@taiga_hsh
■ scene1「赤ずきんの便箋」/ sideアヤカ
十一月の中旬だった。
大学の講義が終わって、校舎を出ると冷たい風が来た。空は白く曇っていて、日が落ちるのが早かった。十一月の夕方はもう暗い。マフラーを巻き直しながら正門に向かう。落ち葉が風に吹かれて、石畳の上を転がっていった。
正門を出たとき、見覚えのある人影があった。
壁に背中を預けて、スマートフォンを見ている。コートを着ていたが、首元にネクタイが見えた。
リチャードだった。
知っているはずの顔なのに、一瞬だけ、別の人みたいに見えた。ローラースケートを履いて路地を走っていた人と、壁に背中を預けてスマートフォンを見ているこの人が、同じだと頭が追いつくまで、少し時間がかかった。
周りの学生が、ちらちらと視線を向けていた。目立つ。正門前でスーツ姿の外国人が壁に寄りかかっていたら、必然的にそうなる。リチャードは気にしていないようだった。スマートフォンから顔を上げて、アヤカを見つけると、軽く手を挙げた。
「……いつから待ってたの」
「三十分くらいだろうか。寒いな、ここ。風が抜けるんだ」
「連絡してくれれば」
「先に連絡しても、断るだろうと思ってな」
返す言葉がなかった。たぶん、断らなかった。でも連絡が来ていたら、身構えていたと思う。こうして突然現れた方が、余計なことを考えずに済んだ。それはそうかもしれなかった。
リチャードが手を伸ばして、アヤカの鞄をさりげなく持った。渡した覚えはない。でも自然な動きだったから、止める間もなかった。
「ねえ、返して」
「重いだろう。教科書でも入ってるのか」
「入ってる。でも自分で持てる」
「知ってる。俺が持ちたいんだ」
それだけ言って、リチャードは歩き出した。アヤカは半歩遅れて、並んだ。
数歩歩いてから、リチャードがこちらを見た。
「久しぶりだな」
「……うん。久しぶり」
アヤカの部屋で話し合って以来、一ヶ月半ぶりの再会だった。連絡はしていた。リチャードからも来たし、アヤカからも送った。でも会えなかった。買収後の引き継ぎ、フランスにある本社との調整、新体制への移行。リチャードは怒涛の日々を送っており、それはメッセージの短さや、返事が来る時間帯で分かった。
久しぶりに目の前にいる。
一ヶ月半分の、リチャードがそこにいた。仕事終わりにそのまま来たのか、スーツを着ていた。ダイナーでスケートを履いていたときとも、あの夜廊下に立っていたときとも、別人のように見えた。
「歩くか」
リチャードが言った。どこかに行こう、でも、何か食べよう、でもない。ただ、歩くか、だった。アヤカが頷くと、当たり前のように並んで歩き出した。
特に行き先は決めなかった。大学の近くの住宅街に入って、ただ並んで歩いた。冬の夕方は早く日が落ち、薄暗くなる前に街灯がついて、吐く息が白くなった。
歩く間、リチャードの話を聞いていた。フランスに行ったこと。本社での引き継ぎが思ったより手間取ったこと。父と、顔を合わせたこと。
「お父さんと、話したの?」
「ああ。業務上、避けられなかったからな。向こうは何も知らずにいたよ。自分の会社が乗っ取られたと気づいたのは、最後の最後だったろう。ざまあみろと思った」
最後の一言は、独り言みたいだった。父へ向ける言葉はそれだけでいい、憎しみや怒りは元よりない。そんな響きだった。アヤカは間を置いて、
「どうだった」
「記憶の中にあった父よりも、やけに小さく見えた。どんな戦もいつかは終わるものだ。終わった。それで十分だ」
リチャードの言葉が、冬の空気の中に溶けた。終わった。だから、これ以上先に喜びも悔いも悲しみもない。リチャードらしい考えだった。引きずることなく、沈むことなく、ただ前に進もうとしている。
アヤカは何も言わなかった。言わなくていい気がした。
しばらく黙って歩いた。
「そういえば、パリでとんでもないものを食ったぞ」
唐突にリチャードが言った。静まり返った二人の空気を変えるように、その声はいつもより明るかった。
「何を食べたの?」
