X以外のSNSでの投稿にはPrivatter+がおすすめです

ほどける香り

全体公開 13 11607文字
2026-06-17 20:00:28

本編後if すずらんの日
※一瞬モブが出ます。ルスフジは恋人同士ですが一時険悪な雰囲気になります。ご注意ください。

Posted by @ey_moonly

 買い出しを終えて往来に出ると、胸元や帽子にころんとした白い花を挿して歩く女性とすれ違う。脇のカフェの窓辺の一輪挿しにも同様の花が生けてあるのが目に映り、そのまま私の後方へ流れていく。
 午前までは赤旗の行進が見られていたものの、午後になると街ではあちこちですずらんが顔をそろえ始めた。花屋の店先や露店は白と若い緑で染まり、人々がリボンや包装であしらってもらっては大事そうに抱えて店を後にする。その表情はどれも明るく幸福に満ちていて、想いはきっと花とともに大切なひとの元へ渡るのだろう。
 五月一日。労働の日であると同時にすずらんの日でもあるこの日は、やさしさとほんのり甘い香りが街中を漂っている。
 各言う私も、大通り前のすずらんで溢れる木箱を持った立ち売りの方にお願いして、そっとカゴへ入れた。
 その時胸にちくりとほんの小さな針のようなものが刺さったような気がしたが、それが何かはわからなかった。

 大通りから少し逸れた道に入れば、人通りも花売りの方の姿も少なくなる。
(まずは家に荷物を置いて、それから……
 それから。カゴの中を見やれば自然と顔が綻んだ。日頃お世話になっている方達へと、もう一つ。それぞれでまとめてもらったものが中で大切に横たえられている。
 足取り軽く歩を進めれば、道の先を行く人がぱっと目に入った。帽子からのぞく少しくせのある金髪に、体が浮き立つ。
「ル……
 ルスラン、と名前を呼ぼうとして、止まる。
 先ほどまでは見えていなかったけれどもう一人、誰かが彼の隣に立っていた。
 知らないひとだ。年は多分彼と同じか少し上だろうか。顔見知り程度というわけの仲ではないらしく、途切れることなく会話が続く。時折彼から溢れる笑みは自然なもので、気のおけない関係であるのが見てとれた。
(親しいひと、なんだろうな)
 踏み出していた足を揃え、横路に身を寄せる。
 話が終わるまでどこかで待っていようか。それともいったん家に帰ろうか。辺りを見回してどこか座れそうなところを探し、荷物を抱え直す。そしてもう一度、何気なく視線を二人に戻した。
 瞬間、ぴしり、と固まった。
 彼が、脇に抱えていたらしいすずらんの花を、そのひとに渡していた。

 微かに早くなる心臓を宥めようと、紙袋越しに手を押し付けた。
 誰に渡したっていい。幸せを願い、心をこめたものなら。だってそういう日だから。すべてはひとを大切に想う気持ち次第で、相手を親しく思うのならなおさら。

 ……だから、贈られた。
 ずんと肩が重くなる。どろりとしたものが胸に広がって、瞼をギュッと閉じた。
 暗い視界にいつかの光景が映し出される。何年も前、夢への切符を手にして、私を抱き止めてくれたあの子。確かその時もあった。ころんとした白い、あの花が。今と同じように、彼は渡してーー

「フジコ?」
 はっとして、何度か瞬きをすれば映像が跡形もなく消える。代わりに、さっきまで離れたところにいたはずの現在の彼が怪訝そうに眉を寄せていた。
 思わず半歩、後ずさる。気づかなかった。いつの間にこちらへ来ていたのだろう。
「声掛けてくれればよかったのに」
「ついさっき着いたの。ごめんなさい、ちょっとぼうっとしてて」
 腕にあった買い出しの荷物を抱え直した。紙袋のガサガサとした音が妙に耳にこびり付く。その間にも彼が何かを話しているのに、関係ない音がぐわんぐわんと反響してちっともここまで届かない。

