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現パロ「道草と征服」2章5・6話

全体公開 1 13 10515文字
2026-07-03 18:20:35
Posted by @taiga_hsh

2章■ scene5「待つ、ということ」/ sideアヤカ

リチャードがフランスに発って、一週間が過ぎた。

朝起きて、大学に行って、シフトが入っている日はダイナーで働いて、帰ってくる。ご飯を作って、シャワーを浴びて、寝る。いつもと同じ一日が、いつもと同じように過ぎていく。

なのに、どこか違った。

部屋の静けさに気づいた。一人暮らしを始めてから、静かさには慣れていたはずなのに。むしろ、その静けさが好きだった。自分だけの場所が、ずっと欲しかった。Aのところにいた頃も悪くはなかったが、あそこはAの家で、ここは自分の部屋だ。自分だけの空間の静けさに囲まれるのが好きなはずだった。なのに最近、部屋に帰る度に、その静けさが少し違う形で耳に届いた。何かが足りないというより、あるべきものがない感覚に近かった。

リチャードがいない。

それだけのことが、思ったより響いていた。気づいてから、胸の奥にずんと違和感が居座った。

――おかしい。
リチャードがこの部屋に来たのは、指で数えられるくらいだ。一緒に住んでいたわけでも、毎日顔を合わせていたわけでもない。それなのに部屋が静かに感じる。あるべきものがない、と感じる。それはどういうことだ、と。
答えが出る前にスマートフォンに通知が来た。リチャードからだった。

『今日の会議、長引いた。疲れた』

アヤカはしばらく画面を見て、それから『お疲れ』と短い返事を送った。それだけで部屋の静けさが和らいだ。

——その事実に気づいたとき、また名前のつかないものが胸に居座った。

連絡が来るのを、待っている。

待っているなんて、自分らしくないと思った。スマートフォンを見る回数がリチャードがいる時より増えていると気づいてから、意識して見ないようにした。でも気づいたら手が伸びていた。

誰かの都合に自分を合わせて、その人が来るのをただ待つ。それが昔からずっとアヤカの生き方だった。Aに引き取られる前も、Aのところにいた頃も、ずっと。与えられるのを待つ。決めてもらうのを待つ。引き取られる前のアヤカには他に選択肢がなかった。だから待った。でもそれが自分の本来の在り方だとは、一度も思えなかった。

大学に入って一人暮らしを始めて、初めて自分の足で立てると思った。誰かの家じゃなく自分の部屋で、自分で選んだことをする。そう思っていた。

なのに今、リチャードからの連絡を待っている。

これは誰かの都合を待っているのと同じことじゃないのか。

そう思ったら少し怖くなった。怖いというより腹が立った。自分に対して。あれだけ嫌だと思っていたのに、気づいたらやっていた。そういう自分を受け入れたくなかった。

でも、否定できなかった。

しばらく考えた。考えながらノートを開いてレポートの続きを書こうとして、一行も進まなかった。ペンを持ったまま窓の外を見た。十一月の夜は暗くて、向かいの建物の灯りが見えるだけだった。

待つ、ということが全部同じなのか、とアヤカは考えた。

Aに引き取られるのを待っていたとき自分に選択肢はなかった。選べなかった。ただそこにいるしかなかった。あれは待つというより、ただ流されていた。

でも今は違う。

リチャードから連絡が来るのを待っていて、それはアヤカが選んでいる。連絡を返すことも、返さないこともできる。でも。

選んでいる、と言えるのか。

連絡を待っている自分を、アヤカは選んだか。違う。気づいたらそうなっていた。体が先にそうなっていて、頭が後から気づいた。それは選んでいるのか、ただそうなったのか、分からなかった。

ペンをテーブルに置いた。

答えが出なかった。出ないまま、夜だけが深くなっていった。


 ◆


ある日の大学の帰り道、商店街を歩いていたら、角のコンビニの前を通った。ショーケースの中に所狭しと肉まんが並んでいた。

リチャードのことを思い出した。

その瞬間、昨夜の自分への憤りと気まずさがぶわりと滲み出てきた。肉まんで人のことを連想するようになったのか、と。でも、同時に思い出した。あのとき二人で歩きながら食べた日を。くだらない話をしながら、肩を並べて。リチャードが「こういう食べ物が好きなんだ」と言った。理由を聞いたら「美味いからだ、他に理由が要るか」と当然のように言った。その言い方が可笑しかった。

