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くうねるところに

全体公開 2 48 4936文字
2026-07-19 02:03:12

27歳マユウラと再会する。動物の血が出る。

名前変換

 ︎︎中庭に構えられた配給所へと続く列は、ここ二階まで伸びていて、嵌め殺しの窓際でその流れを眺めていた。わたしもその日暮らしのための物資を求め、もう数十分もこの中にいる。
 蟻みたいな生活をしている、と思う。並んで、食べ物もらって、巣に帰る。また巣を出て、並んで、もらって、帰る。変わり映えがない、それだけならまだよかった。たまに起こる強奪や小競り合いは外敵の急襲、あるいは威嚇の応酬みたいで、わたしたちの暮らしはますます動物じみたものにさせられていた。
 そういう考えない方がよいことばかりで頭をいっぱいにしているうちに、どんどん列は進んでいく。いつのまにか頭上にはコンクリートでなく灰鼠の空が広がっていた。
「あの、並んでますか?」
 前方で、控えめな声が上がる。五つ前に並んでいる女性のものだった。それはおそらく、彼女の足元の黒い人影に向けられていた。列に入っているのかどうか、絶妙に判断が難しい位置に蹲っている。すると影の頂点から、亀の動きで首が出てくる。声が掛かるまで、地面にある何かを見ていたらしかった。
「並んでない。俺、配給はいらないです。自分で獲る方が栄養ある。みんなそうすればいいのに」
 ︎︎明らかに異様な発言に、半径数メートルの空気が張り詰めた。少しでも狂っていそうな人間とは距離を取る。この世の中で、災難を避けるために自ら取ることのできる唯一の方法がそれだった。
 ︎︎しかしわたしは、彼のことを知っていた。あれは間違いない。あんな人、他にはいない。
「マユウラくん」
 ︎︎懐かしい響きを、口の中で角砂糖を崩すように呟く。
 ︎︎彼はいつも、蟻の行列の外にいた。自分の好きなものばかり追いかけていて、誰よりのびのびとしていて。学生時代は片手で数えられるほどしか会話をしたことがないし、彼のことを野性味に溢れているなんて思っていたけれど、今じゃ誰より人間らしいんじゃないか。
 ︎︎前の人にだって伝わったか分からないような声を、彼は耳ざとく拾った。
「名前ちゃん?」
 ︎︎昔とは違って髪の毛はだらしなく伸ばされているのに、振り返ったその顔には、どこか精悍さが宿っている気がした。
 ︎︎配給を待つ人々が、わたしたちを遠巻きにし始めるが気にならなかった。わたしはそれだけ高揚していた。
「あの、先にどうぞ」
 ︎︎後ろの人に順番を譲って、しゃがんだままの彼の元まで駆け寄った。
「久しぶり、マユウラくんだよね?」
「こんなとこで知り合いに会うなんて思わなかった」
「知り合い、そう」
 そう言ってまた地面に目を戻した。もう話を続ける気がないというように。わたしはまだ諦められない。動物になる前のわたしを知っているであろう、誰よりも群れに馴染まない人。もっと話がしたかった。
「なに見てるの」
「アリジゴク」
「ああ、蟻食べるやつ?初めて見た」
 隣で膝を折って、彼の視線の先の地面を覗き込む。
「へえ、すり鉢状になってるんだ。こんな角度でほんとに獲物引きずり込めるの?」
 マユウラくんが息を呑むのが分かった。再会してからしばらくのあいだ妙にローテンションだった彼が、やっとわたしの釣り針に食いついた。
「こんな角度っていうか、この角度だからうまく虫が足滑らせるんだ。しかも前方と後方で角度が違ってるって主張する人もいて、今それを検証するために観察してた。なんか角度測れそうなやつ持ってる?持ってないよね。もし持ってたら貸して。あとさっき蟻食べるやつかって聞いた。名前で勘違いされがちだけど、蟻だけじゃなくてそれくらいのサイズの虫なら割と何でも食べる」
 本当に答えを求めているのかわからないような質問を織り交ぜながら、そうまくし立ててきた。わたしがあっけにとられて黙ってしまうと、さっきまでの様子が嘘のように口を閉ざして巣穴に目を戻し、たまに顔色を伺うようにこちらを見た。
「違う違う、引いてないよ。あのね、すごいなって思ったの。ちゃんと理解できるか分かんないけど、もっと話聞かせて」
 もとから焦点の合わない目がさらに泳いだ。
「聞かせてって言われたら、何言えばいいか分かんなくなる」
 静寂が落ちた。それと同時に、あたりの景色がわたしの視界に戻ってくる。配給所の行列付近の地べたに座り込んで話に花を咲かせる男女は、傍から見れば異質だった。
「場所、変えよっか」

