前田藤四郎と主をメインにした話は初めてですね
『玉手箱』https://privatter.net/p/11910341前提です。
鶴丸のやらかしに関しては本丸創世初期の《現世にて警護の任》https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=25425887です。
@fu_re_re_ra
《我らの姫君へ健やかで愛おしい花湯の日々を》
「主君、昨日はお疲れでしたでしょう。朝湯を用意致しました。朝餉の前に良ければお入りください」
夜明けとともに夜通し警護していた不寝番と交代した前田が、目覚めた主人にそう伝えた。

まだ寝ぼけ眼な主人が湯船に浸かると、気持ち良さそうな声が聞こえてくる。
前田が「湯加減はいかがですか」と番をしながら外から声をかけると、主人はくすくすと朗らかな笑い声を上げた。
ふふ、ふふふ。
くすぐったい。お姫様みたい。

などと前田の大事な姫君が笑うので、たかだか湯を張った程度でそのように喜ばれては、もっと丁重にもてなさなければ気が済まないというもの。
『みたい』などではなく、正真正銘貴女は僕らの大切な主君であり姫君なのだと、どうやら自覚の薄い大切な姫に理解して頂かなくては。
────そんな出来事があったのは、僕がこの本丸に顕現してまもない頃だったと記憶しています。

早くから少数精鋭の仕組みを取ってきたこの本丸では、ようやく人手に余裕ができ始めたのが、ちょうど古参に次いで自分や平野たち粟田口の短刀が同時に多く顕現した頃でした。


たった一振りしか現世で主君にお仕え出来ない関係上、初期刀の加州さんを始めとした古参打刀の育成は急務でした。
単騎特化の戦闘型として一秒でも早く限界まで鍛え上げ、最良のコンディションで現世へ送り出すこと。

それがこの本丸の最優先任務であり、当時はそれを他の全員が本丸を挙げて支援する体制を取っていました。
主君より名代の役目を与えられた初鍛刀の鶴丸さんが差配を振り、主人不在の中、寸暇を惜しんで出陣を、遠征を、内番を、内務を回す日々。
常に余裕の無い中ではありましたが、けれどもたったお一人で現世にいらっしゃる主君が、今日にも歴史修正主義者や時間遡行軍の襲撃を受けるかもしれないことを思えば、決して手抜かりがあってはなりません。
主君の一秒でも早い安全確保を最上位に置く鶴丸さんの差配は非常に頼もしく、合理的で、同時に厳しいものでした。まだまだ顕現して日が浅く未熟な自分達にとっては付いていくだけで精一杯だった部分は否めません。

そんな自分たちを、けれども鶴丸さんや燭台切さんたち古参の方々は常に気にかけ、あたたかく励まし鼓舞してくださいました。
それを享受するばかりだったあの頃の自分たちは、思い返すだにまだまだ未熟だったのです。

右から左へと慌ただしく日々が流れる中でした。
だからこそ、特に主人の近くでお仕えする事こそ旨とする自分たち懐刀は。
限られた時間の中、主君の身の回りを事細かに整えたくて整えたくて仕方がありませんでした。
ですから、腰を据えて主君の身の回りの細々としたお世話にも手を回す余裕がようやくできたのが、ちょうどあの頃だったと記憶しています。
主君は、自分の身の回りのことは、いささかしっかりしすぎなほどに己で完結してしまう方でした。
僕たち短刀が寝床を整えるまでもなく、己のことは己で終わらせておしまいになさるので、こちらが慌ただしくしているとせっかくのお世話をさせていただく機会を寸でで逃してしまうことは度々ありました。

いささか合理主義が過ぎる部分がおありの主君は、日頃からあまり己の身に手をかけているとは言い難く、出会うまで『せっかくの綺麗な髪に香油どころかリンスの一つも使わず洗いざらしだった』と加州さんが嘆いていらっしゃいました。
当時、戦闘特化の打刀の筆頭として、常に戦場を駆けずり回っていらっしゃった加州さんは、けれど主君のそんな清貧が過ぎる気性を常に気にかけていらっしゃって、自分が側にいられない分近くで主を大事にしてあげて欲しい、とたびたび仰っていました。
今思えば、加州さんは勘付いていらっしゃったのでしょう。
主君は本当に、ごくごくささやかなお仕えにも、ひどく嬉しそうにされていました。

後に肥前さん達政府刀が赴任し、事が起こるまで。
主君があんなにもささやかな日常に幸せそうになさる本当の理由を、僕らは未熟にも気付かずにおりました。
主君は、関わりの中でどうしても察されてしまった一部の刀には固く口止めをして、己が幼少期に置かれた過酷な環境について隠しておいででした。

恐らくは、湯船を身内に用意してもらったことなど一度も無く、だからあれほどまでに泣きそうなほど蕩けたようなお声をされていたのでしょう。

極寒の中で冷水を浴びせられることも、急に熱湯を掛けられることもなく、ただ湯を与えられることが、どれほど幸福か、などと。
そんなふうに幸せを噛み締めさせてしまう前に、大事な主君のためにできることがもっとあったはずなのです。