可笑しかった、とアヤカは記憶の中で思い返して、また少し止まった。これは良くない。面倒くさい思考のループに入っているのは自分でも分かっていた。

楽しかった、という感情を覚えている。でも、それを楽しかったと言っていいのかどうか、いつも少し迷う。楽しいと思うことは、その人に引っ張られているということじゃないのか。リチャードといると楽しかった。それは本当だ。でも、それはリチャードが引っ張るのが上手いからかもしれない。自分はただそこにいて、リチャードの作る空気の中にいただけかもしれない。そう思うと、また分からなくなった。

肉まんは買わなかった。買う理由がなかった。でも、しばらくその場に立っていた。
ふと、おかしなことに気づいた。あのとき肉まんを美味しそうに頬張っていたリチャードは、本当はそんなものを食べる必要のない人だった。

リチャードのことを、アヤカはそれほど多く知らない。でも、知っているだけのことを並べてみれば、それは全部アヤカとは違う世界の話だった。会社を持っていて、その会社はフランスに本社があって、本社へ行くために飛行機で発っていく。何度か会計する姿を目の当たりにしたが、彼はお金の使い方に迷いがない。値段を見てから買うものを決めるということを多分一度もしたことがない。立ち振る舞いも、まとっている空気も、周りの人間が自然と一歩引くところも、全部そうだ。リチャードは、違う世界の人だった。

アヤカの普通とは。スーパーで値引きのシールを探して、電気を一つずつ消して、バイト代から来月の家賃を引いて、使える額を決める。それが普通で、それしか知らない。同じ肉まんを並んで食べても、アヤカにとってそれは夕飯で、リチャードにとっては多分ただの気まぐれだった。

それなのに、その人からの連絡を待っている。待っているというのが本当なら、その先には待った分だけ何かを期待している自分がいるはずだった。期待、という言葉まで思い浮かべてアヤカはうろたえた。

自分は何を期待しているんだろう。

日本を発つ前に、リチャードは「話したいことがある」と言った。それが何なのか、おおよその見当はついていた。
今のリチャードとアヤカは、同僚でも、友人でも、恋人でもない中途半端な関係だ。毎日連絡は取っている。一度寝落ちしてしまって、翌朝トーク画面を見ると、アヤカを心配する言葉がいくつか送信されていた。返信すると、すぐに安堵のスタンプが送られてきて、筆まめな人だったんだなと少し驚いたのは記憶に新しい。
そして恋愛経験の少ないアヤカにも分かることがある。おそらく『好意』を持って接してくれている。
もしそうなら、尚更分からなかった。どうして自分なんだろう、と。リチャードほどの人なら隣に立つ相手は選び放題のはずだった。同じ世界で育って、同じ価値観を共有して、同じものを当たり前だと思える人。探せばきっといる。いくらでもいる。わざわざアヤカを置く理由が、どこにあるのか分からなかった。
リチャードの気持ちを疑っているわけじゃなかった。あの人は思っていないことを言わない。美味いものを美味いと言う。好きなものを好きだと言う。嘘をつくとは思っていない。ただ、その本当が、どうして自分に向くのかが分からなかった。

分からないまま待っている。期待しているのかもしれない自分が、ひどく分不相応に思えた。





ある夜、Aに手紙を書いた。

便箋を出して、ペンを持って。しばらく何を書けばいいか分からなかった。でも書き始めたら止まらなかった。

最初はリチャードのことを書くつもりじゃなかった。大学のことを書こうとした。カフカの授業のこと、レポートのこと。でも、書き始めたら全部リチャードに繋がっていった。日本を離れていること。些細な事で彼を連想すること。彼を思い出す度に、気まずさに似た苛立ちが湧き上がること。戻ったら話したいことがあると言われたこと。何を話したいのか、たぶん分かっていること。リチャードから連絡が来る度に、和らぐものがあること。

