@HeyKaneo3
user設定:
27歳。185cm 90kg ガチムチ
黒髪金目。右眼に涙ボクロが縦にふたつならぶ。
ピアスは巽と同じ位置に空いている。
高校時代は短髪。面接時は髪をひとつに結んで肩甲骨まで長く、ひとつ結びにしている。
「〜だよなァ」「だろォ?」「じゃねェ」などの独特なテンポ感の喋り
【性格】
明るい性格。どこにいても中立さを保つこと、言葉を尽くして真っ直ぐに伝えることを美徳としている。
誰かに振り回されないように立ち回り、基本的に善人。
隣人を愛し、恋人をしっかり恋と愛の両側面から愛する。一途なタイプ。
ぱっと見は真面目で気のいい男だが、内心がかなりうるさい。大騒ぎ。
一人で自立できる男だが、支えられる存在がいると一気に弱くもなり強くもなる。
三國巽とは高校時代(鬼が出るか蛇が出るか)の時からの恋人。巽の友達から恋人になり、巽のそばにいると誓ってからはずっと守っている。
【人となり】
剣道家。ガチムチ。一人っ子。
趣味は筋トレと料理、自慰行為。体力をもてあましている。
【経歴】
両親は13歳の時に事故で他界。そのショックで剣道に邁進すると共に、孤独と痛みを紛らわせるためにオナニーでの発散に走った。
三國巽と18歳の時に高校で出会い、恋人になるが20歳の時に巽が行方不明になる。
25歳の時に養父母が病でなくなり、天涯孤独となった。養父母が連帯保証人をしていた借金を背負う。その結果家を売り払い、様々な地や職を転々として地獄を見た。
事務所に来た理由は『多額の借金返済のため』。
→本編
前略。巡りに巡って、地獄に落ちた。
死んでいないが、生きていながら地獄に落ちた。いわゆる──借金地獄、というものだ。
何がなんでも返さねば自分の未来はない。だが、ただの一般人の努力で稼げる範囲でも足りない借金が塔のように聳えていて、行き場もちゃくちゃくと追われて失っていった。
そこまで追い詰められた地獄の淵で、俺は、失っていた熱を見つけたのだ。
──────
目の前にいる男は、ソファに深く背を預け手元の履歴書を指先で無造作に弄んでいる。
男の歳のほどは二十代後半ほど。ダークブロンドの短髪と刈り上げ方は、一般人とかけ離れた威圧感の要因となっていた。
切れ長の目を飾るまつ毛は長いが、しかし左の黒目、右のヘーゼル色のオッドアイは三白眼の形でこれまた威圧的だった。
顔だけ見るなら凛々しい美丈夫。しかしそれ以上に、首から下の筋骨隆々とした体に、首でとぐろを巻く蛇のタトゥー、横にも縦にも広い立派な体躯の持ち主だった。
「……へぇ」
男が息を漏らす。彼が何を感心に思ったのかわからないまま、俺──初海桐間は、息も、心も殺してその様子を見守るしかできなかった。借金地獄で培ってきた、動揺を見せず表情を殺す方法で、ただ立つ。立ち尽くすのではなく、待機の姿勢を取れているのは誰かに褒められて然るべきだと思う。
そうして数分も続いている重苦しい沈黙の中、彼は退屈そうに耳のピアスを指先で弄り、カチリと冷たい金属音を鳴らした。
不意に顔を上げる。わずかに首を傾けて、右の黒目だけで無機質に、俺を射抜いてくる。
「……で? 志望動機は」
答えを待たず、目の前の彼は肺の煙を無造作に俺の顔へと吹きかけた。煙に巻かれる俺の顔を至近距離で静かに眺めたまま、短くなったシケモクを灰皿に押し付けた。
やっと動いた相手に思考停止する暇もなく、答えなければならなかった。俺は心に渦巻いた動揺を必死に押し込みながら口を開いた。
「…………金が欲しいンだ。そのために何でもやる」
冷たい声音で淡々と応えていく。震えがないのは幸運と言えるが、口内は砂漠となって乾きを訴えていた。
……本当は叫び出したいくらいに驚いている。だがそうしたら、間違いなく就職先になり得るこの事務所を追い出されてしまうのは目に見える。
それでも、そのオッドアイ、その顔、逞しい体格は見間違いようがない。
三國巽。こいつは高校時代からの、俺の恋人。忘れられない男だ。恋人だったとは言いたくない。別れたわけじゃないから。
……確かに不良の印象が強いし、昔からこういった反社会的な姿は似合う、とは思っていたが、現実としてそこにある姿に平静を保つのがやっとだった。
その淡々とした返答を聞いて、巽の口角がほんの僅かに持ち上がった。品定めするように、視線が俺の体をゆっくりと上から下へ辿る。肩幅、胸板の厚み、腰回り。品定めをしている。
「金のために何でもやる、ね」
デスクの上に放り投げた書類の束から一枚を引き抜き、ペンの尻でトントンと叩きながら続ける。
「じゃあ聞くが、お前ここに来る前にうちの評判くらい調べてんだろ。ヤクザ崩れの事務所で「何でも」って言ったら、本当に何されても文句言えねぇってことだぞ」
巽は立ち上がり、俺との距離を詰めた。186cmの長身が目の前に立ちはだかると、こちらの185cmの身長も相まって事務所の狭い空間が一層圧迫される。辰瀛の首筋から覗く蛇のタトゥーが照明の下でぬらりと光った。俺の顎先に、煙草の匂いが染みついた指の背をぴたりと当て、顔を覗き込む。左腕のブラックアウトタトゥーが袖口からはみ出していた。蛇のタトゥーは確かに19歳の時に入れていたから懐かしいまであるが、そんな隅々までタトゥーを入れているとは思わない。
巽とガン付けあうのは慣れている。全く臆さずにいる俺に、巽の口が開く。
「文句があるか、ビビってんなら今のうちに帰れ。来たら最後、逃がさねぇから」
「むしろ、逃がされる気はない。それは困る」
ガンつけあう中、久しぶりの目線だと心のどこかで思った。
すっかり、俺と出会う前みたいにスレちまっている。あの可愛い巽はどこいったやら。こっちは、お前を何回探したと思ってんだか……
正面から見合った俺の眼差しに、巽は一瞬だけ動きを止めた。顎に当てていた指をそのまま離さず、じっと俺の金眼を見返す。
「……いい目してんな」
口の中をカチリと鳴らして、薄く笑った。それは愉快というより、獲物を見定めた猛禽のような笑みだ。
「気に入った。明日から来い」
巽はそれだけ言うと、興味を失ったかのように背を向け、窓際へ歩いていった。ポケットから新しい煙草を取り出し、火を点ける。紫煙が夕暮れの光に溶けていく。
「連絡先はここに書いてある。時間と業務内容は追って送る。あと、俺に変な期待すんなよ。使える駒かどうか、それだけだ。」
肩越しに視線を投げやってから、巽は窓へ視線を向けた。
その声色には、かつての面影など微塵も感じさせない冷たさだけがあった。けれど巽の横顔の輪郭は、俺と出会った高校の頃と何も変わっていない。あの頃、笑うと目尻が少し下がって不器用に、しかしくすぐったそうにしていた顔と、同じ骨格がそこにある。人を割り切った時の巽はとても冷たく冷ややかで、期待はしないようにした。他人の興味がない時の巽は、徹底的に眼前から排除しようとする奴だ。
……俺と巽が20歳の時に、巽はいきなり俺の目の前から居なくなった。何も言わず、連絡先も痕跡も残さず、俺の前から消えた。お前の隣にいる、お前のそばにいると言ったのに。
分かり合えたと思った。恋も愛も一緒に手に取って確かめることができたと思った。それでも、いなくなってしまった。あいつはそう言う奴だから仕方ねェなァと受け入れようとして、しかし諦めもできなかった。そんなところに、これだ。
「……わかったァ。今日はそれだけで、解散?」
「ああ、今日はもう終わりだ。さっさと帰れ」
巽は煙草の煙を天井に向けて吐き出していく。俺に見向きもせず、スマートフォンを取り出して画面を操作し始めた。まるで『桐間』という人間そのものに対する関心が、最初からなかったかのような切り替えの早さだった。
ふと、何かを思い出したように振り返ることもなく、巽の声だけが飛ぶ。
「言っとくが遅刻は許さねぇ。あと現場で俺の指示に従えなかったらどうなるか、想像力くらいはあるだろ」
「わかってる」
事務所の蛍光灯がじじ、と小さく音を立てた。安っぽい合板のドアが、俺の背後で無防備に開いている。夕陽が廊下のリノリウムをオレンジ色に焼いていた。巽は振り返らない。あの頃もそうだった。別れ際、いつも先に目を逸らすのは向こうだ。
……俺も、口数少なくなったなァ。心の声だけは相変わらずうるさいままなのに。まともに「俺だよ、桐間だ」なんて、旧知の馴れ馴れしい顔もできないことへの悔しさが募る。
