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湖畔の兄弟

全体公開 2 25 10938文字
2026-06-10 22:25:48

おおしずきよ
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Posted by @shigsp

「弟は幽霊だなんて云うんだ――
 と、男は云った。大崎は「はあ、」と相槌を打つ。おおよそ依頼人に向ける態度とは思われなかったが、大崎は少少、いや大分辟易としていたのである。目の前の男は、大崎の気の入らない相槌など気にならないらしく、しゃべりにしゃべりどおしだ。一応、自身が多言家であると自覚があり、気づくと軌道修正するようだが、直した端から又話が飛ぶ。大崎は男の顔から視線を外し、珈琲の隣に置いてある名刺に、目を落とした。
 ――台場建設 常務取締役 台場佐清。
 それが彼の名であり、肩書だった。それが大仰に見えるのは、彼が幾分若見えすることと、多言癖のせいであろう。今年で二十九と云った彼の面差しは、二十二の大崎とさほど変わりない。
「聞いてる? 大崎君」
 親しげに、佐清は大崎の顔を覗き込んだ。
「聞いています」
「そりゃ良かった! 無視されるほど辛い事もないからな」
 溌剌として佐清は笑った。
 饒舌に語りぬいた佐清の談を、簡潔にまとめるとこうである――
 場所は長野、軽井沢。台場家の所有する別荘が、今回の依頼の発端だった。その別荘で奇妙なことが起きているのだと云う。というのは、どうも誰かが棲みついているのではないか、と佐清は疑っている。時折別荘へ赴くのだが、微妙に別荘にあるものの配置が変わっていたり、物が無くなっていたりする。しかし佐清たちに全く心当たりはない。そのため、誰かが忍び込んでいるのではないかと佐清は考えていた。そしてそれが思い違いでなく事実なら、犯人を突き止めて欲しい、というのが彼の依頼である。
 その別荘というのは、管理人というものはいないが、佐清の弟が時時出入りしている。なんでも、別荘の一室をアトリエとして提供しているのだとか(画家なのだと、佐清はうれしそうに大崎に教えた)。当然ながら彼も配置替えや物失せに心当たりはなく、しかし佐清ほど深刻がってはいない。それで、先の談の「弟は幽霊だなんて云うんだ――」である。
「幽霊ですか」
「大崎君はそういうの信じるかい?」
「今のところは信じていません」
「それじゃあ俺とおんなじだ。いや、弟だって信じちゃいないよ。ただ、あいつは俺をすぐに揶揄うからさ」
「兎も角、弟さんは台場さんほど危機感を持っていないと」
 そこで、佐清ははじめて不満そうな顔をした。何か失言があったかと思い返しても心当たりはない。大崎がただ見つめ返すと、佐清は首を傾げた。
「その台場さんっていうの、なんだか寂しいな」
「は、」
「名前で呼んでくれ。あ、いや、”きよ”でいいよ」
  佐清は身を倒し、ローテーブルに頬杖をつくようにして少し身を乗り出しながら、目を細めてほほ笑んだ。
「仲のいいやつはみんな俺をそう呼ぶ。君とも仲良くなりたい」
……遠慮しておきます」
「ええっ!」佐清は本当に驚いたような声を上げた。「まいった、振られちゃった」
………
「さびしいや。振られるのって」
 相手の手を掴んで、自分の懐にむりやり突っ込むような距離の詰め方に、大崎は幾分か身を正して跳ねのけた。佐清は、本当に少し寂しそうに笑っている。これでは絆される者もいよう。大崎は目線を落として珈琲を一口呑んでから、口を開いた。
……話を戻しますが。具体的にどのような変化があるのか知りたいですね」
