アルカヴェ。
⚠オメガバース(アルファ🌱とオメガ🏛)※付き合ってない
@dounudon
この世に最高の夜のバリエーションはいろいろと存在するが、洗いたての寝具に包まれてぐっすり眠る夜は確実にそのうちのひとつに入る、とカーヴェは考えている。そして、その機会を逃してリビングの長椅子でうっかり眠り込み、夜を明かし、風邪までひいた目醒めは最悪の朝のひとつであることもまた確実だと。
窓から差し込む朝日の清けさとは裏腹に、カーヴェのコンディションは最低を記録していた。
ふしぶしの痛むからだを叱咤して身を起こす。やわらかい布地が胸元から膝まで一気にずり落ちた。かつてホットミルクだったものが飲みかけの状態で卓上に放置されていた。もう遅い時間だからとやさしい飲み物を選んだからこんなところで眠ってしまったのだ。こういうときにカーヴェを寝室へ連行する役割の同居人は、昨日、この世の終わりでもしないだろうという顔で出かけて不在だった。もともとアルハイゼンは出張を渋るタイプだが、泊まりとなるとそれに輪をかけて渋る。それにしたってあの渋り方は異常だったような気がしないでもないが……。
「これ、メラックがかけてくれたのか? ありがとう」
長椅子の背にかけてあったはずの大判のひざ掛けを畳みながら言うと、メラックはうれしそうに応えた。しかし、メラックの気遣いむなしくカーヴェの口からは空咳が出てしまう。めったに冷え込まないスメールシティに暮らす住人にとっては、雪が降るという対策しやすく明らかな異常気象よりも、急にふだんよりやや気温が下がるといった油断しやすい軽い寒さのほうがよほど厄介だった。カーヴェのような自分自身に無頓着な人間は、そういうときにきっちり風邪をひく。つまり、いまのように。
アルハイゼンがいればこんなことにはならなかっただろう。アルハイゼンがいれば、カーヴェは後輩の身を案じながらついでに自分にも気を払うからだ。ただ、現にアルハイゼンは不在で、カーヴェの喉はやたらかすかすしていて、額に手を当てると熱っぽい気配まである。なにからなにまで最悪だった。
こういう日は家に引きこもって治療に専念するにかぎる。そのためにはしばらく外に出なくてもいいように必要物資を買い込まねばならず(アルハイゼンがいないので!)、カーヴェはいかにも心配そうな雰囲気のメラックを連れて買い出しに出かけた。
一歩外に出ると、異様に視線を感じた。気がそぞろでいつもより身支度に力を入れられなかったせいだろうか、そんなにだらしないのだろうかと不安になるものの、もはや家に戻って確認する気力もない。カーヴェは一度自分の体調の悪さを自覚すると、勝手に自分の想像のなかでどんどん悪化させていくところがあった。
また、買い物をした露店でしきりに「早く家に帰ったほうがいいですよ」「あまり出歩かないほうが……」「メラックちゃん、よろしくね」と声をかけられたのがそれに拍車をかけた。彼女たちは一様に声をひそめ、周囲を警戒するようにきょろきょろとし、時折警告じみた険しい目つきでどこかを睨みつけてから、最後に必ずとびきりの内緒話をするみたいにカーヴェを気遣った。まるでカーヴェの弱った状態につけ込む悪漢がそのへんをうろついているかのように。彼女たちにもひと目で知れるほどいまの自分の具合は悪いのだ! その時点でカーヴェはちょっとパニックだった。いよいよ体温が平熱を超えたような気がした。
張り切っているメラックに荷物を任せきり、なんとか見慣れた我が家の玄関をくぐるころには、喉のかすれは異質な渇きにまで変化していた。痛みはない、が、体内の水分という水分が不足しているような気分になる。
つめたい水を一気に飲み干しても一切の満足感を得られなかったとき、カーヴェはようやく、これがふつうの風邪ではないことに気がついた。かといって、なにか急性の重病というわけでもない。
発情期だ。
カーヴェのようなオメガにとってはむしろありふれた生理反応だった。当のカーヴェがあまり模範的なオメガではなく、この手のありふれたオメガの生態にいまだ適応しきっていないことを除けば……。
