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午前零時に雨はやむ(2026/7/14更新)

全体公開 21 3217文字
2026-07-14 12:12:36

あむあずで関係持ってる2人の話。
夏の間お付き合いくださいませっ!

1.

 トントンと肩を指先で突かれる。
「あむろさん」
 聞こえるのは可愛いあの子の声だ。潜入先で出会った、可愛くて優しくて心地良い、ひだまりみたいな女の子。僕みたいな男が手を伸ばしたらいけない、あたたかい光の中にいる子だ。
 あぁ、ここはポアロか。だからコーヒーの香りがするんだな。僕にとって一番危険と遠い場所。だから気が緩んでソファで居眠りでもしていたか。
「あむろさーん?」
 ソファに座る僕をしゃがみ込んだ彼女がコテンと首を傾げて見上げる姿が目に浮かぶ。チョコレートブラウンの髪が肩を滑り落ちる。パチパチと垂れた丸い目が僕を覗き込む。可愛いなと口には出さない代わりに口角を上げる。
「もう、あむろさんったら」
 あぁ、ごめん、梓さん。起きる。起きるよ。
 でもここはあたたかくて心地良くて、頭も身体も、まだ眠っていたいと睡魔に引きずり込まれていく。瞼が上がらないんだ。上げられない。だからもう少しだけ寝かせてよ。
 けれども願いむなしくトントンと肩を彼女の指先が踊る。
「もう安室さん。本当に起きないと遅刻しちゃいますよ」
「ん、ぅ……
 遅刻? そんなはずない。だってここはポアロだろう? 遅刻って何の話だ。あとは夕方のティータイムを乗り切って、閉店までに明日の仕込みをして、店を閉めたら君を家まで送り届ける。今日の僕の仕事はそれでおしま……
「午後からクライアントに会うんでしょう? 今起きないとお昼ごはん食べる時間がなくなっちゃいますよ」
 お昼ごはん?
「ーーえ?」
 覚醒が進み大きくなった違和感を確かめるため、重たい瞼を無理やりこじ開けた。真っ先に飛び込んできたのはTシャツ姿の梓さんだ。ポアロでは見ないロゴの入ったTシャツに、部屋着じゃなかったら小言を言いたくなるくらいのショートパンツ。無論、彼女の背後に広がる景色はポアロではない。三毛猫が優雅に闊歩する彼女の小さな城だ。
「起きました?」
 コテンと小首を傾げ彼女は問いかける。
 すると徐々に戻ってきた昨夜の記憶がカチッと思考回路にハマって、僕は毛布を跳ねのけるように飛び起きた。心臓が一緒に飛び上がって、焦りから眉が上がる。
「今何時ですか」
「わっ、ちょっ……
 バッと梓さんが反射的に手のひらで顔を覆った。毛布から出た僕の上半身は何も身に着けていないのだ。
 だが彼女は隠れながらも「もう十一時半過ぎですよぅ」と教えてくれた。その時刻を聞いて僕は息を吐く。
 クライアント……今日はベルモットだが、彼女との約束は午後一時。のんびりはできないが、まだ十分に間に合う時間だ。
「間に合います?」
 彼女はそろりと指の隙間からエメラルドグリーンを覗かせた。
「大丈夫です」
「よかった。もう少し早く起こせばよかった。でも安室さん珍しくぐっすり寝てたから、起こすの忍びなくて。とりあえずごはんにしましょう」
 あと早く何か着て、とぷっくり唇を尖らせた顔に笑って、僕は遠慮なく毛布を出た。案の定、彼女は「ギャッ、なんで着ないの!」なんて叫び声をあげる。下着は履いているし、なんなら昨夜この下だって彼女は知ったはずだけれども。
「もう早くお色気しまって!」
「はいはい。顔洗って着替えてきますね」
 ツンとそっぽを向いた彼女は顔は拗ねているのに耳が真っ赤だ。こういうところが可愛くて仕方ない。
 ……いや、僕は彼女が何をしたって可愛いと思っているから、昨夜留まることができなかったに違いない。
「まいったな……
 自分には縁のないスキンケア用品やメイク道具が並ぶ独立洗面台の前で、僕は困っているのか喜んでいるのか自分にも判断のつかない顔をしていた。
 冷たい水で顔を洗い、昨夜彼女がストックから出してくれた歯ブラシを使う。クリアピンクの柄は僕が絶対に選ばない色だ。もういい年だというのにそれがなんだか妙に気恥ずかしかった。
ーー それにしても梓さん、いつも通りだったな。
 目が覚めて顔を見た瞬間に逃げられると思ったのだが、キョトンとした目は真っ直ぐに僕を見ていた。照れも気まずさも感じさせない顔を思い出して拍子抜けすると同時になんだかムッとした。
 はじめて、だったはず……いや、明確な言葉で確かめ合ってはいないけれども。僕の勘違い、か……
「あむろさーん? コーヒー冷めちゃいますよー?」
「あ、はーい。今行きます」
 なんにせよ、僕が動揺するわけにいかないだろう。望んで求めたのは間違いなく僕だ。そう考えて、自嘲した。ド真面目だと口を揃えて僕をからかっていた彼らが、今の僕を見たらなんと言うだろう。
……頼むから、叱ってくれるなよ」
 唇だけ動かして願うように呟いた声は僕の胸の上にピリッと爪を立て、空気に溶けていった。



