記憶喪失の🐙と、🐙に恋する🐰の現パロ月見姉妹の話。
色々な都合で没になりましたが気に入っている話なので、このプロローグ部分だけでも見ていってください。あと没になった奴なので誤字とか色々あるかもしれません。その辺はご了承くださいませ。
モチベ復活したりしたら続き書くかも……?あんまり期待はしないでください。
@TSneko22
あれは確か、冬の名残と春の気配がせめぎ合う季節の狭間のこと。家出少女が2人も誕生した瞬間だった。
私達は、まるでこれから大冒険に行くかのようにリュックがパンパンになるまで荷物を詰めて家を飛び出した。
冬を感じさせる冷たい風が頬を撫で、夜の静寂に包まれた街。そんな冷え切った暗闇の中に響く二人の足音にはどこか特別感さえ感じた。
「ほら早く!行こっ!」
「ね、ねぇ、待って……!ヤチヨ、は、早いって……!」
久しぶりに見た彼女の心からの笑顔。将来の不安なんてかなぐり捨てたような、夜をも照らすそんな表情。
足枷から解き放たれた私達は、誰もいない夜の街を駆けていく。
「あははっ!」
楽しそうに笑うヤチヨは一度だって後ろを振り返らなかった。
けれど私は違う。背後から響くはずのない怒鳴り声を探すように、何度も何度も暗闇を振り返っていた。
「ほ、ホントに大丈夫なの……?」
不安を滲ませた声がぽつりと夜の街に落ちる。そんな私の言葉を聞いたヤチヨは、その時初めて足を止めた。
そして振り返る。
「大丈夫。」
たった数文字の言葉。色んな大人から聞かされた、空っぽな励ましの言葉。
「何があっても、かぐやは私が守るから。」
なのに、ヤチヨが放ったその一言は、どこまでも真っ直ぐで、優しくて、温かかった。
心の奥に巣食う不安はまだ消えない。それでも、ヤチヨがそう言うなら大丈夫なのだと、私は本気で信じてしまった。
遠くへ、ただ遠くへと私達は走り続ける。陽の光があの人を起こしてしまう前に、私達の初めての非行がバレてしまう前に。
月明かりという名のスポットライトは、二人を照らし続ける。それはまるで、終わることのない逃避行の始まりを祝福してくれているようだった。
◇
無我夢中で走っているうちに見慣れた住宅街の景色は姿を消し、私達は大きなバスターミナルへと辿り着いていた。
見上げるほど大きな建物。こんな夜更けだというのに行き交う人々の姿。ロマンチックな月明かりの代わりに私達を照らす街灯。
あまり馴染みのない光景の数々。普段の私なら圧倒されていたと思う。
だけど、今の私にはそんな事で一々驚いていられるほどの余裕なんて無かった。
周囲を歩く大人達の中にあの人が紛れている気がして。いつもヤチヨを傷付けていたあの腕に背後から肩を掴まれる気がして。
まるで怯えた子ウサギのように視線を彷徨わせ、恐怖を誤魔化すようにヤチヨの裾へそっと手を伸ばす。
「ふふっ、まだ怖がってるの?」
「だ、だって……」
ヤチヨは、怯える私を見て小さく息を吐く。そして、服の裾を掴んで離そうとしない私の手を優しく解き、代わりに不安で震えるその手を強く握ってくれた。
「こっちの方が落ち着かない?」
「……うん。」
手から伝わる温もりに、少しだけ肩の力が抜けた。姉と手を繋ぐ、なんて歳不相応だから今度は恥ずかしさで体が強張ってしまう気もするけど。
やがて乗車時刻が近付き、遠くの方からバスが姿を表す。
"自由への片道切符"と表すには少々控えめで小さなバス。その姿は、私たちの乏しい貯金を削ってまでなんとか用意したのだという事を物語っていた。
「ほら、行こ。」
握ったままの私の手を嬉々として引っ張るヤチヨは、この瞬間を待ち望んでいたかのように目を輝かせていた。
薄暗い車内には何人もの乗客がいた。多分それぞれが色んな理由でこのバスに乗り込んでいる。それでも、ここが人生の分岐点だと重く受け止めているのは私達だけ、いや私だけだろう。
指定された席へと向かう最中、すれ違う人達を見ながらそんな事を考える。そして荷物を棚に置いて席に着く。
ノイズ混じりに発車を告げるアナウンスがようやく聞こえてきて、車体が大きく揺れ動く。
発車してしばらくしてから、私はふと窓に視線を流す。本当なら流れて行く故郷の景色が見えるはずなのに、窓の先は夜に溶けて何も見えなかった。
仮に見えていたとして、名残惜しいなんて思わないだろうけど。
だけど、ただ一つ。
明日の朝、あの人が私達の不在に気付いてしまったらどうなるのだろうか。それだけがずっと怖くて、私は目を瞑れなかった。
だって、明日になってしまえば必ずこの非行はバレてしまう。
なら一層のこと、ヤチヨだけと過ごせるこの一瞬が永遠に続けばいいのに。
そんな身勝手な願いを、私は胸の奥でそっと抱き締めていた。
「もう夜遅いし、寝ててもいいよ。」
窓の外の暗闇に意識を向けていた私へ、ヤチヨは周囲に聞かれないよう声を潜め、そっと話し掛ける。
「うん。でも……」
言葉を詰まらせ、不安に押し潰されるように俯く私を見て、ヤチヨはそっと肩を抱いた。そして、そのまま優しく自分の方へ引き寄せる。
「これなら眠れそう?」
私は何も答えず、ただ瞼を閉じた。
そしてすぐ傍にある温もりに身を預ける。
すると、今まで張り詰めていた緊張の糸がようやく緩み、隠れていた眠気がゆっくりと顔を覗かせる。