 わたしたちは同じ棟に住んでいたことが分かった。マユウラくんは三日ほど前に別の区画から移動してきたらしい。彼の部屋は三階でわたしは五階だったので、自然と彼の部屋へ行く流れになった。すすんで異性の部屋に行くなんてことは普段ならしないけど、彼は知っている人だし、あのまま公共空間で奇異の目を向けられ続けることの方が怖い。
「お邪魔します」
 そこには、全員に割り当てられた均質な部屋がベースになっているとは思えない、独特な空間が広がっていた。まず土と、刈り取られてすぐの植物のような青臭いにおいが鼻を突いて、壁には配給所のマークがついた段ボールや厚紙でできた箱が並んでいた。おそるおそる中をのぞくと、百足や蜘蛛がたくさん蠢いていて思わず顔を後ろに引いた。
「蟲毒が趣味なんだ、俺。でも区画移るとき小さい箱にぎゅうぎゅうに詰めなきゃいけなくて、運んでる最中に半分死んだから集め直し。箱は配給所から使わないやつもらってきた」
 彼にも失ったものがあるのか。今までの暮らしを失った自分と重ねて、さらに親近感を覚えた。
「たくさん死んじゃったんだ。大変だったね」
 羽で撫でるような口調でそう言う。しかしマユウラくんは首を横に振った。
「ううん、いいサンプルになった。いつもならもっと少ない数で、長い期間かけて殺し合わせるんだけど、今回はたまたまそういう環境ができた。ずっと蟲毒やってたけどこれは盲点だった。対照グループがないのが残念だから、もっと採集できたらもう一回同じ状況を再現してやってみようと思う」
 なにかが喉につかえたような心地になる。恥ずかしい。わたしはさっき、相手の傷を癒すためというよりは、これから自分の傷を露出する機会を作るためのような言葉をかけた。マユウラくんが傷ついてると決めつけて。しかし、彼はわたしが思うよりずっと強靭だった。
 何も言えずに蟲毒の前で突っ立っていると、マユウラくんが壁に立てかけた何かを手に取った。
「見て」
「うわっ」
 銃だった。紛れもなく、命を奪うための武器。窓から入り込む弱い日差しを跳ね返して、銃身がくろぐろと光っていた。
「何、護身用?」
 両手で銃を抱えたまま、またもや首を振る。
「熊食べたくて免許取ったんだ。でもそうだな、世界こんな感じになってからは護身用としても役立ってる。だけど俺、人の形したものは極力撃ちたくない。あれはもう人じゃないって頭の中では分かってるんだけどな。あ、熊撃ってくるからここで待ってて。外危ない」
「え、ちょっと」
 引き留める間もなく行ってしまった。熊。この辺に出るのか。そもそも厳重に警備が張り巡らされた封鎖区域で、どうやってフェンスを越えて狩りに出かけるのか。数多の疑問が脳内を弾幕のように流れて、その後残ったのはどうしようもなく子供じみた寂寥だった。
 期待が思うような形で報われないと、ひどい気分になる。変わっているとはいえ、向こうはこちらよりもずっと立派な存在なのだった。わざわざわたしに付き合ってやる道理もない。彼のことをどこか舐めていた自分にも気が付き、心臓が嫌な音を立て始めるのを止められなかった。
 ふらふらと反対側の壁まで歩き、背を預けて座る。この部屋にいるのは苦しい。でも、ここで待っていろと言われた。長く息を吐いて、膝を抱えて、ただ時間が過ぎるのを待つ。言いつけを守るというよりも、わたしに向けて発せられる「ただいま」を性懲りもなく期待していたのだった。
 どれくらいそうしていただろうか。部屋の電気がつき、ぱっと顔を上げる。膝上から腹にかけて服を真っ赤に染め、何かの肉塊を両手からぶらさげたマユウラくんが、玄関に立っていた。息が止まる。
「ごめん。熊一頭は部屋に持って入れないから、外で捌いて必要な部分だけ選別してたら時間かかった」
