X以外のSNSでの投稿にはPrivatter+がおすすめです
Xフォロワー限定公開・リスト限定公開の停止について

あなたの声で、恋になる

全体公開 16 23533文字
2026-07-20 22:00:09

御影小次郎と3年目文化祭『白蛇伝』の話。
『遠回りして、ここまで』『ここにいる、ということ』の前日譚です。

Posted by @itoha_tkmm



文化祭準備が始まって数日経った昼休み。

高校最後の文化祭ということもあってか、昼休みの教室は普段より騒がしい。演し物の準備、どの出展を回るかの計画、非公式ミスコンの結果予想。わたしはどの輪にも入らずに、窓際の自分の席で冊子を広げていた。
学園演劇。白蛇伝。コピー用紙を折ってホチキスで止めた簡素な台本は、ヒロインの白娘子の台詞にマーカーが引いてある。日々台詞の暗記に追われていた。
喧騒に気を取られて、文字が全く頭に入ってこない。それを理由にしてため息をつくと、台本とペンケースだけ持って席を立った。


入学したばかりの頃。職員室よりも理科準備室にいることの方が多いと話した担任を、変な人だと思った。だから、いつでも遊びに来ていいぞという社交辞令を真に受けたフリをした。
理科準備室は、三学年分の資料に教材、窓際に置かれたいくつかの小さな鉢、机に置かれた写真立て、他にも沢山のものが置かれたお世辞にも広いとは言えない部屋で、それでもどうしてか居心地が良かった。最初の頃は授業の質問を理由に行って、少しずつ理由が無くても通うようになった。雑談、相談。傘を持ってきていないのに土砂降りになったからと、雨宿りついでに行ったこともあった。先生はその時によって、小テストの丸つけをしている時もあるし、窓際の鉢をいじっている時もある。 普段は片手間のていで、真剣な時はその手を止めて。取り留めもないくだらない話も、少し真面目な相談も、雑に扱わずに聞いてくれるのが好きだった。

廊下は教室ほどじゃないけれど、それでも普段より賑やかだった。遠くで誰かが笑っている声。足音。文化祭前特有の、少し浮ついた空気。
その中で、この扉だけがいつも通りに見える。木目の薄いドア。小さな窓。貼りっぱなしの注意書き。三年間、何度見たか分からない景色。

ノックを二回。
「失礼しまーす」
返事を待たずに開ければ、理科準備室は、今日もいつも通りだった。
窓が少し開いている。秋の風がカーテンを緩く揺らしていた。机の上には資料の山。壁際の棚にはファイルやら教材やら。窓辺の植物は前来た時より少し背が伸びている気がする。
先生は窓際で、小さい鉢を覗き込んでいた。わたしが来たことに気付いても、今日も来たのかくらいの反応で、その適当さが少しだけ有難かった。来ていることを重く捉えられてない感じがして、だからこそ居座ることを許してもらえているような気がした。
「今日はどうした」
「避難しに来ました。教室……騒がしくて」
「今はどこもそんな感じだろ」
先生が笑って、それから机の上の資料の山を寄せてくれる。空いたスペースの端にペンケースを置いて、台本を開いて、それでもやっぱり入ってこない文字列に項垂れる。

「勉強か?」
「台本です……
開いていたページを先生に向ければ、マーカーで引かれたラインの量に「大変そうだな」と苦笑して、それからまた先生の視線は鉢に戻る。

教室にいた時は耳についた笑い声も、ここまで来ると流石に遠い。
風の音。紙をめくる音。鉢の葉が擦れる音。
何も起きないこの空間はいつ来てもなんだか息がしやすくて、それなのに胸が苦しい。
台本を眺めるふりをしながら、先生を見る。優しい目。癖のある明るい茶髪が陽の光に透けていた。長い指。大きな手。植物を触る時の丁寧な手つき。
……進んでるか?」
気付けばその優しい目はわたしに向けられていて。
……全然です。覚えられる気がしません」
突っ伏すようなフリをして、台本で顔を隠す。開いていたページに、あたかも今の今まで読んでましたというように視線を落とす。向かいの椅子が引かれる音がした。それから、軽い笑い声。
「主役がそんなことでどうするんだ」
「分かってますけど…………笑うなら覚えるの手伝ってくださいよ」
「そうは言っても、手伝いようがないだろ」
「そんな事ないですよ。相手の台詞読むとか……
「なるほどな。それくらいならやってもいいぞ」
…………えっ、」
軽口の応酬に返された言葉の意味を数秒かけて理解する。手に力が入って、台本のコピー用紙が音を立てた。慌てて顔を上げる。……先生の返事は軽いけれど、嘘を言っているようには見えなかった。

……い、良いならその、お願いしたいですけど……
「なんだ急に畏まって。……台本借りていいか」
「はい……
最早顔を隠すことにしか使っていなかった台本を、机の上をスライドさせるようにおずおずと差し出す。先生の大きな手がそれを摘みあげる。表紙も裏表紙も何も書かれていない、コピー用紙を閉じただけの簡素な台本。特に頭に入ってこない、開き癖がついた後半のページの内容のことを考える。なんだか気まずくて先生から顔を背けて、表情をこっそり窺う。
ぱら、と捲る。最初のページの人物紹介と配役に視線が留まる。ほんの少しだけ眉を寄せた。また何度か捲って、数ページ読んで、恋愛劇だったのかと小さく呟いた。
……あれ、えっと、言ってませんでしたっけ」
「覚えられないって愚痴しか聞いてないぞ」
そうだったっけと思い返してみれば、確かにそうだったような気もする。台本を持って理科準備室に来るのは今日が初めてでは無いけれど、先生はいつも机のスペースを空けてくれたあとは好きに過ごさせてくれていたから。声をかけて茶々入れをしたくなるくらい、分かりやすく視線を向けてしまっていたのだろうか、今日のわたしは。

…………。まぁ、いいか。どこからやるんだ」
「えぇと、……じゃあ、はじめの方から。序盤は覚えられてるはずなんですけど、もし間違ってたら教えてください」
……分かったよ」
ため息をつくように言って、それから最初のページを捲り直して、先生は台本に視線を落とした。

『この時間がずっと続けばいいのに』
『続くさ』
……何故そう言い切れるのです』
『俺がそうしたいと思っているからだ』

……なんだ、上手いじゃないか」
「先生は棒読みですね」
「悪かったな、力不足で」
……ふふ」
その方がいい、と思った。先生のその柔らかい声が好きだ。だから役得だと思ったし、それでも感情を込めて読まれてしまった日には、平常心でいられないと思った。
……じゃあ、次のシーンいきますね」
……あぁ」

紙を捲る音。
ドアの向こうでは昼休みのざわめきが続いているはずなのに、この部屋はそこから切り離されたみたいだった。台詞を読むというより、ただ書いてあるものを口にしているだけのような読み方。大好きな声というだけで、ただの台詞が響きを変えたような錯覚に陥る。

