8/23 GOOD COMIC CITY 32 大阪 発行予定
全年齢│重千│ページ数価格未定
最後に部数アンケートを設置しています。
※こちらの試し読み部分は現在執筆中のため実際に発行した時と多少変更箇所がある可能性があります。
またアンケート終了後はこのページは非公開にします。
@kouhaikin7
1
「ぷはーっ!ビールに小籠包の組み合わせは最高だなぁ!」
賑わう中華街に小五郎の上機嫌な声も加わる。
「もう!お父さんったら!昼間から飲んで!」
プンプンと怒る蘭をよそに小五郎はごきゅごきゅとビールを呷り続ける。
その光景を横目に、ははは、と苦笑いしながらコナンも小籠包に齧り付いた。
「わっ!?」
思いがけず小籠包から熱々のスープが勢いよく飛び出す。
「あっちぃ!」
「大丈夫?コナンくん」
蘭が慌ててしゃがみ、カバンから取り出したポケットティッシュで口元と服を拭いてくれる。
だ、だっせぇ……。恥ずかしさから頬が熱くなる。
「飛んだのは少しだけだね」
「えへへ、ごめんね蘭姉ちゃん」
頭を掻きながら残りの小籠包を口へ運んだ。
「おや、少年ではないか」
どこかで聞いた声に振り向く。
「あっ」
コナンと蘭は同時に声を上げた。
「千速さん!」
萩原千速が向こうから歩いてきた。手にはタピオカミルクティーが二つ。今日は制服姿ではなく私服だ。
「こんなところでどうしたんだ?」
「明日、マラソン選手の国際大会の壮行会パーティに父が招待されてるんです。どうもそのマラソン選手が父のファンらしくて」
蘭の説明にコナンも付け加える。
「せっかくだから横浜観光しようって、僕たちも着いてきたんだ」
「ああ、それなら私も行くぞ」
「へ、そうなの?」
ああ、と千速は頷く。
「そのマラソン選手が優勝した大会で白バイで先導をしたんだ。それで、私にも来て欲しいと言われてな」
そういう理由で白バイ隊員をパーティに招待していいのか。意外だ。警察がそれを受けたということは、パーティへの参加が警察官や白バイの宣伝にもなると考えたからとかなのだろうか。
「千速さんは今日はお休み?」
コナンの質問に千速は頷いた。二つのタピオカミルクティーを掲げる。
「このタピオカミルクティーが美味いらしくてな、友人と飲みに来たんだ」
おーい、千速ー、と遠くで女性が手を振りながら名前を呼ぶ。確かあの女性は、以前千速と一緒にいたのを見たことがある。
「おっと、そろそろ行かないと。また明日会うかもな。じゃあな、少年!」
千速は片目を瞑り、人混みをするすると交わしながら女性の元へ向かっていった。
「お父さん勝手にビール飲んじゃってるし、私たちはあのタピオカミルクティー買おうっか」
「うん、いいね。そうしよう」
蘭と頷き、小五郎は一旦ここに置いてその店を目指した。
『それでは塩川咲選手の活躍を祈念して、乾杯!』
司会の女性の音頭に続いて、乾杯!と会場のあちこちでグラスを鳴らす音が響く。コナンは会場の隅で蘭と乾杯をし、オレンジジュースを飲んだ。
横浜市内のホテルの宴会場には陸上関係者やメディアの取材陣の他にも色んな人間がいるようだった。「あの人も、あの人も!テレビで観たことあるよ」と蘭が小声で教えてくれた。情報番組のコメンテーターやアナウンサー、芸能人までいる。
「にしてもすごい人数だね。あの塩川選手って相当期待されてるんだね」
コナンの言葉に小五郎がああ、と頷く。
「どうも世界新記録も目指せるレベルらしいぞ」
「へー!すごいね!」
蘭は尊敬の眼差しで壇上の塩川を見た。
まだ大学生だという彼女はパンツスーツに長い黒髪をひとつにまとめただけという素朴な見た目をしていた。しかし、背筋をピシリと伸ばし、ワイングラスを持ったまま微動だにしないその姿勢は確かに一般人にはない体幹である。
「それにあの美貌だしな」
「もう!お父さんたら!」
鼻の下を伸ばしてデレデレする小五郎に、相変わらずだなあとコナンは苦笑する。とはいえ小五郎の言う通り、特段着飾っていないのに輝きを放つあの容姿もメディアが注目する要因の一つなのには違いないだろう。
「勿体ないですよ!塩川選手をあんな大学に置いておくなんて!」
前のテーブルの会話が聞こえてきた。熱弁を奮っているからか声が大きい。華やかなスーツ姿の男の声だった。
「休学して海外のチームに在籍し、実績を積んだ方がいいと提案してるんですけどね!」
そう言ってワインをガブガブ飲む。どうやら酔いもあって声がでかくなっているようだった。
「あ、千速さんだ」
蘭の見ている方向を辿ると、今日は制服姿の千速が壁際に立っていた。デレデレした様子のスーツ姿の男性数人に話し掛けられているが、素っ気ない顔をしている。
「毛利探偵!今日は来てくださってありがとうございます!」
グラスを持ってこちらのテーブルに歩み寄ってきた男性に、小五郎はどうもと会釈をした。誰だっけ、とヘルプの目でこちらを見られてもコナン達も困る。
「塩川のサポートチームの友田です」
「ああ、これはどうも」
小五郎は友田と握手を交わした。
「友田さんは塩川選手と同じ大学なんですか?」
「ええ。といっても僕はOBです。うちの陸上部は元々は弱小チームだったので、選手のサポート体制が整っていなかったんです。それが塩川のようなスター選手が突然現れたもんで、急遽OB、OGを掻き集めて塩川をサポートしているんです」
「そうだったんですか」
「塩川が毛利探偵のファンって言っていたので、次の大会の励みになればとご招待させていただきました。あとで是非塩川に会ってやってください」
では、と友田は会釈し、他のテーブルへ向かった。
『黒山監督から挨拶をお願いします』
司会に促され、小柄な男性が壇上に上がる。五十代くらいだろうか。緊張でオドオドしている様子から、場慣れしていないのがよく分かる。元は弱小チームと友田も言っていたので、こういうのは慣れていないのだろう。
『咲、いや、塩川は本当にすごい選手で、私もどう指導してやればいいのか分からないくらいで……その分OB、OGらのサポートチームには助けられています、ええ、はい』
黒山の言葉に自然と拍手が起きる。あちこちで頭を下げているのがそのサポートチームのメンバーなのだろう。
『せっかくの大舞台なので、その、塩川には、頑張ってもらいたいです。彼女が実力を発揮できるよう、えっと、お集まりいただきた皆様に、どうか、どうか、たくさん応援していただければと思います』
たどたどしくも何とか挨拶を終えた黒山が捌け、大きなスクリーンが降りてくる。
『それでは塩川選手の活躍をまとめた映像をご覧下さい』
司会の女性のアナウンスで会場が暗くなり、スクリーンの明るさだけが浮き上がる。
『これから塩川咲選手について紹介させていただきます』
映像のナレーションは男性の声だった。恐らく先程挨拶に来た友田の声だろう。
中学生で陸上部に入部。高校時代は短距離選手として伸び悩んだが、大学では長距離に転向したことで頭角を現し、次期のオリンピックは確実と言われている。
そのきっかけとなった大会が神奈川県で行われたマラソン大会だったようだ。その時の映像が流れる。
「千速さんだ!」
スクリーンに映った白バイ隊員姿の千速を見て蘭が嬉しそうな声を上げる。
『この時の見事な走りから、塩川選手は"横浜の女神"と呼ばれるようになりました』
確かにその走りっぷりは凄く、他の選手をぐんぐん突き放して誰も寄せつけずにゴールを果たした。世界でも期待されているというのも納得だ。
『来月は塩川選手にとって初の国際大会です。どうか皆様応援のほどよろしくお願いします』
ワッと盛大な拍手が起きる。
すごいね、と蘭がこちらを見て拍手をしている。コナンも頷きながらぱちぱちと拍手をした。
そして、スクリーンが暗くなり、ゆっくりと照明がつく。
会場が明るくなり──
キャアアアア!という悲鳴が響き渡る。
「監督!黒山監督!」
青ざめた顔で塩川が仰向けに倒れた黒山を揺さぶっている。目を見開いたまま動かない黒山の口からは血が垂れていた。