「ああ、それね。いや、俺もいくつかは知ってるけど、あいにく住んでるわけじゃないからな――それだったら、静馬の方がよく知ってるだろう。近頃は家よりアトリエにいる時の方が多いんだ」
「静馬さんというのは、画家の弟さんですか」
「そう。かわいいよ」
 年の離れた弟に向けるような云い方だった。しかし、画家として大成しているのであれば、佐清とそう歳も離れていないように思える。年齢を聞くと、思った通り佐清のひとつ下だった。
「電話して聞くか? でもあいつ、一度寝ると起きないからな。ていうか、起きてるかな――
 大崎はちらと壁にかかっている時計を見た。現在は午後三時。平均的な就寝時刻とは程遠い。まあ、会社勤めとはまた違った生活様式があるのだろう――と大崎は思い直した。
「自分は出直しても構いませんが」
「いや、できるだけ早急に片づけたいんだ。だって、事実なら不法侵入者があすこをうろうろしてるってことだろ? うっかり静馬が出くわしてぐっさりやられでもしたら、俺、生きていけないよ」
……そうですか」
 ではどうするのだろう。大崎は代案も思いつかず、佐清を眺めた。彼は腕を組んでううんと唸っていたが、暫くすると、如何にも名案を思い付いたという顔で、両手を鳴らした。
「そうだ! こっちから行けばいいんだっ」
……え?」
「そしたらあいつが寝ていても起こせるし、実際の別荘の感じを君に見てもらえるし、一石二鳥じゃあないかっ?」
「あの……軽井沢ですよね? これからですか?」
「君がよければ。俺としてはそれが最善だと思う」
 兎も角すぐに解決したいらしい。大崎は暫く口を噤んでいたが、やがて頷いた。
「一度上司に確認してきてもいいでしょうか、」
「ああ、勿論! なんなら俺が説得してもいい」
「それは、結構です」
 大崎は立ち上がり、カフェの電話を借りて新木場探偵社に電話をかけた。新木場は事務所におり、彼が電話を受けた。大崎の話を聞いて困惑していたが、「君が良いと思うのなら、良いでしょう」と云った。それで大崎は急遽軽井沢行きを決め、電話を切った。
「どうだったっ?」
「許可をもらいました」
「よし行こう、すぐ行こう!」
 佐清はもたもたしていると大崎が気を変えると思っているのか、大急ぎで伝票を掴み、会計をしに行った。大崎は自分の分まで払わせたことに少し遅れて気が付いたが、なにぶん佐清は早かった。大崎は諦めて後を追いかける。佐清は車で来ていたらしく、このまま軽井沢に行こうと云った。勧められるがままに助手席に乗った大崎を、彼は嬉しそうに見た。
「妻は色が派手だと云って乗りたがらないんだ。息子ははしゃぐけど、もう親父と遊びに出かけるより友だちと遊ぶほうが楽しいらしくてね、久しぶりに隣に誰かを乗せたよ。それが君でよかった」
 佐清は横目で大崎を見て、うっそりと唇の端を持ち上げた。彼は大崎と同じ赤い眼をしている。それが、目の縁に滲んで、篭絡されるような心地にさせるまなざしだった。
……そうですか」
 大崎は返答に困り、独のない相槌だけを打った。
 車はまもなく車道に出て、その間も佐清はしゃべりどおしで、大崎はただ頷いたり、時どき返事をしたりするのみだった。先ほどは辟易としたものだが、長時間二人きりでいることを考えると、沈黙より無為な雑談が続く事のほうが気楽であると大崎ははじめて知る。
 長野県に入ってから、不意に佐清は声を落として云った。
「俺と静馬は、腹違いの兄弟なんだ。あいつは台場の人間でもない。俺には関係ない事だけどね」
 黙っている大崎を横目で見、佐清は気を遣わせないようにか、笑って云った。
「いちおう云っておこうと思ってさ」
「別荘は、台場の所有だと聞きましたが」
