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ジプカラ

全体公開 4 102 13593文字
2026-07-01 20:54:52

サビ組結成前、ボスになってほしいと口説かれている時期にジプソの弱みとして敵対勢力に捕まったカラスバさんを救出しにブチギレジプソが乗り込んでくる話

 この日、数日間降り続いた雨がようやく止んで、久々に顔を出したお天道様がみずびたしのミアレの街をきらきらと輝かせていた。
 カラスバは雨が続いた分だけ着っぱなしになっていたレインコートをようやく脱いで、太陽をいっぱい浴びながらうんと伸びをした。
「やっと晴れたなあ、フシデ」
 カラスバのそのセリフに、水たまりを覗き込んでいたフシデが触覚を動かしながら同意するみたいに鳴いた。
 カラスバは雨があんまり好きじゃない。
 カラスバが生業としている〝なんでも屋さん〟は、晴れでも雨でもくもりでも、天気に関係なく稼働しているけれど、お客のほうはそうはいかない。雨の日は住人も観光客もそろってあまり外を出歩かなくなるし、外出するにしてもタクシーの利用率が格段に増える。元気いっぱいで活動的なのはセゾン運河でビチビチはねるコイキングくらいのもので、彼らは残念ながらカラスバのお客ではなかった。
 カラスバはだいぶ昔ゴミ捨て場から拝借したサイズの合わないレインコートを着て、その中にフシデを入れて両手で抱きかかえながらなんとか仕事を取ろうと街をうろうろした。フシデは意外と重いから、腕が痺れてじんじんした。それでも一生懸命歩き回ったが、この憎き長雨は強力な商売敵だった。カラスバは素寒貧の数日をぐしょぐしょに濡れたきのみでなんとかやり過ごした。最初のうちは地下水道で寝起きしていたけれど、それも雨が続くうちに封鎖されてしまって仕方なくゴミ捨て場にあった骨が数本折れ曲がってビニールにも穴が空いたボロ傘の下で小さくなって夜を明かした。本当に散々だった。
 でも、ジプソに頼りたくなかった。
 ジプソならきっと、家に来いと言ってくれただろう。雨が止むまでいていいとカラスバとフシデの分の寝床を整えてくれて、食事も用意してくれたはずだ。ジプソならそうしてくれる。カラスバだってそれくらいちゃんとわかっている。
 だから、ジプソの元へは行かなかった。
 出会ったばかりの頃のジプソはカラスバの敵だった。だけど今はそうではない。今のジプソはカラスバにすごく優しくしてくれる。どうしてなのかはわからない。最近よく言っている「オレのボスになってほしい」というセリフが理由の一端なのかもしれない。
 今のジプソのことは好きだ。
 かつて敵だった頃の、カラスバの顔を見るなり怒鳴って追いかけてきた頃のジプソは好きじゃなかった。ジプソの姿を見かけるたびにカラスバはうんざりした気分になったものだった。でも、今は違う。それはジプソが優しくなったからというよりは、ジプソという人間の人となりをカラスバが知ったからだった。ジプソはこわいかおをしているけれど、ポケモンのことはすごく大事にしている。結構器用できちょうめん。力が強くて乱暴だけど本当に怒ることは少ない、わりと冷静なタイプ。自分のことを賢くないと言うけれど、人の話をちゃんと聞いて良いと思った意見は素直に取り入れる柔軟さがあるから、カラスバは賢くないとは思っていない。人が誰しもそうであるようにジプソにも良いところと悪いところがあって、カラスバにとってジプソの悪いところは目をつぶれたし、良いところは好ましく心地よいものだった。それでカラスバはジプソのことを好きになった。たとえジプソがカラスバに優しくないままでも、ジプソであるならカラスバは好きになっただろう。