「皆さん!その場から動かないでください!」
騒然とする会場に小五郎が叫ぶ。
コナンが黒山に駆け寄る前に千速が先に膝をついて脈を取っていた。その表情からすでに手遅れだと察する。
外傷はない。怪しいのはすぐ近くに転がるグラス。状況からして、毒を飲まされた可能性もあるだろう。
「塩川さん、少し離れましょう」
「監督、監督……っ」
黒山を揺さぶり続ける塩川を千速がそっと引き剥がす。先程まで凛とした表情で壇上にいた同一人物とは思えないほど取り乱し、涙を溢れさせている。
「咲、こっちへ。すぐ隣の控え室で休もう」
千速は力の入らない塩川を立たせ、友田が呼ぶ方向へ連れていく。
それを見送ったコナンは、コソコソと会場を調べることにした。
「またアンタらか、死神一家」
うんざりした顔で小五郎達を見る横溝重悟に苦笑する。酷い言われようだ。
駆け付けた警察によって捜査が始まっていて、会場にいた人間も順に取り調べを受けている。
「で、アンタら三人は一緒にこのテーブルにいたのか」
「うん。会場が暗くなって、映像が流れているスクリーンだけが明るかった。だから完全な暗闇ではなかったんだけど、みんな映像に集中してたから次に明るくなるまで黒山監督が倒れてることに気づかなかったよ」
「なるほどな」
メモをとる重悟の元に「横溝警部!」と刑事が駆け寄り、耳打ちをする。分かった、と重悟は頷き、こちらに向き直る。
「死因は毒殺と断定して良さそうだ。被害者の口腔内、それから床に転がっていたグラスから毒が検出された」
やっぱり、と心の中で頷く。ただ、毒を飲ませることができる人間はあの状況では多数なので絞り込むのは今の段階では難しい。
「で、塩川咲はどこに?」
「塩川選手なら千速さんと隣の部屋だよ」
「千速ぁ!?」
重悟は目を見開いた。
「塩川選手が活躍した大会を白バイ隊員で先導した縁で招待されたんだって」
「あー、そういえばそんなことも言ってたな……」
重悟は頭を掻きながら隣の部屋へ向かった。コナンもそれに便乗し、こっそり後ろをついていく。
「おお、重悟か」
塩川に付き添っていた千速は重悟を見てパッと表情を明るくした。少し重悟の頬も緩む。
塩川の背中を摩るのを止め、千速はこちらに寄ってきた。
「何か分かったか?少年」
千速はにこりとして身体を屈めてコナンに目線を合わせた。
「は?……って、お前ついてきたのかよ!?つーかなんで俺じゃなくてこのボウズに聞く……」
ブチブチと文句を言う重悟をまあまあと千速は笑いながら抑え、コナンを向いた。
「多分あの後調べてたんだろう?」
うん、とコナンは千速に頷く。
「でも今のところは何にも分からなかったよ」
「そうか。こちらも塩川からは何も聞けていない」
塩川は椅子に座って顔を手で覆ったまま項垂れている。
黒山は塩川をどう指導すればいいのか分からないと困っていたようだが、この様子からすると信頼関係はしっかり築けていたようだ。まあこれが演技ではない確証はないが。
「あの、刑事さんすいません」
呼ばれた重悟は部屋の外に出る。コナンと千速もついていくと、そこには司会をしていた女性がいた。
「咲のサポートチームをしている三津です。陸上部のOGです」
三津はスマホを重悟に見せた。
「事情聴取が終わってから家族に遅くなることを連絡しようと思ってスマホを見たら、こんなメールが」
どれどれ、と重悟は画面を見る。そして顔を顰める。
「『これ以上悲劇を起こしたくなければ女神を差し出せ』」
重悟が読み上げた文章に、コナンはハッとして塩川を見た。女神。それはつまり。
「咲は『横浜の女神』と呼ばれています。多分、咲のことなんじゃないかと……」
「なるほど、犯人の目的は彼女か」
重悟は三津からスマホを預かる了承を得て、「送信先を調べてもらってくる」と立ち去った。三津も状況説明のために重悟に連れていかれる。
「今の話、本当ですか?」
はっと振り返ると、青い顔をした塩川が立っていた。まさか、あのメールの内容を知ってしまったのか。
「塩川選手、大丈夫?」
コナンは歩み寄り、塩川を覗き込む。
「私の、私のせいで監督が……」
呼吸が短く、不規則に乱れていく。まずい、と思った時には遅く、塩川は椅子から崩れ落ちて倒れた。
「塩川選手!?」
過呼吸で倒れた塩川はホテル従業員が用意した宿泊室へ運ばれた。
眠る塩川に付き添う千速は、隣で座って考え込むコナンに「なあ少年」と小声で話し掛けた。
「あのメール、どう思う?」
「言葉通り受け取るなら塩川選手の誘拐の予告、かな。だけど、なんか違和感があるんだよね」
「ふむ。違和感か」
「それに、差し出せって言う割にいつ、どこに、って詳細は書かれていなかったから」
「確かにな」
千速も腕を組み、天井を見た。
「犯人は何が目的で塩川咲を狙っているんだろうか」
「そうなんだよね。活躍が期待されている選手とはいえ塩川選手は一般人だ。普段は普通の生活をしているはず。誘拐したいなら人目のあるパーティなんて状況じゃない方がしやすいはず──」
外から足音がして、コナンは会話を止めた。聞き耳を立てると、廊下で何やら揉めている声がする。
椅子から下りて、そっとドアを開けて外を覗く。
「この部屋には入れられません」
「塩川選手は名探偵毛利小五郎のファンなんだろう!?だからこの私が直接話を聞けば少し気も楽になるはずだ!」
部屋の外で警護として立っていた警察官と揉めていたのは小五郎だった。
「あの!咲が倒れたって……!」
そこに、焦った様子で友田が駆けつける。コナンはドアを開け、廊下へ出た。
「塩川選手なら今は落ち着いて眠ってるよ。パニックによる過呼吸だったみたい」
友田はほっとしたように肩の力を抜いた。友田は膝をつき、コナンに目を合わせた。
「そっか……教えてくれてありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
えへへ、と笑うと、上から拳が落ちてきた。
「いったぁ!?」
「おいコラ小僧!どこにもいないと思ったらこんなとこにいやがったのか!」
小五郎に怒鳴られ、ごめんなさぁいとへにゃへにゃと笑う。
「それで毛利探偵、黒山監督を殺した犯人は分かりましたか?」
「へ?」
友田は小五郎に期待の眼差しを向けていた。
「実は咲が毛利探偵のファンというのは嘘で」
「え!?嘘!?」
「ファンは僕なんです。パーティの実行委員の特権を使って招待しちゃいました」
えへへ、と友田は照れ臭そうに頭を掻いた。「そ、そうですか……」と小五郎は少々ガッカリした顔をする。まあ、美人が自分のファンなのだと信じていただけにそうなるか。
「でも、毛利探偵を招待しておいて良かったと思っています。まさかこんなことになるなんて……」
友田は小五郎の手を握った。
「お願いします!黒山監督を殺した犯人を捕まえてください!」
「ああ、はあ、もちろんです」
コナンはじっと友田の手を見ていて、ふと気になった。
「ねえねえ友田さん」
「なにかな?」
友田は小五郎から手を離し、再び膝をついてコナンに目を合わせた。
「友田さんってもしかして学校の先生とか塾講師とかやってる?」
友田は驚いたように目を見開いた。
「え、そうだよ。小学校で先生をやってるよ。でもなんで……」
「僕と話す時、目を合わせるために膝までついてくれるから子どもと話すのに慣れてそうだなあって。それにその手についた赤いインク、もしかしたら先生が採点の時に使う赤ペンかなって。僕の学校の先生もよくそういう手になってるから」
友田は自分の手を見た。赤い線がついている。
「パーティの準備があったから本業の仕事が溜まっていて、朝から採点をしてきたんだ。その時についたんだね」
「先生をしながら塩川選手のサポートもやるって大変じゃない?」
コナンの質問に、友田は困ったように笑った。
「大変だよ。僕らサポートチームは皆それぞれ自分の仕事をしながら咲をサポートしている。でもそれだけうちの陸上部から咲のようなスター選手が出てきたことは奇跡なんだ」
友田は塩川がいる部屋のドアを見詰めた。