「そう。別荘にあるらへんは、保養地として実業家やら芸術畑の人間やらがばんばん別荘を建ててる。その波に乗って佐兵衛――ああ、父も建てたんだけど、禄に使ってなかったんだ。静馬が絵を描く場所がないって云うんで、使ってもらってる。父はいい顔しないけど、家って人の出入りがないと朽ちるだろ? だったら使えばいいんだよ。俺も気軽にあいつに会いに行けるようになって、嬉しいしさ」
「なるほど」
「うちの息子は、もう飽きたって云うけどね――でも静馬には懐いてて、行くかと聞けば何だかんだついてくる。かわいいもんだよ」
「仲の良いご家族ですね」
「うちは、そうだな」
 まるでそうではない家庭があるかのような云い方だったが、大崎には特段引っかかることなくその言葉が通り過ぎていった。事実、自分に家庭があるのだとすれば、それはそうでなかった方だからだ。開けた窓から風が入ってくる。大崎は目を細めて車窓の外を見た。家や人が引き延ばした絵具のようになって通り過ぎていく。これは水彩画というより油絵だ、と思った。

 空は、夕焼けの下から夜空が塗りつぶそうとしているところだった。夕焼けと夜空の間は、濁らずまじりあっている。台場の別荘は、湖畔のそばにあり、まわりは木々で囲まれていた。まさに保養地といった風体である。湖から風が吹いて、前髪を揺らす。その風を受けながら、大崎は別荘を見上げていた。二階に明かりが灯っていた。
「お、いるな。起きてもいる。これは運がいい。ちょっと待ってな」
 車のドアを閉めると、佐清は一足先に別荘へ入っていった。弟に話を付けに行ったのだろう。大崎は別荘に背を向け、湖を眺めた。まだ塗りつぶされていない夕焼けが、水面に映っている。湖の端の方は影で黒くなっていた。そのおかげで映る夕焼けが鮮烈な色をもって輝いていた。風で水面がゆらゆらと揺れている。もし今が仕事でなかったら、もし時間が許すのであれば、絵でも描きたかった。
 大崎は暫く湖を眺めていた。佐清が戻ってくるのが遅い事には気づいていたが、その光景を目に焼き付けていたので、然程気にならなかった。湖畔に白いボートがひっくり返っているのが見え、夕焼けの湖にあれが浮かんだら、良い差し色になるだろう――とぼんやり考えていたところ、後ろから声がかかった。
「大崎君!」
 振り返ると佐清が大きく腕を上げて手を振っており、その後ろに男が一人立っていた。彼が弟の静馬氏なのだろう。大崎は身体を翻して佐清のもとへ歩いた。そうして近づくと、彼ら兄弟が、腹違いと思えぬほど似通っている事に気付いた。身の丈もそろっており、年子であることも手伝ってか、一卵性双生児と云われても納得するだろう。
 ――ただ、弟の静馬のほうは、面差しにすこし陰のさした、物憂い感じが、あった。それが、佐清と別人であると圧倒的に際立たせている。大崎は二人の顔をあからさまに見比べるような真似はしないようにして、静馬に向かって頭を下げた。
「新木場探偵社の大崎と申します。この度は、お兄様の御依頼で伺いました。ご連絡も入れず、失礼しました」
「いいですよ。また兄が無理を云ったんでしょう。この人にかかれば、みんなそういう目に遭う」
「おいおい、それじゃあ俺がすこぶる迷惑なやつみたいだ」
 静馬は佐清を無視して、大崎の眼を見、何故だかうすく笑った。それから半身を玄関に向けて中に誘った。
「兄から話は聞きました。中の案内は僕がしましょう。兄さんは、適当にしてて」
「えっ、俺もついていくけど」
「邪魔だ」
 すげない静馬の一言に、ええ……と不服そうな声を出しながらも、佐清は別荘に入ってくることはなかった。車で待つことにしたようだった。
「兄から話は聞きましたか?」
「はい。ものの配置が変わっているとか、物がなくなるだとか」
 静馬は大崎を応接間に通した。
「時時、あの椅子の場所が変わっています。誰かが使ったあと、そのままにしたみたいに」
 それから黒電話の置かれている棚を開け、中に積み上がっている煙草をひとつ、持ち上げた。