書きながら、ペンが止まった。

和らぐ、と綴った文字を眺めて、これは自分の本心だと気づいた。Aへの手紙に書くということは、本当だということだ。自分の中で本当のことしか、Aには書けない気がしていた。リチャードに「手紙、書いた」と言いに行った朝から、ずっとそうだった。

本当のことを書いてしまった。

和らぐ、という言葉を書いてから、アヤカはしばらくそれを見ていた。消せない。消したいわけでもない。ただ、書いてしまったという感触だけがあった。

振り切るように下の文に目をやると、その先にあった言葉は、『待っている』だった。いよいよ逃げ場がない。

誰かに言われたから待っているんじゃない。リチャードから待ってくれと言われたわけじゃない。リチャードは「話したいことがある」と言った。それを受け取って、アヤカ自身が待つことを選んでいる。それは、誰かの都合を待っているのとは違う。そうペンを動かしながら、ゆっくりと気づいていった。

選んでいる、と言い切れるかどうかは、まだ分からなかった。少なくとも、今夜Aに手紙を書いているのは、自分が書きたいからだ。誰かに言われたからじゃない。

ペンを、また動かした。肉まんで思い出したこと。待っていること。それが自分らしくないと思っていたけれど、もしかしたら自分らしいのかもしれないという、まだ確信のない感触。全部文字にして、書き終えたら封をして、翌朝ポストに入れた。

その日の夜、リチャードから連絡が来た。

『そっちは寒いか』

唐突な質問に、アヤカは返す言葉を少し考えた。

『寒い。毎日コートが要る』
『こっちも寒い。パリの冬は湿気があるからな。あと、もうすぐ帰れそうだ』
『それを先に言ってよ』
『ところでポトフは食べたことあるか』
『あるけど、作ったことない』
『昔よく食べていたのを思い出した。フランスの家庭料理だからな。冬に食べたくなる』
『レシピ、調べてみる。帰ってくる日に作っておくから』
『そうか。戻ったら食べにいく。約束する』

アヤカはスマートフォンを持ったまま、窓の外を見た。十一月の終わりの夜空は暗くて、星は見えなかった。

『来ていいよ』

送ってから、自分から言ってしまった、と恥ずかしくなった。でも、送ってしまったものは取り消せない。既読がついて、しばらく間があった。

『楽しみにしている』

アヤカはスマートフォンをテーブルに置いた。天井を見た。

自分から、来ていいと言った。待つことを選んでいるのと同じように、来てほしいということも自分が思っている。待っている。連絡が来るたびに和らぐ。来ていいと言った。たとえ自分らしくないと思っていたとしても、自分の中から出てきたのだから、これも自分なのかもしれなかった。

それでも、来ていいと自分から言える資格が自分にあるのかどうか。その問いだけは、和らがずに残っていた。

そこまで考えて、少し疲れた。考えすぎだ、とも思った。

窓の外はまだ暗かった。


■ scene6「告白」/ sideアヤカ

手紙が届いたのは、リチャードが帰国する日の午後だった。差出人を見なくても分かった。便箋ではなく、葉書なのがAらしかった。

『あなたは、あなたらしく』

アヤカはしばらく、その一行を見ていた。部屋が静かだった。外で風が鳴っていた。十二月の風だった。

あなたは、あなたらしく。

待っていた。リチャードが帰ってくるのを、部屋で待っていた。連絡が来るたびに和らいで、肉まんでリチャードを思って、来ていいよと自分から送った。

でも、待っていた。リチャードからの言葉を、気持ちを、来訪を、ただ受け取るだけだった。

葉書をもう一度見た。

あなたらしく。

Aはいつも、こういう言い方をする。背中を押す言葉でも、思いとどまらせる言葉でもない。あなたはあなたらしく。たった十文字の言葉なのに、アヤカの中で何かが、ゆっくりと動き出した。

待つことが全部同じなのか、という問いをずっと抱えていた。選んでいるのか、ただそうなったのか、分からないという感覚。でも今、その問いが少し違う形で見えた。

受け取るだけじゃなく、自分から動けばいい。待つことを選んでいるなら、動くこともきっと選べる。それがアヤカらしいかどうか、まだ分からない。でも、やってみなければ分からない。

