現パロで、ヒルダと組んで詐欺を働いていたクロードが、契約書ひとつでベレトと同居させられる話。クロードの生活能力は低めです。
いちおうこの後ろも書いているのですが、こちらのみでもひと区切りつく内容にはなっています。
※本作はフィクションです。犯罪行為を肯定・助長する意図はありません。
@Bombwooo
嘘をつくコツは、嘘をつかないことだ。
全部を作り物で塗り固めた話は、どこかで必ずほつれる。いちばんたちが悪いのは、九割のほんとうの中に、たった一割だけ、こちらの欲しい嘘を溶かし込んでやることだ。人ってのは、自分の目で確かめて「ほんとうだ」と判を押した土台の上に乗っているものを、疑おうとしない。土台さえ本物なら、その上に何を積み上げようが、勝手に信じ込んでくれる。
だから俺は、めったに嘘をつかない。つくとしても、必要なぶんだけ、ほんの少し。それが、この稼業で長く生き延びるための、俺なりの流儀だった。
その日の午後も、俺はホテルの一室で、ひとつ仕事を片づけた後の気だるさを持て余していた。
長期で借りているこの部屋は、ベッドの半分が読みかけの本と資料で埋まっている。ビジネス書に、法律の解説書、どこかの業界誌。次にどんな顔を作ることになっても、付け焼き刃の知識は多いに越したことはない。散らかっていると言われれば言い返せないが、俺の頭の中では、どこに何があるのか、ちゃんと見当がついている。
ノックもなしにカードキーの電子音が鳴り、断りもなく扉が開いたのは、ちょうどその時だった。こんな不用心な真似を平然とやってのける人間に、俺はひとりしか心当たりがない。
「クロードくん、おつかれー。あの件、無事に片づいたんだって?」
両手にコンビニの袋をぶら下げて入ってきたのは、ヒルダだった。俺の相棒で、腐れ縁で、それ以上でも以下でもない女だ。高校のころにふたりでつるんで悪い遊びを覚え、そのまま真っ当な大人になりそこねて、気づけばここまで流れ着いた。恋だの愛だのといった色気は、付き合いの長さのわりに、ただの一度も湧いたためしがない。
「ああ、おかげさまでな。先方はご丁寧に、菓子折りまで持たせてくれたよ。俺はただ、『彼にはほかに想い人がいるみたいですよ』って、耳元でひとこと囁いてやっただけなんだが」
「うわー、あくどい。ほんとにそんな人いたの?」
「さあね。いてもいなくても、種さえ蒔いときゃ、あとは相手が勝手に育ててくれる。疑心暗鬼ってやつが、俺の代わりにきっちり働いてくれるのさ」
依頼は、とある令嬢の婚約を、穏便に潰してほしいというものだった。相手の男の素性が気に食わないという親から、それなりの金をもらって引き受けた。証拠を捏造したわけでも、脅しをかけたわけでもない。ただ、ほんの少しの疑いの種を、いかにもな顔で置いてきただけだ。放っておけば、ふたりは勝手にすれ違い、勝手に壊れてゆく。
我ながら、たいして胸の痛む仕事でもない。金を出す側にも、出される側にも、それぞれ後ろ暗いところがあるから、俺のような人間の出番が回ってくる。潔白な人間ばかりの世の中なら、俺はとっくに飢え死にしているだろう。
ヒルダは袋からプリンを取り出すと、我が物顔でソファに腰を沈め、スプーンを咥えたまま「そういえばさー」と切り出した。
この女がこの口ぶりで話を始めるとき、たいていろくな話ではない。長い付き合いで、それだけは嫌というほど身に染みている。
「次の獲物、あたし、もう決めてきちゃった」
俺が渋い顔を作るより早く、彼女はスマートフォンの画面をこちらへ突き出してくる。表示されていたのは、ひとりの男の写真だった。
どこかの式典かパーティーの帰り際にでも、隠し撮りしたものらしい。仕立てのいいスーツを着た、細身の男。目鼻立ちは悪くない。だが、それ以上に――妙に、目を引いた。人の行き交う場所で撮られているはずなのに、その男の周りだけ、水を張ったみたいにしんと静かなのだ。俗っぽさといったものが、この男にはまるで見当たらない。むしろ、そういった類とは生涯縁がないような顔をしている。
まあ、俺の仕事にはどうでもいい話だ。値踏みするべきは顔の造作じゃない。そいつがいくらの金に化けるか、そのために俺がどれだけの危険を背負い込む羽目になるか。天秤にかけるべきは、いつだってそっちのほうだ。
「へえ。で、こいつが何だってんだ」
「聞いて驚きなよー。この人ね、けっこう名の知れた警護会社の、次期社長さんなんだって。しかもそこの社長さん――つまり、この人のお父さんは、元警察なの」
「……ほう」
「警護会社ってさ、お客さんの個人情報とか、警護してる相手の予定とか、そういう表に出せないものをいーっぱい抱えてるわけでしょ? しかも元警察の伝手つき。そんなの、いくらでもお金になるじゃない。この息子さんのほうからそっと入り込めば、案外ちょろいかもよ?」
なるほど、旨味はある。ありすぎるくらいだ。だが、その旨味に見合わないほど、相手が悪い。
俺はプリンを頬張るヒルダの手からスマートフォンを取り上げ、もう一度その男の写真を眺めた。次期社長に、元警察の父親。要するに、脛に傷を持つ人間を狩ることを生業にしている家だ。法律を隅から隅まで知り尽くした上で、法の外側で人を縛るすべを心得ている手合いときている。そんな家に、叩けば埃しか出てこない俺らのような人間が、自分から進んで近づいてゆく。
冗談じゃない。
「やめとけ」
考えるより先に、そう口をついて出ていた。
「わざわざこっちから、火の中に飛び込むことはないだろ。お前、旨味だけ見て、その真下にぽっかり口を開けてる落とし穴が見えてないだろ。ひとつでもしくじってみろ、警察に突き出されて終わり、じゃ済まない。素性を根こそぎ洗われて、いままでの仕事まで残らず掘り返される。どう転んだって割に合わなさすぎる」
俺の忠告に、ヒルダはさして堪えた様子もなく、不服そうに唇を尖らせた。
「えー、クロードくんってばびびりすぎー。そりゃお父さんのほうは怖いよ? でもさ、狙うのはあくまで息子さんだもん。次期社長ったって、現場に出たり内勤に回されたりしてる最中みたいだし、いかにも世間知らずそうでしょ。ほら、この顔よく見てみなって。こういう真面目でぼーっとしてそうなのが、いっちばん騙しやすいんだから。あたしの見立てだと、旨味は特大、危険は小、って感じ」
「その見立てが甘いって、さっきから言ってるんだよ」
同じ一枚の写真を、俺とこいつは、まるきり逆から読んでいる。ヒルダの目には札束しか映っていない。俺の目には、そのにおいにつられて足を踏み入れた瞬間に閉じる、罠の顎が見えている。どちらの読みが当たるかなんて、この稼業を長くやっていれば、考えるまでもない。
「それにさー」
ところが彼女は、俺の言葉をまるっと聞き流すと、プリンの最後のひと口を名残惜しそうに飲み込んで、いかにも楽しげに笑った。
「せっかく骨を折るなら、こーんなかっこいい人とお喋りできたほうが、あたしは楽しいしー?」
結局、こいつの言いぶんの半分は、こういう救いようもなく軽薄な動機でできている。だが残りの半分には、抜け目なく旨味を弾き出す詐欺師の計算が、きっちり詰まっているのだ。厄介なのは、そのふたつが本人の中で地続きになっていて、当人にすら見分けがついていないところにある。
「だいたい、どうやって近づく気だ。まさか道端でいきなり声をかけて、連絡先を交換してくれ、なんて頼む気じゃないだろうな。そんなもの、あの家の息子が真っ先に警戒する手だぞ」
諦めさせてやるつもりで、わざと粗を探すように訊いた。ところがヒルダは、待ってましたとばかりに得意げな顔になる。
「もー、あたしを誰だと思ってるの。下調べはちゃーんと済ませてあるんだから」
彼女いわく、この一ヶ月、男の行動をひととおり洗ったのだという。何曜日の何時にどこへ寄り、どの道を通って帰るか。休みの日はどこへ足を運ぶか。地道な尾行の成果を、ヒルダはさらりと並べてみせた。こういう泥臭い下ごしらえだけは昔から面倒がらないところを、俺も内心では買っている。
「でね、この人ってば意外と、休みの日にひとりで美術館なんか行くわけ。だから今度、その美術館の正面で派手に転んでみせようと思って」
「……転ぶ、ねえ」
「そう。目の前でこんなかわいい女の子がうっかり転んだら、放っておけないでしょ? ここで手を貸してもらって、お礼にお茶でも、っていう流れ。これね、路地裏とかでやると『こいつ何か企んでるな』って身構えられるんだけど、美術館とか劇場とかの前だと、不思議とみーんな、お互いをちゃんとした人間だって勝手に信じ込むんだよねー」
――場所が、人品を保証する。
悔しいが、その理屈は正しい。同じ「困っている女に手を貸す」でも、薄暗い路地でなら下心を勘ぐられ、絵だの彫刻だのを眺めた帰りになら、上等な善意として受け取られる。人は相手そのものではなく、相手が立っている背景を見て、勝手にその人となりを決めつける。そういう思い込みの隙を突くのが、俺たちの仕事だ。
「転ぶなら角度を計算しとけよ。派手にすっ転ぶと芝居くさい。足をひねって立てないくらいがちょうどいい。ついでに荷物もぶちまけろ。拾うのを手伝わせりゃ、それだけで一緒にいる口実と時間が稼げる」
つい、口が滑った。
しまった、と思ったときにはもう遅い。ヒルダはにんまりと目を細めて、俺の顔を覗き込んでくる。
「あれー? クロードくん、やめとけって言ってたわりに、ずいぶん親身なアドバイスしてくれるわねー」
「仕事の話をされると、つい体が動くだけだっての。ったく、誰のせいだと思ってるんだ」
結局、俺はヒルダを止めきれなかった。
止められないなら、せめて詰めの甘いところは俺が塞いでおくしかない。あの家に妙な尻尾を掴まれてから泣きつかれたって、こっちが迷惑するだけだ。俺は深いため息をひとつ落とした。
「いいか。転んだあとは、その場でしつこく連絡先を聞き出そうとするな。一度きっちり引け。『またどこかでお会いできたら』ぐらいで綺麗に別れろ。がっつくと逃げられるどころか怪しまれる」
「はいはい、それで後日ばったりってやつでしょー。さっすがクロードくん。頼りになるー」
連絡先さえ手に入れたら、あとの文面はこっちで組んでやる。そう続けかけて、俺は手の中に残ったままだったヒルダのスマートフォンの角で、へらへら笑うその脳天を軽く小突いてやった。
「……言っとくが、俺は乗り気じゃないからな。あくまで、お前が下手を打って俺まで道連れにされちゃ困る、それだけの話だ」
「わかってるってー」
ちっともわかっちゃいない顔で受け取ったスマホをしまうと、ヒルダはプリンの空き容器を上機嫌に片づけ始める。その暢気な背中を眺めながら、俺は、やめとけと言ったばかりの舌で、もう次の一手を組み立て始めている。
