@drmto0605
初の武道館ライブ。ずっとここに立つことを夢見てきた。それが今夜、ようやく叶う。
本番前特有の静かに張り詰めた空気の中、俺とゲンは楽屋で最終調整に入っていた。椅子に腰掛け、透明なグラスの水を口に含みながら、やや距離を置いた所に立つゲンに尋ねる。
「他の奴らは?」
「羽京ちゃんは音響監督んとこ。龍水ちゃんは会場内モニターで画角のチェック。クロムちゃんはルーティンで外の空気吸いに行ったよ」
淀みなく他メンバーの動向を話すゲン。こいつに聞けば、人探しはしなくていいから楽だ。オフの日のスケジュールまで何故か把握してんのは流石にちょい引くが。ゲンはグループ内で唯一の武道館経験者だった。
「千空ちゃん、準備オーケー?そろそろ行く?」
「ああ⋯⋯先行っとけ。ちーと後で上がるわ」
そう言って、机の下に隠した自分の拳を握りしめる。自分でも笑えるくらい手ぇ震えてやがる。こいつをなんとかしねえと、ステージなんざ上がれねえ。客に無様な姿は見せられない。完璧に仕上がった姿を用意するのが、自分の仕事なのだから。
俺の様子をじっと見ていたゲンが、ツカツカと俺の方に歩み寄ってきた。
「千空ちゃん、ちょっとこっち見て」
「────っ」
ゲンが腕を引き、俺を椅子から立ち上がらせて、腰に手を回す。突然距離が近くなりギョッとしたところで、唇を重ねられた。顎に手を添えられて、ゲンの都合のいい角度に操られる。
繋がった部分から柔らかい熱を流し込まれているような感覚にグラリと脳が揺れた。
「んんっ、────ふ、⋯⋯っん」
今までもゲンにその場のノリでキスされたことはある。こーいうのはファンの子が喜ぶからとか言って。でも、今日のコレは、長え⋯⋯!つか誰も見てねえ!今するメリットなんてなんもねえだろ。
膝の力が抜けて、テーブルにガンとぶつかる。水が入ったグラスの水面がちゃぷりと波打った。
「ん゛ー!んー!────ぷはっ、はぁ⋯⋯⋯⋯んんっ!?」
一度息継ぎの間を与えられて、終わったと思ったところでまた口を塞がれる────こいつ俺がなんか言うまで止めねえつもりだ。脳内酸素が限界を迎え、右手でゲンの胸を強めに三回叩いてタップアウトした。
「ギブアップ?かーわい♡」
「テメー⋯⋯なんのつもりだコレは」
口を拭いながら問い詰める。
「脳の興奮が高まると、瞳孔ちょっと開くんだよね。ファンの子達は敏感だから、そ~いうのわかると思うよ。これで千空ちゃん、今夜もバイヤー魅力的になっちゃうね♪」
何事もなかったかのように、身体を解放された。ゲンは俺の顔を見てニッコリと笑うと、くるりとターンしてドアの方に向かう。肩越しに振り返りながら、言葉を足された。
「あ、でも千空ちゃんそのお顔は⋯⋯ちょびっと刺激が強すぎるから、鏡見て整えてから来てね。先に行ってるよ」
俺は言われるがまま、バカ正直に壁一面の鏡で自分の顔を見てしまった────軽い酸欠で潤んだ目と薄く紅潮した頬。客観的に映し出されて、更に顔が熱くなる。クソッ⋯⋯自分のこんな顔を見たくはなかった。ゲンにハメられた。
バタンとドアを閉じた音が室内に響いた。
「スタンバイ十分前でーす」
遠くでスタッフの声が聞こえる。
さっきのキス。あれはゲンの俺に対するフォローだ。テキトーなことほざいていたが、要は俺の緊張を軽減させようって腹だろ。隠した手の震えに気付かれていた。
そしてゲンは、俺が奴の⋯⋯キスの意図を悟るだろうということを解っている。その上で俺の様子を見て楽しんでいやがる。
何もかも見透かされ、釈然としない気持ちのまま、左右にイヤモニを身に着けて楽屋の扉に手をかけた。
気づけば手の震えは止まっていた。