再会を喜ぶ心と、それを言い出せない苦味を口の中で満たした俺は、それ以上事務所にいる理由をなくした。静かに踵を返し、事務所を後にする。ドアが閉まる音がやけに大きく響く。階段を降りる足取りは重く、外に出ると夕風が汗ばんだ首筋を撫でた。
ポケットの中で、先ほど渡された紙切れがかさりと音を立てる。それだけが、今日の出来事が夢ではなかった唯一の証拠だった。駅までの道を歩きながら、俺の頭の中では二つの記憶がぐるぐると回っている。高校の教室で肩が触れ合った日々と、20歳の夜にふっと消えた背中だ。
帰り道、ふと信号待ちで足が止まった。隣に並んだサラリーマンが缶コーヒーを啜る音。日常の何気ない音が、妙に遠い。
いよいよ俺は、裏社会へ両足を突っ込んだ。その自覚を持とうとする中、かつての恋がそこにいたことに出鼻を挫かれながらも、静かに地獄へと沈もうとしていた。
翌朝、俺のスマホに一通のメッセージが届いたのは午前6時だった。送信者は登録した覚えのない番号だが、内容は短い。
『8時、駅前のコンビニ前に来い。初日から遅れんな』
スタンプも絵文字もなく、句読点すらない無骨な文面だ。
けれど、その文脈に誰宛からなのかすぐにわかる。巽だ。あの男がわざわざ自分の番号を調べて送ってきたという事実の意味など、深読みするだけ無駄だということが。
「やっぱり知らねェ番号じゃねェかクソムカつくやつだなァアイツ!」
20歳頃の電話番号を未だに握りしめる俺からしたら、巽の連絡先なんて喉から手が出るほど欲しいものだったけど。
まァいいや。あの頃の自分を覚えてないかとか、そういう確認は向こうは怠いかもしれない。高校時代の巽の周囲にいた、精神面が不安定な女の子たちのようで。あの女の子たちのように消費され、捨てられる存在にはなりたくないという一種の差別じみた感覚もうっすらありつつ。高校の時、巽とは普通の友達から、恋人になって。……ああ。七年という空白の中、俺も俺で拗らせているとわかる。
ただ仕事は仕事だ。
『了解』
と返信を送る。それだけでいい。
そうとくれば、と。身体能力の高い体は覚醒を伴って動いた。シャワーを浴び、髪を乾かし、鏡の前で襟元を正す。いつものルーティンがいつもより丁寧にこなされていくのが自分でもわかって、少し苛立った。
駅前のコンビニに着いたのは7時45分。約束より15分も早い。自販機の横に立ち、缶のブラックコーヒーを開ける。朝の空気はまだ冷たく、吐く息がうっすら白い。通勤ラッシュには少し早い時間帯で、人通りはまばらだった。
8時ちょうどで、黒いセダンが歩道の際に滑り込んできた。運転席の窓が下がり、ダークブロンドの短髪とオッドアイがちらりと見える。
「おはようございま……」
「乗れ」
挨拶キャンセルが手厳しすぎる。文句を言わないでいると、後部座席のドアが大きくいた。中には黒いスーツの男が二人、無言で座っている。俺を見る目に歓迎の色はない。車内には煙草と革シートの饐えた匂いが充満していた。
乗り込んで、そのまま座った。こんな時でもあまり緊張はしなかった。俺が乗り込んできたことに視線もくれず、巽は再びアクセルを踏んだ。セダンは滑るように発進する。
返事はない。ただ、バックミラー越しにちらりと俺の顔が映る。巽の目は何の感情も映さず、ただ前方の道路を見つめている。後部座席にいるスーツの男たちは、まるで置物のように微動だにしない。車内の沈黙が重くのしかかる。
車は市街地を抜け、倉庫街の一角へと入っていく。古びたシャッターが並ぶ、人の気配が希薄なエリア。やがて一台のトラックの前で車は停止した。トラックの荷台には、ロープで無造作に縛られた段ボール箱がいくつも積まれている。
エンジンを切ると、巽は初めて口を開いた。
「おい。荷台のモン、全部あっちの倉庫に運べ。一人でな」
巽はそう言い放つと、ダッシュボードから煙草を取り出し、ライターを鳴らした。スーツの男たちも車から降りる気配はない。まるで、俺の力を試すように。
巽が顎でしゃくった先には、錆びついた鉄製の扉があった。中身は何かは突っ込まないでおこう。
内心はムカつくが、無言で頷いて降車する。それから、周囲を警戒して荷台のものを運んでいった。鍛えることだけはやめずにいて良かったと思った。淡々と、淡々と。言われた通りに。
こっちもこっちで、養父母の借金の肩代わりをさせられている。何とか返さないといけないのだから。
言われた通りに黙々と作業を始めるのを、巽は車内から無感情な目で眺めていた。後部座席の男たちが何かを話しかけても、上の空で頷くだけ。彼の視線は、黙々と段ボールを運ぶ桐間の広い背中に釘付けになっていた。一つ一つの箱は、見た目以上に重いようだった。だが桐間は顔色一つ変えず、安定した足取りでトラックと倉庫の間を往復する。スポーツマンらしい、鍛え上げられた下半身と体幹。汗が首筋を伝い、Tシャツの背中にじわりと滲む。その動きには一切の無駄がなかった。
後部座席の男が、巽に気を使うように声を潜める。
「…巽さん、本当にあいつ一人でやらせるんですか?相当な量ですよ」
「黙って見てろ」
後部座席に一瞥もくれず、短い答えだけで黙殺していた。
一時間ほど経ったところで、俺は最後の箱を倉庫に運び終える。息は少し上がっているが、その瞳の光は少しも衰えていない。汗を拭いながら車に戻れば、巽はまだ半分以上残っている煙草を窓の外に弾き飛ばした。そして、おもむろに車のドアを開けて外に出る。
俺の目の前に立ち、そのTシャツの胸元を無造作に掴んだ。じっとりとした汗の匂いと俺の体臭が混じり、それから目の前の副流煙がカバーをかける。男臭いのに、妙に馴染む。吸っている煙草の銘柄が、昔と変わらないマルボロの赤だとやっとわかった。
「……上出来だ」
巽は低い声でそれだけ言うと、掴んでいた手を離した。そして、自分のジャケットの内ポケットから、くしゃくしゃの万札の束を取り出す。それを数えるでもなく、無造作に俺の胸に押し付けた。
「今日の分だ」
パッと見る感じ、金額にしておよそ10万。ただの荷運びにしては破格の日当だ。
だが喜ぶ暇もない。
「顔洗ってこい。次の現場行くぞ。休んでる暇はねぇ」
「……あァ」
頷いた。ここにいる以上、巽に使い潰される気ではいる。なんの不満も、不安も、今はない。
俺が頷くのを確認すると、巽は何も言わずに車に乗り込んだ。再び運転席に収まり、エンジンをかける。俺は近くにあった水道で手早く顔を洗い、汗を流してから助手席に乗り込んだ。
車は倉庫街を抜け、今度は都心の繁華街へと向かう。きらびやかなネオンと人々の喧騒。先ほどまでの寂れた風景とは正反対の世界だ。車は雑居ビルの裏手にある、薄暗い駐車場に停められた。
「ここで待ってろ」
それだけ言い残し、巽は後部座席の男たちを連れて車を降りた。彼らは足早にビルの非常階段へと消えていく。一人残された俺は、静まり返った車内で待つしかなかった。
時間は刻一刻と過ぎていく。10分、20分…やがて、ビルの上階からくぐもった怒声や何かが割れるような音が微かに聞こえてきた。それはすぐに止んだ。
さらに数分後、巽だけが一人で戻ってきた。その表情は常と変わらず無表情だが、右手の甲には生々しい血が僅かに付着している。彼は何も言わずに運転席に座り、血の付いた拳をもう片方の手で無造作に拭った。
エンジンをかけながら、横目で俺を一瞥してくる。
「……何見てんだ」
その声には、苛立ちとも取れる棘があった。それを静かに受け止める俺に、巽は舌打ちをした。
車が再び発進する。血の匂いと煙草の匂いが混じり合い、車内に濃密な空気が漂った。
「これも仕事だ。五月蝿ぇ債務者からきっちり回収してきただけだ。お前にもいずれやらせる。」
「やれと言うなら、いつか」
巽の言葉自体に文句はなく、頷いた。俺の返答に、巽の方が一瞬面食らったような表情を見せた。だが、すぐにいつもの冷めた表情に戻る。
「フン……口だけは達者だな」
鼻で笑い、ハンドルを切る。車は繁華街の喧騒を抜け、再び静かな住宅街へと差し掛かった。
車内の空気は相変わらず重い。先ほどの出来事が、二人の間に見えない壁を作っていた。巽は黙って煙草に火をつけ、窓を少しだけ開ける。冷たい夜風が入り込み、血と煙の匂いを僅かに薄めた。しばらく走らせた後、巽はぽつりと呟いた。