ヒルダから報告が来たのは、それから三日後の夜だった。
例の美術館の閉館時刻を過ぎたころ。スマートフォンの通知欄に、涙目の絵文字がこれでもかというほど連なっていた。
続けざまに通話が鳴る。出るなり、ヒルダは大げさなため息を寄越した。
「クロードくん、聞いてよー。あたし、ちゃーんと転んだの。角度も完璧、荷物もいい感じに散らばって、足首を痛めたふりだって完璧だったのに」
「ふりした、って自分で言うな」
「ちゃんと心配してくれたんだよ? 荷物も拾ってくれたし、立てますか、って手も貸してくれたし。……なのに、お茶でも、って言った瞬間、『歩きづらいようなら係員を呼びます』だよ?」
「……徹底してるな」
思わず笑いそうになった。いや、笑いごとではない。ないはずなのだが、目の前で女が転び、荷物をぶちまけ、足首を押さえて目を潤ませているところへ、係員を呼ぶという選択肢を迷いなく差し出せる男は、そうそういない。善人なのか、鈍いのか、それとも警戒しているのか。あるいは、その全部か。
「で、連絡先は」
「聞ける空気じゃなかったのー。最後まで丁寧なんだけど、なーんか、壁があるんだよね」
「だから言ったろ。元警察の息子だぞ」
結果は出た。それで手を引けばよかった。
ところがヒルダという女は、諦めるということを知らない。
最初の失敗から一週間も経たないうちに、あいつは懲りもせず二度目の偶然を仕込んだ。今度は美術館ではなく、あの男が休みに立ち寄るという書店だ。わざとらしいにもほどがある、と俺は止めた。偶然は一度きりだから偶然に見えるのであって、二度重なれば、たいていの人間は作為のにおいを嗅ぎ取る。
それでもヒルダは行った。
そして今度は、どうにか押し切ってきたらしい。
「いやー、今回はがんばったよ、あたし。向こう、ぜんっぜん乗ってこないんだもん。『この前のお礼を』って言っても、『どうかお気になさらず』で終わらせようとするしさあ」
「そこまですげなくされて、よく連絡先まで持っていったな」
「そこはほら、あたしの腕ってやつ? 『どうしてもお礼がしたくて、いますぐじゃなくていいんです、後日あらためてでも』って粘って、粘って。最後はちょーっと嫌そうな顔されたけどねー」
「お前なあ」
あんなに隙のなさそうな顔をしていても、ヒルダみたいな女にぐいぐい押されれば、結局は折れる。なんだかんだ言って、男だ。おかしくて、呆れもした。善良な人間ほど、その揺れを自分の甘さだと責めるより、相手を無下にできない優しさのせいだと思い込む。ヒルダが持ち帰った連絡先は、たぶん、その優しさの隙間からこぼれてきたものだった。
そこまで来てしまえば、あとは俺の領分だ。
ヒルダに成り代わって、文面をこさえる。やわらかい言葉に、押しつけがましくない遠慮をひと匙。好意は隠しすぎず、かといって追い詰めもしない。相手に断ってもいいのだと思わせておく。そのうえで、断るにはひとこと余計に言わなければならない文面にしてやる。
『先日はほんとにありがとうございました。おかげさまで、足もすっかりよくなりました。もしご迷惑でなければ、お礼をさせてもらえませんか?』
ついでに絵文字もいくつか足しておいた。いかにも、猫を被ったヒルダといった文面だ。
できなかったお礼が心残りだったという含みを漂わせつつ、要求そのものはほんの少しだけ、と、極限まで小さくしてある。断るのが大人げなく思えるくらい、ささやかなお願い。人は、大きな頼みごとよりも、無下にするのがみみっちく見える小さな頼みごとのほうを断れない。
しばらくして、返事が来た。
『お気になさらず。お怪我がなかったなら、何よりです』
愛想というものがない。ないにもほどがある。
「堅いなあ」
「でしょー? あたしに興味ないのかな」
「興味がないなら、そもそも返事を寄越さないさ」
脈はある。切られていないなら、糸はまだ繋がっている。俺は次の一手を組んだ。今度はお礼の看板を下ろして、相手の逃げ道のほうを、そっと塞ぐ。
『お優しいんですね。でも、このままだと、わたしのほうが落ち着かなくて……こんなこと言うと、変に思われてしまうかもしれませんが。正直に言うと、もう一度だけ、あなたにお会いしたいんです。あの、お茶だけでもいいので。それでも、だめでしょうか?』
この念押しが効く。だめ押しの絵文字もまたつけておいた。サービスってやつだ。
こう書かれた相手は、断るために「だめです」と、自分の口ではっきり言葉にしなければならなくなる。人というのは、何かをするときよりも、しないと決めるときのほうに、ほんのわずか良心が痛むようにできている。その痛みのひと押しを、こちらは丁寧に用意してやるだけでいい。あとは相手が、自分で勝手に転ぶ。
返事は、やはり遅かった。
待っているあいだ、ヒルダは横からああだこうだと口を出してきたが、俺はほとんど聞いていなかった。画面の向こうの男が、いまどんな顔でこの文面を眺めているのかを想像する。警戒はしている。だが、完全には振り払わない。振り払えないのか、あえて振り払わずにいるのか。その違いは、大きい。
『短い時間でもよければ』
届いた返事に、俺は思わず、口の端を上げた。
ほんとうに俺――いや、ヒルダに気があるのかと問い質したくなるくらい、愛想がない。だが、愛想がないのと、隙がないのとは、べつの話だ。疑っている。訝しんでいる。なのに、最後の最後で、振り切らない。そういう男なのだと、俺は文面越しに見当をつけた。
待ち合わせの段取りを決めるまでに、さらに何度かやりとりを挟んだ。向こうの返事は終始そっけない。こちらの軽口には乗らず、余計な自分語りもしない。必要なことだけを、過不足なく寄越してくる。
やりにくい。
だが、やりにくい相手ほど、落ちたときの見返りは大きい。
――そう思ってしまった時点で、俺もたいがいだった。
約束の日が近づくにつれ、ヒルダからの連絡は増えた。服はどれがいいか、髪は巻くか下ろすか、初手で謝るべきか、それとも世間話から入るべきか。俺は適当にいなしながら、要所だけ詰めてやった。
相手がこちらを怪しんでいるなら、いっそ怪しませておけばいい。無理に信用させにかかるほうが、よほど不自然だ。疑われたままのほうが、相手は自分の警戒心を信じ込む。その警戒心の上に、こちらの用意した小さなほんとうをいくつか置いてやれば、それで足りる。
そうして、そろそろヒルダから首尾の一報が入ってもおかしくない時刻になった。
窓の外は、とうに暗い。俺はベッドに寝転がったまま、読みかけの業界誌を胸の上に伏せ、スマートフォンを手の中で意味もなく転がしていた。待ち合わせは午後三時。茶を一杯飲んで、礼を言って、相手の反応を探る。それだけなら、とっくに済んでいていい時間だ。
ヒルダは、失敗したときほど報告が遅い。
逆にうまくいったときは、こちらが訊く前から自慢を寄越してくる。
だから、連絡がないこと自体は、珍しくもなかった。
それでも、細い糸のような嫌な予感が、さっきから胸の奥に引っかかって取れない。
あの男の返事の短さ。最後まで縮まらなかった距離。ヒルダが二度も偶然を重ねなければならなかったこと。俺が、やめろと言った口で、文面まで組んでやったこと。ひとつひとつは道端の石ころみたいに他愛のないものが、いつの間にか靴の中に入り込んでは俺の足を傷つけている。
俺は通話履歴を開きかけて、やめた。
こちらからかけるのはまずい。ヒルダがまだ相手といるなら、邪魔になる。何かあったあとなら、なおさら不用意に動くべきじゃない。
そう自分に言い聞かせた、まさにその瞬間だった。
手の中で、スマートフォンが震えた。
ヒルダだ。
俺は跳ね起きて、通知を開いた。
『助けて』
それだけだった。
その三文字を見た瞬間、俺の身体はもう動いていた。
通話をかける。数コールで繋がったが、聞こえてきたのはヒルダの声ではなかった。いや、ヒルダの声は遠くでしている。あー、それあたしの、とか何とか、この期に及んで間の抜けたことを言っている。電話口に出たのは、低い、落ち着き払った男の声だった。
「よう。お前さんがクロードか」
背筋が冷えた。
そのひと言だけで、だいたいのことが呑み込めてしまった。ヒルダが捕まった。それも、よりによって、俺が近づくなとあれほど言った相手に。
「……どちらさんで」
「白々しいことを言うな。うちの事務所まで、ちょっと顔を出してもらえるか。道はわかるだろ。お前さんの相棒が、ずいぶん熱心に下調べしてくれたらしいからな」
通話は、それきり切れた。
ほら見たことか、という言葉が喉元まで出かかって、行き場をなくした。ぶつける相手は、もう電話の向こうにいない。俺は舌打ちひとつで上着を掴み、部屋を飛び出した。
その警護会社の事務所は、思っていたよりずっと堅気の顔をしていた。
磨かれたガラス扉に、当たり障りのない観葉植物。壁には表彰状の類まで飾ってある。まっとうであればあるほど、この奥に座っている男の始末の悪さが際立つ気がして、俺は落ち着かない気分になった。案内も請わずに奥へ進むと、応接室らしき一室に、その光景はあった。
テーブルを挟んで、ヒルダと、ひとりの男が向かい合って座っている。男は五十がらみ、体格がよく、目つきだけが妙に静かだった。元警察と聞いていた。なるほど、と思わせる座り方だ。堅気のはずの会社の応接室で、この男だけが、堅気ではない場所の温度をまとっている。
そして、その斜め後ろ。壁際の椅子に、もうひとり座っていた。
あの男だった。写真で、嫌というほど眺めた顔。式典帰りのスーツではなく、飾り気のないシャツ姿だったが、見間違えようがない。静かなあの目。それが、部屋へ飛び込んできた俺を、正面から捉えていた。
これ以上ないくらい、最悪の絵面だった。踏み込んだ先が相手の家で、逃がしたはずの魚が生簀の中でこちらを見上げている。頭の芯が、すっと冷えてゆくのがわかった。
「クロードくん! 来てくれたんだ、よかったー」
張りつめた糸を、ヒルダのその一声が、いともあっさり切りにきた。見れば、この状況で口の端にクリームがついている。テーブルの上には上品な菓子皿。ちゃっかりもてなされている。
「反省してる感じで座ってたんだけどさー、あんまり効いてないみたいで」
「……効くわけがないだろ。とりあえず口元を拭け」
ヒルダは慌てて口元を拭った。緊張と脱力が同時に来て、危うく膝から力が抜けそうになる。ひとまずは、無事でよかった。
男が低く笑った。笑いながらも、目だけは笑っていない。
「まあ座れ」
俺は座らなかった。座れば、この男の間合いに乗せられる。もっとも、立っていたところで、とっくに乗せられていることくらいわかってはいた。ここは相手の家だ。逃げ道の数から、椅子の位置から、出された茶の温度に至るまで、何もかもをこの男が決めている。