 ヒュッと喉から音が鳴る。
 目の前に、すずらんがあった。

 はにかんだ笑みと共に差し出されたそれは可憐で麗しく、まるでーーいまのわたしににあわない。
 目の前が真っ暗になった。
「ーーフジコ?」
 腕が上がらない。大した荷物ではないのだからさっさと抱え直して、早く受け取るべきだ。だけど、できない。手を伸ばすことも目を向けることも。穢れを知らぬ、愛らしいその白に。
……ありがとう」
 やっとの思いで荷物を抱え直すと両手を伸ばした。口を引き上げ、努めて明るくお礼を言う。沈んでも、浮かび過ぎるのもまずい。
「本当に素敵なすずらんね。部屋に花瓶あったかな、ブーケもいいけどせっかくだし早く生けたいな」
「フジコ!」
「うん?」
 差し出されたはずの白い花はいつまで経ってもこちらに渡る気配はなかった。それどころか、ブーケは彼のお腹の辺りに引き戻されてしまう。伸ばした手は空だけを触れていた。
「あ……
 大きな安堵と、裂かれるような衝撃が体を駆け巡る。
「どうかした?」
 慌ててわずかに漏れた息をのみ込み、笑みをつくった。
「何が?」
「なんとなく様子が変だから」
「変って失礼ね」
 肩を軽く怒らせてみせる私にルスランが首を振る。「何か、嫌だった?」
「すずらん、好きじゃないとか?」
「そんなことない、とっても綺麗よ」
「じゃあなんで」
「なんでもなにも、変っていうのがよくわからないわ。気のせいじゃない?」
「それは違う」
「どんな自信よ」
私の言葉に返事をすることなく、彼は唇を結んだ。

 真っ直ぐで芯まで見通されそうな、強い瞳。
(あ、ダメかも)
 唐突にそう思った。途端、急速に頭の中でガンガンと鐘が鳴り出す。駄目だ。今は、駄目だ。

「そういえば昨日ちょっと寝不足だったかな。ルスランが言ってるのは多分それよ。帰ったらちょっと横になるわ。少し休めば治るから」
 言葉を重ねれば重ねるほど彼の表情が険しくなっていく。自分の顔が強張るのがわかった。それでもこのやり方以外今の私には思いつかない。
「だから、大丈夫。ね?」
 気持ちが悪い。
 胸の中の泥がぼこぼこと煮え立って一斉に這い出ようとしている。早くどうにかしないと。このままじゃ、どうしようもない私を――あなたに。
 それは、それだけは。
 お願い。見ないで。

「ーー心配も、させてもらえないのか」
 初めて聞く声だった。噛み締めた奥歯の隙間から絞り出す呻きに、弾かれたように顔をあげる。
 きつく皺の寄った眉根と、伏せられたまつ毛。ぐらぐらと揺れている瞳に宿るのは苛立ちと、寂しさ。
 全身に冷水をかけられたような気がした。
 何かを言うよりも早く、彼は片手で帽子を深く被り直した。帽子と掲げる手で阻まれて完全に見えなくなる。どんな表情をしているのか、わからない。
……いや、いいんだ。気のせいならそれで」
 悪かった。小さく息を吐き、どこか平坦な声に激しく頭を振った。
 もう、聞いていられなかった。
「違うの。ルスランは何も悪くない。悪いのは……
 悪いのは、私。
……ごめんなさい」
 震えそうになる声を必死に張って、長いこと石畳にくっついていた足の裏を無理やり引き剥がす。
 横を通り過ぎる時、顔を見ることはできなかった。


 すずらんの日。幸福の日。
 この日の言い伝えを、すずらんを贈る意味を、花々に込められる想いを私は知っている。
 カフェの窓辺の一輪挿し。店先に白と緑を並べた大通りの花屋さん。すずらんを手によろこびとしあわせを湛えた街のひと達。街中で見かけたいくつもの風景が脳裏によぎる。そして、照れの混じった彼の表情も。けれどそれもすぐに塗りつぶされてしまう。
 一瞬だけ見えた顔はすごく痛そうで。
 大切なひと。彼の前で笑っていたい。彼にも笑っていてほしい。
 それなのに、傷つけてしまった。花を差し出してくれた際の瞳に宿るやさしさとあたたかさを、確かに見ていたはずなのに。どうしてうまくできなかったんだろう。
 ーーこんな私……
 よろよろと壁に寄りかかり、腕に抱いた紙袋に顔を埋める。いくら唇を噛み締めようと、ぼやけた両目から涙があとからあとからつたっていく。頬を拭うことはできず、紙袋に濃いシミをいくつもつくった。
 腕に提げたカゴからは、苦しいほどに甘い香りが漂っている。

