「教師にならなかった傭兵ベレトと、五年後の同盟盟主クロードが、帝国との戦争の中で出会う」話で、翠風ルートをベースにした、パラレル設定ものです。流血表現有。
(間に合えば)11/29のイベントで出す無双本のおまけにしたいです。
@Bombwooo
ガルグ=マク周辺 / 五年前(ベレト)
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地面が、低く鳴った。
はじめは馬かと思った。蹄ならもっと細かく、土の上を刻むように近づいてくる。だが足裏に届いたそれは、刻む音ではなかった。地の底から押し上げるような、重い揺れだった。
井戸端の桶が縁から傾き、こぼれた水が石の目地を伝ってゆく。軒先に吊るされた干し草が揺れ、家畜小屋の奥で馬が鼻を鳴らした。村のどこかで、椀の割れる音がした。獣のものとも人のものともつかない唸り声が、地鳴りに混じった。家畜小屋の奥で、板壁を蹴る音が続いた。
この村に、自分たちは雇われて来たのではない。次の街道へ抜ける道すがら、たまたま世話になっただけだ。
村の人たちは皆、親切だった。その善意を受け取ってよいものか迷っていると、両手で包み込むようにしてパンを手渡された。聞けば、昔とある傭兵団に世話になったのだという。ちょうどジェラルトのような、立派な体躯の男がいたとその人は微笑みながら語った。
平和だった。ほんの少し前までは。
村の外れで、誰かが声を上げた。
そちらへ向く前に、視線が空へ引かれた。雲の薄いところを、白い影が横切ってゆく。鳥ではない。翼か、腹か、首か、見ているうちにかたちがほどけて、陽を受けた白だけが瞼に残った。
その瞬間、胸の奥で、何かがわずかに動いた気がした。
痛みではない。音でもない。長く閉じていた戸の、立て付けが一度軋んだような、ごく小さな感覚だった。確かめるより早く、それは沈んでいった。屋根の向こうへ白が消えたあとも、村人たちはしばらく空を見上げていた。
籠が落ちた。
中の根菜が泥の上を転がり、それを拾おうとした子どもを、母親が抱き寄せる。戸を閉めろと誰かが怒鳴る。馬を出せという声が重なる。家の中から泣き声がした。散り散りになった声の向こう、村へ続く道に、赤い旗が見えた。
鉄の擦れる音が近づき、道端の犬が吠えながら家の陰へ逃げ込む。門口にいた男が鍬を握り直した。隣の女が子どもの腕を引く。誰かが逃げろと叫んだとき、ジェラルトの声が村の騒ぎを裂いた。
「帝国軍だ!」
赤い旗が何を示すものなのか、自分はその声で知った。
「全員、持ち場につけ! 村人の避難を優先しろ!」
言葉が終わる前に、自分は剣の柄へ手をかけていた。
ここで自分が剣を抜く理由は、依頼にはない。報酬も、契約も、守るべき約束もない。ただ、目の前で逃げ惑う者がいて、彼らに脅威が迫っている。それだけだった。
兵が雪崩れ込んでくる。揃った槍、泥を蹴る軍靴、盾にぶつかる手甲の音が、村の狭い道でぶつかり合った。逃げようとした村人の肩が押され、荷車が傾いて倒れる。干し草用の鎌を握りしめた若い男が、家の前で足を止めていた。兵を迎え撃つ構えではない。戸口で泣いている子どもを見て、そこから動けなくなっている。
槍の穂先が、男へ向く。
自分は兵の前へ踏み込み、胸へ届く前に剣で払った。金属が鳴り、男が尻餅をつく。鎌が手から離れて土の上を滑ったが、それを拾わせる暇はない。
「走れ。家の裏を通って、森へ」
男は動かなかった。倒れた荷車、泣いている子ども、道を塞ぐ兵。そのどれにも行けず、土の上で息だけを荒くしている。もう一度言おうとしたところへ、左から剣が割り込む。受ける。押し返す。右では、子どもを抱えた母親が転んでいた。傭兵団のひとりが駆け寄ろうとして、べつの兵に行く手を塞がれる。
声が重なって、言葉のかたちを失ってゆく。
逃げろ。こっちだ。待ってくれ。母さんが。家にまだ人がいる。馬を出せ。戸を開けろ。閉めろ。違う、そっちじゃない。
自分は倒れた荷車の横へ踏み込み、車輪の下に挟まった板を蹴り外して、家の裏へ抜ける道を開いた。次に来る刃を弾き、兵の膝を斬る。井戸のそばで座り込んだ老人へ向かい、その手を引いた。冷えていた。こちらの腕を掴む力だけが強く、離せばまた道の真ん中へ崩れそうだった。
ひとつずつなら、できる。
退路を開く。
兵を斬る。
手を引く。
そのたびに、べつの場所で悲鳴が上がった。
背後で、足音が止まった。
うなじに冷えたものが近づく。振り向くより先に、刃だとわかった。避けられない。そう判断した瞬間、音が消えた。
血のにおいも、怒号も、馬の嘶きも、泣き声も、すべて途中で止まっていた。
落ちかけていた桶の水が、空中で粒になっている。兵の剣は、自分の首筋まで指一本ぶんのところで止まっていた。振り向こうとしても、体は動かない。
自分の中で、また何かが軋んだ。今度は、開いた。
『――何をしておる、この、ばか者が!』
声が、頭の中で弾けた。
怒鳴り声だった。少女の声だった。村のどこにも少女はいない。止まった水滴の向こう、赤い旗の向こう、動かない兵の向こうにも、人影はなかった。声は、外から来たのではなかった。
『はあ、いまはおぬしを叱りつけている場合ではないな。……このままでは、おぬしは死ぬ。それはわかっておるな』
答えようとしたのに、声は出なかった。
誰だ、と問うこともできなかった。問いより先に、声のほうが焦れていた。止めようとしている。叱っている。生かそうとして、怒っている。それだけが、止まった世界の中で、はっきりと伝わってきた。
『よいか、時を戻すぞ。わずかな間じゃ。ぼんやりしておる暇はない。――次は、避けよ』
白いものが空を横切ったときの、あの光が、目の奥に残っていた。
止まっていた世界が、ふたたび動き出す。
足の裏に、土の揺れが戻る。怒号が戻る。馬の嘶きが戻る。刃が迫る前の、一瞬へ、自分は立っていた。
今度は、振り向かなかった。
背後から来る兵の位置は、もうわかっている。首を狙う高さも、踏み込む足の音も、剣の届く間合いも。老人の手を離すと同時に、身を低くして横へ抜けた。空を斬った刃の下へ入り、兵の脇腹へ剣を入れる。倒れる音を聞く前に女の背を押した。
「絶対に足を止めるな」
声は届いた。女が走る。子どもが泣きながらしがみつく。老人も続いた。鎌を落とした男も、ようやく子どもを抱え上げて、家の裏へ向かった。
それでも、戦いは終わらなかった。
赤い旗は、増えていた。村の入り口だけではない。畑の向こうからも兵が来る。家の裏手へ回った者もいる。傭兵団は散っている。ジェラルトの怒号が聞こえるたびに、誰かが動く。村人は訓練された兵ではない。逃げ道を示しても、家族を探して戻る者がいた。荷を抱えようとして立ち止まる者がいた。倒れた者へ駆け寄って、次の兵の前へ出てしまう者がいた。
自分は走った。
井戸のそばで槍を受ける。肩を掠めた。家畜小屋の前で剣を弾く。腕に熱が走る。路地へ入った子どもを追って、屋根から落ちた火の粉を踏み越える。足元が滑り、膝をついたところへ斧が落ちてきた。避けた。避けきれなかった。背中に、浅くない傷が開く。
時は、戻った。
だが、全部は戻せなかった。
どこで誰が倒れるかを知っても、そこへ届く足はひとつしかない。右へ行けば左が遅れる。前へ出れば後ろが空く。刃を避けられても、避難の列までは整わない。叫ぶ声は、届いたり、届かなかったりした。
頭の中では何度もあの声が響いた。
違う。そちらではない。早うせよ。後ろじゃ。前を見よ。
言われる前に動けることもあった。言われても、間に合わないこともあった。戻ったはずの時の中で、自分の体だけが削れてゆく。肩、背中、脇腹、太腿。浅い傷も、深い傷も、まとめて熱を持つ。息を吸うたび、胸のあたりが軋んだ。
声は、それでも止まらなかった。間に合わなかった場所で、舌打ちのように悔しがり、次の刃の前では、また声を荒げて自分を動かした。生かそうとして焦れている。その焦りだけが、削れてゆく体の芯に、かろうじて残っていた。
それでも、村は灼け落ちなかった。
家の一部は崩れ、畑は踏み荒らされ、井戸端には血が残った。動かなくなった者もいた。泣き声もあった。けれど村の外れの森へ、何人もの村人が逃げ込んでいた。傭兵団の者たちが列を作り、遅れた者を引き上げている。赤い旗は、いつの間にか遠ざかり始めていた。
最後の兵を斬ったとき、剣を握る指の感覚がなかった。
「ベレト!」
ジェラルトの声がした。
そちらを向こうとして、足が動かなかった。地面が近づく。倒れる、と思ったとき、腕を掴まれた。強い手だった。よく知っている手だった。
剣を落とさないように握り直そうとして、できなかった。
「おい、ベレト。しっかりしろ」
ジェラルトの腕に支えられているとわかった。見上げると、父の顔があった。怒っているようにも見えた。けれどその目は、戦場で見るものとは、違っていた。
「ジェラルト、」
かたちになったのは、それだけだった。
次に息を吸ったとき、血のにおいと、土のにおいと、革の鎧のにおいが混ざった。
頭の奥で、あの声がもう一度だけ何か言った。今度は怒鳴ってはいなかった。その意味を確かめる前に、自分は父の腕の中へ倒れ込んだ。
あの村で倒れて以来、目を覚ますたび、外の光がべつの高さにあった。
朝に眠って、夕に目を覚ますことがある。昼に座ったまま、気づけば夜の見張りの声を聞いていることもある。眠るというより、意識が途切れる。村の戦いで負った傷が塞がったあとも、しばらくはそれが続いた。
傷は、ふつうの治り方をしなかった。裂けた背も、貫かれかけた腹も、外から見れば塞がっている。自分でも異常だと感じるほどの、治りの速さだった。
ただ治りが速いぶん、自分は深く眠った。目を覚ましていられる時間が、日に数刻しかない日もある。剣は握れる。立てる。それでも、半日も起きていれば、また意識が遠のいた。
「無理に動くな。戦場のど真ん中で倒れられるほうが困る」
ジェラルトはそう言って、自分を本隊から外した。
大きな依頼は受けなくなった。城攻めも、長い行軍もだ。傭兵団は、護衛や治安維持の小さな仕事を分隊で請けるようになり、本隊はその近くで腰を据える。自分のせいで受けられる仕事が減った、とは誰も言わなかった。言われないことのほうが、こたえた。
目を覚ましているあいだ、頭の中で声がした。
夢の中の声ではない。眠りに落ちる前にも、目を覚ました直後にも、剣の手入れをしているときにも、その声は聞こえた。少女の声だった。最初のうちは、それが自分のものでない思考であることにいちいち身構えた。だが、すぐに身構えるのをやめた。
『また眠るのか。さっき目を覚ましたばかりであろう。日のあるうちにいくらも起きておられぬとは、難儀な体よ』
「眠りたくて眠っているわけじゃない。勝手に意識が途切れる」
『おぬしの意識が途切れているあいだ、わしは退屈でかなわぬ。おぬしが眠れば、わしも何も見えぬし、何も聞こえぬ。ひとりで暗がりに座っているようなものじゃ』
それは知らなかった。自分が意識を失っているあいだ、この声も同じように何もできずにいるらしい。退屈だ、と少女は何度も言った。話し相手にもならぬ、暇でならぬ、と。
暇だからか、彼女はよく喋った。
立てば、無理をするなと言う。寝ていれば、寝てばかりだと言う。傷の手当てをしていると、その巻き方は緩い、ほどけるぞと口を出す。剣の握りが甘い、踏み込みが浅い、とも言った。眠っても目を覚ましても小言が続くのだから、たまったものではなかった。
「少し黙っていてくれないか」
『もしおぬしが、何かの間違いで死んだらどうするつもりじゃ』
「死なない」
『その自信が、いちばん危ういと言うておる』
あるとき、名をたずねた。声がこれほど近くにいるのに、何と呼べばいいのかも知らなかったからだ。
「君の名前を教えてほしい」
しばらく、間があった。
『……ソティス。それは、知っておる。わしの名は、ソティスじゃ』
彼女はたしかめるように名乗った。
『はじまりのもの、とも呼ばれておった気がする。しかし、誰がそう呼んだのかも、なぜそう呼ばれたのかも、思い出せぬ。気づけば、おぬしの中におった。それより前のことは、霧の向こうじゃ』
わからぬ、という言葉を、ソティスは嫌った。偉そうに振る舞うくせに、自分の出所を問われると、決まって不機嫌になる。知らないことを知らないと言うのが、この少女には我慢ならないらしい。
それなら、自分も語れることは少なかった。
「自分も、わからないことばかりだ」
『ほう』