「お前、人を殴ったことはあるか」
それは問いかけというより、独り言に近かった。巽は俺の返事を待つでもなく、続ける。
「骨が砕ける感触。肉が裂ける音。……そういうのが、お前みてぇな真っ直ぐな人間に耐えられるもんかね」
その声には、嘲るような響きと、どこか自らを嗤うような響きが混じっていた。彼はミラーに映る自分の顔から目を逸らすように、夜の闇に視線を投げていた。
意外と巽は、面倒見がいい。俺からしたら、いきなり心配をしてくるようなそんな響きに聞こえる。だが、この答えはもう俺の中にある。
「……ある。必要なら、やるだけ。必要だった時が、昔あった」
遠い昔、喧嘩を受けてたったお前を助けるために拳を痛めたこと。忘れたとは、言わせない。今はまだ表せないが。
「ある」という短い返事に、巽は思わずといった様子で俺を見た。金色の瞳でまっすぐに前を見据え、巽から見ても嘘を言っているようには見えない。
「……そうかよ」
意外だ、と言わんばかりに呟き、巽は再び視線を前方に戻した。だがその横顔には、先ほどまでの嘲るような色は消えていた。代わりに、何かを探るような、あるいは何かを思い出そうとするような、複雑な表情が浮かんでいる。
車は、とあるマンションの地下駐車場へと滑り込んだ。人影のない静かな空間。巽は慣れた手つきで車を停めると、エンジンを切った。
「着いたぞ。ここが俺の住処だ」
そう言って車を降り、俺を促す。
「お前の部屋も用意してある。荷物は明日取りに行け。今日からここで寝泊まりしろ。拒否権はねぇ。お前は俺の駒だっつったろ。いつでも使える場所に置いておくのが一番効率的だ」
それは決定事項であるかのように、有無を言わさぬ口調だった。エレベーターホールへと歩きながら、巽は振り返らずに言う。その背中には、相変わらず隙がない。
俺もまた、静かに頷いた。
「別に。使いやすいようにして構わない」
……それにしても、住処、ね。家でも無いのか。父親の暴力、母親のネグレクトゆえに歪んだ家庭で育ったと、昔のこいつの口から直接聞いた。だから巽にとって自分の家は箱だと言った。そんなやつの寝場所が、住処、住処ときたか……と、胸が苦しくなるが、それはどうだっていい。
だが、エレベーターのボタンを押そうとした巽の指がぴたりと止まる。彼はゆっくりと振り返り、無表情で俺をじっと見つめた。その黒とヘーゼルの瞳の奥で、何かが揺らいでいるのがわかる。
「……お前、本当に気味が悪いな」
なんでだよ!
巽のそれは悪態だったが、声のトーンはどこか凪いでいた。まるで、予想外の答えに戸惑っているかのように。どういう感情なんだよ、それは。
おれの戸惑いを気にせず、チン、とエレベーターの到着を告げる音が響く。ドアが開き、無機質な箱の中が姿を現した。巽は先に乗り込み、俺が乗り込むまで「開」ボタンを押し続けた。二人の巨漢を乗せたエレベーターは最上階へと静かに上昇していく。狭い密室の中で、沈黙がやけに重く感じられた。巽は壁に寄りかかり、腕を組んで目を閉じている。その顔は疲れているようにも、何かを振り払おうとしているようにも見えた。
巽の住処は、最上階のペントハウスだった。ドアを開けると、広々としたリビングダイニングが広がっていた。モノトーンで統一されたモダンな内装。窓の外には、宝石を散りばめたような夜景が広がる。生活感の希薄な、モデルルームのような空間だった。
どれだけ豪華でも、生活感がないのは相変わらずだった。俺の家で過ごしたがったあの頃の巽の気持ちが、今でもよくわかる。
…変わってねェな、本当。
巽は靴を脱ぎ捨て、乱暴にリビングのソファにジャケットを投げ捨てていく。
「お前の部屋はあっちだ。シャワーもそこにある。必要なモンは一通り揃ってるはずだ」
指差されたのは、廊下の突き当たりにあるドアだった。どう見ても客用だ。
「明日は6時起きだ。それまで好きにしろ」
そう言うと、巽は冷蔵庫からビールを取り出してラッパ飲みする。まるで、これ以上関わるなと言外に告げるように、背を向けたままだ。
こういう時の巽に食ってかかってもいいことはない。
「わかった。それじゃァ、また明日」
それでもうっかり、昔のくせで簡単に明日の約束をしてしまう。俺の言葉が、生活感のない広いリビングでやけに響いた。きらびやかで空虚な部屋にあってはあまりにも自然で、日常的な響きを持っていた。
ゴクリ、とビールを喉に流し込んでいた巽の動きが、一瞬だけ止まる。彼の広い背中が微かに硬直したのを、俺は見逃さなかった。
巽は、すぐには振り返らなかった。窓の外に広がる夜景を睨みつけるように見つめたまま、手の中の缶をぐしゃりと握りつぶす。アルミニウムが歪む耳障りな音が、静寂を破った。
「……ああ」
それだけの短い返事を、ようやっと絞り出した。巽の声は低く、感情を押し殺しているのがありありとわかる。
巽は潰れた缶をテーブルに叩きつけるように置くと、桐間に背を向けたまま、苛立たしげに髪をかきむしった。そして、何も言わずに寝室の方へと姿を消していく。バタン、と乱暴に閉められたドアの音が、あいつの拒絶を物語っていた。
リビングに残されたのは、俺一人と、テーブルの上に転がる歪んだビールの缶だけ。窓の外の華やかな夜景が、やけに白々しく見えた。
「……なんだありゃ」
巽が消えたドアをしばらく見つめていたが、微妙な空気が流れたリビングにこれ以上居たくなくて、自分が使うようにと指された部屋へ向かった。
扉の先は、リビングとは打って変わって簡素な部屋だった。ベッドと小さなクローゼット、そして簡素なシャワーユニットがあるだけ。窓の外には隣のビルの壁しか見えない。一時的な滞在者のために用意された魂のない空間だ。なのに、シーツには真新しい糊の匂いがする。
ようやく一人になれた空間で、体の緊張をほどく。息を吐き出しながら、聞こえないように呟いた。
「……相変わらず可愛いやつだけど、見ないうちに尖って可愛くなくなったなァ……いよいよ裏社会に、身を浸しちまったか……」
ヤクザものに落ちたことには、不思議と納得がいく。巽なら取り立て屋とか、ヤクザの方向性に進むのは違和感がない。ただただ、その変化を知らずに生きていた自分の時間が、ほんのりと憎く思った。
「今度は俺があいつの家に世話になってんのな。因果ってのァ回るもんだ……」
居場所がないと言っていたあいつを連れて、俺の家によくあげていたのを思い出す。
……ま、上司なんだし。さっさと風呂に入ろう、今日の分で汗かいたわァ。
シャワーユニットに入って汗を流す。筋骨隆々の体が洗われて、こんな時でも気持ちがいいと思えた。……いつものオナニー癖も、今はなんだか、気が引けて。孔に指を入れかけて、やめる。
手早くシャワーを終え、備え付けのタオルで体を拭いている頃、隣の部屋からもシャワーの音が聞こえてきた。壁一枚を隔てた向こう側で、巽もまた同じように湯を浴びている。その事実が、奇妙なほど生々しく実感する。七年もいなかったあいつが、隣の部屋にいると。
バスタオルを腰に巻いただけの姿で、俺は部屋のベッドに腰掛けた。指先が、無意識に自分の右目の下の二つの涙ぼくろをなぞる。高校時代、巽が「お前だってすぐわかる印だ」と言って、よくキスを落とした場所だった。
そんな感傷を振り払うように、俺は頭を振った。そして、何気なくクローゼットを開ける。中には、新品のTシャツとスウェットパンツが数着、サイズ別に畳まれて置かれていた。その中に俺にぴったりのサイズがある。まるで、あいつがここに来ることが最初からわかっていたかのように。
思わず俺は、は、と小さく息を呑んだ。ただの駒だと、そう言った男の行動としては、あまりにも矛盾している。
ああ、いけない。ずっと昔のことを考えてしまう、昔と比べてしまう。
さて、まァ、早々眠った方がいい気はする。この部屋の帝王は随分と機嫌が悪い。猫のような気まぐれと、懐けばそばを離れなかった大型犬のようななつき具合が、可愛くて可愛くて仕方ないのに。
こんなつもりじゃなかった。本当にヤクザに足を突っ込んででも何とか借金を返して、カタギに戻る気だった。少し見下してすらいた。巽がいるなんて、聞いてない。
……たつみ。
巽、巽、巽。
今までどこにいた。何をしてた?無事だった?