『あなたと居ると、不思議で』
『何がだ』
『代わり映えのしない景色も、あなたが隣にいると色付いて見えるのです』

そんな大袈裟な、と思っていた。同時に不思議だった。誰かとの出会いひとつで、景色の見え方が変わるなんて。世界にはいつだって同じ色がついている。恋をしたから世界が鮮やかになったり、逆に苦しくなると灰色になったり。そんなの気のせいだと思っていた。
それなのに、先生を前にしてこの台詞を言った途端、意味が分かってしまったような気がした。理科準備室へ向かう廊下は、いつからか他の廊下より少しだけ明るく見えるようになった。昼休みの終わりが近づくと、理由もなく惜しくなることがある。先生が鉢に水をやっているだけの時間だって、そばにいるだけでなんとなく嬉しい。

「覚えられてるじゃないか」
……まぁ、最初の方は……
「最初の方?」
「後半が全然だめなんです」
「出来てないところがわかってるなら、大丈夫だろ」

台本から視線を上げないまま、先生が口元だけで微かに笑う。ページをめくるその指先から目が離せない。色がついていた。本当はその感覚もずっと分かっていたのかもしれないと思った。先生に出会ってからの世界にはきっと、とうに鮮やかな色がついていた。

『また、会えますか』
『もちろんだ』
『約束ですよ』
『ああ』

三年前。この理科準備室にいつでも来ていいと言われた時だって、先生はきっとそこに意味を込めていたわけではないだろうなと思う。それでもわたしはそれを勝手に約束みたいに受け取って、それから三年間。先生が迷惑そうにしたことは一度もない。来るたびに、散らかった机の上を少しだけ片付けてくれる。忙しそうな時でも、帰れとは言わない。わたしが何をしていても、基本は自由にさせてくれる。
……十分すぎるくらいだ。そのはずなのに。『約束ですよ』と白娘子の台詞を反芻してしまう。
立場が違って、結ばれることを許さない人がいる。きっと白娘子はそれを分かっていた。分かっていて、それでも恋に落ちて、近付きたいと望んで、彼の言葉を約束として受け取ってしまう。きっと幸せだった。彼が言葉を返してくれるだけで、恋に落ちたことがすべてに許された気がした。きっとそれは途方もない虚無だった。次の約束を強請っておきながら、御伽噺のようなハッピーエンドが用意されていないことを誰よりも分かっていた。
わたしだって、分かっているつもりだ。先生と生徒だから。この関係に続きはない。

……おい、どうした。台詞飛んだか?」
「えっ? ……あ、えぇと。……考えごとしてました……
「随分余裕だな? 何考えてたんだ」
「いや、その……。台詞の意味が、ようやく分かった気がして」
「台詞の意味が?」
先生がわずかに首を傾けた。

聞き返されると思っていなかった。何気なく零した言葉だったから。先生は話したくなさそうにすればそれ以上は踏み込まないけれど、こちらが言葉を探している間は、急かさずに待っている。
いざ説明しようとすると恥ずかしくなった。机の下で弄る指先が熱かった。

「白娘子は、許仙のことが好きなんですよね」
「そういう話みたいだな」
「でも、自分たちが簡単には一緒にいられないってことも分かってる」
先生が一度、台本へ目を落とす。数ページしか読んでいないのに、話の大筋はもう掴んでいるらしい。
「だから、また会えるって言ってもらえたこと、すごく嬉しかったんだろうなって。……本当は、ずっと一緒にいられる約束じゃないのに」

口にするほど、自分の胸の内側を指でなぞっているような心地がした。
いつでも来ていい。
あの日の先生の言葉は、教師が生徒へ向けた、気軽な親切。それ以上の意味がないことくらい、最初から知っていたはずだった。

先生が机の上にわたしのための場所を作ってくれるたび、今日もいていいのだと思えた。追い返されなかったことを、許されたことだと勝手に思った。三年間積み重なった、先生にとっては何でもないかもしれない時間を、わたしだけが大事に抱えている。

「約束だと思いたかったのかもしれません」
……白娘子が?」
ほんの少し遅れて問い返される。
「白娘子が、です」
念を押すように言うと、先生は何とも言えない顔をした。疑っているようにも、困っているようにも見える。けれどすぐに、いつもの緩い表情へ戻った。
「随分ちゃんと考えてるじゃないか」
「主役なので」
「さっきまで覚えられないって机に突っ伏してた奴がよく言うよ」
「覚えるのと、気持ちを考えるのは別です」
「はいはい」
軽くあしらわれる、そのやり取りに救われた。さっきまで胸の奥に広がっていた寂しさが、先生の笑い声で少しだけ薄くなる。

先生は再び台本を開いた。けれど、次の台詞へ進む前に、紙面を見たまま静かに言った。
「言葉にした方は、案外そこまで考えてないかもしれないぞ」
「え?」
「また会おうって言う時に、どこまで先のことを考えてるかなんて分からないだろ。次の日のことだけかもしれないし、ずっと先まで含めてるのかもしれない」
先生の指が、許仙の短い台詞の横に添えられる。
『ああ』
たった二文字。
白娘子が抱えた期待と恐れ。その短い返事だけでは、どう思われてるのかなんて何ひとつ分からない。

「じゃあ、どうやって判断するんですか」
「本人に聞くしかないんじゃないか」
あまりにも正しい答えに、肩の力が抜けた。
「御伽噺なのに、急に現実的ですね」
「そういうもんだろ。勝手に相手の気持ちまで決めつけても仕方ない」
先生らしい言葉だった。分からないなら聞けばいい。期待する前に確かめればいい。きっと、言っていることは正しい。

でも、先生に聞くことなんてできるわけない。

三年間ここへ通い続けているわたしを、どう思っているのか。いつでも来ていいという言葉は、いつまで有効なんだろう。卒業して生徒ではなくなった後にも、会いたいと言ったら会ってくれるのかな。
聞いてしまえば、先生はきっと正しく答える。その正しさが怖い。

……聞けないことも、ありますよ」
視線を落としたまま言うと、向かい側から返事がなくなった。

風が入る。カーテンが膨らんで、机の上のプリントの角がぱらぱらと鳴った。先生が手を伸ばし、飛びそうになった紙を押さえる。

「そうだな」

長い間のあとに、低い声が落ちた。
もっと何か言われると思っていた。聞かなければ分からないだとか、勇気を出せだとか。そんな、先生らしい正論を。けれど先生はそれ以上何も言わず、台本へ視線を戻した。

「続き、やるか」
……はい」
先生はいつも、聞くべき時には聞いてくれる。それなのに、今だけは何も聞かなかった。そのことに安堵したのか、寂しくなったのか、自分でも分からなかった。これはきっと線引きだ。

次の場面へ進む。
『あなたのことを、もっと知りたいのです』
『俺の何を知りたい』
……何でも」
「ん?」
「あ、違います。今の台詞です」
「台本と違うぞ」
先生が紙面を指先で軽く叩く。
「正しくは、“あなたが見てきたものを、わたしにも教えてください”」
「意味は同じじゃないですか」
「勝手に変えるな。脚本書いた奴が泣くぞ」
「はぁい……
少しだけ不満を込めて返事をして、もう一度初めから言い直す。