「自分が何歳なのかを、知らない。母のことも知らない。ジェラルトにたずねても、はぐらかされる」
言ってから、おかしなものだと思った。問われて初めて、自分がいかに自分を知らないかに気づく。これまで、困らなかった。だから考えもしなかった。
ソティスは、しばらく黙っていた。
『……なんじゃ。おぬしも、自分が何者か知らぬのか』
「ああ」
『では、わしらは似た者同士よな』
声から、いつもの刺が抜けていた。
『わしは自分の来し方を思い出せぬ。おぬしは自分の生まれを知らぬ。揃いも揃って、何も知らぬ者がふたり、ひとつの体に収まっておる。……これはこれは、心細い船出じゃのう』
呆れたような言い方だった。だが、咎める響きはどこにもなかった。
話せることが少なすぎて、退屈だ。ソティスはそう言い続けていた。実際、ふたりで語り合えることはほとんどなかった。互いに、自分が何者かを知らない。語る過去がない。けれど、その少なさが同じだとわかってからは、ソティスはそれを以前ほど嘆かなくなった。退屈なのは変わらない。それでも、同じように欠けたものを抱えた自分がそばにいるのは、悪い気はしないらしかった。
自分も、同じだった。
頭の中の声を、疎ましいと思わなくなっていた。
一年が過ぎるころには、目を覚ましていられる時間が、少しずつ延びていた。
半日が、丸半日になる。日に一度しか起きられなかったのが、朝と夕に分かれて起きられるようになる。剣を振ってもすぐには倒れない。傷の引き攣れも薄れ、体の重さが少しずつ抜けていった。
動けるようになると、ソティスはいよいよ急かした。
『もう、寝てばかりではいられまい。せっかく起きておるのだ、何かせぬか。鈍った体は、動かさねば戻らぬぞ。わしが見ていてやるから、まず歩け。それから走れ』
「急いてどうする。まだ丸一日は保たない」
『保たぬのは、動かさぬからじゃ。それに、いつまでもこの傭兵団の隅で寝起きしているつもりか。おぬし、これからどうする気でおる。それを決めねば、起きていられる時間が延びたところで、行く先もあるまい』
これからどうするか。
その問いには、答えがなかった。
傷が癒えれば本隊に戻る。戻って、また剣を振るう。それより先のことを自分は考えたことがなかった。ジェラルトの後ろを歩き、言われた戦場へ行き、戻ってくる。これまではそれで足りていた。
「自分の行く先は、ジェラルトが決める」
『それよ。それがつまらぬ』
ソティスははっきりと言った。
『おぬしはいつも、誰かが決めた先へ行くだけじゃ。それで何ともないのか。一度くらい、自分で行く先を決めてみたいとは思わぬのか。……まあ、そのためには、まず丸一日倒れずに動けるようにならねば、話にもならぬがな』
返す言葉はなかった。ソティスの言うことは、たいてい正しい。正しいから業腹だった。
『いっそ、わしがおぬしの体を借りて、勝手に動かせたら早いのじゃが』
ソティスがふとこぼした。
『そうすれば、おぬしが寝ているあいだも、体を鈍らせずに済む。歩くのも走るのも、わしがやっておけるものを』
自分は手を止めた。
「……そんなことが、できるのか」
ソティスにできるのは時を止めたり、戻したりすることだと思っていた。村で、刃が首に届く前に時が止まった。あのときの力だ。だが体を乗っ取るというのは、それとはべつの話に聞こえた。
『できなくはない』
物騒な話のわりに、ずいぶんとあっさりとした物言いだった。
『村の、あのときよ。おぬしが死にかけたとき、その気になれば、おぬしの体を奪うこともできた。乗っ取って、勝手に動かして、その場を切り抜けることもな。だが、わしも目覚めたばかりでな。乗っ取るより先に、おぬしの傷を治すのに力をだいぶ使うてしもうた。おかげで、いまのわしには、おぬしを乗っ取るほどの力は残っておらぬ』
恩を着せる響きも、惜しむ響きもない。できない理由を、ただ事実として並べているだけだった。
自分が、いまこうして動けるのは。
半日でも、丸半日でも、目を覚ましていられるのは。
礼を、言おうとした。口を開きかけた。だが、ソティスのほうが、先に笑った。
『まあ、いまは力がないだけじゃ。そのうち戻る。戻ったとき、おぬしがあまりに不甲斐なくて見ていられなんだら、痺れを切らして乗っ取ってしまうやもしれぬぞ。ほっほっほ』
それで、言いそびれた。
言わなくていい、と思った。ソティスがわざと茶化したのは、そういうことなのだろう。自分は口を閉じ、剣の手入れに手を戻した。
『で、おぬしはこれからどうするつもりじゃ』
ソティスが、話を戻す。
「まずは、丸一日動けるようにならないと」
『それは前提じゃ。その先を聞いておる』
「……そのときになったら考える」
『まったく、先の見えぬ男よ』
呆れた声だったが、急かすのはそこでやめた。まだ丸一日も保たない体で、その先もないものだ、とソティス自身わかっていたのだろう。
動けるようになると、自分は限られた時間を、剣の鍛錬とはべつのことにも使うようになった。
立ち寄った宿場で、行商の話を聞く。傭兵団に出入りする者の噂を拾う。古い戦の話、教団の話、フォドラの各地の話。意味があるのかわからないまま、聞いた端から覚えていった。
ソティスはその時間を厭わなかった。
『ほう。いまの商人、東のほうから来たと言うておったな。かなり遠いぞ。そんなところからいったい何を売りに来たのじゃ』
「香辛料だと言っていた」
『嗅いだことのないにおいがするのう。……おぬし、もう少しあの男と話してみよ。遠くの話を聞くのは、退屈しのぎになる』
「自分は退屈していない」
『ええい、いいから話せと言うておる! わしが退屈なのじゃ!』
人と話すたび、ソティスは横から口を出した。あの男の訛りはどこのものだ、あの女はなぜ子を連れて旅をしている、いまの話はほんとうか、嘘くさいぞ。聞いた話の真偽を測り、知らない土地の名を面白がり、ときには、自分が聞きそびれたことを代わりに気にした。
どうやらこの少女は、自分が誰かと話すのを楽しんでいるらしい。
ソティスは人の話を聞くのが好きだった。自分ひとりでは、宿場の隅で剣を磨いて終わる時間だ。それを、ソティスは惜しがった。もっと聞け、もっと話せ、と急かした。そうやって自分を人のあいだへ押し出すのが、退屈しのぎなのか、それとも別の何かなのか、自分にはわからなかった。
ガルグ=マク。
その名を聞いたとき、ソティスが黙った。
『いまの。もう一度、聞け』
珍しく、急いた声だった。行商は、フォドラ全土の信仰を束ねる大修道院の名を、何でもないことのように口にしていた。切り立った崖の上にあり、士官学校を併設し、大司教が座す。話はそれだけだった。だが、その名が出たあと、ソティスはしばらく何も言わなかった。
「知っているのか」
『……知らぬ。知らぬが、いまの名を聞いたとき、何かがざわついた。あの白いものを見たときと、似ておる。引かれる、と言えばよいのか。行かねばならぬ気がする。理由は、わからぬ』
また、わからぬ、だった。
だが、その日から、ソティスはガルグ=マクの名にこだわるようになった。どこかでその名が出るたび、もう一度聞け、と急かした。自分も、限られた時間をその名を拾うことに充てるようになった。どの街道を抜ければ近いのか。途中にどんな領があるのか。崖の上の修道院に、誰がいて、何があるのか。聞けることは少なかった。大修道院は遠く、傭兵の足では容易に届かない。
そして、その名を出すたびに、ジェラルトの機嫌が悪くなることに、自分は気づいていった。
「あんなところに、行く必要はない」
ガルグ=マクの名を出した夜、ジェラルトはそれだけ言って、酒の椀を置いた。
理由は言わなかった。だが修道院の話になると、ジェラルトの顔は険しくなった。教団を嫌っているふうでもない。怖れているのとも違う。ただ、彼らを拒んでいる。その拒み方が何に向いているのか、自分には見えなかった。
「お前は特に、だ」
付け足されたひと言の意味も、わからなかった。
「ジェラルトは、何かを知っている気がする」
天幕でそうつぶやくと、ソティスが答えた。
『知っておるとも。あの男の顔を見ればわかる。語る気がないだけじゃ。おそらく、おぬしを行かせたくないのだろうな。それも、ただの親心ではない。何か、訳がある』
「訳とはなんだ」
『それを言わぬのが、あの男のやり方なのであろう。真正面から聞いたところで、無駄じゃ』
ソティスの声に、めずらしく揶揄がなかった。ジェラルトの拒み方には、ソティスも触れたがらない何かがあるらしかった。
歳月が過ぎるとともに、目を覚ましていられる時間は延びていった。丸一日。二日。やがて、ふつうの人間と変わらず、夜まで動ける日が続くようになった。
動けるようになってまず気にかかったのは、本隊のことだった。
自分が倒れがちだったあいだ、傭兵団は受けられる仕事を選んでいた。長い行軍も、遠い地での戦も避け、近場の小さな依頼で食いつないできた。そのぶん、稼ぎは細っていたはずだった。自分のせいだとは、誰も言わない。言わないからこそ、返さなければと思った。
「もう、半日で倒れることはない」
ある朝、ジェラルトにそう告げた。
「丸一日でも、夜まででも動ける。次の行軍は、本隊に入れてほしい。いつまでも、自分のために仕事を選ばせるわけにはいかない」
ジェラルトはしばらく自分を見て、それから短くうなずいた。試すように長い行軍へ加え、前線に近い持ち場を任せた。倒れなかった。次も、その次も、最後まで立っていた。ジェラルトは何も言わなかったが、自分を見る目からいくらか緊張が抜けたのがわかった。
傭兵団は、また大きな仕事を請けるようになった。
それでよかった。自分のために狭まっていたものが、元へ戻る。それ以上のことを、このときは考えていなかった。
怪我から、五年が経っていた。
千年祭が近い、と宿場で聞いたのは、そのころだった。
「ガルグ=マクの大聖堂で、千年に一度の祭があるらしい」
行商の話を伝えると、ソティスは少し黙ってから言った。
『千年に一度、か』
それきり、ソティスは何も言わなかった。自分も、傭兵とは縁の遠い行事だと思っていた。動けるようにはなったが、団を離れてまで行く理由はない。ガルグ=マクの名は、相変わらず頭の隅にあったが、急いてはいなかった。いつでも行ける、と思っていた。
なのに、その日が来ると、考えが変わった。
朝、目を覚ますと、西のほうへ意識が引かれていた。
痛みではない。声でもない。ただ、向かなければならない方角がある、という感覚が、起き抜けの体に、もう据わっていた。崖の上。糸で引かれるように、そちらへ向きたくなる。糸の先に何があるのかは、わからない。それでも、行かなければならないと、体のほうが先に決めていた。
『おぬしも、か』
ソティスが言った。常になく、静かな声だった。
『わしも、今朝から落ち着かぬ。あの白いものを見たときよりも、ずっと強い。……わしらはあの地に、ガルグ=マクに行かねばならぬ』
自分も、そう思った。
依頼ではない。命令でもない。報酬も、契約も、待っている雇い主もいない。それでも、いま行かなければ間に合わない、という思いが、抑えきれなくなっていた。何を探しているのかは、言えなかった。ガルグ=マクに何があるのかも、知らない。それでも、今日でなければならなかった。
動ける体が、いまはべつの意味を持っていた。
半日で倒れていたころなら、行きたくても行けなかった。だが、いまは夜まで歩ける。崖の上まで、保つ。本隊へ返したはずの体が、今度は、団を離れるための条件になっていた。
ジェラルトには、言えなかった。
告げれば、止められる。それは、初めて修道院の名を出した夜に、もう知っていた。あのときよりも、強く止めるだろう。ジェラルトには、命じることもできる。団長として、本隊を離れるなと言われれば、自分は背くことになる。背いて出ようとすれば、押し問答の果てに、剣に手をかけることになりかねない。
父に対して、それだけはしたくなかった。
一度でも父へ刃を向ければ、帰る場所がなくなる。たとえこの引かれるものに従ったとしても、そのあとで戻ってくることが、できなくなる。
だから、頃合いを待った。
本隊が次の行軍に出て、分隊と別行動になる朝があった。ジェラルトは分隊を率いて、べつの街道へ向かう。本隊が動き出すまでに、わずかな間がある。その朝を選んだ。
夜のうちに、短い手紙を書いた。
団でいちばん古株の、自分が子どものころから知っている男に宛てた。長くは書けなかった。書けることが、少なかったし、文字を書くのも得意ではなかった。