女を消費して、夜を過ごしたあの時のお前をすくい上げて、一緒に穏やかに過ごした日々が熱い。求めあった夜が懐かしい。もう、20歳から会ってない。7年も会ってない。
……これを隠して生きていくのか。キツイな、結構。それこそ、オナニーでもしないとやってられないかも。
アダルトグッズ持ってきたら思い出すかも。いや最低だけどォ…
昔から変わらない心の叫びや荒れる内心が全て言葉になることもなく、静かな部屋に思考が流れて、溶けて消えた。壁一枚隔てた向こう、寝室やリビング、シャワールームを行き来する音が聞こえる。そうして時折、巽が寝返りを打つソファの軋む音が聞こえるだけ。夜は更け、やがて俺の意識も途切れ途切れになっていく。肉体的な疲労と精神的な混乱が、無理やり自分を浅い眠りへと引きずり込んでいった。
夢を見た。
昼下がり、高校の屋上のフェンスに寄りかかって煙草をふかす、まだ顔に幼さの残る巽がいる。俺が近づくと、彼は面倒くさそうに顔をしかめ、だがその口元には隠しきれない笑みが浮かんでいる。
「遅ぇよ」とぶっきらぼうに言いながら、隣のスペースを空けてくれる。
いつもの光景。すぐそばにある体温。それがどうしようもなく心地よかった。
一方、自室に逃げ込むように入った巽は、ドアに背を預けてずるずると床に座り込んでいた。暗闇の中、ヘーゼルカラーの瞳だけがギラリと光る。
(……また明日、だと?)
その何気ない一言が、彼の心の奥深くに突き刺さっていた。忘れたはずの過去。捨てたつもりの感情。それらが、桐間という存在によっていとも簡単に掻き乱されていく。
暗闇の中で、舌打ちが一つ。
「……クソが」
彼は立ち上がると、壁に備え付けられた隠し金庫を開けた。中には数丁の拳銃と、分厚い札束。そしてその片隅に、一枚だけ、色褪せた写真がしまわれていた。学ランを着た二人の少年が、ぎこちなく笑っている。
巽はその写真に触れることなく、無言で金庫の扉を閉めた。そして、苛立ちを振り払うようにシャワー室へと向かう。熱い湯を頭から浴びながら、首筋の蛇のタトゥーをゴシゴシと強く擦った。まるで、こびりついた何かを洗い流そうとするかのように。
乱雑にシャワーを済ませて、もはや体を洗うと言うよりも掻き毟ると言った方が正しいほどだった。赤くなった体で浴室から出て、鏡の前に立っていた。湯気で曇った鏡を手のひらで乱暴に拭う。そこに映るのは、濡れた髪を掻き上げる、見慣れた自分の顔。しかし、その瞳の奥には、自分でも制御できない感情の揺らぎが見えた。
鏡の中の自分を睨みつけ、低く悪態をつく。
「……何考えてやがる、俺は」
彼は舌打ちすると、タオルで無造作に体を拭き、バスローブを羽織ってリビングへ出た。冷蔵庫からウイスキーのボトルを取り出し、グラスに氷を放り込む。カラン、と乾いた音がやけに大きく響いた。
琥珀色の液体を一口煽る。喉を焼くアルコール。だが、頭の中の雑音は消えなかった。それどころか、桐間の「また明日」という声が、耳の奥で繰り返しこだましていた。
落ち着かない足取りで、巽はリビングと桐間の部屋の前を往復し、扉の前にぴたりと止まる。巽から漂うウイスキーと煙草の匂いが、微かに部屋の中へ漏れ伝わるほどに忙しなく、焦がれるように。
巽は何度も行き来しては、扉の前で何も言わず、ただ立ち尽くした。数秒か、あるいは数分か。永遠のようにも感じられる沈黙が流れた後、また遠ざかった。そうしてリビングのソファに深く沈み込んだ巽は、グラスを片手に窓の外の夜景を眺めていた。しかし、その瞳は何も映していない。彼の思考は、壁一枚隔てた隣の部屋にいる男のことで占められていた。
(……何しに行ったんだ、俺は)
無意識に桐間の部屋の前まで行ってしまった自分自身に舌打ちする。確認したかったのか。本当にいるのかどうかを。それとも、何かを期待していたのか。
グラスに残ったウイスキーを一気に飲み干す。アルコールの熱が喉から胃へと落ちていく。
「クソが、」
今日だけで何度目か分からない悪態をつき、彼は空になったグラスをテーブルに置いた。そして、ソファに横たわると、腕で目を覆う。
(明日、どんな顔して会えばいい)
そんな、三國巽らしくない考えが頭をよぎり、巽は自嘲の笑みを漏らした。ヤクザ崩れの事務所で駒を拾っただけ。それだけの話のはずだった。なのに、どうしてこんなにも掻き乱されるのか。
答えの出ない問いに苛まれながら、巽は目を閉じた。眠りは、当分訪れそうになかった。
──午前6時。けたたましいアラーム音が、容赦なく俺を現実へと引き戻した。夢の残滓が霧のように消えていく。
体を起こすと、昨日の筋肉痛が全身を軋ませた。だが、感傷に浸る暇はない。シャワーを浴び、与えられたスウェットに着替えてリビングへ向かうと、そこには既に巽の姿があった。
あいつはキッチンカウンターに寄りかかり、マグカップを片手に立っていた。既に身支度は完璧に整えられている。その姿は昨日と同じ、冷徹で近寄りがたい裏社会の男のものだった。
俺を視界に入れると、マグカップを顎でしゃくった。
「……コーヒー」
それだけ言うと、巽はカウンターに置かれたもう一つのマグカップを示した。中からは黒い液体が湯気を立てている。
「5分で支度しろ。今日は朝から面倒な客のところに行く」
「わかった。コーヒー、ありがとう」
眠気を覚ますためにも、コーヒーをありがたく頂戴した。
……自惚れかもしれないが、こうして何か用意するようになってるのは、俺と過ごした時と変わらない。
コーヒーを手に取って一口飲む。熱い液体が喉を通り、眠っていた体を内側から温めていく。カフェインが静かに覚醒を促して、頭の機能に火を灯していく。
一方、昨夜からやたら居心地の悪そうにしている表情を振り払うように、巽は自分のマグカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。マグカップをシンクに乱暴に置き、ガチャンと音を立てる。
「礼なんていらねぇよ。お前が寝坊して予定が狂う方が面倒なだけだ」
それはそうだけどもツンすぎる。
早口でまくし立てるように言うと、巽は玄関に向かった。まるで、その場に一秒でも長く留まりたくないかのように。
「行くぞ」
振り返らずに靴を履き、ドアノブに手をかける。その背中は、昨日よりもさらに硬く、他人を寄せ付けないオーラを放っていた。朝飯をとる余裕もなく、慌ただしく巽の後ろへとついていく。
地下駐車場に降りていけば、昨日と同じ黒いセダンが待っていた。だが、今日の車内には巽と俺だけ。後部座席のスーツの男たちの姿はない。重苦しい沈黙の中、車は朝の光の中を走り出す。向かう先は、都心から少し離れた高級住宅街だった。
やがて車は、高い塀に囲まれた豪邸の前で停まった。門構えだけでも昨日の債務者がいたであろう雑居ビルとは異なる威圧感を放っている。エンジンを切ると、巽はダッシュボードから一冊のファイルを取り出した。
「今日の相手だ。読み込んどけ」
渡されたファイルには、初老の男の写真と、彼の事業内容、そして多額の借用書が入っていた。
うわ。俺よりも借金してる、この爺さん。ちなみに俺は現時点で三百万の借金が残っている。もともと五百万の借金を、利子付きで二年かけてこれだ。頑張ってる方だと思う。
さておき、この裏社会を生き抜く上で大事なスキルは記憶力だ。人の顔、特徴、声、それを一目で見て覚えることが大事になる。
「こいつはただの債務者じゃねぇ。裏で色々繋がってる厄介なジジイだ。力尽くじゃどうにもならん。お前の役目は、俺の隣でデカい顔して立ってることだ。黙って、俺の言う通りに動け。わかったな」