「毛利探偵、咲のためにも事件の解決をよろしくお願いします。僕は容疑者なので咲には何もしてあげられませんので」
「ああ、任せてください」
友田は小五郎に会釈をし、来た方向へ戻って行った。
怪しい人物は数人までは絞り込めたが、そこまでだ。まだ動機も分からない。
「毛利さん、ちょっといいですか」
警察官が小五郎を呼びに来たのを見て、コナンはサッと小五郎に盗聴器をつけた。
パーティの参加者はかなりの人数だったので、事情聴取にも時間が掛かる。そのためホテル側が部屋を休憩用として提供してくれることになった。殺人が起きているため元々の宿泊はすべてキャンセルになっているので部屋は使い放題なのだ。
コナンは一旦自分達のために用意された部屋へ戻ることにした。小五郎のあの様子からして、蘭も心配しているはずだ。
「もうコナンくん!どこ行ってたの!」
案の定蘭にも怒られ、ごめんなさぁいと謝る。
部屋のテーブルにはサンドイッチと水のペットボトルが三本置かれていた。
「ホテルの人が軽食とお水を用意してくれたの。コナンくんも食べる?」
「うん、いただきます」
サンドイッチに手を伸ばし、ぱくりと齧り付く。ハムにキュウリというシンプルなサンドイッチだ。
「美味しいね」
「そうだね。でもお父さんたら、『せっかく横浜なんだから焼売とかが良かった』なんて言うのよ」
「あはは……そうなんだぁ」
おもてなしじゃないのに焼売なんて用意してくれるかよ。まあ確かに横浜と言えば焼売だが。
小五郎に取り付けた盗聴器からは順調に捜査の内容が流れてきている。それを聞きつつサンドイッチを頬張る。
コンコンとノックされ、蘭が立ち上がる。
「少年たちの部屋はここだったか」
ひょこりと顔を出したのは千速だった。
「千速さん!」
「やはりそれだけだったか」
千速の目線はテーブルのサンドイッチを向いていた。
「良かったらいるか?カップ麺だが」
「え、そんな、悪いです」
遠慮する蘭に「気にするな」とからりと笑い、袋から取り出したカップ麺を三つ並べた。
「千速さん、塩川選手は?」
「さっき目が覚めたよ。少し落ち着いていたので、今は事情聴取だ」
なるほど、それで千速は塩川から離れて休憩を取っているのだろう。
千速のスマホの着信音が鳴り、千速は「ちょっと」と片手を上げて部屋の外へ出た。
「ん、重悟か。……ああ、分かった。そっちへ行く」
何か進展があったようだ。部屋の中から千速の話し声を聞いていたコナンは残ったサンドイッチを口に詰め込んだ。
「あ!僕落し物しちゃったみたい!ちょっと探してくるね!」
「え、コナンくん大丈夫?」
「大丈夫ー!」
蘭に手を振り、廊下に出る。すでに歩き出した千速の後を追う。
千速が向かったのは塩川が寝かされていた部屋だった。さっと角の壁に隠れ、様子を伺う。
千速はドアをノックしようとしたが、ピタリと動きを止めた。くるりと方向転換したかと思うと、コツコツとこちらに向かってくる。
え!?
千速は焦るコナンを笑顔で見下ろしていた。
「来ると思ってたぞ」
「え、えへへ……」
千速はひょいとコナンを脇に抱えた。またこの運ばれ方である。
「やっと来たか千速……って、またそのボウズも連れてきたのかよ」
うげ、と重悟はコナンに視線を向ける。
「頼りになるんだからいいだろう」
そう言って千速はコナンを床に下ろした。
コナンは千速をちらりと見て、首を傾げた。前々か
思っていたが、どうして千速はコナンのことを無条件に信頼してくれるのだろう。大抵の大人はコナンを子どもだと思ってあしらったり、逆に勘の良さを怪しんだりする。だけど千速は出会った時から違った。
「で、犯人からのメールは?」
「ああ」
重悟は千速にスマホを渡した。しかしそのスマホは三津のものではない。重悟は「そこにいる塩川さんのスマホだ」と説明した。
「塩川さんの事情聴取をしている最中に、彼女のスマホにメールが来た」
「『明日の十四時にこの住所へ一人で来い。来なかったり一人じゃなかった場合、お前の仲間を殺す』か」
千速はメールを読み上げ、その画面をコナンにも見せた。
「ちなみにそのメールアドレスは使い捨てのアドレスだった。一応送信した場所を探っているが、ここから辿るのはあまりあてにはできないな」
確かにここから辿られないように犯人も何らかの対策をしているだろう。
「ねえ、どうして塩川選手はこのメールを警察に見せたの?」
ベッドに腰をかけて俯く塩川にコナンは訊ねる。
塩川からすれば、また身近な人が殺されることになるなら警察にはこのメールは見せずに一人で犯人の元へ行くという選択肢もあったはずだ。
「……私は、黒山監督を殺した犯人を絶対に許しません。だから、警察の皆さんに提案したんです。私を囮にして犯人を捕まえてほしいと」
塩川は膝の上で拳をギリッと握り締めた。
「無論そんな危ないことをさせるわけにはいかないから止めてるんだが、なかなか納得してもらえなくてな……」
「なるほど。それで説得のために私を呼んだ、と」
千速は腕を組み、何かを考え込んだ。塩川をじいっと見ている。
「…………」
千速の視線がゆっくりとコナンを向く。えっ、と思ったのと同時に、千速はニコッと笑った。それはまさに女神──ではなく、悪戯っ子の笑みだった。
「塩川さんのその作戦を使わせてもらおうじゃないか」
「は!?正気か!?」
慌てる重悟に千速は「まあ聞け」と手で制する。
「彼女本人を囮にするとは言っていない」
「はあ!?」
そう言って千速はコナンを見た。もう分かっただろう、という目だ。この信頼は、本当に何なんだろう……。コナンは苦笑いをする。
「どういうことだ、千速」
「だから、ルシファーの時と同じだ。入れ替わり作戦だ」
「入れ替わりって、誰と……」
千速は重悟に向けてウインクをした。
重悟は反対していたが、千速が自ら上に作戦を持ちかけた結果見事に通ってしまい、決行することになった。
重悟は頭を抱えたが、上が決めたからにはやるしかなくなってしまったので腹を括ったらしい。
「まず私と重悟は誰にも気づかれないよう深夜のうちにホテルから抜け出す。その数時間後、塩川が一人でホテルから出る。塩川がいなくなったという情報をホテル内に流す。これで犯人は塩川が指定の場所へ向かったと思うだろう」
「そのまま塩川は警察が別の場所で保護、指定の場所へは変装した千速が向かう。離れた位置から俺が待機、頃合いを見て犯人確保という流れだな」
ああ、と千速は頷き、黒髪のウィッグを被った。服はすでに塩川が着替えとして持ってきていた私服を着ている。ウィッグだけではさすがにまだ千速なので、サングラスとマスクをつける。
「で、なんでボウズがまだいるんだ!?」
「私が少年に協力を頼んだんだ」
憤る重悟を宥めるように千速がポンポンと肩を叩く。
「犯人は一人とは限らないし、我々も大人数ではいけない。重悟のことは頼りにしているが、万が一ということもあるからな」
「だからって、こいつは子どもだぞ」
「うん。だから少年が危ない時は頼んだぞ重悟」
「矛盾してるだろ!?」
二人のやり取りに苦笑しながらコナンは蘭に『千速さんのお手伝いすることになったから千速さん達のお部屋で泊まるね。心配しないでね』とメールを送る。これでも心配はかけるだろうが、何も言わないよりはマシだろう。
「よし、そろそろ行くか」
三人は誰にも見つからないようにホテルの裏口から外へ出た。深夜の真っ暗な中を進み、離れた場所に停めていた車に乗り込む。運転席は重悟、助手席に千速、そして後部座席にコナンが座る。
「朝までどうするんだ?」
「私の家だ」
「はあ?なんでだよ?」
「三人が寝ても問題ないくらい広いから」
千速の言葉に特別な感情は籠っていなかったが、重悟は小さく息を詰めた。「分かった」とエンジンをかけ、車を発進させる。
「重悟、事情聴取の方はどうなってる?怪しい人間はもうかなり絞れてきているんだろう?」
「まあな」
重悟は運転しながら話し始めた。