意識は少しずつ輪郭を失い、穏やかな闇の中へ沈み始めた。
けれど、その闇の先で待っていたのは安らぎではなかった。
◇
記憶の片隅にこびり付いて離れない酒とタバコの匂い。その原因は恐らく叔父の家のせいだろう。
交通事故で両親を失った私達を引き取ってくれたのが、父方の叔父だった。最初は身寄りの無い私達を助けてくれたから、きっと優しい人だと信じていた。
しかし、そんな期待は一瞬にして崩れ去る事になる。
初めて叔父の家を訪れた日、あの時のことは未だによく覚えている。
玄関の扉を開けた瞬間、鼻を突くような生乾きの匂いが漂ってきた。床にはコンビニの袋や空き缶が無造作に転がり、まともに足の踏み場もない。
まだ何も起きていない。
何もされていない。
それなのに、その光景を見た瞬間から何故だかここに居たくないと思った。
私が俯いて立ち尽くしている横で、ヤチヨは何かを飲み込んだように私の手を少しだけ強く握り返してきた。
「行こ。」
ヤチヨは私の手を引っ張りながら、家の中へと進んでいった。
◇
それからの日々は、心を擦り減らし続けるだけの時間だった。ヤチヨが傍に居てくれなければ、私は今もこうやって生きているか確証が持てないほどに。
「痛っ……」
裸足で家の中を歩く度に足の裏が痛んだ。
ガラス片なのか何なのかは分からない。でも、気付けばいつもどこかに小さな傷が出来ていた。
足裏からじわじわと血が溢れてくる様を眺める。
それを見て、床を汚してしまうと感じた私は、焦りながら、傷付いた足のままヤチヨのところへ駆け込んだ。
「……ごめん、怪我しちゃった。」
「また?」
ランドセルを机にして絵を描いていたヤチヨは、小さく息を吐き、呆れたように笑う。
「怪我したとこ見せて。」
ヤチヨは慣れた手つきで棚から絆創膏や消毒液を取り出した。
「じゃあ我慢しててね。」
傷口に消毒液が染みる。ヤチヨは淡々と絆創膏の剥離紙を剥がし、そっと足裏の傷口に貼った。
「はい、これで大丈夫だよ。」
「ありがと!」
そう言いながらまた駆け出していく私を見て、ヤチヨは少しだけ笑った。
◇
バンッ!
玄関の扉が乱暴に開かれる音が響く。
深夜の静寂を引き裂くその音は、薄暗い部屋の奥にいる私たちの耳にもはっきりと届いた。
「……っ」
思わず肩が跳ねる。
玄関の扉が開いただけなのに、心臓は嫌というほど速く脈打っていた。
ドタドタと乱暴な足音が廊下に響く。
それを聞いただけで、今夜の叔父は機嫌が良くないんだと分かった。
今度は『リモコンはどこだ』と酔っ払った叔父の怒鳴る声が聞こえた。
続いて何かが床に叩き付けられる音。その後も聞き取れない罵声やら物音がしばらく続いた。
「や、ヤチヨ……」
「怖くない怖くない。」
恐怖を感じてより一層布団の中に潜り込む私を見て、ヤチヨはそんな私の頭を優しく撫でてくれる。
「これなら眠れそう?」
ヤチヨはそう言いながら私を強く抱き締める。
私はすぐ傍にいるヤチヨの心音に耳を澄ませる。そうしているうちに、一階の怒鳴り声は少しずつ遠くなっていった。
◇
思い出したくもない記憶が積み重なっていく内に、私は叔父の家にいるのが嫌になっていた。
家の中は汚いし、息が詰まる。 夜になれば怒鳴り声が響くし、朝になっても気が休まることなんてない。
だから私は、学校が終わるとすぐに外へ飛び出した。
近所の公園で遊んだり。駄菓子屋に寄ったり。特に何をするわけでもなく、ただ家に帰る時間を少しでも遅らせたかった。
その日もそうだった。
夕焼けが街を赤く染める頃になって、私はようやく重い足取りで家へ帰る。
「ただいま。」
返事は無い。その代わり、奥の部屋から聞こえてきたのは、紙を捲る音だった。
「ヤチヨ?」
部屋を覗くと、ヤチヨは机代わりのランドセルに向かって宿題をしていた。
「あ、おかえり。」
いつも通りの笑顔。
だけど。
「……それ。」
思わず指を差した。
ヤチヨの頬が赤く腫れていた。まるで誰かに叩かれたみたいに。
「あー……」
ヤチヨは一瞬だけ言葉を詰まらせる。それは何かを隠すために言葉を選んでいるようだった。
「転んじゃった。」
少し考えてから、ヤチヨはそう言って笑った。
でも、それが『嘘』だなんて事は子供だった私にも分かった。
だけど、ヤチヨが言わないのには何か理由があるのだろう、と思いそれ以上は何も聞けなかった。
それからも似たような事は何度もあった。
腕に痣がある日や、額に傷があった日。また別の日には唇が切れていたりもしていた。
心配になって理由を聞けば、ヤチヨは決まって笑う。
「大丈夫だよ。」
その言葉だけを残してヤチヨはいつものように優しく微笑んだ。
最初は偶然だと思っていた。私だって毎日とは言わないけど何度も足を怪我していたから。
しかし、何度も繰り返されるうちに気付いてしまった。私が外で遊んでいる日に限って、ヤチヨは怪我をしていた事に。
だから私は少しずつ外へ出なくなった。自ずと友達と遊ぶ事も減り、放課後になると真っ直ぐ家へ帰るようになった。
別に家が好きになったわけじゃないし、叔父が怖くなくなったわけでもない。
ただ、ヤチヨを一人にしたくなかった。
「今日も公園行かないの?」