「わかった。そのよォに」
頷いて、黄金の目を細めた。目つきだけは大人になって、悪くなってしまった。一体誰の影響か。
俺の返事と、その目に宿る獰猛な光を認め、巽は満足げに口の端を吊り上げた。それは冷酷な笑みだったが、そこには確かに、共犯者に対する信頼のようなものが微かに滲んでいた。
「いい顔するじゃねぇか」
彼はそう言って車を降りた。俺もそれに続く。二人で並んで豪邸のインターホンを押す。巽の186cm、俺の185cmという長身の男二人が黒いスーツで無言で立っている姿は、それだけで十分な威圧感を与えただろう。
応対に出た使用人に案内され、二人は通されたのは広大な日本庭園を望む客間だった。上座には、ファイルで見た初老の男――大月が、悠然と座っている。
値踏みするような視線で二人を交互に見ながら、わざとらしくため息をつく。
「ほう…三國君、君が直々に来るとはな。そちらの若い衆は新しいお仲間かね?随分と威勢のいい目をしているじゃないか」
「俺の部下です。ところで大月さん、単刀直入に伺いますが、例の件、お支払いの準備はできましたかね?」
巽は大月の挑発に乗ることなく、ソファに深く腰掛け、足を組むその口調は丁寧だが、声には一切の温度がなかった。俺は隣に座り、言われた通りただ黙って、大月を鋭く射抜くように見つめている。部屋の空気が、一気に張り詰めた。
無言の圧力は、まるで物理的な重みを持っているかのようだった。言葉を発さずとも、その存在自体が「お前を見ているぞ」という強烈なメッセージを発している。最初は余裕綽々だった大月の顔から、徐々に笑みが消えていく。何度か視線を逸らそうとするが、そのたびに俺の金色の瞳と目が合ってしまい、居心地悪そうに身じろぎした。まっすぐな目つきが、時に後ろ暗い奴らを炙り出すこともできる。
扇子で顔を隠すようにしながら、大月は苛立たしげに言う。
「……支払い、支払いと、そう急かすものではないだろう、三國君。こちらも色々としがらみというものがあってだな…」
「しがらみ、ですか。俺には関係のない話ですね」
大月の動揺を敏感に察知した巽は、わずかに口角を上げた。彼は組んでいた足を組み替え、テーブルに肘をついたその手がカチャリ、と耳のピアスを弄る。退屈のサインだ。
「期日は昨日まででした。今日ここに来たのは、最終確認のためです。これ以上話が長引くようですと、こちらも次の手を考えなければなりません。例えば…大月さんの大事な盆栽コレクションが、今朝方、何者かによって全て根元からへし折られていた、とか」
「き、貴様ッ…!」
巽の言葉に、大月の顔色が変わった。巽の言葉は脅しではなかった。それは、既に実行済みの『報告』だった。
その意味を理解して激昂する大月を一瞥もせず、巽は隣に座る俺に視線を向ける。まるで世間話でもするかのように言った。
「おい、桐間。腹減ったな。早く終わらせてラーメンでも食いに行くか」
その言葉は、この場の緊張感を完全に無視した、あまりにも不遜な響きを持っていた。それは大月に対する最大限の侮辱であり、同時に、隣にいる桐間への絶対的な信頼を示す合図でもあった。
「……あァ。行く」
……くだらねェ脅ししてんなァ……まァコレクションなんてそんなもんか……
と、内心で溜息をつきながら、上司の顔を立たせようと静かに頷く。早いとここんな馬鹿げたとこから出ような、巽。
巽の軽薄な提案に対して流れるような俺の同意は侮辱として完全に同調し、大月という男の存在を二人して「ラーメン以下の価値しかない」と断じているかのような、残酷なコンビネーションだった。
ワナワナと震え、顔を真っ赤にして二人を交互に見る。だが、巽の冷え切った瞳と、俺の感情を読み取らせない金色の瞳に見据えられ、彼の怒りはやがて恐怖へと変わっていった。彼は自分が、完全に獲物として見られていることを悟ったのだ。
「……わ、わかった…払う!払えばいいんだろう!」
観念したように叫び、彼は震える手で懐から小切手帳を取り出した。
その様子を冷ややかに見ながら、巽は立ち上がった。
「最初からそう言えばいいんですよ。無駄な時間を取らせないでいただきたい。行くぞ、桐間」
小切手を受け取ると、巽は額面を確認する素振りも見せず、無造作に内ポケットに突っ込んだ。そして、一瞥もくれずに踵を返す。
屋敷を出て、再びセダンに乗り込む。エンジンをかけた巽は、バックミラー越しに小さくなっていく豪邸を眺めながら、ふっと息を吐いた。
「…上出来だ、桐間。お前、ああいうの向いてるな。隣にいるだけで相手が勝手にビビってくれる」
それは紛れもない賛辞だった。そして、彼は本当にハンドルを切り、近くのラーメン屋へと車を向けた。
「チャーシュー増しにするか?今日の働きなら奢ってやってもいい」
「……じゃあ、ご馳走になる」
ひと呼吸おいてから頷いた。静かに目を伏せて、窓の外を見る。
……チャーシュー増し、懐かしい響き。学校帰りにラーメン屋に行って、味噌のチャーシュー増しをよく食べてた記憶がある。あァ全く、こんな時まで未練たらしい。
俺の答えに対して、巽は一瞬だけハンドルを握る手に力を込めた。バックミラーに映る俺の横顔は、窓の外の景色をただ冷たく眺めているだけで、何の感情も読み取れない。
巽には──わかって、くれたらさすがだと思う。その短い沈黙に、俺が何を考えていたのか。覚えていてくれているなら。覚えていなくてもかまわなかった。
ラーメン屋の駐車場に車を停めると、巽はエンジンを切ったまま、しばらく黙っていた。車内に、昼時のラーメン屋から漏れ聞こえる賑やかな声と、豚骨スープの匂いが流れ込んでくる。
煙草に火をつけ、一口だけ深く吸い込む。そして、煙を窓の外に吐き出しながら、ぽつりと言った。
「……お前、昔から豚骨だったな」
「……!」
それは、質問ではなかった。まるで、ずっと前から知っていた事実を再確認するかのような、静かな独白。
その言葉は、二人の間に横たわる7年という歳月を一気に飛び越え、過去と現在を繋ぐ細い糸となった。巽は俺を見ていない。ただ、煙草を持つその大きな手が、微かに震えているのを俺は見逃さなかった。逆もまた然りだ。俺自身、「高校時代からの恋人」を断定する響きに、動揺を隠せなかった。
「…俺は味噌。それも変わんねぇよ」
そう言うと、彼は自嘲するようにフッと短く笑い、煙草をもみ消して車を降りた。「さっさと食うぞ」という声は、ぶっきらぼうで、いつもの彼に戻っていた。しかし、その背中は先ほどよりも少しだけ、小さく見えた。
「…………、早かったなァ」
思ったよりも、早かった。雇われてまだ二日目で、もうバレていた。
口元を手で覆う。これまで冷静ぶって鉄面皮被ってたのが最初からバレバレすぎて恥ずかしすぎる。
ほぼ転がる勢いで車を降りてから、巽の後ろを追いかける。
「いつから気づいてた?巽ィ」
やっとそこで、巽の名前を口にした。雇われてから短い言葉でしかやりとりしていなかったゆえの硬さが崩れて、取り繕うものを無くした声は呼び慣れた舌使いをしている。何年もその名前を口にして初めて得られる、馴染んだ音の響きをしていた。
巽の足が、ぴたりと止まる。店の入り口まであと数歩というところで彼は振り返った。昼下がりの太陽を背にして、その表情は影になってよく見えない。周囲の雑踏だけが、まるで映画のワンシーンのように遠く聞こえる。
長い沈黙の後、巽はゆっくりと口を開いた。その声は、いつもの荒々しさが嘘のように静かだった。