『あなたのことを、もっと知りたいのです』
『俺の何を知りたい』
『あなたが見てきたものを、わたしにも教えてください』
先生の目は台本だけを見ている。わたしの方を見ていないから、少しくらいなら本当の気持ちを混ぜても分からないだろうと思った。
先生の生まれ育った牧場のこと。子どもの頃のこと。机の写真立てを時折見つめている、その時に考えていること。知りたいことなら、いくらでもあった。三年間そばにいても、わたしの知らない先生の方がずっと多い。

『そんなもの、聞いても面白くないだろう』
先生が読む。
『わたしが知りたいのです。面白いかどうかは、わたしが決めます』
今度も、すんなりと言えた。
先生が台本から顔を上げる。目が合う。ほんの一瞬だったのに、胸の奥を見透かされたような心地がして、逃げるように視線を落とした。

……お前、この辺は本当に覚えてるんだな」
「自分でも不思議です」
「覚えられないって話はなんだったんだ」
「だから、後半なんですって」
「はいはい。今日はそこまで行けそうにないけどな」

言い終わるのと同時に予鈴が聞こえた。
もうそんな時間なのかと思う。理科準備室へ来てから、まだいくらも経っていないような気がするのに。
先生も壁の時計を見上げ、それから台本を閉じた。

「続きはまた今度だな」
また今度。その言葉に、心臓がひとつ大きく鳴った。

……また、付き合ってくれるんですか」

問いかける声が、思っていたより慎重になった。先生は不思議そうに目を瞬かせる。

「一回で覚えられるなら苦労してないだろ」
「そうですけど」
「昼休みなら、まあ。俺がいればな」

どこまでも何気ない言い方だった。約束ではない。明日もいるとは言わない。いつまで続けるとも決めない。それでもわたしは、その言葉をまた勝手に大切なものへ変えてしまう。

「じゃあ、明日も来ます」
「おう」
返されたのは、やっぱり短い一言だった。けれど今度は、台本の中の白娘子がどうしてあれほど嬉しそうに『約束ですよ』と言ったのか、もう考えるまでもなく分かった。



窓際では大道具係が段ボールに色を塗る相談をしていて、黒板の前には当日の役割分担を書いた模造紙が貼られている。誰かが開けた絵の具の匂いと、昼食の名残が混じった空気。教室中が文化祭へ向かって少しずつ形を変えていくのを横目に、わたしは弁当箱の蓋を閉めた。台本とペンケースを抱えて立ち上がる。誰にも声をかけられないうちに教室を抜け、いつもの廊下を歩いた。

今日は曇っていた。窓から差し込む光は薄く、廊下の床も壁も、昨日より色を失って見える。外では風が強いらしく、校庭の木々が枝を揺らすたび、ざわざわと低い音が窓越しに聞こえてきた。

理科準備室の前まで来る。
「明日も来ます」と言った。先生は短く「おう」と返しただけだった。
約束だと思っていいのかは分からない。それでも今日は、扉を開けた先に先生がいなかったら、きっと少しがっかりする。そんなことを考えてしまった自分を誤魔化すようにノックをした。

「失礼します」
今日は返事を待ってから扉を開けた。
先生は机に向かっていた。昨日と同じように資料が積まれているけれど、わたしがいつも使う側だけは、初めから少し空いているように見えた。
偶然かもしれない。そう思いながらも、その空いた場所へ台本を置く。

「来たな」
先生が顔を上げる。
「来るって言ったので」
「律儀だな」
「先生が忘れてたらどうしようかと思いました」
「忘れてないよ。今日は後半だろ」

あまりにも自然に返されて、一瞬、言葉が止まった。
昨日は後半が覚えられないと話しただけで、どの辺りからとは細かく言っていなかったはずだ。それなのに先生は、机の上へ差し出した台本を受け取ると、迷わず後ろの方を開いて、何度かページを捲る。

「この辺か」
……はい。そこから先が全然」
「前半はあれだけ入ってたのにな」
「仕方ないじゃないですか」

向かいの椅子へ座りながら、わたしは台本を覗き込む。
先生が手にしているせいで、いつも自分で読んでいる時より紙が小さく見えた。先生の親指がページの端を押さえている。そこには昨日ついたばかりの折り目があった。
「じゃあ、ここからな」
先生が許仙の台詞に目を落とす。


『おまえと離れている時間は、これ以上いらぬ。ともに生きよう』
昨日と変わらない、感情を抑えた読み方だった。それでも、声が耳に届いた途端、胸の奥が小さく波打った。
ともに生きよう。
誰かに言われることを想像したわけではない。けれど、先生の声で聞くと、その言葉が急に現実の輪郭を持つ。

「次、お前だぞ」
「あ……
慌てて自分の台詞を思い出そうとする。
覚えたはずだった。家でも何度も読んだ。けれど、喉の奥まで出かかった言葉が、そこで止まる。

……えっと」
先生が台本へ視線を戻した。
「『これで』から」
「分かってます」
「なら言え」

少しだけ笑われる。わたしは一度息を吸って、台詞を口にしようとした。
『これで……いいのです』
声に出した瞬間、自分で違和感を覚えた。続きが出てこない。
先生は急かさずに待っている。
窓の隙間から入った風が、カーテンを膨らませた。灰色の光が揺れ、先生の横顔を一瞬だけ淡く覆う。

……やっぱり、分かんないです」
「台詞か?」
「台詞は分かるんですけど」
「じゃあ何がだ」
「気持ちが」

先生が台本から目を上げた。真っ直ぐに視線を向けられて、少しだけ居心地が悪くなる。それでも、ここまで言ってしまった以上、誤魔化す方がもっと不自然な気がした。

「どうして、これでいいって思えるのかなって」
開いたまま机に置かれた台本。該当箇所を指先で示す。
『これでやっと、あなたと同じ時間を感じることができます』
その次に待っているのは、許仙の悲痛な呼びかけだ。白娘子はこのあと、許仙を残して逝く。少なくとも、この台本ではそうなっている。

「白娘子は、自分が長くないって分かってるんですよね」
「そうみたいだな」
「それで、許仙も分かってる」
「ああ」
「なのに、なんでこれでいいって言えるんですか」

先生はすぐには答えなかった。わたしは台本へ視線を落とす。繰り返し読んだはずなのに、その台詞だけはずっと自分の中へ入ってこなかった。

「好きだったら、少しでも長く一緒にいたいって思うものなんじゃないんですか?」

言いながら、胸の奥がざわついた。
先生の前で言うには、少し踏み込みすぎた言葉だったかもしれない。けれど、これは白娘子と許仙の話だ。そう言い訳をするように続ける。
「この台本では、二人は好き同士だって、お互い分かってるんだし……
自分の声が、思っていたより小さく聞こえた。

好きだと分かっている。それなら、迷う必要なんてないはずだ。会いたいと言えばいい。一緒にいたいと言えばいい。少しでも長くそばにいたいと、互いに望めばいい。先生と生徒みたいに、言ってはいけない理由があるわけでもない。少なくとも、この場面の二人は、もう互いに好きだと分かっているのだから。