友達にそう聞かれても、
「うん。」
としか答えられなかった。
本当の理由なんてその時の私には説明できなかったから。
放課後。
狭い部屋の隅で本を読むヤチヨの隣へ腰を下ろす。
するとヤチヨは少しだけ不思議そうな顔をした。
「遊びに行かないの?」
「今日はいい。」
「そっか。」
それだけ言って、ヤチヨは優しく笑う。
その頬には痣なんて無かった。私はそれだけで少し安心した。
いつからだったのだろう。
公園へ行く事が減り、友達と遊ぶ事も減った。
家から離れる時間そのものが、少しずつ短くなっていった。その代わりに、ヤチヨの隣にいる時間だけが増えていった。
子供だった私は、本気で信じていたのだ。ヤチヨの傍にいれば、ヤチヨは傷付かないのだと。
だけどそれは違った。
あの日見た、激昂した表情の叔父の姿。その足元には何故か倒れているヤチヨ。
力無く倒れているはずのヤチヨは、その体を震わせながらも私の方を向き、弱々しくこう言った。
「だいじょうぶだよ──」
◇
「はあ……っ、はぁ……!」
ベッドの上で目が覚める。また悪夢を見たせいか汗で服が張り付いて気持ち悪く感じる。
私は目に涙を浮かべながらもふと隣を見る。
しかしそこにヤチヨの姿は無かった。その事実に、より一層呼吸が苦しくなって体が動かなくなる。
カチャン。
リビングから聞こえてきた、食器が何かに当たる音。
それを聞いた私は飛び出すようにベッドから起き上がった。
「あっ、かぐや。おはよ──」
「ヤチヨっ!!」
私はキッチンで朝食を作っていたヤチヨの背中へ勢いよく抱きついた。
「わわっ」
状況を把握していないのに、ヤチヨは迷わず私を支えるように抱き締め返す。
「ど、どうしたの?」
「やち、ヤチヨがいなくて、そ、それで、怖くなって……」
泣きながらヤチヨに縋る私の姿を見て、粗方状況を理解したヤチヨはいつかの日のように、私の頭を優しく撫でる。
「また悪い夢でも見ちゃった?」
「……うん。」
ヤチヨは小さく息を吐いてから、そっと私の腕を解いた。
「そろそろご飯出来るから、それまで良い子で待ってられる?」
キッチンに漂う朝食の匂いが、ようやく私を現実へ引き戻した。乱れていたはずの呼吸も少しずつ落ち着いていく。
そして、冗談混じりにこう答える。
「……子供扱いしないで。」
「はいはい、ごめんごめん。」
「だからそれ辞めてってば!」
元気を取り戻した私を見て、ヤチヨは口元を緩める。私は文句を言う代わりに、ヤチヨの肩を子供みたいに揺らし続ける。
「ねぇ〜、ご飯作ってるんだから邪魔しないで。」
「じゃあ子供扱いするのを辞めてよ!」
「かぐやはまだまだお子ちゃまでしょ?」
「大学生なんですけど!?」
そんな他愛のない口喧嘩をしながらも、2人の表情には明るい笑みが浮かんでいる。
カーテンの隙間から差し込む穏やかな陽光は、まるで何気ないこのひとときさえ祝福してくれているようだった。
◇
あの日。叔父の家から逃げ出した夜から、私達の人生は大きく変わった。
上京して、知らない街で暮らし始めて。 最初の頃は本当にお金が無かったけれど、それでも生活が破綻しなかったのはヤチヨのおかげだ。
高校生だった頃から、ヤチヨはずっとお金を貯めていた。
いつか二人であの家を出るために、と貯め続けていた貯金があったからこそ、私達は何とか新しい生活を始める事が出来た。
もちろん裕福ではない。部屋だって広くないし、欲しい物を何でも買えるわけでもない。
だけど。
毎日お腹いっぱいご飯が食べられて。
夜になっても怒鳴り声は聞こえなくて。
床にガラス片も落ちていなくて。
朝になればヤチヨが怪我一つ無くそこにいて。
それだけで十分幸せだった。
高校へ入学してから、私は空いた時間のほとんどをアルバイトに費やした。ヤチヨも同じように、大学へ進学してからは講義とアルバイトの毎日だったと思う。
だから私達には、よく漫画やドラマで見るような青春なんて無かった。
放課後に遊び歩いた記憶も。
部活に打ち込んだ思い出も。
恋愛に胸を躍らせた経験も。
きっと人並みよりずっと少ないけれど、それでも後悔はしていない。
あの家で怯えながら生きていた頃を思えば、今こうして同じ朝を迎えられるだけで十分だった。
気付けば四年が経っていた。
私は大学生になり、そしてヤチヨは社会人になった。
本当に、あっという間だったと今でも思う。
「だからもう、私は一人でも生きていけるよ。」
以前そう言った事がある。
するとヤチヨは即答した。
『ダメ。』
あまりにも迷いのない返事だった。
『かぐやがちゃんと大人になるまでは面倒見る。』
そんな事を真顔で言うのだから困る。
私だってもう大学生だし、法律的にも立派な大人だ。
だけどヤチヨにとっては違うらしい。
きっと今でも、転んで泣いて、そして怪我をする度に絆創膏を貼ってもらっていた頃の私が見えているのだろう。
それは少し嬉しいけれども、少しだけ寂しい。
そして何より――困ってしまう。
私が抱いているこの気持ちは、もう家族に向けるものではなくなっているのだから。
「じゃあ私はそろそろ行くね。」
「あっ……」
そんな事を考えている内に、もうこんな時間だった。
