書きたいところだけを書いた掌篇が4つ。設定もバラバラで、すべて独立しています。
知らない人だったり、同僚だったり、身体だけの関係だったり、付き合ってたり、いろいろです。
@Bombwooo
1.
終電の窓は、いつ見ても同じ色をしている。
暗いガラスに、車内の明かりが薄く映る。外ではビルの灯りも、閉まりかけた店の看板も、駅を出るたびゆっくり流れてゆく。だが、疲れた目には大した違いは見えない。さっき通った駅も、次に近づいてくる駅も、黒い板に白や赤の光を貼りつけただけに思える。
向かい側の窓の上には、新築マンションの広告が貼られている。駅徒歩五分、都心へ直通、緑に囲まれた暮らし。ずいぶんと健康的な言葉ばかりが並んでいて、終電で帰る人間に見せるには意地が悪い。そう思ったところで、文句を言うほどの気力もない。俺はその文字を何度か目でなぞり、読み終える前に内容を忘れる。
車内には、人がまばらに残っている。扉のそばで吊り革に体重を預ける男。膝の上の鞄に両手を置き、目を閉じている女。イヤホンをつけ、スマートフォンの画面を退屈そうに眺めている学生。どの顔も、次の駅を過ぎるころには輪郭が曖昧になる。みんなくたびれていて、誰も声を出さず、誰かの靴先が通路にはみ出しても見なかったことにする。俺も、その沈黙に紛れて座っている。
ただ、その男だけは今日も同じ車両にいる。
名前は知らない。勤め先も知らない。けれど、乗ってくる駅と降りる駅は覚えている。覚えるつもりがあったわけじゃない。毎晩似たような位置で、似た顔色をして座っているせいで、気づくとそちらへ視線が向いている。
その男は、背筋だけはいつも妙にきちんとしていた。
疲れていないわけではない。目元には薄く影が落ちているし、膝の上の鞄を押さえる指にも力がない。なのに姿勢だけは崩れない。崩れないまま、意識だけが遠くへ落ちてゆく。
器用な寝方をするものだと感心する。
最寄りの駅が近づくころになると、ふいに顔を上げる。眠っていたように見えるのに、降りる駅だけは間違えない。車内の誰よりも消耗して見えるくせに、そういうところだけはやけに正確だ。
今夜は、彼の隣だけが空いていた。
立っているほどの元気はない。ほかに座る場所もない。俺は吊り革から手を離し、誰に向けるでもない会釈のような気持ちで、その隣に腰を下ろす。
彼は気づかない。
膝の上の鞄に両手を添えたまま、まっすぐ前を向いている。閉じているのか開いているのかわからない目は、向かいの広告のあたりに置かれている。俺と同じものを見ているのか、何も見ていないのかまではわからない。
電車が、次の駅へ向けて速度を上げる。
窓の外の光が、先ほどと変わらない速さで横へ滑る。広告の白い文字が、ガラスに反射してかすかに揺れる。隣から、布地の擦れる小さな音がした。
視界の端で、彼の身体が傾いた気がした。電車の揺れに合わせて戻るかと思ったが、戻らない。もう一度、ゆっくり傾く。鞄を押さえていた指がわずかに緩んで、深く息を吐く気配がする。
次のアナウンスが流れる前、その重みが右肩に落ちてきた。
知らない男の頭が、俺の肩に乗っている。
起こしたほうがいいのだろう。軽く肩を揺らして、すみません、とでも言えばいい。向こうも寝ぼけたまま謝って、身体を離して、それで終わる。終電でくたびれた人間同士なら、珍しくもない。
それなのに、俺は動かなかった。
彼の髪が、スーツの肩口に触れている。呼吸は深い。倒れ込んでくるほど重くはないが、こちらが肩を引けば、そのまま体勢を崩しそうではある。膝の上の鞄はまだ両手で押さえていて、その指だけがかろうじて起きているみたいに見えた。
外では、光がまた横へ流れてゆく。
向かいの広告には、明るいリビングの写真が載っている。白いソファ、観葉植物、大きな窓。こんな時間の電車の中で見るには、ずいぶん遠い。俺はその写真をぼんやり眺めながら、右肩の重さにだけ意識を取られている。