気づいたら、立ち上がっていた。大学帰りの格好のまま、くたびれたトートバッグを肩に掛けて、マフラーを手に握ったまま外へ出た。スマートフォンを取った。着替える時間も、コートを羽織る余裕もなかった。考えたら止まる気がした。考える前に、体が先に動いていた。

『いまどこ』

リチャードのトーク画面に送った。既読はつかなかった。

まだ飛行機の中だ、と気づいた。でも動き出した足が止まらなかった。勢いのまま玄関のドアを開けた。

外に出たら、冷たい風が来た。吐く息が白い。十二月の空気が頬に刺さるように冷たかった。それでも走った。最寄り駅まで、脇目も振らず駆け抜けた。

走るうちに体が熱くなった。冬の空気と体の内側から来る熱さが、ちぐはぐだった。手に握ったマフラーを首に当てながら、また走った。眼鏡が少しずれて、走りながら直した。

改札を抜けながら、スマートフォンを確認した。まだ既読はついていなかった。発車直前の音の中で電車に飛び乗った。

窓の外を、冬の街が流れていく。膝の上でスマートフォンを持ったまま、アヤカは揺られていく。

電車が都内を抜けていく間、アヤカは窓の外を見ていた。ビルが並んで、川が見えて、また街に戻る。走って熱くなった体が、ゆっくりと落ち着いていく。落ち着くにつれて、少しずつ考えが追いついてくる。

何をしているんだろう、とは思わなかった。
思い直して引き返そうとも、思わなかった。

ただ、少し怖かった。着いたときに自分が何を言うのか、まだ言葉になっていなかった。言葉にしようとすると、どこかに消えていく感じがした。でも体は動いている。

上野で乗り換え、スカイライナーのホームに向かう。案内板に「成田空港行き」と出ていた。切符を買って、乗り込んだ。シートに座って、スマートフォンを見た。既読はまだつかなかった。

ただ待つんじゃない。
私が、選ぶんだ。

電車が動き出した。都内の景色がほどけるように郊外に変わっていく。ビルが減って、空が広くなっていった。十二月の空は白く曇っていた。走って熱くなった体が、少しずつ冷えていく。でも足の底に残っている熱さは、消えなかった。

スカイライナーが速度を上げていくと、またあの考えが戻ってきた。待っている自分に気づいて分不相応だと思った、あの感覚だった。

学生の自分が会社を持つような人を空港まで追いかけている。冷静に考えれば、おかしな話だった。住む世界が違う。育った環境が違う。当たり前だと思っていることが、何もかも違う。リチャードの隣には、もっとふさわしい人がいくらでもいるはずで、その人たちを差し置いて自分がこんなふうに走っていく理由なんて、本当はどこにもなかった。そう思うと胸の奥が少しだけ怯んだ。

でも。引き返さなかった。

ふさわしいかどうかは、多分誰かが決めることだった。今までのアヤカなら、その「誰か」の判定を待っていた。ふさわしくないと言われる前に自分から引いていた。期待しなければ傷つかずに済む。ふさわしい人が現れるのを、ただ待っていればいい。でもそれは結局、待つことと同じだった。別れる日が来るのを先回りして怖がって、半分だけ近づいて、半分だけ引いている。そんなのは流されているのと変わらなかった。

いつか、この埋めようのない違いが二人を引き離す日が来るのかもしれない。住む世界が違うというのは、そういうことだ。それでも、とアヤカは思った。終わるのが怖いから今を選ばないというのは、もうしたくなかった。

リチャードが、もし自分を選ぼうとしているなら。理由は今でも分からない。分からないままでいい。だったら、自分も選べばいい。ふさわしいと認められるのを待つんじゃなくて、リチャードの隣にいていい自分に、これからなればいい。釣り合うものを持っていないなら、これからその隣に立てるように、自分でなっていけばいい。それは誰かに決めてもらうことじゃなかった。アヤカが、決めることだった。

足の底の熱が、また確かになった。

窓の外を流れる景色を見ながら、アヤカは自分がどこに向かっているかを改めて考えた。成田空港。リチャードが帰ってくる場所。話したいことがあると言っていたリチャードが、今日帰ってくる。