机の上には食べ終えた朝食。 玄関には靴を履き終え、ドアノブへ手を掛けているヤチヨの姿があった。
「い、行ってらっしゃい!!」
「うん、行ってきます。」
私は咄嗟に笑顔を取り繕ってヤチヨを見送る。
扉が閉まり、足音が遠のいていくのを感じた後、私は深く溜め息をついた。
私は幸せな毎日の中で、唯一この一瞬だけが嫌いだ。
ヤチヨが私の知らない何処かへと行ってしまって、もしヤチヨに何かがあっても直ぐには駆け付けられない。
そう思ってしまうと、不安で頭がいっぱいになって他の事なんて考えられなくなる。
でも『行ってほしくない』なんて我儘を言うのも、ヤチヨの事を考えすぎて他の事が手に付かなくなるのも、そんなの大人じゃない。
そう思いながら、私は不安を取っ払うように両の頬を軽く叩いた。
そうだ。
ヤチヨは仕事に行っただけ。今日だっていつも通り帰ってくる。
そんな事くらい分かっている。
分かっているのに。
胸の奥に生まれた不安は、どうしても消えてくれなかった。
◇
ベランダから見えるヤチヨの背中を、私はぼんやりと眺めていた。
いつもと変わらない朝。いつもと変わらない後ろ姿。やがてヤチヨは角を曲がり、その姿は見えなくなる。
ヤチヨが見えなくなった後も、私はしばらくその場所から動けなかった。
叔父の家で暮らしていた頃。怒鳴り声に怯える私の前に立ち、いつも守ってくれていた背中。
上京してからは慣れないアルバイトや勉強に追われ、それでも弱音を吐かずに頑張り続けていた背中。
体を壊してしまった私の看病の為に、キッチンに立って「大丈夫」と優しく伝えてくれた背中。
そして今も。
私達の平穏な暮らしを守るために仕事へ向かっていく背中。
思い返してみれば、私の人生にはいつだってヤチヨがいた。
だからだろうか。
ヤチヨの姿が見えなくなるだけで不安になるようになったのは。
いつからだったのかは覚えていない。
ずっと昔からだった気もするし、案外最近だったような気もする。
ただ一つだけ確かなのは、今の私にとってヤチヨは、世界で一番大切な存在だということだった。
昔の私は玄関の扉が開く音が嫌いだった。
それは叔父が帰ってきた合図であり、怒鳴り声が始まる合図でもあったから。
その音が聞こえる度に身体が震えて、息を潜めて、早く朝になれと願っていた。
だけど。
そんな感情はいつの間にか消えて、今では玄関の扉が開く音を待っている。
いつ帰ってくるんだろう。
今日はどんな話をしよう。
晩ご飯は何にしよう。
そんな事ばかり考えている。
ヤチヨは私の恐怖を消してくれた。
苦しさも孤独も消してくれた。
叔父の家で過ごした記憶も、今でも時折襲ってくる悪夢も。
全部消えたわけじゃない。
それでも。
その上から何度も何度も優しい思い出を重ねてくれた。
だからだろう。
何を考えても最後に辿り着くのはヤチヨだった。
嬉しい時も、悲しい時も。もちろん苦しい時も。
未来を想像する時でさえ。
そこには必ずヤチヨがいる。
いつからだったのかは分からない。
上京してからだったのかもしれないし、もっとずっと前からだったのかもしれない。
だけど、一つだけ確かな事がある。
気付いた時には、もう手遅れだった。
私は、ずっとヤチヨに恋をしていた。
◇
──いや、これ以上考えるのは辞めよう。
私は小さく首を振った。そうやって何度も自分に言い聞かせる。
もう大人なのだから、と。
誰に向けたものでもない言い訳を胸の中で繰り返しながら、私はこの感情をそっと心の奥へ押し込めた。
もちろん、この気持ちが何なのか分からないわけじゃない。
憧れでも、感謝でも、家族愛でもなく、私はヤチヨに恋愛感情を抱いている。
その事実から目を背けるつもりは無かった。自分の気持ちに嘘をつくのは嫌だったから。
だけど。
ヤチヨにはヤチヨの人生がある。
私を守るために傷付いて、私を育てるために働いて、そうして私のために何度も無理をしてきた。
そんなヤチヨに、これ以上何かを背負わせたくなかった。
私達は自由になるために逃げ出したのだ。だから私がヤチヨにとっての新しい足枷になるわけにはいかない。
たとえヤチヨがそれを受け入れたとしても、私自身が許せない。
だから私は、この恋心を否定しない。
だけど伝えもしない。
気付かないふりをして、ずっと見えないふりをして。
今日もヤチヨの妹として生きていく。
それでいい。それがきっと、私達にとって一番幸せな形なのだから。
◇
夜の台所には、味噌の匂いが静かに広がっていた。鍋の中ではスープが、ことことと小さな音を立てている。
晩ご飯を作りながら、私は何度も時計に目をやった。
「……遅いなぁ。」
ぽつりと零れた言葉は、湯気に紛れて消えていく。時計の針は、いつも夕飯を食べている時間をとうに過ぎていた。
ヤチヨの仕事は不規則だ。早く帰ってくる日もあれば、今日みたいに夜遅くなることもある。
分かっている。気にするようなことじゃない。そう思っているのに。
「大丈夫かな……。」
そんな心配が頭にぼんやり浮かんでしまうと、手元が少しだけ落ち着かなくなる。
鍋をかき混ぜるスプーンの音がやけに大きく響いて聞こえる。
玄関の方に意識を向けては、振り返ってまた鍋の中を見る。それを何度か繰り返していると。
やがて。
