@nikogori_san
『狼』の話をしよう。
彼は愛妻家だった。
普通の家庭で育ち、やんちゃだった頃もあっただろう。
そして彼も惹かれる相手と出会い、結ばれ、子をもうけて
普通の家庭を築き、そうして幸せに暮らしていく
はずだった。
彼も薄々、ついていた職場が汚れていることに気付いていた。
でも子供も生まれてこれからお金も沢山いる。
幸い「そこ」にさえ触れなければ給料は悪くない職場だったから、ずるずると続けてしまったんだ。
あともう少し、もう少ししたら転職しよう。なんて緩く考えていたけど
それが間違いだったと気づくのはもっと先の話なんだけどね。
そうしてお人好しの彼は上司や同僚の言葉にまんまと騙されて汚職の罪を被せられた。
…そうだね。調べた所によれば軍の資金を勝手に横領していたり、武器の横流し、過剰ないじめの主犯など。
まあ全部濡れ衣…というか彼には覚えのない物だと、少し調べればわかったくらい簡単だったけど。
でもそれを否定する人は誰もいなかった。全部が全部、誰も彼もグルだったからね。
あとは彼自身の自白が必要だった。生き証人になってもらわないと困るから。
しかし彼はどうやっても口を割らない。
俺はやってない。何かの間違いだ。もっと調べてくれ。
仲の良かった同僚に何度訴えかけても、それは冷たい眼差しで彼を見下ろして刃を向けた。
その先は聞くだけでも身震いする程だったよ。
ナイフで切りつけられても、肩を銃で撃ち抜かれても、火で炙られても
流石に目を抉られそうになったのは抵抗したみたいだけど。
手酷く痛めつけられ、辱めを受けようが…
それでも彼は自分がやったと認めない。
まあ、彼らも切り札を残していたから。そっちが本命で…今までのは全部『遊びで』やっていただけなんだろう。
とてもいい趣味だね。…ふふ、俺には理解できないけれど。
傷だらけの狼に告げられたのは
大事に、大切にしていた2人。妻と子を殺害したという同僚の言葉。
2人はお前のせいで犠牲になったんだよ。…なんて。どういう気持ちで言ったんだろうね。
彼は、暫く何も言えなかった。
何かの冗談だ。きっとこれも脅しの一つだろうって。信じられない嘘のような話と身体の痛みも相まって、脳が理解を拒んでいた。
そんな彼に突きつけられたのは現場の写真から、音声、ご丁寧に動画まで。
映像の中の見慣れた我が家。そこには、あっただろう暖かみなんて微塵もない。
暗く、物が散乱していて、所々に血が飛び散っていた。
聞き慣れた2人の悲鳴と慟哭。助けを求める声に混ざる、自分の名前。
その中には妻を陵辱するものもあった。
…ああ、こうやって語るだけでも悍ましいのに。目を背けたくなるそれを、他のものは笑って彼に見せつけたんだ。
その時の彼の心情なんて、きっと誰も計り知ることはできないだろう。
…それでも彼は「折れなかった」。
そこで罪を認めてしまったら、2人の死まで認めてしまう気がしたから。
そこまでくると周りの人間もそろそろお手上げ状態だ。
自分の命が削られようが、大事なものを壊されようが。
楽になろうとしない。頑なに罪の自供をしないなんて…その様を不気味だと思って手を引く人も現れ出した。
しかし彼らも引き返せない所まで来てしまっていた。何の罪もない人を殺してもいるしね。
だから檻に閉じ込めたまま、自由を奪って精神を少しずつ壊して…心神喪失にしてしまおうと思ったんだ。
気が狂ってしまえばもう、彼の言葉に意味はなくなる。
そのまま気の触れた男が行った悪事だと、全ての罪をなすり付け、無かったことにするために。
遊び半分でつけられた身体の傷は少しずつ治り始めていた。
けれど精神や心に出来た傷は簡単に治すことはできない。
彼の心はもう壊れる一歩手前まで来ていた。
それを寸でのところで繋ぎ止めていたのは…怒りや悲しみ、そして憎悪。
狭く暗い、檻の中で、狼は1人。ずっと牙と爪を研いでいた。
復讐。それだけを原動力にして生きていたんだ。
…面白いよね。彼の大事な人を殺さなければきっとこんな事にはならなかっただろうに。
それか狙う相手を間違えたんじゃないかな。優しかろうと彼は狼だ。鋭い牙を持っていることを忘れてはならないのに…
うまく飼い慣らしていたつもりだったんだろうね。飼い犬に手を噛まれるとはよく言ったものだよ。
ふふ、今となっては全て無意味な話だけれど。
こうして狼は別の人間によって買われ、劣悪な環境の檻から連れ出された。
最初は人間不信で手がつけられなかったけど、『餌』をあげたら喜んでついてきてくれたよ。
軍関係者の不可解な連続失踪。
汚職や裏金、武器や弾薬の横流し、陰湿ないじめなど…。
叩けばキリがない埃を続々とメディアに晒されて。
あの職場は今やクリーンになって再始動した、とか。
…まあそれ以降は俺の預かり知らぬところかな。
けれど、綺麗なものほど汚れは目立ちやすいものだよ。
表面だけを綺麗に見せているものは、特に。
「…なんだ。何見てるんだ」
「桜を見てたんだよ」
「は?俺を?…不気味だな、面倒事は寄越すなよ」
「ふふ、成長したね。狼」
「………」
心に大きな傷を抱えた狼。
それは少し触れただけでも壊れてしまうだろう、脆いガラスのように繊細で。
今は「誰か」のお陰で崩れずに持ち堪えている。
どうにか均衡を保とうとする彼を、今暫く見ていたいな。
ひびの入ったガラスは、いつか綺麗に砕けて壊れるだろう。
その瞬間を楽しみにしているよ。
END