一人目は塩川のサポートチームの友田。陸上部のOBで小学校の教師。リーダー的ポジションで、現在のサポートチームのメンバーは友田が集めたという。リーダーでありながら優しい人柄で怒っているところをほぼ見たことがないが、どうやら少し前に黒山監督と揉めていたっぽいところをサポートチームの一人が目撃している。
二人目は同じくサポートチームの三津。陸上部のOGで友田とは同学年。理系学部出身で、現在はロボット開発の会社に勤めている。パーティでは司会を務めていて、マイクの受け渡しにより、最後に黒山監督と接触したと思われる人物。
三人目はスポーツ記者の酒口。塩川の活躍を連載として記事にしているが、ここ最近は黒山監督に休学して海外のチームに在籍し、マラソン選手としてのキャリアを積むのを提案していたらしい。黒山監督がそれを断ったので憤っていたとか。
「その人なら僕も見たかも」
「あ?そうなのか?」
「うん。僕らのテーブルの近くにいて、同じ話を本人がしてたから」
やたら声のでかい派手なスーツ姿の男をコナンは思い出していた。
「塩川選手は?」
コナンが訊ねると、「一応容疑者から外れた」と重悟が答える。
「犯行時間と思われる塩川の活躍映像の視聴中に、塩川のことをずっと撮影していた記者がいたんだ」
千速は重悟のカバンから封筒を取り出し、それをコナンに渡した。中からは複数枚の写真が出てきた。
暗い室内、スクリーンの明かりに顔が照らされた塩川が写っている。これがアリバイということなのだろう。
そんな話をしているうちに重悟は車を駐車し始めた。近くのコインパーキングに停めるようだ。
誰にもつけられていないことを確認し、千速の自宅に上がる。
「さあ入れ。遠慮せず寛ぐといい」
鍵を開け、千速は部屋の電気をつけた。千速の言う通りリビングも結構広い。
「毛布を用意する」と千速は隣の部屋に入った。
「おい千速、洗濯物」
「ああ悪い悪い。バタバタしてて。その辺に避けておいてくれ」
重悟は溜息をつきながらソファに広げられた洗濯物を拾い集める。うっかり下着を掴んだ時は固まったが。コナンも咄嗟に顔を背ける。
「毛布持ってきたぞ」
ウィッグを外しいつもの姿に戻った千速は重悟とコナンに一枚ずつ毛布を渡した。
「じゃあ、私は自分の部屋で寝るから」
そう言って千速はあっさり自室へ入ってしまった。
リビングに残されたコナンと重悟は顔を見合わせる。
「……俺はその辺で寝る。お前がソファ使え」
「え、いいの?」
「床は慣れてる」
重悟はゴロリと床に寝転び、毛布を被った。
「ありがとう、横溝警部」
「別に。あ、電気消しといてくれ」
素っ気ない返事だが、ちゃんと優しいところがあるんだよな、と頬を緩める。
「じゃあおやすみなさい」
「おう」
コナンはリモコンで部屋の電気を消し、ソファの上に丸まった。
とはいえ、こういう状況だと目が冴えてしまうものだ。少しでも寝て、明日に備えないといけないとは分かっているが。
「横溝警部、寝た?」
「寝た」
雑な返事が返ってきて苦笑する。しっかり起きているじゃないか。まあ、恐らく重悟も同じようにすぐには眠れないのだろう。
「眠くなるまでちょっとお喋りしない?」
「しねぇ。さっさと寝ろ」
「えーっと、じゃあ、千速さんと横溝警部って付き合ってるの?」
「……いいから寝ろ」
この反応からして。まだ付き合っていなかったのか。以前二人のやり取りを見た蘭が「いい感じ」も表したが、どうやらあれから進展はないようだ。
「告白しないの?」
「寝、ろ!」
はあい、と唇を尖らせ、コナンは毛布を深く被り、目を瞑った。
──どれくらい寝れただろうか。
ふと意識が浮上し、目が開く。ぼんやりしながら身体を起こす。
部屋の中は暗い。しかし、明かりが漏れている部屋があった。
ソファから降り、物音を立てないよう静かに歩く。寝ている重悟を起こさないように。
そして、少しだけ開いたドアをそっと覗く。
千速の部屋──にしては男性的な。この中で千速は天井をぼんやりと見上げて立っていた。
コナンの視線に気づき、「悪い、眩しかったか?」と眉を下げた。ううん、たまたま目が覚めただけ、とコナンは小声で返す。
「そうか。私もなんか目が覚めてしまってな」
でももう寝るよ、明日も忙しいから。そう呟いて部屋から出てきた千速は少し寂しそうだった。
そのやりとりを横になったまま重悟が静かに聞いていたことは、コナンも千速も知らない──
朝食は千速が用意してくれた。買い出し行ってないから何も無いと言っていたのに、トーストの上に卵焼きをのせてくれていた。少しの焦げはご愛嬌だろう。
「向こうは予定通り塩川がホテルを出たらしい。今のところはホテル内で怪しい動きをしている者は見つかっていないようだ」
「そうか。じゃあこれを食べたら私達も指定の場所付近へ向かおう」
千速はパクパクとトーストを食べ、「変装してくる」と自室へ入っていった。昨夜千速がいた部屋とは違う。
「ねえ横溝警部。千速さんってここに誰かと住んでるの?」
「……家族だ」
家族か……。だとすると、あの部屋主は父親、もしくは兄弟。兄弟だとすると、千速が以前話してくれた、亡くなった弟だろうか。
「そっか。だから広いって言ってたんだね」
重悟の眉が少しだけ動いた。
「……早く食ってしまえ。千速は準備早いぞ」
そういう重悟はすでに食べ終えたようで、千速の分の皿も手に取り、キッチンへ入っていった。それを見てコナンも慌てて残りのトーストを頬張る。
車で指定されている場所付近へ向かい、まだ車から降りずに周囲を走りながら怪しい人物を探す。
「今のところそれらしき人物や車両は見当たらないな」
「ああ。それに真昼間の都会だからとにかく人と車が多過ぎる」
「こんなところで本当に人を攫う気なのか」
コナンも車の窓から街の様子を観察していたが、確かに通行人が多い。しかも犯人と思われる人物から指定された場所というのが歩道橋の上だ。犯人は何が目的なのか──。
「そろそろ向かおう」
車を停め、千速が先に降りる。
「千速さん、気をつけてね」
「いざという時は頼むぞ。重悟、少年」
そう言って千速は歩道橋の方へ向かった。
「アイツ……自分からこんな作戦を提案したくせに結構不安なんだな」
「え?そうなの?」
コナンからすればいつもの不敵な千速に見えたが。付き合いの長い重悟からすれば見えるものが違うのだろうか。
「まあそりゃそうか。バイクがあれば当然アイツは無敵だが、今回はバイクに乗っていない。体術が飛び抜けているわけじゃないしな」
「……バイク」
コナンはボソッと呟きながら歩道橋を見上げた。
──なんだか胸騒ぎがする。
「よし、俺達も車から降りるぞ」
二人も車から出て、ひとまず歩道橋の近くまで移動する。千速はもう上まで上がっているが、犯人に仲間を連れてきたことをバレるわけにはいかないのでコナン達は歩道橋の上までは行けない。街中なら隠れ場所はあるが、歩道橋の上では潜伏が難しい。もしかすると昼間のこの場所を犯人が選んだのは、それが目的なのかもしれない。
犯人追跡眼鏡の機能を使って千速の姿を捉える。変装した千速は歩道橋の真ん中に向かって歩いている。
重悟のスマホが震える。「はい、こちら横溝」と電話に出る。
「──何!?塩川が逃走した!?」
え!?
コナンはバッと歩道橋を見上げた。上では千速と男が戦っている。
偶然男の手が千速のウィッグに引っ掛かり、サングラスごと落ちてしまう。警察官が変装していたとバレてしまった。
しかし、男の反応は予想とは違った。
「その顔……『風の女神』か」
──なんだと……!?
どうしてこの男が千速をその呼び名で呼ぶのか。コナンの頭の中で今まで感じていた違和感が駆け巡る。
『これ以上悲劇を起こしたくなければ女神を差し出せ』というメール。
「そうだね。でもお父さんたら、『せっかく横浜なんだから焼売とかが良かった』なんて言うのよ」という蘭の何気ない科白。
何故、あのメールでは塩川咲を表す『横浜の女神』ではなく、『女神』としか書かなかったのか。
奴らが示す『女神』は塩川ではないから。
──千速さん!