カーヴェは成人してから二次性が顕在化したきわめて稀な例だった。それまではずっとベータとして扱われていた。当然だ。この世界で、アルファでもオメガでもなければそれはベータなのだ。カーヴェ自身も自分にそういう接し方をしていたし、フォンテーヌにいる母にいたってはいまもカーヴェはベータだと思っているだろう。彼女はオメガに降りかかるあらゆる面倒ごとをひととおり経験した結果、息子がベータであることを心から喜んでいたので、カーヴェもいまさらその勘違いを正すつもりはなかった。
なにかのまちがいでオメガと診断されて以降も、発情期らしい発情期に悩むことはほとんどなかった。発現が遅かったことも併せてカーヴェは完全に自分自身を出来損ないのオメガだと思っていて、これまでそのことに不都合はなかった。
こんな見本のような発情期ははじめてだ。
抑制剤という単語を、カーヴェは人生ではじめて自発的に思い浮かべた。まったくはじめてばかりだ、と独りごちて家探しを開始する。この家のどこかにはあるはずだ。しかもカーヴェが占有している領域のどこかにあるはずだ。長らくつづいている同居生活の果てに、カーヴェとアルハイゼンはこの家のたいていのものを共有していたが(それは単純なスペースだけの問題には収まらない)、オメガ用抑制剤はさすがに彼には見えない場所に収納しているはずだった。カーヴェは過去の自分を信じることにした。
「アルファと同じ屋根の下で暮らすなら、抑制剤は必ず持っておきなよ」
アルハイゼンの家に身を寄せるようになったことを告げたとき、ティナリはそう言った。自衛なんて大げさだと言うカーヴェに、眉を寄せたレンジャー長は「自衛じゃない。むしろ他者に対する基礎的な礼儀正しさだ。緊急避妊薬も備えてていいくらいさ。こっちははっきりと自衛だけどね」とたしなめた。つねづね他人に対して礼儀正しい人間でいたいと思っているカーヴェはもちろんその足で抑制剤を買いにいった。緊急避妊薬は買わなかった――そんなまちがいが自分とアルハイゼンのあいだで起こるとは思われなかった――が、たしかに抑制剤は手に入れたはずだ。
「あった!」
いつぶりにひらいたのかもわからない荷物袋の底の底にひっそりと眠っていた壜を取り出す。あおい錠剤。ラベルを読んでこれだと確信した。うしろでメラックも喜んでいた。
「き、期限切れだ……」
念のためラベルをよく読むととっくに期限が切れていた。背後でメラックもかなしい調子の音を出した。同居当初に購入してそれ以来触れてもいなかったのだから、当然といえば当然ではあった。
どうする?
こうしているあいだにも熱は上がっている。全身が熱っぽく、とりわけ頭がぼうっとしはじめている。そのくせ指先が妙に冷え、まるで誰かの体温に触れつづけていないと落ち着くことができないと訴えているかのようだ。喉は相変わらず渇き、感官のすべてがやたらと過敏になり、だんだんシャツが皮膚に当たっている感触すら許せなくなってきた。カーヴェは自分自身の匂いを感じることができないが、おそらく出来損ないオメガなりになんらかのシグナルを発しているのだろうし、こうなってしまってはもう外出はできないだろう。
気づけば動物の常同行動じみて部屋のなかをぐるぐる回っていた。メラックも律儀についてくる。メラック……頼りになる相棒だ。最近はカーヴェの頼んだコーヒーのおつかい以外にも、ほかの人間がカーヴェ宛に頼んだおつかいまでできるようになっている。進化している。成長している。でも、抑制剤は……むずかしいだろう。二次性に関する薬物は厳重に管理されている。医療が国費で賄われているぶん、薬の出入りには厳しい記録がつく。体調のコントロールを目指して日常的に服用する軽めのフェロモン調整剤ならまだしも、発症してから事後的に服用する抑制剤には薬効のつよいものが多い。そうした薬が簡単に処方されるわけがなかった。しかもカーヴェはビマリスタンにめったに出入りしない。グランドバザールやプスパカフェ、ランバド酒場のように本人確認をメラックの顔パスですり抜けることはできないだろう。
アルハイゼンがいたら……。
カーヴェは思いきり頭を振った。めまいがした。とにもかくにもベッドに入ったほうがよさそうだった。アルハイゼンがいたら、なんて、現にここにはいない人間を想定して救いを求めるような情けない真似はしてはならない。まずはベッドに。話はそれからだ。
誰のベッドに?
