@nnsno774
──私が生まれて初めてフェルディアを訪れたのは豊穣の節十九日、十五歳最後の日だった。
あれからずっと、おにいちゃんとは年に数回顔を合わせる日々が続いた。おにいちゃんに会わない日はおにいちゃんの力となるために武術や魔術の鍛錬に励み、社交界で恥をかかないようにマナーを学んだ。父は相手は王族だぞ、と呆れていたけれど、私がいろんな方法で自分の身を守れるようになることには賛成していたようだった。おにいちゃんは身長が伸びて擦り傷が減り、淑女らしい振る舞いを覚えていく私に少し寂しそうにしていたけれど、おにいちゃんの傍にいるためなのだと告げれば優しく微笑んで頭を撫でてくれた。
そして、あの出会いからまもなく十年。求婚した時におにいちゃんが言っていた「もし十年経っても俺のことが好きだというなら」という言葉に応えるべく、私はフェルディアまでやってきた。もちろん、事前の通告をして、レアが用意してくれた馬車に乗って。護衛に数人の騎士を連れているけれど、どの騎士よりも私の方が強い。いや、一人だけ私よりも強い人がいる。父だ。本当は一人で馬に乗って駆けていきたかったのだけれど、レアや父が「王族に嫁ぐつもりならば守られることを覚えなさい」と言うものだから、仕方なくついてきてもらったのだ。しかも、本来は父はレアの護衛として残るはずだったのに、娘を娶る可能性がある男を見ておきたいと言ってついてきてしまった。レアがそんなことではいつまで経ってもベレスが大人になれないのでは、と呆れている後ろで、大司教補佐を務めるセテスが父の言葉に深く頷く、なんとも混沌としたあの場面を思い出してくすりと笑う。
確かに父がいてくれれば頼りになるのは間違いなく、親離れも子離れもできそうにない親子だな、と思っていると、いつの間にか馬車は城下町に入っていたらしい。初めて見るフェルディアの城下町は、石畳が綺麗に並んでいて出店も多く活気があった。その奥に見える森は針葉樹ばかりで、冬になれば寒冷になることを思わせる。そういえば、窓を開けたときに吹き込む風もガルグ=マクよりは乾燥して冷たい。おにいちゃんの話では、雪が降り始めると皆家に籠って春が訪れるのを待つということだから、この時期が一年の中で最後の盛況ということなのかもしれない。豊穣を喜び、来年の実りを願う時期。そう思えば、この季節にフェルディアを訪れたのはいろんな意味でちょうどいいのかもしれない。
私たちの馬車を見てはしゃぐ子どもや何事かといぶかしげな顔を向ける大人たちに手を振ってみると、子どもはますますはしゃぎ、大人は「どこぞの姫君が嫁ぎに来たのか!」と声を上げた。私は姫君ではないけれど、おにいちゃんに求婚しに来たのだから間違ってはいない。指輪の入った革袋をぎゅっと握る。そこに確かに感じる円形に、決意を込めた。
──さあ待っていて、おにいちゃん。城門を通り抜けると現れた石造りの城に向けて呟いた。
──ベレスがフェルディアを訪れると連絡を寄越したのは、翠雨の節のことだった。
ベレスが初めて俺に送ってきた手紙には、一言「豊穣の節十九日、フェルディア城に行くから待っていて」と書かれていた。貴族同士の手紙ではありえないほど簡潔で美辞麗句の欠片もない、それでいて読みやすい書体で書かれたその書状に、確かにベレスの存在を感じて笑みが零れた。
その夜、父の私室で二人きりになって父にベレスが訪問する旨を伝えると、父は面白そうに笑って「ついに来たな」とニヤリと笑う。ベレスが訪問する日には馳走を用意しよう、と言う父に、それは彼女も喜ぶだろうと返すと、父は「それで、どうするんだ?」と俺に尋ねた。
「……どうする、とは?」
「わかっているだろう?」
父はベレスのことを知っている。彼女が俺に求婚するためにやってくるかどうかまでは知らなくとも、俺とベレスの間の特別な関係を面白がりながらも見守ってくれていたのだ。本来であればこの冬二十歳になる王子に婚約者がいないなどということはあり得ない。王族は幼少期のうちに婚約者を決めることも珍しくないし、たいていは十代半ばには決まっている。王族を含めた貴族にとって結婚は家の利益のために行うものだ。家同士の利害が一致すること、家格が釣り合うこと、年頃の近い男女であること、それらの条件を満たす令嬢はファーガス国内だけでも複数いたし、国外まで視線を向ければもっと候補者はいただろう。いまだ安定しているというにはやや脆い王家の地盤を固めるために、俺と有力貴族との婚約は重要な役割を果たすはずだった。それを、息子と親しい娘の関係性を考えて待ち続けてくれた。そして、ベレスがあれから約十年経ち、貴族の婚約にふさわしい年齢になってこの城を訪れる意味を理解できない父でもない。