 ジプソはカラスバに優しくしてくれて、カラスバはジプソが好きとくれば、困ったときには好意に甘えたくなるものだ。カラスバはさんざん迷って、心の中でてんびんを激しく揺らした。なにせ自分ひとりならまだしも、フシデがいる。今日仕事が取れなかったら、明日の朝も雨が止んでいなかったら、そうしたらジプソの家に行こうなんて期限を設けることも考えたけれど、結局カラスバは頼らないことに決めた。だってもしもジプソに何か困ったことがあっても、カラスバはジプソに何かを返してあげられない。力になりたいとは思うけれど、実際のところカラスバに力などない。カラスバは金もないし居場所もないし、バトルが特別強いわけでもない、いるのはとびきりの相棒のフシデだけ、カラスバ自身はないないづくしだ。何も返せるものがないのに、自分だけがジプソに甘えるのは嫌だった。
 カラスバはジプソと対等になりたいと思っている。
 だから、一方的に甘えたりしない。雨が続いて仕事も寝る場所もないような状況でも、ジプソが快く招き入れてくれるとしても、それでもジプソを頼りにはしたくなかった。カラスバがもっとたくさん稼げるようになって、この街でじっくり力をつけていって、ジプソに何か困ったことが起きたときにすぐ助けてあげられるくらいの力を身につけたら、そのときはカラスバもジプソを頼りにするだろう。それはいつかの話で、今じゃない。もちろんジプソの「オレのボスになってほしい」って話だってそうだ。何もないカラスバがジプソの上に立つなんて、そんなのへんだ。いつかの可能性としてはそんな日がくるかもしれないけれど、今のカラスバには雲を掴むような途方もない話だった。
 雲に覆われていない青空が気持ちよくて、カラスバは仕事を探すためというよりはほとんど散歩目的でのんびりと街を歩いていた。
 長雨にちょっとしょんぼりしていたフシデも、この日はご機嫌だった。日光がフシデの背中をぴかぴかに光らせていてかっこいい。嬉しそうなフシデを見ているとカラスバまでなんだか嬉しくなってきて、午前中は仕事が見つからず落っこちたきのみを食べただけだったけれど、今日はいい日になる予感がした。
 ――実際のところ、この予感は的中した。
 午後、街頭モニターが正午のニュースを流し終えたあと、カラスバのもとにようやく仕事の依頼が舞い込んできた。依頼者は若い男だった。仕事でミアレにきたというその男は、取引先までの道がわからなくなってしまったという。なんかへんやな、とカラスバは直感的に思った。「そんならタクシーに乗ったほうがええんやない? そこ、こっからやと結構あるで。タクシー乗り場まで案内しよか?」とカラスバが提案すると、男は「いや、大丈夫。きみが案内してくれれば」と言った。あやしい、とカラスバのきけんよちが告げた。相手はひょろりとした若い兄ちゃんひとりだが、その目的地で誰かが待ち構えている可能性だってじゅうぶん考えられる。
 カラスバは迷った。料金を前払いにしてもらって、さっさと案内してずらかろうか。逃げ足なら速い自信がある。途中で食べ物や飲み物をくれても決して口にしないこと、目的地までついていかずその手前で案内を終えることを守ればだいたいは安全に逃げられる。カラスバみたいな身寄りのない若者は使い勝手がいいらしく、カラスバは〝なんでも屋さん〟を始めてから何度か危ない状況に陥った。しかしそのたびに機転と度胸と逃げ足の速さで危機を脱出し、今にいたるまでこの稼業を続けている。なんといってもジプソにさえ捕まらずに逃げ切っているくらいだ。そんじょそこらのチンピラなんか、カラスバの相手ではない。
 カラスバはちらりとフシデに目をやった。半分しか開いていない、なんだか眠たげにも見えるフシデの目とじっと視線を合わせてから、この依頼を断ろうと決めた。
「ごめんな、お兄さん。お兄さんが行きたいとこ、ここからやとちょっと遠いねん。次の仕事に間に合わんようなるさかい、悪いんやけど他あたってや!」
 カラスバは相手の返事を待たずにさっさと走り出し、その場を離れた。角を曲がり、ホロベーターで屋上へ上がり、また下がって、じゅうぶんに距離を取ってからようやく「あ~あ、今日の食費がパーや」と嘆いた。
「またきのみやな。ごめんな、フシデ」
 フシデは触覚をうごめかせ、きゅっと目を細めた。笑っているように見えるその顔はカラスバの大好きな表情だ。かわいくて、心にじんわりした明かりが灯る。まあええか、とカラスバは思った。雨が止むといういいことがあって、依頼人があやしくて仕事を断るという悪いことがあった。いいことばかりでも悪いことばかりでもない。そんなものだ。
