@f6mhyk
ふう、ふう、と息を吐いた。
思考が靄掛かるようにぼやけている。少しだけ目を開いてみれば、変わらぬ夜闇のなかに、シノの傷だらけの手がぼんやりと浮かび上がった。
寒い。
ぎゅっと布を手繰り寄せる。隙間風を遮断するほどの厚みはないけれど、この布一枚があるだけで、かつて転がっていた路傍よりよほどマシだった。
かた、かた、とからだが震える。いくら肌寒い川辺だとはいえ、昨日はこんなに冷えなかった。
熱が出ている。
「だいじょうぶ……」
呟いて、丸まった。
路上でひとからものを盗んで生きながらえていたころも、こういうことはたびたびあった。ひどい熱が出て、頭がぼやけて。からだが思うように動かせなくて、寒い。そんな日が。
いちばん初めはあまりにもつらくて、日の当たらない裏路地から大通りへ出たのだ。走ることもできない孤児のこどもは、そうして大人に捕まえられ、救貧院へと送り返された。
ろくに看病もしない、飯ももらえない、そんな場所にいるなら路地裏で自由に転がって寒さに震える方が余程ましだった。もう二度とするまいと思った。だから、それからずっと、シノは熱がでたときはひとりでちいさく丸まって、体の熱をあつめるようにして寒さに耐えてきた。一晩寝れば幾分か楽になるのだ。今まではずっと、そうだった。
はやく朝にならないだろうか、と。そう願って閉じた瞼の裏で、青い何かが光った。
ちか、ちか。
再び目を開けた。青い、魚だった。
半透明の青い光る魚が、窓の向こうで泳いでいる。
そんなものは、大通りでいちばん大きな露店でも、ブランシェットの厨房でも見たことがなかった。
ヒースは知っているだろうか。
奥様に紹介されて出会った、シノの初めての友達を思った。ヒースクリフはシノの知っていることをいくつも知らないし、シノの知らないことをいくつも知っている。もしかしたら知っているのかもしれないけど、でも、きっと、こんなきれいなものは見たことがないだろうと思った。
見せてやったらきっと、あのときみたいに瞳を輝かせて喜んでくれるだろうとも。
からだを叱咤して、ベッドから起き上がった。シノは小さいけれど森番だ。一匹でいる、小さな魚。きっと迷子だろう。案内してやろうと思った。
からりと窓を開ける。魚は相変わらずそこにいた。するりと窓を抜けて小屋に入ってきた青い魚は、シノの額をちょん、とつついた。
「……あ、れ」
ふわりとからだが軽くなる。
先ほどまでの頭の重さも、息の苦しさも、寒さも、ぜんぶが取り払われたみたいだった。びっくりして魚を見ると、魚はふわりと小屋の外へ出た。ついてきて、と言っているようにも、案内して、と言っているようにも見える。
どこか夢見心地なまま、シノは外へ出た。月はない。星明りがいやにまぶしかった。
森の出口の方へ向かって歩くと、ほんの少しだけ行ったところに、何かが光っているのが見えた。
森の中に星空がある。
こんな場所に光るものは生えていなかったはずだった。よくよく目を凝らすと、それは光るものの集合体だった。青い光。また少し行くと、光が大きくなる。隣を泳ぐ魚が、うれしそうに舞った。
「……は……」
星だと思ったものは、魚の群れだった。
まるで夢の中のような光の群れ。それがゆらゆらと、まるく、円を描くように踊っている。ちかちかと星がまぶしく光った。
踊るように、誘うように。どこかシノの知らない場所へと、導くように。
夢みたいだった。
まるで夢のように、美しい光景だった。
「きれい……」
ぼう、と光をただ見上げる。
何処かへ連れていかれるのだと、何となく思った。
ちか、ちか、魚が光る。それにゆらりと手を伸ばして、止めた。くる、くる。渦巻く魚の群れが、シノを呼んでいる。
シノの案内した小さな一匹が、誘うようにシノに触れた。
「あ……さっきの小さいやつ。なんだ。渦の中に、オレを誘ってるのか?」
きれいで、夢みたいな、青い魚たち。