……先生は、そう思いません?」
先生の指が、台本の端で止まった。ほんの僅かな変化だった。けれど、三年間何度も向かいに座ってきたから分かる。何かを考える時、先生は一度だけ目を伏せる。すぐに答えられることなら、こんなふうに間を置かない。

「俺は……
言いかけて、止まる。
風が強く吹いた。窓の外で枝が揺れ、葉の擦れる音が大きくなる。机の上のプリントが浮き上がり、先生は片手でそれを押さえた。

……どうだろうな」
ようやく返ってきたのは、曖昧な言葉だった。
「先生でも分からないんですか」
「分からないっていうか」
先生は少し困ったように笑った。その表情を、わたしはよく知っている。質問へ答えたくない時。けれど、嘘もつきたくない時。
「一緒にいることだけが、相手のためになるとは限らないだろ」
「でも、」
思ったより早く言葉が出た。
「残される方が、一緒にいたかったって思ってたら。勝手にこれでいいって決められても、納得できないんじゃないですか」
自分でも、どうしてこんなに必死になっているのか分からなかった。ただ、白娘子の台詞を読もうとするたび、胸の奥が苦しくなる。いつか終わることを知っているからといって、先に諦めるのは違うと思いたい。一緒にいられる時間を、自分から短くする理由にはならない。

「わたしだったら嫌です」
先生は黙っていた。
「好きな人に、わたしのためだからって勝手に離れられたら。そんなの、その人が傷つきたくないだけじゃないですか」
言い切ってから、胸の内側が冷えた。
先生の顔を見られなくなる。台本の話をしているだけだったはずなのに、いつの間にか、自分の願いをぶつけているような言葉になっていた。

卒業が近づいている。
高校最後の文化祭。
あと数か月もすれば、この部屋へ来る理由はなくなる。担任と生徒という関係も終わる。
それを先生がどう考えているのか、わたしは知らない。

卒業した後も会いたいと言ったら、困るだろうか。先生と生徒だった頃の思い出として、綺麗に終わらせる方が正しいと思うだろうか。

……すみません」
気まずさに耐えられなくなって、小さく謝る。
「役の解釈の話なのに、熱くなっちゃって」
「いや」
先生の声は静かだった。
「いいんじゃないか。そう思うなら、それが今のお前の白娘子なんだろ」
「でも、台詞は『これでいい』って」
「納得してなくても、言わなきゃいけない言葉はある」
……そんなの、悲しいです」
「そういう場面なんだろ」

あまりに穏やかに言われて、胸の奥がさらに苦しくなる。
先生はもう一度台本へ視線を落とした。さっきまでの困ったような笑みはなかった。何か遠いものを見ているような、静かな表情。

「白娘子は、これでいいと思い込もうとしてるのかもしれないな」
「思い込もうと?」
「自分がいなくなることを、相手に受け入れさせるために」
……優しいんですか、それ」
「優しいつもりなんじゃないか」
先生の指先が、白娘子の台詞をなぞる。
「でも、残される方にとっても優しいかは別だ」
さっきのわたしの言葉を認めるような返事だった。それなのに、なぜか安心できなかった。

先生は、白娘子の選択を否定しなかった。理解しているように見えた。大事だから離れる。相手のために、自分から線を引く。
先生自身がそういうことを選べる人なのだと、急に思った。

……先生は」
また問いかけそうになって、やめる。
先生が顔を上げた。
「なんだ」
……何でもないです」
聞けなかった。

先生は好きな人ができたら、少しでも長く一緒にいたいと思うのか。それとも、その人のためだと言って、自分から離れることができるのか。
答えを知るのが怖かった。

「続き、やるか」
……はい」

先生は台本へ目を落とした。
『逝くな……!』
それまでと同じように抑揚をつけないつもりだったのだと思う。けれど、その声は僅かに低く、掠れていた。
『私を置いていかないでくれ』
先生は台本を見ている。わたしの方を見ない。

『これで……いいのです』
声が震えた。これでいいなんて、思えない。
『これでやっと、あなたと同じ時間を感じることができます……

最後まで読み終えた時、理科準備室はひどく静かだった。
遠くで誰かが笑っている。文化祭の準備をする音がする。
わたしたちにはまだ時間がある。今日の昼休みも、明日も。その先だって、卒業までは何度もこの部屋へ来られる。それなのに、終わりが急に近づいたような気がした。




昼休みの理科準備室で台本を読むことが、いつの間にか日課になった。昨日も来たから今日も、というほど明確な約束をしたわけではない。明日も来ますと宣言することも、先生が明日も付き合うと言ってくれるのも、最初の数日だけだった。それでもそれはいつものことになりつつあって、本番が近づいてからは、途中で止めずに最初から最後まで通すことも増えた。

昼食を終えて台本を持っていけば、先生がいる。
いなければ仕方がないと思っていたのに、幸い一度もそんな日はなかった。扉を開ければ、小テストの答案を捲っていたり、パソコンに向かっていたり、鉢の枯れた葉を取り除いていたりする先生がいる。そして決まって、机の上には台本を広げるだけの空間ができていた。
それがわたしのために空けてあるのか、それとも偶然なのかは聞かなかった。聞いてしまえば、どちらかに決まってしまうから。

「今日はどこからだ」
その日、わたしが椅子へ座るより先に、先生がそう尋ねた。
「昨日の続きからです」
「昨日の……ああ、」
先生は開き癖のついたページを自然に開いた。
「ここからだろ」
示された箇所を見て、頷く。
「はい」


『何を恐れている』
『あなたに知られることを』
『俺が、おまえを恐れると思うのか』
相変わらず平坦な声だった。聞き取りやすく、つかえることもない。けれど演技と呼ぶには、あまりにも何も込められていない。ただ、そこに並んだ文字を声へ変えているだけ。
わたしはその方がいいと思っていた。そのはずだった。

『正体を知れば、きっとあなたも――
自分の台詞を言いながら、ふと先生へ目を向ける。
台本は開かれている。けれど、先生の目は紙面の上を追っていなかった。
わたしを見ているわけでもない。少し斜め下へ落とされた視線は、台本の綴じ目辺りにぼんやり置かれている。文字を読む時の、行に沿って僅かに動く目の動きがない。それでも、間を違えずに次の台詞が返ってきた。
『おまえがおまえであることに、何の変わりがある』
一言も間違えなかった。
胸の奥が、小さく鳴った。偶然だと思った。何度も読んだ場面だから、さすがに少しくらいは頭へ入っているのかもしれない。先生は記憶力がいい。授業で教科書をほとんど見ないことも、生徒一人一人の成績や苦手な単元を覚えていることも、三年間そばで見てきた。
だから、特別なことではない。

『それでも、わたしは怖いのです』
『なら、怖くなくなるまでそばにいよう』

また。
先生の視線は台本へ落ちていない。今度ははっきり分かった。台本を持つ指も、次の行を探すようには動かない。どこを読んでいるのか分からないほど曖昧な場所へ視線を置いたまま、先生は正確に許仙の台詞を口にしている。
少なくとも、この辺りはもう覚えてしまっている。その事実に気づいた途端、心臓が少しだけ速くなった。
毎日読んだから。わたしの練習に付き合って、何度も同じ場面を繰り返したから。先生の頭の中に、この台本の言葉が残っている。わたしが忘れてしまう台詞を、先生の方が覚えている。