 服を汚していたものは、彼ではなく熊の血液だったらしい。わたしは止まっていた呼吸を再開させた。雑なやり方で靴を脱いで、ずかずかとこちらへやってくる。血が床に垂れるのもお構いなしだ。
「手出して」
 恐る恐る右の手のひらを上に向けて出すと、茶褐色の物体をぼとりと落とされた。肉のように柔らかくはないが、まだ血糊がついたままだ。
「なに、これ」
「熊の爪。マタギは魔除けとして使うんだって。免許取ったとき、講習してくれた先生が言ってて俺全然信じてなかったんだけど。これで感染者とか不審者避けになるとは思えないし。でも俺、名前ちゃんに持ってて欲しいって思ったんだよな。さっき蟲毒見てすごい顔してたとき。だから新しく獲りに行った」
 熊肉を引っ提げたままもじもじと落ち着かない彼を見ていたら、笑いにも似た何かが込み上げてきた。
「ふ、ふふ」
 同時に、塩辛い涙が頬を伝う。マユウラくんが台所に肉を置いて、顔色一つ変えないまま、しかしあたふたしながらこちらへ近づいてきた。
 わたしの頬を親指でぐい、と押し上げる。加減をしているつもりなのか分からないくらいの強さで。指が顔の上でぬるりと滑った。
「あれ、泣いてる?笑ってもいる。なんで。どっか痛い?もしお腹痛かったら乾燥させた胆嚢も持ってたはず、苦いよ」
 すでに部屋の中を探し始めている彼をやんわりと制止する。
「ううん、お腹は大丈夫」
 血で汚れていない方の手の甲で目元をぬぐった。
「マユウラくんはやっぱ違う世界に住んでる人なのかなって考えてたの、さっきまで。わたしは凡人で、こんなことになって仕事もなくなっちゃってからアイデンティティとかも全部失ったような気持ちで。だからマユウラくんのこと、なんだろう、憧れっていうのもちょっと違うのかな。いや、そうなのかも。とにかく置いて行かれるのが本当に怖くて」
 彼はあこがれ、と繰り返した。消化しきれない文字列の扱いに困っているように。そして再びわたしの前に跪く。
「最初、俺のこと知り合いって言ったから。名前ちゃんの中で俺、それくらいの存在なんだって思ってた」
「ごめん、勘違いさせて。そんなことないよ、また会えてすごく嬉しかった。マユウラくんがよかったら、もっと仲良くさせてほしい」
 いつもぼうっとしているような彼の表情は、今や壊れ切っていた。目を白黒させ、口には変な力が入って開いたまま歪んでいる。次に発せられた声はよわよわしく、向こう側の壁で息づく虫の羽音にも負けそうだったが、音量のツマミを回したように徐々に大きくなっていった。
「ずっと特別で、九年間ずっとそうで。今日会ったときも心臓止まるんじゃないかと思った。そのあとすごい勢いで動き出したけど。名前呼ばれて、これ幻聴かって。何回も脳内で声反芻したせいでつい聞こえちゃったのかなって。でもそうじゃなかった。熊撃ちに行ってるときも、いつもみたいに集中できなくて。やっとの思いで帰ってきたけど中に名前ちゃんいるって思ったらドアノブ触るのも緊張して、もしいなくなってたらどうしようっていうのもあったし、七回深呼吸してからドア開けた。置いてかれたくなかったんだ、俺のこと待っててくれたんだ、どんな気持ちで待ってた?教えて、一分刻みで。ああ俺って、言えないんだよ。知り合いくらいに思われてたら、こんなこと言えない」
 その言葉の洪水は暴力にも近くて、わたしは殴られた後みたいにくらくらしていた。
「でも違うなら」
 無骨な手が、機械人形のような動きでわたしの頭の後ろに回った。光の入りにくい濁った瞳にぼんやりと映るわたしの顔が、どんな色かは読み取れない。しかし、その奥で像を結ばれているであろう表情が、少しでもマシなものであるよう願って瞼を閉じた。


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