、乱して、こちらが我に返るより先にクロードが机の端を掴み、顔を伏せた。彼は文句を言ったが、こちらの手を払いはしなかった。こちらが離れられるまで待ち、手が下りたあとで、乱れた髪を自分で押さえている。その様子を見ていると、迷惑をかけていることだけは疑いようがなかった。
「迷惑なら、他の人でも試してみる」
そう言うと、クロードは髪を押さえたままこちらを見た。
「他って誰だよ」
「アロイスとか」
クロードはすぐには何も言わなかった。卓の上に置いた指が止まり、乱れた前髪の下で目だけがこちらから外れる。笑うか、呆れるか、いつものようにそれらしい返しをするかと思ったが、彼は口を開いたまま一度止まった。
「絶妙な人選だな。でも、」
そこで言葉が切れた。
アロイスなら笑ってくれるかもしれない。気にするなと大きな声で言ってくれるかもしれない。抱き締めるくらいなら、娘の小さいころを思い出したとでも言って受け止めてくれるかもしれない。そういう人だと自分は思っていたし、クロードもそれはわかっているはずだった。
けれど、クロードはその先を言わなかった。
「でも?」
「いや。あんたがほんとうにアロイスさん相手にこれをやるのかと思ったら、ちょっと複雑だな。絵面も含めて」
「君が迷惑なら、そのほうがいいだろう」
「だから、そういう顔するなって。俺が迷惑そうにしたのは認めるけど、じゃあ他で試してくるかって言われると、それはそれで話が違ってくる」
クロードはそこまで言って、言いすぎたと思ったのか口を閉じた。こちらが見ていると、彼は視線を外し、わざとらしく肩をすくめる。けれど、その動きはいつもより半端だった。何でもないことにしたいのに、言葉の置き場を決め損ねたように見えた。
「……べつに、先生をひとり占めしてると思えば、悪い気はしないしさ」
冗談のかたちをしていた。
それはわかった。クロードはそういう言い方をする。困ったとき、踏み込まれそうなとき、こちらが本気にしてよいのかわからなくなる言葉を選んで、笑って流そうとする。だから、その言葉もいつものように聞けばよかった。
けれど、すぐにはできなかった。
ひとり占め、という言葉が、耳に残った。クロードが何を隠すためにそれを言ったのかはわからない。彼は視線を地図へ落とし、指先で紙の角を押さえている。言ったあとで困っているようにも見えたし、こちらが何も返さないせいで居心地が悪くなったようにも見えた。
「……そうか」
「そこまで真剣に受け止めるなよ。いまのは、他で試すくらいなら俺でいいって話で」
「君はそれでいいのか」
「いいよ。こうやってはっきり言わされると、負けた気分になるけどな」
クロードはそう言って、今度は少し笑った。こちらをまっすぐ見ない笑いだった。困っているくせに、他の人のところへ行くなとは言えず、それでも行かれるのは面白くない。そう見えただけで、本人がそう思っているかどうかはわからない。
ただ、その日から、自分は他の人で試すとは言わなくなった。
同じようなことは、その後も起きた。抱き締めるところまで行く日もあれば、髪に触れただけで済む日もあった。クロードが疲れた顔で笑い、こちらがそれを見てしまうと、手はまだ動く。ただ、最初のころのように、強く引き寄せることは減っていった。
クロードが前より早く抵抗をやめるようになったからかもしれない。こちらの腕が動いた瞬間に身を固くするのではなく、先に息を吐くことが増えた。手首を掴まれても、こちらが力を入れる前に彼が動きを止める。背中へ回しかけた手が、肩に触れるだけで済むこともあった。髪を乱してから慌てて直すのではなく、最初から毛先を整えるだけで終わることもあった。
こちらも、彼の肩に入る力や、息が止まる瞬間を気にする余裕もできた。止まれなくても、前ほど強くは掴まない。クロードがこちらの手を払わず、目だけそらして待っていると、手が動いても、そこから先へ行かずに済むときがあった。
まじないの効果が弱まったからなのか、自分が眠れるようになったからなのか、クロードが受け方を変えたからなのかはわからない。ひとつには決められなかった。ただ、彼がこちらのそばで息を吐き、動かないでいてくれると、自分は安心できた。
こうした変化は、幸いなことに誰にも気取られなかった。
ヒルダにも、マリアンヌにも、アロイスにも、ほかの仲間にも知られないまま、何も起きない日が増えていった。クロードが疲れた顔で笑っても、自分の手はすぐには動かない。紙を持つ指に力が入っても、見ているだけで済むことがある。気にならないわけではなかった。五年いなかったことも、彼が背負うものも、眠れない夜も、消えたわけではない。
それでも、クロードが頼んでくる。自分が答える。彼が息を吐いて、書類を置き、また次の話をする。その繰り返しの中で、手が動く前に、言葉が間に合うことが増えた。
何も起きない日が続いたあとで、クロードがそれを口にした。
「最近、落ち着いたんだな」
見張りの交代を確認し終えた夜だった。廊下の端には灯りがひとつだけ残り、窓の外から遠くの声が聞こえている。クロードは壁に軽く背を預け、こちらを見るでもなく、月の出ていない空のほうへ顔を向けていた。
「そうだな」
答えると、彼は何とも言えない顔をした。
喜んでいるのとは違った。ほっとしているのとも違う。よかったな、と笑うには口元が動かず、困ったと言うには目がこちらを責めていない。手が勝手に動かなくなったことを、ただ平和になったのだとは受け取っていないように見えた。
その顔を見たら、思わず手が伸びた。
以前のように、気づいたときにはもう抱き締めていた、という動き方ではなかった。クロードの顔を見て、それから手が伸びた。強く抱き締めるわけでも、髪を乱すわけでもない。ただ、彼の頬へ手を添えようとしていた。触れる直前、彼がこちらを見た。驚いたように目を開き、それからすぐ、困ったように細める。
「先生」
呼ばれても、手はすぐには離れなかった。頬に触れるか触れないかのところで止まったまま、自分はクロードを見ていた。いまの彼には必要だと思った。何が、とは言えなかった。撫でることなのか、触れることなのか、ただこちらが手を伸ばすことなのか、自分にもわからない。
「わかっててやってんのか」
クロードの声は小さかった。責める声ではない。けれど、何かを見られたような、言わずにいたものをこちらの手に拾われたような声だった。
彼はこちらを見たあと、すぐに目をそらす。触れるなとは言わない。手を下ろせとも言わない。だから、自分は指先で彼の髪を一度だけ整えた。頬には触れない。けれど、耳の横の髪を戻すあいだ、クロードは動かなかった。
欲しいときに与えられている、という顔をしているのかもしれないと思った。
単に、そう見えただけだ。彼がほんとうにそう思ったかはわからない。それでも、彼はしばらく黙っていて、こちらの手が離れてから、ようやく息を吐いた。
「何でもない顔して、そういうことするなよ」
「……君に対して、何もないわけではない」
クロードは目を丸くしたのち、今度は少しだけ笑った。さっきよりはいつもの顔に近かった。だが、完全には戻っていない。眦に、まだ言い切れないものが残っている。
それ以上は聞かなかった。
手はもう勝手に伸びない。伸ばしたいと思ったら伸びるのだと、そのとき初めてわかった。彼もそれを見ていた。見ていて、何も言わなかった。
廊下の向こうで、誰かの足音がした。
クロードが先に歩き出した。自分もそのあとを追う。手は下ろしたままだった。
それでも、彼の横顔が廊下の灯りを過ぎるたび、どうしても指が動きそうになるのだけれど。