「横溝警部!千速さんが危ない!」
十四時に歩道橋の真ん中に来い。
指定通りの位置に、塩川に変装した千速は立った。
さて、どこにいるのか。目だけで辺りを見渡す。
千速以外にも複数人の通行人がいる。やはりここで犯行するにはかなり目立つ。
前方から歩いてきた眼鏡のサラリーマンがスっと千速のすぐ横を抜けようとした──
「塩川咲だな。大人しくついてこい」
耳元で指示される。その低くざらついた声に、ザワっと鳥肌が立つ。
「ついてくるのはお前の方だ」
サラリーマン風の男の腕を取り、後方に捻り上げる。体重を乗せ、その場に跪かせる。
「その声……塩川咲じゃないな」
「塩川に変装しているとはいえこの距離でも偽物だと気づかないところを見ると、ターゲットである塩川の顔をよく知らないようだな。お前は何者だ?」
突然女が男の腕を捻り上げるという異様な光景を目の当たりにした通行人は、ざわつきながら少し距離を開けて見学をし始める。
この状況はかなり不都合なのか、男は舌打ちをした。
「クソっ!離せ!」
男は強引に千速を振り払った。
そして重心を切り返し、千速に向けて拳を振りかぶる。
「ッ!」
どうにか拳が身体に当たるのは避けたが、ウィッグに男の手が引っかかった。マズイ、と思った時にはもうウィッグが千速から外れ、一緒にサングラスも地面に落ちてしまった。
「その顔……『風の女神』か」
千速の素顔を見た男の顔が、にたりと歪む。その嫌な笑みに、思わずゾッと寒気がした。
「塩川咲を餌にして釣るつもりだったが、その手間が省けた」
「は……?」
何を言っているのか──千速はごくりと唾を飲んだ。
「千速さん!逃げて!」
歩道橋の手すりをスケートボードで駆け上がってきたコナンの叫び声が後方で響く。
「奴らの本当の目的は千速さんだ!」
「なっ──!?」
千速はコナンの声に反応し、男から距離を取った。しかし、千速に狙いを定めた男の動きは速かった。一瞬でその距離を詰めてくる。
懐から出したスプレーを千速の顔面に吹き付ける。
「うっ!?」
目が痛くて開けられない。催涙スプレーの類いだろうか。
がっと腕を掴まれ、引き摺られる。
「この!千速さんを離せ!」
コナンはスケートボードで勢いよく男に突っ込もうとした。が──その行く手を野次馬の中にいたキャップを目深く被った男に阻まれる。
「クソっ!」
モタモタしているうちにサラリーマン風の男が千速を引き摺って反対側の階段から降りようとしている。
「ボウズ!頭下げろ!」
背後から聞こえた声に、コナンは咄嗟に身を屈めた。
ブンっと風を切る音。続いてガツッとぶつかる音。キャップの男が仰向けに吹っ飛んだ。
「横溝警部!」
重悟がキャップの男を腕力で吹っ飛ばしたのだ。脳震盪を起こしたのか、キャップの男は目を回してぶっ倒れた。
そのまま重悟は全速力で走る。そして、千速に手を伸ばす。
「千速ーーーーッ!」
千速の手を掴み、ぐっと引き寄せる。抵抗するサラリーマン風を蹴り、緩んだところで一気に千速を男から引き剥がす。
「大丈夫か?」
「あ、ああ。ただ、目が」
千速は片手で目を擦る。
「小僧、千速を頼む!」
駆けつけたコナンに千速を託し、重悟は逃げようとするサラリーマン風の男を追い掛ける。
「重悟!」
千速はまだチカチカする視界の中で重悟の背中を追う。階段のすぐそこで重悟とサラリーマン風の男が揉み合っている。
それを見て、唐突に嫌な予感を覚えた。
重悟、ダメだ、深追いするな!
コナンの制止を振り払い、千速は駆け出す。
──重悟!
目の前で重悟がサラリーマン風の男と共に階段から落ちていくのが見えた。
嘘だろ。千速は目を見開いた。血の気が低く。
「重悟ぉーーーー!」
千速の叫び声が響く。
手すりに縋り付きながら階段を駆け下り、一番下まで転げ落ちた重悟の元へ向かう。
頼む、無事でいてくれ。ドクドクと心臓が鳴る。嫌な汗が止まらない。
サラリーマン風の男はいなくなっていた。重悟一人だけが地面に横向きで倒れている。
「重悟!しっかりしろ、重悟!」
額から血が流れているのを見つけ、目眩を覚えた。嫌な想像が脳裏を過ぎる。どうしよう、重悟が、重悟までが。
視界がぐるぐると回る。周囲の音とコナンの声がやけに遠く聞こえた。
2
『やっと電話繋がった!』
蘭はコナンに対して少し怒った口調だった。
千速達の部屋で泊まるとメールは送っていたものの、あの騒動の後からしばらく音信不通にしてしまったのでそれは心配を掛けたことだろう。ごめんなさい蘭姉ちゃん、と素直に謝る。
『コナンくん今どこ?』
「横溝警部が運ばれた病院」
『横溝警部は大丈夫?』
「打撲と切り傷はあるけど検査の結果は異常なしだって。でも、まだ目が覚めなくて」
『……そうなんだ』
重悟は階段から転げ落ちたため脳などの検査を受けた。その検査から病室に運ばれた重悟の傍にずっと千速が付き添っている。
『塩川選手が容疑者として捜索されることになって、ホテル内にいた人達は自由に帰れることになったんだけど、お父さんが捜査協力で神奈川県警に行ってるから私はそのままホテルにいるの』
サラリーマン風の男は取り逃したが、仲間と思われるキャップの男は捕まえることができたので今頃取り調べをしているだろう。
『コナンくんもこっちに戻ってくる?』
「うん……」
あまり蘭を心配かけるわけにもいないので、ここは一旦ホテルに戻った方が良いかもしれない。
だが、千速のことが気がかりだ。
病院の外にも中にも警察が配備されているが、犯人の目的が千速だと分かった以上、警戒する必要がある。
それに。
──「重悟、しっかりしろ、重悟」
悲壮な顔で重悟に縋り付く千速は初めて見る千速だった。彼女を一人にしていいのだろうか。
『タクシーでそっちに迎えに行こうか?』
「えっと……」
どうしようか悩んでいるコナンの目の前を、つかつかと千速が通り過ぎる。そのままロビーを抜け、玄関から出ていく。
──え!!千速さん、どこへ行くんだ!?