 カラスバはきのみを拾いながら、晴れやかな街を歩いた。途中通りかかったカフェで、まだびしょ濡れのテラス席のテーブルと椅子を一生懸命拭いている店員に手伝いを申し出たら、お礼にとミルクをたっぷり入れたコーヒーと焼き立てのふかふかパンをもらえた。カラスバは自分で拭いたテラス席でフシデと一緒にそれを食べた。久しぶりの温かい食事は最高においしかった。これでトータルではいいことが優勢。やっぱり今日はいい日だ。
 満腹とまではいかないけれど気持ちはじゅうぶん満たされて、カラスバは思いつきの鼻歌を歌いながらお気に入りの昼寝スポットに向かった。そこは屋上にあるベンチで、この時間帯は隣のビルの影がいい具合に日陰を作ってくれる。ホロベーターがないからフシデを抱えたままはしごを登る必要があってちょっと大変だけれど、カラスバもフシデも気に入っている特別な場所だった。
 大通りを曲がって、ビルとビルの間の細い道を歩く。ビルの合間から見える空は青いけれど、日の光が遮られていてこの時間でも薄暗い。あのゴミ箱が置いてある角を曲がったらさらにもう一度曲がって、そうしたらはしごが見えてくる。カラスバは少し後ろをちょこちょこついてくるフシデを振り返りながら、角を曲がろうとした。
 一瞬、何が起きたかわからなかった。
 角を曲がろうとした瞬間に、その角から飛び出してきた何かに思いっきり押されて体がちょっと浮き上がった。そのままビルに背中がぶつかって、その衝撃とびっくりしたのとでカラスバはわずかな間息ができなかった。くらくらする頭で、まさかダストダスのオヤブン? こんなとこにおったか? と襲撃相手を推測しつつ、カラスバはフシデの無事を確認するためその姿を探した。視線をきょろきょろさせている間に状況が見えてくる。
 相手はポケモンではなく人間だった。見知らぬ男が三人。カラスバの体を押さえつけている男、スマホのカメラをカラスバに向けている男、その後ろで「見つけた、カラスバだ」と誰かに電話している男――よくよく見てみると、この男は見覚えがある。さっきカラスバにあやしい依頼を持ちかけてきた男だ。
 カラスバの少し後ろを歩いていたフシデはとっさにゴミ箱の影に隠れたらしい。角度的にはちょうど男たちの後ろにいて、カラスバはほっとした。フシデは戦闘態勢に入ったときにやるように、目を鋭くしてカラスバをじっと見ている。カラスバの命令を待っているのだ。
 カラスバは少し考えて、フシデにだけわかるようにほんの少し首を振った。
 相手は三人だ。一人は奇襲が成功したとしても残り二人を振り切って逃げ出すのは分が悪いだろう。相手は電話で〝カラスバ〟と言っていた。〝身寄りのない若者〟を無差別的に選んだわけではなく、明確にカラスバに狙いを定めている。何か要求があるのだ。それなら捕まっても交渉の余地があるはずだ。カラスバはこういったちからずくの攻撃には弱いけれど、舌戦なら得意分野だった。それに、だいたいの人間は誰かを捕まえようとしているときよりも、目的をひとつ果たした状態にある捕まえたあとのほうが隙が生まれやすい。カラスバはこれまでの経験からそう判断して、今は大人しく白旗をあげることにした。どうにもならなければフシデが外から助けてくれる。ミアレ警察はポケモンからの通報でもきちんと動いてくれるのだ。カラスバは視線で「あと頼んだで」とフシデに伝えた。フシデは触覚をぴくぴく動かして、ゴミ箱の向こうに隠れた。本当に、カラスバの相棒はとびきり優秀だ。
 一旦捕まろうと決めたカラスバはくんにゃりと脱力した。急に力を抜いたせいでがっくりとくずおれそうになったカラスバを、体を押さえつけていた男が慌てたように抱え上げた。「おい、もうこいつ運んじまうぞ」と仲間に告げると、男はカラスバを肩に担いで角を曲がってすぐのビルに入った。男に担がれたカラスバは足をぶらぶらさせるふりをして何度か脇腹を蹴っ飛ばしながら、ここがアジトなんかい、と思った。ちょっと運が悪すぎる。これじゃ悪いことが優勢だ。