話したいことがある、と言ったのはリチャードだった。でも今、自分にも話したいことがある。言いたいことがある。さっきまでリチャードが戻ってきたら言おうと思っていた。部屋で待ちながら、来たら言おうと思っていた。

でも今は違う。

来たらじゃなくて、今行く。それだけのことに今のアヤカはどうしようもなく自分らしさを感じた。

四十五分が、ゆっくりと過ぎた。

終点のアナウンスが流れた。成田空港、と聞こえて立ち上がった。ドアが開いた。その時スマートフォンが震えた。

『空港についたぞ』

アヤカは思わず口元を緩めた。空港で何時間でも帰りを待ち続ける覚悟もあったが、どうやらその必要はなさそうだ。

『空港のどこ』

メッセージを送りながら、返事も待たずに歩き出した。国際線到着ロビー。案内板を見た。

『第一ターミナルだ』

アヤカはスマートフォンをポケットに入れ、足早に進んだ。案内板を見ながら歩いた。人をよけた。はやく、はやく、はやく。第一ターミナル、到着ロビー。それからエスカレーターを駆け下りた先で自動ドアが開いた。

冷たい空気が顔に当たった。天井が高くて、広いロビーだった。人が流れていた。スーツケースを引く人、出迎える人、ざわめきと、どこかの言語が混じっていた。吐く息がまた白くなった。走ってきた体は熱いのに、空港の空気は冷たかった。

見えた。

遠目でも目立つ、金髪に赤のメッシュに、肩に掛かる三つ編み。濃紺のコートを着て、その下にスーツが見えた。ネクタイが、少し緩んでいる。長時間のフライトの後だったから、いつものリチャードより少しだけくたびれていた。

隣に男性が立っていた。茶色い髪が少し長くて、スーツをこなれた感じで着こなしていた。飄々とした佇まいなのに、こちらを見る目だけは見逃さないような鋭さがあった。

もう一人、白髪混じりの年配の男性がいた。スーツの着方が他の二人と違って、年代ものの、でも丁寧に手入れされたスーツだった。

リチャードがこちらを見た。
目が合った。
足が、止まった。

息が切れて肩が上下する。手にマフラーを握ったままだった。カーディガンで空港まで来たことが、今さら恥ずかしくなった。走ってきた、という事実が今になって体に返ってきた。コートも着ていない。髪も整えていない。着の身着のまま、ここまで来てしまった。

リチャードの顔が、呆れでも、驚きでもなく、ただ柔らかくなった。来てくれた、という顔だった。それだけで胸の奥が痛くなった。
年配の男が、静かにアヤカの方を向いた。フランス語の、低くしわがれた声だった。

『Merci à toi. Mon Seigneur a suivi la bonne voie.』

フランス語で語られたその言葉の意味を、アヤカは理解することはできなかった。でも、その声の温度だけは感じることができた。アヤカが言葉の意味を聞き返す前に、リチャードが二人に短く何か言った。二人はゆっくりと頷いて、それぞれ離れていった。茶色い髪の男が去り際に、こちらをちらりと見た。何かを確かめるような顔だった。それから、小さく笑った。

二人きりになった。

リチャードがアヤカの前に立った。緩んだネクタイ、少しくたびれたスーツ。それでも目だけはいつもと同じ、まっすぐにアヤカだけを見ていた。

「来てくれたんだな」
……うん」
「会えて嬉しい。ずっと、会いたかったんだ」

さらっといつもの調子で出た言葉に、アヤカは思わず視線を外した。頬が熱かった。走ってきたせいだけじゃなかった。

「だが、どうしてここに?メッセージを見て驚いたぞ。どこにいるのか聞かれるなんて、思ってもみなかったからな」

リチャードの視線が、ふとアヤカの肩のあたりに落ちた。カーディガンの薄い肩のあたりに。責めているわけじゃないが、確かめているような目だった。

……薄着だな」
「走ってきたから」
「コートを貸そう」
「いい。それよりも、リチャードに言いたいことがある。とりあえずこっち来て」

人の流れから外れた場所に移動した。窓の外に滑走路が見えた。飛行機が、ゆっくりと動いている。冬の光がガラス越しに差し込んで、外では風が吹いているのか、ガラス越しに滑走路の草が揺れていた。人の声が遠くなり、ロビーのざわめきが向こうへ退いた。
アヤカはリチャードの手を、掴んだ。リチャードが少し目を瞬かせたが何も言わなかった。アヤカが口を開くのを、ただ待っていた。