「俺は、……俺は、ベレスと」
添い遂げたい。父や家臣に知られないように城下町の宝飾店で買い求めた指輪を脳裏に思い浮かべる。王家の宝物でも慣れ親しんだ豪商から買い求めたものではない。安物かもしれないが、ベレスの髪の色に似た濃藍の宝石に目を奪われた。光に透かせば新緑の色に見えるのも不思議で、二色を楽しめるこの指輪をきっと彼女も喜ぶだろうと思ったのだ。
「それ以上は言わなくていい。その言葉を最初に聞くのはベレスであるべきだろう」
そう告げて満足そうに頷いた父は、「下手に貴族と繋がるよりも、セイロス教との繋がりを強める方がいいかもしれないしな」と誰に言うともなく呟いた。
彼女が訪問する豊穣の節十九日、その翌日はベレスの誕生日だ。「十年経っても」の約束を果たしに来るベレスに、俺からも贈り物をしよう。
──そうして迎えた豊穣の節十九日、運命が俺を迎えに来た。
──謁見の間で顔を合わせたおにいちゃんは、いつになく緊張しているようだった。
初めて足を踏み入れたフェルディア城は、絵本で描かれるものとは違って装飾品の少ない廊下と分厚くて重い木の扉、風が吹き込まないように建付けがしっかりとした窓で構成されていた。これまで何度もおにいちゃんと結婚して一緒に住む城のことを想像してきたけれど、その想像の原資は絵本だった。しかし、思い描いてきたような城ではなくとも、おにいちゃんがここで生まれ育ったのだと思えばその質実剛健さが愛おしかった。
後ろを歩く父が、物珍しさに周囲を見回す私に注意する。令嬢らしく、おとなしくしろ、と。それを聞いた案内をしてくれている騎士が苦笑しながら何もないところでしょう、と言う。
「いえ。この城の造りは防衛に向いているのかな、と思いまして」
「ほう。お目が高い」
年配の騎士が面白そうに笑う。
「確かに、造り自体は堅いし防衛に向いていると思います。攻め城のような攻撃手段は少ない。ただ、籠城をするにはこの国は食料が乏しい。」
そう案内しながら、そんなことに注目する令嬢は初めてだ、と笑われる。
「……この城で生活するなら知っておいた方がいいのではないかと思って」
おにいちゃんと結婚するのなら。騎士はその言葉に堪えきれないとばかりに笑い、父が後ろで頭を抱えたことが雰囲気でわかった。
「さあ、ここですよ」
謁見の間に辿り着くと、騎士はその場を去るのではなくそのまま玉座に向かって歩いていく。そして玉座に座る国王を騎士とおにいちゃんが挟む。
どういうことだろうかと思いながら、求婚の前にまずは国王に挨拶をしなければと玉座の前で跪く。
「お目にかかれて光栄です、ランベール王」
「顔を上げよ。……大きくなられたな、ベレス殿」
ランベール王にはガルグ=マクで数回顔を合わせたことがある。だが、こうして正式な場で顔を合わせることは初めてだった。
「今日はディミトリに用事だということであったな」
「はい。おにい……殿下との大切な約束を果たすために参上いたしました」
ちらりとおにいちゃんに視線を向ける。いつもと違う場所で少し離れたところにいるおにいちゃんは、その整った容姿からか冷たく見える。でも、私はあれがおにいちゃんの緊張している顔だと知っていた。
「そうか」
からかうような声音とともにランベール王もおにいちゃんに視線を向ける。
「とはいえ、積もる話もあるだろうがまずは長旅の疲れを癒していただこう。客室に案内して差し上げてくれ」
「承知しました」
硬い声で話すおにいちゃんが、反対側に立つ騎士に声をかける。
「では、私は彼女たちを客室へ。ロドリグ、ここまでのベレスたちの案内助かった」
「いえいえ。殿下、頑張ってくださいね」
王子であるおにいちゃんに親しげに話しかけるあの騎士は、やはり名のある貴族なのだろう。そう思っていると、後ろで父が焦ったように「王の盾」と呟いた。