「僕の喫んでいるピースですが、これがたまになくなるんですよ。物失せは、この事です。後は風呂場の剃刀の替え刃とか――些細なものですが」
「それだけですか?」
「ええ。まあ、もとより物の少ない家ですから、盗みたくても盗めないんでしょう」
 静馬は音もなく笑った。これも、佐清と異なる特徴だった。
「あちらは?」
 大崎の指した方を見て、静馬は笑んだまま「台所です」と答えた。
「今は使えません」
「そうなんですか、」
「ああ、いや。探偵さんは小麦アレルギーではないですよね?」
 突拍子のない質問に、大崎は間を置いてから頷いた。それを倣うように静馬も頷く。
「では大丈夫です。この間新しく入れた家政婦なんですが、小麦の使った料理は作るなと申し入れていたのに、ことをあろうにパンを作ってしまって。念のため完全に除去できるまで封鎖しているんですよ」
「失礼ですが、静馬さんは」
 大崎の質問を読み、静馬はすぐに答えた。
「僕ではなく、兄の佐清が小麦アレルギーです。醤油も駄目なくらいで。兄はよく来るものですから、一応家から排除するようにしているんですよ」
「そうすると、静馬さんも佐清さんもここ最近は入っていないんですね」
「ええ」
「立ち入らなくなってどれくらいですか」
「一週間ほどです。清掃業者の都合が付かなくて」
「件の侵入者が台所に這入った形跡はありますか」
「見ていないから判りません」静馬はそれから、大崎を見て云った。「見てみましょう」
 静馬は扉まで歩いて行って、開け放った。当然、誤ってつくったというパンや調理器具はなく、良く片付けられている。静馬か誰かが片付け、念のため清掃業者を入れる予定なのだろう。荒らされた様子はなかった。静馬は冷蔵庫や棚を見て、大崎のほうを振り返った。
「何も取られていませんね。這入られた様子もない、埃がたまっています」
「そうですか」
 静馬が台所を出たので、大崎もそのあとに続いた。静馬は居間を抜け、そのまま廊下に出て階段の方に向かった。
「ものが動いている、というのは、椅子だけじゃないんですよ。これは兄の談ですが――
 向かった先は、静馬のアトリエだった。油絵独特のにおいが閉じ込められていた。においは重く、扉を開けても廊下へ逃げていかない。窓際に近いところにイーゼルと椅子があり、そのそばに道具を詰め込んでいるのだろうトランクが置かれてあった。壁際には、所狭しと油絵がたてかけてある。絵を見下ろす大崎の後ろで、静馬が言った。
「昔は、兄が使っていたみたいですが、仕事が忙しくて空けることが多く。今は僕が使っています」
「こちらの絵は、すべて静馬さんが」
「はい。イーゼルの方はあまり見ないでください。描きかけのものを見られるのは恥ずかしいので」静馬は大崎の隣に立った。「兄曰く、この絵の場所が時時変わっているんだとか。僕には判りません。気にしませんから」
 カンバスを見下ろす静馬の眼は、無感情だった。自分の作品が触られるという事に関して、なんの忌避も感じていないらしい。それか、佐清の言葉を信じていないのか――。大崎が静馬の顔を見ていると、彼は顔を上げてほほ笑んだ。
「絵は盗まれていませんか」
「盗まれていませんね。金にならないと思われたのか」
「絵具や絵筆など、道具はどうですか」
「そっちも無事です」
 静馬は淡々と答えた。大崎はほとんど無意識に右手を持ち上げ、指先で顎に触れる。引っかかることがあった。その様子を眺めていた静馬は、やがて飽きたのかイーゼルの前の椅子に座った。大崎はすぐそれに気づいたが、描きかけの絵を見るなと云われているので、そちらを振り返ることはしなかった。
「兄が過剰なんです。僕が居直り強盗に殺されると決め込んでいる。ちょっと過保護な兄で。されていることは些細なことでしょう?」