 しかしアジトというものは、どこもかしこも似たりよったりだ。だいたい埃っぽくて、飾り気がなく、置いてあるものは必要最低限の安っぽい家具だけ。ここにはパイプ椅子と、それとセットで置くにしては高さが全然合っていないローテーブルが置かれていた。がらんとした空間を埋めるものが寂しいくらいに足りていない。家具以外であるものといえば麻袋、軍手、角材、ロープなど。一体何に使うのやら。オレやったら、とカラスバは考えた。もし自分がアジトを持ったとしたら、もっと高級感を出すだろう。高級感というのは一種の武器だ。自分の価値まで高く見せられる。ナメていい相手ではないと勝手に判断してくれる。あとは明るさ。照明はほの暗くする、でも暗すぎてもいけない。表情はちゃんと見えるくらいに。あとは生活感を出さないこと、余裕があるように見せること。金のかかってそうな意味のない置物をたくさん並べて……カラスバはほとんど暇つぶしとして自分なりの理想のアジトを思い浮かべていたが、パイプ椅子にくくりつけられる段階になると元気いっぱいにさわぐ攻撃を繰り出した。
「痛い痛い! かなわんわぁ! あんまきつくせんといてや、お兄さん!」
「うるせぇガキだな……
 拘束される際に目一杯騒ぎ立てるのはカラスバのいつもの手口だった。背が低くてやせっぽっちのカラスバは、こうしてわあわあ言うとたいてい拘束をちょっと緩くしてもらえる。それはひとえにカラスバがナメられているからであるが、おかげさまで縄抜けしやすいので屈辱はおとなしく飲み下し実益をとっているのだった。
 いい感じに拘束されたところで、カラスバはようやく本題に入った。「お兄さんたち、どなた? オレに用があるん?」
 男三人のうち、二人はスマホを見ながら何やら話し込んでいてカラスバの言葉に反応を示さなかった。どうやら監視役らしい一人だけがカラスバを見下ろして意地悪そうなニヤニヤ笑いを浮かべている。カラスバはちょっと首を傾げた。おかしいな。オレを狙って捕まえたならここから交渉に入るはずやのに、オレにはあんまり興味ないように見える。
「オレ、お兄さんたちになんかした? 悪いんやけど覚えてへんねん」
「あー、違う違う。オマエは何もしてねぇよ」
「?」
 カラスバはてっきり、過去に受けた何らかの依頼によってトラブルが起きているのだと思っていた。というか心当たりといったらそれしかない。しかし、どうもそうではないようだ。カラスバが何もしていないというのなら、誰が何をしたのだろう? それがカラスバとどう関係していて、男たちの目的はなんだろう? てんでわからなくなってしまった。
 男はニヤニヤ笑っている。それは間違いなく嘲笑のたぐいだったが、不思議なことに、カラスバに向けられたものではないように見えた。
「カラスバってオマエだろ?」と男が言った。
「そうやけど」
 カラスバが頷くと、男は「こんなガキって、マジかよ」と言ってゲラゲラ笑った。いよいよ意味がわからない。カラスバは「ぜんぜん意味わからへんねんけど、何が目的?」と真っ向からストレートに尋ねた。
 男は「オレらはな、ジプソに恨みがあんの」と答えた。
「は?」カラスバは目を丸くする。「ジプソ?」
 まさかこんなところでジプソの名前が出てくるとは思わず、カラスバはとうとうこんらんした。ジプソ、あいつは強いけど、立ち回りはそんなにうまくないから誰かの恨みを買うのは理解できる。でもだからって、どうしてカラスバが狙われることになるのだろう。たしかにカラスバはジプソにボスになってほしいと乞われてはいるけれど、今のところ頷いてはいない。ジプソの組織にも無関係だ。ジプソに恨みがあるからといって、カラスバを巻き込むのは完全にお門違いだ――少なくともカラスバにとっては。
「そうそう、ジプソくん。オマエはジプソをおびき寄せるためのエサってこと。恨むならジプソを恨めよ」
「いや、なんでやねん。オレ関係ないやないか」
 カラスバの至極真面目なツッコミに、何がそんなに楽しいのか男はニヤニヤ笑いを深くして「オマエ、ジプソの弱みなんだろ?」と返してきた。
「はああ?」