「おや、ご存じでしたか。いかにも、代々王の盾を任されているフラルダリウス家の当代党首、ロドリグ=アシル=フラルダリウスです」
そう言って、年配の騎士は鋭い眼もとを緩めてにこりと笑う。フラルダリウス家といえばファーガスの大貴族と聞いていた。確か公爵位を持っている。なぜそのような立場の人がこの場にいるのだろう。いや、そもそも私たちをなぜ彼が案内したのだろう。
疑問を残しながら、「さあ、参りましょう」と私の手を取って立ち上がらせたおにいちゃんの後に続く。父やガルグ=マクから着いてきた護衛の騎士がいるからだろうか。謁見の間を出てもおにいちゃんは硬い雰囲気を崩さなかった。
ありがたいことに、ランベール王は私の他に護衛の騎士たち一人ひとりにも客室を用意してくれていた。客室に荷物を移動させると、おにいちゃんは「しばらくゆっくりするといい。夕食の時間に遣いを寄越そう」と言った。
「わかった」
「今日は豪華な晩餐にすると父が話していた」
その言葉についこみ上げる唾液を飲み下すと、「……だが、ファーガスは貧しいからな。ガルグ=マクで出るご馳走程ではないと思う。期待しすぎないでくれると助かる」とおにいちゃんが苦笑した。
「その気持ちが嬉しい」
「……そうか」
「そうだよ」
頷く私に少し表情を緩めたおにいちゃんに、「ご飯の後に会える?」と囁く。どうしても父や護衛の騎士がいない場で、二人きりで話したかった。その意味をおにいちゃんが理解できないはずがない。ここ数年、顔を合わせると「あと三年」「あと二年」「あと一年」と告げてきたし、明日、私はあの出会いから十歳年齢を重ねたことになる。その意味を知らないわけがない。
「……遅い時間になってもいいなら」
「その方が都合がいい」
二人になりやすいから。幸い、夜更かしにはそれなりに慣れている。
「では、日付が変わる頃、この部屋に迎えに来る」
「迎えに?どこかに行くの?」
私の問いにおにいちゃんは少し困ったように笑った。
「夜中の淑女の部屋に恋仲でもない男がいるのは、な。せっかくだ。夜の散歩にでも行こう。庭園には薔薇が咲いているはずだ」
そういうものなのか。私としてはおにいちゃんと大切な話ができればそれでいいのだけれど。しかし考えてみれば、部屋の中より庭園の方が雰囲気はいいのかもしれない。おにいちゃんがそれを意識したのかはわからないけれど。
では、と去っていくおにいちゃんを見送って寝台に横になる。思っていたよりも疲労が溜まっていたらしい。柔らかな布団に体を包まれて、気づけば睡魔にとらわれていた。
コンコンと扉を叩く音で目を覚ます。はっと起き上がって外を見ると、窓の外はすっかり暗くなっていた。つまり、今扉の向こうにいるのはおにいちゃんが話していた遣いだろう。慌てて服と髪を整えながら扉を開く。そこにはずいぶんと背が高く、肩幅の広い色黒の男が立っていた。
「……ベレス殿、ですね」
大男がややたどたどしい発音で私を呼ぶ。
「はい」
「私は殿下の従者のドゥドゥーと申します。晩餐の用意ができたのでベレス殿をお連れするようにと」
大男に頷いてみせると、彼は私に背を向けて歩き始めた。どうやらついて来いということらしい。
「……騎士たちは」
「騎士団長のジェラルト殿は晩餐会にお招きしています。他の騎士には後で食事をお配りする予定です」
丁寧な言葉で語りながらも、必要なことしか話すつもりがないらしい。そのような彼の気質は好ましいものではあるが、ファーガスの者にしては肌の色も髪の色も珍しく、おにいちゃんの従者を名乗るにしてはガルグ=マクで見かけたことがない人物に警戒心を抱く。やや距離を取りながら太ももに挿している短剣を意識しながら歩いていると、目的地に着いたらしい。ドゥドゥーの手によって、素朴な装飾が施された重い扉が開けられた。
「ようこそベレス殿。こちらの席へどうぞ」
ランベール王に示されたのは、先に着席していた父の隣であり、おにいちゃんの正面の席だった。どうやら到着したのは私が最後らしい。食卓の上にはすでに銀の食器が並べられており、あとは料理が配膳されるだけのようだった。
「……お楽しみください」