行かなければならないところができた。理由はここには書けない。探さないでくれ。短いあいだだったが、世話になった。すまない。
それだけを何度か書き直して、男の荷のそばに置いた。
空が白みかけるころ、自分は天幕を出た。
見張りの交代の隙だった。眠っている者の寝息と、遠くで馬が身じろぎする音のほかは、何も聞こえない。ジェラルトの天幕の前を、足音を殺して通る。灯りは消えていた。中をうかがう気にはなれなかった。うかがえば、入ってしまう。入れば、言ってしまう。言えば、行けなくなる。
『黙って出るのか』
ソティスが低く言った。咎める声ではなかった。
「ああ」
『あの男は、怒るぞ。悲しみもするだろう。手紙一枚で消えられて、傷つかぬ親はおらぬ』
「怒るだろう」
それでよかった。怒ってくれるなら、まだいい。引き止めようとして、言葉を呑んで黙り込んだ、あの苦い顔のままでいられるよりは。
野営地の外れまで来て、一度だけ、振り返った。
天幕の列は朝靄に沈んでいた。どこにどの顔が眠っているのかも、見分けはつかない。長く、ここが帰る場所だった。ジェラルトの後ろを歩き、言われた戦場へ行き、戻ってくる。その繰り返しの外へ、自分はいま、初めて足を踏み出そうとしていた。
『初めてじゃ』
ソティスが言った。からかいの温度が、半分だけ戻っていた。
『おぬしが誰かに言われたからではなく、自分で行く先を決めるのは。あれほど、行く先などジェラルトが決める、と言うておった、おぬしがな』
「……ああ」
『それでよい。たとえ、その先に何があるか知れぬとしてもな。知れぬからこそ、行く値打ちもあろうというものよ』
わからないまま、行く。
自分は野営地に背を向け、崖の上の大修道院がある方角へ歩き出した。靄が足元から晴れてゆく。北の空は、まだ白い。
野営地を出てから、何日かが過ぎた。
ガルグ=マクへ向かう道は、思っていたよりも荒れていた。街道を進めば、崖の上へ近づく。そう聞いていた。だが実際に足を向けると、途中の宿場は戸を閉ざし、道を知る者は口を重くした。大修道院のほうは危ない。近づかないほうがいい。賊が出る。魔獣も出る。皆、言うことは違ったが、近づくなという意味だけは同じだった。
それでも、足は止まらなかった。
ここまで来た。そう思うたび、引き返すという考えは遠のいた。ガルグ=マクは、もう遠い場所ではない。人の話の中にだけある場所ではなく、歩けば近づく土地になっていた。
赤き谷の話を聞いたのは、その途中だった。
街道を外れた先にあると、宿場の男は言った。昔から気味の悪い場所だ。遺跡のようなものがある。いまは魔獣が多い。命が惜しければ近づくな。言い終える前に、男は話を打ち切るように背を向けた。
『ふむ。遺跡、とな』
「行ってみよう」
『魔獣が出ると言うておったぞ』
「斬ればいい」
『おぬしならそう言うと思ったわ』
呆れた声だったが、止める響きではなかった。
『行くなとは言わぬ。わしも気になるからのう。……じゃが、危なくなったら逃げよ。勝てぬと思ったらではない。危ないと思ったらじゃ。よいな』
「ああ」
『相変わらず返事だけはよいのう』
ソティスがまだ何か言いたそうにしていたが、自分は宿場で聞いた道をたどり、街道を外れた。
谷へ入る道は、道というより、崩れた地面の隙間だった。土が靴の裏に絡み、乾いた風が砂を巻き上げる。木はまばらで、葉の色も薄い。岩肌は日を受けて錆びたように見えた。赤き谷という名にふさわしいのか、ふさわしくないのか、自分には判断できなかった。
まず足を踏み入れたとき、ここは谷ではない、と思った。山の中へ分け入り、崩れた石の道を辿り、橋の下に黒い溝を見る。
鳥の声がない。虫の音も遠い。背後の街道は霧の中へと消えてゆく。
踏みしめた土は乾いているのに、息を吸うと、古い血のような、湿ったものが喉に絡むようだった。
『……知っておるような気がする』
ソティスが低く言った。
「何を」
『この風も、土も、何もかも知らぬはずなのに、どこか遠いところで見たもののように思える。なのに思い出せぬ』
その声に、いつもの刺はなかった。
自分は足を止めた。奥には、崩れた岩と、折れた木が見える。何かの跡があるのか。昔、人がいた場所なのか。何が壊れ、何が残ったのか。見て回れば、わかることもあるのかもしれない。
そのとき、獣の声がした。
土を蹴る音が近づく。ひとつではない。岩陰から現れたそれは、獣のかたちをしていたが、獣ではなかった。瘴気のようなものをまとい、大きな牙を剥き出しにしている。見たことのある生き物のどれとも違う。けれど、危険だということだけは、剣を抜く前からわかった。
『来るぞ』
「ああ」
異形は速かった。大きな体で岩を砕き、土を跳ね上げる。正面から受ければ押し潰される。横へ避け、足を斬る。硬い。刃は通るが、浅い。吠え声が谷に反響する。べつの方角から、また足音が返ってきた。
一体ではなかった。
斬る。避ける。岩の陰へ入る。爪が肩を掠める。返す刃で目の近くを裂く。倒れたと思った魔獣が、まだ動く。血のにおいに寄せられたのか、崩れた橋の先から、べつの唸り声が続いた。
倒せない相手ではない。
一体ずつなら斬れる。足を止め、間合いを測り、急所を探せば、進むこともできる。だが、そのたびに足場を選ばなければならなかった。背後を気にしなければならなかった。音を立てれば、次が寄ってくる。血が落ちれば、また影が増える。岩のあいだは狭く、休む場所もない。
『ベレト』
ソティスが呼んだ。
その声は、急かしていなかった。止めようともしていなかった。
『ここは、いまのおぬしひとりで探れる場所ではない』
「わかっている」
言ってから、自分は斜面の上を見た。来た道は細い。すでに背後にも足音がある。奥へ行けば、戻る道はもっと狭くなる。ガルグ=マクは近いはずだった。近い。だが、近いだけだった。
魔獣の爪を避け、斜面を駆け上がった。背後で岩が砕ける。追ってくる足音がある。細い道まで戻り、折れた木を蹴り落として進路を塞ぐ。いくつもの唸り声が、霧の向こうで響いていた。
谷を出たころには、陽が落ちかけていた。
肩に血が滲んでいる。腕も切れている。深くはない。だが、このままさらに進める傷でもなかった。谷の外から、遠くの崖を見上げる。ガルグ=マクは、あの先にある。
街道は荒れている。宿場は閉じている。谷には魔獣がいる。修道院へ続く道にも、賊や兵が出るという。斬り抜けるだけなら、できるかもしれない。だが、何があるのかを確かめるには、剣だけでは足りない。
近くまで来た。
それなのに、届かなかった。
ソティスはしばらく黙っていた。
『……何も、思い出せなんだ』
「そうか」
『懐かしいのは、確かなのじゃ。あの谷に、わしの知らぬ何かがある。それはわかる。だが、何であったのかが見えぬ。喜んでいたのか、嘆いていたのか、それすら定まらぬ』
「もう一度来ればいい」
『いつじゃ』
「わからない。でも、いまは無理だ」
ソティスは、それ以上は言わなかった。
谷から吹く風が、血のにおいと砂を運んできた。ガルグ=マクのある崖は、夕闇に沈みかけている。ここまで来た。けれど、いまの自分ひとりでは届かない。
収穫と呼べるものがあるとすれば、それだけだった。
デアドラ~同盟領 / 五年後(クロード)
====
窓の下を、運河の水が流れている。
デアドラの執務室は水の上にあるようなものだ。壁の向こうですぐ波の音がして、潮のにおいが書類のあいだにまで染みてくる。慣れれば心地よくもあるが、いまは違った。卓上に広げた地図の、黄色く塗られたレスターの領分を眺めていると、足元の水が、じわじわと冷たくなってくる気がした。
俺は駒をひとつ、指先で転がした。
黄色の駒だ。リーガン家の色。それを、地図の上のデアドラに置く。動かせない。動かせば、どこかが空く。空いたところへ、赤色の駒が入ってくる。それがわかっているから、この駒はここから動けない。
帝国は、まだ本気で同盟を見ていない。
それだけが、いまの同盟を生かしている。帝国の目は、まだ王国のほうを向いている。王国の反帝国派が、しぶとく抵抗を続けているおかげだ。彼らが王国の端で帝国の兵を引きつけているあいだは、こちらへ全軍が雪崩れ込んでくることはない。
だが、それも時間の問題だった。
数日前、斥候から報せが入った。帝国軍がミルディン大橋へ向けて動き出した、と。長いあいだ睨み合いで済んでいた大河の線が、ようやく動く。橋を越えられれば、デアドラまでの道はぐっと近くなる。
この五年間、どうにか保ってきた均衡が、音を立てて傾きはじめていた。
王国はもう、王を失っている。ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド。処断された、と聞いた。生きているという噂もあるにはあるが、俺は信じていない。あの状況で生き延びられるとは思えないし、生き延びていたとして、それで戦況が変わるとも思えない。反帝国派はいまなお戦っているが、王なき抵抗がいつまで続くかは、誰にもわからない。
彼らが折れたとき、帝国の目はまっすぐこちらを向く。
そうなったときが、同盟の最後だ。
冷たい話だが、これは見立てではなく、ほとんど決まったことだった。いまの同盟の戦力で、本腰を入れた帝国を押し返せるわけがない。ガルグ=マクを取り返し、教団に恩を売って騎士団の力を借りることも考えたものの、口に出すのもばからしいくらい、いまは非現実的だ。
守れてはいる。だが、こちらから攻める手はない。
それが、いまの俺の立っている場所だった。
厄介なのは、敵が外にだけいるわけじゃないことだ。
地図の上で、グロスタール領のあたりに指を滑らせる。グロスタール伯は、帝国とぶつかることを望んでいない。無用な血を流したくない。気持ちはわかる。わかるからこそ、面倒だった。俺が「帝国と戦う」と声を張れば、あの家はそっぽを向く。下手をすれば、帝国に攻められる前に同盟が内側から割れる。
ローレンツの顔が浮かんだが、すぐに消した。いまはこちらの旗の下へは来られない。あいつにも立場というものがある。
ジュディットには頼れる。ダフネル家の兵は強いうえに、信用できる。だが、あの札は、ここで切るものじゃない。いちばん効くところまで、取っておきたい。
つまり、いま俺の手元にある手は思っているよりずっと少ないというわけだ。
俺は地図から顔を上げ、窓の外へ目をやった。水面が午後の光を細かく弾いている。きれいなものだ。こんなときでも、景色はうつくしい。
笑えてくる。
フォドラを囲む壁を壊して、生まれや血で人を分けない世界を作る。そんな大それた夢を、俺はまだ捨てていない。捨てていないくせに、いま地図の上でやっているのは、どうやって負けを小さくするか、という計算だった。
そう。俺はもう、負けたときのことを考えている。
勝つ算段と、負ける算段を、同時に走らせる。これは、悲観じゃない。盟主として、当たり前のことだ。勝つつもりで動く。だが、負けたときに同盟が灰になるのは困る。だから、もし帝国に呑まれることになったら、諸侯にはおとなしく従ってもらう。逆らって一族郎党灼かれるより、頭を下げて生き残るほうがいい。
その根回しを、そろそろ始めなければならなかった。
手紙では足りない。こういう話は、顔を見て、声で伝えるものだ。誰が信用できて、誰が帝国に尻尾を振りそうか。それも、自分の目で確かめておきたい。
千年祭の約束も、覚えてはいた。
またガルグ=マクで会おうと、笑って別れた。五年後の約束など、戦がはじまる前なら、いくらでも軽く口にできた。だが実際にその日が近づくころには、俺はデアドラを離れられなくなっていた。帝国軍の動きから目を離せば、次に赤い駒がどこへ動くか読めなくなる。
約束の場所へ向かうどころか、そこへ誰が来たのかを確かめることもできなかった。
待っていても、誰かが気をきかせて勝手にここへ集まってくるわけではない。俺のほうから顔を出し、声をかけ、返事を聞くしかない。
戦力を集める。それが、表向きの理由だ。
デアドラで守りを固めるには、人がいる。旧い仲間たちの顔が、ひとりずつ浮かんだ。ヒルダ。リシテア。レオニー。ラファエル。イグナーツ。マリアンヌ。士官学校で同じ釜の飯を食った連中だ。あいつらの力を借りられれば、守りはずいぶん楽になる。
旧い仲間に会いに行く。だが裏では、その仲間に「いざとなれば帝国に逆らうな」と説いて回ることになる。旧交を温める顔をして、負けたあとの段取りを配り歩く。盟主とは、つくづく因果な商売だった。
