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肥前忠広の幻肢痛〜キリシタンすり抜け主と肥前忠広〜

2026-06-26 18:19:42

雨の日に首の傷に幻肢痛がある肥前と、不調のひーちゃんの頬に両手を伸ばして何度も撫でて擦る主ちゃんの話

新曲CD「RISE UP」聴きました。
壮絶なほどの絶望と希望の曲だと思いました。
《おれはおれを救える》はあまりに鮮烈な希望で絶望でもあると思います。
哀しみを燃やし明日を照らして己を救える彼へ、彼が望む《きみの傍》に救いを。

その朝は、夜も明けぬ内から、とにかく夢見が悪かった。

布団の中で、脂汗を流しながら包帯の上から傷を掻きむしる肥前の気配に、南海太郎朝尊は素早く目を覚ますと、暗がりの中で枕元の眼鏡をたぐった。
「いつものかい」
眼鏡を合わせると、苦しげにのたうつ肥前の肩を優しくぽん、ぽん、と叩きながら、蹴られた彼の掛け布団を引き上げてやる。
南海は、窓の向こうへと物憂げに視線を投げた。

長雨の音が、ざあざあと響いている。

「早く上がると良いのだが……

岡田以蔵による天誅、肥前忠広が物打ちから折れたとされる本間精一郎暗殺の日は、京都の古気象記録が残っている。

文久二年閏八月二十日。
京都、雨──と。

《肥前忠広の幻肢痛》

「あれ」
めでたい宴の最中、何度数えてもやはり足りない人影を探して、彼女は視線を彷徨わせた。

傘を差した朝の出迎えの人だかりの中にも、仕事中も、いつもの宴にも、ひーちゃんが見当たらない。
いつもすぐ近くにいてくれるのに。

長雨の縁側に、湿った風がぬるく流れる。

最初は、何か用事かな
どこか出かけてるのかな
朝尊せんせーの手が離せないのかな
そう思っていたけれど

宴の頃合いまで欠席なのは、今まで無かったことだった。
厨のみんなが用意してくれた御馳走を、いつだって無言で率先して頬張るのがひーちゃんだったから。

とたとたと白木の床を踏んで、廊下を辿る。

そっと朝尊せんせーの部屋を訪れると
南海太郎朝尊は、いつもなら寸暇にも手放さぬ本にすら手を伸ばさず
ただじっと座って、窓の外の雨を眺めていた。

暗がりのままの部屋。
ゆっくりと振り返って、こちらを眺め見た南海太郎朝尊の
どこか眉を落として複雑な笑みを浮かべる面差しに
彼女は、大きく目を見開いた。




豪雨の中に閉じ込めるような、雨音のカーテンがざあざあとしつこく耳を叩く。
侵入してくる雨音に耳を塞いだ。
……はぁッ……
その日、肥前は朝からずっと寝込んだまま
布団の中で、包帯の解けかけた首の傷をがりがり掻きむしった。

時折ある幻覚痛だった。肉体の斬首と本体が折れた激痛が混在した痛み。

幻だ。分かっている。
だが、この幻の厄介なところは、その痛みが、とうの昔に失われたはずの刃区はまちから刀身の中程までしきりに疼くということだった。




肥前の刀身に織り込まれた物語が内側から疼くのだ。雨の中で折れた日の感触を、勝手に再現して激痛の形で主張する。

既に無いはずの茎尻の先を、まるで存在するかのように錯覚した脳みそが
既に無い亡霊の癖に、折れる、折れてしまう、手入れをくれと叫ぶのだ。

坂本家の宝剣として太刀であった頃の記憶が濃い個体には、こうした不具合が時折あるらしいと、政府の中で耳にしたことがある。
既に折れて失われたはずの根本の先が疼いて痛む。まるでたった今折れたかのように苛む、幻の痛み。
幻肢痛、だった。

……はぁッ……は、……くそっ……

痛みの程度も長さもまちまちだが、毎度きっかけだけはハッキリしていた。
夢見の悪さと長雨、だった。

政府の医務班の薬包を、無理やり喉に流し込む。
毒も薬も効きにくい者が多い刀剣男士の中で、体質が人に寄った肥前は幸か不幸かキツい鎮静剤が多少効いた。
所詮束の間意識を落とすだけの気休めに、変わりはないが。