「ごめん蘭姉ちゃん!まだ戻れない!」
慌てて電話を切り、千速を追い掛ける。
「萩原警部補、どこへ行くんですか!」
「どいてくれ、行きたいところがあるんだ」
千速は玄関で警察官に止められていた。そりゃそうだ。狙われている人間をそう簡単に出させるわけにはいかない。
「ねえねえ千速さん」
「少年?」
千速と警察官の間に入り込み、千速を見上げる。
「蘭姉ちゃんに早く帰ってきなさいって言われちゃって……僕ホテルに戻りたいから連れて行ってくれる?」
お願い、と千速に手を合わせる。
千速は口元でニッと笑い、コナンを抱き上げた。
「そういうことだ」
「ええ……」
少々強引に押し切り、病院を出ることに成功した。
病院の近くにいたタクシーを掴まえ、乗り込む。
「この住所へお願いします」
千速はスマホを運転手に見せた。運転手はナビを設定し、タクシーを発進させる。
「いいの?横溝警部の傍にいなくて」
「私は警察官だ。正義のためにやるべきことがある」
千速はそう言って、窓に頬杖をついた。
まず向かったのは出版社だった。上司から応接室に呼び出された酒口は迷惑そうな顔をしていた。パーティで見た派手なスーツではなく、今日は少しくたびれたシャツとジーパンだ。
「アポなしで来て、何の用ですか?」
「散々事情聴取を受けた後で申し訳ありません。私、神奈川県警の」
「知ってますよ。萩原千速さんでしょ」
名乗る前に向こうから名前を言い当てられた千速は静かにまばたきをした。
「塩川咲が優勝したマラソン大会で白バイに乗って先導していた人でしょ?勿論俺もあの日取材してましたし、美人白バイがいるって結構話題になってましたからね」
ドサッと椅子に腰をかけた酒口は「で、何が聞きたいんですか?」と訊ねた。
「殺された黒山さんに、塩川の海外チーム移籍の件を断られて憤ってらっしゃったとお聞きしましたが、それは事実ですか?」
「ああそうだよ。スポーツ雑誌の陸上を長年担当してるもんでね。塩川の走りを見て、天才が現れたとすぐ分かりましたよ。あんな大学の弱小チームで選手として旬の時期を過ごすのは勿体ないって。俺のツテで海外チームを紹介するって言ってんのにハッキリ断りやがって」
その当時の苛立ちが蘇ったのか、酒口は舌打ちをした。
千速はコナンを見た。コナンは小さく頷き、ねえねえ、と口を開いた。
「それって、塩川選手自身は海外チームに行きたかったのかな?」
「知らねぇよ。本人と直接やり取りをすることは止めてくれと言われてたからな。でもあんな天才だからな、本心は海外に行きたかったんじゃねえかと俺は思っている」
「じゃあ酒口さんはいつも黒山監督とやり取りしてたんだ?」
「ああ。あとは、友田だな。ほら、サポートチームの」
友田の名前が出てきて、コナンは千速と目を合わせた。
「友田さんとはどんなやり取りを?」
千速が訊ねると、酒口は面倒くさそうに「同じだよ。海外チームへの所属を勧めた」と答えた。
「友田は俺の話に納得してたようだがな。黒山を説得してみるーなんて言ってたが失敗したみたいだったな」
「……そうですか」
お話ありがとうございます、と千速は会釈をした。
「ああ、それから警察のお仲間から聞いてるだろうが、映像を流してる間に塩川のことをずっと撮影していた記者は俺のことだ。つまり、犯行時間に動いていない俺にはアリバイがあるってことだからな」
出版社の次に向かったのは、三津の勤める会社だった。
こちらも事情を話すとすぐに三津を呼んでもらえることになった。三津が来るまで社内のカフェで待つように案内される。
「何か注文するならしていいぞ。あれ以来食べてないだろう」
千速がテーブルに設置されていたメニューを渡してくれる。
「千速さんは?」
「私は、いい」
食欲ない、とぽそりと呟いた。やはり、いつも通りを装っているものの平常心のままではいられないようだ。
「僕もお腹空いてないから食べ物はいいや。でも何も頼まないのもあれだし、飲み物だけ注文しない?」
コナンの提案に、千速は「確かにな」と頷いた。
スマホでQRコードを読み込み、コーヒーとコーラを注文する。
「お待たせ致しました。ご注文の商品をお届けしました」
あっという間にコーヒーとコーラが届き、テーブルに置かれる。しかし、運んできてくれた人物に驚く。
「え、ロボット……!?」
銀色のボディをした人型のロボット。しかし、人かと思うほど滑らかな動きだった。機械音は聞こえるものの、歩く姿もかなり人間に近い。
「どうですか?弊社の開発品は」
「三津さん」
「お待たせしてすいません。会議が長引いちゃいまして」
そう言って三津は二人の前に座った。
三津はパンツスーツの上から白衣を羽織っていた。いかにも研究員という格好である。
「すごいね、人かと思うくらい自然な動きだった」
コナンの感想に三津は目を細めた。
「ありがとう。うちでは主に介護や災害時などに活躍できるロボットを開発していて、私も関わっているの」
「へー!すごいね!」
「特に人間に近い身体の使い方にこだわっていて、そのために私はロボットだけじゃなく人体の勉強もしてたの。その経験もあって友田くんからサポートチームに誘われたのよ。おかげで咲のフォーム作りに少しは役立てたと思う」
そして三津は持ってきた紙袋からノートを数冊取り出した。
「サポートチームに関わってからつけていたノートです。こんなものに手掛かりなんてないかもしれませんが、良かったら」
「ご協力ありがとうございます。有難くお預かりします」
千速はノートを受け取った。そして、改めて三津を向く。
「ところで貴方は黒山さんに最後に接触した人間ですよね。あの時の状況を教えていただけますか?」
「確かにあの時私は黒山監督にマイクの受け渡しをしました。でも映像を流している間は次の段取りを台本で確認していましたので監督の飲み物に毒を入れる暇なんて……」
「それを見ていた人は?」
「音響や照明を担当していた同じサポートチームのメンバーにずっと電話で指示を出していました。スマホで通話をしながら台本を持って、こういう感じで」
その時の手元を三津が再現する。左手でスマホを待ち、膝の上に乗せた台本を右手でめくる仕草をする。これを映像を流している間ずっとやっていたらしい。
コナンが小五郎に取り付けた盗聴器からも同じ話が聞けたので、三津の説明に矛盾はない。音響と照明の担当からも三津と通話したことを証言されている。実際に三津との通話履歴を確認すると、通話時間は証言通り映像を流している時間中ずっと続けられていたようだ。
──『三津先輩の指示はいつも的確で助かるんです』
──『友田先輩はサポートチームの外交役って感じですね』
音響と照明の二人はそう話していた。
ブー、ブー、とバイブ音が鳴る。
「あ、すいません」
三津は胸ポケットからスマホを取り出し、「はい、すぐ戻ります」と受け答えをした。
「すいません、上司に呼び出されてしまいまして」
通話を終えた三津はスマホを操作しながら立ち上がった。
「いえ、こちらこそお忙しいところありがとうございました」
千速も椅子から立ち、会釈をする。
その時、三津のスマホがきらりと変な反射をしていることに気づき、コナンは目を凝らした。あれは。
「あれ?三津さんのスマホの画面割れてるよ?」
ああ、と三津は恥ずかしそうに割れたスマホの画面を見せた。
「割れたのはガラスの保護シートなんだけど今朝床に落としちゃって。慌ててネット通販で新しいものを注文したのよ」
三津はそのままスマホを胸ポケットに収納し、カフェを出ていった。
「これを飲んだら行こう」
千速はそう言ってコーヒーをぐいと呷った。
「最後は友田さんのところだね」
「友田には事前に連絡を取ってある。友田自身がホテルに来てくれることになっているから私達もホテルへ向かうぞ」
うん、とコナンは頷き、残りのコーラをストローで吸い上げた。
タクシーでホテルへ向かう頃には日が暮れていた。ロビーでちょうど友田と合流できたので、そのまま千速が用意した部屋へ移動する。
「すいません、こんな時間になってしまって」
仕事帰りだという友田はポロシャツにジャージという格好だった。勤務している小学校は運動会が近いためずっとこの服装らしい。
「で、聞きたいこととは?大抵のことはもうすでに警察の方にお話していますが……」
「黒山さんが殺された時間、友田さんは何をされていたのかもう一度聞きたくて」
「僕は一箇所に留まらず、ずっとウロウロしていました。進行の段取りもありましたし、各テーブルのゲストの挨拶回りもしてましたから」
小五郎の元に挨拶に来た友田の姿を思い出す。ああいう感じで回っていたのだろう。
「ただ、それを正確に証言してくれる人はいませんけどね……」
疲れたようにそう言う友田の様子からして、事情聴取をした警察からも散々疑われたのだろう。
「僕が黒山監督と揉めていたことで疑われてるんですよね」
「それなんだけど、どうして揉めていたの?塩川選手の海外移籍のこと?」
コナンが訊ねると、塩川は「そう」と頷いた。