 カラスバは呆れ果ててしまって、口から勝手にため息がこぼれた。オレがジプソの弱み? なんの話だ。一体誰がいつからそんなことを言い出したのか。そしてそんなバカバカしい話をどれくらいの人間が信じているのか。考えると頭が痛くなってくる。
 カラスバはじとっと男を睨み、「何言うてはるの? オレが弱み? ジプソの? そんなわけないやろ」と懇切丁寧に間違いを正してやったが、男はカラスバの言い分にはまるで興味がないようで軽く鼻で笑うだけだった。
「嘘つけよ。ジプソに言い寄られてんだろ?」
「言い寄るって……
 カラスバはがっくりと肩を落とした。言い寄るとは。ものは言いようだ。
 たしかにカラスバはボスになってほしいと言われてはいる。でもそれだけだ。カラスバはジプソのことが好きだけれど、ジプソはどうだかわからない。優しくはしてくれる。でもそれはたぶんみんなにそうなんだろうとカラスバは思っている。あんなふうに、困ったら頼れと言ってくれて、おいしい食事を作ってくれて、大きい体を小さく縮こまらせてベッドにスペースを作ってくれて、そんなことをしているからジプソは慕われていて、それがジプソの組織を成り立たせているんじゃないか。カラスバにはジプソしかいなくて、だから頼りにすることで自分がジプソに依存してしまうんじゃないかと思って怖いけれど、ジプソにとってはきっとカラスバなんて大勢いる中の一人だ。
 呆れがカラスバの中を通り過ぎていくと、じんわりと焦りが滲み出してきた。この状況はあんまり良くない。男たちが本気でジプソへの報復としてカラスバを捕まえたのだとしたら、実際に取引を持ちかけるのはジプソだ。でもカラスバを無事に助けることがジプソにとってなんのメリットになるだろう? ジプソは今、カラスバをボスにしたがっているから、恩を売る機会だと思えば話くらいは聞いてくれるかもしれないが、でも助けにはこないだろう。だってもし仮にカラスバがボスになるのなら、これくらいのピンチを自分一人でどうにかできなければならない。できないのなら、見限られるだけだ。
 ジプソがくるわけないのに、くることのないジプソをここで待ち続けていたらそのうちイライラしだして八つ当たりされることだって考えられる。うわ、最悪や、とカラスバは思った。もうさっさとフシデに動いてもらおうと決めて、カラスバはこういう事態に陥ったときにフシデにだけ通じる〝通報して〟の暗号である、「お兄さん、オレ腹減ってんねん。もう勘弁してや」を繰り出した。
「こんなん無駄やって~、ジプソが来るわけない――
 突然、何かが爆発でもしたみたいな大きな音が響いた。
 あんまり大きい音だったから、耳がおかしくなっていた。耳の中でキーンという音が鳴って、他に何も聞こえない。頭がぐわんぐわん揺れているみたいだ。カラスバは目を閉じて小さく首を振った。自分の中の揺れがおさまってから、ゆっくり目を開ける。
 異変はすぐにわかった。アジトの壁に大穴が空いている。さっきのはたぶん、あの穴が空いた音だ。
 穴の向こうは高いビルが壁になって陽の光が届いていないのか、外なのに薄暗かった。バキバキと元は壁材だったものを踏みつける音とともに、巨大な影が穴をくぐる。
「え?」カラスバは自分が見ているものがちょっと信じられなくて、目をぱちぱちした。「ジプソ?」
 影は室内に入ってきて、ジプソの形になった。
 バキン! とジプソの足が床に散らばった壁材を踏み抜いて、大きな音が鳴った。ひ、と男の一人が引きつったように喉を鳴らしたのが聞こえた。ジプソは何も言わない。ただじっと押し黙ったまま室内へ入ってくると、壁に立てかけるように置いてあった角材を片手で掴み、まるで重量を感じさせないような軽い動作で簡単に持ち上げた。案外やわらかにカラスバを呼ぶジプソの大きな口は、こうして冷たく引き結ばれているとたまらなく不穏に見える。
「く、来るな!」と一人が叫んだ。
「てめえ、ジプソ! こいつがどうなっても――
 カラスバのほうへ手を伸ばした男の側頭部を、ジプソが振り回した角材が正確に捕らえた。カラスバが息を呑んだのは男の体が人形みたいに吹っ飛んでいった後だった。他の二人のうちのどちらかが叫び声を上げた。何を言っているのかはわからないが、彼が恐怖していることだけは正確に伝わってくる声だった。