「ですが、煙草が盗まれるという実害が発生しています。放っておけば、これ以上の被害に拡大することもあり得ますよ」
「だから、盗むものはないって……
 くすくすと静馬はくすぐったそうに笑った。
「佐清さんから聞きました。静馬さんは賞を取って、新聞に載ったことがあるとか。犯人がそれに気が付けば、ここも無事では済まないかもしれません」
「探偵という職業はネガティブですね、思考がいちいち」
「ポジティブな探偵より信頼がおけると思いますが」
「それもそうだ」アハハ、と声を上げて静馬は笑った。「もし兄が探偵だったら、仕事は頼みません」
 大崎も佐清が探偵に向いているとは思わなかった。短い間で話しただけでも、彼の物の言い方や目のやり方、それが人を変に揺さぶるというのを身をもって知っている。人たらしというのか、兎も角業務のたびに依頼人を誑かされてはたまらない。
 きい、と音を立てて静馬が立ち上がった。大崎のほうに歩いてきて、目の前で止まる。両手を後ろで組み、顔を近づけて静馬は囁いた。
「君も兄に誑かされましたか」
………
「東京で打ち合わせをして、そのままここにきたんだとか。付き合いがいいですね」
……仕事ですので」
「気を付けたほうがいいですよ。あの人は自分に顔のよく似た人間が好きなんです。だから義姉も似ている。目元とか、そっくりの夫婦です。特に君は兄好みだ。君を見た時吃驚しました」
……
「心当たりがあるでしょ、ね?」
 大崎は間を置き、早口で「何のことだか」と喉の奥からひねり出した。繕っているのがまるわかりだったのだろう、静馬はまた声を上げて笑い、大崎の耳に唇を押し当てるくらい、一層顔を近づけてきた。唇が熱い。すぐそばにある首元は、襯衣がはだけて肌が見えている。鮮やかな鬱血痕が覗いていて、大崎は視線を真横に逸らした。
「兄の性質は人たらしですが、気質は真っ当です。うっかり惚れると報われないですよ」
「自分は仕事で来ているだけです」
「因みに、兄は不埒ではないですが、僕はそうです……
 大崎は言葉を呑む。それに気づいて、静馬は肩を揺らしながら笑った。漸くそこで、揶揄われていたと判る。大崎は身を引いて、静馬から離れた。仕事の話をしよう、そう思い、意味もなくネクタイの根本を整えながら、大崎は静馬に尋ねた。
……この件に関して、何か気づいたことや心当たりは、」
「何もありません」笑い交じりに静馬は答える。
「この家で、這入られていないのは台所だけですか」
「そうですね。一度寝室も這入られたような跡がありましたし。ベッドメイクがきちんとされていて、その上に寝っ転がったような跡があって、気色悪かったですよ。だから完全に這入った形跡がないのは台所だけです」
「静馬さんは、普段からこちらに?」
「まちまちですね。最近はここで寝泊まりしているけど、出歩くことも多いもので」
 応答しているうちに笑いが引っ込んだのか、静馬は元々の、淡々としたしゃべり方に戻っていた。しかし眼が妖しく光っている。まるで先ほどの応酬が、またありそうだと予感させるような眼差しだった。大崎は軽く頭を下げる。
「ありがとうございました。時間が遅くなっても申し訳ないので、そろそろ失礼します」
「そうですか」とそっけなく静馬は頷いた。「できれば依頼は受けないでください。兄の考えすぎなので」
 大崎はもう一度頭を下げて辞した。玄関を出てすぐのところに車が停まっており、ボンネットに腰を掛ける格好で佐清は待っていた。彼が、大崎を見てぱっと顔を明るくしたのが、薄暗くなった屋外でもよく見えた。
「終わったかい」
「いろいろお話も伺いました」
「そうかそうか! それは良かった。大丈夫だった?」
 耳たぶが熱くなったような気がし、大崎は無意識に耳に触れた。それから佐清を見る。よもや先ほどの応酬を見ていたわけもないが、見透かされたことを云われたようで返答を選びあぐねる。佐清は困ったように腕を組んだ。