それでも、行くしかない。
俺は黄色の駒を地図の上に置いたまま、立ち上がった。椅子が、石の床を擦って鳴る。窓の外では、運河の水が、相変わらず何食わぬ顔で流れていた。
「……さて、出かけるとするか」
誰にともなく、そう口にする。
声に出してしまえば、少しは腹も決まる。決まったふりが、できる。
扉のほうへ歩きながら、俺はいつもの顔を作った。盟主の顔だ。人好きのする、軽くて、底の見えない顔。これを貼りつけているあいだは、たいていのことはうまく運ぶ。水の都の午後は、まだ明るかった。
当然、止められはした。盟主が自ら、それも小勢で出歩くなど前例がない。近習たちはそろって渋い顔をしたし、もっともな話だった。だがどれだけ言われても、俺は行くと決めた。誰かに任せて済む用なら、最初からそうしている。これは俺がやらなきゃいけないことだった。
心配はいらない、と俺は言った。これでも、そこそこ腕は立つ。こんなところでくたばる気はない、とも。
連れてゆくのは斥候がひとりと、供がふたり。それだけだ。
大勢は連れていけない。デアドラの守りを固める支度がある。俺の話に乗ってくれる仲間を迎え入れる用意もいる。人手はいくらあっても足りない。だから自分が動くぶんは、できるだけ小さくする。目立てば帝国を刺激するし、そもそも大層な行列を組んで諸侯を訪ねるような用件でもなかった。
身軽なのは、性に合っている。
俺は飛竜の首筋を軽く叩いた。茶黒の鱗が陽の光を鈍く返す。飛竜は喉の奥で低く鳴き、翼を広げた。地を蹴る。風が一気に下へ落ちて、デアドラの運河がみるみる小さくなっていった。
水の都を離れ、東へ向かう。
空から見下ろすレスターの地は、まだ無事だった。
畑には作物が実り、街道を荷車が行き、村の煙突からは煮炊きの煙が上がっている。戦が大陸を灼いているとは思えないほど、のどかなものだ。それを見て、安堵するより先に肩のあたりが重くなった。
この景色を、守らなければならない。
帝国がひとたびこの地へ足を踏み入れれば、ここも、国境付近と変わらなくなる。
帝国との境に近い土地では、もう死者が出ている。小競り合いと呼ぶには血が流れすぎ、戦と呼ぶには間延びした、嫌な削り合いが続いている。畑が踏み荒らされ、逃げ場を失った者が街道に溢れる。その光景を俺は上がってくる報告で何度も読んだ。読むたびに、腹の底が冷えた。
いまレスターの大半が無事でいられるのは、ただ、帝国の手がまだ本気でこちらへ伸びていないからにすぎない。その手がこちらへ伸びれば、この煮炊きの煙も、実った畑も、たやすく灰になる。
はじめから帝国に従っていれば、こうはならなかった。
それも、わかっている。
頭を下げ、軍門に降り、エーデルガルトの掲げる新しい秩序とやらに膝を折る。そうすれば、レスターの民は戦火を見ずに済んだかもしれない。盟主として、いちばん犠牲の少ない道がどれかと問われれば、たぶん、それが答えだった。
だが、うなずけなかった。
あの女帝のやり方は、強引すぎる。道を阻むものを血で塗り潰して、それで新しい世を作るのだという。たとえその先に正しい何かがあるとしても、そこへ至るまでに、いくつの村が、いくつの名もない命が踏み潰されるのか。あいつは、それを承知のうえでやっている。
壁を壊したいという一点だけなら、俺とあいつは、案外似ているのかもしれない。
だからこそ、認めるわけにはいかなかった。
盟主の采配としては「従え」が正しいと知りながら、いざとなれば諸侯にそう配って回るつもりでいながら、俺自身は、その正しさにどうしても膝を折れずにいる。盟主の俺と、ただの俺が、地図の上でも、この空の上でも、いつまでも噛み合わない。
その板挟みを抱えたまま、飛竜の手綱を握り直す。
まずは、ゴネリル家だ。
同盟領東端を守る、武門の名家。ヒルダの生家であり、パルミラの侵攻を一手に受け止めてきた猛将がいる。あの家の力を借りられれば、デアドラの守りは固くなる。そして何より、ヒルダがいないとはじまらない。
飛竜は東へ翼を傾け、雲の薄いあたりを抜けてゆく。眼下の景色が、平野から、起伏のある土地へと移り変わっていった。
その道中だった。
地上に降りて食事を取っていたところへ、斥候が近くの集落で拾った話を持ち帰ってきた。聞けば、すぐそこで、いままさにひと悶着あるという。
同盟領に、帝国の斥候が紛れ込んでいたらしい。
国境の見張りをかいくぐって入り込んだ奴らを、警備兵が見つけて、追い払おうとした。そこから、剣を抜く羽目になった。数の上では同盟側が勝っていたものの、相手は手練れで、警備兵のほうが押されている。そういう、よくある小競り合いだった。
よくある、で片づけられなくなったのは、ここからだった。
「その揉め事の最中に、横から、突然男がひとり割って入ったそうでして」
斥候は、首をかしげながら言った。
どちらの兵でもない。同盟の旗も、帝国の旗も背負っていない。鈍色の装いをした剣士が、ふらりと現れて、帝国の斥候へ斬りかかった。警備兵が呆気に取られているうちに、男はあっという間に相手を片づけてしまったという。集落の者は、人の動きじゃない、あれは悪魔だと、口々に言っているらしい。
悪魔、と聞いて、ひとつ思い出したことがある。
灰色の悪魔。その名なら、知っていた。
ついでに、ジェラルト傭兵団、という名も。レスターを根城にしているくせに、居所を明かさないことで知られた傭兵団だ。そこに、『灰色の悪魔』と呼ばれる、異常に強い剣士がいる。もうひとり、『壊刃』という大男もいたはずだ。名前と、そういう噂だけは、耳に入っていた。どちらも、実物を見たことはないが。
半分は、眉唾だと思っている。強い傭兵の話など、どこの戦場にも転がっているからだ。尾ひれのついた噂をいちいち真に受けていては、身がもたない。会ってみたところで、どこにでもいる剣自慢が、村人を脅して悦に入っているだけかもしれなかった。
ただ、引っかかるのは、その男が割って入ったという一点だった。
雇われたわけでもない。団員を引き連れているわけでもない。それなのに、見ず知らずの揉め事へ自分から首を突っ込んだ。帝国の斥候を片づけたところで、何の得にもならないはずだ。何のために、と考えて、答えが出なかった。そういう読めないものを放っておけば、後々厄介事に繋がりかねない。
それと、戦力として惜しい、という勘定もあった。小勢でレスターを駆けまわるのは、やはり心許ない。噂が本物なら、それだけの剣が一本、道連れになるかもしれなかった。逆に、その腕が帝国へ流れたり、賊に堕ちたりすれば、いずれ同盟の喉元へ刃が向く。使うにせよ、備えるにせよ、どんな男かを見ておいて損はない。
もっとも、そういう理屈を並べる前から俺の気持ちはもう、傾いていた。
人の動きじゃない、とまで言わせる剣士が、得にもならない喧嘩へ自分から飛び込んでゆく。その姿が、どうにも引っかかる。どんな顔で剣を振るう男なのか、この目で見ておきたかった。
大した期待はしていない。革袋の口を縛り直しながら、斥候へ問う。
「案内してくれ。その悪魔とやらが暴れてるのは、どのあたりだ」
斥候に案内された先は、街道からすこし外れた、開けた草地だった。
飛竜を低く回しながら見下ろすと、戦は、もう終わっていた。
倒れているのは、見たところ帝国の装いをした連中ばかりだ。数は、片手では足りない。誰ひとり、起き上がる気配がない。同盟の警備兵らしき男たちは、離れたところに固まって、地面に尻をついたまま動けずにいた。怪我をして動けないのとは、違う。腰を抜かしている、というのが近かった。
その真ん中に、男がひとり、立っていた。
黒く長い外套が風を受け、重たげに揺れている。鈍色の装いと聞いていたが、なるほど、たしかに灰色というよりは煤けたような黒に近い。背丈は俺とほとんど変わらないし、肩幅も取り立てて広いわけではない。むしろ、細い。これが、人の動きじゃないと言われた剣士か、と拍子抜けした。
悪魔と呼ばれるぐらいなのだから、もっと毛むくじゃらの大男でも出てくるかと思っていた。蓋を開けてみれば、どこにでもいそうな、痩せた剣士がひとり。
だが、笑えたのはそこまでだった。
飛竜を降ろし、地に足をつけてからもう一度あたりを見回して、背筋が、すっと冷えた。
倒れ方が、おかしい。
帝国兵は、めいめい好き勝手な向きで斃れているように見えて、ひとつとして無駄な傷がなかった。深追いした跡も、力任せに振り回した跡もない。ひとりをひと太刀で片づけ、間を置かず次へ移った、という斬り口だ。囲まれた中央から、外側へ向かって順に倒している。素人の喧嘩ではない。場数を踏んだ兵でも、これだけ静かには斬れない。
そして助けられたはずの警備兵が、礼も言えずに腰を抜かしている。
それが、いちばん雄弁だった。味方のはずの男に、怯えている。目の前で起きたことが人の業として呑み込めなかったのだろう。気持ちは、わからなくもなかった。
強い。危ない。だが、見境がないわけじゃない。
現に、同盟の兵には指一本触れていない。倒れているのは帝国兵だけだ。乱戦の勢いで斬ったというより、斬る相手と斬らない相手を、はっきり分けている。化け物ではない。化け物には、こんな線は引けない。
こいつが噂の、と腹に落ちた。
居所を明かさないジェラルト傭兵団。その団にいるという、『灰色の悪魔』。実物を見ない名前だけの噂が、いま目の前で、ひとつの像を結んだ。
男は、剣の血を払い、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
俺が飛竜で降りてきたのを警戒するでも、構えるでもない。ただ、見ている。値踏みでも、敵意でもない、薄い目だった。腰を抜かした警備兵のことも、もう気にしていないらしい。
俺は敵意がないことを示すために、両手を軽く開いて見せた。
「あんたが、『灰色の悪魔』か」
言ってから、すぐに言い直した。
「……いや、失礼。本人を前にして悪魔呼ばわりは、さすがに礼を欠くな。名前を、聞いても?」
男は、すこし間を置いてから、短く答えた。
「ベレト」
「ベレト、ね」
俺は、名乗り返した。
「俺はクロード。レスターで仕事をするなら、盟主の顔ぐらいは、覚えておいたほうがいいぜ」
たいていの相手なら、ここで顔色が変わる。盟主と聞けば、慌てて居住まいを正すなり、警戒を強めるなり、何かしらの反応がある。
ベレトには、それがなかった。
わずかに首を傾けただけだ。盟主、という言葉が、この男の中で何の重さも持っていないのが、はっきりと見て取れた。目の前に立っているのが誰であろうと、知ったことではない。そういう顔だった。
悪い気は、しなかった。むしろ、めずらしい。
「警戒しないんだな。俺がここで、あんたを斬れと命じることもできるんだぜ」
「君は、そうしない」
「へえ。どうしてそう思う?」
ベレトの目が、俺の肩から背にかけて、ひと撫でするように動いた。背負った弓と、矢筒を見ている。
「殺す気なら、空から射ていただろう」
それきり、ベレトは口をつぐんだ。
言われてみれば、その通りだった。本気で殺す気だったなら、飛竜の上から、矢を番えたまま降りてくる。両手を開いて見せたりはしない。こちらの得物まで見て、所作の意味を読んでいる。喋らないだけで、目は利く男らしい。
「で、ベレト。あんた、こんなところで何をしてる。傭兵が雇われてもいない喧嘩に首を突っ込むなんて、感心しないな」
探りを入れたつもりだった。
だが、返ってきた答えは、こちらの探りを、するりと抜けていった。
「ガルグ=マクへ行きたい」
「……は?」
脈絡がなかった。
「いまの話と、どう繋がるんだ、それは」
「君は盟主なのだろう。だったら、この地のことに詳しいはずだ」
ベレトは、表情をほとんど動かさないまま、まっすぐにこちらを見た。
「ここから、ガルグ=マクへ向かうための道を教えてほしい」
「ガルグ=マク、ねえ」
俺は、すぐには答えなかった。
一度帝国の手に落ちたガルグ=マクだが、兵そのものは引いたと聞いている。その代わり、賊が住みつき、帝国の斥候もうろついている。とても、地図一枚で行ける場所じゃない。それに、こちらにはこちらの用がある。わざわざあの崖の上まで、見ず知らずの傭兵を送り届けてやる義理はなかった。
「悪いが、連れてはいけない。あそこは、いま物騒でね。それに、俺にはこれからやらなきゃいけないことがある」
ベレトは、表情を変えなかった。落胆も、食い下がりもない。ただ、次の言葉を待っている。
ふと、惜しい気がした。