「どうした。また飛んだか」
……違います」
「じゃあ続き」
「はい」

何でもない顔をして、続きを読んだ。先生も何も言わなかった。
覚えているんですか、と尋ねることはできた。たぶん聞けば、先生は大したことではないように笑うだろう。毎日聞いてれば嫌でも覚える。教師だから記憶力がいい。
その程度の返事をされるだけだ。だから聞かない。代わりに、先生に気づかれないように何度も盗み見た。

次の場面でも、その次の場面でも、先生はほとんど台本を見なかった。

ページを捲る時だけ紙へ目を落とし、場面の始まりを確認する。そのあとは、わたしの台詞が終わるのを待って、正しい間で言葉を返す。

『おまえに会えない日々へ戻るくらいなら、どんな災いも受け入れよう』
淡々とした声。
『それでも、わたしのそばにいると?』
『ああ』
声が揺れることも、低くなることもない。
台詞の内容が何であろうと、同じ温度で読む。先生はずっとそうだった。最初の日から、演技をするつもりなどないのだろう。
それでも時々、思ってしまう。わざと、何も込めないように読んでいるのではないか。
好きだとか。そばにいたいとか。離れたくないとか。そんな台詞の時ほど、先生の声は不自然なくらい平らになる気がした。
けれど、それはきっと、わたしがそうだったらいいと思っているからだ。何も感じていないのではなく、感じないようにしている。台本の中の言葉が、ほんの少しでも本心と重なってしまうから、わざと遠ざけるように読んでいる。そんなふうに考えれば、わたしにとって都合がいい。先生も同じように苦しくなってくれているのだと、勝手に期待できるから。

そんなはずはない。教師が生徒の練習に付き合っているだけだ。

先生は最初からずっと、越えてはいけない線を間違えない。課外授業で隣を歩く時も、冗談を言って笑い合う時も、わたしが少し近づきすぎた時には、気づかないふりをしながら半歩だけ遠ざかる。
それを優しさだと知っている。知っているから、何も言えない。

『わたしがいなくなっても、どうか――
「違う」
先生の声が途中で入った。
「え?」
「そこ。“わたしがいなくなったとしても”だ」
先生が台本へ視線を落とす。けれど、指で示した箇所は少しずれていた。やっぱり、見ていなかったのだと思う。
……合ってませんでした?」
「意味は同じでも台詞は違うだろ」

「先生、ちゃんと覚えてるんですね」
喉まで出かかった。けれど、唇を開く前に飲み込んだ。代わりに、何でもないように笑う。
「細かいですね」
「確認してくれって言ったのはお前だろ」
「そうでした」

『わたしがいなくなったとしても、どうか悲しまないでください』
先生の表情は変わらなかった。
ただ、台本を持つ指先が僅かに強く紙を押さえた気がした。
気のせいだ。そう思った瞬間、許仙の台詞が返ってくる。
『そんな願いを、俺が聞き入れると思うか』
やはり、ひどく平坦な声だった。
『おまえのいない先のことなど、考えるつもりはない』
感情のない読み方。だからこそ、言葉だけが鮮明に残る。先生が何も込めていない分、わたしが勝手に意味を注ぎ込めてしまう。
わたしのいない先のことなど考えないでほしい。卒業したあとも、忘れないでほしい。この三年間が、先生にとって、生徒を送り出したというだけの過去にならないでほしい。
自分勝手な願いが、台本の言葉へ重なっていく。

……おい」
「はい」
「また止まってる」
「ごめんなさい……
「後半、本当に駄目だな」
先生が小さく笑った。いつもと変わらない笑い方だった。だから誤魔化すように、わたしも一緒に笑う。
「だから手伝ってもらってるんじゃないですか」
「そうだったな」

先生が台本の次のページを捲る。その動作だけは、初めて読む時と変わらず丁寧だった。けれど、次の台詞へ目を通す時間は、ほとんどなかった。

一度聞いた時とまったく同じ間で、先生が言う。
『おまえがいない時間より、不幸なことなどない』
淡々と。言葉の意味を遠ざけるみたいに。
『おまえがいない時間をただ諾諾と過ごすことに、何の意味があろうか』
先生は台本を見ていない。今度は、わたしを見ていた。視線が合ったのは、きっと偶然だった。わたしが顔を上げたから、先生もこちらを見ただけ。そこに意味なんてない。そう思うのに、次の台詞が出てこなかった。
先生の目はすぐに紙面へ落ちた。何事もなかったように。

……次、お前だぞ」
「分かってます」
声が少し掠れた。先生がそのことに気づいたかは分からない。自分の台詞は、もう頭に入っているはずだった。それでも思い出すまでに、少し時間がかかった。

先生が許仙の台詞を覚えていることには、最後まで触れなかった。
触れてしまえば、その理由を尋ねたくなる。毎日読んだからなのか。付き合うと言った手前の責任感なのか。それとも。
そこから先を期待してしまう自分がいることを、わたしは誰より知っていた。だから何も聞かない。先生も何も言わなかった。



放課後の練習は、昼休みとはまるで違った。
机と椅子を教室の端へ寄せて作られた簡素な舞台。窓には暗幕代わりの布が掛けられ、床には立ち位置を示す色つきのテープが貼られている。背景に使う予定の大きな板はまだ完成していなくて、塗料の匂いが教室の隅に残っていた。

昼休みの理科準備室では、机を挟んで座っているだけだった。
先生が台本を持ち、わたしが覚えた台詞を口にする。間違えれば直されて、止まれば次の言葉を教えられる。それだけ。
けれど放課後は、台詞を言うだけでは足りない。どこで歩き出すか。相手のどちら側へ立つか。視線はどこへ向けるのか。許仙の手を取る場面では、どの角度なら客席から自然に見えるのか。
演出係の声が飛び、そのたびに同じ場面を繰り返した。

「そこ、もう少し許仙の方見て」
言われて、顔を上げる。向かいに立っている男子生徒と目が合った。
同じ学年ではあるけれど、これまで一度も同じクラスになったことがない。名前は配役表を見て初めて知った。声をきちんと聞いたのも、台本の読み合わせが始まってからだった。
悪い人ではない。台詞を間違えれば素直に謝るし、こちらが立ち位置を迷えば少し待ってくれる。相手役としてはやりやすい方なのだと思う。
だから、何でも演技として割り切れた。

『あなたと居ると、不思議で』
教室の中央で、許仙役の彼を見る。
『代わり映えのしない景色も、あなたが隣にいると色付いて見えるのです』
台詞は滑らかに出た。胸が苦しくなることもない。理科準備室で同じ言葉を口にした時には、先生の横顔や、三年間通った廊下のことが勝手に浮かんだ。言葉の意味を考えるだけで、胸の奥へじわじわと熱が広がったのに、今は何も浮かばない。
相手の目を見る。白娘子らしく聞こえるよう、声を柔らかくする。
ただ、それだけだった。
「今のいい感じ。そのまま次のシーンいこう」
演出係に声をかけられ、許仙役の彼が次の台詞を読む。