そう言って椅子を引いたドゥドゥーに礼を伝えると、彼は軽く一礼して立ち去った。
「では、今日はベレス殿の来訪を祝って」
ランベール王の音頭に合わせてグラスを持ち上げ、注がれていたブドウのジュースを一口含む。口の中いっぱいに広がる甘く熟れたブドウの香りを楽しんで喉を潤すと、自然と口元が緩んでいく。
「お気に召したかな?」
ランベール王の問いに「とても芳醇な香りですね」と答えると、「今年はブドウの出来が良かったからな」と嬉しそうに話される。
「料理も楽しんでいただけるといいのだが。……今回は、ファーガス料理に加えてダスカーの料理もお出しする予定です。ダスカー料理を食べたことは?」
「ダスカー料理は初めてです。フォドラの外に出たことはありませんし、彼らの文化については寡聞にして存じ上げないものでして」
父も私の言葉に続けて「ランベール王はダスカーについてお詳しいのでしょうか」と問う。
「詳しい、というものとは違うのかもしれないが」
ランベール王は一度言葉を切る。
「ファーガスの地は他国と比べれば豊かではない。その理由の一端に、スレンとの争いに人手や金銭を取られて開墾やこの土地に適した食べ物の開発などに力を入れられない、というものがある。そうであれば、近隣の国や部族と親しくすることでスレンへの牽制を行いつつ国交を行うことがファーガスの益になるのではないか。私はそう考えているのです」
ランベール王の言葉を継いでおにいちゃんが「ドゥドゥーを見ただろう?」と言う。
「彼はダスカーの出身だ。先日父上がダスカーを訪問した際にダスカーの族長と親しくなってな。留学という形でドゥドゥーをファーガスに連れて行くといい、と族長に推薦されてここに来たんだ。ドゥドゥーは性格が穏やかだし真面目で、フォドラの言葉を憶えるのも早かった。……ダスカー料理も彼が教えてくれたんだ」
従者のことを誇らしげに語るおにいちゃんは可愛らしい一方で、なんだかちょっと胸がもやもやした。
「そういうわけで、これからのファーガスの在り方を示すための一食として、本日はダスカー料理も提供させていただく」
ランベール王のその言葉を皮切りに、食卓に料理が並べられていく。白い湯気をくゆらせるグラタンやシチューなどの皿に囲まれて、分厚いステーキが置かれてつい目を瞠る。こんなに分厚い肉は食べたことがない。しかも、独特な香辛料の香りがする。だがそれが嫌ではない。むしろ胃が刺激されてお腹がキュウと鳴った。
「はは。驚かれるのも無理はない。これはダスカーベアという、ダスカー地方にしかいない熊の肉なのです。本来熊の肉はたいそう臭みが強いのですが、彼らは香辛料をうまく使って臭みを消すばかりか食欲を誘う術を持っているのです」
ランベール王の説明は最早頭に入ってこず、料理に視線がくぎ付けになっている私を見て、おにいちゃんが「そろそろいただきましょう。料理が冷めてしまう」とランベール王に声をかける。「それがよさそうだ」と頷いたランベール王の言葉を合図に、私は早速料理に手を付けた。
数々の料理は素朴な味付けではあったが、丁寧に調理されているのだろうとわかる、体に染みるものばかりだった。だが、やはり特筆すべきはあのステーキだろう。火の入れ方がうまいのか、柔らかくとろけそうな肉と鼻をくすぐる香辛料の香り。口の中で少しピリッと弾けるような辛みが肉汁の甘みと溶け合ってなんともいえない美味しさだった。思わずもう一枚、と言おうとして、貴族の令嬢はそんなことは言わないと思い直す。なんとかこれまで練習してきたとおりのマナーを披露し、デザート代わりのブルゼンを胃に収めると、ほう、吐息をついた。
「ずいぶん気に入ってくれたようで嬉しいよ」
正面に座るおにいちゃんが微笑む。どうやら一人夢中になって食べていたようで恥ずかしい。
「すごく美味しかった。……もちろん、ファーガスの料理も」
「そうか」
明るい声で笑うおにいちゃんの様子を優しい瞳で眺めるランベール王と少し気に入らない顔をしている父に囲まれて、晩餐会は楽しいものとなった。