これだけの剣を、ここで手放すのか、と。小勢で動く道行きに、この一本があれば、ずいぶん心強い。断っておいてなんだが、欲が出た。
隠す話でもないので、正直に明かすことにした。
「俺はいま、仲間を集めて回ってる。同盟を守るためだ。知っての通り――いや、あんたは知らないかもしれないが、レスターは、いつ帝国に踏み潰されてもおかしくない状態でね。それを食い止めるには、人がいる。腕の立つ人間が、ひとりでも多くな」
そこで、軽く餌を撒く。
「どうだ、ベレト。その腕を、しばらく俺たちに貸す気はないか? もちろん、報酬は出すぜ」
ベレトは首を横に振った。
「いや。雇われる気はない」
報酬も聞かない。期間もたずねない。盟主直々の誘いを値段も確かめずに断る傭兵が、どこにいる。こちらの組み立てが、出だしから空を切った。
「即答だな。条件も聞かずに断るのかよ」
「自分の用は、ガルグ=マクへ行くことだけだ。それが済めば、ほかに何もいらない」
ぶれない男だった。雇われたいわけでも、銭が欲しいわけでもない。あの崖の上へ行きたい。それだけで動いている。そんなたちだから、雇われてもいない喧嘩に首を突っ込むわけだ。こいつは、損得で動く生き物じゃない。
だったら、響かせ方を変えるまでだ。
「まあ、聞けって。あんたの用と、俺の用は、案外、同じ方向を向いてるかもしれないぜ」
俺はゆっくりと続けた。
「いいか。同盟が踏ん張って帝国を押し返せたなら、そのうち、俺たちが西のほうへ足を伸ばせる可能性が出てくる。あんたが行きたがってる、ガルグ=マクのほうへ、な」
ベレトの目がわずかにこちらへ向いた。食いついたとまでは言えないが、聞く気はあるらしい。
「しかし残念ながら、いまの同盟にはそんな余裕はない。そこで、あんたが力を貸してくれるってなら、帝国軍を退けるところまでは持っていける。そうなりゃ、話は変わってくる。確実に修道院の中に入れるとは言えない。帝国の目を考えりゃ、難しいかもしれない。……だが、近くまで連れてくぐらいなら、もしかしたら、なんとかなるかもしれない」
我ながら、ずいぶん留保の多い言い方だった。
かもしれない、を、いくつも重ねた。まず帝国を追い払えたら、という前提からして、いまの俺には苦しい。約束らしい約束は、ひとつもしていない。あとでどう転んでも、言い逃れのきく言い方だ。
「それに、だ」
俺は、もうひと押し足す。
「報酬は、ちゃんと出す。仮にあんたが、やっぱりひとりでガルグ=マクを目指すと言い出したとしてもだ。先立つものは、いくらあっても困らないだろ。路銀のひとつもなしに、あの道は越えられないぜ」
ベレトは、しばらく黙っていた。
「……道だけ、教えてくれればいい」
まだそんなことを言うのか。思わず頭を抱えたくなった。
「同行は、いらない。場所と道さえわかれば、自分で行く」
「それが、簡単な道ならな」
俺は肩をすくめた。
「口で説明して、はいそうですか、で行ける場所じゃないんだよ、あそこは。地図一枚渡したところで、たどり着く前に野垂れ死ぬのが関の山だ」
「君は、ガルグ=マクに詳しいのか」
はじめて、ベレトの声に、わずかな色がついた。
しまった、と思ったが、もう遅い。こいつは、餌より先に、こっちの口が滑ったひと言に食いついてきた。
「……まあ、多少はな。昔、あのあたりをよく歩き回ってたんだよ。士官学校にいたころの話だが」
ベレトの目が、すっと動いた。
「あそこに、学校があるのか」
「あるさ。崖の上の修道院に、士官学校が併設されていてね。俺も、そこの生徒だった。もっとも、いまはどうなってるか知らないが」
言いながら、おや、と思う。
ガルグ=マクに士官学校があったことを知らない。それほど行きたがっている場所の中身を、ろくに知らずに目指している。妙な話だった。どうしてあそこを目指しているのかを聞いても、おそらくまともな答えは返ってこない。そういうにおいがした。
ますます、放っておけなくなる。
「とにかく、道だけってのは無理だ。教えられない」
「そうか」
ベレトは、短くそう言うと、あっさり背を向けた。
「なら、君たちに用はない。邪魔をした」
どうやら本気らしい。
地図もなく、道も知らず、それでも、ひとりであの崖を目指す気でいる。止める理由は、こちらにはない。雇われるのも断った、道も教えられない、それで話は終わりだ。終わり、のはずだった。
「待った、」
気づけば、声が出ていた。
自分でも、思ったより早かった。ベレトが二歩、歩いたかどうか、というところだ。引き止める算段が、頭の中で組み上がるより先に、口のほうが動いていた。
ベレトが、足を止めて振り返る。
言葉を、探した。雇いたい、とも違う。道を教える、とも違う。手放したくない、という一点だけが、やけにはっきりしていて、理由のほうが追いついてこない。
「……そう急ぐなって。ひとりで飛び出したところで、その道の先で野垂れ死んだら、元も子もないだろ」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「さっきの話を、もう一度よく考えてみろよ。同盟に力を貸す。それが結局、いまのあんたにとって、ガルグ=マクへ安全に、かついちばん近づける道なんだ。地図もなしに、ひとりであの崖へ突っ込むよりは、よっぽどな」
ベレトは、すぐには答えなかった。
ふいに、空を見上げる。
雲のあたりへ視線を投げて、何かを聞いているような、確かめているような、奇妙な間があった。俺の話に考え込んでいる、という顔とはどこか違う。ここではない、べつのどこかと相談しているような。
何を見ている、と聞きかけて、やめた。
しばらくして、ベレトは空から目を戻した。それからひとつ、うなずいた。
「わかった。君に同行する」
返事はあっさりしたものだった。
さんざん逃げを張った俺の言葉から、こいつは、近くまで連れてゆく、のところだけを、まっすぐ受け取ったらしい。難しいかもしれない、も、保証できない、も、きれいに抜け落ちている。
ほんとうなら、この旅で旧友たちにする話はひとつではなかった。
デアドラを守るために来てほしい。そこまではいい。だが、それだけで済ませるつもりはなかった。いざとなれば、帝国に逆らうな。生き延びろ。そういう負けたあとの算段も、渡して回るつもりだった。
けれど、目の前の男は、帝国の斥候をひとりで片づけた。
あの剣が一本あるだけで、俺たちにできることが増える。
勝てる、とまでは言えない。それでも、負けたあとの話を先に配って歩くにはまだ早い気がした。
ベレトは、こちらの言葉を疑っていないようだった。つくづく変な奴だと思う。
近くまでなら、もしかしたら、なんとかなるかもしれない。そう言っただけだ。俺としては、いくらでも逃げられるように話したつもりだった。
彼は、その逃げ道を見ていないどころか、こちらが差し出した細い道だけを見て、そこへ足をかけようとしている。
それでも、訂正する気にはなれなかった。訂正すれば、この男はまた背を向けて、ひとりで崖へ向かうだろう。それは困る。困る、と思っている時点でもう、戦力の勘定だけじゃ説明がつかなくなっていた。
「じゃ、商談成立だ。短い付き合いになるか、長くなるかは、あんた次第だがな」
俺はいつもの顔で笑ってみせる。
ベレトは、笑い返さなかった。そういう愛想もない。ただ、わかった、というように、もう一度うなずいただけだった。
同盟領(ベレト)
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クロードという男は、読めなかった。
同行を決めてから何日かが経った。クロードは飛竜で空をゆき、自分は地を歩く。盟主と、雇われたばかりの傭兵だ。昼のあいだ、言葉を交わすことはほとんどない。自分は地上を歩いていて、あの男ははるか前か、頭上にいた。
だが、野営で足を止めると、話はべつだった。
夜、火を囲んでいると、クロードはなぜかこちらへ寄ってくる。盟主なら、ほかにいくらでも話す相手がいるだろうに、わざわざ末席の傭兵の隣に腰を下ろして、よく喋った。空の色のこと、街道の先の村のこと、昔通りかかった土地の、安宿の食事のこと。よく回る舌だと思う。だがいくら喋っても、肝心なところはするりと避けてゆく。どこへ何をしに行くのか、誰を頼るつもりなのか。その芯のところは笑みの裏に隠したまま、決して見せない。
人当たりは、やわらかい。やわらかいのに、底が見えない。
『食えぬ男よな』
ソティスも、同じことを思っていたらしい。
『口では調子のいいことばかり並べておるが、目だけは、ちっとも笑うておらぬ。ああいうのは、こちらが気を許したころに、いちばん大事なところで手のひらを返すものじゃ。気をつけよ』
気をつけよ、と言われても、こちらにできることは少ない。自分はただ、ガルグ=マクの近くまで連れていってもらえればそれでいい。クロードが何を企んでいようと、その用さえ果たされるなら構わなかった。
だが、この男のほうはそうは思っていないようだった。
「なあ。あんた、歳はいくつなんだ」
ある晩、火を挟んで、クロードがそう聞いてきた。
「わからない」
「わからない? 自分の歳が?」
「ああ」
数えたことがない。ジェラルトも教えてくれなかった。だから、ほんとうに知らない。
「じゃあ、出はどこだ。レスターの生まれか、それとも――」
「わからない」
「……母親は」
「知らない」
嘘ではなかった。どれも、ほんとうに知らないことばかりだ。自分が何歳で、どこで生まれ、母親が誰なのか、自分はひとつも知らないまま、ここまで来た。問われて答えられないのは、隠しているからではない。ただ、答えを持っていないからだった。
でもクロードの受け取り方は、違ったらしい。
「へえ」
そう言ったクロードの目が、すっと細くなった。面白いものを見つけた、という顔だ。
「ずいぶん用心深いんだな。そう何もかも『わからない』で通されると、かえって気になるんだよ。さては、腹にいろいろ抱えてるくちだな」
違う、と言いかけて、やめた。
否定したところで、ではほんとうは何なのだと聞かれる。聞かれても、答えられない。説明のしようがなかった。自分が自分を知らないということを、どう言えば伝わるのかわからない。だから黙った。
こちらが黙ったことで、目だけでなく、彼の口元までもが愉快そうにゆるんだ。
『ふふ。墓穴を掘ったな』
ソティスが言った。
『あの男は、おぬしが隠し事をしておると思うておるぞ。何も隠してなどおらぬのにな。おぬしがただ、空っぽなだけだということに、あやつは気づいておらぬ』
空っぽ、という言い方は気に入らなかったが、否定する材料も、持っていなかった。
ただ、わからないと素直に答えても怒りもしないどころか、懲りずに話しかけてくる彼のことは、不思議と嫌ではなかった。
ゴネリル家の屋敷は、レスターの東の端、険しい山並みを背にして建っていた。
パルミラとの境を守る武門の家だと、道中、クロードから聞いていた。当主はいま、国境の守りで屋敷を空けている。出迎えたのは、その妹のほうだった。
「クロードくん! お久しぶりー」
桃色の髪の娘が、屋敷の前で手を振っていた。
戦の気配など、まるで身にまとっていない。やわらかな声で気安くクロードを呼ぶ。クロードのほうも、それまで自分に見せていた底の知れない笑みとは違う、肩の力の抜けた顔で応じた。
「久しぶりだな、ヒルダ。元気そうで何よりだ」
「元気じゃないよー。兄さんは国境に行きっぱなしだし、あたしは留守番ばっかりだし。……で? 盟主様がわざわざこんなところまで足を運んで、何の用かなー?」
用件はわかっているという口ぶりだった。わかっていて、あえて言わせようとしている。クロードも、それを察した顔で、軽く肩をすくめた。
ふたりのやりとりには、淀みがなかった。
長く、互いを知っている者同士の話し方だった。言葉の半分を省いても、それで通じてしまう。自分の入る隙のない速さで、軽口が行き交う。
『ほう。あの食えぬ男が、ずいぶんやわらかい顔をするではないか』
ソティスが、面白そうに言った。
『さしずめ、気の置けぬ間柄というやつじゃな。おぬしに見せておった用心深い顔とは、まるで別人よ』
たしかに、別人のようだった。
自分の前では、クロードは決して芯を見せなかった。やわらかい物腰の裏で、いつもこちらを測っている。だが、この娘の前ではその測る目がほとんど引っ込んでいる。気を許しているのが、見ていてわかった。
クロードにとって、この娘がどういう相手なのか。言葉で説明されたわけではない。だが、この気の抜けた顔ひとつで、じゅうぶんに伝わってきた。