「ごちそうさまです」
「いえ、大したものできなくてごめんなさい。お腹満たされました?」
「十分でしたよ」
 彼女が冷蔵庫のあり物で作ったと言うサンドイッチは卵とハムとチーズが挟まった十二分に立派なサンドイッチだった。デザート皿の桃は兄の杉人さんからの土産らしい。「珍しくまともなお土産でした」と、食事の後片付けをしながらクスクス笑う梓さんはやっぱりいつも通りだ。同僚の男と一夜を過ごした余韻はない。可愛くて、愛嬌があるのに清廉な、町の喫茶店の看板娘そのものだ。それがなんだか面白くない。もっと僕に動揺してくれたらいいのに、なんて。子どもみたいなことを考えている。口にはしないけれども。
 僕は立ち上がるとまだ少ししっとりとしたアクアブルーのシャツを羽織った。昨夜使い物にならないくらい雨に濡らした服を、朝のうちに梓さんが洗って浴室乾燥に入れてくれたのだが乾ききらなかったのだ。
「そろそろ行きます」
「あ、はい」
 シンクで洗い物をしていた梓さんが手を拭いて僕の方へと寄ってくる。見送りをしてくれるらしい。
 玄関で靴を履けばこれも濡れていて嫌な感触だ。仕方がないのだが。
 振り返り三和土に立つ彼女を見れば、ようやく何か物言いたげな顔をしてくれていた。十中八九、変わってしまった関係性を問われるのだろう。なんと、答えようか。何も知らない、優しくて綺麗でな彼女に。
……あの」
 思い切った表情で顔を上げた彼女だったが次の言葉は続かなかった。「あの……」と、もう一度呟くように言って、上がっていたはずの顔がだんだん俯いてしまう。
「えっと……
……
 彼女の葛藤が手に取るようにわかって苦笑いが浮かんだ。聞きたいことはたくさんあるだろうに、僕を困らせまいと言葉を選んでいるのだろう。すると、フッと彼女の睫毛が影をおろした。
「ううん。やっぱりいいです!」
 「大丈夫」と言って笑顔を作り顔を上げた隙に、広いおでこへ唇を寄せた。ちゅと音を立てて離れれば梓さんは途端に顔を真っ赤にしておでこを押さえている。
「今日、仕事が終わったら連絡するので、またお邪魔しても?」
「へ!? そ、れは、かまわない、ですけど……っ!」
 まだ染まったままの頬を可愛いなと思って人差し指の背で撫でる。彼女の視線は僕を見ることができずに彷徨った。
「では、また連絡します」
「はい……
 彼女の足元で三毛猫が鳴く。まるで僕を追い払うように、不満気に。それを背中で聞きながら僕は扉を開けて外に出た。何も話せやしないのに今夜も来るなんて言う自分勝手な男だと、彼にはバレているのかもしれないな。
 エントランスを出ると細い雨粒が音を立てずサラサラと街を濡らしていた。
「今日も雨、か……
 傘はない。だが僕は躊躇いなく雨の中へ歩き出す。濡れたスニーカーが地面を踏む度にグジュグジュと水を染み出して不快だった。元々湿ったシャツだったが、しっとりと雨水が染み込んでいく。冷たくて、煩わしい。
 さっきまで彼女のそばにいたから、余計に。


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