「カラスバに触るな」とジプソが命じた。
 毛が逆立つような、肌が粟立つような、魂をびりびりと揺るがすような強い怒りのエネルギーが、その抑圧した声に滲んでいた。ジプソは、怒っている。これ以上なく。
 男たちはどこかの大事な糸が切れたみたいにがくがく頷いた。もしかしたら頷いたわけではなく震えていただけかもしれない。
「ジプソ」
 カラスバの呼びかけに、ジプソはぴくりとも反応しなかった。いつもなら何をしていても、「どうした?」と振り向いてくれるのに。血のついた角材を二人目の男に向かって振り回す。男は短い悲鳴を上げて倒れた。まるで断末魔のようだった。
 どうしてジプソがここに来たのか、何をそんなに怒っているのかはわからないけれど、さっきより状況が悪化していることはわかる。カラスバはひとまず縄抜けしようとしたが、気が焦っているせいかなかなかうまくいかなかった。もぞもぞと縄から右手を引っこ抜こうとしていると、その手にすっかり馴染んだものが触れた。
「! フシデ」
 少し胸をそらして振り返る。フシデが小さいが鋭いくちばしでカラスバを拘束しているロープを噛みちぎろうとしていた。どうやら通報するよりもジプソに乗じて脱出したほうが早いと踏んだらしい。賢い相棒にカラスバはこんな状況ながらも感激した。
 やがてフシデの努力によりロープが千切れ、カラスバは自由を手に入れた。
「おおきに、フシデ。ここ危ないさかい、気をつけてや」
 カラスバはフシデをひと撫ですると、ジプソを止めるべくその背中に向かっていった。ちょうど三人目の男に角材を振り下ろそうとしているところだった。ただ、一回目ではない。何回目になるのかはわからない。男は血まみれで、「助けて」と繰り返している。
「ジプソ!」
 カラスバはジプソの背中に向かって手を伸ばしたが、それが届くより先に服の背中を引っ張られて後ろにすっ転んだ。「あいた」と反射的に言って、あごを上げて後ろを見上げると、エアームドがカラスバを見下ろしていた。
「今は遊べへんよ、エアームド。オマエのご主人止めるのが先や」
 カラスバは上体を起こしつつ説得を試みたが、エアームドはにべもなく首を振った。ジプソのエアームドは強いしとても賢い。これは遊びたくて駄々をこねているわけではなくて、たぶん止めるなという意味か、それとも止められないということだ。「でも……」とカラスバは言ったがエアームドは譲らず、鋼の爪が床に擦れるカシャカシャという独特な足音を立てながらジプソとカラスバの間に入ると、とおせんぼうするみたいに翼を広げた。
「エアームド……なあ、意地悪せんで。そこ通してや」
 カラスバは困って、一生懸命お願いしたが、エアームドはやっぱり首を振ってそこを動こうとはしなかった。広げた翼の向こうから、「ぎっ」とか「うぐ」とかいう、力も意思もない悲鳴が漏れ聞こえる。それからぬかるみに硬いものを叩きつけているかのような、濡れた打撃音。
 カラスバはそばに寄ってきたフシデを抱きしめて、エアームドの翼の間から見える光景を眺めていた。水っぽい打撃音の後に血が飛び散る。バギンッ! とひときわ強い音が鳴った。角材が折れた音だと、カラスバの方へ飛んできたその一部をエアームドが蹴り飛ばしてくれた後に気づいた。
 エアームドは翼を何度か羽ばたかせ、喉から金属をこすり合わせるような音を出した。カラスバはエアームドと完璧な意思疎通ができるわけではないけれど、このときはエアームドが〝危ないからここにいろ〟と言っていることがなんとなくわかった。折れた血まみれの角材が投げ捨てられて、ところどころに付着した何らかの組織片を水っぽい音を立てながら撒き散らし床を転がっていく。カラスバはエアームドを見つめ、やがて頷いた。フシデをぎゅっと腕に抱いたまま、エアームドの翼の下で、泥でできた人形を拳で殴打するような音が鳴り止むのをじっと待つ。
 ――ジプソはどうして、ここに来たんやろう。