「紹介しておくよ。こいつはベレト。ここに来る道中で雇った傭兵でね」
クロードが、こちらへ手を向けた。
「それがさ、ただの傭兵じゃないんだ。お前、『灰色の悪魔』って聞いたことあるか?」
得意げな声だった。
めずらしいものを手に入れた子どもが、それを見せびらかすときのような顔で、クロードはこちらを示している。芯は見せないくせに、こういうところは、存外わかりやすい。
ヒルダは、こちらを上から下まで眺めて、それから首をかしげた。
「えー、知らなーい。そういうの興味ないし。……てか、悪魔ってまさかこの人のこと? あたしには、ぱっと見、ただのかっこいい人にしか見えないけどなー」
「おいおい、見た目に騙されるなって。こいつひとりで、帝国の斥候を片づけちまったんだぜ」
「ふーん。クロードくんがそう言うなら、すごい人なんだろうねー」
悪魔と呼ばれようが、帝国兵を片づけようが、彼女にとってはどうでもいいことらしい。彼女はクロードの話を適当に流したあと、「よろしくね」と肩をすくめながら、愛想よく笑った。たったそれだけのことだったが、あのクロードが気を許した理由が少しだけわかった気がした。
「で、ヒルダ。本題なんだが」
クロードが声の調子をほんの少しだけあらためた。
「お前の力を、貸してほしい。デアドラを守るのに、どうしても人がいる。無理を言ってるのは承知の上さ」
ヒルダは大げさにため息をつく。
「もー。そういうのは、手紙でいいでしょー。わざわざここまで来なくたっていいのに」
「手紙じゃ、お前は『考えとくー』で済ませるだろ」
「あはは、ばれてる」
笑って、それから、ヒルダはちらりとクロードを見た。
「……でもさ。クロードくんが、自分で足を運んで、頭まで下げて頼みに来たんでしょ。だったら、聞くしかないよねー。盟主様直々のお願いなんだから」
「助かる。恩に着るよ」
「それで? あたしは何をすればいいの?」
「ひとまず支度が済んだら、デアドラへ向かってくれ。守りの準備を始めておいてほしい」
「えー、もう働くのー? ついさっき引き受けたばっかりなんですけどー」
「悪いな。こっちは、まだ何軒か回らなきゃならないんだ」
ヒルダは、わざとらしく唇を尖らせたが、それだけだった。彼女の声に迷いはなかった。戦が、とか、大義が、とか、そういう話は、ひとつも出てこない。ただ、クロードが来たから。クロードの頼みだから。それだけで、この娘は引き受けてしまった。
損得ではなかった。
自分がクロードに同行しているのは、ガルグ=マクへの道のためだ。条件があり、見返りがある。だが、この娘を動かしたのは、そういうものではない。もっとべつの、説明のいらない何かだった。
『よいものを見たのう』
ソティスが、しみじみと言った。
『あの食えぬ男にも、ああして頼れる相手がおるのか。手のひらを返すだのと言うたが……あの娘の前では、返す手のひらすら、持っておらぬようじゃな。ふむ。かわいいところもあるではないか』
かわいい、という言葉が、あの男に似合うとは思えなかった。
だが、ヒルダの前でだけ見せる、あの肩の力の抜けた顔を思えば、まるきり的外れとも言えない気がした。
次の晩の野営で、クロードは地図を広げながら自分を呼んだ。
火のそばに膝をついて、羊皮紙の上を指でなぞる。いつもは隣に座って勝手に喋るだけのこの男が、今夜は何かを見せようとしていた。
「次に向かうのは、ここだ。コーデリア領」
指が、地図の一点で止まる。レスターの東、自分たちがいまいるあたりから、そう遠くない。
「ここはゴネリルほど単純な家じゃない。見ろ、この位置だ」
クロードの指が、コーデリア領からすこし下へ滑った。そこには、帝国との境を示す線が引かれている。コーデリア領は、その線のすぐ近くにあった。
「帝国に近いだろ。こういう家はな、帝国に真っ先に目をつけられるんだ」
静かな声だった。だが、地図をなぞる指は、その線の近くにある家を、ひとつずつ確かめるように動いていた。
「だから、こういう土地の家は、帝国に従ったほうが楽なんだ。頭を下げて、見逃してもらう。そのほうが、丸く収まる。……責められた話じゃないさ。生き残るってのは、そういうことだ」
「君は、その家に、逆らえと言いに行くのか」
自分が問うと、クロードは少し笑った。
「いや、家そのものには言わない。そんな無茶は頼めないさ」
彼の指が地図から離れた。
「声をかけるのは、この家の娘だけだ。リシテアっていうんだが、そいつ個人に頼む」
家を巻き込まない。個人だけを誘う。それが相手の家を守るための線引きなのだと、聞いていてわかった。クロードは頼みごとをしながら、同時に、頼む相手の退路を残している。
『ほう』
ソティスが言った。
『あの男、ただ人を集めておるだけではないな。抜け目のないことよ』
抜け目がない。たしかに、そうだ。その抜け目のなさが明日、どんなふうに使われるのか。地図の上の説明だけでは、まだ自分には見えてこない。
コーデリア領へ近づくほど、すれ違う人の数が減っていった。帝国との境が近づいている。ただそれだけのことで、土地の空気がどこか張り詰めて感じられた。クロードが地図の上で指していた線は、こうして近づいてみると目には見えないのに、たしかにそこにあるようだった。
コーデリアの屋敷に着いたのは、翌日の昼だった。
出てきたのは白い髪の娘だった。年は、自分よりずいぶん下に見える。だが、子どもという感じはしなかった。背筋が伸びていて、こちらを見る目に、値踏みするような鋭さがある。
「クロード? どうしたんですか、突然」
ヒルダのような気安さとは違った。突然の来訪に驚きながらも、その声はすぐに用件を探るような硬さを帯びた。
「よう。久しぶりだな、リシテア。ずいぶんと背が伸びたじゃないか」
「そういう挨拶は結構です。あんたが自分で足を運んだということは、それだけ切羽詰まっているんでしょう。……まず、そちらの方はいったい誰なんですか」
「ああ、こいつはベレト。道中で雇った傭兵だ」
リシテアはこちらをひとわたり眺めたあと、口を開いた。
「……はじめまして。わたしはリシテア=フォン=コーデリアです。どうぞよろしく」
それ以上は何も言わなかった。詮索しない、というより、いまはそれどころではない、という顔だった。
「で、用件は。どうせデアドラのことでしょう。帝国がミルディン大橋へ進軍している話は、わたしの耳にも届いていますから」
「さすが。話が早くて助かるよ」
クロードは用件を切り出した。帝国軍がミルディン大橋に向けて進軍していること。デアドラを守るのに人がいること。
「お前の力を、貸してほしい」
「……もし断ったら、どうするんですか」
「どうもしないさ。お前が来れなくても、どうにかする。このあたりに帝国兵が出てくりゃ、追い払う。お前が手を貸すかどうかとは、関係なくな」
「条件にしないんですか。わたしの助けを」
「するわけないだろ。お前の家がどういう場所にあるか、知ってて来てるんだからな。さすがの俺もそこまで非道な真似はしないさ」
リシテアはしばらく黙っていた。
その横顔に、迷いがあった。引き受けることと、引き受けないこと。その両方を、ちゃんと量っている。何を量っているのかまでは、自分にはわからない。ただ、帝国との境に家を構えているということが、どういう重さなのか、その一端は、火のそばでクロードに聞いた通りなのだろう。従えば楽になる。逆らえば、危ない。そのあいだで、この娘は何かを選ぼうとしている。
「……わたし、楽なほうに逃げるのは、性に合わないんです」
ぽつりと、リシテアが言った。
何を考えて、何を捨てて、その結論に行き着いたのか、そこは語られなかった。だがクロードのほうはそれで通じたらしく、唇の端がわずかに上がっていた。
ふたりのあいだには、言わなくても伝わるものがあるのかもしれない。
「お前を数に入れるのと入れないのとでは、策の質が変わってくるからな。頼りにしてるぜ」
クロードが、静かに言った。
リシテアは、その言葉にほんの少しだけ、肩の力を抜いたように見えた。
「また昔みたいに子ども扱いしたら、承知しませんからね」
「しないさ。だからこうして、頼みに来てる」
話は、それで決まった。
リシテアは家のことを片づけたら、デアドラへ向かうと言った。ただし、コーデリア家としてではなく、自分ひとりとして行く、と。家は表向き、何も動かない。娘がひとり、昔の仲間に手を貸しに行くだけ。そういうかたちにすれば、家が帝国に睨まれることもない。
それも、クロードが最初に引いた線の内側だった。
クロードが踵を返したあと、リシテアに呼び止められた。
「ベレトさん、と言いましたか」
「ああ」
「あなた、クロードに雇われているんですよね。だったら、ひとつ言っておきます」
彼女は呆れたような、困ったような顔をしていた。
「彼は、とにかく口がうまいです。気をつけないと、いいように使われますよ。……まあ、わたしが言えた義理では、ありませんけど」
それだけ言うと、リシテアは屋敷の中へ戻っていった。
『ふふ。あの娘、よいことを言う』
ソティスが愉快そうに笑った。
気をつけるべきだとは思う。でも、と自分は考えていた。
クロードは、リシテアを口でうまく丸め込んだわけではなかった。断ってもいい、条件にはしない、と、逃げ道のほうを先に差し出していた。そのうえで、リシテアは自分で選んだ。
ヒルダのときも、リシテアのときも、クロードの頼み方は、相手によってまるで違った。同じ「力を貸してくれ」でも、置きどころをひとつずつ変えている。口がうまい、というひと言で片づくものとは、何かが違う気がした。
それが何なのかは、まだわからない。
同盟の各地を巡る旅はまだ続いていた。
地図の上では、コーデリア領から西へ進んでいる。
ヒルダ、リシテア。これまでに訪ねたふたりは、どちらもクロードの旧友だった。士官学校で同じ学級だったのだという。そのやりとりを、自分はいつも、隅で眺めていた。
眺めているうちに、ひとつ、引っかかることが出てきた。
クロードはどちらにも同じことを言った。デアドラを守るのに力を貸してくれ、と。
水上都市デアドラ。そこを守る。それが、この旅の目的らしい。
だが、自分はそんな話を聞いていない。
最初にこの男が言ったのは、同盟を守るため、ということだけだった。デアドラがどうとか、守りがどうとか、そんな具体的な話は、ひとつもされていない。仲間には言って、自分には言わない。べつに、隠さなければならない話とも思えないのに。
リシテアの言葉が、頭をよぎった。
――クロードは、口がうまいです。気をつけないと、いいように使われますよ。
あのときは、口がうまいというのとは違う気がした。だが、こうして自分だけが話を聞かされていないとなると、やはり、いいように使われているのかもしれない。そんな疑いが頭をもたげてくる。
『気になるなら、聞けばよかろう』
ソティスが言った。
『腹の中でぐずぐず考えたところで、答えは出ぬぞ。聞きたいことがあるなら、まっすぐ聞け。おぬしの取り柄は、それくらいのものじゃろう』
もっともだった。
その晩、自分はクロードに声をかけた。
「君に、聞きたいことがある」
「お、なんだ。あんたから話しかけてくるなんて、めずらしいな」
クロードは焚火のそばで革袋の酒をあおりながら、軽く応じた。
「君は皆にデアドラを守るのに力を貸せと言っていた」
「ああ、言ったな」
「自分は、聞いていない」
火を挟んで、まっすぐにクロードを見た。
「君が最初に言ったのは、同盟を守るため、ということだけだ。デアドラで何かあるのか。自分には、話していないことがあるんじゃないのか」
クロードは口の端を上げた。痛いところを突かれた、という顔ではない。むしろ、面白いものを見つけた、というふうだった。
「鋭いな。そう、デアドラだ。近いうちに、あそこで帝国軍を迎え撃つことになる。あんたにも、そのとき働いてもらう。前線でな」
あっさりと、認めた。
隠す気はなかったらしい。だが、それならそれで、最初から言っておいてくれてもよかったはずだ。話が違う、という思いが、口をついて出かかった。
「そんな話は、」
「おっと」
クロードが酒の手を止めて、こちらを見た。
「あんた、俺に何て言って雇われた? 同盟に力を貸す、って話だっただろう。デアドラを守るのは、その同盟の用のうちさ。何も、話は違っちゃいないぜ」
言葉に、詰まった。