次の駅で何人か降りる。入れ替わりに乗ってくる。吊り革が小さく揺れて、扉が閉まり、また電車が動き出す。誰かがこちらを見たかもしれない。見ていないかもしれない。どちらでもよかった。
肩のあたりからは寝息が聞こえてくる。俺はスマートフォンを取り出しかけて、やめた。片手を動かすだけで、彼が目を覚ましそうな気がした。起きてもらったほうがよいはずなのに、そうしたいわけでもない。だから結局何もせず、向かいの広告を眺め直す。
駅徒歩五分。都心へ直通。緑に囲まれた暮らし。
さっきも読んだ文字を、また最初から読む。読み終えたところで、内容は残らない。ただ、右肩にかかった体温だけが、電車の揺れから遅れて伝わってくる。
彼が降りる駅が近づく。
覚えていることに、うんざりした。名前も知らない相手の降りる駅なんて、覚えていても仕方がない。でも、何度も同じ車両で見ていれば覚える。そういうことにして、俺は車内表示へ目をやった。
次の駅名が出ている。
起こすなら、いましかない。
そう思ったところで、肩のあたりがふっと軽くなった。
彼が目を開けている。いつから起きていたのかはわからない。瞬きをして、それから、自分がこちらへ寄りかかっていたことに気づいたらしい。ゆっくり身体を起こす。鞄を持ち直し、背筋を伸ばす。寝起きの動作なのに、やはり背筋だけは伸びている。
「……すみません」
それだけ言って、彼は前を向いた。
「いえ」
俺もそれだけ返す。
声は、電車の音に混ざる。届いたのかどうかもわからない。彼は何も言わない。俺も続ける言葉を探さない。窓ガラス越しに目が合うのも気まずくて、俺はようやくスマートフォンを取り出した。
電車が駅に入る。
彼は立ち上がった。膝の上に置いていた鞄を肩に掛け、扉のほうへ歩いてゆく。足取りに危なげはない。毎晩同じ駅で降りているだけあって、身体のほうが順路を覚えているのかもしれない。
扉が開く。彼の背中がホームの明かりの中へまぎれる。その様子を、俺はなんとなく見ていた。
ホームに足を下ろしたあと、彼はこちらを見た。謝り足りなかったのか、何か言おうとしたのか、それともただ確認しただけなのかはわからない。こちらが見ていたせいで、視線がぶつかる。
彼はすぐに前を向き、人の流れに沿って歩いてゆく。扉が閉まる。ホームの明かりが窓の向こうへ遠ざかり、暗いガラスに車内の明かりだけが戻る。
俺は向かいの広告を見上げた。駅徒歩五分。都心へ直通。緑に囲まれた暮らし。
ここに引っ越せば、会社はいまより近くなる。使う駅も、乗る路線も変わる。この電車に乗らなくなるのだろう。
そう思ったところで、広告に並んだ文字が一気にどうでもよくなった。
2.
飲み会の帰り道で面倒なのは、自分がどれだけ酔っているのかを、自分だけがよくわかっていないところだと思う。
駅までは歩ける。財布もスマートフォンも鞄に入っているし、家の鍵だってなくしていない。二次会へ行く連中に手を振って、じゃあなとそれなりの声で別れも告げた。そこまでできているなら、まあ大丈夫だろう。
そう思っていたのに、店を出て三分もしないうちに、ベレトが当然のように俺の腕を取った。
「歩けてるだろ」
「危なっかしい」
「前に進んでる」
「自分には斜めに進んでいるように見える」
言い返そうとして、やめた。実際、歩道の端へ寄りかけていた。看板の支柱に肩をぶつける前に引き戻されたらしい。そういうことをされると、急に自分が酔っ払いらしくなってしまうので困る。
ベレトは俺の腕を支え直すと、歩く速度をゆるめた。
飲み会には、こいつも顔を出していた。頼んだ料理を黙々と食べて、酔った連中のどうしようもない話にも短くあいづちを打つ。そういう男が隣にいると、場の湿度が少し下がる。こちらがどれだけ軽口を叩いても、変に乗ってこない。その代わり、空気を冷ますようなこともしない。