「あんたがジェラルトか」
名前は、こちらも下調べで掴んでいた。あえて口に出したのは、こちらにも手札があることをささやかに示すためだ。気休めにもならないと知りつつ。
「ほう。よく知ってるじゃねえか。じゃあ話は早い」
ジェラルトさんは、傍らに積んであった書類の束を、テーブルの真ん中へ置いた。ずいぶん厚い。体裁は、契約書だ。だが、警察に突き出すでも、金を要求するでもなく、まず紙を差し出してくる時点で、この男の狙いがただの落とし前ではないと知れた。
「警察に突き出す、って手もあった。お前ら、それだけのことはしてきてるだろうからな。だが、それじゃあ俺の得にならねえ」
得、と来たか。
俺はその厚みを見下ろしながら、腹の底で静かに身構えた。この稼業を長くやってきて、ひとつだけ、はっきりわかることがある。脅してくる人間よりも、得を語りだす人間のほうが、よほど厄介だ。脅しには限りがあるが、欲には底がない。
その紙束が何なのかは、表紙の一行で見当がついた。警護業務委託契約、身辺調査補助契約、業務補助契約——もっともらしい名目が、いくつも重ねて刷ってある。要するに、真っ当な契約書の顔をした、なんでもありの一枚だ。俺たちのような人間を、警察に渡すでも野に放つでもなく、紙の縄で縛って手元に置いておくための。堅気の書式で仕立ててあるぶん、かえって逃げ場がない。署名さえさせてしまえば、あとは全部、合法だ。
こういう書類を平然と作れる人間が、いちばん質が悪い。法の外側で人を縛るのに、法の内側の道具を使ってくる。
俺は束のいちばん上の紙を、指先で引き寄せた。
仰々しい前文のあとに、甲、乙、丙、と並んでいる。甲がこの会社。乙が、俺。そこまではいい。だが眺めているうちに、口元に貼りついていた薄笑いが、じわじわと剥がれていった。無機質な条文のひとつひとつが、やけに具体的なのだ。
「なにこれー。あたしたち、ずーっと監視されるってこと?」
数行読んだだけで、ヒルダが眉をしかめる。
「監視どころじゃない。軟禁だろ、こりゃ」
一枚めくる。乙は業務日、甲の事務所に出社し、常駐すること。ご丁寧に、丙の隣席に机を置く、とまで書いてある。
「出社して、常駐して、隣に机ときたか」
「俺は心配性なもんでな」
次。乙および丙は甲の指定する住居を主たる居住地とし、正当な理由なくこれを長時間離れてはならない。
同居、という言葉はどこにも見当たらない。見当たらないのに、行き着く先はそこしかない。
「夜間の外出も、外泊も、事前に報告……俺の外泊まで届け出制か。新婚かよ」
「お前の外泊なんざ、だいたい仕事か悪さのどっちかだろうが。まっとうに暮らしてる人間は、いちいち咎められやしねえよ」
ごもっとも。言い返す言葉もない。
読み進めるほど、条文はある一点を軸に回りだす。丙の業務補助。丙が対人交渉を学ぶための助言。丙、丙、丙。乙たる俺の生活のことごとくが、この丙という一文字に、鎖で繋がれている。
俺は顔を上げた。
「なあ。この、丙ってのは誰だ」
ジェラルトさんは答える代わりに、顎で示した。斜め後ろ、壁際の椅子に腰かけた、男のほうへ。
丙。俺の暮らしのすべてを縛りつける、その一文字の正体。よりによって、俺たちが狙っていた獲物その人だった。
俺はもう一度、条文へ目を落とす。とんずらするな。一緒に住め。よそに相手を作るな。過去に婚約や交際、縁談や家族関係を装って接触した相手とは、甲の承認なく連絡を取るな。そんなところまで、ご丁寧に盛り込んである。
「……俺を、あんたの息子と結婚でもさせる気かよ」
半分は、皮肉のつもりだった。
ジェラルトさんは、湯呑みに手を伸ばしながら、こともなげに答えた。
「まあ、そう解釈したほうが気楽なら、そう解釈してもらって構わねえ」
あんまりな返事に絶句したのは、俺ではなかった。
「……ジェラルト。待ってくれ」
それまでひと言も発しなかったあの男が、初めて口を開いた。平坦で、抑揚の薄い声だった。
「自分は、そんな話は聞いていない」
寝耳に水、といった様子だ。この男もこの男で、たったいま、自分が契約書の真ん中に据えられていることを知ったのだ。
獲物のはずが、こいつもまた、勝手に巻き込まれた側だった。
それがわかって、俺は一瞬おかしくなり、そしてすぐにやめた。笑っている場合ではない。事情を知らずに座らされているのが自分ひとりではないとわかったところで、俺の首に回された鎖が、そのぶん緩むわけではないのだから。
俺は束をめくる手を、止めなかった。止めたところで、書いてあることが消えるわけでもない。
必要が生じた際、乙は丙の近親者、またはそれに準ずる同行者として振る舞うものとする。そんな一文がしれっと紛れ込んでいた。
「近親者に準ずる同行者、ってなんだよ。言い方を濁すな」
「濁してやってるんだろうが。ありがたく思え」
「濁してるから、余計に気色が悪いんだよ」
はっきり書かれるより、ぼかされたほうが薄気味悪いということが、この世にはある。想像の余地を残されると、人はたいてい、いちばん嫌なかたちでそこを埋める。俺の手口だ。そっくりそのまま、返されている。
めくる。過去の関係者、調査対象、その他甲が指定する人物とは、無断で接触してはならない。
「交友関係まで管理される筋合いは、ないんだがな」
「交友、で済んでた相手が、お前に何人いるんだ。言ってみろ」
言えなかった。俺の交友とやらの大半は、遅かれ早かれ、仕事の相手か、獲物のどちらかだ。
そして、ページの真ん中あたりにそれはあった。
業務上、虚偽の説明、偽名、演技、あるいは誘導を用いた場合、乙はその目的と内容を、遅滞なく丙に報告すること。
俺はそこだけ二度読んだ。
「嘘をつくたびに、反省文を書けってか」
「反省しろとは書いてない。説明しろと書いてある。よく読め、小僧」
背中を、冷たいものが撫でていった。
この一行は、俺の手口を禁じていない。嘘をつくな、とも、演技をやめろ、とも書いていない。使っていい、と言っている。ただし、使ったら見せろ、と。俺のいちばんの武器は、こちらの腹を見せないまま、相手の腹を探ることだ。その武器を取り上げるのではなく、抜くたびに、丙の——あの男の目の前で、刃の裏まで晒させる。封じられるより、よほどたちが悪い。いったい誰が考えた条文なんだ、これは。俺は思わず、顔を上げる。当の本人は、湯呑みを傾けているだけだった。
「言っておくが、これはお前のためだけの契約じゃねえ」
ジェラルトさんは、そこで初めて、息子のほうへ視線を向けた。
「ベレト。お前の社会勉強のためでもある。こいつは、反面教師にはうってつけだ」
壁際の男は、相変わらず何を考えているのか読めない顔のまま、小さくうなずいたのか、うなずかなかったのか。とにかく、否定だけはしなかった。
「住むところと、食うものと、仕事にかかる金は出してやる。それで足りるだろう」
「……飼う気かよ」
「お前に現金を持たせてみろ。ろくなことに使わんに決まってる。違うか」
違わない。その自覚はあった。
そのわりに、口座を把握させろだとか、そういったことは書いていない。あえてのことだろう。ただし、派手に使えば目をつけられる。そこまで想像できた自分に、うんざりした。
それから。丙の身辺に危険、接触、脅迫の類が生じた場合、乙は時間帯を問わずこれに対応すること。その条項には、ひとまず軽く目を通しただけで、先へ進んだ。
残りは、あと二条。
契約の解除には、甲、および丙、双方の承認を要する。
さすがにめまいがした。
「解除に、俺の意思は要らないのか」
「要らねえよ。お前の意思ってやつは、契約するときに使え。それで使い納めだ」
そして、最後の一条で、俺は息を呑んだ。
本契約の終了条件は、乙の行動状況、丙の習熟度、その他甲が必要と認める事情により、随時これを見直すことがある。
「終わる条件まで、後出しかよ」
「終われるように、しっかり動け。それだけの話だろうが」
俺は束をそっとテーブルへ戻した。
抜け道を見つけるのが、俺の仕事だ。どんな契約にも、どんな約束にも、必ず一箇所、指をこじ入れられる隙間がある。それを探し当てて、押し広げて、するりと通り抜ける。それが、俺のやってきたことのすべてだった。だがこの契約書にはそれがない。終わる条件そのものが、この男の気分ひとつで動く。ゴールの位置を、走っている最中に、いくらでも動かせるようにしてある。ここまで来ると、抜け道という考え方そのものが、意味をなさなくなる。
腹が立つほど、よく出来ていた。
「さて」
ジェラルトさんは空になった湯呑みを置くと、束の上に手のひらを重ねた。
「読んだな。読んだうえで、まだ席を立ってないってことは、話くらいは聞く気があるってことでいいな」
「立ったら、その足がどうにかされそうな空気なんでね」
「賢いじゃねえか」
ジェラルトさんは薄く笑って、それから、ふと思い出したように付け足した。
「言っておくが、いま読ませたその紙な。乙のところは、べつにお前と決まってたわけじゃねえ。嬢ちゃんの名前を入れたって、ちゃんと成り立つように書いてある」
言われて、もう一度、条文を頭の中でなぞる。たしかにそうだ。乙という一文字には、まだ誰の名も入っていない。この重たい鎖を嵌められるのは、俺でも、ヒルダでも、どちらでもいい。そういう作りにわざとしてある。
「えっ、あたし? あたしなの?」
ヒルダが心底嫌そうな声を上げて、身を仰け反らせた。名指しされたわけでもないのに、もう逃げ腰になっている。順当に考えればそうだ。ベレトに近づいたのはヒルダ。しくじったのも、ヒルダ。
だが。
俺は、テーブルの向こうの男から目を逸らさなかった。
「……なあ、ジェラルトさんよ。そんな回りくどい紙をわざわざ用意しといて、ほんとに縛りたいのがヒルダだなんて、そんなわけないよな」
「ほう。どうしてそう思う」
「ヒルダを手元に置いたって、あんたにはたいした得はない。あんたらがほんとうに飼っておきたいのは、こいつの後ろであれこれ指示を出してた、俺のほうだろ」
言ってから、しまった、とわずかに思った。自分から手を挙げたようなものだ。しかし遅かれ早かれ、この男はそこへ話を持ってゆく。だったら、追い詰められてうなずかされるより、こちらから言ってやったほうがまだ格好がつく。せめてもの、意地ってやつだ。
ジェラルトさんは、いかにも満足げに、目を細めた。
「よくわかってるじゃねえか、小僧」
それで、決まった。
乙の欄に入るのは、俺だ。
「うちの息子はな」
ジェラルトさんは、壁際のベレトのほうへ視線をやった。