たしかにそうだった。自分は同盟に力を貸す、という話で同行を決めた。デアドラを守ることは、まぎれもなく、その同盟の用だ。文句のつけようがない。聞いていない、と思ったのは、ただ自分が細かいことを確かめずに乗ったからにすぎない。
「……」
返す言葉がなかった。
『ほっほっほ』
ソティスが大きな声で笑った。
『あの坊主に、いいようにされておるのう。同盟に力を貸す、などという大雑把な話に、ほいほい乗るからこうなる。あの男は、嘘はひとつもついておらん。おぬしが、勝手に聞いた気になっておっただけよ』
しゃんとせい、とソティスは続けた。
『戦場ではあれだけ目が利くくせに、こういう話になると、まるで子どもじゃのう。少しは、言葉の裏を読むことを覚えよ』
言い返せなかった。何もかも、その通りだったからだ。
「どうした、急に黙って」
クロードがこちらの顔を覗き込んでくる。自分とソティスのやりとりは、この男には聞こえない。傍から見れば、急にひとりで黙り込んだように見えるのだろう。
「……いや。何でもない」
「ふうん」
クロードはそれ以上は追及せず、また酒をあおった。からかうでもなく、勝ち誇るでもない。ただ、こちらの不慣れを、どこか面白がっているような目つきをしていた。
その目つきが少し、癪に障った。
話がひと段落したところへ、斥候が戻ってきた。
「クロード様。この近くで、傭兵がひとり、治安維持を請けて回っているとの報せが」
「傭兵?」
「はい。腕は確かなようで。賊を相手に、ずいぶん働いているとか」
「その傭兵ってのは、女で、馬に乗ってなかったか?」
「え、ええ、その通りです」
クロードは考えてから、にやりとした。
「そいつはもしかすると、俺の知ってる顔かもしれないな。居場所はわかるか?」
クロードは酒の革袋を置き、立ち上がった。
斥候の案内で向かった先は、街道沿いの、小さな宿場だった。
その外れでひとりの女が、賊らしき男たちを縄で縛り上げているところだった。軽く縛った髪に、日に焼けた肌。身軽な装いで、てきぱきと縄を結んでゆく手つきには、無駄がない。
「やっぱり、お前か」
クロードが声をかけると、女は顔を上げた。
「その声……クロードか?」
彼女は縄を結ぶ手を止め、目を見開いた。
「盟主様がこんな辺鄙なところに何しに来たんだよ」
「まあ、いろいろあってな。お前の評判を聞きつけて、力を借りに来たんだよ、レオニー」
レオニーと呼ばれた女は、縛り上げた賊を床へ転がすと、こちらへ歩いてきた。その目が、クロードの隣に立つ自分を捉えて、止まる。
「そっちの人は? 見ない顔だな」
「名前はベレト。お前と同じく傭兵で、ここに来る途中、縁あって雇うことになった」
レオニーの目が、すっと細くなった。同業を見る目だった。それからこちらの身なりと、腰の剣を眺めている。ぶつぶつと何かを確かめるようにつぶやいて、それから、はっとした顔になった。
「あんた、もしかして、『灰色の悪魔』ってやつか?」
「そう呼ぶ者もいる」
自分が答えると、レオニーは、へえ、と声を上げた。
「噂は聞いたことある。ジェラルト傭兵団に、とんでもなく強い剣士がいるって。まさか、本人に会うとはな」
そこまで言って、レオニーは、ふと声の調子を変えた。
「あんた、ジェラルト傭兵団の人間なんだろ。だったら、ちょうどいい。聞きたいことがあるんだ」
レオニーは、急に前のめりになった。
「団は、いま、どこにいるんだ? 師匠……いや、ジェラルト団長は元気にしてるのか?」
「……わからない」
そう答えるしかなかった。
「わからない?」
レオニーが眉をひそめた。
「あんた、団の人間だろ。なのに何で団の居場所がわからないんだ」
「自分は、団を離れた。それきり、どこへ向かったかは知らない。父が、いまどこにいるのかも」
「……父?」
彼女の動きが止まる。
「いま、父って言ったか? ジェラルト団長が、あんたの?」
「ああ。自分は、ジェラルトの息子だ」
彼女は大きく目を見開いた。隣でクロードも、軽く眉を上げたのがわかった。そういえば、彼にも言っていなかったことにいまさら気づいた。
「息子……あんたが、師匠の……」
しばらくレオニーは、まじまじとこちらを見ていた。それから肩の力を抜く。
縛られた賊が、足元でうめいた。彼女はそれには目もくれない。
「息子なのに、父親の居場所も知らないのか?」
「ああ」
「……そうか」
腑に落ちた様子ではなかったが、それでも彼女は大きく息を吐いてから、笑ってみせた。
「わたしはさ、昔、団長によくしてもらったことがあるんだ。短いあいだだったけど、弟子にもしてもらってね。だから、傭兵になった姿をひと目見せたくて、探してるんだ」
よくしてもらった、とレオニーは言った。
その言い方にはジェラルトという人間への、たしかな手触りがあった。短いあいだ世話になっただけだという。それなのに彼女は、自分の父のことをなつかしそうに語る。
自分は、どうだろう。
父のことなら、知っていると思っていた。しかしこうして人から問われてみると、そうでもなかったのかもしれない。父がいま、どこで何をしているのか。自分を探しているのか。それすら、自分にはわからなかった。
黙って団を抜けてきたことに、わずかばかりの申し訳なさはある。だからといっていまさら戻るわけにはいかない。ガルグ=マクへ行く。それだけは、どうしても譲れなかった。
「まあ、いいや」
レオニーは、気を取り直すように言った。
「団長の居場所がわからないってのは、残念だけどな。でもここであんたを問い詰めても、しょうがないし」
それから、クロードのほうを向いた。
「で、クロード。あんたの用件、まだ聞いてないぞ。わざわざ盟主様が飛んでくるくらいだ、どうせろくでもない話じゃないんだろ?」
「失礼な言い草だな。まあ、当たってるけど」
クロードが、肩をすくめた。そうして、レオニーに用件を切り出す。デアドラを守るのに、人がいること。その腕を、貸してほしいこと。彼女もまた、あっさりとうなずいた。
話がまとまり、レオニーがデアドラへ向かうことになった別れ際。クロードが、ふと、こちらを見た。
「……何だ」
「あんたってほんとに、何も知らないんだな」
からかう様子ではなかった。
最初にこの男は、自分のことを、腹にいろいろ抱えているくちだ、と言った。何かを隠している、と。だが、こうして自分が何も知らないとわかっても、クロードの態度は、何ひとつ変わらなかった。探るほどの秘密などないと知っても、面白そうにこちらを見る目は、出会ったときのままだった。
その目が何を面白がっているのか、自分には相変わらずわからない。
その晩。剣の手入れをしていると、クロードが何気ない調子で聞いてきた。
「あんた、ジェラルト傭兵団の団長の息子なんだよな」
「そうだ」
「それなのに、団を抜けてきたわけだ。……いや、このご時世だ、いくらあんたが強いったって、ひとりでうろつくのは危険すぎるだろうと思ってな」
手の中で、剣を拭く布が止まった。
「……ガルグ=マクへ行くと決めたとき、ひとりのほうがいいと思った。身軽でなければここまで来られない。団の皆を、自分の用に付き合わせるわけにもいかなかった」
嘘ではなかった。身ひとつでなければ、ここまで来ることはできなかった。
ただ、それが理由のすべてではない。
「ふうん。まあ、あんたほどの腕なら、ひとりのほうが小回りも利くか」
クロードは得心したようにうなずいたのち、付け足した。
「親父さんには、止められなかったのか?」
答えられなかった。
ほんとうは、何度も止められた。だから告げずに、置き手紙を一枚残して、黙って出てきた。そのことを、どう話せばいいのかわからない。話せば長くなる。父がなぜ止めたのか、自分にもわからないのだから、うまく説明できる気がしなかった。
だから、何も言わなかった。火に視線を落として、布を握り直す。
「……まあ、いいさ。立ち入ったことを聞いたな」
聞かれたくないことだと、受け取ったらしい。それきり話は途切れた。
訂正は、しなかった。円満に出てきたわけではない。だが、それを正す言葉を、自分は持たなかった。
そこからさらに西へ進むにつれて、土地の様子が変わってきた。
グロスタール領が近い、とクロードが言っていた。そのあたりでクロードが向かったのは、街道沿いの、大きな宿屋だった。
着いてみて、面食らった。
これまで訪ねてきたのは、どれも静かな屋敷だった。だが、ここは違った。人で、あふれている。荷を満載した馬車が幾台も軒先に停まり、その周りを、商人やら、旅装の家族やらが行き交っている。地べたに座り込んだ怪我人がいる。鎧をつけた兵士の姿もある。煮炊きの湯気と、人いきれと馬のにおいがひとつに混ざって、むっと立ちのぼっていた。
戦を逃れてきた者たちなのだろう。帝国との境に近いこのあたりでは、こうして家を離れ、当てもなく流れてくる人が、後を絶たないのかもしれない。
「クロードくん!」
その雑踏のなかから、大きな声が飛んできた。
声の主は、見上げるような大男だった。両腕に大きな袋を抱えている。それを軽々と運びながら、こちらへ近づいてきた。
「やっぱりクロードくんだ! 久しぶりだなあ。元気にしてたか?」
「ああ、ラファエル。お前こそ、相変わらずでかいな」
「はは、よく食ってるからな! あ、ちょっと待っててくれよ。これ、運んじまうから」
ラファエルと呼ばれた大男は、抱えた袋を、宿の裏手へどすどすと運んでゆく。入れ替わるように、もうひとり、眼鏡をかけた男が、帳面を片手に出てきた。
「クロードくん、やっぱり来てたんですね。表に飛竜がつないであるのが見えて、もしかしてと思ったんです。あんな立派な飾りをつけた飛竜、そうそういませんから」
「イグナーツも、久しぶりだな。しかしよく気づいたな」
「商売柄、人の出入りには目がいくもので」
イグナーツと呼ばれた男は、穏やかに笑った。手にした帳面には、細かい字がびっしりと書き込まれている。仕入れの覚えか、客の出入りか。聞けば、この男は、もとは商家の生まれで、いまはこの宿の切り盛りを手伝っているのだという。
荷物を運び終えたラファエルが、戻ってきた。その目が、クロードの隣に立つ自分を捉える。
「お、そっちの人は?」
「こっちはベレト。強い。以上だ」
あんまりな紹介だった。
ヒルダのときは『灰色の悪魔』がどうのと得意げに見せびらかし、レオニーのときも、それなりに能書きを並べていた。四度目の紹介ともなると、強い、のひと言で片づけられた。
だが、ラファエルもイグナーツも、気にした風はなかった。
「強いのか! そりゃすげえ! よろしくな、ベレトさん!」
ラファエルが、太い腕を差し出してきた。にっと笑った顔に、裏も表もない。握り返すと、万力のような力で握り返された。
「よろしくお願いします」
イグナーツも、穏やかに頭を下げる。疑うでも、値踏みするでもない。クロードが連れている、というだけで、信じるに値するらしい。
『おおらかな連中じゃな』
ソティスが、楽しそうに言った。
『強い、のひと言で得心しおったぞ。あの食えぬ男の周りには、ずいぶんと素直なのが揃うものよ』
クロードは、ふたりに向き直ると、用件を切り出した。
今度は、難しい話はしなかった。同盟がどうとか、帝国がどうとか、そういう御託は、ひとつも並べない。ただ、まっすぐに言った。
「ラファエル、イグナーツ。お前らの力を貸してくれ。デアドラを守りたいんだ」
それだけだった。
盟主としてではなく、ただのクロードとして、頼んでいた。リシテアのときのように退路を残すでも、ヒルダのときのように軽口で乗せるでもない。このふたりには、飾らないのが、いちばん早いと踏んだのだろう。
「おう、いいぜ!」
ラファエルが、即座にうなずいた。
「クロードくんが困ってるんだろ? なら、手を貸すに決まってる。オデ、力には自信があるからな!」
それから、ラファエルは、宿のほうを、ちらりと振り返った。避難してきた者たちが、軒先で身を寄せ合っている。
「それに、マーヤたちを危ない目には遭わせたくねえんだ。戦を止められるんなら、オデ、なんだってやるよ」
まっすぐな声だった。
「ボクも、行きます」
イグナーツも、帳面を閉じた。
「ここで人や荷の流れを見てきた経験が、役に立つかもしれません。何より、ここまで来てくれたクロードくんの頼みを断る理由がありませんから」
あっさりと話は終わった。
ふたりがデアドラへ向かう手筈を整えるあいだ、自分はその宿のようすを、ぼんやりと眺めていた。