「エスカルゴだ。会食でな。食器ごと下げることもできたが、食べるのを一瞬躊躇ったな」
「嫌いなの」
「嫌いではない。ただ、見た目が問題だ。あれは慣れが必要だと思う」
「フランス人なのに」
「フランス人でも苦手なものはある。アヤカは食べられるか」
「食べたことない」
「そうか!今度一緒に食べよう。案外うまい」
「いらない」
「食わず嫌いはよくないぞ。遠慮することはない。俺と一緒に食べよう、アヤカ」
リチャードが声に出して笑った。久しぶりに聞く笑い声だった。一ヶ月半、メッセージの文字の中にはなかった笑い声だった。
それから、二人は今までの空白を埋めるように色んな事を話した。
「大学はどうだ。後期も忙しいか」
「まあ。レポートが重なってる」
「何のレポートだ」
「文化人類学と、あと比較文学」
「比較文学か。面白そうだな。何を読んでいる」
「今はカフカ」
「カフカ!いいチョイスだな。『変身』か?」
「『審判』だよ。教授が解説してくれる」
「難解だが、読み応えのある作品だ。感想を聞かせてくれ」
「リチャードに?」
「ああ。それとも、俺じゃだめか?」
だめではない。ただ、リチャードがカフカを読んでいることが少し意外だった。意外そうな顔をしたのか、リチャードが「読むのは英雄譚だけじゃないぞ」と少し得意そうに言った。その言い方に、また笑ってしまった。
街灯の下を通るたびに、二人の影が伸びては消えた。コートのポケットに手を入れて歩くアヤカの隣で、リチャードはコートの前を開けたままだった。寒くないのか、と思ったが、なんとなく聞かなかった。
二人の間に、ちょうど一人分の隙間があった。手が届く距離だった。でも届かなかった。いつもそうだったように、今日も変わらずそうだった。
商店街に差し掛かったとき、アヤカが歩く足を少し緩めた。
「ちょっと寄っていい?」
文房具屋だった。こじんまりとした店で、木製のドアを開けると紙とインクの混じった匂いがした。棚に便箋や封筒が所狭しと並んでいる。
「Aに送るのか」
「……うん」
「それなら良い紙を使うといい。書く気になるかどうかが変わるからな」
アヤカは棚を眺めた。白いもの、罫線のあるもの、花柄のもの。
ふと、手が止まった。
赤ずきんの便箋だった。森の中を歩く小さな女の子が、表に描いてある。シンプルだが、丁寧な絵だった。
Aは童話が好きだった。子供の頃、棚に童話の本が並んでいたことを覚えている。膝の上に座って、Aの読み聞かせてくれる声に耳を傾けていた。思い出すだけで胸の辺りが温かくなる、そんな幸せな記憶がある。それはとても、幸運な事だ。
「……これにする。すみません、会計を」
レジで払おうとしたら、リチャードが先にスマートフォンを出していた。流れるようにバーコード決済を終わらせ、負けじと鞄からスマートフォンを出そうとした手まで封じられた。完敗だ。
「後で返すから」
「手紙が届いたら、それで十分だ。書いたらまた教えてくれ。Aからの返事が気になるんだ」
袋を受け取った。中に、赤ずきんがいた。Aは、どんな顔をして読んでくれるのだろう。手紙を書く前から、そんな事を考えてしまう。
店を出て、賑わいと静けさの両立する商店街を並んで歩く。
「アヤカ」
「なに?」
「会いたかった」
さらっと言った。いつもの調子だった。でも、いつもより少し低い声だった。
「……私も」
気づいたら、声に出ていた。言おうとしたわけじゃない。
リチャードが少し笑った気配がした。何かを言うかと思ったら、何も言わなかった。その沈黙が、責めているわけでも、喜んでいるわけでもなく、ただそこにあった。アヤカも何も言わなかった。言えなかったわけじゃない。言わなくていい気がした。ただ、並んで歩き続けた。隣にいる距離はさっきと変わらなかった。手が届く距離のまま、届かないままだった。
二人の関係は、まだ名前がない。付き合っているとも言えない。でも離れてもいない。ただ、離れないことだけは、どちらもあの夜に決めていた。
アヤカのマンションの前まで来たとき、リチャードが立ち止まった。鞄を返してくれた。