『俺が、おまえを恐れると思うのか』
はっきりとした声だった。先生よりずっと感情が込められている。演技なのだと分かりやすい抑揚がついていて、客席へ届かせることを考えた読み方だった。
『おまえがおまえであることに、何の変わりがある』
続く言葉にも詰まらなかった。
『それでも、わたしは怖いのです』
『なら、怖くなくなるまでそばにいよう』
先生が台本を見ずに、平坦な声で読んだ言葉。その時は次の台詞が出てこなくなった。喉に何かがつかえたようになって、意味もなく先生の顔を見てしまった。
けれど今は、覚えた通りに言える。
言葉は口から出て、そのまま教室の空気へ消えていく。練習を止めることはなかった。先生との読み合わせを始めてから、台詞の覚えは確かによくなった。後半の、どうしても感情が理解できなかった部分も、少なくとも順番通りに口にできるようになった。

『これで……いいのです』
ちゃんと言えた。
『これでやっと、あなたと同じ時間を感じることができます……
声を震わせる。相手の手を取る。膝から少しずつ力を抜き、白娘子が命を失っていく様子を演じる。
許仙役の彼が、こちらへ手を伸ばす。
『逝くな……! 私を置いていかないでくれ』
悲痛な声。先生より、ずっと上手だった。感情が分かりやすく、聞いている人にも伝わる。演出係も満足そうに頷いていた。
それなのに。
胸の中には何も落ちてこなかった。怖くもない。苦しくもない。ただ、次の動きを忘れないように、相手が差し出した腕の中へ倒れ込む。

「はい、そこまで!」
声が上がる。張り詰めていた教室の空気がほどけ、周囲から小さな拍手が起きた。
「今のよかったよ。二人とも、台詞もう大丈夫そうだね」
「ありがとうございます」
許仙役の彼とほとんど同時に答える。

立ち上がり、体操服についた埃を払う。
上手くできた。一度も台詞を飛ばさなかった。先生に手伝ってもらった成果が出たのだと思う。
嬉しいはずだった。
これで迷惑をかけずに済む。主役として足を引っ張らずに済む。本番だって、きっと問題なくできる。それなのに、どこか物足りなかった。何が足りないのか、考えないようにした。
許仙役の彼の演技が悪かったわけではない。むしろ先生よりずっと上手だった。台詞にも感情が込められていて、手を差し出すタイミングも、目を合わせる間も自然だった。なのに、先生の平坦な声の方が、ずっと胸に残っている。
『おまえがいない時間より、不幸なことなどない』
何も込めないように読まれた言葉。
『おまえのいない先のことなど、考えるつもりはない』
わざと遠ざけるような声。感情のこもった今日の台詞より、先生の棒読みの方が、何度も頭の中で繰り返される。

声が好きだから。ずっと聞いてきた声だから。三年間も好きでいた人の声だから、台本の言葉まで特別に聞こえてしまっただけ。
そう言い聞かせる。それ以上を考えてはいけない。
先生がわざと感情を込めなかった理由も、台本をほとんど見ずに読めるようになった理由も。わたしと同じように何かを感じているのではないかなんて、期待してはいけない。

「お疲れさま」
許仙役の彼に声をかけられ、顔を上げる。
「うん。お疲れさま」
笑って返す。
「昼休みも練習してるんだっけ。すごいね」
……まあ、少しだけ」
「だから急に台詞飛ばなくなったんだ」
悪気のない言葉に、少しだけ胸が痛んだ。
急に台詞が言えるようになった。それが、正しい成果だ。

昼休みの時間は、本番のための練習でしかない。台本を覚えてしまえば、もう先生に付き合ってもらう必要はない。
今日は後半まで一度も止まらずにできたのだから、明日からは行かなくてもいい。教室で残りの準備を手伝えばいい。昼休みを削ってまで練習をする必要はないし、先生だって本来は仕事がある。
そう考えると、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような気がした。

台本を覚えたくないわけではなかった。文化祭を成功させたい気持ちもある。それでも、覚えてしまったことを、少しだけ残念に思っている。その理由には、もう気づいていた。
練習がしたくて、理科準備室へ行っていたわけではない。先生と少しでも長く一緒にいられる、誰にも咎められない理由ができたことが嬉しかった。恋愛劇の相手役をしてもらうなんて、普段なら頼めない。先生だって、理由がなければ引き受けなかっただろう。
台詞を覚えられないという口実があったから、毎日あの部屋へ行けた。先生の声で、好きだとか、そばにいたいとか、置いていかないでくれとか、そんな言葉を聞くことができた。それが全部台本だと分かっているから、聞いていられた。

……最低」

誰にも聞こえない声で呟く。
自分で練習を頼んでおきながら、目的が変わってしまっている。
台詞はもう覚えた。本番の相手とだって、問題なく合わせられる。それでも明日の昼休みになれば、きっとまた台本を持って教室を出る。後半の感情がまだ分からないとか、細かい間を確認したいとか、探せば口実なんていくらでもある。

先生は気づくだろうか。もう練習しなくても大丈夫だと。気づいても、何も言わずに台本を開いてくれるだろうか。

教室の片付けをしながら、窓の外を見る。
日は傾き始めていた。校舎の影が長く伸び、昼休みには灰色だった空が、薄い橙色へ変わっている。

世界はいつだって同じ色をしていると思っていた。
けれど今は、先生のいる昼休みと、いない放課後では、同じ教室さえ違って見えた。
明日も行くのだろう。もう覚えた台本を抱えて。覚えられないふりをして。そう考えた自分がおかしくて、少しだけ口元が歪む。

明日の昼休みが来ることを、もう待ち遠しいと思っていた。



文化祭本番まで、あと四日。

廊下の掲示板には、完成したばかりのポスターが何枚も並んでいた。色とりどりの画用紙、太いマーカーで書かれた店名、目立つ場所を奪い合うように重ねて貼られた矢印。教室の前を通るたび、金槌の音や誰かを呼ぶ声が聞こえる。校舎全体が、普段とは違う大きな生き物になったみたいに、落ち着きなく息をしていた。

その騒がしさの中を、台本を胸に抱えて歩く。
もう、必要ないのかもしれない。少なくとも、台詞を覚えるためには。
昨日の放課後も一度も飛ばなかった。立ち位置を間違えることはあっても、次の言葉が出てこなくなって練習を止めることはなかった。演出係からも、あとは細かい動きを合わせれば大丈夫だと言われている。
なのに、今日も台本を持ってきた。理由は考えない。考えれば、理科準備室の前まで来た足が止まってしまいそうだった。

二度ノックして扉を開けると、先生は机に向かっていた。赤いペンを持ち、小テストの答案へ丸をつけている。窓は閉まっていたけれど、薄い秋の日差しがガラス越しに差し込み、机の隅に積まれた資料の影を長く伸ばしていた。
わたしを見ると、先生は一度だけ時計へ目をやった。
「今日も来たのか」
「来ました」
「見れば分かるよ」
軽く笑われる。
机の端には、今日も一人分の空間があった。そこへ台本を置き、いつもの椅子へ座る。先生は答案を数枚まとめて端へ寄せると、赤いペンのキャップを閉めた。