ラファエルは避難してきた者たちに、運んできた食糧を配っている。イグナーツは、どの道が安全か、どの荷をどこへ回すか、人に問われるたび、帳面を見ながら答えている。
クロードが集めているのは、ただの戦力だけではないらしい。そのことに、ふと気づいた。腕の立つ剣士。強い魔道士。たしかに、そういう者も集めている。だが、それだけではなかった。食糧を配れる者。人の流れを読める者。荷馬車を捌ける者。戦というものが、ただ斬った張ったで決まるのではないと、この男は知っているのだろう。
傭兵団にいたころ、自分が見ていたのは、いつも、目の前の敵だけだった。そういう、戦のべつの顔があることを、自分はあまり、考えたことがなかった。
すべての手筈が整い、宿を発つころには、日が傾きはじめていた。歩きながら、自分は、ずっと気になっていたことを、口にした。
「あと、何人に声をかけるつもりだ」
この旅がいつまで続くのか。それが知りたかった。
「なんだよ、もう飽きたのかよ」
クロードは、軽く笑った。それから、ふと、南のほうへ目をやった。
その視線の先には、遠く、大きな川の流れが光っている。あれが、アミッド大河だ、と、いつか聞いた覚えがあった。帝国軍が、その大河に架かる橋を目指して進軍している、と。
クロードの目が束の間、その光に留まる。遠い目だった。
「……あと、ふたり、と言いたいところなんだがな」
クロードは、視線を戻した。
「ひとりは、いまは来られない」
「家の事情か」
自分が問うと、クロードは、すこし意外そうな顔をした。それから、小さく笑った。
「そうだな。家の事情だ。あんたも、そういうのがだんだんわかってきたじゃないか」
来られないひとりのことを聞いてから、自分は、ふと疑問が湧いた。
「そもそも、なぜ帝国は戦を起こしたんだ」
帝国とは、これまで幾度か剣を交えてきた。村を襲い、斥候を送り込み、同盟領へ手を伸ばす。敵として相対してはきたが、その帝国が、何のために戦を始めたのかは、考えたこともなかった。
「おや、めずらしいな。あんたが、そんなことを聞くとは」
クロードは瞬きをした。それから前を向いたまま、口を開いた。
「エーデルガルト……いまの帝国を率いてる皇帝はな、ただ、領土を広げたいわけじゃないんだ。あいつが壊そうとしてるのは、フォドラの、古い秩序そのものさ」
「秩序?」
「ああ。この地は長いあいだ、セイロス教ってのを真ん中に据えて回ってきた。そして、生まれた家や血筋で、人の値打ちが決まる。いい家に生まれたか、由緒ある血を引いてるか。それだけで、上に立てる者と、そうでない者が分かれる。……エーデルガルトはその仕組みごと、壊そうとしてる」
血筋で値打ちが決まる、というのは、自分には縁遠い話だった。生まれも、母のことも知らない自分に、家名だの血筋だのと言われても、ぴんとこない。
「君はそれについて、どう思っているんだ」
クロードは、しばらく黙っていた。それから、めずらしく、慎重な口ぶりで答えた。
「……あいつの掲げてるものが、まるごと間違ってるとは、俺は思っちゃいない」
意外な言葉だった。帝国と戦っている男の口から出るものとは思えなかった。
「フォドラってのは、閉鎖的でな。古い仕組みにしがみついてる。生まれや血で人を分けて、外から来た人間にはとことん冷たい。そういう価値観には、俺も思うところがある。その一点じゃ、あいつと案外似てるのかもしれん」
彼はどこか遠くを見るような目をしていた。
「新しい世を作るために、邪魔なものは斬る。退かない者は踏み潰す。それがいまの帝国のやり方だ。俺は、それを正しいとは言えない。たとえ行き着く先に、望ましいものがあったとしてもな」
理解はできる。けれど、赦せない。そういうことらしかった。
自分は、黙って聞いていた。
帝国がなぜ戦うのか。エーデルガルトが何を壊したいのか。クロードが、それをどう見ているのか。聞いても、自分にはあまり、関係のない話だった。血筋も、古い秩序も、自分の生きてきた場所には、なかったものだ。この先、帝国と戦い続けるつもりが、あるわけでもない。
ただ、ひとつだけ、頭に残ったことがある。
フォドラの外。クロードは、その言葉を、こともなげに口にした。
自分は、フォドラの外のことなど、考えたこともなかった。この世界に、何があって、何がないのか。それすら、ろくに知らずに生きてきた。
けれど、クロードは違うらしい。
それが何を意味するのかは、わからない。わからないまま、そのひと言だけが、頭の隅に残った。
「で。残るひとりは、エドマンド家のマリアンヌっていう娘でね。リーガン領からはそう遠くない」
クロードはそこで、一拍間を置いた。
「あいつには、いちばん最後に声をかけようと思ってたんだよ。そのほうが、いい気がしてな」
その言い方には、迷いのようなものがわずかに滲んでいた。声をかけるかどうか、この男なりに思うところがあるらしかった。だが、それが何なのかは語られなかった。
「リーガン領、というのは、どこだ」
自分が問うと、クロードは足を止めた。そうして、呆れたような顔でこちらを見た。
「……おいおい。あんた、自分の雇い主の名前も、わかってなかったのか」
「名前?」
「俺はクロード=フォン=リーガン。レスター諸侯同盟の盟主で、リーガン家の当主だ。ついでに言っとくと、いま必死で守ろうとしてるデアドラってのは、そのリーガン領の領都だよ」
なるほど、と思った。
デアドラは、よその土地ではなかった。彼の家の領都だった。だからこの男は、人をかき集めている。切羽詰まっている。守ろうとしているのは、同盟という大きなものであると同時に、彼の足元そのものだったのだ。
いまさらながら、腑に落ちた。
その顔を見てクロードが肩をすくめた。
「やっと、俺が切羽詰まってる意味がわかったって顔だな」
その通りだった。
それでも、彼の事情がわかった以上、しばらくは使われてやってもいいと思った。日の傾いた街道を、クロードが先に立って歩いてゆく。その背を、自分は黙って追った。
それから自分たちは北へと進んだ。
幾日かかけて街道を行くうち、また景色が変わってきた。これまで通ってきた、帝国との境に近い、どこか張り詰めた土地とは違う。畑は手入れが行き届き、街道を行き交う人の顔にもまだ余裕があった。
「ここからが、リーガン領だ」
クロードが、言った。
自分の治める土地に入って、この男の声は、すこし変わったように聞こえた。誇らしげ、というのとも違う。守るべきものの内側に、足を踏み入れた、という張りつめ方だった。
やがて、街道の先、低い丘の向こうに、水の光が見えた。
いくつもの運河が陽を弾き、その上に、街が浮かんでいる。水の都、と呼ぶにふさわしい眺めだった。
「あれが、デアドラだ」
クロードが顎で示した。
「いまごろ、集めた連中が、続々と集まってるはずだ。……まあ、いまは寄らないが。先に、最後のひとりを迎えに行く」
彼が必死に守ろうとしている場所。幾日か前に、名前だけを聞いた場所が遠くに見えていた。遠目にも、うつくしい街だった。
その光を横目に過ぎて、自分たちはエドマンド家へ向かった。エドマンド家の屋敷は、リーガン領から半日ほどの距離にあった。
屋敷に着くと、出迎えたのは青い髪の娘だった。
腕に、洗った布をいくつも抱えている。袖をたくし上げ、手を濡らしたままだ。怪我人の手当てでもしていたのか、その身なりには、屋敷の主の娘らしい華やかさはなかった。
「クロードさん……?」
娘はこちらに気づくと、驚いたように目を見開いた。それから慌てて布を抱え直し、おずおずと頭を下げる。
「あの、義父はいま、不在にしていて……何かご用でしたら、戻り次第、お伝えします」
「いや」
クロードは、首を振った。
「義父上に用があるわけじゃないんだ、マリアンヌ。俺は、お前に会いに来た」
「私に……?」
マリアンヌと呼ばれた娘は、いっそう戸惑った顔になった。盟主がわざわざ自分に会いに来る。その意味がうまく呑み込めない、というふうだった。自分なんかに何の用が、とその表情が語っている。
クロードが、こちらへ目を向けた。
「紹介しておくよ。こっちはベレト。いま、俺の旅に付き合ってもらっててね」
付き合ってもらってる、という言い方だった。
強いとも、『灰色の悪魔』とも、言わなかった。ラファエルたちのときとは違う。この娘にはそういう物騒な触れ込みを避けたらしかった。
マリアンヌはこちらへ控えめに頭を下げた。
「……はじめまして。マリアンヌ=フォン=エドマンドです。よろしくお願いいたします」
内気そうだが、怯えてはいなかった。ただクロードが連れている人だから、というだけで見ず知らずの自分をすんなりと受け入れている。剣の腕も、二つ名も、この娘は知らない。
ベレト、という名のひとりの男。それ以上でも、それ以下でもなく、自分はそこに立っていた。妙な心地だった。
「で、用件なんだがな」
クロードが口を開いた。
「マリアンヌ。お前の力を、貸してほしい。デアドラを守るのに、人手がいるんだ」
マリアンヌの顔が、すこし曇った。
「私がお役に、立てるでしょうか。その、私は、戦のことは、あまり……いまも屋敷で、怪我をした人の手当てぐらいしかできていなくて」
「その手当てが、いるんだよ」
クロードは、迷わず言った。
「戦になりゃ、怪我人が出る。馬も傷つく。それを診られる人間が、ひとりでも多くいてくれたほうが、こっちは助かる。お前がいまやってることをそのまま、デアドラでやってほしいんだ」
マリアンヌが、顔を上げた。
いま自分がしていることを、否定されなかった。それが、意外だったらしい。
「それに、お前がいてくれると、みんなが安心して動けるんだよ」
クロードは、続けた。
「もう、声は掛け終わってる。ヒルダも、リシテアも、レオニーも、ラファエルも、イグナーツも、みんなデアドラへ向かってくれてる。あとは、お前だけだ。……お前が後ろで構えていてくれたら、あいつらも、安心して前に出られる。お前には、そういう力があるんだぜ」
みんな、という言葉に、マリアンヌの瞳がわずかに揺れた。
ひとりではない。もう、ほかのみんなが集まっている。その中へ、加わればいい。そう言われたことで、こわばっていた肩から、力が抜けたように見えた。
「……わかりました」
マリアンヌは布を抱え直して、まっすぐにクロードを見た。
「行きます。私にできることが、あるのなら。クロードさんが、そう言ってくださるのなら」
その声にはおどおどしたところが、もうなかった。
自信がある、というのとは、違う。だが、前を向いていた。
『ほう』
ソティスが、感心したように言った。
『あの娘、見た目より、芯があるのう。そしてあの坊主……今度は力ずくでも、銭でもない。お前がいると皆が安心する、ときた。よくもまあ、相手によって、これだけ手を変えるものよ』
マリアンヌの屋敷を辞してデアドラへ向かう道すがら、自分はクロードに訊いてみた。
「これで、勝てるのか」
集めた、六人。そこに反帝国派の同盟諸侯の兵。それを足したところで、相手は帝国の大軍だ。数の上で、どれだけのものになるのか、自分には見当もつかなかった。
「どうだろうな」
クロードはあっさりと言った。
「兵数も、装備も、何もかも、帝国軍のほうが上だ。正直、勝てるかと聞かれりゃわからん、としか言えないな」
わからない、と、盟主が言った。
勝てる、とは言わなかった。これだけ人を集めておいて、それでも、勝てるとは言い切らない。
「でも」
クロードは、前を向いたまま、続けた。
「負けるつもりはないぜ」
力強い声だった。
「皆が、来てくれた。それに、あんたもいる。……だから、俺たちは負けないさ」
勝つとは言わない。それでも、負けるつもりはない。
矛盾しているようで、矛盾していなかった。勝てるかどうかは、盤面の話だ。負けるつもりがあるかどうかは、この男自身の話だった。盤面では分が悪い。だがこの男は退く気がない。集めた仲間と、その一点だけで、もう負けないと言い切っている。
それに、あんたもいる。
さらりと、その中に自分も数えられていた。
出会ったとき、読めなかった男だ。やわらかい物腰の裏に何を隠しているのか、いつ手のひらを返すのかと、警戒した。いまも、すべてが見えるわけではない。だがこの男が何を守ろうとして、勝てない戦にも退かずに立とうとしているのか――その輪郭だけは、はっきりと見えていた。
ならば、と思う。
この男が負けないと言うのなら、自分のすることはひとつだ。
負けさせない。
ガルグ=マクへの道は、その先にある。
遠かったデアドラの水の光が、すぐそこまで近づいていた。