「いや、あいつ、機嫌が乱高下するときがあってさ――俺が無理やり君を連れてきたもんだから、機嫌が悪かったし」
「いえ、丁寧に…………対応して頂きました」
「なんだよその間は? 怖いなあ。でも君がそういうならそういう事にするぞ?」
「構いません」
「じゃあ、いいか。なに、耳がどうかした?」
 大崎が押さえている耳を、佐清の指がさらった。その指の腹が思いのほか熱く、大崎は肩を跳ねて身を引いた。佐清は手をぱっと離して謝る。
――いえ、こちらこそすみません」
「なんか変だなあ、君」
 どこか疑ったような目で大崎を凝っと見たあと、佐清は肩を竦めて車に乗り込んだ。それを追いかけて、大崎も助手席に乗る。窓から別荘を見上げると、二階の窓辺のところに静馬がいた。彼は煙草を咥え、大崎と目が合うとおざなりに手を振る。大崎が頭を下げると、エンジンをかけた佐清が窓からのぞき込んだ。それを察知したように、静馬は部屋の奥に引っ込んでしまった。佐清はやれやれという風に笑い、車を走らせた。
 車が暫く走ってから、佐清は大崎を横目に見て口を開いた。
「それで、どうだった?」
「実際に侵入の形跡を見たわけではないですが、静馬さんもやはり自分以外の誰かがいると感じているようです。さほど問題にしていないようですが――
「おおらかなんだ」
 あれをおおらかと云っていいのか大崎には判じかねたので、返事はしなかった。それより、気になることがあった。
「佐清さんには心当たりはありませんか」
「おっ、名前呼びに昇格! うーん、ないなあ」
「自分は、侵入者がいたらそれは身内か、またはそれに類する人物と考えています」
「なるほど、根拠は?」
 どこか楽し気に、佐清は尋ねた。大崎はフロントガラスの向こうを見ながら答える。
「まず、物失せについて、金目のものが奪われていません。静馬さんはあの家にそういった類に物はないと仰っていましたが」
「それはその通り。あの別荘にある金目のものなんて、静馬の絵くらいだよ」
「しかし盗まれていません。煙草や剃刀の替え刃が盗まれているようですが、それ自体はあまり価値がないものです。つまり、物盗りが目的ではない」
「なるほど」
「次に、家がなく食事に困っている人間が忍び込んでいる可能性。これもあり得ません。台所に侵入した形跡もなく、寝泊りしている様子もないからです。寝室に這入られたことがあるようでしたが、一度だけでしたので該当しないと思います。そもそも不定期に静馬さんがくることを予見できると思えませんから、やはり寝泊りするならあの別荘は不向きでしょう」
 佐清はハンドルを回しながら頷いている。
「そうなると、犯人像が見えてきます。物盗りや勝手な間借りが目的ではなく、なおかつ静馬さんが別荘にいないことを予め知ることのできる人間――
「そりゃあ、身内だね。確かに」佐清は歌いだしそうだった。「君は容疑者が見えているみたいだ。それは誰?」
 大崎は佐清の横顔を見た。彼はいたって普通で、むしろ機嫌がよさそうにさえ見える。一つも焦りがない、というのは、大崎の推測を裏付けるものではなかった。しかし現状証拠で指示されるのはひとりしかいない。
「もっとも疑わしいのは佐清さんです」
 大崎の問いかけに、佐清はすぐに答えなかった。でもそれはかえって推測が的外れなのではないかと不安を抱かせるような、余裕さがあった。やがて佐清が口を開く。
「何故俺が忍び込む必要があるんだ? 合鍵も持っているし、静馬とは兄弟だ。わざわざ忍び込まなくったって、ただ会いに行けば中に入れる」
「動機が判りませんから、それには答えられません。ですが、”忍び込んだ人間は、そのことを誇示することが目的だった”と推測できます」
「ほう!」