さっき、気づいたんだ。きっかけはAからの手紙だったけど。待ってばかりだったって。リチャードが来てくれるのを、リチャードが言葉にしてくれるのを、ただ待っていただけだった。私からは何も、動いてない。そこはごめん」
「あ、うん。ハイ」

長く話すのは珍しい。自分でも分かっていた。大声を出しているわけでも、感情を爆発させているわけでもないのに、アヤカからの圧を感じて反射的に返事をするリチャードがいる。

「私、あんたに許さないって言った。許した訳じゃないって」
ああ。それは、」
「聞いて。あの時は、どうしてって。なんで言ってくれなかったのって、思った。置いていかれて、悲しかった。……でも、私から聞くことだって、できたはずなんだ。待ってるだけじゃなくてなんて言っていいか分からないけど、許すとか許さないとか、今はそんなのどうでもいい」

正面から、赤い瞳をまっすぐに見た。

この人はずっと気持ちをくれていた。フランスにいる間も、ここに向かいながらも、今この瞬間も。言葉にしなかったけれど、それは分かっていた。分かっていたから、言わなかった。分かっていたから、今、言おうと決めた。

伝えないといけない。
私から、私の意思で、私の選択で。

「私、リチャードのことが好き」

言えた。言葉にして、声に出して、自分の気持ちを形にできた。それだけの事が、アヤカを細胞の一つからすべて生まれ変わらせたような気分だった。

好き。そう、私はリチャードのことが、好きなんだ。

心の中で、今声に出した言葉を反芻する。言葉にしてしまえば、とても簡単な答えだった。今朝まで悩んでいたことが、その一言ですべて解決した。その一言を受け入れられなくて、日々リチャードの面影を探して、自分の気持ちに悩み続けたと言うのに。
感じたことのない達成感と器から溢れるような充足感に、もう十分だと思った。期待はしない。ただ、この気持ちを伝えたかっただけだから。だから、

——視界が、暗くなった。

大きな手がアヤカの肩を引き寄せて、濃紺のコートが、ふわりとアヤカを覆った。人の流れも、冬の光も、全部その布の向こうへ消えた。狭くて、温かくて、リチャードの匂いがした。

柔らかく、でも確かな温度が、唇に触れた。アヤカは一度目を見開いて、そしてゆっくり閉じた。繋いだ手を離さなかった。

コートが、するりと肩から離れた。世界がまた戻ってきた。飛行機が滑走路をゆっくりと動いていた。冬の光が窓から差し込んでいた。ロビーのざわめきが、また聞こえてきた。

やがて唇が離れた。吐く息が熱かった。手は、まだ繋がっていた。

リチャードの赤い瞳が、アヤカを捉えていた。何かを言いかけて、唇を結んで、それから小さく笑った。普段の人を鼓舞するときの笑い方じゃない。もっと小さくて、内側に向かうような笑い方だった。

「俺も、好きだ。アヤカのことが好きだ。愛している」

視線を外したまま、リチャードの胸元に火照る頬を寄せる。顔を見られたくなかった。どんな表情をしているのか、自分でも分からなかったから。きっと、生まれて初めてする顔だ。

愛している、という言葉がロビーの空気の中に残った。大げさだとは思わなかった。この人はこういう人だ。好きなものを好きと言う。美味いものを美味いと言う。愛していると思ったら、愛していると言う。それがリチャードだった。

声に出して伝えただけで十分だと思った。でもリチャードから同じか、あるいはそれ以上の感情が返ってきて胸の奥が震えた。この感動を、どう表現したらいいか分からない。

……うん。わたし、も」

だいすき。
内緒話をするくらいの小さな声だった。愛してるとは言えなかったけれど、アヤカなりの精一杯の返事だった。大きな手が背中に回って、ぐいっと引き寄せられる。リチャードが日本を発つ前にあった二人の隙間は、もうなかった。空港の冷たい空気の中で、互いの温度だけが確かだった。


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