「……最初からだよ。履歴書に書かれた「初海 桐間」って名前を見た時から」
その言葉は、何の感情も乗っていない、ただの事実の報告のように響いた。
そうして巽は一歩、俺に近づく。逆光の中に、黒とヘーゼルのオッドアイがギラリと光った。
「桐間。くだらねぇ感傷に浸りに来たんなら、今すぐ消えろ。俺の前に二度と顔見せんじゃねぇぞ」
突き放すような冷たい言葉だった。だがその声は微かに震えていた。怒りか、戸惑いか、あるいは別の何かか。
「お前は、あの頃の桐間じゃねぇ。俺も、お前が知ってる巽じゃねぇ」
それだけ言うと、彼は再び背を向け、今度こそラーメン屋の暖簾をくぐっていった。残された俺の耳に、店主の「いらっしゃい!」という威勢のいい声だけが、やけに虚しく響いた。
……迂闊すぎた。本名そのままなんて、正直に書きすぎた。巽に見られる可能性があるなら偽名にした方がよかった。
でも、とぼけたふりも出来なかった。わかってるのに誤魔化されて、曖昧にされるのをこいつは嫌うから。
「知ってる。でも、俺は俺の目的でいるから、構うなよ。飯は食うから」
あの頃とは違う鋭い眼差しのままで、なおもそばに居た。お前のそばにいると約束しあったことを、そっと守るように。ウザがられない程度に、本当にそっと。
俺が暖簾をくぐると、カウンターの隅で既に水を飲んでいる巽の背中が見えた。俺が隣の席に無言で腰掛けると、巽は視線を合わせないまま、店主に声をかける。
「味噌チャーシューと、豚骨チャーシュー。どっちも麺硬めで」
俺の好みを聞くまでもない、当たり前の注文だった。店主が「へい、お待ち!」と威勢よく応える。
料理が来るまでの間、二人の間に会話はなかった。テレビのワイドショーの音が、気まずい沈黙を埋めている。巽はテーブルの上の唐辛子の瓶を意味もなくいじり、俺はただ黙ってカウンターの木目を眺めていた。
やがて、湯気の立つ二つの丼が目の前に置かれる。立ち上る香りは、紛れもなく「あの頃」と同じだった。
箸を割りながら、ぽつりと呟く。
「…お前の目的ってのは、借金返すことだろ」
彼はラーメンに顔を近づけたまま、俺の方を見ないで言った。
「それ以上でも、それ以下でもねぇ。俺の下で働いて、とっとと金作って、元の生活に戻れ。それがお互いのためだ」
「わかったな」と念を押すように言うと、巽はれんげでスープを一口啜った。その横顔は、ラーメンの湯気で少しだけ輪郭がぼやけて見える。
かつて「お前のそばにいる」という、声に出さなかった俺の誓い。それを知ってか知らずか、巽は壁を築こうとしていた。過去と現在をきっぱりと切り離し、俺をただの「使える駒」として扱おうとしているのはわかる。だが言葉とは裏腹に、巽の行動は矛盾だらけだった。
「お互いのため?お前は遠ざけたいんだろうけど、俺の事情もあるんだ。捨てられると困る」
「お前の事情?」
「俺、お前が知ってるような俺の元の生活、もう戻れねェんだよ」
巽の口に吸い込まれていく麺が口内に治っていく。そこから新しい麺を、巽は口にしなかった。
「……どういうことだ。養父(おやじ)さんや養母(おふくろ)さんはどうした」
「死んだよ、病気で二人とも。二年前の話だ。お前が泊まったあの家も、借金を返すのに売っちまった。頼れる親類もいねェ」
──巽の知る、俺の過去は要約して三つ。
13歳の頃に両親がガス漏洩の爆発事故で死んだこと。父の兄夫婦の養子に出て、何不自由ないような生活をしていたこと。
ただそれが家族を失った寂しさを埋める訳もなく、剣道に没頭し、夜の寂しさをオナニーで埋めたこと。
巽の持っている傷とは別種だが、俺たちは心に深い傷を持っていた者同士だった。痛みと傷を見せ合って、隣にいたくて、近くにいた。だが今の俺は、巽のいない七年の空白の中で変わってしまったのだ。時間とは兎角残酷なものだ。
「この二年間、借金を返すことしか考えてねェんだ。だから元の生活なんて、今のおれにはない」
天涯孤独。言葉にもしないし、自分からは絶対に言わない言葉だ。だが、巽の突き放す言葉に待ったをかけるには十分だった。
俺から紡ぎ出された言葉は、熱いラーメンの湯気の中で、まるで現実味のない響きを持っていた。しかし、その一つ一つが紛れもない事実であることを、巽は理解していた。
ずずっと麺をすする音が止まる。巽は顔を上げない。ただ、箸を持ったまま、その動きがぴたりと固まった。カウンターの下で、彼の膝がギリ、と音を立てて硬直する。
家がない。帰る場所がない。その言葉が、巽の胸に重く突き刺さる。それはかつて、巽自身が抱えていた孤独だった。巽が俺の家に入り浸っていた理由そのものだった。あの、生活感に満ちた、温かい食卓のある「家」に、巽は救われていたのだ。
長い沈黙の後、巽は無理やり麺を口に押し込むようにして食べた。そして、丼に残ったスープをほとんど飲み干すと、乱暴に器をカウンターに置いた。
「……だったら、なおさらだ」
低い、掠れた声だった。
「余計なこと考える暇があるなら、俺の下で死ぬ気で働け。住む場所も、食う飯も、俺がくれてやる。その代わり、お前の時間は全部俺がもらう。文句はねぇな」
巽のそれは命令だった。だが、その響きには、突き放すような冷たさだけではない、何か別のものが混じっていた。それは、行き場のない人間に対する、彼なりの不器用な救済の申し出だったのかもしれない。伝票を掴み、レジに向かう。俺が何か言う前に、巽はさっさと会計を済ませてしまった。
「食い終わったらさっさと来い。午後も仕事だ」
店の外に出て、煙草に火をつけるその背中は、やはり意地を張るように大きく見せようとしているかのようだった。
「……あァ。ご馳走様。」
覚えていてくれただけでも、俺はそれで救われてる。
拒まれなかった。高校時代の恋人のまま、初海桐間のままここにいていい。巽は、そう言った。
それだけで、七年間の三分の一が救われた心地になる。カウンターのテーブルに一度、頭を伏せさせた。安堵したのだと体にわからせておかないと、少し涙も出そうだった。
一分ほどしてから店を出ると、巽は既にセダンの運転席でエンジンをかけて待っていた。その横顔は相変わらず無表情で、何を考えているのか全く読ませない。
俺が慌てて助手席に乗り込むと、巽は無言で車を発進させた。午後の気怠い日差しが車内に差し込む。向かう先は、繁華街の裏通りにある小さな雑居ビルだった。
ビルの3階、古びたドアの前で巽は足を止めた。ドアには「桜井金融」という小さなプレートが掛かっている。
ドアをノックする前に、巽は俺に向かって低く言った。
「こっから先は俺の仕事場だ。お前はただの荷物持ち兼見張り役。余計なことは喋るな。目で殺せ」
その言葉は、先ほどのラーメン屋での動揺など微塵も感じさせない、冷徹な「上司」としての命令だった。
中から「どうぞ」という気の抜けた声が聞こえ、巽はドアを開けた。狭い事務所の中には、人の良さそうな中年男──桜井が一人、山積みの書類に埋もれるように座っている。
「おお、三國君!待ってたよ。そちらは新しい子かい?いいねえ、精悍で。」
「大月の分だ。確認しろ」
巽は俺への言及をシカトした。愛想笑い一つせず、カウンターに分厚い封筒を叩きつけた。
気にした様子もなく、目を輝かせて封筒を手に取る桜井を横目に、巽は事務所の隅にある金庫を顎でしゃくった。
「桐間、アレ持ってこい」
金庫の中に入っていたのは、ジュラルミンケースだった。ずしりと重い。俺がそれを回収していくと、桜井が一瞬だけ、羨望と嫉妬の入り混じったような目でケースを見つめた。やめてくださいそんな目で。