カーヴェは苛立って手近なデスクに拳を叩きつけた。メラックが咎めるような慮るような音を立てた。どちらを心配しているのかはわからない。
「誰の? じゃない、僕のに決まってる!」
自分のベッドがすぐそこにあることはわかっていた。ここはカーヴェの部屋だ。どこもかしこもカーヴェの気配が遍満している。つまらない、退屈な部屋だ。インスピレーションを刺激するお気に入りのものばかりを集めている部屋がいまはひどく味気なく見えた。オメガの気配しかない、孤独な――
「ああもう!」
地団駄を踏む。メラックがおろおろしている。こんな場面を彼女に見せるべきではない。教育に悪すぎる。欲求不満で情緒的に落ち着きのない孤独な発情期のオメガ。アルハイゼンがいれば……適当な理由をつけて抑制剤を買ってきてもらうこともできる。そわそわして情動的なオメガに心にもない慰めをもらうこともできるだろう。いや、できない。そんなことはできない。そんなみっともないことはとてもではないが頼めない。
カーヴェは両手で顔を覆い、指の隙間から敷物の精緻な模様を認めた。催眠にかけられているようだ。学問的な意味のある伝統的な柄もいまはちっとも頭に入ってこなかった。この模様についてアルハイゼンはなんと言っていただろうか。アルハイゼンが、アルハイゼンは、アルハイゼン。
だいたい、これもアルハイゼンのせいなのではないだろうか。カーヴェのなかに潜む不具合品のオメガはずっとまともな発情期に悩んだことがなかった。それもこれも、アルハイゼンが模範的なアルファすぎるからいけないのだ。彼がアルファの見本すぎて欠陥品のオメガさえその影響を受けてオメガらしくしようとしてしまう。カーヴェはふるえた。あつい。あついし、さむい。風邪と同じなのに風邪薬は効かない。アルファの気配だけがこれに効く。アルファの。アルファといえばこの家にはアルハイゼンが……。
「家庭内の窃盗と不法侵入ならどちらの罪がより重いんだろうか?」
ふたたび部屋をぐるぐる回った。困った表情をしているメラックに答えを求めているわけではなかった。最近メラックはよりいっそう感情表現が豊かになっている。これ以上こんな姿を見せるわけにはいかない。情操教育に悪すぎる。
「メラック、これ以上僕についてきちゃだめだ」
デスク上に散らばっていたスケッチの一枚に『できるかぎりつよい抑制剤を買ってきてくれ』と書きつけ、メラックに示した。
「あいつが帰ってきたらこれを見せてくれ。君はそれまでリビングで休むんだよ。僕のことは心配しなくていい。部屋に……いるから。しばらく出てこないかもしれないけど大丈夫」
そして決然とアルハイゼンの部屋に向かった。中枢の熱っぽさと末端の冷えのちぐはぐな感覚が漠然とした不安となって襲いかかる。いますぐアルファに触れて安心したかった。雨を凌ぐ庇、風を阻む壁、屋根を支える柱、知恵を司る大樹。本能が揺るぎないものを追いかけている。寛容でなくてもいい。不動で、安定感のある、半端者のオメガを受け止めてもなお心音の乱れない断固としたアルファ。そういう気配に包まれたい。
カーヴェはアルハイゼンの部屋に突入した。もとより鍵なんてものは存在しなかった。ここでいま一度煩悶する。窃盗と不法侵入はどちらの罪がより重いのか。カーヴェには選択肢がふたつあった。
ひとつ、アルハイゼンの気配が染みついたなにかを奪って自室に戻る。
ひとつ、このままアルハイゼンの部屋に居座る。
厳密にいえばこの時点で不法侵入は成立しているのだったが、相手の部屋に立ち入るだけならもはや日常的なやりとりの一種だったため、そこは考えないことにした。要は、不法侵入(ベッド)か窃盗(服か寝具のようなもの)の二者択一だ。
カーヴェは悩んだ。その場に立っているだけでアルファの残り香が巧みに精神への侵入を図ってきた。頭がくらくらした。立ちくらみに負けて倒れ込んだ先が偶然、そう、ほんとうに偶然、ベッドだった。
それでもうだめだった。
一瞬にしてあかくなった顔で無意識にシーツのなかへ潜り込んでいた。窃盗の線は消えた。カーヴェはもうここから出ていける気がしなかった。重心の低い乾いた香りがカーヴェを包み込む。そそっかしく忙しないオメガが不動のアルファに抱き込まれているようだった。アルハイゼンに抱きしめられたことはないのでわからないが、たぶんこういう感じなのだろう。全盛期の若いアルファにありがちな積極性、スパイシーで押しつけがましい昂りがアルハイゼンにはまったくない。オメガの逃げ道を塞ぐ圧もない。アルハイゼンのアルファの名残は泣きたくなるほど冷静だった。