鎮痛剤による浅い眠りから目を覚ますと、そこにあいつがいた。

いつの間にか暗い部屋に入ってきていたあいつは、布団の横に腰を下ろしたまま、眠る肥前の頬を、繰り返し撫でている。

不調の肥前の頬に両手を伸ばして、何度も撫で擦る。
何度も、何度も。繰り返し。

……なにしてんだよ」
「幻肢痛のケアなの。手脚の幻肢痛はね、顔に触れると少し和らぐんだって」

ひーちゃんのはちょっと違うから、効くか分からないけど

ぐにぐに、とまるで餅でも捏ねるみたいに肥前の強張った頬を揉みほぐしたあいつは、しきりに唱えた。

いたいのいたいの、とんでけ



「ひーちゃん、本体かたな触らせて」

あいつは、慣れた手付きで肥前の目釘を抜いて拵えから抜くと、中空に打ち粉を振った。
肥前の欠けた茎尻の先に、まるで『続き』があるように。

「いたいのいたいの、とんでけ」

ぽん、ぽん。

「いたいのいたいの、とんでけ」

ぽん、ぽん。
無い『先』に、打ち粉が振られていく。

優しいだけの気休めが
肥前の幻肢痛を鎮めていく。


気休めだ。気休め、のはずだ。
なのに、触れられた幻が訴える。

ああ、これだ。
これが欠けて足りなかったのだ、と。

肥前は、いつの間にか
重傷の手入れを受けた時と同じように、体が求める急激な眠気に揺すられて
泥のような眠りに溺れて、眠った。

触れていないはずの打ち粉の感触を、揺籠のように感じながら。

幻を慰撫する優しい指先が、髪をくしゃ、と掻き混ぜる。
柔らかく耳朶をくすぐる、穏やかな声。
「おやすみ、ひーちゃん」

それきり
肥前の欠けた幻が、痛みを訴えることはなくなった。



明け方に雨は上がった。

肥前は、現世へ戻る彼女を見送った後
食べ損ねた宴料理の残りを厨でしこたま腹に納めてから
何度も確かめるように、道場で己を振るってみては、手のひらを握っては開くことを繰り返した。


「悪かった、先生」

南海の部屋に戻ってきて、短くそれだけ告げて日常へ戻っていった肥前の背中に滲む迷いなさに

南海太郎朝尊は、ああ、と腑に落ちる思いだった。そうか。

主人を持つ、というのは、こういうことなのだね


長年の間、見ていることしかできなかった、寄り添う以外に他なかった、大切な彼の傷を。
躊躇うことなくまっすぐ慰撫してくれる存在が、彼がそれを受け入れる相手が、ついに現れた。


刀は折れればそれまでだ。
砕けた破片に、誰も祝福を与えはしない
使える先端が残されていれば、なおのこと。

つまり彼が苦しんでいた原因は、
折れたことそのものではなく、
折れたまま放置されていたことだったのではないか、と
南海は残った情報から憶測した。

雨の中に取り残されて
気付いてくれ、と
百六十年以上訴え続けていた欠片へ贈られた

たった一度の子守唄。

求めるにはあまりにささやかな
けれど与えてくれる相手に出会うには途方も無く困難な願い

政府に長く属する南海太郎朝尊には、未だ触れたことのない未知だったが
人の子を主人に持つことの柔らかな奇跡を、彼が享受できたことそれ自体は、ひどく喜ばしかった。
紹介してくれた長義かれには感謝しなくてはいけない。

「やあ」
「! 朝尊せんせー」
後日、満月が巡って本丸に帰ってきた彼女に、南海太郎朝尊は。
普段籠ってばかり研究部屋を出て、そう声を掛けた。
二、三、世間話を添えて、何か困り事があればいつでも言うといい、と助力を約束する朝尊に、彼女は迷わず破顔した。
「ずっとひーちゃんの味方でいて」

わたしにできることがあれば呼んで。
教えて。朝尊せんせー

彼女が望んだのは、相も変わらずそれだけだった。
それだけが、なにより大事なのだと、心から彼女は笑った。


駆け出した彼女は、ちょうど道場から出てきて、手合せを終えて顎の汗を拭う肥前の背を追って、隣に並ぶと嬉しそうに笑った。

朝陽の中、彼の朱殷の眼が、ひときわ柔らかくたわむ。彼女の隣で。

そんな、あくまで休暇としてやって来たに過ぎない、この仮宿を。
南海太郎朝尊は、良い場所だ、と心から思った。



────南海太郎朝尊は、確かに救われた己を知覚している。


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