「見ての通り、腕は立つ。そこらのごろつき相手なら、後れを取ることはまずねえ。だが、こと駆け引きだの、腹の探り合いだのになると、まるで駄目だ。世辞ひとつ言えねえ。嘘ひとつ、まともにつけやしねえ。この先この会社を継ぐってのに、いいように足元を見られて、大損をこいたことも一度や二度じゃねえ」
「ジェラルト」
ベレトが咎めるような声を出したが、父親は意に介さない。
「事実だろうが。……で、そこでだ、小僧。お前の出番ってわけさ。人を乗せる、丸め込む、腹を探る。お前のそのうさんくさい芸を、こいつの隣で、たっぷり見せてやれ」
「それを、俺にタダ働きでやらせようってのか。ずいぶんな注文だな」
「タダとは言ってねえ。手当は出すと言ったろ」
「手当、ね。餌代の間違いだろ」
俺は鼻で笑ってやった。売り言葉に買い言葉を返すくらいの余裕は、まだ残しておきたかった。
「だいたい、あんたの息子が交渉下手なのは、あんたの育て方の問題だろ。それを、通りすがりの詐欺師に尻拭いさせようってのか」
「そうさなあ」
ジェラルトさんは少しも動じなかった。むしろ、待っていたとでも言うように、ゆったりとうなずいた。
「俺の育て方が悪かったばっかりに、こいつはお前らみたいなガキに目をつけられた。その始末を、目をつけたお前自身につけさせる。筋は通ってるだろ」
「屁理屈だ」
「屁理屈で飯が食えるのは、俺よりお前のほうがよっぽど詳しいはずだがな」
ぐうの音も出ない、とはこういうことを言うのだろう。
この人は、こちらが何を言い返しても、必ず一枚上から手のひらに乗せてくる。刺せば刺すほど、こちらの間合いを読まれ、こちらの得物の重さまで量られていく。詐欺師相手に、詐欺師以上の顔で座っていられる人間を、俺は初めて見た。
「だからって、詐欺師に頼るなよ。まともな職の女でも探して、そいつに面倒を見させりゃいいだろ」
最後の悪あがきに、俺はそう言った。
「まともな奴じゃ、社会勉強にならねえんだよ」
即答だった。
俺は天井を仰ぎたくなるのを、どうにか堪えた。騙されるほうが悪い、という理屈で、俺はこれまでずいぶん多くの人間を煙に巻いてきた。しかしその理屈は、こういう場面ではまるで役に立たない。俺はいま、まさしくまんまと嵌められた。しかも嵌めた当人が、それを隠しもせず、堂々と得を数えているのだ。
「……好きにしろよ」
俺は、投げ出すように言った。
こうして、俺の署名ひとつで、俺の当分の暮らしは、この男の胸三寸に預けられた。
鍵は、その場で渡された。
ジェラルトさんが放って寄越した、素っ気ない金属の感触。聞けば、事務所からほど近い部屋を、すでに借りてあるのだという。必要なものはひと通り揃えてある、とも。用意のよさが、いっそ腹立たしい。俺がどう転ぶかなど、この男の中では、とうに決着がついていたわけだ。
「今日から、そこがお前の家だ。ホテルは引き払え」
「気の早いことで」
その鍵を、俺は宙で受け止めた。手のひらの中で、思っていたより、ずしりと重かった。
立ち上がりかけて、俺は、ずっと妙な静けさを保っている壁際の男のことを思い出した。
ベレト。丙。俺がこれから、暮らしごと縛りつけられる相手。
あいつは、この一部始終を、ただ黙って見ていた。父親に食ってかかるでもなく、俺を非難するでもなく。ただ、眉ひとつ動かさず、成り行きを眺めていた。何を考えているのか、まるで読めない。読ませてくれない、と言うべきか。
人の腹を読むのは、俺の得意分野のはずだった。それなのに、この男の腹だけはどうにも読み切れない。
——嫌な予感が、した。
この静かな男と、ひとつ屋根の下で暮らす。その絵を思い浮かべた瞬間、俺は、いま署名したばかりの契約書の重さを、初めてほんとうの意味で理解した気がした。
そして、この期に及んで、すっかり自分は蚊帳の外だと決め込んでいた女がいた。
「じゃっ、あたしはこの辺でー」
そろりと腰を浮かせたヒルダめがけて、ジェラルトさんの声が飛ぶ。
「おっと、嬢ちゃん」
ぴたりと、ヒルダの動きが止まった。
男は、束の下から、もう一枚、べつの紙を引き抜いた。
「お前さんにも、働いてもらうぜ。ほれ、雇用契約と、更生プログラムだ。中身は読まなくていいから、とにかく署名しな」
同居は、その週のうちに始まった。
ホテルの部屋を引き払うのに、大した手間はかからなかった。もともと根を下ろす気のない暮らしだ。スーツケース二つと、本の詰まった段ボールがいくつか。それが、俺という人間の総量だった。過去の稼業に使う道具のたぐいは、大半をトランクルームへ移した。服だの、名刺だの、台本だの——べつの顔を作るための一式を、ベレトの前に迂闊に広げていいものではない。もっとも、根が無精なもので、当座のこまごました紙の山だけは、面倒がって、そのまま段ボールに突っ込んで持ってきた。
ジェラルトさんが借りたという部屋は、事務所から歩いて数分の、なんの変哲もない二LDKだった。必要なものはひと通り揃えてある、という言葉に嘘はなく、鍋も、皿も、洗剤の一本に至るまで、几帳面に用意されていた。用意のよさが、やはり気に食わない。俺が抵抗する余地を、あらかじめ全部、潰してある。
ベレトのほうは、それまで父親の家から通っていたらしく、荷物は俺より幾らか多かった。とはいえ、こちらも生活のにおいの薄い荷物だ。同じ日に、同じ玄関から、赤の他人がふたり、押し込まれるように引っ越してきた。新婚どころの騒ぎではない。前科者と、その監視役の同居だ。
問題は、初日の夜から始まった。
俺は、長年ホテル暮らしだった。裏を返せば、生活というものを、まともに自分の手でやったことがない。食事は運ばれてくるもので、掃除は誰かがしてくれるもので、洗濯物は出せば戻ってくるもの。そういう世界で生きてきた人間が、いきなり二LDKに放り込まれて、うまくいくはずがなかった。
まず、俺が皿を割った。
夕食のあと、洗い物くらいはしておこうと殊勝な気を起こしたのが、間違いだった。がしゃん、といい音がして、真っ二つになった皿を見下ろしていると、リビングのほうからベレトがのそりと顔を出した。
「割ったのか」
「割れたんだよ。人聞きの悪い」
ベレトは俺の手元と、床の破片を、順に無言で見比べた。それから、俺を押しのけるようにして、黙々と片づけ始めた。世話を焼かれている、というより、危なっかしくて見ていられない、という手つきだった。
「……自分でやるって」
「君がやると、破片が増える」
言い返せなかった。事実、俺の手には、いつのまにか小さな切り傷ができていた。
参ったのは、皿でも、洗い物でもなかった。
夜、眠れないのだ。
考えてみれば、当たり前の話だった。ホテル暮らしが長かったとはいえ、あの部屋には、少なくとも、俺以外の人間の気配はなかった。壁一枚隔てた向こうに、赤の他人が息をして寝ている——その事実ひとつが、俺の眠りを、根こそぎ浅くした。
商売柄、俺は、他人の気配に敏感すぎるほど敏感に出来ている。誰がどこで身じろぎしたか、いつ寝返りを打ったか、そういうものを寝ながら勘定してしまう。同じ屋根の下に、まるで底の読めない男がひとり。その男が、いつ、どんな顔で自分の部屋の前を通るかわからない。そう思うだけで、意識の芯が、いつまでも冴えていた。
三日も経つと、鏡の中の俺の目の下には、みっともない隈が刻まれていた。
もっとも、消耗しているのは、俺だけではないらしかった。
ある朝、リビングに出ていくと、ベレトが、ダイニングの椅子に浅く腰かけて、ぼんやりと宙を睨んでいた。俺の物音に気づいても、すぐには振り向かない。反応がわずかに遅い。この男もこの男で眠れていないのだと、それでどうにか察しがついた。
「あんたも、眠れないくちか」
訊くと、ベレトはしばらく黙ってから、短く答えた。
「……知らない人間が家にいると、気が張る」
「奇遇だな。俺もだ」
妙な話だった。互いを、互いの安眠を妨げる異物だと思っている人間が、朝っぱらから同じテーブルで、同じ寝不足の顔を突き合わせている。歩み寄りでも何でもない。ただ、同じ理由で、同じだけ疲れている、というだけのことだ。
消耗した神経は、些細なことで、盛大に火花を散らす。
最初の戦場は、冷蔵庫だった。
俺は、引っ越してすぐ、缶の酒を箱で買い込んで、冷蔵庫の下段に隙間なく詰めた。眠れない夜は飲むに限る。ところが翌日、帰ってみると、その酒が、無言で上段の隅へ追いやられ、空いた下段には、大量の食材が、整然と積み上げられていた。肉、野菜、卵。まるで、これから一週間籠城でもするような分量だ。
「おい。俺の酒はどこへ行った」
「上に寄せた。場所を取りすぎだ」
「これじゃ、飲み物を冷やす隙間もないだろうが」
「お酒は飲み物に入らない」
言い草がいちいち癪に障る。だが癪に障るわりに、その晩、その食材で作られた飯が食卓に並ぶと、俺は文句を引っ込めるほかなかった。籠城用の食材は、こいつがちゃんと食うために買ったものだったらしい。しかも、自分の腹を満たすついでのように、俺のぶんまで当然の顔で並んでいる。
餌付け、という言葉が頭をよぎった。放っておけば酒しか胃に入れない監視対象が、勝手に倒れて仕事に穴を空けたら面倒だとか、大方、そんなところだろう。世話とも思っていない手つきだ。ならばこちらも、礼を言う筋ではない。俺は俺で、出されたものを黙って食う側に回ればいい。
厨房に立てば、俺だって、人並みのものくらいは作れる。作れるが、いまはその気が起きなかった。管理されるのが癪なら、餌をひっくり返してやればいいものを、その考えはなぜか頭の隅にすら浮かばなかった。
ちなみに、この冷蔵庫を巡る綱引きは、その後もしばらく続いた。俺が酒を増やせば、ベレトが食材で押し返し、俺が飲み物を足せば、また隅へ追いやられる。ふたりぶんの意地が、庫内の限られた冷気を、無言で奪い合っていた。
洗濯機の前では、べつの小競り合いが起きた。
俺は脱いだものを、そのままかごに放り込む癖がある。靴下も、シャツも、脱いだかたちのまま。ホテルなら、それで何の問題もなかった。出せば、きちんと表を返して、畳んで戻ってくる。
だが、この家にはそんな親切な誰かはいない。いるのは、甘やかすということを一切しない男だけだ。
数日後、乾いた洗濯物を取り込んで、俺は眉をひそめた。俺の靴下が、裏返しのまま律儀に干され、裏返しのまま乾いていた。シャツも同様だ。ご丁寧に、裏返しのまま、皺だけは伸ばしてある。
「なあ。これ、わざとか」
台所にいるベレトに、乾いた靴下を掲げてみせる。ベレトは、こちらを一瞥して、こともなげに言った。
「裏返しで出したのは君だ。裏返しで干した。それだけだ」
「普通、表に返してくれるもんだろ」
「なぜ自分がそこまでする必要がある」
ぐうの音も出ない、というやつを、俺はこの家で日に何度も味わわされている。
