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「失敗、しました」
右手に携帯を握りしめ、左腕を伝うどろりとした血液の感覚に不快感を覚えながら、一言。ただ、それだけ。
任務の失敗を告げる己の声は、ひどく掠れていて、とても自分のものとは思えなかった。
夜明け前の空気は冷え切っているはずなのに、この部屋の中だけは妙に生温かい。足元に転がっている肉塊のせいだろう。一人、二人、三人……数えるのも途中でやめた。
それから、「わかった」と、感情の読めない声がひとつ返ってきたきり、携帯の向こうから聞こえるのは、規則正しい機械的な電子音。
プツリ、という短い切断の音がしたあと、世界から再び音が消える。
俺は携帯を耳から離し、血のついた画面を凝視した。液晶の冷たい光が、指先と、そこにこびりついた乾きかけの赤を不気味に照らし出している。
辺りはまだ夜の底。窓の向こうがわずかに白み始めているが、それが日の光なのか、自分の目が煤と血で霞んでいるせいなのかは分からなかった。
鼻を突くのは、ひどく濃密な鉄の匂いだけ。
まずいことをした、と思った。いささか派手にやりすぎた。声をかけてきた見張りを皮切りに、奥から湧き出てきた構成員を片っ端から叩き斬る羽目になったのだ。
敵の懐に潜り込み、息を潜め、必要な情報だけをすくい上げる。剣を抜くのは、本当に最後の、それこそ自分が死ぬ間際だけで良かったのに。
それなのに、結果はこれだ。
ほんの小さな綻びから正体が露見し、生き延びるため反射的に動いた結果、気がつけば周囲にいた男たちは全員、物言わぬ肉の塊へと変わっていた。組織の全容を暴くための潜入であったはずだが、幹部も含めてほとんどをここで屠ってしまった。これでは壊滅させたも同然で、密偵としての任務は完全に失敗である。
左腕が、どくどくと不快な脈動を打っている。
刃のかすめた傷口から、執拗に血が流れ続けていた。大した深手ではない。骨も神経も無事だ。が、溢れる血が足元に広がる死体の海へ吸い込まれていくたび、自分の体から何かが決定的に失われていくような錯覚に囚われる。
部屋を支配しているのは、圧倒的な血の匂い。鼻腔の奥にへばりついて離れないその悪臭に、軽く目眩を覚えた。
血が、刀から滴り落ちるか、指先からこぼれ落ちるか、そんな無益なことばかりが思考を支配していた間に、その人はやってきた。
薄暗い階段を上がってくる足音。躊躇いのない、重く規則正しい音。静かに近づいてくるその気配だけで、心臓が嫌な跳ね方をする。
ガタついたドアが蹴り開けられ、逆光の中にシルエットは浮かび上がった。
「……副、長」
いつもと、変わらない佇まいでそこに立っていた。威圧感だけが、その場の空気を一瞬で掌握する。
彼は部屋の中を一瞥した。死体の山、飛び散った血痕、そのちょうど真ん中に佇む俺。
しかし、その顔には怒りの色のひとかけらも見えなかった。それどころか、感情の失せたような酷薄な青い瞳で、ただ惨状を見つめている。その静けさが、逆に肌に刺さるようで恐ろしかった。
怒鳴り声が飛んでくるか、あるいは殴られるかと身を構えていた俺は、なんだか拍子抜けしてしまう。普段は、仕事の手際が悪いとかなんとかで、事あるごとに足蹴にしてくるような人なのだ。
副長はゆっくりと歩を進め、転がっている死体の頭を靴の先で軽く小突く。
「やってくれたな」
低く、地鳴りのような声がした。なじるわけでもなく、ただ、淡々と。
そのポケットから、いつも通りの滑らかな動作で何かが取り出される。そこで、俺の目はその手元に違和感を捉えた。いつも彼が好んで買っているマヨボロの箱ではない。見慣れない青色のパッケージ。そして、もう片方の手に握られていたのは、使い古されたマヨ型ではなく、どこにでも売っている安価な使い捨てのプラスチック製のライター。
副長はその煙草を一本咥え、ライターのホイールを弾いた。小さな火花が散り、炎が灯る。
「あっ、副長……!」
俺は慌てて声を絞り出した。
「こっ、ここで火使わんでください! 引火したら、どうするつもりでッ」
言い切らないうちに、副長は動きを止め、咥えた煙草の先から俺へと視線を移した。その唇の端が、不気味に釣り上がる。
「燃やすんだよ」
吐き捨てられた言葉の意味を理解するより早く、その右手からライターが離れた。
「っ、は?」
点火されたままのライターが、綺麗な放物線を描いて床に落ちる。それと同時に、煙草の影も見た。
次の瞬間、視界はたちまち赤一色。
「――ッ!」
転がる死体の数々が猛烈な勢いで火を噴いて、肉塊から肉塊へ。炎の壁はまたたく間に部屋を侵食していく。凄まじい熱風が頬を焼くようで、死臭は一瞬にして焦げ臭い煙へと塗り替えられていた。
「山崎!」