カチャ、と小さな音が玄関から聞こえてきた。
「あ……!」
私は思わずコンロの火を弱めて玄関へと駆け足で向かう。
「ただいまぁ〜……」
扉の向こうから聞こえてきた声に、心配が少しだけ緩んだ。
「おかえり!!」
「わっ」
思わず駆け寄る。
けれど、その直後。私はぴたりと足を止める。
目の前にいるヤチヨの姿。その肩は落ち、ネクタイも少し乱れていた。笑おうとしているのは分かるのに、その表情には力がない。
今夜のヤチヨはいつもより少し──いや明らかに疲れているように見えた。
「……また残業?」
「うん。まぁ、ちょっとね。」
「"ちょっと"の顔じゃないでしょ、それ。」
意図せず私の口から冷たい声音が零れ出る。それを聞いたヤチヨは思わず靴を脱ぐ手を止めた。
そして、困ったように笑いながら。
「大丈夫だって。」
ヤチヨのその一言で、胸の奥が少しだけ熱くなる。
私はゆっくりと一歩近付いた。
「一回、鏡見てきて。」
「え?」
「その顔のどこが大丈夫なの?」
その言葉の後、沈黙が2人の間に落ちる。
ヤチヨの視線がわずかに逸れた。
「……仕事だから。」
「仕事だからって、そんなになるまで働く理由にはならないでしょ。」
腹が立っているわけでも無いのに、何故か私は冷たい言葉をぶつけてしまう。
言ってからそれを自覚し、少し言葉や声音を和らげる。
「ねぇヤチヨ。ちゃんと休んでよ。」
「平気だって。」
ヤチヨが変わらず視線を背けているのを見て、思わず溜め息が出る。
「平気じゃないでしょ。」
「──じゃあどうしろって言うの?」
今度はヤチヨの冷たい口調。抑揚のない、それでいて刺々しいと感じるその問いに私は思わず言い淀む。
「わ、私は、ただヤチヨに無理して欲しくないだけで……!」
「無理してでも働かなきゃ生活できないんだよ?」
「それは、わ、分かってるけど……」
ヤチヨの声は大きくない。 怒鳴られているわけでもない。
それなのに、胸の奥がぎゅっと縮こまる。
言い返さなきゃいけないのに、上手く言葉が出てこなかった。
「で、でも──!」
私が言葉を続けるより先に、ヤチヨはぽつりと言った。
「かぐやには、分かんないでしょ。」
その声はさっきと変わらず大きくなかった。なのに、胸の奥を鋭く抉られたような気がした。
「……え。」
それを聞いた私は完全に体も思考も止まってしまう。
言葉が出なかった。確か、私は何かを言おうとしていたはずなのに。
少しの間。その後に俯いていた筈のヤチヨはジッとこちらを眺めていた。
そして。
「あ。」
まるで意図せず零れ出たかのようなヤチヨの弱々しい声。
「ご、ごめん……私、そんなつもりじゃ……」
ヤチヨは狼狽えるように言葉を詰まらせる。その様子を見て。
『分かってるよ。』
そう言いたかった。
ヤチヨが本気で言った言葉じゃない事くらい分かっている。疲れているだけだという事も。
だから怒ってなんていない。
なのに、一度胸に刺さった言葉は上手く抜けてくれなかった。
口を開く。
閉じて、もう一度開く。
それでも声は出なかった。ただ沈黙だけが、二人の間に少しずつ積もっていく。
「……。」
重たい沈黙が部屋を満たしていく。
さっきまで漂っていた味噌汁の香りさえ、今はどこか遠く感じた。
「かぐや……」
ヤチヨが不安そうに私の名前を呼ぶ。
それでも私は俯いたままだった。
そんな様子の私を見て、ヤチヨは気まずそうに唇を噛むと、肩から下げていた鞄を開いた。
中から財布だけを取り出して、そのまま玄関の扉へ向かった。
「ヤチヨ……?」
ようやく絞り出せた声はひどく小さい。
ヤチヨはドアノブに手を掛けたまま立ち止まって、そして振り返る。
何かを言おうとしているのは分かった。けれど言葉が見つからないのか、その唇は僅かに動くだけだった。
数秒の沈黙。
そして。
「……ごめん。」
もう一度そう言い残して、ヤチヨは家を飛び出していった。
バタン、と扉が閉まる。
「ま、待っ──」
言い切る前に、足音は遠ざかっていく。
静まり返った部屋の中。
私は閉じられた玄関の扉を見つめたまま、その場から動けずにいた。
「……分かってるのに。」
小さく呟く。
あの言葉は本心じゃない。ヤチヨが私を傷付けようとして言ったわけじゃない事くらい、嫌になるほど分かっている。
ただ。
私達は昔からこういうのが下手だった。
叔父に謝らされる事は数え切れないほどあった。
悪くもないのに頭を下げて。 理不尽に怒鳴られて。とりあえず謝れば終わるからと口だけの謝罪を繰り返した。
だからだろうか。
本当に謝りたい時の言葉を、私達は上手く知らない。
相手を傷付けてしまった時。本気で仲直りしたい時。そんな当たり前の事が、どうにも苦手だった。
「……不器用だね、お互い。」
苦笑しながらそう呟く。
きっとヤチヨは、そのうち帰ってくる。
コンビニかスーパーか。行き先は大体想像がついた。
ヤチヨは昔からそうだ。自分のためにお金を使う事は躊躇うくせに、こういう時だけ妙に奮発する。
仲直りの印みたいに、少し高いプリンとか。二人で食べられるケーキとか。
ちゃんと「ごめん」と言う代わりに甘いものを抱えて帰ってくるのだ。
本当に、不器用だと思う。
私は小さく笑ってから踵を返した。
「あ。」