そのくせ、帰り道ではこうして腕を掴んでくる。
「心配しすぎだって」
「放っておくと転ぶ」
「俺をなんだと思ってるんだよ」
「いまは酔っ払い」
「いまは、って何だよ」
ベレトは一度だけこちらを見て、黙った。そこで黙られると、こちらだけが余計にみっともない。文句を言おうにも、足元がまた頼りなくなって、結局口を閉じる。言い合いに勝つより、いまは転ばないことのほうが大事らしい。まったく、情けない話だ。
駅へ向かう道は、夜のわりに明るい。
居酒屋の看板、閉まりかけのカラオケ屋、二十四時間営業のドラッグストア。どれも輪郭がぼやけて、視界の端で滲んでいる。客引きの声が遠く聞こえて、タクシーのブレーキランプがぬるい夜風に残る。
ベレトの手は、俺の肘の少し上にある。
掴まれている、というほど強くはない。だが、こちらがふらつけばすぐに力が入る。歩幅も、いつの間にか俺に合わせられている。そういうことを自然にやるから、こっちは余計に調子が狂う。
だから、何か言いたくなった。そういう、言わなくてよいことほど、酔った口からよく滑り落ちるもので。
ホテル街の入り口を通りかかったのは、そのすぐあとだった。
大通りから一本外れたところに、派手な照明がいくつか固まっている。ピンクや紫の光が、雨も降っていない路面にまで照り返していた。看板には休憩、宿泊、フリータイムの文字が並んでいる。いつもなら見ないふりをして通り過ぎる場所だ。
酔っていると、その見ないふりがむずかしくなる。俺はベレトに支えられたまま、そちらを顎で示した。
「休憩してくか?」
言った瞬間、自分でもひどい冗談だと思った。
どうせベレトなら、何を言っているんだとか、君は酔っているとか、そのあたりを真面目に返してくる。酔っ払いの軽口として流されて終わる。そういうつもりだった。
だが、ベレトは聞き返さなかった。
足を止めることもなく、俺の腕を支えたまま、いつもの声で答える。
「自分は構わないが」
夜風が、急に冷えた。
さっきまでぼやけていた看板の文字が、やけにはっきり見える。休憩。宿泊。白く光る料金表。ベレトの手。自分がいま何を言ったのかが、遅れて口の中に戻ってくる。
「……待て」
「休みたいんじゃないのか」
「いや、そういう意味の休憩じゃなくてだな」
そこまで言って、口が止まった。
そういう意味じゃないなら、どういう意味なのか。ふざけただけだと言えばいい。酔っていたからだと笑えばいい。実際、そのどちらも間違ってはいない。
けれど、ベレトが意味を理解していないとは思えなかった。彼の目は、たしかに俺と同じものを一度見た。見たうえで、構わないと言った。
たったそれだけの、確信と呼ぶには弱いものだ。それでも俺は、冗談だった、のひと言が言えなくなる。
「悪い、もう平気だ」
咄嗟に身体を離す。
ベレトの手が腕から外れた。自由になったはずなのに、足元は思ったよりおぼつかない。
「危ない」
すぐに声が飛んだが、俺は振り返らずに歩こうとした。
「危なくない。もうひとりで歩ける」
言い終える前に、手を掴まれた。
指先ではない。手首でもない。ベレトの手が、俺の手をそのまま捕まえている。
強く引かれたわけではない。痛くもない。ただ、その場に留めるにはじゅうぶんだった。
俺は足を止める。
ホテルの看板の光が、横からぼんやり差している。通りを歩く人の声が遠い。タクシーが一台、ゆっくり角を曲がってゆく。ベレトは手を離さない。俺も、言うべきことを見つけられない。
掴まれた手があまりに静かで、口を開く気になれなかった。
ベレトは俺を見ている。こちらがまた歩き出すのを待っているようにも見えるし、このまま立ち止まっていてほしいようにも見える。どちらなのか、酔いの引いた頭でもわからない。
俺は掴まれた手を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。
3.