晩餐会を無事に終えて、一度部屋に戻る。おにいちゃんとの約束までは少し時間があった。晩餐会で忘れそうになっていたけれど、本来の目的はこの後。おにいちゃんとの約束を果たすこと。早くおにいちゃんが迎えに来ないかな。そわそわと落ち着かない気持ちを抱えて私は寝台に寝転がる。そうだ。大事の前に身を清めておこう。用意されていた湯船に湯を用意してもらって入念に体と髪を洗い、その時を待つ。
そして迎えた午前零時。廊下に聞こえないように密やかに、しかし確かな迎えの音が響いた。父からいつか大切な人に渡すようにと預かった、母の形見の指輪を皮袋に入れて首から下げる。
「待たせてすまない」
おにいちゃんも湯浴みを終えているのだろう。石鹸の爽やかな香りが鼻をくすぐる。手持ちの燭台を左手にかかげ、おにいちゃんが「行こうか」と私に右手を差し出した。
暗い廊下は昼に見た時とはまた別の顔を見せて、前方も見えにくい。おにいちゃんが私の手を引いてくれるから安心して歩くことができるけれど、そうでなければ迷っていたかもしれない。いつになく言葉が少ないおにいちゃんの手のぬくもりだけが確かなもので、それが失われないようにおにいちゃんと繋いだ手を強く握る。握り返される手の強さに少し気持ちが落ち着いて、庭園が近付くにつれて感じるかすかな隙間風と花の香りを感じる余裕が出てきた。
「……ここだ」
おにいちゃんが庭園に繋がる扉を開けると、急に目の前が明るくなる。視線を上げると、空には見事な満月が広がっていて、灯りがなくても足元も花もよく見える。おにいちゃんの顔も。
花に囲まれた四阿に案内されて、薔薇の香りに包まれる。ふと視線を映した白薔薇は、月の光に照らされて蒼に染まっていた。
「ベレス」
おにいちゃんに呼ばれて視線を向ける。そうだ、これから十年越しの約束を果たすのだ。
「……おにいちゃん、今日は時間を取ってくれてありがとう」
「いや。……俺もこの日を待っていたから」
硬い声で言うおにいちゃんにつられて私も胸の鼓動が速くなる。頭の中で何回も入念に今日という日を思い描いて、何通りも求婚の仕方を考えていたというのに。本番になるとそんなものは何の役にも立たない。痛いほどの頬の熱さを感じながら、ようやく私は口を開く。
「おにいちゃん。私、十六歳になったよ」
「ああ」
「あれから十年経ったよ」
「そうだな」
「……約束、憶えてる?」
「お前が毎年教えてくれただろう」
その返事に笑みが零れる。そうだった。この数年は毎年私がおにいちゃんに約束まであと何年か伝えていた。
「うん。……おにいちゃん。十年経ったけど、私はやっぱりおにいちゃんが好きだよ」
あの時のような花やウサギは用意していないけれど、代わりに指輪を用意した。閉じた輪が永遠に通じると言われる指輪を。首から下げていた皮袋を胸元から取り出して、四色の石が輝くそれを掌に載せた。
「だからね、もう一回言う。……私と、結婚して」
指輪を持たない左手は服の裾を握りしめ、おにいちゃんの返事を待つ。鼓動はますます早鐘を打って息が詰まる。飲み込むものが出てこないくらい喉が乾いている。昼まではあんなに自信があったのに、今となっては不安に押しつぶされそうだ。沈黙が重くて苦しい。早くおにいちゃんの言葉を聞かせてほしい。
おにいちゃんはしばらく固まっていたかと思うと、何故か私の左手を解いてそこに何かを置いた。
──二回目の求婚には、言葉ではなく指輪が返ってきた。
──指輪を載せた掌は、想像よりもずっと小さかった。
一生に一度の重要な局面を迎えるにあたって、身を清めて約束の時間を待った。自分で夜更けと決めたのに、なかなか進まない時計の針にやきもきする。せっかく時間があるのだから、と思い直して脳内で何度も指輪を渡す場面を想像し、ベレスに何を告げようかと思案する。誕生日おめでとう、と真っ先に言うべきだろうか。しかしその言葉と同時に指輪を渡して、指輪を誕生日の贈り物と思われてしまっては意味がない。どの順番で何を言っていつ指輪を渡すべきか。
結局答えは出ないまま、気づけば日付が変わる直前になっていた。そろそろ迎えに行かなければ。持ち物を確認し、物音を立てないようにゆっくりと扉を開ける。隣室にいるドゥドゥーには一応ベレスと会うと告げているが、逢引に行く瞬間を見られるのはとても気まずい。別に悪いことをしているわけでもないのに悪戯をしているような心地だ。誰にも露見しないようにする緊張と、これからの未来に対する緊張が絡まって、手足がぎこちなく動いていることがわかる。それでもなんとか彼女が止まる客室に辿り着くことができた。