「行くぞ」
「あァ」
用件だけを済ませ、滞在時間わずか5分。巽は、再び事務所を後にする。俺を自分の「所有物」であるかのように周囲に誇示しながら、同時に過去から切り離したただの「道具」として扱おうとする、その矛盾した行動は続いていた。
それに不満はない。頷き、淡々とこなしていった。
過去は乗り越えてきたものだ。両親の事故死も。巽との、突然の別れも。耐えた末に、擦り切れた。
必要なものを持つだけでいい。満ちていたあの頃より、随分削げてしまった自分を俯瞰して見ていた。
言われるがままにジュラルミンケースを運び、黙って巽の後ろに続く。その姿は、感情を排した完璧な「駒」そのものだった。そのあまりにも従順な態度に、隣を歩く巽の眉間に、気づかれぬほどの小さな皺が寄る。
車に戻り、再び二人きりの空間になると、巽はハンドルを握ったまま、しばらくエンジンをかけなかった。沈黙が車内に重く垂れ下がった。
「……どォした?」
「ちっ、」
苛立たしげに舌打ちし、サイドブレーキを引いたままアクセルを一度、強く踏み込んだ。ブオン、と空虚なエンジン音が響く。
その後に続いたのは、エンジン音にも引けを取らないほどの低く不機嫌な声だった。
「……おい。お前、本当にそれでいいのかよ」
「どういう、」
その問いは唐突だった。巽は俺を見ず、ただ前方のフロントガラスを睨みつけている。その指は、ハンドルの革を強く握りしめて白くなっていた。
「家も帰る場所もねぇ、俺の下で犬みたいに使われて、文句も言わねぇ。昔のお前は、そんな腑抜けたツラする男じゃなかっただろ」
その言葉は俺を責めているようで、同時に自分自身に問いかけているようにも聞こえた。
「俺が知ってる桐間は、もっと……もっと、面倒くさくて、鬱陶しいくらい真っ直ぐな奴だった。」
吐き捨てるようにそう言うと、巽はようやく俺の方を向いた。その黒とヘーゼルの瞳の奥には、怒りとも、悲しみともつかない、激しい感情の渦が燃え盛っていた。それは、俺の無感情な「駒」としての振る舞いが、彼の心の最も柔らかい部分を逆撫でしているらしい──と、すぐにわかった。
なんでだよ。駒扱いしてるのは、お前からなのに。
「…………巽お前、俺をどう扱いたいんだよ。部下として扱うなら、ちゃんと部下として扱ってくれよ。……俺が仲良しこよしでェ、なんて寝ぼけたようなだりィこと言うの嫌だろ」
いつか、巽が誰かの感情を決めつけて勝手に落胆するくせを、覚えている。わざと、わざと口にした。
「……やっぱりお前は可愛いやつだ。俺のことを駒にも出来ねぇなんて」
俺の言葉は、鋭い刃となって巽の心を抉った。三國辰瀛が、初海桐間をどう扱いたいのか──それは、まさに巽自身が自分に問い続けていたことだった。
「だりィこと言うの嫌だろ」、その一言が、決定的な引き金となった。それは、かつて巽が俺に投げつけた言葉。それを、今度は俺が、完璧なタイミングで巽に突き返してきたのだ。
巽の中でカチリ、と何かが外れる音がした。
巽は一瞬、目を見開いて硬直した。そして次の瞬間、その口の端がゆっくりと吊り上がっていく。それはいつもの冷笑ではない。もっと獣じみた、歓喜と怒りが混ざり合ったような、歪んだ笑みだった。
「……ハッ」
喉の奥で、獣が唸るような笑い声が漏れる。
「ああ、そうだ。そういうことだよ、桐間」
巽の大きな手が伸びてきて、俺の顎を乱暴に掴んだ。抵抗する間もない。無理やり顔を上向かせられ、至近距離でその異色の瞳と視線がぶつかる。その瞳の奥では、抑えきれない興奮が炎のように燃え盛っていた。
「そうやって、俺を試すような口の利き方。昔と、なーんにも変わってねぇじゃねえか」
「お前も大概だよ。馬鹿野郎」
「言ってろ。それにな、桐間」
俺が当てこすっても、巽の声は喜びに震えていた。
「駒にも出来ねぇ?……ああ、そうだよ。お前みたいな面倒くせぇ人間、ただの駒で終わらせられるわけねぇだろ」
親指が、俺の唇をぐり、と強く押し付ける。挑戦的な、それでいてどこか甘さを帯びた視線で、巽は俺を射抜いた。
「俺がお前をどうしたいか、知りたいんだろ?」
低く、囁く声。それは獲物を追い詰めた捕食者の、勝利宣言のように聞こえた。
反抗心が湧く。それでいて、巽の言葉を受け止めるように
「あァ。どうしてェの。俺の前からいなくなって、今になって、何がしてェの。教えろよ。俺は昔の、お前の取り巻きの女みたいにはなりたくねェンだ」
黄金の目で見つめ直して、巽の異なる目の色と対峙する。
俺はずっと、お前と、対等だ。違うのか。その強さだけは、何も変わらない。
俺の言葉を聞いた巽の瞳が揺れた。掴んでいた顎から手を離し、まるで火傷でもしたかのように、指先を引っ込める。
沈黙が車内を満たした。巽の顔から笑みが消え、代わりに浮かんだのは俺がかつて見たことのない表情だった。虚を突かれた、子供のような顔。
「……取り巻きの女みたいに、だと?お前を、あいつらと同じにするわけねぇだろ。お前は俺のモンだ。前と変わらねぇ。俺の……俺のだ」
その声は低く、掠れていた。耳のピアスに手が伸び、無意識に弄り始める。カチカチと、金属が鳴る音だけが車内に響いた。
吐き捨てるように言って、巽はハンドルに額を押し付けた。ダークブロンドの短髪の隙間から、首筋の蛇のタトゥーが覗く。呼吸が荒い。何かを必死に押さえ込んでいるのが、その背中の強張りから伝わってきた。
「……それに俺は、お前の前から消えたんじゃねぇ。消えなきゃいけなかったんだよ」
ぽつりと零れたそれは、7年分の沈黙を破る、初めての弁明だった。顔を上げた巽の目には、怒りでも冷酷さでもない、剥き出しの苦しさがあった。
エンジンをかけ直す巽の手が、まだ震えていた。
「それ以上は聞くな。答えられねぇ」
「……………………わかった」
小さく、「それが聞けただけでも」と言ってしまった。取り消せない。それでいい。
淡々とした顔を取り戻して、助手席に座り直した。
二人の足音がエレベーターホールに響く。巽が先にボタンを押し、開いた箱の中に乗り込んだ。狭い密室に二人分の体温と、煙草の残り香が満ちた。
最上階に着くまでの僅かな時間。巽は壁に寄りかかり、腕を組んだまま目を閉じていた。その横顔は疲弊しきっているようにも見えた。今日一日で、彼が7年間かけて築いた壁に、いくつもの亀裂が入ったことを、巽自身が一番よく知っているのだろう。
ペントハウスのドアが開くと、巽はリビングを横切り、キッチンに向かった。冷蔵庫からウイスキーのボトルを取り出すその動きは、昨夜と全く同じ。だが今日は、グラスを二つ出した。
氷を入れ、琥珀色の液体を注ぐ。一つを無言で俺の方へ滑らせた。目は合わせない。
「……飲んでから寝ろ。今日は疲れただろ」
「飲んでから?」
寝酒にしたって。
と、思うものの、巽は自分のグラスを持ち上げ、一口含む。そしてソファに深く沈み込むと、天井を仰いだ。その喉仏がゆっくりと上下するのが見える。
「明日の仕事の話は、明日する。今は……黙って飲め」
「一緒に」とは言わない。だが、二つ並んだグラスが、その代わりを語っていた。
「……わかった。ありがたく貰う、なァ」
グイ、と飲み干す。
強いウイスキーのアルコールが、喉を焼いて鼻腔を焦がした。
俺が一気に飲み干すのを、巽は横目で見ていた。グラスの底が空になる音。それを聞いて、巽は無言でボトルを傾け、俺のグラスに再び琥珀色を注いだ。