*

 橙色に染まってもなお、花びらの白は目に刺さる。
 仕事帰りらしい足早の男性が私の前を横切った。その際麻紐で軽く結われたさりげない花束が目に入り、視線を落とす。石畳に伸びる黒い影は歪で、所々角張っていた。
 背は夕陽でじんわりと温められているのに、胸元はぽっかりと寒々しい。
(せっかく買ったのにな……
 重い瞼に触れる。
 本当ならお世話になっているひと達にすずらんを渡していたはずだったのに。
 帰宅後しばらくは鉛のような体をベッドに放り出していたものの、そのうち耐えられなくなって逃げるように部屋を後にした。決して広くはない部屋、迫り来るあの香りに息ができなくなりそうだったから。

 通りの車のエンジン音と反響する足音を背後で感じたところで、足が止まる。
「あれ……
 視界の先にあったのは見慣れたアパルトマンだった。かつて私が住んでいた場所であり、みんなのーールスランの住居の。
 習慣というものは恐ろしい。
 再びパリへ来た時から、みんながいるアパルトマンや途中でモンマルトルへ引っ越した部屋とはまた違うところに住んでいる。とはいえつながりは途切れることなく、みんな変わらず良くしてくれる。今も足しげく通う大切な場所だ。
 どこの部屋からか夕ご飯のにおいがする。もうじき訪れる夜に向け、窓にはぽつぽつと明かりが灯っている。
 ピアノのある部屋の小窓にいまだ光はなかった。まだ帰っていないのかもしれない。ピアノの音色も聴こえず、ひっそりとしている。

 早く出なきゃ。
 勢いよく踵を返した。あんなことをした手前、ルスランに合わせる顔がない。心も体もぐちゃぐちゃの今、彼に会ってしまったら。もしまたあのような表情をさせてしまったら。今の私を見られてしまったら。今度こそ私は――
(傷つけたのは自分のくせに)
 間髪入れず冷えた声が頭の中で響き、唇を噛んだ。
 寒いわけでもないのにお腹の方から震えがこみ上げる。足元がぐらぐらして座り込んでしまいそうだった。
 まだ部屋には帰りたくない。かといってどこにも行く当てはない。機械的に足を動かしてみても、先ほどの出来事が繰り返し再生される。その果てに辿り着いた場所がここだなんて笑い話にもならなかった。
 どうしたいのか、これからどうすればいいのか、もうわからない。

「あらまあ」
 ギイ、と扉の開く音に肩が跳ねる。
「やっぱりフジコだったのね。窓から姿が見えたから、フジコかなあって思ってたの」
 振り返るよりも先に名前が呼ばれた。マディさんだった。
「ジャムはもう食べた? 昨日ルスランに預けてたのよ」
 柔らかく細められた目元とおおらかな声色。昔からずっと変わらない。
「マディさん……
「あら、あらあらあら……
 瞼が熱くなり、さらに重くなる。
 一度潤んだものは簡単には乾いてくれない。止まったはずなのにみるみる溢れ出して、あっという間に目の前がぼやけた。マディさんがこちらに近づいてくるのがわかったけれど、抑えようとすればするほど喉が膨れ上がってしまって、気づけば子どもみたいに泣いていた。
 とにかくいらっしゃい、と部屋に招き入れられた時の、背中に置かれた手は大きくてとても温かかった。