こいつらはもしかしたら、かみさまのようなものが、シノを呼ぶために連れてきたものかもしれないと思った。シノは悪い子で、ヒースや奥様や旦那様に言えないようなことをいっぱいした。だから、もう終わりだ、と。ブランシェットでのあたたかくてしあわせな生活はもう終わりにして、こっちへ来い、と。そう言われているのかもしれなかった。
それもいいかもしれない。
静かで痛くなくて、苦しくないことは、確かに昔のシノが強く求めたものだった。それに、シノはもう十分いい思いをした。シノでは釣り合わないくらい、すてきな人たちに出会った。シノでは釣り合わないくらい、立派なお仕事をもらった。シノでは釣り合わない、大好きな友達ができた。もうこれ以上は、わがままかもしれなかった。
でも。
「……いや。オレはこの先にはいかない」
ヒース。
生まれて初めて、シノをまっすぐに見てくれたひと。だいすきなひと。かけがえのないひと。シノでは不釣り合いかもしれないけれど、それでも一緒にいたいひと。
シノの帰りたい場所。
たとえふさわしくなくても。
「オレにも帰る場所が……。帰りたい場所があるから」
最後にそっと魚に触れようとして、ためらった。きれいな鱗を、泥のついたシノの手で汚すのは忍びなかった。
「あ……」
すう、と。
シノが触れるのをためらっている間に、魚は溶けるように消える。それはどうにも残念だった。ヒースクリフがこの景色を見たら、きっと、あの日花束を渡したときのようにうれしそうな顔をしてくれるに決まっているから。
ヒースにも見せたかった。
「シノ!」
ヒースクリフのことを考えていたから、最初は幻聴かと思った。くるりと振り向いたシノの目に、眩い金色が飛び込んでくる。
途中で木の枝に引っ掛けでもしたのか、ヒースクリフの服が一部切れている。
「っ、ヒース?なんで……」
駆け寄ろうとして、頭が揺れた。ぐらりとバランスを崩したシノに、ヒースクリフが慌てて駆け寄る。
透き通った青い瞳には、涙がいっぱいに溜まっている。さっきまでいた魚を思い出した。透き通る青い色の魚。森の中の星空。シノを導く星のきらめき。
「シノ、シノ。だいじょうぶ……」
「平気だ」
「うそ!熱いよ。熱があるんだろ」
大きな瞳にさらにいっぱい涙をためて、ヒースクリフはシノをじっと見つめた。ややあって、ぎゅうっと抱きしめられる。シノがびっくりするくらい、強く。
肩口から、うう、と押し殺した嗚咽が聞こえた。
「ヒース……ヒース」
「しのお……」
「泣くな」
「シノがいなくなっちゃうかと思った……」
怖い夢を見たんだ、シノがいなくなる夢。怖かった、と。
しゃくりあげながらそう言うヒースクリフを見ていたら、さっきの魚の誘いに乗らなくてよかったと思った。
ヒース坊ちゃんにはオレがついていないといけない。泣き虫で優しい、甘ったれでだいすきなヒースクリフ。ヒース坊ちゃんは泣き虫だから、シノが守ってやらないといけない。涙をぬぐってやって、笑顔にできるような、きれいなものをたくさん見せてやらないと。
「別に、いなくならない」
「……うん」
「ずっとそばにいる」
口に出してから、そうだな、と思った。大好きなヒースクリフのそばにずっといて、シノが守ってやる。それはひどくすてきでやさしい、わくわくする話だった。
「いなくならないで、シノ」
「うん」
「ずっとそばにいてよ……」
かわいいやつ、と思いながら、シノはもう一度、うん、と言った。
「……もったいないな」
「何が?」
「いや、なんでも」
ヒースクリフには、この世にあるすべてのきれいなものを見せてやりたいのに。それなのに、ヒースクリフの頬を伝って落ちる涙は、ヒースクリフには見せてやれないままだ。
代わりにそっと顔を近づけて、ヒースクリフの涙にくちびるを寄せた。わ、と驚いたようなヒースクリフの声。くちびるを寄せるのは親愛のあかしだ。きれいで優しいひとが、きれいで優しいひとにする、大好きを伝える挨拶。シノはきれいでも優しくもないけれど、今は手元に花もない。ヒースクリフに心を伝えるのに、この方法しか思い浮かばなかった。
もう一度、今度は頬に唇を寄せる。ヒースクリフの頬はふわりとしてやわらかい。