「酒口さんからその話を聞いた時、僕も未来ある咲にはそういう選択肢も有りじゃないかと思ったよ。黒山監督を説得しようとした時に熱が入っちゃって、それが揉めてるように見えたんだろうね」
そうなんだ……と頷きつつも考え込む仕草をするコナンに千速が「何か気になることがあるのか?」と聞く。
「うん……どうして黒山監督は塩川選手が海外移籍することを嫌がってたんだろう?監督は友田さんみたいに塩川選手の将来のことを考えて海外行きを勧めなかったのかなって」
「ああ、それなんだけど」
コナンの疑問にハッとしたように友田が慌てて補足してきた。
「黒山監督も最初は咲に海外へ行くことを勧めたらしいんだ」
「え?そうなの?」
「でも咲自身がやりたがらなかったから、咲の気持ちを尊重してそこからは全部黒山監督が断るようになったみたい。咲って人見知りだからね」
なるほど、そういう経緯があったからこそ酒口は黒山監督にシャットアウトされていると思ったのだろう。
「だからこそ、あの優しい黒山監督が殺されたのが許せないし、咲が監督を殺すなんて信じられない……」
友田は窓から外を見た。まるで逃亡を続ける塩川を
探すように。
「あれ?友田さん、腕時計光ってるよ」
「え?ああ。妻からのメールだ」
友田はスマートウォッチを操作し、苦笑した。
「いつ帰ってくるんだ?ってメールだ」
「遅くならせてしまってすいません」
「いえいえ。僕としても警察の方には早く犯人を捕まえて欲しいですし、それによって僕の無実も証明されることになりますから」
そう言いながら友田は手をぱたぱたと振った。コナンはその腕をじっと見詰めた。
友田をホテルの外へ見送り、千速はググッと伸びをした。
「では私も帰るとしよう」
千速は膝に手を置き、コナンに目を合わせた。
「ここまで付き合ってくれてありがとう、少年」
「……え?」
「これは少年に託そう」
きょとんとするコナンに千速は三津から借りたノートを渡した。そしてひらりと手を振り、立ち去ろうとする。
「待って!千速さん!まさか一人で帰るの?」
「ホテルまで来れば乗ってきた自分のバイクがあるからな」
「そうじゃなくて……!」
いつまた奴らが千速を狙ってくるか分からない状況なのだ。単独行動は危険過ぎる。
「平気だ。もう今日は帰って休むだけだからな」
「でも」
「少年もあまり周りに心配を掛けてはいけないぞ」
そのある意味突き放すような言い方に、千速は最初からここでコナンを置いていくつもりだったのだと気づく。だから最後の友田はわざわざホテルまで来てもらったのだ。
バイブ音が鳴り、千速はポケットからスマホを取り出した。
「はい、そうです……え?」
千速の目が大きく見開かれる。
「重悟が、目を覚ました?」
バイクで病院へ向かい、重悟のいる病室へ駆け付ける。逸る気持ちを抑え、静かにドアを開けて中へ入る。
重悟はベッドで上体を起こしていた。その横に医師と看護師がいて、何かを会話している。
本当に目を覚ましていることをこの目で確認し、ほっとする。
「重悟……!」
ベッドへ駆け寄ると、重悟はこちらを見た。
額にガーゼを貼り付けられた重悟は、千速を見て目を丸くした。そして、口を開く──
「誰だ、アンタ」
重悟から出た一言に、千速は固まった。
「は……?何を言ってるんだ……」
声が震える。こちらは心配していたのに、こんな面白くもない冗談を吐くなんて酷いではないか……
重悟は困惑の目で千速を見ている。
──重悟は冗談を言っているわけではない。それをすぐに察した。
呆然とする千速に、医師は「同僚の方ですか?」と話し掛けた。
「記憶を失っておられるようです」
色々検査をしたが原因は分からない。脳に異常はない。一時的なものなのかこのまま戻らないのか──
医師が千速に説明をしているが、水の中にいるように鈍く響いてよく聞き取れない。
「っ……」
くらりと目眩を覚え、堪らずしゃがみ込む。
「大丈夫ですか?」
看護師が千速に駆け寄る。
「ああ……いや、大丈夫じゃない、か」
「こちらへ」
看護師に連れられ、とりあえず病室から出た。
休憩スペースのソファでしばらく休んでいるうちに少し冷静になってきた。
「すいません、萩原警部補。少しいいですか?」
落ち着いてきた千速の元に、付き添いで来ていた捜査一課の重悟の同僚が現れる。
「怪我自体は軽いものだったのですぐにでも退院できるようですが、なんせ横溝警部が記憶喪失なのでこれからどうしようかと」
「実家のご両親は?」
「連絡したんですが海外旅行中らしく、すぐ帰国の準備をするけど飛行機が取れないらしく、時間がかかると……」
そうか、と千速は頷く。重悟には双子の兄弟がいるが、彼もまた静岡の警察官だ。距離もそうだし、職業柄記憶のない重悟を受け入れるのは難しいだろう。
「なので、ご両親が到着するまでこのまま入院してもらおうかと──」
「私が引き受けよう」
「えっ?」
被せてきた千速の言葉に、重悟の同僚はまばたきをした。
「えっと、萩原警部補が……?」
「重悟は私が連れて帰る。そう上に伝えてくれ」
千速の突拍子のない提案は案外すんなり受け入れられた。多少揉めることも想定していただけに千速自身が拍子抜けした。
重悟は千速の自宅へ連れて帰る。ただしそれを認める条件として、千速も自宅で待機することを命じられた。
現時点で犯人側から狙われているらしい千速を好きにウロウロさせるよりも自宅で大人しくしてもらえる方が警察としても都合が良かったのだろう。自宅周辺に警備もつかせると言われた。
退院の手続きを済ませ、警察が用意した車で自宅まで送ってもらい、重悟を連れて帰宅した。
一応この状況をコナンにも報告しておこうと思いメールを送っておいた。千速を一人にさせることを心配していたので、これで少しは安心してくれることだろう。
「おい……いいのか?」
「何がだ?」
「その、一人暮らしの女性の家に男を連れ込んで……」
申し訳なさそうな重悟を見て、千速はふっと笑う。
「私と重悟の仲ではないか。気にするな」
「仲……!?」
重悟は顔を赤らめる。いつもならこの反応をする重悟をからかって遊ぶところだが、記憶のない重悟にそれをするほど鬼ではない。変に勘違いをさせたくなかった。
「ああ、付き合ってるとかではないぞ?仕事仲間として長い間仲良くしてるってだけだ。家に来るのも初めてではない」
家に来たことがあるといっても重悟に送ってもらったくらいのもので、部屋に上げるのも泊めるのは昨夜が初めてだったが、それは黙っておこう。あれはコナンがいたから上がっただけで、二人きりになる状況だったら恐らく重悟は上がらなかった。
せっかくだし上がっていけと誘っても絶対に上がろうとしないのが重悟だった。それを忍に話すと、誠実だけど意気地無し、と一刀両断していて笑った覚えがある。
今は記憶もなく行くところがないので仕方なく千速についてきているだけで、そういう根の部分は変わらないところにほっとした。
「そうだ、これ重悟のスマホ。一応預かってきた」
千速はスマホを重悟に持たせた。階段から落ちた時に画面に貼ったガラスフィルムは割れてしまったものの、故障はなさそうだった。
「お腹空いた……」
千速はぼそりと呟き、下腹部に手を当てた。
ずっと食欲がなかったが、ここにきて身体が空腹を感じるようになってきた。さすがに何か食べようと冷蔵庫を開けたところで、食料があまりなかったことを思い出す。
仕方なくストックしておいたカップ麺を出してきた。ヤカンでお湯を沸かしながらリビングの重悟を覗き見る。
重悟はソファに腰を掛け、居心地悪そうにソワソワしている。
「重悟、カップ麺食べるか?」
千速が声を掛けると、重悟はビクッと肩を跳ねさせた。
「い、いや、俺はいい……」
「そうか」
とりあえず千速の分だけカップ麺を用意することにした。お湯を注ぎ、キッチンタイマーをセットする。
明日のご飯はどうしようか。勝手に外に出て買い出しに行っていいものだろうか。外で警備している警察官に相談の連絡を入れると、必要なものはこちらで買ってくるので家から出るなと言われた。それはそうだ。
スマホを見ると、コナンから返信が来ていた。重悟の記憶喪失のことは心配だが、とりあえず怪我自体は軽くて良かった。そういう内容の文章は本当にあの歳の子どもかと思わされる。
鳴り響くキッチンタイマーを止め、カップ麺と箸を持ってリビングへ移動する。テーブルにつき、蓋を剥がしてラーメンをすする。
一口食べれば思いの外空腹だったと気付かされる。まともに食べたのは朝以来だ。
ずるずる、ずるずる。
夢中になってラーメンを食べていたが、ふと視線を感じて顔を上げる。ソファに座っている重悟がこちらを見ていた。
「なんだ……?食べづらいじゃないか」
「ああ、悪い。良い食いっぷりだと思って、つい」
褒め言葉なのか貶されてるのか微妙な科白だが、重悟のこれは恐らく前者だ。それが分かるだけに、妙に恥ずかしくて顔がじわっと熱くなる。照れている己を誤魔化すようにラーメンを一気にすすった。
「ご馳走様」