世話を焼かないわけではない。皿の破片は片づけるし、飯も作る。だが、こちらの横着まで拾ってはくれない。手を出すところと、突き放すところの線が、この男の中には、きっちり引かれている。その線の引き方が、どうにも、気に入らない。——気に入らないのに、なぜか、嫌いになりきれもしないのだから、始末に負えなかった。
もうひとつ、忘れがたい一件がある。
俺の服が、一枚、駄目になった。
持ち込んだ数少ない私物の中に、一着だけ、それなりに値の張るニットがあった。過去の稼業で、ちょっとした顔を作るのに使っていたものだ。上等な生地は、それを着るだけで、着る人間の格を、実際よりふたつみっつ、底上げしてくれる。道具として、俺はその手のものの価値をよく知っている。
それが、洗濯機から出てきたとき、ひと回り縮んで、袖のかたちも歪んでいた。
犯人は、考えるまでもない。
「なあ。これ、あんたが洗ったのか」
畳んだ洗濯物の山から、その変わり果てたニットを引き抜いて、俺はベレトの前に突きつけた。ベレトは、それを一瞥して、めずらしく、ほんのわずか、決まりの悪そうな顔をした。
「……ほかのものと、一緒に回した」
「これは、そういう洗い方をしていい代物じゃないんだよ。いくらしたと思ってる」
「値段はわからない。……すまなかった、ちゃんと確認しなかった自分が悪い。新しいものを買おう」
あっさりと、非を認めてきた。
その素直さが、逆に、俺の毒気を抜いた。
ほんとうなら、ここは、俺の得意な場面のはずだった。相手が明確に非を認めて、負い目を抱えている。この状況を、俺はこれまで、何度、金や、言い分や、立場に換えてきたかわからない。相手の負い目は、こちらの取り分だ。弁償で済ませず、貸しにして、じわじわと使う。それが、俺のやり方だった。
弁償はいらない、と言ってやって、その代わり、この一件をこれから先の同居で、ちくちくと引き合いに出す手もあった。俺のほうが立場は下のはずのこの家で、ひとつ、こちらが握れる材料になる。
けれど。
縮んだニットを手の中で弄びながら、俺は、その考えを、途中で放り出した。
みみっちい、と思ったのだ。
たかが、服一枚だ。それを弱みに、この不愛想な男の首根っこを、じわじわ押さえて悦に入る——そんな、しみったれた優位に、いったい何の値打ちがある。
俺がこれまで扱ってきた獲物は、もっと大きかった。なのに、たかが縮んだニット一枚で、同居人相手にせこい貸しを作ったところでいったい何になる。
「弁償、しなくていい」
俺は、ニットを洗濯物の山へ投げ戻した。
「その代わり、次からは、俺のものは俺が洗う。あんたのものとは一緒にしない。それでいいだろ」
ベレトは意外そうに、こちらを見た。何か言われると身構えていた、という顔だ。俺が、この負い目をせせこましく使ってくると、この男なりに読んでいたのかもしれない。読みが外れて、据わりの悪そうな顔をしている。
「……わかった」
それだけ言って、ベレトは台所へ戻っていった。
安い貸しを、ひとつ見送った。
なに、けちなプライドだ。この程度の矜持は、まだ、捨てずに持っていたかっただけの話だ。
服の一件があってから、俺は俺なりに、少しばかり生活を改めることにした。
こちらにも意地がある。裏返しのまま出して、また何か言われるのも癪だ。だったら、出すときに、自分で表へ返しておけばいい。それだけの話だ。
それだけの話のはずが、これが、思いのほか身につかなかった。
脱いだ靴下を、いちいち表に返す。裏返ったシャツの袖を、もとに戻す。慣れた人間には造作もないその手間が、俺にはどうにも億劫で、根気が続かない。最初の二、三日は、几帳面に返した。四日目には、片方だけ忘れた。一週間もすると、俺の手は、また元の横着に戻っていた。脱いだものを、脱げた形のまま、かごへ放る。長年の癖というやつは、意地程度ではそう簡単に矯正できないものらしい。
ベレトはそんな俺のなりゆきを、いちいち咎めもしなかった。
ただ、洗濯機を回すとき、かごの中身を検分するようになった。表になっているものは、まとめて洗う。俺のものだろうと区別はしない。水道代も、電気代も、ふたりぶんを別々に回すより、一度で済ませたほうが安い。大方、そういう勘定なのだろう。分けて洗う、という俺の宣言は、この男の実務的な合理の前に、なし崩しに立ち消えていた。
その代わり、裏返しのものだけは洗われずに残された。
乾いた洗濯物の山の脇に、俺が裏返しのまま放り込んだ靴下が、ぽつんとかごの底に取り残されている。ある朝、それを見つけて、俺はベレトを振り返った。
「まだ残ってるぞ」
「裏返しのものは洗わない」
ベレトは、こともなげに言った。
「そのまま置いておく。表にして出せば、次のときに一緒に洗う。それだけのことだ」
理屈は通っている。ひっくり返せるものではないということも、頭では理解している。
俺はかごの中をしばらく眺めた。表に返すのは、五秒で済む。その五秒から、俺は逃げてきた。その結果が、この、洗われずに取り残された片割れだ。自業自得、という四文字が、これほど間の抜けたかたちで目の前に転がっている。
「……この靴下のためだけに、いまから洗濯機を占領するからな」
負け惜しみに、俺はそう零した。
「構わない」
ベレトは振り向きもせずに、そう返した。可愛げなんて微塵もない。
住む場所以外にもうひとつ、環境が変わったものがある。仕事場だ。
といっても、これまた選んだのは俺ではない。契約書の一行が、勝手に決めていた。乙は業務日、甲の事務所に出社し、常駐すること。逃げも隠れもできない、あの条項だ。
与えられた肩書きは、コンサルタント、というものだった。
立派なものだ。名刺の肩書きだけ見れば、どこぞの切れ者に見えなくもない。実態はといえば、ベレトの隣に机をひとつあてがわれて、彼のやることに、横から口を出す係。それ以上でも以下でもない。要するに、体のいいお守り役だ。
机の位置も、契約書の指示どおりだった。ベレトのすぐ隣。そして顔を上げれば、ガラスで仕切られたジェラルトさんの執務室が真正面に見える。あの人は自分の机に座ったまま、こちらの様子をいつでも眺めていられるという寸法だ。
「見張りやすい席で、けっこうなことだな」
初日、俺が嫌味半分にそう言うと、ガラスの向こうのジェラルトさんは、書類から目も上げずに、片手をひらりと振ってみせた。聞こえていて、聞き流している。ずいぶんと余裕なことだ。
俺は最初、もっと物々しい場所を想像していた。だが、実際に腰を据えてみると、この会社の仕事の大半は、腕っぷしとは縁遠いものだった。
誰かの身辺を、そっと洗う。揉め事の裏を取る。企業が抱えた厄介の、火の元を先に見つけて消す。人を守るために、人を調べる。そういう、地味で、しんねりとした仕事が、次から次へと持ち込まれてくる。
なるほど、と俺は思った。
守るために調べて、見抜いて、相手の腹を読む。——それは、看板だけ掛け替えれば、俺がこれまでやってきたことと、そっくり同じかたちをしていた。人を落とすために使ってきた勘を、人を守るために使う。やっていることの中身は、驚くほど変わらない。ジェラルトさんが、俺を「使える」と踏んだ理由が、この席に座ってみて、ようやく腑に落ちた。癪なことに。
その事務所に、もうひとり、見慣れた顔が転がり込んでいた。
ヒルダである。
二枚目の紙にまんまと署名させられたあの女は、事務員として、ちゃっかりこの会社に収まっていた。更生プログラム、という名の飼い殺しだ。しかし俺ほど生活を縛られてはいないぶん、当人はわりあい気楽なもので、初日から、給湯室と菓子の置いてある場所を、真っ先に把握していた。
「ねえ、クロードくん。あたし、おやつ休憩あるんだよー」
出社してきた俺に、ヒルダはいかにも勝ち誇った顔で、そう言ってのけた。捕まって、縛られて、こき使われる側に落ちたはずの女が、なぜか俺よりよほど暮らしを満喫している。この順応の早さだけは、昔から素直に大したものだと思う。
だが、ただの能天気な奴だと侮ってはいけない。
ヒルダには、生まれつきの愛嬌がある。裏も表もなさそうに見える、あの人懐こい笑顔。あれを向けられると、男も女も、老いも若きも、なぜか警戒の糸をふっと緩めてしまう。害のなさそうな相手には、人は気安く口を開く。この子になら話しても、と。そう思わせた時点で、あいつの勝ちなのだ。
おまけに褒めるのがうまい。相手が言ってほしい言葉を、的確に見つけて与えてやる。おだてられて悪い気のする人間はそういない。気をよくした相手は、こちらが訊くより先に、進んで胸の内を差し出してくる。
俺のように搦め手でやり込めようとする汚さがないぶん、得られる情報の質も違う。
このコンビで、俺たちは長いこと、危ない橋を渡ってきた。
いま、その同じ手管を、看板を掛け替えた場所で、堂々と使っている。おかしなものだ。ついこないだ、うさんくさいと言われた芸が、いまは「業務」と呼ばれている。中身は何ひとつ、変わっていないというのに。
俺が事務所に出るようになって、ほどなく。初めてまともに任される案件が回ってきた。
依頼人は四十がらみの、身なりのいい男だった。応接室の椅子に浅く腰かけ、しきりにハンカチで額を押さえている。曰く、このところ正体の知れない相手につきまとわれている。会社の前で見かける。自宅の近くをうろつく気配がある。警察に相談したが、実害がないうちは動けないと取り合ってもらえなかった。だからうちへ来た——と、男はよどみなく語った。
なるほど、ストーカー被害というわけだ。
俺はベレトの隣で、黙って男の話を聞いていた。聞きながら、腹の底ではまるでべつのことを考えていた。
この男は嘘をついている。
いや、正確には違う。語っていること自体はたぶんほんとうだ。つきまとわれているのも、警察に相手にされなかったのも事実だろう。汗も震えも芝居には見えない。だがそのほんとうの話の中に、この男はいちばん肝心なひとつだけをそっと溶かし込んで隠している。なぜ自分がつけ狙われているのか。その理由の心当たりを、こいつは間違いなく知っている。知っていて、言わない。
俺にはわかるのだ。
嘘の中に真実を混ぜるのは俺の得意技だ。裏を返せば、真実の中に都合の悪い一点だけを黙って伏せる手口を、俺は誰よりもよく見知っている。同じ穴の狢のにおいは隠しようがない。
「災難でしたね」
俺はいかにも同情するふうに口を開いた。
「実害が出てからじゃないと動かない。警察ってのはどこもそういうもんです。あんたが不安になるのも無理はない」
男は我が意を得たりとばかりにうなずいた。まずは味方だと思わせる。そこからだ。
「それで、心当たりは?」
「……いえ。まるでないんです。だから気味が悪くて」