 紅茶の芳しい香りが鼻腔をくすぐり、固くなっていた首筋が緩む。
 明かりに照らされたビスケットの表面を覆う赤いジャムはきらきらしていて、一口食べると甘酸っぱさがいっぱいに広がった。
「おいしい!」
「そうでしょう! いいイチゴをもらえてね。フジコに食べてもらえて嬉しいわ」
 ルスランに渡してる分もいっぱい食べてちょうだい。マディさんは朗らかに笑って私のカップへおかわりを注いだ。
 テーブルには紅茶のカップとポット、ジャーに詰められたイチゴジャム、小麦色のビスケット、そして真ん中には小瓶に挿してあるすずらんがあった。
……ひどいことしちゃったんです。ルスランに」
 白い花を見つめながら小さく口を開いた。
「ちょっといろいろあって動揺してて……そんな私を見られたくなくて。ルスランは心配してくれてたのに」
 カップを受け取ると、あの時の彼の表情が紅茶に映った。指先からほんのりと伝わる熱も、少し前まで口の中に残っていた甘酸っぱさも消える。
「珍しいわね、あなた達が喧嘩なんて」
「違うんです。私が一方的に……
「じゃあ、突っぱねちゃったとか?」
 眉を下げて苦笑するマディさんに項垂れる。
 喧嘩なんてそんなものではない。『突っぱねた』という表現すらも優しすぎる。私がしたあれは、まごうことなき〝拒絶〟だ。
 隠すことに必死だった。醜さを見られたくなかった。……なんて、自分勝手で嫌なやつなんだろう。彼の気遣いや優しさを手酷く跳ね除けた、心の内をこれっぽっちも考えずに。
 『心配も、させてもらえないのか』。苦しげに発せられた声に滲む苛立ちと寂しさ。どんな思いでそう言ったの。帽子を深く被り直した時、どんな顔をしていたの。

「でも……少し安心したわ」
 息の混じる声がテーブルを挟んで届く。まばたきをすると、マディさんはやんわりと胸の前で手を振った。
「ああ、ごめんなさい。気を悪くしないでほしいのだけど」
 目を伏せ、砂糖を入れてゆっくりかき混ぜる。カップに注がれてはいるものの、その視線はどこか別のところにあった。
「遠い遠い国からパリにやってきて、そりゃあ身内の人もいたにしても、ほら、途中でどこかへ行ってしまわれたでしょう。引っ越しも余儀なくされたし、戦争も差し迫ってる中カフェで働いて薙刀教室もして。千鶴も一緒だったから安心な部分もあったけれど、ここで生活を続けるのはきっと骨が折れることだったはず」
 カップから漂うかすかな湯気と声が混ざり合う。普段快活なマディさんから溢されるその声は、ほんのりと湿り気を帯びていた。
「フジコが再びパリに来るまでにも色々な苦労もあったんじゃないかなって、ね。そんな中でもここで元気に過ごして、顔を見せに来てくれる。もうね、こんなに嬉しいことはないのよ」
 戦争が終わってパリへ戻ってきた私を、マディさんはいの一番に抱きしめて出迎えてくれた。
 パリの状況は大まかながら聞き及んでいたにしても、みんなも街そのものも戦後どうなっているかまではわからない。千鶴も叔父も、いつだって一緒だったマメゾウもおらず、今度こそ完全に一人きり。望んでこの地に戻ることを決めたとはいえ、到着するまで不安と心細さを拭い切ることはできなかった。
 どれほど安心しただろう。その腕の強さとあたたかさに。
「あなたは自立してるわ、昔も今も。それにすごく頑張り屋さんで、大変なことがあっても弱音を吐いたりしない。本当にすごいことよ」
 手を止め、スプーンをソーサーに置いた。ランプで煌々としているのに、瞳の色はどこか薄い。
「けれど、時々心配になるの。無理してないかしらって」
 その言葉に、息が止まった。
「だからこうやって話してくれてちょっとホッとしたわ。気を張らないあなたに会えてよかった」
 フジコには申し訳ないんだけどね。カップに口をつけ喉を潤すマディさんにならい、紅茶を一口含む。
 「無理なんて」と、とっさに出なかった。いつもならすぐさま「そんなことないですよ」と言って笑い飛ばしていたかもしれない。だけど今は息だけが漏れるばかりで、カップを持つ手に力が入る。
 片方の、スカートの裾を握りしめる膝の上の手へと視線を縫い付けていると、「フジコ、」とカチャリとソーサーに置く音が響いた。

「あのね、私達、みんなフジコが大好きなの」
 一言ずつ、はっきりと、マディさんは言った。
「あなたが笑っていても、泣いていても、それは変わらないのよ。嬉しいことがあったら聞きたいし、辛いことがあったらやっぱり話してほしい。そりゃあどうしてもって時は無理に言うことなんてないわ。それはあなたの自由。言わなくてもどうにかなることなんて世の中いくらでもあるんだから」
 だけど、と言葉を切り、ふわりと微笑む。
「これだけは留めておいて、私達はいつだってあなたの味方だし、あなたを大切に思ってるってこと」
 そしてそれはきっと、ルスランも同じね。
 ふとマディさんは窓へと顔を向けた。いつの間にか外はもうすっかり暗く、先ほどまでにはなかった明かりがレースのカーテン越しにいくつも浮かんでいる。もしかしたら灯る一つは彼の部屋かもしれない。
 マディさんが発したその名の音に胸へあたたかな水が流れ込んでくる。同時に、お腹を押さえた。忘れていた震えがよみがえり、言い募る。
……でも」
 でももし、また。傷つけたら。あの表情に加えて、そこへ、もし――