そこでようやく思い出す。
「晩ご飯のこと忘れてた。」
慌ててキッチンへ向かう。
さっきまで張り詰めていた空気は、少しだけ和らいでいた。
◇
キッチンへ戻った私は、途中だった夕食作りを再開した。
味噌汁の火を止めて、焼き魚を皿へ移して。そして冷蔵庫から作り置きのおかずを取り出す。
さっきまで頭の中を埋め尽くしていたモヤモヤは、いつの間にか少しだけ薄れていた。
もちろん、ヤチヨと少し喧嘩しちゃった事実は消えない。
だけど。
「……まぁ。」
私は小さく息を吐く。
ヤチヨが何のために外へ出たのかくらい分かっている。
だからきっと大丈夫、ちゃんと仲直りできるはず。
そう自分に言い聞かせながら、最後の皿を机へ運んだ。
「よし。」
二人分の夕食が並ぶ。
湯気の立つ味噌汁。
焼き魚。
簡単なおかずがいくつか。
特別豪華ではない。
けれど私達にとっては十分な食卓だった。
私は椅子へ腰掛ける。
向かい側には誰もいない。
「……遅いなぁ。」
時計を見る。
思っていたより時間が経っていた。
さすがにコンビニへ行くだけにしては長い気がする。
とはいえ、今は本気で心配しているわけではなかった。
どうせヤチヨの事だ。今頃どこかでスイーツコーナーと睨めっこでもしているのだろう。
「もしかして、めっちゃ高いとこのスイーツ買いに行ってたり……?」
そう呟いてしまった瞬間、思わず笑みが零れた。
財布の中を見て青ざめるヤチヨの姿が容易に想像出来てしまったから。
「嬉しいけど、やめてほしいかなぁ。」
苦笑しながら立ち上がる。
まだ帰ってこないなら、今は座って待っていよう。そう思って私はリビングのソファへ身体を預けた。
静かな部屋。
けれど、耳を澄ませば街の音が聞こえてくる。
どこかで鳴く夏の虫。
その声を掻き消すように響く酔っ払いの怒鳴り声。
遠くで誰かが笑っている。
車が通り過ぎていく音。
そして、そのさらに向こう。
忙しなく鳴り続けるサイレンの音。
誰かが怒っていて。
誰かが笑っていて。
誰かが急いでいて。
私達が住む街は、今日も相変わらず騒がしかった。
さっきまでの私達とは正反対だ。
そんな事を考えながら、私はぼんやりと天井を見上げる。
「早く帰ってこないかな……。」
ぽつりと呟く。
そして、その時だった。
テーブルの上に置いていたスマートフォンが震えた。
ブブッ、と短い振動音。
私は反射的に身体を起こす。
「ヤチヨかな?」
そう思いながら画面を見る。
けれど、表示されていたのは知らない番号だった。
「……?」
少しだけ首を傾げる。
営業電話だろうか。
それとも何かの間違い電話だろうか。
一瞬だけ迷う。
だが、何故か胸の奥がざわついた。
理由なんて分からない。
それでも嫌な予感だけが妙に大きくなっていく。
私はゆっくりとスマートフォンを手に取った。
そして、通話ボタンを押す。
「……はい。」
耳元へ当てる。
数秒の沈黙。
その後。
聞こえてきたのは、まるで感情を押し殺したような知らない女性の声だった。
『──ヤチヨさんのご家族の方でしょうか。』
その一言で。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
◇
「はぁ……っ、はぁ……!」
肺が焼けるように痛い。
それでも足を止められなかった。
夜の街を必死に駆ける。
信号が何色だったのかも覚えていない。
誰とすれ違ったのかも覚えていない。
ただ一つだけ。
ヤチヨ。
その名前だけが頭の中を埋め尽くしていた。
「はぁっ……!」
足がもつれる。それでも足は走ることを辞めなかった。
途中、酔っ払いらしい男がふらついてきて肩がぶつかった。
「っ、おい!」
何か怒鳴られた気がした。
だけど振り返らない。だって今はそんな事どうでもよかったから。
ごめんなさい。
とりあえず心の中でだけ謝って、私は再び前を向く。
ただひたすらに走り続ける。
やがて視界の先に白く照らされた建物が見えてきた。
そこは病院だった。
自動ドアが開く。
冷たい空気が頬を撫でた。
受付の明かり、消毒液の匂い、白い壁。
全部がどこか現実感を失って見える。
「あ、ヤチヨさんのご家族の──」
誰かが話し掛けてきた。
だけど聞いていられなかった。
「病室、どこですか!」
自分でも驚くくらい大きな声だった。
看護師は一瞬だけ目を丸くした後、慌てて病室番号を伝える。
私は礼を言う事すら忘れてまた走り出した。
長い廊下。
何度も足がもつれそうになる。
早く。
お願いだから。
心の中で何度も繰り返しながら病室の前へ辿り着く。
そして。
勢いよく扉を開いた。
ガラッ──。
「ヤチヨ……っ!」
荒い呼吸のまま顔を上げる。
そこには医師と。
そして。
ベッドの上で静かに眠るヤチヨの姿があった。
「……あ。」
思わず声が漏れる。
血塗れではなかった。
包帯だらけでもなかった。
呼吸だってしている。
だから一瞬だけ安心した。
だけど。
その姿はあまりにも静かだった。
眠っているだけ、と言われれば信じてしまいそうなほど穏やかな寝顔。
けれど、その静けさがどうしようもなく怖かった。
「ご家族の方ですね。」
医師が何かを説明し始める。