そう懺悔する前田の眼前には、ズタズタ、としか言いようがないほど傷だらけの背中がある。

加州がその身に引き受けた形代傷だった。
主人の心の傷を具現化したその傷を、清光は受け止めて、その身に移し、写した。
だからこれは、前田のどうしようもない後悔で、懺悔で、決意表明だった。
温泉の沸く大浴場で、前田と清光は並んでいた。
この数日、願い出て背中を流させてもらった刀は自分だけに留まらず、だから背中を流される間、清光は慣れた様子でじっとしていた。
近くで見れば見るほど痛ましく
触れれば激痛が伝わってくるかのようだった。

「こんなに…」
一度や二度恐ろしい目に遭うだけでは到底形成されないような、あまりに無惨な傷跡の数々だった。
単なる暴力ではない。誰かが執拗に悪意を持って痛め付けなければこのような傷にはならない、と確信できるようなむごい傷ばかり。
あの日も、あの日も、あの日も。
これを抱えて笑っていたはずの主君の
蕩けるように幸せそうな声が耳を離れない。
『嬉しい。ほんとうに、ほんとうに嬉しいの。ありがとう』
いつもそう笑っていらっしゃった主君の言葉の意味を、きっと前田は理解できていなかった。
絶句して俯く前田に、清光はゆっくりと天蓋を仰ぐと、湯気の揺れる中、ゆったりと息を吸ってから「ねえ」と背中越しに前田へ声を掛けた。
「ね、よく見て。────酷い傷だけどさ、消えかけてるやつもあるんだ」
俺たちのしてきたこと、全部が無駄だったなんて思わない。
前田は顔を上げた。清光の指す多数の傷の下には、確かによくよく目を凝らせば、薄く筆を払ったように消えかけているものもある。
「あるじ、いつも喜んでたじゃん。桜の花湯も、重陽の菊湯も、冬至の柚子湯も、桃の節句の桃の葉だって。あー、ほら、鶴丸が福島の薔薇貰ってやった薔薇風呂もあったっけ。浴室ぜんぶ埋まっていくらなんでもやりすぎって怒られてたなー。あいつ加減知らねえんだもんよ」
軽やかに肩をすくめた清光が、穏やかに重ねる、優しい声。
「嬉しい、っていつも言ってたよ。お姫様になったみたいだ、なんて笑ってさ」
「俺さ、この傷もらったからって訳じゃないけど、少しだけ分かる気がするんだよね。生まれが過酷だと、どんなふうに世界が見えるかって」
「眩しいんだ。暗いところにいた分、余計にきらきらして見える。それを不幸だと思うこともそりゃあるけど、誰にも負けないぐらい眩しさを知れた幸運を噛みしめる夜だってある」
だから、大事なものにはきらきら笑っててほしいんだよ
きっと、あるじもさ
「だから、そんな顔しないでさ。笑っててあげてよ。俺たちでもーーっと幸せに愛してあげれば、いつか薄くなってくよ。きっと」
そう、ひときわ柔らかい声で未来を語る加州さんの、優しくて大きな背中は。
強くて、本当に強くて、何よりあたたかいものでした。
「な」
「……っ、はい!」
僕はぐしゅ、と腕で目元を拭って、主君が大好きだといつも仰ってくださる微笑みを浮かべました。
そうです、僕らは。この本丸の刀たちは皆。
始まりの一振りの、この傷だらけの大きな背中を
迷わず、見失わずに、付いていくのです
主君と共に。
《我らの姫君へ健やかで愛おしい花湯の日々を》
《こぼれ話:薔薇風呂の回》
この前は鶴丸が薔薇の花に埋め尽くされた花湯を用意して、福島と相談して主人を驚かせた。
彼女はすごくすごくびっくりして、外にいる前田に喜びの声を上げた。そんな主に、前田は
「福島さんが喜びますね」
と優しく微笑んだ。
「ちなみに、どこぞの不届者がまた『驚く顔が直に見たい』などと言い出しては困りますので、総出で見張って大広間に縛り上げておきましたのでご心配なく」
「鶴るん…!」
彼女はあまりにも不憫な初鍛刀に声を上げて笑ってしまった。
適当な理由で主人を騙くらかして何度も浴室に侵入しては湯船に浸かる主の髪を楽しそうに洗ってやっていた、などという大前科があるためである。
溺れるほどの薔薇に包まれて湯に浸かった彼女が、心地良さそうにしながら、はわーといつまでもいつまでも感動している。
「わ、わ〜、すっごく良い香り、くらくらするぐらい。嬉しい。嬉しいなあ。あ、でも、せっかくのお花、一回で終わっちゃうなんてもったいないな」
「後ほど回収してポプリにするそうですよ。次にご帰還される頃には、枕元にご用意しますね」
「わあっ、ほんと!? 嬉しい! 嬉しいなあ!」
蕩けるような幸せそうな笑顔。
浴室の外で見張りをする前田には直接見えないが、嬉しげなその声で目に浮かぶようだった。
ちなみに、長湯の彼女が花の香りを纏わせたまますっかり湯から上がるまで、きっちりと大広間で縛り上げられたままだった鶴丸国永は、逆さ吊りのまま「そりゃないぜ〜!」と見張りの連中に訴えていたが、当然の如く1ミリたりと情状酌量されなかったという。