ベレトがシャツを羽織った。
片腕を通し、もう片方の袖を探す。背中がこちらへ向いている。汗が引いた肌に、部屋の明かりが薄く乗っていた。肩甲骨の線が布に隠れてゆく。さっきまで触れていた場所が見えなくなって、俺はようやく息を吐いた。
いつものことだった。
ベレトは服を着る。床に落ちたものを拾って、皺になってないかを確認する。そうやって皺を気にするわりに、事の前には雑に脱ぎ捨てる。几帳面なのか、そうでないのか、よくわからないところがある。
俺はそれをベッドの上から見ている。何か言うこともあるし、言わないこともある。だいたいはくだらない話で、天気だの、明日の仕事だの、次に会う日だの、その場で済むようなことばかりだ。
それで困ったことはなかった。
むしろ、そういうところがよかったはずなのに、今日はその背中が部屋を出てゆくのを、黙って見ているのが嫌だった。
泊まっていけとは言えない。帰るなとも言えない。
言えないくせに、何かしたかった。
サイドテーブルの端に、香水の瓶があった。
昨日使って、戻しそこねたままの瓶。ガラスの中身が、部屋の明かりを受けて輝いている。ベレトは黙ってシャツのかたちを整えていた。袖を引く音がして、布が肌を滑る。床に落ちていたベルトの金具が、持ち上げられて小さく鳴った。
俺は香水の瓶を取った。
何をするつもりなのか、持ち上げたあとでようやくわかった。名前を呼ぶ代わりに、手を掴む代わりに、帰るなと言う代わりに、俺は蓋を外して、ベレトの背中へひと吹きした。
シャツの白い布がかすかに濡れる。
肩のあたりと、まだ布に隠れきっていない肌の境目に、馴染んだにおいが落ちた。
柄にもないことをした、と思った。
引き止める言葉もないくせに、外へ出れば誰かにわかるものだけをつけた。
彼の手が止まる。
袖を通しかけたまま、背中が動かない。さっきまで続いていた布の音も、金具の音も消えている。
ゆっくり、こちらを振り返る。
俺は瓶を持ったまま笑った。笑うしかなかった。
「……ほら、マーキングってやつ」
言ってみると、ずいぶん最低な響きになった。
いちおう、冗談のかたちはしている。そう思いたい。ベレトは俺の手元を見て、それから自分の肩口へ視線を落とした。
怒るかと思った。声を荒げずとも、顔をしかめるぐらいはするんじゃないか、と。
けれどベレトは眉を動かさない。何か言う前に、袖から腕を抜いた。さっき通したばかりの布が、肩から落ちる。空っぽのシャツが彼の手の中に残った。
「なんだよ、怒ったのか」
彼はシャツを持ったまま、俺を見る。床にはまだ靴下が片方落ちていて、帰り支度の途中だけが、部屋に散らばっている。
「帰れなくなった」
短く、そう言った。
帰れなくなった。
その言い方だけで、俺は笑えなくなる。原因を探す必要もない。帰ってほしくないと思ったのは俺だ。帰ろうとしている相手に、未練たらしくにおいをつけたのも俺だ。
ベレトは脱いだシャツを着ようともしなかった。俺のやったことが気に入らないなら怒るなり、文句をぶつけるなりすればいい。そうしないで、白い肩を晒し、静かにベッドのそばに立っている。
そのことが、思っていた以上にうれしかった。
4.
憂鬱な日曜の夜、ベレトは俺の部屋で洗濯物を畳んでいた。
なぜそうなったのかは、よく覚えていない。夕方に来て、飯を食って、適当な映画を流して、そのままソファに居座っていたら、取り込んだまま放っておいた服を見つけられた。畳まなくていいと言ったのに、彼は「皺になる」とだけ言って、Tシャツを一枚ずつ広げている。
あまりにも自然な手つきに、どうにも居心地が悪くなる。ここ、俺の部屋なのに。
俺はといえば、ソファの端でスマートフォンを眺めていた。
来月の予定を開いて、仕事の飲み会だの、友人の誕生日だの、頭の片隅で寝かせたままだった予定を指先で掘り起こしてゆく。隣では、ベレトが靴下を片方ずつ合わせている。それから、畳み終わった服をローテーブルの端へ重ねていった。
「来月は、土曜だったらけっこう空いてるぜ」
俺がそう言うと、ベレトは顔を上げずにうなずいた。
「自分も、土曜はだいたい空いている」
「じゃあどっか行くか。近場でもいいし、遠出してもいいし」
「そうだな」
靴下の束がひとつ増える。
彼はそこで少しだけ手を止め、俺の目を見た。何か思いついた、というより、前から置いてあった用事を思い出したみたいな目だった。
「ところで、君のご両親に挨拶に行くのはいつがいいんだ」
「は?」
変な声が出た。
スマートフォンの画面には、来月のカレンダーが開いたままになっている。青い予定、赤い祝日、灰色の余白。そのどこにも、俺の実家にベレトを連れてゆく予定なんて入っていない。
当たり前だ。入れた覚えがない。
「挨拶しに行きたい。君のご両親に」
