@jxm_343
しゅるり、とシーツの擦れる音がする。意識は微睡みの底に沈めたまま、重いまぶたを薄く開く。音のする方に視線を向けると、薄いシャツだけをゆるく纏って、ベッドの縁に腰掛ける彼の背中が見えた。いつの間に腕の中を抜け出したのだろうか。彼がいた場所は、まだ淡い温度を残していた。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが、彼の輪郭を白く浮かび上がらせる。緩い曲線を描く腰の中心で、僅かに浮き出た背骨が濃い影を落としていた。背骨が繋ぐなだらかな軌跡を指先でそっと辿ると、彼の身体が小さく震えた。
「なあに?」
振り返る彼の指には、火をつけたばかりの煙草が挟まれていた。噎せ返るほど濃密なバニラの香りが、部屋中をゆっくりと満たしていく。毎日ではない。ただ時折、思い出したかのように胸焼けしそうな香りをふかした。その度に、口元が僅かに歪むのをオレは知っている。
くゆらせた煙ごと、いつかこの手をすり抜けていってしまう予感がして。彼が煙草を手にする度に、根拠のない不安が耳元で静かに囁く。
「それ、美味しいのか?」
「いや、全然」
「へぇ……決まっていつもそれだろ?」
傍らに置かれた白いパッケージを視線で示す。
「特にこだわりが無いだけ。ちょっと試してみる?」
そう言うとひとくち含んで、覆い被さるように顔を近づけてくる。柔らかい唇が触れた瞬間、薄く開いた隙間からまとわりつくような煙が流れ込んできた。口腔を満たす香りが喉に刺さって思わず噎せる。重い甘さとほのかな辛味が、ゆっくりと舌の上に広がって痺れた。
蜜のような瞳が揺れる。まつ毛が触れ合う距離で、視線が絡み合う。まぶたを閉じることも忘れて、ただ衝動のままに唇を合わせていた。今すぐにでも奥深くまで味わい尽くしてしまいたいのに、固く結ばれた唇がそれを許してはくれない。
こんなにも近くにいるのに、どこか噛み合わない距離に胸の奥が緩やかに締め付けられる。吐息に混じるバニラの香りが、鼻腔を掠めていった。
「はっ、ん、久遠」
「ん〜?」
「もういいから」
「あ、そう?」
あっさりと離れていく彼に、言いようのない寂しさが募る。じんわりと熱を持った唇が、急速に冷えていく感覚があった。そっと手で触れれば、しっとりと濡れた感触だけが残っている。
「どう?美味しかった?」
「いや、全く。何が良いのか分からないな」
「おじさんも好きで吸ってるわけじゃないよ。ただ……いいや、なんでもない」
わざと濁された言葉に踏み込む勇気は、あいにく持ち合わせていない。けれど、悲しげに揺れる瞳をそのままにしておくことはできなくて。
上半身を起こして彼の背中にぴったりと寄り添う。薄いシルク越しに感じる体温がひとつに溶け合うようだった。右手から煙草を奪い去って、サイドテーブルの端に置かれた灰皿の底で擦る。
そのまま柔らかい皮膚を優しく撫でれば、どちらからともなく、自然と指が絡まっていく。オレと比べれば幾分か華奢な、それでいて男らしく直線的な手。絡めたまま引き寄せて、なめらかな肌に唇を押し当てる。
親指の付け根の、少し下あたり。青く浮かぶ血管の上を舌でそっとなぞる。小さく音を立てて吸い付けば、とくりと脈打つのを感じた。彼がここにいる証のように感じて、それさえも愛しい。
視線だけ彼の横顔に移す。まろい頬が紅潮し、耳までほのかに染まっている。目が合うその瞬間、こくり、と喉を鳴らすのが分かった。
吸い寄せられるように、お互いの唇を求め合う。舌の奥に残るほろ苦さを、そのまま彼の口腔に流し込んだ。火傷しそうなほど熱い口内にとろけそうになる。呼吸も忘れて、貪り尽くす。
彼の心の隙間ごと、煙のように満たしてしまいたい。薄く開いた琥珀色に浮かぶ自分を認めて、ようやく胸の奥が緩んだ。灰皿の底で燻る火種が、糸のように細く揺らめいていた。