「通常、恒常的に忍び込んで何かをするなら、忍びます。使った椅子をそのままにしたり、ベッドのシーツを整えたり、煙草や剃刀をわかりやすく盗むなんて真似はしないのではないでしょうか。ですが今回の犯人は、むしろそれを住んでいる人間に分かるような形で行った」
――忍び込んだことを判らせる為に?」
「そうです」
「それで、どうして俺になる? 俺が犯人だったら、まず探偵に調査を依頼なんてしないね」
「それは自分が貴方に聞きたいことです。自分で忍び込んでいながら、どうして依頼なんかしたんでしょうか」
 佐清は答えなかった。大崎は前に向き直り、シートに身を預ける。
「貴方が忍び込んだのだと思う理由は、台所です」
「台所?」
「以前、雇った家政婦が、小麦料理は作ってはいけないと申し送りしたのに、パンを作ってしまったことがあったそうですね」
「ああ、あったあった! それを理由に静馬のやつ、俺に暫く別荘に来るなって淋しい事を――
「先ほど云ったように、台所に忍び込んだ形跡がなかったんです。佐清さん、貴方は小麦アレルギーだそうですね。そのために台所は清掃業者が来るまで誰も入らないようにしていた。だから、”侵入者”もそれに倣った……いや、万が一にでも、這入る事を躊躇ったのでは」
…………
「これが貴方ではない別の犯人だとする場合、おかしいんです。犯人は、浴室や寝室にまで這入っているのにも拘らず、台所”だけ”避けているということですから。煙草や替え刃を盗むなら、台所の食料だって盗めるはずなのに」
 対向車の車のまぶしいライトが、車内を強く照らした。大崎は佐清のほうへ顔を逸らし、そこで彼が笑っているのを見た。
――そうだな」
 対向車が走り去り、車内に静けさが戻ってから、佐清は至極穏やかに認めた。
「その通り! 君の言う通り、犯人は俺だよ」
「では、改めて聞かせてください」
「何故、自分で忍び込んでおきながら、探偵に依頼したのか? ――簡単だ、これはテストだから」
「テスト――ですか」
「そう。相応しい探偵を見つけるためのテスト。こんな事も判らず案件を持ち帰るようなかったるい探偵を撥ねるためのテスト。俺の望みに答えてくれる探偵を見つけるための――テストだ」
 やおら佐清は道脇に停め、ハンドルを掴んだまま大崎の方に向き直った。
「君は合格だ、大崎君」
……静馬さんもこの件に噛んでいるんですか」
「いいや。あいつは本当に誰かが忍び込んでいると思っていて、でも然程問題にしていなくて、俺が探偵まで雇ったのを疎ましがってる」
「静馬さんを脅かすためにしたことではないんですね」
「俺があいつを脅かす? まさか! そんなことする訳ない。あいつを守りこそすれ、脅そうなんて考えたこともないよ」
 ハンドルの上で指が跳ねた。佐清は側頭部をシートのヘッドに押し付けながら、大崎を凝っと見つめている。まるで大崎を通して、それによく似た誰かを見ているようだった。やがて佐清は身を起こすと、大崎の方に身を寄せた。まるで、そばに誰かがいて、これから話すことを聞かれたくないようだった。
「大崎君。君には静馬を調べてほしいんだ」
……
「謎の侵入者を調査するため、君はあの別荘でしばらく過ごしてもらう。静馬にはそう振る舞ってもらう」
 そこで、佐清は困ったようにほほ笑んだ。あの熱い手が持ち上がり、大崎の耳の縁を撫でる。その熱さは、静馬の唇の熱さを上塗りした。
「知りたいんだ。静馬が――何に苦しんでいるのか、」
 熱い指がおりて、頬を撫でる。すぐそばにある佐清の眼は指と同じように熱く、そして濡れているように見えた。
「あいつを助けてやりたい」と苦しそうに佐清は云った。「その為なら俺はなんだってするつもりなんだ」


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