「交通事故に遭われましたが、目立った外傷はありません。ただ、頭部を強く打っていて──」
頭の中に入ってこない。
「命に別状はありませんが、意識が戻る時期は現段階では分かりません。」
聞こえている。
聞こえているはずなのに理解出来ない。
「仮に意識が戻ったとしても、後遺症が残る可能性も──」
それ以上は聞けなかった。
私はふらつく足でベッドへ近付く。
ヤチヨ。
呼び掛けても返事は無い。
いつもみたいに、
『どうしたの?』
とも。
『大丈夫だよ。』
とも言ってくれない。
私はそっとヤチヨの手に触れる。
温かい。ちゃんと生きている。
その事実に少しだけ安心して。
同時に胸の奥がぐしゃぐしゃになった。
「ヤチヨ……」
声が震え、視界が滲む。
私は堪え切れなくなって、そのままベッドへ身を乗り出した。
縋り付くように。
逃げてしまわないように。
消えてしまわないように。
強く抱き締める。
「ヤチヨ……っ」
返事は無い。
それでも離せなかった。
背後で医師が何かを言った気がする。
けれど、その声もすぐに遠ざかっていった。
扉が静かに閉まる音。
部屋の中には規則正しく鳴り続ける電子音だけが残る。
ピッ。
ピッ。
機械だけが、ヤチヨが生きている事を教えてくれていた。
私はヤチヨの肩へ額を押し付ける。
そして堰を切ったように涙が溢れ出した。
「やだ……」
嗚咽で言葉が途切れる。
「やだよ……」
震える声が静かな病室に溶けていく。
返事は無い。
ただ電子音だけが変わらないリズムを刻み続けていた。
その音が止まってしまう事だけが怖くて。
私は泣きながらヤチヨの手を握り続けた。
温かい。
ちゃんと温かい。
それなのに。
どうしてこんなにも遠く感じるのだろう。
「ヤチヨ……」
呼んでも返事は無い。
私の声は静かな病室へ溶けていくだけだった。
視界は涙で滲んでいる。
鼻の奥が痛い。
呼吸も上手く出来ない。
それでも涙だけは止まってくれなかった。
「ヤチヨ……っ」
何度も名前を呼ぶ。
まるでそうしていれば目を覚ましてくれると信じる子供みたいに。
だけど現実は変わらない。
そこにいるのに。
触れられる距離にいるのに。
ヤチヨは何も返してくれなかった。
私はヤチヨの手を額へ押し当てる。
温もりを確かめるように。
縋るように。
そして、ふと思った。
あぁ。
こんな事になるなら。
もっとちゃんと伝えれば良かったな、と。
ありがとうも。
ごめんも。
嬉しかった事も。
苦しかった事も。
全部。
いつか言おうと思っていた。
今じゃなくていいと思っていた。
だって明日が来るのは当たり前だったから。
ヤチヨは明日も隣にいて。
明後日もいて。
その先もずっといるのだと。
勝手にそう信じていた。
だから私は何もしなかった。
何も伝えなかった。
ずっと見て見ぬふりをしていた。
自分の気持ちから。
本当の願いから。
逃げ続けていた。
「……ねぇ。」
掠れた声が零れる。
私は涙を拭う事もせず、眠り続けるヤチヨを見つめた。
「ヤチヨ。」
声が震える。
情けないくらい震えていた。
「ヤチヨのこと、不器用だなんて言ったけどさ……」
喉が詰まる。
それでも私は続けた。
「同じくらい……私も不器用なんだ。」
笑おうとした。
だけど上手く笑えなかった。その代わりに涙だけが零れ落ちる。
ぽたり、とヤチヨの手の甲へ落ちていく。
「だからね、ヤチヨ……」
今まで一度も言えなかった言葉。
ずっと胸の奥へ閉じ込めていた言葉。
誰にも知られないよう隠していた言葉。
それを私はようやく口にした。
「私……」
涙で声が掠れる。
それでも。
今だけは逃げたくなかった。
「私、ヤチヨの事がずっと好きだったの……!」
静かな病室へ声が響く。
だけど返事は無い。
ただ電子音だけが変わらず鳴り続けている。
私はヤチヨの肩へ額を押し付けた。
「ごめん……」
言葉が溢れる。
止められない。
「ごめんなさい……!」
嗚咽で息が詰まる。
涙が止まらない。
「私のせいで……!」
もし喧嘩しなければ。
もし引き止めていれば。
もしもっと違う言葉を選んでいたら。
もしそうしていれば、ヤチヨは事故に遭わなかったかもしれない。
そんな後悔ばかりが頭の中を埋め尽くしていく。
「ごめん……!」
声が震える。
「ごめんなさい……!」
悲鳴のような謝罪。
懺悔のような告白。
その全てが静寂へ溶けていく。
返事は無い。
慰める声も無い。
大丈夫だと言ってくれる人もいない。
病室に響くのは。
ピッ。
ピッ。
規則正しい電子音だけだった。
それはまるで。
私の願いも、後悔も、告白も。何もかも知らないと言うように。
無情なほど変わらない音を刻み続けていた。
◇
頭がぼんやりとする。
まるで長い夢の中を漂っているみたいだった。
身体は重く、意識は曖昧で。頭の奥では鈍い痛みがずっと脈打っている。
頭の内側を鈍器で何度も殴られているような。そんな不快な感覚だった。
どれくらいそうしていただろう。
暗闇の向こうから、誰かの声が聞こえた。
何かを叫んでいる。
怒鳴っているわけじゃない。
もっと必死で。もっと切実で。
今にも壊れてしまいそうな声だった。
『──チヨ!』
その声を聞いていると、不思議と気持ちが落ち着いた。