「いや、それは聞こえてるんだけどさ」
「なら、いつがいい」
「なんでそうなるんだよ」
ベレトは不思議そうに瞬きをした。
その反応が、まず困る。冗談で言っている様子がない。ふざけて俺を焦らせようとしているわけでもない。洗濯物を畳む手を止めたのと同じ調子で、ただ必要な予定を確認している。
「付き合っているなら、いずれ挨拶はするものだろう」
「いや、いずれはな。いずれはそうかもしれないけど、まだそんな段階じゃないだろ」
いったいどんな段階なのか、俺自身にもよくわからない。ベレトがこの部屋に来て、飯を食って、洗濯物まで畳んでいるこの時間を、何と呼べばよいのかもわからない。
彼は俺の返事を聞いて、考えるように俯いた。考え込んだところで、引く様子はなかった。
「気が早いということか」
「まあ、そういうことだな」
「だが、向こうの予定もあるだろう。予定は早めに決めておいたほうがいい」
そりゃそうだ。あまりにも正しすぎて、返す言葉に困る。
たしかに親にも予定はある。俺にも予定がある。ベレトにも予定がある。早めに決めたほうがいいという話だけなら、何ひとつ間違っていない。
問題は、その予定が俺の実家への挨拶だということだけだ。
「あのな、実家に挨拶って、そんな歯医者の予約みたいに決める話じゃないんだよ」
「歯医者の予定も早く決めたほうがいい。君はいつも『予定がある』と言っては定期検診の予約を入れないだろう」
「俺の歯の話はいまはいいんだって。つーか、何でそこまで把握してるんだよ」
「自分はいつでもいい」
スマートフォンを持つ手に、わずかに力が入った。暗くなった画面に映る俺は、ろくな顔をしていない。ベレトはそんなことには構わず、畳みかけのTシャツを膝の上に置いたまま、まっすぐこちらを見ている。
嫌なのか、と聞かれたほうがまだ楽だったかもしれない。
そう聞かれれば、嫌ではないと答えられる。嬉しくないわけでもない。むしろ、ベレトがそんなふうに先の予定へ俺を入れていることには、胸のあたりが変に落ち着かなくなるくらいのものがあった。
とはいえ、素直に受け入れるにはあまりにも話が大きすぎる。
ベレトはようやく膝の上のTシャツをローテーブルへ置き、立ち上がった。そのまま向かいに座り直すのかと思ったら、違った。彼はソファの前まで来て、俺の隣へ腰を下ろした。座面が沈み、肩と腕が触れる。スマートフォンを持っていた手が、逃げ場をなくして膝の上へ落ちた。
「自分は、いつでもいい」
一回目より、ずっと近い声だった。
耳元で言われたわけではない。顔を寄せられたわけでもない。ただ、隣に座られて、肩が触れて、その状態で同じ言葉をもう一度聞かされただけだった。
それだけなのに、さっきまでカレンダーの上にあった話が、彼の身体ごと俺の肩にのしかかる。
来月の土曜。俺の実家。挨拶。ベレトの予定。俺の覚悟。どれもまだ決まっていない。
「……俺の覚悟ができたらな」
ようやくそう言うと、彼はあっさりうなずいた。
「わかった」
それ以上は何も聞かれなかった。
いつまでに、とも、ほんとうに考える気があるのか、とも言われない。こちらが差し出した曖昧な返事を、そのままのかたちで残される。
――こういうときにちゃんと言えない男は、そのうち捨てられる。
誰に言われたのだったか、どこで聞いたのだったかも覚えていない。酒の席か、誰かの愚痴か、ろくでもないネット記事の見出しか。返事を濁すな。待たせるな。相手が先の話をしているときに、ひとりだけ足踏みするな。
言い方はずいぶんと乱暴だったが、まっとうなことを言っていると思ったことだけは覚えている。
ベレトは離れるそぶりを見せない。
それで、ただ見逃されたわけではないのだとわかった。いま決めろと言われなかっただけだ。覚悟ができたら、なんて曖昧な返事ごと、こちらに預けられた。
ローテーブルの端には、彼が畳んだTシャツと靴下が重なっている。
俺がほったらかしにしていたものだ。彼が広げて、皺を見て、靴下を片方ずつ合わせた。たかが洗濯物だ。深く考えるようなことではない。そう思うそばから、明日の朝、俺がそのTシャツに手を伸ばすところまで想像してしまう。
畳まれたものをそのまま放っておくわけにはいかない。さすがの俺も、そこまではしない。
かといって、彼が畳んだ服を何も考えずに着るのも、もう無理な気がした。きちんと揃えられた靴下を履いて、いつも通り部屋を出る。そこまでいくと、いよいよ知らないふりはできない。
実家に挨拶へ行くかどうかだけじゃない。彼が当たり前の顔をして畳んだものを、俺が当たり前みたいに身につける。そこまで赦しておいて、まだ覚悟がどうだなんて言うのは、いくらなんでもみっともない。
そもそも、それに手をつけないわけにもいかなかった。
だって、明日の俺が着るものがない。