 不意にテーブルの中央の小瓶を取り、マディさんは一枝のすずらんを抜き取った。
「これを」
「えっ、でも」
「おまじないよ」
 私にすずらんを握らせて、両手で包む。手を通じて全身にぬくもりが行き渡っていく。その心地よさにゆっくりと目を閉じた。
「無事に仲直りできますように。憂いが消えて、すべてうまくいきますように。あなたの毎日が、安らかでありますように」
 今度は二人でお茶しに来てちょうだい、ぜひまたおしゃべりしましょ。明るい声でマディさんはウインクをした。


 彼の部屋の扉へと一歩近づくたびに、心臓が跳ねる。
 正直、まだ怖い。……だけど。
 顔を上げて帽子に挿したすずらんに触れると、花びらのきめ細やかさが指の腹をくすぐった。深く息を吸って、吐く。かすかに甘い香りを感じたけれど、息苦しさはもうない。
 震える指を丸めて拳をつくった。わずかに振り上げて、戸を叩く。

*

 雨ざらしで所々剥げた塗装を目でたどる。私が初めてパリを訪れ、ここに住み始めた時からあったそれは今も変わらずアパルトマンの中庭に鎮座し、人々の語らいの場として重宝されている。食べ物を持ち寄ってお茶会をしたり、時間も忘れておしゃべりをしてみたり、時には相談事に乗ったりと、私もここでいろいろな人と話をした。
 そして今も。
「日本にね、『喉元過ぎれば熱さを忘れる』って言葉があるの。日本のことわざの一つなんだけど」
 辛いことも過ぎてしまえばいつかは忘れる。
 悲しみも苦しみも痛みも風化する。どれほど鮮明であろうと時を経れば感覚は遠く鈍くなっていき、最終的には消えてなくなる。
 なのに、どうやら私は忘れていなかったらしい。
「昼間、通りで女の人にすずらんの花を渡しているのを見て、ちょうど思い出してた。昔合格祝いとして千鶴にすずらんを渡してるとこ」
 もう何年も前、それこそ千鶴がオルガさんの元でバレエを習っていた頃。練習生の試験の話を持ちかけられた際、合格できなかった時は諦めろと言われ、それでも夢を追うことを選んで練習生になるために努力を重ねて千鶴が試験に臨んだ日。
「あの頃の私は……端的に言っていろんなことに余裕が無くなってて。自分のことが、好きじゃなかった」
 私が話しやすいようにと、斜向かいに座るルスランの顔がわずかに歪む。ごめんね、と胸の中で漏らした。それどころか嫌いですらあったかも。なんて、とても言えそうにない。
「試験の朝、夢を叶えるか諦めるかを迫られた大一番だったのに、『千鶴なら大丈夫、絶対合格する』って背中を押すことができなかったの」
 才能ある無数の画家と自分では到底描くことのできない無数の作品を前に、絵を描くことそのものから遠ざかっていった。そしてそれは何も絵ばかりではない。
 ずっと胸がざわついていた。どんどん離れていく千鶴との距離に。
「でも、千鶴は合格して。そんな千鶴にルスランはすずらんの花を渡してた」
 〝バレエを踊りたい〟から〝オペラ座の舞台に立ちたい〟と漠然とした夢を見るのではなく、明確な目標として掲げ突き進む千鶴。一方で動けなくなっていた私。突き進み努力した結果夢への第一歩を踏み出して花をもらった千鶴と、何もかも中途半端で停滞したまま一枚も描けていない私。
 突きつけられた。そう、花なんてもらえるはずがない、私なんか。
「でも気にしてたら動けなくなっちゃうから、頭の中でずっと唱えてた。『喉元過ぎれば熱さを忘れる』って。これまでも思うことがあった時は言うようにしてたし」
 夜の湿った風が髪を揺らす。見上げれば月にかかる雲が目に見える速度で流れていた。
 辛いことや嫌なことも、時の中に身を置いていればいつしか消えていく。そう信じて。
「今はもう、自分は自分だって、描きたい気持ちに委ねて絵を描くことができていると思う。時々落ち込んでしまいそうになることもあるけど……でも描けない時があったとしても意味があるんだって、少しずつわかるようになったから。何かを成さなくても私は私。だから大丈夫だって、思えるようになったから」
 完全に立ち止まってしまった私へくれた、ピアノの音色と真っ直ぐな言葉。あれから何年経とうと、胸の奥底のやわいところにあり続けている。
 そしてオペラ座で見た千鶴の舞台。あれを境に私の世界は無限に広がった。何もかもが本当に色鮮やかに見え、駆け巡る衝動に任せてキャンパスに向かい筆を取った日々。あの熱が胸にある限り、私はきっとこれからも心のままに飛んでいける。
 ――だからこそショックだった。
「自分でも忘れてた。あの頃の気持ち……痛みなんてもうなくなったと思ってたのに」
 ほんのちょっとしたことで思い出して、ぐちゃぐちゃになった私が。
 そしてよりにもよって、あなたに知られてしまうことが。
「だからルスランは本当に何も悪くないの。全部、私の問題」