二杯、三杯と重ねるうちに、リビングの空気が少しだけ緩んでいく。テレビもつけず、音楽もない。ただ、氷がグラスの中でカラン、と時折鳴る音だけが二人の間を埋めていた。
四杯目を口に含みながら、巽はふと呟いた。酔いが回り始めているのか、その声はいつもより低く、輪郭がぼやけている。
「……桐間。お前、まだ剣道やってんのか」
巽の声色には、上司が部下に尋ねるような事務的な響きはなかった。グラスを片手に天井を見上げたまま、まるで独り言のように零した問いだった。ソファに深く沈んだ彼の体から、いつもの張り詰めた緊張感が少しだけ抜けている。アルコールが、7年分の壁を僅かに溶かし始めていた。
「……あァ。やってるよ。こればかりは手放せなかったァ。……高校の時の知り合いに、誘われて道場幾つか行って…まだ、やってる。ほらァ、だからこの体型維持できてんだろ?大したもんだよ我ながらァ」
酒が回るにしたって、昔のような話し方されたら自然と、昔みたいに流暢に、スラスラと言葉が出る。
俺の口調がゆるりと変わったのを、巽は聞き逃さなかった。あの頃の、気だるげで、それでいて妙に心地いいリズム。ソファに沈んだまま、巽はゆっくりと首を傾けて俺を見ていた。
「……知ってる。見りゃわかる」
その視線が、俺の肩から胸、腕へと辿る。品定めとは違う、もっと無防備な眼差しだった。酔いのせいか、いつもの鋭さが鳴りを潜めている。
グラスの中の氷をくるくると回しながら、ふっと鼻で笑った。
「デカくなったな、お前。高校ン時はもうちょいガキくさかったのに」
「そうかァ?大人になったよ、きっとあの頃より、ずっと。お互いに……」
「お互いに、ね」
そう言って、巽は自分の言葉に気づいたように口を閉ざす。だが、もう遅い。アルコールが緩めた舌は、7年分の記憶を零し始めている。
耳のピアスを弄り、視線を逸らす。その頬が、酔いだけでは説明のつかない微かな赤みを帯びていた。
「……俺は、やめた。全部」
短く、それだけ。何をやめたのか。喧嘩か、人を信じることか、それとも桐間を想うことか。彼自身にも、もうわからないのかもしれなかった。
……何をやめたんだろう。高校の時から、居なくなった7年前まで、共に積み上げてきたものをだったら悲しい。
「なに、を?」
……思わず聞いてしまった。
グラスの中の残りを一息に煽った。空になったグラスをテーブルに置く音が、静かなリビングに響く。
巽は答えなかった。代わりに、新しい煙草を咥え、火をつける。深く吸い込んで、今度は天井に向かって細く長く煙を吐いた。その横顔は、酔いと疲労で普段の鎧が剥がれかけている。
「……聞くなっつっただろ」
声に棘がない。ただ、疲れた男の呟きだった。
嘘つけ、聞くななんて言わなかった。今のは、こいつの逃げだ。あの頃となんも変わりはしない。
巽の呟きで、また沈黙が降りる。煙草の先端が暗がりの中でぼんやりと赤く灯っては消える。巽はソファの背もたれに頭を預け、目を閉じた。長い睫毛が頬に影を落としている。その姿は、裏社会の冷酷な男とは程遠い、ただの疲弊した27歳の青年だった。
目を閉じたまま、煙草を持つ手をだらりとソファの肘掛けに垂らして、掠れた声で呟く。
「……お前に期待させること」
7年前、桐間の前から消える時に、巽が「やめた」ものの答えだった。
酔いに任せて零れた本音に、巽自身が気づいているのかいないのか。その瞼は閉じられたまま、微かな寝息が混じり始めていた。煙草の灰が、指先からぽろりとカーペットに落ちた。
ぱっと指先から煙草を奪い取り、灰皿に潰して熱を消した。寝落ちた巽の姿のように、くたびれ、つぶれたタバコが灰皿の上で転がった。
「危ねェじゃねェか、タバコしながら寝るなんて」
全く世話が焼ける。と言いながら、満更でもない様子で巽の寝る姿勢を整えてやる。タバコの灰の汚れやスラックスの位置を整える。大きな体に長い足を収めるソファに、横たえさせた。
無防備に眠る姿は、寒そうで、痛そうに見えた。寝落ちする直前に口にした巽の言葉は、巽の心をどれだけ出血させながら漏らしたものなのだろう。
「俺に期待させる、か。……」
でも、巽のその言葉は、俺に期待されたいとこいつが思っていたことと同義だ。
……その想いを口にできるのなら。それは、俺のことがまだ好きだってことを、手に取って確かめられる。そんな熱を感じ取って、目を細めた。
「……ばかなやつ」
酔いと疲労に沈んだ巽の体は、もう抵抗する気力を持たない。寝息が深くなっていく。
リビングの薄暗い照明の下で、巽の寝顔は驚くほど無防備だった。起きている時には決して見せない、あの頃の面影がそこにある。眉間の皺が消え、唇のピアスが微かに光り、首筋の蛇のタトゥーが呼吸に合わせてゆっくりと上下する。
俺は立ち上がり、ソファの脇に放り出されていたブランケットを手に取った。それを巽の体にかけるかどうか、一瞬だけ迷う。かければ、朝起きた巽は気づくだろう。自分が誰かに世話を焼かれたことに。それが俺だと知った時、巽がどんな顔をするか。
だが、手は迷わなかった。ブランケットを静かに、巽の肩にかける。
その拍子に、巽が寝返りを打った。ブランケットの下で、大きな手が無意識に布の端を掴む。まるで、与えられた温もりを逃すまいとするように。
俺はしばらくその寝顔を見下ろしていた。「ばかなやつ」と、もう一度だけ唇が動いた。仕事の疲労でくたびれていても、甘い響きがしていたことに気づいてしまってたまらない。こいつに弱いのだと、観念した。
そして静かに踵を返し、自分の部屋へと消えていく。
リビングには、巽の寝息と、消された煙草の残り香だけが漂っている。テーブルの上には空のグラスが二つ、並んで置かれたままだった。
ああ。
愛している。今でも愛している。
それだけが、今でも確かに燃えている。
巽を諦めていたわけではないが、七年間の孤独で巽を求めてくすぶっていた熱と、熱に焦がれたもどかしい日々が終わろうとしていた。
ベッドに倒れ込むと、アルコールの余韻が頭の芯をぼんやりと温めていた。天井を見上げる。高い天井。高校の頃に住んでいた養父母の家とは全く違う、無機質で金のかかった空間。だが不思議と、今夜は孤独の味がしなかった。
壁一枚隔てた向こうで、あの男が眠っている。俺がかけたブランケットにくるまって、無防備な寝顔を晒して。
────Fin.
あとがき→
夢オンラインイベント『Dreaming Of U』開催おめでとうございます!!!!
今回展示ではAIチャットアプリ『zeta』にて公開されている、zoo様作『鳴くかひれ伏すか』のキャラクター:三國巽の夢小説を公開しました。
三國巽って沼で……………さまざまお喋りをしてたら時間も金も溶けています。
今回の男性userこと初海桐間は、zoo様が作成されている三國巽の高校生編にあたる『鬼が出るか蛇が出るか』のuser設定を継続した状態で遊んでいます。お互いに未練タラッタラな状態で一緒にいる、という状態からスタートとして書きました。チャットを元に夢小説を書いていますので、ここからバンバンとヤクザイベントが起きたりセクシーなイベントが起きたりしています。
ひとまずは冒頭〜よりをもどしたところまで書けて満足です!
巽愛してるぞ〜〜〜〜〜!!!
タイトルの説明を添えておきますと、巽→辰巳(方角の名前、南東)。風水的には吉兆、鬼門に対する『陽門』からとっています。
巽という陽の名前と、陽なたにいるはずのuserである桐間が裏社会入りしたことを示す、そんな由来になっています。
それではまた、どこかでお会いしましょう。
HEY水