「え?もう食ったのか?」
「警察官は食べるの早いぞ」
お前もその警察官だろうが、という言葉は飲み込み、完食したカップ麺の容器をキッチンへ運ぶ。
「シャワー浴びてくる」
「お、おう」
シャワーという単語にドキマギする重悟が中学生のリアクションでおもしろくなり、からかいたくなった。
「覗いてもいいぞ」
「だっ誰が!覗くか!?」
真っ赤な顔をして口をパクパクさせる重悟をふっと笑い、千速は風呂場へ向かった。
服を脱ぎ、浴室へ入る。少し熱めのシャワーを浴びると、身体がスッキリするような気がした。思った以上に疲れている。でも多分身体よりも気疲れの方だ。
髪と身体を洗いながら、疑わしい三人と会ったことを思い返す。
アリバイがある二人、アリバイがない一人。そして、未だ行方を眩ませる者が一人……。
状況だけなら怪しいのはアリバイが証明できていない友田だ。だが、どうも友田が犯人には思えない。コナンも何か引っ掛かると言いたげな表情だった。
シャワーを済ませ、部屋着に着替える。フェイスタオルをお湯で絞ってリビングへ持っていく。
「重悟。重悟は傷だらけだからシャワー無理なんだろう?これで傷のないところを拭くといい」
「ああ。ありがとう」
重悟はタオルを受け取り、シャツを脱ごうとした。が、ぴたりと動きを止める。
「……そこで見てるのか?」
「恥ずかしいのか?」
「恥ずかしいわけないだろ」
そう言いながらも千速に背を向けてからようやくシャツを脱いだ。見ないふりをしつつ、重悟の様子を盗み見する。
脱いだことで擦り傷と打撲がいくつも露わになっている。千速もこういう怪我はしょっちゅうなので見慣れたものではある。が、階段から落ちたのに目に見える怪我がこれだけで済んだのは不幸中の幸いだろう。今更肝が冷えた。
「……拭くの手伝おう」
重悟の手からタオルを奪い取る。「は!?」と動揺しながらタオルを奪い返そうとする重悟に「その傷を避けながら背中を拭くのは大変だろう」とその手を押し退ける。
深そうな傷は避けながら背中を拭っていく。
それにしても幅広い背中である。そして、筋肉質で硬い。ガタイがいいのは知っていたが、服の下がこういう感じというのは初めて見た。
「……見慣れてるのか」
背中だというのに、まじまじと見ていたのがバレたのか。
「いや、初めて見た」
「そ、そうなのか」
「さっきも言ったが、私と重悟はそういう関係じゃないぞ」
はい終わり、とタオルを重悟に返す。
「拭き終わったらタオルは脱衣場に置いておいてくれ。私は寝る用意をしてくる」
「……おう」
重悟を残して千速はリビングを後にした。
重悟をどこで寝かせようか──そう思いながら研二の部屋のドアを見る。
細々としたものはさすがに整理したものの、大きな家具はそのままにしている。なのでベッドもある。寝るだけなら十分過ぎる。
ドアノブに手を伸ばし掛けて、すんでのところで辞めた。じとりと手汗が滲んでいる。
小さく息を吐き出し、自分の部屋へ向かう。
客用の布団という名のほぼ忍しか使うことのない布団を引っ張り出し、リビングへ運んでいく。
身体を拭き終わったらしい重悟は服を着直していた。それを見て、寝る時は楽な服装が良いよなと気づくが、生憎重悟が着れそうな服はこの家にはない。明日の買い出しにそれも頼もう。
「床ですまないな」
そう言って布団を敷こうとすると重悟が千速の手から受け取り、自ら敷いてくれた。怪我人のくせによく働く。
「私は自分の部屋で寝るから、ゆっくりしてくれ」
おやすみ、と重悟をリビングに残して自室へ戻ろうとした。
「何から何まで悪いな」
その重悟の申し訳なさそうな声に、思わず足を止める。振り返り、重悟を見る。
「重悟、謝らないでくれないか。私がしたくてしていることだから」
「……ああ」
渋々頷く重悟に千速は口許を緩め、もう一度「おやすみ」と告げた。
重悟が男を追い掛ける。
──重悟、やめろ……!
階段のすぐそこで重悟とサラリーマン風の男が揉み合っている。
──重悟、ダメだ、深追いするな!
目の前で重悟がサラリーマン風の男と共に階段から落ちていく。
重悟は地面に横向きで倒れている。額からは血。
──重悟!しっかりしろ、重悟!
どれだけ必死に名前を呼んでも重悟は目を覚まさない。地面にどくどくと赤黒い血の池が広がっていく。
「重悟ッ……!」
自分の声に、ハッと目を開ける。
目の前は見慣れた天井。チクタクという時計の秒針の音と千速の乱れた呼吸だけが部屋に響く。
「夢……」
ほ、と息を吐く。
まさか、昨日の出来事が夢にまで出てくるのは。重悟は生きているのに、と自嘲する。
時刻はまだ深夜。まだこんな時間か、とガックリした。
身体を起こし、ベッドから降りる。自室を出てリビングをそっと覗く。
重悟は千速の用意した布団の中で眠っていた。良かった、ちゃんと眠れているらしい。
足音を立てないようにリビングへ入り、ソファに腰をかける。
疲れているし眠気はある。だけど、どうももう一回寝る気にはなれない。またあの夢を見たらどうしよう、と潜在的に怯えているのかもしれない。情けない。
手足の先が冷たい。寒くないのに、末端に血が通っていない。
ちらりと重悟を見る。重悟から漏れる安らかな寝息を聞くと少し身体の緊張が和らいだ。
温かそう。ふらりと立ち上がり、重悟の傍に膝をつく。
布団の中にそっと手を入れてみると、ほこほこと温かかった。これは布団の効果なのか、重悟の体温なのか。
少しだけ。少しだけなら。
重悟を起こさないように、ゆっくりと布団の中に潜り込む。
自分は何をしているんだろうと思うが、止められなかった。
温まったらすぐに出ていく。そう決めて、重悟の隣で横になった。
3
「おい……おい、起きろ……」
微睡みの中で、重悟の声がした。
──重悟?
なんで重悟の声が?あれ、ここどこだっけ?
ふわふわした思考の中で、思い出す。
そうだ。昨夜眠れなくなって、寒くて、それで重悟の布団に……
布団?
「うわぁぁあっ!?」
はっと目を開け、跳ね起きる。
すぐ横に気まずそうな顔をする重悟が座っている。や、やってしまった……!
少しだけ暖を取るだけのつもりだったのに、あのまま寝てしまった。そして、こうして重悟にそれがバレている。
羞恥で顔が熱くなり、顔を手で覆った。
「アンタ、なんでここで寝てたんだ?」
「……忘れてくれ」
千速はのそのそと布団から出て、逃げるようにそのまま自室へ飛び込んだ。
うう、と唸りながらしゃがみ込む。しばらくこの家で二人きりだというのに、初っ端からこんな失態をしてしまうなんて。この後が気まずくて仕方ない。
かといって家から出ることができないし、このまま部屋に引きこもっているわけにもいかないのが現実だ。
よし、気持ちを切り替えよう。割り切って堂々としていれば重悟も突っ込めないはずだ。
パン、と両頬を叩き、すくりと立ち上がる。テキパキとした動きで着替えを済ませ、部屋から出る。
とりあえず朝食だ。さすがの重悟も空腹だろう。
意気込んで冷蔵庫を開けたが、何もないのを見てそうだった、と肩を落とす。今朝は卵ももうない。昨日で使い切ってしまった。
かろうじて残っていたトーストにバターを乗せて焼く。そしてデザートにフルーツの缶詰を開けて皿へ移してどうにか彩りを作る。
「重悟、朝ごはんだ」
ほら、と重悟の前にトーストとフルーツを置く。
「おう……ありがとな」
重悟はやはり気まずそうにこちらをチラチラ見てくるが、その視線に気づかないふりをする。頼むから触れてくれるな、という雰囲気を醸しつつ、千速も席について手を合わせた。
パクパクとトーストを齧り、フルーツを掻き込む。あっという間に完食する千速を重悟は唖然とした目で見ていた。
スマホを手に取り、外で警備している警察官に買い出しメモを送る。
スマホをテーブルに置き、もそもそとトーストを食べる重悟を向く。
「それにしても、本当に何も覚えてないのか?」
「ああ、そうだよ」
「全く?」
「全くだな」
重悟の記憶を取り戻す方法も考えないといけない。脳の検査で異常がないから恐らく何かのきっかけで思い出すのでは、というのが医師の考えだが。
「なら、これを食べたら重悟がどういう男だったか話してやろう」
「俺のことを?」
「ああ。話を聞くうちに何か思い出すかもしれないだろう?」
まばたきをする重悟に、千速は口許を緩めた。
「コーヒーをいれてくる。ゆっくり話そう。時間はいくらでもあるからな」
千速は腰を上げ、片目を瞑った。
──『それで、次はどうするんだ?』
──『萩原千速を捕らえる』
──『でも警察が邪魔で近付けないぞ』
──『考えがある。餌を使う』
──『餌……?アイツか』
──『そうだ。餌を使って誘い出す』
▼部数アンケートにご協力お願いします。
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSe_KlO5Dfe1k1pv25EvQQwLKBulYGQ-ptfj3CCGkgE9cKB8-g/viewform?usp=publish-editor