来た。そこだ。
あまりに滑らかに、迷いなく「ない」と言い切った。ほんとうに心当たりのない人間はこうは言わない。あれこれ記憶を探って、口ごもって、それでも思い当たらずに困った顔をするものだ。即答の「ない」は、たいてい、探すまでもなく答えを握っている人間の返事だ。
俺は追い詰めなかった。
追い詰めれば、この手の男は貝になる。そうではなく、逃げ道をわざと一本開けてやる。開いていると思わせて、その実こちらの手のひらの上に続いている道を。
「言いたくないなら、それでいい」
俺は軽い調子で言った。
「こっちも無理に聞き出すつもりはない。聞かなかったことにもできる。……ただ、守るほうも、何から守ればいいのかわからないと守りようがないんですよ。あんたが伏せたその一点で、この先こっちが後手に回って、いちばん困るのはあんただ」
男の動きが止まった。
俺はそこに、もうひと押し、重さの違う言葉を置く。
「それに、俺みたいな仕事をしてるとね、人に言えないことのひとつやふたつ、誰にでもあるってことくらいよく知ってるんです。だからあんたが何を抱えててもいまさら驚きゃしない。ここで話すぶんには、警察に持っていかれる心配もない。——黙ってるのは構わない。けど、黙ってるぶんだけこっちも好きに解釈する。それでいいなら、どうぞ」
沈黙が落ちた。
男はハンカチを握りしめたまま、しばらく俯いていた。それから観念したように、ぽつり、ぽつりと話し始めた。つきまとっているのは、たぶん身内だ。相続を巡ってこじれている。表沙汰にすれば自分にも後ろ暗いところがある。だから警察にも、家族の恥だとは言えなかった。
真実は、俺が最初に嗅ぎ当てた通りの場所に埋まっていた。
男が帰ったあと、応接室には俺とベレトだけが残された。
ベレトはしばらく、閉じたドアのほうを見ていた。それからぽつりと言った。
「君は途中から、あの人が嘘をついているとわかっていたな」
「お、鋭いね。わかるのか」
「なんとなく、だ。君の話し方が途中で変わったから」
ほう、と思った。
この男は、俺が何か仕掛けたことには気づいている。声の調子か、言葉の選び方か、どこかで俺のやり方が切り替わったのを勘で捉えている。そこまでは悪くない目だ。
「じゃあ、俺があのおっさんから何を、どうやって引き出したかもわかったか」
訊いてみると、ベレトはしばらく黙った。
「……いや。そこまではわからない」
正直な男だ。
嘘のにおいは嗅ぎ当てる。だがその嘘が、どこを狙って何を釣り上げるための嘘なのか——手口の形までは、まだ読めない。だからこいつは俺を責めなかった。責めようがなかったのだ。何が起きたのかわからないものを、人は咎めようがない。
黙って見ている。わからないなりに、じっと見ている。
俺のやることを、疑うでも感心するでもなく、ただ覚えようとするように見てくる。それが、どうにも居心地が悪かった。
厄介な生徒を持ったものだ、と俺は思った。
同居の暮らしにも、どうにか折り合いがついてきた。
もっとも、俺の荷解きのほうは、一向に進んでいない。
持ち込んだ段ボールが、部屋の隅にいくつも積まれたままになっている。中身は雑多だ。本、資料、着替え、それから自分でもいつ突っ込んだか覚えていない、こまごまとした紙の束。急いで詰めたぶん、どの箱に何が入っているのか、俺自身もう正確には把握していない。見られて困るものはあらかたべつのところへ移してある。だから残りは野放しだ。開けるのが面倒で、俺は何日もそれを放置していた。
ある晩、その山を見咎めたベレトが、ぽつりと言った。
「その箱、いつまで置いておくんだ」
「そのうち片づける」
「そのうち、はいつだ」
「……近いうち」
ベレトは、それ以上は言わなかった。だが、俺が起きてくると、俺の部屋の入り口に立って、じっと段ボールの山を睨んでいた。無言の圧、というやつだ。
根負けして、俺はしぶしぶ荷解きに取りかかった。
「箱は潰して玄関の近くにまとめておいてくれ。あとで捨てる」
言われたとおり、中身を引っぱり出し、空になった箱を潰す。ひと仕事終えた気になって、俺は額の汗を拭った。ところが、だ。
床の上には、箱から出したばかりの中身が、これまた雑然と、山になって散らばっている。本、資料、服。行き場のないそれらを、俺は床に積んだまま眺めていた。
「……箱は片づけたぞ」
「箱を潰しただけだろう。中身がそのまま床に移っただけだ」
「移動はした」
「片づけ、とは言わない」
こいつは実に淡々と、正論を突きつけてくる。
箱を捨てろと言うから捨てた。そうしたら今度は、中身を片づけろと来る。ひとつ言うことを聞くたびに、次の宿題が湧いてくる。まるで終わらない。俺は、げんなりした。人を乗せて働かせるのは俺の商売のはずなのに、この家では、俺のほうが、この不愛想な男に、いいように働かされている。
もっとも、この家での時間が諍いばかりだったわけでもない。
ある休みの日、俺はテレビで古い映画をなんとなく流していた。
あらすじを追う気もない。ソファに沈んで、缶の酒を片手に、ただ、ぼんやりと画面を眺めているだけだ。こういう、なんでもない時間の潰し方を、俺はホテル暮らしのころから、嫌いではなかった。
ふと、視線の端に、動くものがあった。
ベレトだ。
台所での用を済ませたあとリビングを横切ろうとして、ふと足を止めている。そのまま、リビングの壁際に寄りかかって、テレビのほうを見ていた。俺の隣に来るでも、映画に文句を言うでもない。ただ、遠くから、同じ画面を観るともなく観ている。
俺はそれに気づいて、けれど、何も言わなかった。
こっちへ来て座れ、とも、邪魔だからどけ、とも言わない。言えば何かが崩れる気がした。だから、気づかないふりをして、映画に目を戻した。ベレトも、何も言わなかった。
同じ部屋で、ソファと壁際に分かれて、同じものを観ている。
それだけの、なんでもない時間だった。会話もない。歩み寄りと呼べるほどの、たいそうなものでもない。
映画が終わるころには、ベレトはいつの間にかいなくなっていた。
そういえば、とあるとき気がついた。
このごろ、よく眠れている。
同居を始めたばかりのころ、俺はまるで眠れなかった。壁一枚向こうの他人の気配が気になって、意識の芯が、いつまでも冴えていた。あのみっともない目の下の隈は、もう消えている。
いつから、と考えてもはっきりしない。境目はなかった。
知らないあいだに、この家の物音に俺の身体が慣れていた。ベレトが立てる、几帳面な生活の音。決まった時間の、決まった気配。それが、いつしか、警戒すべき異物ではなくなっていた。むしろ、その規則正しさが、どこか、耳に馴染んでいる。
他人の気配で眠れなくなった人間が、同じ他人の気配で眠れるようになっている。人間、慣れるもんなんだな、と思った。
その晩は、会社の付き合いで、飲みの席があった。
接待、というほど大仰なものではない。取引先と、事務所の面々とで、酒を酌み交わす。その程度の、ゆるい集まりだ。
俺は酒の席そのものは、嫌いではない。むしろ好きなほうだ。ただ、それが仕事絡みとなると、話は変わってくる。楽しむための酒ではなく、値踏みするための酒。誰が何を欲しがっているか、どこに探りを入れれば実りがあるか。杯を重ねながら、頭の隅は、いつも素面でいなければならない。それが面倒だった。
もっとも、俺の面倒ぐらいは可愛いものだった。
隣を見れば、ベレトがそれはもう、あからさまに浮かない顔で座っている。取引先に酌をされても、生真面目に頭を下げるばかりで、会話がまるで転がらない。放っておけばこの男の周りだけ、座敷にぽっかりと真空地帯が出来上がりそうだった。
仕方がない。
俺はグラスを置いて、ベレトのほうへ軽く顔を寄せた。
「まあ、見とけよ」
自信のほどを隠しもせずに、そう囁いてやる。
あとは、造作もないことだった。
酒の席というのは、一種の舞台だ。誰が主役になりたがっているか、誰が話を聞いてほしがっているか。座敷を見渡せば、それくらいはひと目でわかる。俺は、しゃべりたそうにしている取引先の年配に水を向け、その自慢話に、頃合いよくあいづちを打った。すると場が温まる。温まったところで、さりげなく話の水路をこちらの知りたい方角へそっと開いてやる。
場が沸く。笑いが起きる。誰もが、いい気分で喋っている。そしてその上機嫌のなかで、俺の欲しかった話がぽろぽろと、勝手にこぼれ落ちてくる。取引先の内情も、事務所の面々の本音も。誰も、探られているとは気づかない。ただ、楽しい酒だと思っている。
我ながら、鮮やかなものだ。
ベレトはその一部始終を、隣で黙って見ていた。何を考えているのかは、相変わらず読めない。だが、俺の手元から目を離さず、ひとつひとつ追っているのはわかった。覚えようとしている。——ほらな、と俺は、心のなかで、得意になった。
問題は、ここからだった。
場を回すのに気をよくして、俺は少しばかり飲みすぎた。
いや、少しばかり、ではない。頭の隅を素面に保つ、という肝心の掟を、いつの間にかすっかり忘れていた。座を楽しませているうちに、自分がいちばんいい気分になっていた。気づいたときにはもう、視界がぐらぐらと揺れていた。
そこから先の記憶は切れ切れだ。
誰かに肩を借りて、店を出た。夜風が、やけに冷たかった。その肩が思いのほかしっかりしていて、頑丈だったことは、なんとなく覚えている。ベレトだ。俺はあいつにだらしなく体重を預けて、道を歩いていた。何度か悪態をつかれた気もするが、内容は覚えていない。
家に着いて、玄関で靴を脱ごうとして——そこで、俺の意識は、ぷつりと途切れた。
次に目を開けたとき、俺は自分のベッドの上にいた。
最悪の目覚めだった。汗でシャツが背中に貼りつき、口の中は酒のにおいでいっぱいだ。身体の節々が、鈍く痛む。
変だ、と思った。俺の記憶は玄関で途切れている。靴も脱ぎきらないうちに、意識を手放した。それなのに、いまはちゃんとベッドの上にいる。
のろのろと身を起こして、部屋を見回す。壁のフックに、俺の上着がきちんと掛かっていた。
あれはない、と思った。べろべろの俺が上着をハンガーへ掛けるなんて、あり得ない。よくて、椅子。悪けりゃ床だ。なのにあの位置にああやって掛ける人間を、俺はこの家にひとりしか知らない。
毛布は、足に辛うじて引っかかっている程度だった。掛けられたものを、寝相で蹴り飛ばしたのだろう。そこは、いかにも俺らしい。だが、掛けたのは俺ではない。
玄関で潰れた俺を、あいつがここまで運んで、上着を掛け、毛布を掛けて、出ていった。そういうことになる。
礼を言うのも癪だった。頼んだ覚えはない。勝手に運んで、勝手に掛けていっただけだ。そう自分に言い聞かせて、痛む身体を引き剥がそうとして——気がついた。