「じゃあ君は忘れることができなかったわけだ」
 それまでずっと私の話に耳を傾けていた彼が口を開いた。静けさの中発せられるその声は淡々として、けれども夜に消えることなく強い。
「それは君にとってとても大切な感情だったからじゃないの」
「そう、なのかな」
「そうだよ」
 薄暗さにもわかるほど彼がしっかりと首肯する。けれどもすぐに、一転して言い淀んだ。
「今日、君がそこまで嫌がるとは思ってなくて突っ込んだこと聞いたけど……
 昼間の出来事がぱっとよみがえる。嫌な胸のつかえと彼の見透かされそうな二つの目、苦しそうな表情が一瞬のうちに過ぎり、膝の上の手を握りしめた。
「フジコはさ、いつだって笑うだろ。自分のことを後回しにして、……気持ちを置き去りにして」
……そんな風に思ってたの」
 知らなかった。私がそう呟けば、「だろうね」とため息混じりに口の端を上げる。
「こっちの取り付く島もなく、まるで何事もなかったかのように笑おうとするから。君が何かを抱え込んでるのはわかるのに」
 それが、嫌だったよ。独り言のように紡がれる声は細く揺らいでいて、鋭い痛みが腹の底から喉へとせり上がる。奥歯を噛み締めて震える息を必死で押し留めた。
『けれど、時々心配になるの。無理してないかしらって』
「あ……
 紅茶の温かさとともにマディさんの声が降ってきて、咄嗟に口へ手をやった。
 ルスランが、マディさんが、いつからそのように思っていたのかはわからない。けれど。
 もしかして私はこれまで大切なひと達を、私を愛してくれるひと達の気持ちを、蔑ろにしてきたんじゃないか。「大丈夫」だと口にするたび、知らず知らずのうちに心を曇らせてしまっていたんじゃないか。
 ひょっとしたら……千鶴にも。
「忘れようとしてうまくいき続けるならそれでいいのかもしれないけど、少なくとも今回は駄目だったってことだろ」
 向き合い続けることも必要な時があるかもしれないし、逆に無駄に暴いて晒すことが必ずしも正解であるとも限らない。だけど同様に、
「無理に忘れたり、蓋をしたりする必要だってないよ」
「動けなくなってしまっても?」
「動けないのならしばらく座っていればいい」
 事もなげな返答に言葉が詰まった。確かに彼の言う通りかもしれない。
 描けなくなった絶望感も、置いていかれるという焦燥感も、迫り来る戦争の足音への恐怖も、ちらつく縁談や帰国を促す実家への鬱屈感も、大切な友達に対する劣等感もない。数年前と比べると取り巻く状況も心情も凪いでいて、息はずっとしやすくなった。
 座り込もうが時は緩やかに過ぎる。生き急がなくていい。でもそうしたら、多分取り繕うこともできなくなるだろう。
「ルスランには……笑ってる私を見ててほしいよ」
「それは困るな」
 ルスランがおどけたように肩をすくめた。
「慌てて怒って、ってしてるフジコも結構面白いのに」
「ちょっと待って、どういう意味?」
 ムッとして言い返せば「ほらね」と彼はくっくっと笑みを溢す。
「痛みも苦しみも何にも感じない、表に出さないって、そんなの人形と同じじゃないか。笑ってるだけのフジコなんてつまらないよ」
 みんなもきっとそう思うんじゃないかな。こちらへの視線を外し、おもむろに背後へと顔を上向けた。夜に包まれた窓々は灯り、あたたかでまろやかな光を帯びている。そこには先ほどまでお邪魔していた部屋も含まれていた。
 ……でも。
「でも私、とっても嫌なやつなんだよ」
「ふうん」
 なおも食い下がる私に彼は目を細めて鼻を鳴らす。わかっている、自分でも面倒くさいことくらいは。だからこそいつも笑っていたいのに。
 押し黙る私へ「まあ君がそこまで言うんだったらひとまずいいよ」と緩く息をついた。
「だけど僕は、そうは思わない」