「それで?」
「今日もお願いします」
わたしが差し出した台本を、先生はすぐには受け取らなかった。表紙もないコピー用紙の束へ視線を落とし、それからわたしを見る。
……お前さ」
「はい」
「さすがに、まだ覚えられてないなんてこと無いだろ」
あまりにも真っ当な指摘だった。答えに詰まり、台本の角を指先で摘まむ。紙が僅かに曲がった。

……まだ、完璧ではないです」
「昨日の通し練習、台詞は一度も止まらなかったって聞いたぞ」
……誰から聞いたんですか」
「担任を何だと思ってる」
先生は呆れたように息を吐いた。

文化祭の進行について、職員室なんかで話題になるのかもしれない。あるいは、練習を覗いた誰かから聞いたのかもしれない。
どちらでもよかった。誤魔化せると思っていた自分の方が、どうかしている。
「覚えてるのと、ちゃんと分かって言えるのは違うので」
苦し紛れに答える。
「役の気持ちとか。細かい間とか」
「そういうのは本番の相手と合わせた方がいいだろ」
「それは放課後やってます」
「なら、もう俺の出番ないんじゃないか?」

淡々とした言い方だった。
責められているわけではない。追い返そうとしているようにも聞こえない。ただ、本当に疑問に思っているような声。
だからこそ、胸が痛んだ。
出番がない。その通りだった。わたしが頼んだのは、台詞を覚える手伝いだ。もう覚えたのなら、先生が昼休みを使って相手役をする理由はない。ここへ来る理由だって、本当は台本がなくてもいいはずなのに。三年間ずっと、理由がなくても通っていたのだから。
それなのに、今更ただ会いに来たとは言えなかった。台本を読むという口実を得てしまったせいで、それを失うのが怖くなった。

……まだ、後半が」
「後半も言えてるんだろ」
「言えますけど」
「なら覚えてるじゃないか」

先生の口元に、僅かな笑みが浮かぶ。完全に見透かされている気がして、俯いた。
膝の上に置いた手が、台本の端を強く握る。

……来ちゃ駄目でしたか」

言ってから、しまったと思った。そんな聞き方をするつもりではなかった。もっと軽く、じゃあ今日は帰ります、と笑えばよかった。先生が困らないように。わたしがただ練習へ来ただけだったことにできるように。
先生の表情を見るのが怖くて、顔を上げられない。
部屋が静かになる。
廊下を走る足音が、扉の向こうを通り過ぎていった。遠くで誰かが笑い、すぐに聞こえなくなる。

「そうは言ってないだろ」

やがて、先生の声が落ちてきた。いつもと変わらない、柔らかな声。
「台詞覚えるためなら、もう十分なんじゃないかって言っただけだ」
……同じじゃないですか」
「全然違う」
すぐに否定される。
思わず顔を上げると、先生は困ったように眉を下げていた。その表情も、もう何度見たか分からない。わたしが一歩踏み込みすぎるたびに、先生はこういう顔をする。拒絶するほど冷たくはなれなくて、けれど受け入れることもできない人の顔。
「別に、ここへ来るのに台本はいらないだろ」
心臓が止まったような気がした。
先生は何でもないことのように言い、わたしの手から台本を取る。その大きな手が紙へ触れた瞬間、指先が僅かに擦れた。ほんの一瞬の接触なのに、そこだけ熱が残った。
「三年間、そうだったんじゃないのか」
机上の台本の端を指先で弄ぶ。表紙のない白い紙の束。ここへ来るために必要だと思い込んでいたものが、二人の間に横たわっていた。
……でも」
声がうまく出なかった。
「最近は、ずっとこれを理由にしてたので」
「理由がないと来づらいのか?」
……今は、ちょっと」
先生が黙る。
どうして、と尋ねられたら答えられない。一年生の頃とは違う。何も考えずに扉を開けられた頃とは。
先生のことが好きだと自覚してから、この部屋にいる時間は少しずつ意味を変えた。そばにいることが嬉しくて、帰るのが惜しい。先生の言葉一つで浮かれて、些細な視線に期待する。ただ遊びに来ただけだと、もう自分に言い聞かせられない。

……まあ、いいけどな」
先生が小さく息を吐いた。それから台本を開く。何度も読み合わせたせいで柔らかくなった紙が、抵抗もなく後半の場面を開いた。
「やるんですか?」
「持ってきたんだろ」
「でも、……
「お前がまだ必要だって言うなら、付き合うよ」

先生はもう台本へ視線を落としていた。本当に読んでいるのかは分からない。近頃は、紙面を確認するふりをしているだけのことの方が多い。
……必要です」
小さく答えた。何が、とまでは言わなかった。読み合わせが。練習が。先生と過ごすこの昼休みが。どれを指しているのか、曖昧なままでいられるように。
先生も聞き返さなかった。

「じゃあ、どこからだ」
「昨日の続きから」
「昨日の続きっていうと……

声は平坦だった。
好きだとか、離れたくないとか、そんな言葉の時ほど、先生の読み方は薄くなる。
何も感じていないからなのか。何かを感じていると悟られないためなのか。分からない。分からないままでいる方がいい。

「次、お前だぞ」
……はい」

先生はわたしを見ていた。
その目に期待しているものが映っていないか、怖くなる。

……ほら、やっぱり覚えてるじゃないか」
場面が終わると、先生が笑った。否定できなくて、わたしも小さく笑う。
「そうみたいですね」
「何しに来てるんだか」
冗談めかした声。そこに答えを求められていないことに甘えて、わたしは台本へ視線を落とした。

何をしに来ているのか。
もう、自分では分かっている。
先生と少しでも長く一緒にいたいから。ただそれだけ。

白娘子の気持ちが理解できないと言いながら、願いだけは、最初から痛いほど分かっていた。
好きなら、少しでも長く一緒にいたい。
だから、覚えてしまった台本を持って、今日もここへ来た。

本番まであと四日。
その数字がゼロになった時、この口実も終わる。
そう思うと、まだ始まってもいない別れを惜しむように、昼休みの残り時間が急に短く感じられた。




文化祭本番まで、あと二日。
黒板の脇には文化祭当日の注意事項が書かれたままで、窓際には教室の出展に使う段ボールが積まれている。色紙や布の切れ端が机の間に落ちていて、教室全体が普段の学校生活から少しずつはみ出し始めていた。
先生が教卓の前に立つ。いつも通りの姿だった。片手に出席簿を持って、少し眠そうにしている生徒を見回して、それから一度だけ息を吐いた。

「文化祭の件で、ひとつ連絡がある」

その言い方で、教室の空気が少し変わった。後ろの方で続いていた小声が止まる。先生はすぐには話し始めなかった。何か言葉を選んでいるように、ほんの少しだけ間を置いた。

「学園演劇で許仙役をやる予定だった生徒が、家庭の事情で文化祭を欠席することになった」

一瞬、誰も何も言わなかった。言葉の意味が教室全体へ行き渡るまで、少し時間がかかった。
それから、ざわめきが広がる。

「嘘」
「演劇どうなるの?」
「今から代役立てる?」
「無理じゃない?」

机を挟んで声が飛び交う。
先生は、詳しい事情には触れなかった。ただ、本人と家族に大きな事故があったわけではないこと、今はそちらを優先すべき状況であることだけを短く説明した。