マットレスが、やたらとずれている。何か重いものを、勢いよく放り込みでもしたようなずれ方だ。
節々が痛む理由も、それで知れた。運ぶ、なんて手ぬるいものじゃない。この男は玄関で潰れた俺を引きずってきて、最後はベッドめがけて放り投げたのだ。
シャワーを浴びてから、紅茶を啜るベレトに、俺は恨みがましく言ってやった。
「なあ。ゆうべ、俺のこと投げただろ」
ベレトは、カップから顔も上げずに答えた。
「投げてない」
嘘だ、と思った。あのマットレスのずれ方も、この身体の痛みも、そんな生易しいものじゃない。
けれど、俺はそれ以上は言わなかった。追及すれば、玄関から運ばれたことも、上着のことも話に上る。そうなれば、こちらも礼のひとつくらい口にする羽目になる。投げられた文句と、運ばれた礼。天秤にかけて、どちらも飲み込むことにした。
貸し借りは、なし。それで、ちょうどいい。
手口というものは、いつでも効くわけではない。
その日、俺は、それを思い出す羽目になった。
依頼人は初老の女だった。小さな商いを長く続けてきたという、堅実そうな人だ。取引先に持ちかけられた話に、どうも裏がある気がする。乗るべきか、断るべきか、第三者の目で見てほしい——依頼の筋は、そういうものだった。
簡単な仕事だと、俺は高を括っていた。
相手の話を聞き、警戒を解き、内側の本音を引き出す。いつもの手順だ。俺は応接室で、いつものように柔らかく口火を切った。
「お気持ち、よく分かりますよ。長く商売をされてきた方ほど、勘が働くものですからね」
そこで、女の眉がぴくりと動いた。
和ませたつもりのひと言が、逆に警戒の糸を張らせたのがわかった。
「……あなた、口がお上手ね」
女の声が、一段冷えた。
「そういう耳あたりのいいことをすらすら言う人をね、わたしはあまり信用しないことにしているの。昔、それでずいぶん痛い目を見たものだから」
しくじった、と思った。
この女は、かつて口の達者な人間に煮え湯を飲まされている。俺の得意とするやり方が、この相手にかぎっては真っ先に不信を買う。角度を変えて何度か言葉を継いでみたが、女の警戒は解けるどころか増すばかりだった。喋れば喋るほど遠ざかる。
万事休すか、と思ったとき。
それまで黙っていたベレトが、口を開いた。
「その話は、断ったほうがいいですね」
あまりに唐突で、あまりに率直な一言に、俺は思わず隣を見た。
ベレトは、世辞も前置きも一切なしに続けた。
「持ちかけてきた相手のことは、こちらで調べます。だが調べるまでもなく、あなたはもう、断ったほうがいいと答えを出している。そうでなければ、わざわざ金を払ってまで他人に相談したりはしないでしょう。……自分は、そう思います」
飾りのない、ぶっきらぼうな言葉だった。
人を乗せる技術も、和ませる愛想も、そこにはかけらもない。ただ思ったことを、思ったまま口にしただけ。俺なら絶対にやらない、危なっかしいやり方だ。
だが。
女の表情が、ふっと変わった。
「……そうね。ええ、そうなの。ほんとうはもう、心では決めているの。ただ、誰かに背中を押してほしかったのかもしれない」
女はそれから、堰を切ったように話し始めた。取引先への不信も、断りきれずにいる事情も。俺がどれだけ言葉を尽くしても引き出せなかった本音が、ベレトのたった数十秒の朴訥な物言いの前で、するするとこぼれ出てくる。
俺はその様子を、半ば呆気にとられて眺めていた。
依頼人が帰ったあと。
「……まいったね」
俺は椅子の背に大きくもたれかかった。
「俺が小一時間かけてびくともさせられなかった相手を、あんたはものの数十秒で落とした。悔しいな。実際、悔しいんだが」
「落としたつもりはない」
ベレトは心底不思議そうな顔をした。
「自分は思ったことを言っただけだ。何もしていない」
そこだ、と思った。
この男は何もしていない。技も企みも計算もない。ただ素のまま正直に向き合った。それだけで、俺の搦め手が束になっても敵わなかった壁を、あっさり越えてみせた。
癪だが、俺には逆立ちしても真似のできない芸当だ。俺の武器は顔を作り腹を隠すことでできている。隠すのをやめた瞬間、俺の手管は根こそぎ意味を失う。だがこの男には、隠す腹がそもそもない。飾らないことが、そのまま武器になる。そんな人間がこの世にはいる。
「なあ、ベレト」
俺は悔し紛れに言った。
「あんたのそれ、天然でやってるうちは宝の持ち腐れだぞ。その馬鹿正直を、いつどこで出すか。使いどころさえ覚えりゃ、あんた、俺なんかよりよっぽどたちの悪い口説き手になる」
「……君にたちが悪いと言われても、褒められている気がしない」
「褒めてるんだよ。受け取っとけ」
可愛げのない生徒だ。だが、こいつがどこまでやれるのか、見てみたくなった。
そんなことを考えながら席に戻ると、ガラス越しに、執務室のジェラルトさんと目が合った。
こちらの腹の中を、ひょいと覗かれた気がした。俺はとっさに愛想笑いを返しておく。あの人に手の内を読まれることだけは、いつまで経っても面白くない。
そのあとも、日々はべつに劇的には変わらなかった。
ある晩、俺は久しぶりに厨房に立った。
たいした理由はない。その日はベレトの帰りが遅く、冷蔵庫には彼が買い込んだ食材が、いつものように詰まっていた。腹は減っていたし、出来合いのもので済ませるにも足を伸ばすのが億劫だった。それだけのことだ。
包丁を握るのはずいぶん久しぶりだったが、手は思っていたより覚えていた。
ベレトが帰ってきたのは、ちょうど皿に盛りつけているときだった。玄関から漂うにおいに、めずらしく驚いた顔をした。
「……君が、作ったのか」
「悪いか。あんたの買った食材、勝手に使わせてもらったぞ」
ふたりぶん、食卓に並べる。ベレトは戸惑ったふうに席につくと、箸をつけた。
ひとくち食べて、いつも動かない眉がわずかに上がった。
「……美味しい」
それだけだった。世辞も飾りもない、ただのひとことだ。
なのに俺は、そのひと言で、途端に口が軽くなった。
「だろ? 俺のこと、なんにもできない男だと思ってたろ。こう見えて、料理だけは昔からできるんだよ」
訊かれてもいないのに、俺はべらべらと喋り始めていた。
「もともと、食べるのは好きなんだ。俺、つい最近までホテル暮らしだったんだよ。でさ、ホテルの飯ってのはな、味もそうだが、見栄えがいい。皿の上の余白の取り方から、ソースのひと筋の引き方まで、ぜんぶ計算されてる。心底、尊敬したよ。人ひとりを皿一枚で、あんないい気分にさせるんだからな」
気づけば、料理の話から、食べ物の好みから、ホテルの朝食の話まで、俺はとりとめもなく喋り続けていた。ベレトはそれを黙って聞いていた。相槌らしい相槌も打たず、ただ箸を動かしながら、俺の話を聞いていた。
ひとしきり喋って、俺はふと口をつぐんだ。
なんだって俺は、こんなに喋っているんだ。
自分でもよくわからなかった。わからないから、俺はコップの水をぐいと呷って、それきりその話は、なんとなくやめにした。
マグカップを割ったのは、その数日あとのことだ。
朝、寝ぼけ眼で棚から出そうとして、指が滑った。なんともあっけない音がして、それで終わりだった。皿のときのように驚きもしない。この家で俺が何かを割るのは、もう珍しいことでもなかった。
けれど、そこで開き直るのも違う気がした俺は、同じマグカップをまとめて五個買ってきた。
それを棚に並べていると、通りかかったベレトが、その光景を見て、露骨に呆れた顔をした。
「……なぜ、そんなに」
「また割るかもしれないだろ。予備だ、予備。割るたびにいちいち買いに行くのが、面倒なんだよ」
「割らなければいい」
「それは一理あるな。俺相手じゃなければ」
俺の返事にベレトはまた眉をしかめた。
「君はあのとき、弁償はいらないと言っただろう。服のときはそう言ったのに、マグカップは買うのか」
「あれとこれとは、話がべつだ。服なんてもんは、なくても死にゃしない。だが、こういうのは毎日使うだろ」
我ながら、筋の通っているような、いないような理屈だった。だが、ベレトはそれ以上は追及してこなかった。
で、そのいつつのうち、ひとつを、俺は自分用に使うことにした。
深い考えはない。新しく自分のぶんのマグを、べつに選んで買うのが面倒だっただけだ。予備がいくつもあるなら、そこからひとつ拝借すればいい。ちょうど、ベレトが使っているのと同じかたちの、色違いだった。
翌朝、俺がそのマグでコーヒーを飲んでいると、ベレトがこちらを見て、目を丸くした。何か言いたげに口を開きかけて、けれど結局、何も言わなかった。
「なんだよ」
「……いや」
「揃いのマグで朝飯食ってりゃ、付き合いたての同棲カップルみたいで、いいだろ。仲良さそうで」
俺は軽く茶化して、コーヒーを啜った。
ベレトはそれには答えず、自分のマグに黙って手を伸ばす。
その指先が、取っ手のところで止まった。
色違いの、同じマグが、ふたつ。朝の食卓に並んでいる。
何日かして、俺が先に起きた朝があった。
これが、なかなかないことだった。
同居を始めてこのかた、朝はいつも、ベレトのほうが早い。俺が起き出すころには、あの男はもう身支度を終えて、涼しい顔で茶を飲んでいる。寝坊助はいつも俺の役回りで、遅い、と急かされるのも、決まって俺のほうだった。
それが、その日は逆だった。
顔を洗って、のんびりリビングへ出ても、ベレトの姿がない。妙だな、と思っていると、廊下の奥から、どたばたと慌ただしい物音が聞こえてきた。
ほう、と思った。
これは、拝んでおくべきかもしれない。
俺はコーヒーを淹れる用意をしながら、その様子をのんびりと横目で窺うことにした。
やがて、ベレトが部屋から飛び出してきた。
その姿を見て、俺は危うく噴き出しそうになった。
まず、髪だ。あの、いつも整っている頭に、見事な寝癖がついている。後ろのほうが、鳥の巣みたいになっていた。本人は気づいていないらしい。そして、シャツ。慌てて袖を通したのだろう、ボタンがひとつ掛け違っている。上から下まで、律儀にひとつずつずれていた。
いつも、寸分の隙もない顔で、俺の生活の粗を片っ端から指摘してくるあの男が。寝癖をつけ、ボタンを掛け違えて、血相を変えて走り回っている。
「……なあ」
俺はコーヒーを片手に、できるだけ意地の悪い声で言ってやった。
「そんなに慌ててどうしたんだよ」
「寝過ごした」
ベレトは短くそう言って、鞄の中身をせかせかと確かめている。その手つきが、これがまた、いつもの几帳面さとは似ても似つかない。焦っているせいで、要領がまるで悪い。掴んだハンカチを取り落とす。拾おうとした拍子に鞄が倒れ、中身をぶちまける。見ているこっちが、じれったくなるほどのぐだぐだぶりだった。