さっきまであれほど鬱陶しかった頭痛も、少しだけ遠くなる。
『──ヤチヨ!』
また聞こえた。
今度は少しだけはっきりと。
ヤチヨ。
その言葉に、何故だか心が反応する。
聞き覚えがある。
いや。
聞き覚えどころじゃない。
きっとそれは――私の名前だ。
あぁ、そうか。
じゃあ返事をしなきゃ。
私はここにいるよって。
ちゃんと応えなきゃ。
重たい瞼に力を込める。
意識がゆっくりと浮上していく。そして、段々と暗闇が薄れていく。
ぼやけた光が視界を満たしていく。
そして。
ゆっくりと目を開いた。
最初に見えたのは真っ白な天井だった。
見慣れない天井、白い照明、薬品の匂い。
それから少し遅れて、自分の耳に規則的な電子音が届く。
ピッ。
ピッ。
一定の間隔で鳴り続けるその音が妙に耳についた。
ぼやけた視界をゆっくりと動かす。
そこで初めて気付く。誰かが私の手を握っていた。
細い指。
震える手。
そして。
涙でぐしゃぐしゃになった金髪の女の子。
その子は私の顔を見るなり、大きく目を見開いた。
まるで信じられないものを見たみたいに。
「や、ヤチヨ……?」
掠れた声だった。
泣きすぎたせいだろうか。
声が上手く出ていない。
どうしてそんな顔をしているのだろう。
どうしてそんなに泣いているのだろう。
どうして私の手を握っているのだろう。
分からない。
何も思い出せなくて、私はその子を見つめる。
金色の髪。
赤く腫れた目元。
泣き崩れた痕跡。
けれど。
知らない。
少なくとも、私の記憶の中にはいない。
だから私は、ただ素直に尋ねた。
「あの……」
喉が酷く乾いていた。
掠れた声が漏れる。
それでも何とか言葉を続ける。
「誰ですか……?」
その瞬間。
女の子の表情が凍り付いた。
「――は?」
震えるような声だった。
握られていた手から力が抜ける。
病室の中には、規則的な電子音だけが変わらず響き続けていた。
まるで何事もなかったかのように。
◇
「誰ですか……?」
──は?
その一言を聞いた瞬間、私の身体はぴたりと動きを止めた。
呼吸も、瞬きも。何もかもが止まってしまったような気がした。
なのに頭だけは嫌になるほど鮮明だった。
思い出す。
取り乱していた私に、医者が何かを説明していた。
ちゃんと聞かなきゃいけなかったのに、ほとんど頭に入っていなかった言葉。
それでも、一つだけ。
『仮に意識が戻ったとしても、後遺症が残る可能性もあります。』
その言葉だけが、妙にはっきりと蘇る。
嫌な想像が頭をよぎった。
それだけは考えたくなかった。どうしても認めたくなかった。
だから私は震える声で尋ねる。
「わ、私のこと……覚えてないの……?」
ヤチヨは困ったように眉を下げた。
申し訳なさそうに。
本当に申し訳なさそうに。
「ご、ごめんなさい。」
少し間を置いて。
「誰だか、さっぱり……」
その言葉を聞いて。
胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
あぁ、そうなんだ。
ヤチヨは、私を忘れてしまったんだ。
叔父の家で過ごした日々も、二人で逃げ出した夜も、上京してからの暮らしも。
一緒に笑った時間も、喧嘩した日も、今日の朝も。
全部、忘れてしまった。
その事実は苦しかったし、悲しかった。何よりまた泣きたくなった。
だけど、不思議と。
私の心のどこかは、その事実を喜んでいた。
だって。
ヤチヨは私を忘れた。
それはつまり。
私を守らなきゃいけないという使命感も。
私を育てなきゃいけないという責任も。
私のために無理をし続けた日々も。
全部。
本当に全部忘れたということ。
良かった。
だったら今度は。
今度こそ私が貴方を守らなきゃ。
貴方を自由にしてあげなきゃ。
そう思った。
本当に、心の底からそう思った。
だから。
忘れていてもいい。
私のことなんて。
忘れていても──
……忘れていても?
その瞬間。
胸の奥で何かが蠢いた。
違う。
そんな綺麗な話じゃない。
『忘れてほしくない。』
そんな優しい願いですらない。
もっと暗くて、もっと重くて。もっと醜い感情。
私を見てほしい。
私だけを見てほしい。
何があっても忘れないでほしい。
ずっと、これからも。
永遠に。
「それで、あの……」
ヤチヨがおずおずと口を開く。
「貴方は一体……?」
私は答えようとして言葉に詰まった。
本当なら。
『妹だよ』とか『家族だよ』って言うべきだった。
それは変わりようのない事実であり、ずっとそうだったのだから。
だけど。
喉の奥で言葉が引っ掛かる。
違う。
それじゃ足りない。
そんな囁き声が聞こえた気がした。
私はそっと手を伸ばして、ヤチヨの頬に触れる。
温かい。
ちゃんと生きている。失ったと思った温もりが、確かにそこにあった。
その事実に安堵した瞬間。
言葉は驚くほど自然に零れ落ちた。
「……私は。」
ヤチヨが不思議そうな顔で私を見上げる。
私は微笑んだ、泣きそうなほど優しく。
そして、その言葉だけは嘘みたいにするりと喉を通り抜けていった。
「私は、貴方の恋人だよ。」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥で何かが静かに歓喜した。