わたしは何も言えなかった。
心配だった。
放課後の練習で何度も向かい合った相手だった。よく知っているわけではない。それでも、昨日まで普通に話して、台詞を交わしていた。突然本番へ来られないほどの事情が起きたのだと思えば、胸の奥が重くなった。
大丈夫なのだろうか。無理をしていなかっただろうか。本人が一番悔しいはずだ。

そう考える。考えているのに。その合間へ、別の思いが入り込んでくる。

許仙の台詞を全部知っている人がいる。台本を見なくても、間違えずに言える人。毎日、昼休みの理科準備室で、わたしの相手役をしていた人。

そう思ってしまった瞬間、自分のことが少し嫌になった。許仙役の彼を心配しなければいけない。演劇に出られなくなったことを残念に思わなければいけない。それなのに、その向こう側で、先生が舞台へ立つ可能性を考えている。

先生の声で、あの台詞を聞くこと。理科準備室では、いつも平坦に読まれていた言葉を。舞台の上で、演技として向けられること。

本番の許仙として読むなら、当然、棒読みのままではいられない。客席へ届くように、白娘子へ届くように、感情を込めて読まなければならない。
その相手は、わたしだ。

考えただけで、喉の奥が狭くなる。平坦に読まれただけでも、何度も次の台詞が出てこなくなった。先生が意識して声を震わせたり、苦しそうに呼びかけたりしたら。わたしは白娘子として、ちゃんと返せるのだろうか。それとも、台本ではない何かを期待してしまうのだろうか。

「今、担当の先生たちで対応を相談してる」
教卓の前で、先生が続ける。
「学園演劇をどうするかは、決まり次第伝える。関係者は、今日は予定通り準備を続けてくれ」

中止。その可能性が初めてはっきりと意識へ上がった。
演劇そのものがなくなるかもしれない。
大道具係が何日もかけて色を塗った背景。小道具係が作った扇や髪飾り。衣装の寸法直し。放課後の練習。演出を巡って少し揉めて、それでも何度も話し合って決めた動き。全部なくなる。
許仙役がいないから仕方がないと、誰も責めはしないだろう。それでも、今まで積み上げたものは戻らない。他に台詞を覚えている人がいないなら、先生が覚えていることを、言わなければ。

けれど、どう説明すればいいのだろう。
御影先生は許仙の台詞を全部覚えています。毎日、昼休みに二人で読み合わせをしていたから。
その言葉を、他の人の前で言えるだろうか。
ただ練習に付き合ってもらっただけだ。何もやましいことはない。それなのに、誰にも知られたくないと思ってしまう。
毎日、理科準備室へ通っていたこと。恋愛劇の相手役を何度もしてもらっていたこと。二人だけのものだった時間へ、急に教室中の視線が向けられるような気がした。

それに、先生自身はきっと言わない。
自分なら代役ができると、進んで名乗り出るような人ではない。教師が生徒の恋愛劇の相手役をするなんて、普通に考えれば無理がある。台詞を覚えているだけで、衣装も動きも本番の段取りも知らない。先生なら、他の方法を探そうとするだろう。
もっと現実的な方法。
演目を短縮する。台本を持ったまま上演する。最悪の場合は中止する。
それでも、先生なら仕方がないと言うのかもしれない。仕方がないというのは正しい言葉で、でもその言葉で終わらせたくなかった。

一日中、頭から離れなかった。授業中も、昼休みが近づくほど落ち着かなくなった。
今日は理科準備室へ行く理由を考える必要なんてなかった。むしろ、行かなければならない。
台本を抱えて、教室を出る。


いつもと同じ扉。
二日前まで、ここへ来る口実がなくなることばかりを怖がっていたけど、今日は違う。
扉を開けた先で何を言うか、決めきれないまま来てしまった。
先生に代役を頼む。それがどれだけ無茶なことなのかは分かっている。教師として立場があるし、準備の時間はない。そもそも先生がやりたいと思うかも分からない。
それでも。
演劇をなくしたくない。みんなが作ってきたものを、舞台に乗せたい。その気持ちは本当だった。
本当なのに、その中へ自分勝手な願いが混ざっている。
先生と舞台に立ちたい。先生から、許仙の言葉を向けられたい。そんなことを思っている自分がいる。その後ろめたさごと心の内へ抱えたまま扉を開けた。

理科準備室は、今日も変わらなかった。
窓際の鉢。資料の山。少し開いた窓から入る風。薄いカーテンが揺れている。
先生は机に向かっていた。難しい顔をして何枚かの書類を見ている。おそらく文化祭の対応についての資料なのだと思う。

わたしが入ると、先生は顔を上げた。台本を持つ手に力が入って、紙が折れる音を立てた。先生の視線が、それへ落ちる。

「今日は読み合わせどころじゃないだろ」
「そう、ですね」
言葉が続かない。
先生は急かさなかった。椅子の背へ少し体を預け、黙ってわたしを待っている。
いつもと同じだった。くだらない話なら片手間に聞いて、真剣な時は手を止める。机の上の書類から手が離れている。全部聞くつもりでいてくれる。それが分かるから、余計に苦しかった。

……許仙役の子」
ようやく声を出す。
「大丈夫なんですか」
「ああ。詳しいことは言えないが、本人に何かあったってわけじゃない」
「そうですか」
少しだけ安堵する。それでも、出られないほどの事情があることに変わりはない。
「本人も、かなり悔しがってたよ」
……そうですよね」
胸が痛む。


「演劇は。……どうなるんですか」
先生の目が僅かに細くなる。
「今、相談中だ」
「中止になる可能性もありますか」
「ないとは言えないな」
分かっていた答えなのに、心臓が重く沈んだ。

「他に、全部覚えてる人なんていないと思います」
先生の目が僅かに動いた。
「そうだろうな」
「主役だから、台詞も多いし」
「ああ」
「今から覚えるのも、無理だと思うし」
……そうだな」
一つずつ逃げ道を塞ぐように言う。それでも先生は、自分からは何も言わなかった。

演劇を中止にしないためには、それしかないから。そう言い聞かせる。
でも胸の奥では、別の気持ちが動いている。先生と舞台へ立ちたい。先生の許仙を見たい。感情を込めて読まれる台詞を聞きたい。

手の中で、台本に皺が寄る音がした。
どんな返事が返ってきたとしても、今までの昼休みが違う意味を持ってしまいそうで、こわかった。

先生はまだ待っている。
わたしの言葉を。三年間、何度もそうしてくれたように。

普段は片手間のふりをして。真剣な時は、その手を止めて。
だから、逃げられなかった。

顔を上げる。
先生と目が合う。大好きな、優しい目。その奥に何があるのかは分からない。
分からないまま、声を出す。

「あの、御影先生……。わたしの練習に付き合ってくれたから、台詞覚えてますよね?」


投稿にいいねする


© 2026 Privatter All Rights Reserved.