「今日は帰る」
「うん」
「また来る。今週末、時間あるか」
アヤカは間を置いた。
「……あるよ」
「じゃあ決まりだ。連絡するから返事をくれ」
リチャードが踵を返した。コートの背中が、冬の夜の中に遠ざかっていく。いつもと違って、スケートの音がしない。静かな別れだった。
アヤカはしばらく、その場に立っていた。
また来る、と言った。来るだろう、と思った。来てほしい、とも思った。昔だったら、きっと否定していたその気持ちを、アヤカは胸の中にそっとしまった。
■ scene2「行ってくる、前に」/ sideリチャード
フランスに行くことが決まったのは、週の初めだった。
フランスの本社から連絡が来た。買収後の経営方針について、直接話し合いの場を設けたいという。リチャードは応の返事をして、四日後の便を取った。
その日の午前中、都内に構えたオフィスの執務室で仲間の報告を受けるリチャードがいた。
ニミュエがリチャードの目の前に書類を置いた。薄い手袋をした指先が、テーブルの上で几帳面に角を揃える。
「フランスへの送金は完了しております。現地での経費枠も確保しました。何かご変更があればお早めに」
「ありがとう。助かったよ」
「いえ。——それと」
ニミュエが書類から目を上げて、リチャードに柔らかく微笑みかけた。並の男なら勘違いするだろうが、リチャードにとっては姉に抱く感情に近かった。
「此度の件、アリエノール様もお喜びでした。先日、ご連絡をいただきまして」
リチャードは書類に視線を落としたまま、「そうか。母上が」と独り言のように呟いた。ニミュエはそれ以上何も付け加えなかった。それで十分だと分かっているような、静かな間だった。
ニミュエと入れ替わるように、執務室のドアが開いた。
作業服の男がぬっと入ってきた。帽子を目深に被っていて、顔の半分が影になっている。男は椅子に座らないまま、テーブルの端に薄いファイルを置いて、立ったまま口を開いた。
「本社、出席者六名。うち二名、先方から追加。財務担当と法務担当」
「想定内だ。追加の資料は」
「入れてある」
リチャードがファイルを手に取った。ページをめくりながら、
「ピエール」
「ん」
「今回も助かった」
ピエールは何も言わず、帽子のつばを少し下げた。それが彼なりの返事だった。
ピエールが出ていくのと入れ替わりに、ロクスレイが入ってきた。書類を小脇に抱えて、椅子に腰を下ろす前に「渋谷の件、動きました」と報告に入る。
「どう動いた」
「隣接する不動産の所有者が売却を検討し始めています。タイミング的に悪くない。ただ、先方はまだ迷っている。強く出ると逃げる気がします」
「急かすな。向こうが決めるまで待て」
「いつまで待ちますか」
「向こうが決めるまでだ」
リチャードの迷いない言葉にロクスレイが溜息をついて呆れた顔をした。それから、
「ニミュエさんとピエールの報告は」
「ああ、さっき聞いた」
「そうですか。——ピエールの追加情報、もう回ってましたか。早いな、あいつ」
「お前も早いぞ。フランス本社への根回し、お前の仕業だろう。助かった」
「……まあ、やることやっただけだ」
敬語が、するりと抜けていた。気づいたのか気づいていないのか、書類に目を落としてそのまま続けた。
「フランスでの段取りですが、本社到着翌日に経営会議、その翌日から各部署との折衝を三日で回す予定です。早ければ十日、遅くとも二週間で切り上げられます」
「先方の財務担当と法務担当が追加になった。そこへの根回しは」
「既に動いています。ニミュエさんが昨日のうちに連絡を入れました」
「さすがだな」
ロクスレイが書類を何枚かめくりながら、
「それと」
一瞬、言い淀んだようだった。
「仕事の話です。——沙条さんのことですが、今後どうされるつもりですか」
「戻ってから話す」
「戻ってから、ですか」
「ああ。話したいことがあるんだ。彼女と、二人で」
ロクスレイが何かを確かめるような顔をした。それから、
「……そうですか」