しかし、濃すぎた。
つめたくさらさらの水を求めて熱砂のさなかを彷徨っていたら突然はちみつを飲まされたような、質量を伴う濃密さにカーヴェは窒息の危険を感じた。オメガが溺れている。香りの好悪ではなく、単純な濃度としてここはアルファくさすぎた。蟻地獄に踏み入った気分だった。現実的に涙が出た。ここまでアルファの匂いを身近に感じたことはない。雨上がりの森に永く隠されてきた神秘的な知性のような、しずかなアルハイゼンの匂いでこれなのだから、ぴりついた熱や煙を伴って鋭く踏み込んでくるごく一般的なアルファの匂いだったとしたらカーヴェはほんとうに窒息していただろう。
くるしい。安心する。二極化した感情をアルハイゼンの上等な寝具に隠してカーヴェは目を閉じた。
くちびるにみずみずしいものが触れている。
ずっとほしかった感覚にカーヴェは目を瞑ったまま口をひらいた。すべり込んできた塊はつめたく、あまく、くちびるのあいだに挟むだけで崩れるほどやわらかかった。これだけ冷やしてもなお甘みを失わない完熟のザイトゥン桃。
いつだったか、ニィロウが眠っている仔猫の口もとに小魚を差し出す話をしていた。飛び起きてがつがつ食べるのがいいのだと語っていた。愛らしく、生命力を感じて安心するのだと。カーヴェは仔猫ではなかったし飛び起きる体力もなかったが、すくなくとも差し出されたものはすべて飲み込んだ。
「ふむ。それだけ元気があるならもうすこしまともなものを食べたほうがいいだろう」
声は去っていき、しばらくして今度はあたたかいものと一緒に戻ってきた。半身を起こされ、具がくたくたになるまで煮込んだスープをゆっくりと注ぎ込まれる。喉をすべり落ちていくやさしいあたたかさにまた涙が出た。まるで赤ん坊のためのミルクを適温まで冷ますように、熱々のスープがこの柔和な温度になるまでおとなしく待つアルハイゼンを想像するとおかしかった。
アルハイゼン。
「アルハイゼンっ?」
差し出された手布をなにも考えずに受け取って目もとと口まわりを拭ってからようやく気づく。水差しの載った小卓のそばに立ち、腕を組んだアルハイゼンがカーヴェを見下ろしていた。
「僕はどれだけ寝て……いや、君、明日まで出張じゃなかったか?」
「やるべきことが片付いたら長居する理由はない」
要するに予定よりも早く公務を終わらせたからさっさと切り上げて帰ってきたということらしい。アルハイゼンらしかった。カーヴェなら残りの一日はせっかくだからのんびり観光でもして過ごそうとするだろう。
「メラックは……そうだ、メラックに会ったかい?」
「会った。君の走り書きも見た」
胸のうちに希望が灯るのを感じた。
「じゃあ、抑制剤を」
「買っていない」
「ど、どうして」
「事後に働く抑制剤は薬効と同じだけ副作用もつよい。君には負担だろう」
「この……状態のつらさと、副作用のつらさは、僕にしか比較できないだろう。しかも経験したあとでしか比べられない」
「だが、その状態にはすくなくとも痛みを伴わずに対処する方法がある」
そう言うと、アルハイゼンは組んでいた腕をほどいた。帰宅してから湯を浴びたのだろう、よそ行きではない、ややゆったりとした服を着ている。ふだんは見えない素肌が肘から手の先まで覗いていた。
その素の手首がふいにカーヴェの首筋へ寄せられた。カーヴェは驚いたものの拒絶はしなかった。驚きが警戒ではなく、予期していなかった相手の行動への素朴な動揺にすぎないことを確認してから、アルハイゼンの手首は迷いなくカーヴェのうなじへ押し当てられた。
雨上がりの森、透明な滴に乱反射する光、鳥も虫もおしゃべりをしない静謐にたしかに息づくリズム。アルハイゼンそのものの香りが一気にカーヴェの鼻腔を満たした。体温が上がる。息があがる。
オメガが歓喜している。
「カーヴェ、呼吸を」
アルハイゼンは器用にアルファの露出を調節し、カーヴェの呼吸を誘った。カーヴェは頷き、深呼吸を意識した。それにしたってアルハイゼンの匂いがつよい。思わずその腕にすり寄ってしまったのは見なかったことにした。オメガは基本的にアルファには従順なのだ。