 どうしてそんなに怒ってるんやろう。ジプソにとって、オレってなんなんやろうか。カラスバは考えても答えの出ないことを考え続けていた。螺旋階段を延々歩き続けているようだった。どこにもたどり着かない。
「カラスバ」
 はがねみたいに冷たくて硬い声がカラスバを呼んだ。
 いつの間にか、音が止んでいる。エアームドが翼をたたんで数歩下がった。そこに血まみれの手が現れる。大きな手だ。その温度さえ知っている。カラスバはその手をじっと見つめ、それから視線を上げて、その手の持ち主を見つめた。
 ジプソの目は暗く淀み、感情というものが削げ落ちているかのようだった。その中に、カラスバがいる。捕らえられたみたいに。
 その目の中にも、答えは書かれていなかった。
 ただ、ジプソはカラスバを必要としている。
 それだけはカラスバにもちゃんとわかった。フシデはたくさんいるけれど、カラスバは絶対に今この腕の中にいるフシデが良かった。他のフシデじゃなくて、絶対にこの子だと思った。ジプソも、たぶんそうだ。人間はたくさんいるけれど、ジプソは他の誰でもなく、カラスバを求めている。
 カラスバもそうであるように。
 オレはきっと、こいつを幸せにできる、とカラスバは思った。
 ジプソはたぶん、そうしようと思えば、この街だって壊せてしまうだろう。そういう力を持っているこの男の手綱をオレが握って、もっとぽかぽかしたあったかいところに連れてってあげよう。そういう道を、オレなら探せる。
 オレはジプソと一緒に生きていける。
 カラスバは手を伸ばして、差し伸べられたジプソの手を取った。血がべったりとカラスバの手を汚したけれど、それでも構わなかった。抗いようがないほどに強い力で、ジプソがカラスバを引き寄せる。その腕の中で、カラスバは心の中からよろこびが湧き上がってくるのを感じた。
 こいつは、オレのもんや。
 一番ほしかったものを手に入れた。間違いなく、今日は最高にいい日だ。

 後から聞いたところによると、ジプソはカラスバに無断で勝手にGPSを仕込んでいたらしい。
 確かにあまりにボロボロで見てられないとジプソから靴を贈られたことがあった。それがカラスバにGPSをつけてどこにいるかを常に把握しておきたいジプソの策略だということも、中敷きの下にそんなものが仕込まれているということも知らないカラスバは純粋にそれを喜んで、ジプソに感謝した。靴といえばその一足しか持っていなかったカラスバは常にその靴を履いていたから、位置情報の把握はさぞかし簡単だっただろう。
 カラスバ本人も知らないことをあの男たちが知っているはずもなく、彼らは要求も書かずにただ「ゲット」の一言とモンスターボールの絵文字、それにカラスバの写真を添えて最初のメッセージを送った。それを見たジプソが慌てふためき連絡してくるのを期待したようだがその目論見は大外れ。ジプソはすぐさまカラスバの位置情報を確認し、エアームドのドリルライナーで壁をぶち破って大暴れしたということらしかった。カラスバは黙って靴を返そうとしたが、また同じようなことがあったら困る、頼むから、と必死にすがられ、結局ジプソのその懇願を受け入れた。
 それからしばらくして、カラスバは正式にサビ組のボスとして就任した。
 カラスバが愛というものを知るまでには、そこから更に時間を要した。金銭的に余裕のできたカラスバは初めて自宅というものを持った。その自宅はジプソと共用だった。ジプソと暮らすのが当然だとカラスバは思っていて、そこに疑問を抱かなかったし、その頃にはもうジプソがカラスバに優しくするのはカラスバがジプソにとって特別だからだとわかっていたけれど、なにせカラスバは愛というものがどんな姿形をしているのかなんてまったく知らなかった。
 それを知ったのはどこかの会社の創立記念パーティに招待された夜のことだ。
「カラスバさん、飲んでます?」
 高そうなスーツを身にまとい、髪をきれいに撫でつけた、いかにも場慣れしたようすの男がカラスバに声をかけてくる。ジプソはこのとき、ちょうどカラスバの食事を取りに行っているところだった。パーティは立食形式で、カラスバとその斜め後ろに影のように寄り添っていたジプソは挨拶回りで忙しくしていたせいでまだ何も口にできていなかった。一通り挨拶が済んだから少し休憩しようとしていたところだった。