数回深呼吸をして扉を叩く。力の制御に失敗するかと思ったが、なんとかなったらしい。少々の間をおいてベレスが姿を見せた。暗い闇から浮かび上がるような彼女の姿がやたらと眩しく見えて、言葉少なに手を引くことしかできない。そういえば、昼に謁見の間でベレスを見た時も初めて見るドレス姿に堂々とした立ち居振る舞いに胸が高鳴って仕方がなかった。これまで彼女に感じていたのは穏やかな包まれるような心地で、だからいつまでも彼女の隣にいたいと思ったから求婚しようと思ったはずなのに、どうしてこんなにも胸が騒ぐのだろう。
廻り続ける思考を引き留めるように、ベレスが手を強く握る。そうだ、どんな理由であっても彼女の隣にいるために俺はこの後指輪を渡すのだ。ベレスの手を傷つけないように握り返して、庭園に続く扉を開けた。
その途端に広がる花の香りと月の光に一瞬眩暈がする。だが、ここで止まるわけにはいかない。月に照らされている花々の美しさを愛でる余裕もなく、俺は四阿までベレスを案内する。
さて、どう切り出そうか。言葉を選びながら目の前の彼女の様子を窺うと、彼女は俺ではなく近くの薔薇に目を奪われているようだった。その薔薇は、ドゥドゥーが最近熱心に手入れしていた花だった。彼は料理だけではなく、植物を育てることも好む優しい青年だ。武骨で寡黙な印象を与える彼だが、その心根は優しく、細やかな気配りのできる男だと知っている。知っているからこそ、妙に心がざわついた。
「ベレス」
そう呼べば、俺に視線を向ける彼女に鼓動が跳ねて仕方がない。月光のベールを纏う彼女は、この世の何よりも美しい。そんな彼女が俺に告げる言葉に、ごく簡単な返事をすることしかできない。本当はもっと伝えたいことがあるはずなのに。彼女が十年俺を想い続けてくれたことへの感謝と彼女に抱えている想いを伝えたいのに、喉が詰まって何も言葉にならない。彼女はこんなにもまっすぐに言葉を伝えてくれるのに。
だから俺は、ベレスに指輪を差し出され、その返事として精一杯の想いを込めて彼女の左手に用意していた指輪を載せた。
「……おにいちゃん、これは?」
猫のような目をさらに丸くして俺に問いかけるベレスに、言葉に詰まりながら「指輪、だな」と告げると、ベレスは困惑したように「……そうだね」と言う。さすがにこれでは恰好がつかないにもほどがある。
「交換といこう」
なんとか絞り出した声に、ベレスがようやく微笑んだ。
震える手で決して曲げてしまうことのないようにゆっくりと彼女の左手に指輪を通す。指の根本までするりと嵌まった指輪は、彼女の瞳の色の石を輝かせる。ベレスが指輪の存在を確かめるように月光に透かすと緑に色を変えた石に、彼女は瞳を瞬かせた。気に入ってくれただろうか。
じっくりと指輪を見た後、ベレスは瞳を細め、頬を染めて「ありがとう」と俺に言う。それから俺の左手を取って、「大事にしてね」と指輪を嵌めようとして指先で動かなくなった指輪に泣きそうな顔になった。
「どうしよう」
「指輪を打ち直してもらおうか。いい職人を知っている」
俺の言葉にほっとしたように頷いて、「おにいちゃんの手がこんなに大きくなってるなんて思っていなかったから」と笑うベレスに俺も笑う。確かに、いつの間にか父と肩と同じくらいの身長になり、俺の子どもの頃を知っている相手はみんな「こんなに成長されるとは」と口を揃えて言う。たびたび会っていたとはいえ、ベレスも指輪の大きさまでは把握していなかっただろう。
「そういえば、お前に渡した指輪はどうだ?大きかったり小さかったりしないだろうか」
「そう言われると、少し大きいかもしれない」
「それなら一緒に打ち直してもらおう。それまで、互いに指輪は首に下げておこうか」
俺の提案に笑顔で頷く彼女にひどく胸が高鳴って、ベレスの頬に手を当てる。そのまま導かれるように薄紅に唇を寄せた。柔らかな感触と石鹸と薔薇の香りに頭をくらくらとさせながら、そっと唇を離して彼女の耳元に「誕生日おめでとう」と囁いた。
──そして俺は、俺の運命を受け入れた。この後に何が起こるのか、知りもしないで。