やがて、ひとりきりのときに感じていた切羽詰まった不安はすっかり払われ、どこかもどかしいぽかぽかとした熱だけが残った。まぶたをおろしてアルハイゼンの拍動に自分の律動を合わせながら、これはこれでまずいかもしれない、とカーヴェはぼんやり考える。どこにもいないアルファを追い求める悲愴なオメガの嘆きではない、ここにいるアルファをさらにほしいと願う必死なオメガの一面があふれかけている。これはカーヴェの本意ではない、はずだが、アルハイゼンに自らを委ねていると楽になるのも事実だった。
深く根を張った歴史ある樹のような浮つかない彼の匂いは、知恵を蓄えるように、水を張るように、底へ底へと徐々に溜まっていく。取り込んだカーヴェの体内でゆっくりと降り積もり、下腹に響く。
これは非常によくない兆候だった。
「僕の部屋の……リネンは、洗ったばかりなんだ」
「よかったな。君は洗いたての寝具で寝るのがなにより幸福だと言っていたから、あの部屋に戻る日が楽しみだろう」
「昨日はリビングで寝落ちしたから、清潔なままだし……」
「もっとも、君があの部屋に戻るころに洗いたてと呼びたければ、もう一度洗濯したほうがいいかもしれないが」
「だからあの部屋を使ってくれと君に頼んでいるんだ。薬がないなら……この状態がどれだけつづくかはわからないが……あと数日、ここを僕に貸してほしい。ベッドは買えないけど、リネンは君のために新しいのを買うって約束する。君は一時的にここの権利を僕に譲ってあの部屋を使うか、……もっといいのはどこかこの家の外に寝泊まりすることだろう」
「なぜ? 俺の家はここだ」
「じゃあ僕がよそに行けって言うのか?」
声も表情も怒りのようななにかに偽装できたが、とっさのことで匂いまではごまかせなかった。洞察力と合理性が人間のふりをしているアルファが傷ついたようなオメガの香りを感じとらないわけがなかった。ため息がきこえた。また涙がにじみそうだった。カーヴェがここ以外へ行き場を求めるには遅すぎた。
空気が動いた。上掛けの持ち上がるおおきな動きがあり、そこになにかとんでもない存在感を持つもの――強大で、巨大で、雄大なもの――が入り込んでくる。
アルハイゼンがベッドに入ってくる。
「アルハイゼン! なにを考えてるんだ!」
「君こそなにを考えている? ここは俺の家で、これは俺のベッドだ」
カーヴェはふるえる手で懸命に上掛けを引っ張った。
「僕は薬を飲んでない……一切飲んでない! まちがいが起こったらどうする――」
「君と俺のあいだにこれ以上まちがいなんてものが存在するかどうか知らないが、どちらにせよ問題はない。俺が射っている」
射つ。その単語が二次性の抑制剤と結びつくまでにカーヴェのなかで若干の時間を要した。なぜなら現在スメールで流通している抑制剤はほとんどが経口薬で、針を使って使用者の体内に直接投与するものはごくかぎられているからだ。というよりも、カーヴェの知るかぎりでは一種類しかない。
カーヴェは上掛けのことをすっかり頭から投げ捨ててアルハイゼンの内腕を探った。そこに発見した、目立たないもののしっかりと存在する注射痕に血の気が引く。
「なんだってこんな無茶をするんだ? あれがどれだけ強烈な薬か……嗅覚を強制的に遮断するんだぞ! 僕もかつてオメガ用を処方してもらおうとしてビマリスタンに行ったけど血液検査ではねられた。なのに、それのアルファ向けなんてなったらいったいどれほどきつい薬なのか……いくらアルファの肉体が頑丈だからって、君自身を雑に扱うのはよしてくれ!」
「血液検査ではねられたのは君がひ弱だからだろう。俺は適合した。薬は正常に作用して現在も正気を保っている。その状態の君の前でもだ。君と対話するのにオメガを感じる必要はない。さあ、カーヴェ、もうすこし下がって」
「信じられない……僕と君のどちらかがよりなにかを背負わなければならないなら、それは僕であるべきなのに。僕は君の先輩なんだぞ……」
ぐずぐず言っていると、伸びてきた腕にあっけなく追いやれる。強引につくったスペースにとうとうアルハイゼンが乗り込んできた。そうして彼は、あまりにも慣れた手つきで流れるように首のうしろのパッチを剥がした。
カーヴェは自分の目がまわるのを現実として感じた。脳がぐるぐる回転する。視界が平衡を保てなくなり、視野が狂い、姿勢を維持できずに枕へ沈む。遮香パッチが抑えていたアルファの気配が爆発的に拡大する。アルハイゼンが遮香パッチを身に着けていることを――他者に対しての最低限の礼儀正しさを日々実行していることをカーヴェは知らなかった。ずいぶんアルファらしいアルファに育ったものだと思っていたが、まさかパッチありでその評価を下していたなんて!