心臓が痛いくらい、どきどきした。
「ほんとうは、オレなんかがおまえにこういうことをするの、良くないかもしれないから。だから、2人だけのひみつだな」
「うん……。……おれも、」
ちゅ、とかわいい音が鳴って、ヒースクリフの唇が、シノの唇のすぐそばに落とされた。
「これも、ひみつだね」
ふわりと花が開くように笑ったヒースクリフの顔を見て、ああやっぱり惜しいと思った。
ヒースクリフ本人は、このきれいな笑顔を見ることができないのだ。
***
星澪魚の落とし物を無事に返して、夜が明けた。
ほんの少しまだ腫れぼったい瞼を冷やしに、シノは小屋から少し離れた川に来ていた。ブランシェットの城に、瞼を腫らして帰るわけにはいかない。奥様や旦那様の耳に入るかもしれないと思うと恥ずかしかったし、同僚に見られるのだって嫌だ。実を言うと、ヒースクリフに見られるのも癪だと言うのに。
「シノ、どう?まだすこしだけ腫れてるかな」
「別に……へいきだ、こんなの。少し放っておけば治るのに。ついてこなくても……」
「いいから。俺がそうしたいんだよ」
やさしく笑うヒースクリフの顔にいたたまれなくなって、シノはそっと視線を外した。思い返す過去ではヒースクリフが泣いていたのに、さっきはシノの方が泣いてしまった。
なんだかもやもやして、目もとを強くこする。ああ、もう、と困ったようなヒースの声がして、シノの手首をつかまれた。
「こら、シノ。そんな風にしたら余計腫れるだろ」
「…………」
むうっと唇を尖らせてヒースクリフに向き直る。泣きすぎて腫れたシノの顔を見たヒースクリフは、ひどく優しい顔をして、シノの瞼を濡れた手でそっと覆った。
冷たくて気持ちがいい。うっとりと目を閉じると、額に柔らかいものが触れた。一瞬だけ触れて離れていくそれを間違えようもない。ヒースクリフの唇の感触だ。
「……秘密」
「2人だけの?」
「そう」
口元がほころぶ。かわいいな、と思った。昔からずっと、今も。ヒースクリフはかわいい。大好きだ、と思う。ずっとそばにいたい。たとえシノがふさわしくなくても。シノだけの幼馴染。シノだけの主君であってほしい。
2人だけの秘密、という言葉は、あまくて優しくて、ほのかに背徳の味がする。
「もったいないな」
「何が?」
「おまえには、世界中のきれいなものを見せたいのに。おまえのきれいなところ、おまえには見えないだろ」
えっと、とつぶやいたのち、得心したようにヒースクリフは笑った。春の風みたいな笑い声だった。
「ヒースの涙はきれいだ。きらきらしてて、星みたいに見える。本物の星よりきれいなのに、おまえには見えない」
「またおまえはそんなことを言って」
「本心だ」
むっと唇を尖らせると、ヒースクリフはそっと、シノの瞼からぬるくなった手を退ける。変わらない優しい顔で、ヒースクリフはシノを見ていた。その瞳の奥に、少しだけ熱が燻っている。
「……俺も、わからなくもないよ」
「?何が」
「おまえの泣いた顔、かわいくて、きれいだと思う」
「は……?」
「誰にも見せたくない。賢者様であっても」
ぱち、ぱち、とシノは瞬きをした。もう泣くなって、賢者様も見てるよ、と言われたことを思い出す。シノの泣き顔を隠す雨を降らせた男に、感謝を述べたことも。こうして今、腫れを引かせようと瞼を冷やしてくれていることも、きっと。
「シノ、目を閉じて」
言われるがままに、シノは目を閉じた。もう一度、冷たくて心地いい手がひたりと触れる。見えないけれど、ヒースクリフが近づいてくる気配がした。
「シノ」
「うん」
「ずっとそばにいてね」
「うん……、っん」
唇を優しくついばまれて、頬がかすかに火照る。
2人だけの秘密が増えていく。なんだか気分が良かった。シノとヒースクリフの間だけの秘密。それが増えていくのは、シノがヒースクリフの隣にいていい理由が増えていくようで。
ヒースクリフの触れたところから、体がじわりとあたたかくなる。
それだけで胸がいっぱいになるくらい、ヒースクリフのことが好きだと思った。