俺はその一部始終を、コーヒーを啜りながら、たっぷりと堪能した。
「そう慌てるなよ。まだ、そんな時間でもないだろ」
「……いつもより、三十分、遅い」
「三十分遅く出たって、始業にはじゅうぶん間に合う時間だろうが」
言ってやると、ベレトは動きを止めて、壁の時計を見上げた。それからたっぷり数秒かけて、自分が遅刻するほどの寝坊はしていないことに、ようやく気がついたらしい。
「……そうか」
「そうだよ」
俺は笑いを噛み殺した。
「顔を洗って、その頭をなんとかしてこい。ボタンも掛け違ってるぞ。飯くらい、食ってく時間はある」
ベレトは、自分のシャツの胸元に、初めて目を落とした。上から下まで律儀にずれたボタンを、しばらく無言で見下ろしている。それから、実に決まりの悪そうな顔で、掛け違えたボタンをひとつずつ外し始めた。
しおれた背中で洗面所へ引っ込んでいくのを見送って、俺はパンを焼く用意を始めた。どうせふたりぶん作るのだ。慌てて何も食わずに出ていかれても、寝癖の頭が気になって仕方がない。
いつもしてやられてばかりだった。たまには、こういう朝もある。
俺は鼻歌まじりにコーヒーをもう一杯注いだ。
焼けたパンのにおいと、洗面所から聞こえる水音が、しばらく部屋に残っていた。
べつの日。家のことは、とうとう事務所にまで顔を出した。
隣では、ベレトが、いつものように書類を睨んでいる。昼を過ぎて、フロアはいくらか気だるい空気に包まれていた。あくびを噛み殺しながら画面を眺めていると、ベレトが、書類から目も上げずにぽつりと言った。
「洗剤が、切れかけている」
「……は?」
「あと、卵もない。帰りに買ってきてくれ」
俺はキーボードを打つ手を止めて、隣の男を見た。相手はといえば、こちらを見もせず、まだ書類に目を落としている。世間話の続きのような、当たり前の口ぶりだった。
「なあ。それ、いま、ここで言うことか?」
「切れかけているのを、たったいま思い出した」
「思い出したにしても、だ。そういうのは、家で言え。なんで、よりによって職場で、洗剤だの卵だのの話をしなきゃならないんだ」
「思い出したときに言わないと、また忘れる。君はどうせ帰りにどこかへ寄るだろう。そのついでに、買ってきてほしい」
ついで、で片づけられてしまった。
反論の糸口を探しているうちに、ベレトは、もう次の話へ移っていた。柔軟剤も残りが心許ない。ゴミ袋も、そろそろ切れる。ついでに、排水口のネットも。思い出したそばから、家の足りないものを、次から次へと並べてゆく。ここが、事務所だということなど、まるで頭にないらしい。
俺は頼まれてもいないのに、いつの間にか手元の付箋にその品目を書き取っていた。洗剤、卵、柔軟剤、ゴミ袋、排水口のネット。書き終えてから、俺はその付箋をしばらく眺めた。
なんだ、これは。
人を乗せて金を巻き上げてきた男の机に、いま、堂々と貼りついているのが、買い物のメモだなんて。
ふと、視線を感じた。
顔を上げると、ガラスで仕切られた執務室から、ジェラルトさんがこちらを見ていた。
いや、正確には、見るともなしに、眺めている。俺と、ベレトと、俺の机に貼られた、その所帯じみた付箋の一部始終を。目が合っても、何も言わなかった。ただ口の端を、ほんのわずか、面白がるように持ち上げただけだ。それからまた、手元の書類へと目を戻した。
俺は、なんとも言えず、ばつが悪くなった。
見られて困る書類を握られたわけじゃない。ただの、買い物メモだ。しかし、こういうものを見られるのは、後ろ暗い秘密を覗かれるより、よほど居心地が悪かった。
その気まずさの底で、俺は、ふと、妙なことに思い当たった。
考えてみれば——というより、考えてみるまでもなく、俺はいま、赤の他人と、ひとつ屋根の下で暮らしている。洗剤の残量を報告され、排水口のネットの心配を分かち合う相手が、いる。
おかしな話だった。
いや、おかしいなんてものじゃない。まっとうに考えれば、これは、かなり、異様な光景のはずだ。それが、いつの間にか、あまりにも当たり前の顔をして、俺の日々に、収まってしまっている。
当たり前になりすぎて、異様だということを忘れていた。
俺は机に貼った買い物メモを、一枚剥がすと、上着のポケットに突っ込んだ。
深く考えるのは、やめておいた。考えたところで、帰りに卵を買うという結論が変わるわけでもない。
まだ手をつけずにいた段ボールの、最後のひと箱があった。
リビングの隅に置きっぱなしにしていたそれを、ベレトが掃除機をかけるたび、いかにも邪魔そうに脇へ避けている。 その手つきが目についた。
「ああ、それか。適当に避けといてくれていいぞ」
俺はソファから声をかけた。
「大した中身じゃない。見られて困るようなものでもないしな」
その箱に何が紛れているか、俺自身、正確には覚えていなかった。
ベレトは箱を動かそうとして、上に載っていた紙の一枚を床へ滑り落とした。屈んで拾い上げ、その一枚に何気なく目を落とす。
その紙を見た瞬間、俺は箱の中身を思い出した。
まずい、と思ったときには、もう遅かった。
「……なんだ、これは」
のろのろとソファから立って、覗き込む。ベレトの手にあったのは、俺の走り書きで埋まった一枚だった。
人を落とすための、覚え書きだ。
贈り物は残る物より消え物。家族の話に弱い。猫より犬が好き。一度に会う時間の長さより、会う頻度を重視。追ってくる相手には興味がないらしい。男運なし。
人の弱みや情や欲を、どうすれば手玉に取れるか。長年かけて、俺がひとつひとつ書き溜めてきたものだ。好意の記録なんかじゃない。好意を道具として使うための、管理表だ。
ベレトはその一枚を、上から下まで黙って読んでいた。読み終えて、もう一枚。箱の中には似たような紙が、まだ何枚も入っている。
俺は、取り繕わなかった。
今さら隠すも慌てるもない。それは俺が、俺の意思で書いたものだ。動揺してみせるほうが、かえってみっともない。
「ああ、それな。俺の商売道具だ。そのやり方で、俺は飯を食ってきた。今さら驚くことでもないだろ」
「……女性を、こうやって騙してきたのか」
「騙したわけじゃない。相手を気分よくして、その見返りを少しばかり恵んでもらってただけさ」
あっけらかんと言ってのけた。これが俺の地金だ。飾ったところで剥がれるだけの話だった。
ベレトは紙から顔を上げて俺を見た。
「……最低だ」
ぽつりと言った。
感情の起伏の薄いこの男が、初めてはっきりと、俺に向けて負の色を寄越した。呆れでも驚きでもない。もっと直截な、嫌悪の色だ。
俺はいつもの調子で、茶化してやることにした。
「なんだよ、そんな顔するな。なんなら、あんたのことも書いてやろうか。無愛想、生活能力低め、よく食う。落とし方は――」
言い終わらないうちに、ベレトが紙束を俺の顔に押しつけてきた。
それだけで、こいつがめずらしく本気で機嫌を損ねているのがわかった。
「生活能力については、君にだけは言われたくない」
いつもの切り返しだった。だが声は笑っていない。
ベレトはそれきり、そっぽを向いて掃除機を片づけはじめた。俺の軽口には、もう乗ってこなかった。
俺は、顔に押しつけられた紙束を受け取って、そのそっけない背中を眺めた。
嫌われたところで、どうということはない。俺はそういう男で、そういうやり方で生きてきた。この家に来て急に恥じてみせる義理もない。
そう割り切っているつもりだった。
それなのに、思っていたより、ずっと、ばつが悪かった。
あの一件があってから、家の空気は数日、冷たいままだった。
ベレトは、あからさまに態度を変えたりはしない。飯は作るし、必要な連絡もしてくる。ただ、口数がいつもより減って、俺の軽口への返しもどこか素っ気ない。あの走り書きの束が、ふたりのあいだに薄い膜みたいに残っていた。
その日、俺は仕事から帰ってシャワーを浴びていた。
ぼんやりしていると、人影が動くのが、磨りガラス越しに見えた。ベレトだ。かごに溜まった洗濯物を、洗濯機へ移しているらしい。
それを見て、俺は、あ、と思い出した。
靴下だ。今日も俺は裏返しのまま、かごに放り込んだ。あのままだと、また、洗われずに残される。
いまなら、間に合う。一緒に洗ってもらえるかもしれない。
そこまで考えて、俺はシャワーを止めた。頭も身体もまだ泡だらけのまま、タオルも巻かずに脱衣所へ飛び出していた。
「なあ、悪い。俺の靴下、まだそこに――」
言いかけて、俺は口をつぐんだ。
洗濯機は、もう回り始めていた。
かごの中は、空だった。裏返しのまま放り込んだはずの俺の靴下も、そこにはない。
ベレトがこちらを振り返った。その顔がなんとも釈然としない。裏返しのものは洗わない。いつもそう言っているのは、この男自身だ。それを今日は洗った。
俺に向かって、何か言ってくるわけではなかった。文句も、小言も、ない。
泡だらけの俺と、洗い上げてしまったベレトが、脱衣所でしばらく向かい合っていた。
なぜ洗ったのか。訊くのは、やめておいた。ここで問い詰めれば、次からはほんとうに、きっちり線を引かれそうな気がした。
「……ありがとう。助かるよ」
俺はそれだけ言って、シャワー室へ引っ込んだ。
茶化す言葉も、軽口も、なぜだか出てこなかった。
それからしばらくは、仕事が立て込んでいた。
案件がいくつも重なって、俺は事務所と外を何度も往復させられた。愛想を作り、腹を探り、相手の機嫌を取り結ぶ。得意な仕事ではあるが、朝から晩まで通しでやるとなれば、さすがの俺もすり減る。
べつの現場に出ていたベレトは、先に上がっていた。俺を置いて、とっとと家に帰ったのだろう。
外へ出ると、夜気がすっかり冷えていた。同居を始めたころは上着なしでも歩けたのに、いまは吐く息がうっすら白い。街路樹も葉を落として、季節がひとつ、先へ進んでいた。
俺はひとりで、冷えた夜道を歩いて帰った。
あいつはもう、飯も風呂も済ませて、寝る準備をしているころかもしれない。そんなことを考えながら、鍵を回す。
部屋は暗かった。もう寝たのか。俺は靴を脱いで、明かりも点けずにリビングへ入る。
そこで、足が止まった。
食卓に、飯が並んでいた。俺の好物ばかりだ。もちろん冷めている。ラップの一枚もかかっていない。
ベレトはいない。部屋のドアは閉まっている。作って、並べて、さっさと引っ込んだらしい。
しばらく、その皿を見ていた。
それから皿をひとつ、電子レンジに突っ込む。
温まるのを待つあいだ、手持ち無沙汰に冷蔵庫を開け、缶を一本抜いた。
缶を開けて、俺はそれを呷った。
電子レンジが短く鳴った。俺は缶を置いて、温まった皿を取り出すと、まだ冷えたままの皿を一枚、庫内へ押し込んだ。