はちみつどころではない。砂漠で水を求めて喘いでいたら蜜を凝固させた塊をそのまま口に放り込まれたような状況だ。ほしくてたまらなかったアルファの気配への安堵よりも先にただ圧倒される。息ができない。どんなアルコールよりもすばやく酔いがまわる。
「あ、アルファくさい……」
命からがら呻いた。アルハイゼンは黙っていた。
「……あ、いやちがう、怒るなよ! そういう意味じゃない。ごめんってば! 君はいい匂いだよ。安心する香りだ。これは好悪とか快不快じゃない、シンプルに、アルファとこんなに接近するのがはじめてなんだ! これはたしかに、僕みたいな半端オメガでこれなんだから、君はパッチのひとつやふたつ装着してないと簡単に他人の人生を狂わせるだろうな。はあ、ああ、息ができない。死因:アルファフェロモンによる窒息死っていままであるのかな? もしかしたら僕がアムリタのために新たな歴史をつくるのかも……今度ティナリに訊いてみないと……」
「カーヴェ」
おおきな手のひらが背中を叩いている。呼吸を導かれている。質量を抱く匂いに気圧されているだけだと思っていたというのに、いつの間にか実際に抱き寄せられていたらしい。大切な後輩につよい薬を射たせてしまった罪悪感はまだ消えていない。それでも、この瞬間ばかりはアルハイゼンが嗅覚を喪っていてよかったと感じた。カーヴェのオメガはいまどれだけうっとりしていることだろう。こんなのを彼に知られたくなかった。
「ごめん。こうしてしゃべっていないと、この口をなにかとんでもないことに使ってしまいそうなんだ」
「好きにつかえばいい。君はたいがい突飛だが、この状態でできる奇想天外はさすがにかぎられているだろう」
言ったな、生意気な後輩め、という気持ちで眼前の肩口に噛みついてみる。カーヴェの背を叩く整然としたリズムは微塵も乱れなかった。カーヴェを抱き寄せているもう片方の腕にわずかに力が入ったものの、それはわきまえないオメガを引き離す動きどころか、より近づける動作をとった。物理的な圧迫感がいよいよ無視できなくなる。ぴったりと密着している。
へんな男だ、と改めて思う。世にはびこり人生を謳歌している一般的なアルファたちは噛むことを自分たちだけの特権と考えていて、自分が噛まれることなど想像もしたことがないというすました顔をしている。もしそんなことがあれば、しかも自分たちに噛みついたのがオメガなんてことがあれば、それは単なる行為ではなく精神的な反発、アルファへの抵抗や拒絶の表明として受け取られるだろう。そして彼らはまちがいなく屈辱を味わうはずだ。
ところがアルハイゼンは、ほんとうに、カーヴェにその口を好きに使わせた。人体の弱点でありアルファの根源でもある首付近をどれだけ噛んでも、舐めても、平然としていた。
思えば、アルハイゼンに一般的なところなど最初からひとつもなかったのだ。
常識が通用しない。
「頭がおかしくなりそうだ」
アルファの皮膚にうっすらと残ったなんの意味もないオメガの噛み跡を舐めながらカーヴェが言うと、アルハイゼンが深く息を吐いた。
「それに関しては俺のほうが切実だ」
でも、思ったより悪い気分ではなかった。
すくなくとも、カーヴェは満たされていた。