追及はしなかった。この男はいつもそうだ。聞くべきことは聞いて、それ以上は踏み込まない。書類をまとめながら、さりげなく付け加えた。
「フランスのお土産、よろしくお願いします」
「買わない」
「えっ」
「戻ったらやることがあるからな。土産を買う暇はない」
ロクスレイが何か言いたそうな顔をしたが、リチャードはもうコートを手に取っていた。
***
翌日の夕方、アヤカのマンションに向かった。
前回と同じ道を歩いた。街路樹の葉が色づき、道路には落ち葉が増えていた。十一月の終わりが近い。
階段を上って、ドアをノックする。しばらくしてドアが開いた先に、アヤカが部屋着で立っていた。ニットのセーターに、ゆったりしたパンツ。風呂上がりだろうか、少し髪を整えた痕跡があった。
それだけで、入ろうかという気持ちになった。こらえた。
「……入る?」
視線が泳ぐアヤカの様子を見て、また気持ちが揺らぐ。先の予定が無ければ即決で入っていた。
「いや、いい。すぐ帰るつもりだからな」
リチャードの言葉に、アヤカが目を瞬かせた。
「立ち話でいいの?」
「ああ。長居したら、行きたくなくなるからな」
言ってしまった、と思った。そんなことを口に出すつもりじゃなかったのに、出てしまった。顔を上げると、アヤカの頬がかすかに色づいた。とにかくこらえろと自分に言い聞かせた。
廊下に立ったまま、少し話した。フランスでの仕事の話。本社との折衝、経営方針の擦り合わせ。
「大変そうだね」
「忙しくはあるが、嫌いじゃない。人を動かすのは面白いからな。怒鳴っても人は動かない。でも、この人のために動きたいと思わせたら、面白いくらいよく動くんだ」
「リチャードはそういうの上手そう」
「褒めてくれているのか。アヤカは褒め上手だな」
なにそれ、と微笑むアヤカの柔らかな雰囲気がリチャードをここに留めようとする。アヤカ自身がそうしようと思ってしているわけでないのに。
「日本には、いつ戻るの」
「二週間くらいだな。早ければ十日になるかもしれない。こればかりは、な」
「……そっか」
アヤカはドアに手をかけたまま、リチャードを見ていた。何か言いたそうな顔だった。でも言葉が出てこない、という顔でもあった。アヤカがよくする顔だった。
しばらく、どちらも動かなかった。
廊下の蛍光灯が、白い光を落としている。
「アヤカ」
「ん」
「フランスから帰ったら、またここに来る」
「……うん」
「その時、話したいことがある」
アヤカの視線が、リチャードの胸元あたりをさまよった。
「……話したいことって、なに」
「戻ってから言う」
アヤカが眉をひそめた。焦らすな、という顔に、リチャードは眉を下げて笑った。
「今言ったら、行けなくなる」
アヤカの視線が下に落ちた。少し考えるような間があった。
行けなくなる、という言い方だった。行きたくない、ではない。でもその二つは、ほとんど同じことだと互いに理解していた。
廊下の蛍光灯が、白い光を落としている。どこかの部屋から夕飯の匂いがした。醤油と、何か甘いものが混じった匂い。いつもと同じ廊下だった。なのに、少し違って見えた。
「……待ってる」
視線を外したまま、リチャードを真正面から見ていなかった。でも、その言葉だけは確かに、冬の廊下に残った。
アヤカの方へ一歩動きかけて、止まった。手が、伸びかけて、戻った。
「行ってくる」
「……うん」
アヤカが小さく頷いた。引き止めなかったが、ドアノブを握ったまま、ドアを閉めなかった。リチャードが階段に向かって歩き出しても、まだそこに立っていた。
階段を下りながら、リチャードは振り返らなかった。
長居したら行きたくなくなる、それは本心だった。髪を整えた痕跡があったアヤカを見た瞬間、やっぱり入ろうかと揺れたが、入らなかった。入ってしまったら、フランスのことが全部遠くなる気がした。
待ってる、と言ってくれた。
エントランスを出ると、冬の冷たい夜気が顔に当たった。空を見上げると、星が出ていた。
早く戻ろう。話したいことがある。全部、戻ってから伝えよう。
四日後、リチャードはフランスに向かった。