 塗装の剥げたテーブルに手をかけ、ルスランは椅子を引いた。
「そっちに行ってもいい?」
 小さく頷く。相変わらず瞼は重いし、笑顔からはかけ離れた、ひどい顔をしているだろう。でも構わない。何の根拠もないけれど、それでもいいと、今は思えた。
 ルスランが私のそばに立つ。今日初めて見る柔らかな顔だった。
「君が好きだよ」
 明日の天気を教えてくれるような何気なさで、彼が言う。
「どんな君も好きだよ」
 言葉が全身に染み渡る。
 頭の中でしつこく疼いていた「でも」「だけど」という声が薄れていく。
 芳しい紅茶の温もり。ジャムの瑞々しい甘酸っぱさ。おまもりにともらったすずらんの香り。晴れやかな笑みと染み入る声でおしゃべりをし、背中を押してくれたマディさん。
 ここに住む、明かりの元でそれぞれの夜を迎えているであろう、大切なひと達の顔。交わした言葉と過ごしてきた日々。
 そして今は遠く離れた場所にいる、かつては昏い気持ちすらも抱いてしまった、けれど誰よりも眩しく目が離せなかった私の大切な友達。
『これだけは留めておいて、私達はいつだってあなたの味方だし、あなたを大切に思ってるってこと』
 ――ああ、私、こんなにも。
 夜が徐々に深くなり始めて空気はひんやりとしてきているのに、陽だまりの中にいるみたいだった。
 大好きなひと達をかなしませてしまったかもしれない不甲斐なさはある。悔いもある。だけど何よりも胸に満ち満ちているのは、よろこびと感謝と、愛おしさ。
……うん」
 少なくとも、今この時の私は。
「私も、嫌いじゃない」
「そうか」
 満足げに頷いて、それからルスランは何かに思い至ったように片眉を下げた。
「今この時ほど、絵が描けたらと思ったことはないな」
「どうして?」
「君、いい顔してる。すぐにでも見せてやりたいくらいだ」
……ふふ」
なんとも残念そうに言うのが面白くて、胸がくすぐったかった。

「昼間はごめんね」
 ずっとつかえていた思いがするりとこぼれる。
「ルスランにひどいことをしたわ。あなたはただ心配してくれていたのに」
「いいよ」
 短くも穏やかな言葉に、けれど一瞬考えを巡らせて、彼は「それなら、お願いがあるんだけど」と切り出した。
 ちょっと待ってて。言い残し、中庭を離れて住居のある部屋へと消える。間をおかずして戻ってきた彼が手にするものに、瞳が揺れた。
「今度こそ受け取ってくれないか」
…………ルスランは私を甘やかしすぎだと思う」
「そんなことはないし、もし仮にそうだとしても改めるつもりは一切ないよ」
 数時間前は空に触れるばかりだった両の手のひらに花束が収まる。重さなど何も感じない腕でそっと持ち上げれば、暗がりにも関わらず輝きを失わない白い花々が私を見つめていた。
……いいにおい」
 寄せた頬を花弁が撫でた。風薫る夜に消えゆくことなく、ほのかな香りが私達を包む。


投稿にいいねする


© 2026 Privatter All Rights Reserved.