そう名を呼ばれたとき、副長はすでに踵を返していた。俺も、猛火の中を彼の背中を追って走り出した。
背後で、建物が内側から崩壊していくような不気味な鳴動が聞こえる。通路へ飛び出し、煙が充満する階段を駆け下りる。視界は最悪、煙が喉を焼いて激しく咳き込んだ。
熱気に炙られながら、ふと重要なことに気づき、俺は前を走る広い背中に向かって叫ぶ。
「いやっ、ちょっと、副長! 資料室は! あそこの書類、回収しないと……!」
足音は止まらず、階段の踊り場を乱暴に曲がりながら、吐き捨てるような声が聞こえた。
「頭に入れてねえのか」
「――!」
それだけ。確かに、潜入期間中に目を通せる限りの書類の内容は、この頭の中に叩き込んである。大体の情報は記憶している。とはいえ、現物を見せるのと俺の口頭の報告とでは全く違うはずだ。
しかしこの人にとっては、俺の頭の中にそれがあるなら、現物など灰に変わろうが知ったことではないのだろうか。合理的と言えば聞こえはいいが、あまりにも乱暴で、容赦のない切り捨て方だとも思った。
命からがら建物の外へ飛び出した時、背後の建物は完全に巨大な炎の塊と化していた。
薄暗い空が、不自然な橙色に染まっている。パチパチと火の粉が舞い散る中、俺は冷たい地面に膝をつき、激しく呼吸を整えた。肺の奥が痛い。左腕の傷からは、相変わらず血が滴り落ちて地面を汚している。
ようやく立ち上がったころには、副長は少し離れた場所で、早くも二本目の煙草に火をつけていた。あの火の中から抜けた直後に、よく煙なんか吸えるもんだ。
いつの間にすり替わったのか、その指に挟まれているのは、先ほど投げ捨てたものとは違う、見慣れた銘柄だった。立ち上る紫煙を、炎に包まれる建物へと静かに吹き付けている。
沈黙。聞こえるのは、建物が焼け落ちる凄まじい音だけ。
どのくらいそうしていただろうか。副長が不意にこちらを向き、いつも通りの、何の抑揚もない声で言った。
「山崎、灰皿」
普段と変わらないその言葉に、俺は息を詰まらせながら答えた。
「……ない、ですよ」
「あ?」
「見ての通り、隊服じゃないですし。潜入中だったんですから、携帯用の灰皿なんて持ち歩いてるわけがないでしょ」
「チッ、使えねえな。ここでは誰も吸わなかったのか」
「いや、いました、けど……」
俺は自分の左腕から流れる血を袖で拭いながら、少しだけ皮肉を込めて言った。
「あのねぇ、あんたじゃないんですから、いつもみたいに俺が他人のために灰皿渡して回る義理はありませんよ。だから……」
いつもは、この人が言えば俺は灰皿を差し出した。暗黙の了解のようになっていた。けれど、今はその道具がない。
副長はゆっくりと首を巡らせ、俺を見た。その青い瞳が、炎の光を反射して、不気味なほど鮮やかに爛々と輝いている。
「そうか」
短く言ったその声には、落胆も苛立ちもない。ただ、凍りつくような冷徹さだけが宿っていた。
「だったら、仕方ねえな」
一歩、もう一歩、そして、影が俺を覆い尽くした。
次に起こるであろう事態を察知した時には、もう遅かった。逃げる間もなく、がっしりとした大きな手が、俺の左腕を容赦なく掴み、固定する。
「あ、」
声が出るより早く、じゅう、という嫌な音が鼓膜に届いた。
副長の手は、俺の抵抗を許さないかのように左腕を掴んだまま。そして、真っ赤に灼熱する煙草の先端を、俺の傷口へと、躊躇なく垂直に押し付けた。
「――っ、あ、う、ッ」
声にならない悲鳴が喉の奥から漏れ出す。
傷口が、熱で焼かれ、抉られるような激痛。肉の焦げる匂いが、周囲の血の匂いを上書きするほどに、一瞬で鼻を突いた。痛みに視界が白く染まり、膝の力が抜けそうになる。
副長は表情一つ変えずに、煙草の火が完全に消えるまで、じっくりと俺の肉にそれを押し付け続けた。乱暴に腕を振り払われ、俺は地面に突っ伏した。
遠くから、サイレンの音が聞こえる。低く響くその音が、徐々に近づいてくる。
激痛の名残で、思考はまともに働かなかった。
これは、任務を失敗した俺への罰なのだろうか。それとも、単なる彼の気まぐれか。あるいは、生ぬるい傷口を焼き切りでもするつもりか。分からないけれど、絶対的な暴力と、それに従うことしかできない己の無力さだけが、確かにそこにあった。
不意に、俺の胸元に何かが放り込まれる。
見れば、それは先ほど俺の血と皮膚によって揉み消された煙草の吸い殻。まだ微かな熱を帯びたそれが、衣服越しにじわりと不快な温度を伝えてくる。
「行くぞ」
頭上から降ってきた声に視線を上げると、そこでは副長が俺を見下ろしていた。その手は、ぶらりと目の前に差し出されている。
見上げた青い瞳は、背後で激しく燃え盛る炎の色をそのままに映し出し、まるで内側から発火しているかのように、美しく、悍ましく、赤く、昏く、染まっていた。