「ああ、これからいただくつもりです」カラスバは愛想良く答えた。
「そうなんですね。ここ、カクテルを作ってもらえるんです。おすすめがあるんですよ。よかったらどうですか?」
「ありがたいですけど」カラスバは男の後ろに視線をやった。「ウチのが、持ってきてるみたいですわ」
 男はカラスバの視線を追って振り返り、無表情でこちらに向かってくるジプソを見て短い悲鳴を上げた。
「そ、そうですか! 失礼しました!」
 テレポートみたいにあっという間に立ち去った男の背中をぼんやり眺めて、カラスバは「オマエ、ほんまに過保護やなあ」と呆れたように言った。
 ジプソは無表情のまま「バルコニーに席を用意してもらいました」と告げ、カラスバをエスコートした。
 バルコニーに出ると、きらびやかな光に遠ざけられていた夜が生々しい感触を持って広がっていた。カラスバは胸いっぱいにその夜を吸い込んで、深く吐いた。テーブルの上にはキャンドルと二人分の食事が並べられている。カラスバとジプソ以外の誰もいない。遠い海のさざめきのように、会場のざわめきがかすかに聞こえてくる。二人は席につくとほとんど同時にグラスを持ち、「乾杯」と軽くそれを掲げた。一口、唇を濡らす程度に飲んでから、カラスバは「オマエ、心配しすぎやねん」と苦言を呈した。
「オレはサビ組のボスとしてナメられるようなマネはせえへん」
「それは結構なことですが」
 ジプソはグラスを置いて、フォークとナイフを持つと、白身魚を切り分けながらなんでもないことのように言った。
「あいにく、わたくしは愛する人が他の誰かに言い寄られているところを黙って見ていられるような我慢強い男ではございませんので」
「は?」カラスバはぽかんとした。「あ、愛?」
「は?」と今度はジプソが言った。
「ウソだよな?」ジプソはナイフとフォークを取り落とすみたいに音を立てて置き、「今までのって駆け引きだろ?」とカラスバの肩を掴んだ。
「なに? 駆け引きって。そんなん知らん」
「いや、だって……わかるだろ、普通」
「わかるわけないやろ! オマエ、今までそんなこと言わんかったやないか!」
「言わなかったって、そんなもんいちいち言うもんじゃ……ああ、そういやクソガキだったな……
「ガキちゃうわ!」カラスバは頭を抱えたジプソのすねをつま先で蹴った。ジプソはまったくダメージがないようで、知らん顔して「あークソ、マジかよ……」と呟いているが、カラスバはつま先がじんじんして痛かったのでちょっと黙った。すねってこんなに硬いものなのか。
 カラスバはむっと唇を尖らせて、おそるおそる、ということがバレないようにわざと不機嫌っぽい声で言った。
「お、オマエ、オレのこと好きなん?」
……
 テーブルの上、カトラリーのすぐそばでぎゅっと握られたカラスバの手を、ジプソの大きな手がそっと握った。手のひらの熱い温度。骨周りの皮膚がところどころ破れている。カラスバはその傷跡をしばらく眺めてから、ジプソの顔を見上げた。
「好きだ。ずっと。気が狂うくらい」とジプソが言った。
 ジプソの目が、カラスバを見つめる。
 カラスバに向けられるジプソの目は、いつもこの熱を持っている。愛とは、この熱のことなのかもしれない。もしもそうなら、ジプソはずっと、カラスバに愛をくれていた。
……オレもすき」
 カラスバがそう言うと、ジプソはちょっと黙って、それからゆっくりとカラスバの手の甲を指先で撫でた。
「カラスバさまのおっしゃる通りです。もうガキじゃありませんよね」
「?」
 その夜、家に帰ってから、カラスバは愛とはどんなものなのか、その一面を知った。溶けそうに熱くて、痺れるほどに甘くて、へとへとに疲れ果てたカラスバは、思う存分ジプソに甘えた。ジプソはカラスバのためになんでもしてくれた。ぽかぽかした、あたたかいところにいるみたいに、幸せそうな顔で。


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